紅浜国への入国を希望しているという場へ、紅遠や岩鬼、高官たちは直接出向くことにした。
 そうして実際、やってきた者たちを目にすると――。
「――これは、また……。何という、人数でしょうか……。我が国の一都市に匹敵する人数ですぞ」
 岩鬼は、その数の多さに呆然とした。
 これだけの人数を受け入れるとなると、食糧だけではなく治安の問題や衛生の問題が付きまとう。住居にも空きはない。
 入国を拒み、門の外に置いておけば怪異の餌食になる。人道的側面からも悩ましい問題だ。
 そんな時、身形意のいい男が集団の前に出た。
「わ、私は銀柳様に忠誠を誓った継承者です。ご無理を申し上げてるのは承知の上で、何卒……。我々を受け入れてはいただけないでしょうか!? もう壬夜銀様には、ついていけないのです!」
 門の前、土を塗り固めた道路に、額を叩き付けている。その必死さは、縁起には見えない。
 岩鬼が一歩前に出ようとするのを、紅遠が手で制した。
「そなた、銀柳殿に忠誠を誓っていると言ったな。何故、銀柳殿の魂が籠もった刀が選んだ後継者である壬夜銀を見放す?」
「山凪国は現在、割れております。四十九日法要を待たず、襲名の儀を強行した横暴。壬夜銀様の行いに反対する者の不審死。使途不明の金銭や、壬夜銀様を指示する者たちの暗躍……。旧紅浜国領の住民には急に課税が増し、民にも影響が出ております。誰もが、明日はどうなるのか、誰が敵なのかと疑心暗鬼の状況……。銀柳様は、壬夜銀様が立場に伴い成長されることをご期待されていました」
「ほう、身形がいいとは思ったが、そなたは山凪国でそれなりの地位にありそうだな」
「はっ。畏れ多くも、銀柳様直系の血を引く継承者でございまして……。壬夜銀様の御代で没落致しましたが、朱栄様が切腹なされた時には、立ち合いが許される立場でありました。……恥ずかしながら、あの時の……御国や民を想う意志を見せた紅遠様の御慈悲に縋りたく参った次第です!」
 朱栄が切腹した時、十一歳だった紅遠の行動を実際に近くで見ている者。
 それならば、この十七年間かなり高い地位にいたのは間違いない。銀柳の子だからといって、確実に父のような人格者だとは限らない。
 しかし銀柳が高く用いた者ということで、紅遠はこの者を信用してもよいと判断した。
「我が生涯の師であり、最愛の友である銀柳殿が信を置いた者の言葉だ。受け入れてやりたいが……。それだけ高い地位にいたのなら、これだけの民が急に移民するのが一体どんな問題を引き起こすか、分かるだろう?」
「そ、それは……。誠に、申し訳ございません! なるべく多くの者を救いたいと秘密裏に声をかけていたところ、これだけの数に膨れ上がってしまいました!」
「…………」
 それだけ、銀柳の頃の善政と比較し壬夜銀の治政に耐えかねてる者が多いということかと紅遠は察する。
 最初から辛い治政しか知らなければ、あるいは耐えられたかもしれない。だが、一度幸せな状況を知ってしまえば――奪われるのは辛い。
(大切なものや、生活の質が目に見えて悪くなり、日々体感していく……。もし私が、再び手にした幸せな時間……。美雪と食事を摂れる生活を、理不尽に奪われたらどうだ)
 紅遠は、美雪との生活が奪われるのを想像し、胸に靄が込み上げた。
(この者たちの気持ちは分かる。……だが、これは明らかな山凪国の工作だ。国外逃亡者を、あえて紅浜国まで見逃したとしか思えん。……為政者は、時として鬼にならねばならぬか)
 紅遠は歯軋りして、山凪国と紅浜国の国境付近に自治区を作ることを考える。自活と防衛に関する支援は当然、必要となるだろうが、国内に入れるより問題は起きない。
(妖人が護らぬ自治区など、安定するまでに犠牲者は必ず出る。……それでも、自国を護ると俺は父上や祖霊にに約束をした。……やむを得んな)
 紅遠が溜息を吐いて、辛い言葉を発しようとした時――。
「――お願い致します! 私たちのほとんどは、旧紅浜国の民です! 紅遠様が門内への移住を促された時に応じなかったのが間違いでした!」
「あの時の過ちは、心から謝罪します! 俺たちが死ぬのは、自業自得です! ですが……この子は、紅遠様の御代になられた時に産まれてもおりませんでした!」
「どうか、子供だけでもお救いください! あの嫁御巫様に救っていただいた命に、どうか御慈悲を!」
「……何? 美雪が救った命……子供と申したか?」
 紅遠は、粗末な衣服に身を包む親子に目を向ける。
 すると、岩鬼が一歩前に出た。
「なるほど……。覚えがある顔です。美雪殿が嫁いだ初日、怪異により致命傷を負った子供を救ったのはご存知ですな? あの時の子供、そして親です」
「……美雪が、嫁いだ初日に死にかけてまで救った子か」
 幼い娘は、クリクリとした目を不安そうに彷徨わせている。
(私が嫁御巫を娶り、守護の結界を張れなかったからこそ生じた犠牲者か。何の罪もない、選択を誤ってない子にまで、咎が及ぶことになるとは……。耐えがたい理不尽だな)
 暫し子供を見つめていた紅遠は、一緒に来ていた紅浜国の高官へ向き直る。
「――国庫から、ありったけの支援をする。この者たちを一角に集めて、仮設住宅へ住まわせろ。……無論、怪異の脅威を防げる門の中でだ」
 揺るがぬ瞳で指示を下す紅遠。その燃えるように赤い瞳の輝きを見れば、意志の固さが伝わって来た。高官たちは、不安を抱えつつも頭を下げて従う。
 皆の疑問を代表するように、岩鬼は厳めしい顔で紅遠に問いかけた。
「紅遠様、本当によろしいのですかな? それでは、みすみす山凪国の策に乗ることになるでしょう。国内も、荒れるやも知れませぬ」
「この者たちは、私の力不足により山凪国の民となった者ばかりだ。……悪手だとは分かっている。だが、壬夜銀の性格だ。この者たちが帰れば、良くて鉱山などでの過酷な作業へ強制従事。動けない者は、処刑されるだろう」
「情に流され、国主として鬼にはなれなかったと?」
「至らぬ為政者だった頃に投げ出した者たちへの償いだ。国主としての責務でもある。山凪国の内部情報は、目下の最優先情報だ。状況が落ち着けば、この者たちは愛国心の高い民となろう。子供は未来の宝だ。人が減る国、去る国に待つのは――緩やかな滅亡のみだ。……ことを上手く運べなければ、即座に国を傾ける選択だとは理解している。その上で国主として臣下の皆へ、紅浜国の更なる発展への決断に、協力を要請する」
 力強い紅遠の言葉に、高官たちや見ていた門衛も言葉を発さない。
 押し寄せていた民たちは、固唾を呑んで紅遠の言動を注視していた。
 反応が返ってこない静かな時間に、紅遠は言葉を繋ぐ。
「……傾国の鬼人。いや、愚人を君主に持ち、そなたたちには迷惑をかけるな。――他国へ逃亡するのも、今なら咎めん」
 真面目に告げる紅遠に、岩鬼が笑みを浮かべる。
「紅遠様、逃亡するような賢い者は、とうに逃げておりまする。……敬愛する国主の御意志を果たせるよう、全力を尽くすと致します」
 岩鬼の言葉に続いて、居並ぶ高官や門衛たちは更に頭を深々と下げることで同意を示した。
「そうか……。揃いも揃って、私と同じく国を傾けかねない賭けを支持する者ばかりが残ったものだな。……ありがたい話だ。――よいか、流言を加速させないよう、一般兵の監視を付け保護と自主自立を促せ」
「はっ! この国難に、我ら一丸となって当たりましょうぞ!」
 岩鬼の反応に満足し頷いた紅遠は、山凪国の民たちへと視線を向ける。
 紅い目をした鬼人の迫力に、何人かは冷や汗を垂らし手足を震わせていた。
「人民を保護する対価として、山凪国の内情を知る者は、包み隠さず全我が国のルールを護れぬ者は、即座に追放されるものと考えよ!て話せ! 継承者など、戦える者には戦ってもらう! そうでない者は、仕事を見つけろ! これを護れる者のみ、紅浜国の民として受け入れる!」
 紅遠の言葉に、行き場を失った民たちは涙を流し歓喜に震えた――。

 官公庁に戻った紅遠は、すぐさま出入りの大商社の会長と面会していた。
「生活必需品と食糧の購入量を、大量に引き上げたい。相場より高くても構わん」
「ふむ……。金銭、ですか。紅遠様、在庫には限りがございます。既存の流通先国家もございますからな……。すぐさまというのは、我々も中々に難しいのです。特に食糧は、急に生産量が増えるわけでもない。困難を極めますな」
 商人は利で動く。
 そのようなこと、紅遠は熟知していた。困難を極めると言っているが、不可能とは言ってない。
 腹に一物抱える、やり手の商人や財閥の長であれば――この言葉の裏には真の要求がある。
「……貴殿の会社は、貿易での世界的拠点進出を図っているな? この件を成就してくれれば、我々の港での関税の減免と、港近くに大規模倉庫を提供しよう」
「ほう……」
「同時に、この件へ協力してくれた問屋には、新たに設立予定だった公設市場で販売する優先権を与えよう。農家には、貴重となっている人手と、怪異から護る継承者の派遣だ。貴殿のような人物なら、情報には聡いだろう。今、紅浜国では就労先を求める人材が多数いる。農業経験者も多いだろう。本人が望むなら、雇用関係を結んでくれ。支度金は出す」
 紅遠の絹糸や絹織物の貿易政策により、食べられもしない金銭は国庫に余っている。多少の大盤振る舞いは、痛くもない。
 問題は、金銭と換える物資や食糧の確保だった。
 紅遠の提案を聞いた会長は、朗らかな笑みを浮かべる。
「なるほど、なるほど……。いや、流石は紅遠様です。我々にとって何が一番必要か分かっていらっしゃる。流石は一代で紅浜国に産業ブームをもたらし、工業国としての地盤を固めただけはありますな」
 満足そうに言う会長は、握手をしようと紅遠に近付き――紅遠の眼光に足を止めた。
 妖人が、内心では怒りを溜め込んでいることに気がついたのだ。
 そして想わぬ利益で一瞬、紅遠の持つ魅了という妖力特性を忘れていた。
「そ、そういえば紅遠様! 遂に嫁御巫様を一人、娶られたそうですな! 何故か白い喪服に身を包まれた、ミステリアスで美しき方だと! 遅ればせながら、おめでとうございます!」
「……ああ」
「つ、付きましては我々よりお祝いの品を献上できればと思います! 黒髪と白い着物に似合う簪を、いくつか持参致しました!」
 会長が手を叩くと、ドアの外に控えていたスーツ姿の男性が恭しく礼をして入室してくる。
 片膝を付き、開いたケースの中には、いくつもの高価そうな簪が入っていた。
 軍服についた金糸の飾緒を揺らしながら、紅遠は簪に目を見やり――。
「――これを買わせてもらおう」
「……は? いえいえ、これは全て献上品です。全て納めいただければと!」
「私は、私の得た私財から妻へ贈りたいのだ。……感謝するぞ、市場へ出るわけにはいかないからな。代金は家の者に後々、運ばせる形で良いか? 嫌なら、この金の飾緒と交換でどうだ?」
「そそ、それはいただけません! そのような、国主である者しか身に着けられぬ証など……。た、大変なご無礼を致しました!」
 紅遠の内に蠢く怒りが、自分が儲けすぎた為だと考えた会長は、指定された簪を机に置き早足に応接室から飛び出した。
 その背を見送った紅遠は、小さく息を吐く。紅遠が怒りを溜めていたのは、国主として内政の負担が大きくなったからだけではない。
 山凪国が送り込んだ民の中に――どのような罠が仕組まれているか、予想がついていたからだ。
 そして、その罠を持つ者を見極める手段も無ければ、止める手立ても――思いつかない。
「……美雪」
 これから、多大な嵐に見舞われるかもしれない嫁御巫を救う手立てが思いつかない自分の不甲斐なさが、何より腹立たしかった。
 紅遠は簪を手に持つと、美雪の美しい黒髪と白い喪服と調和した姿を想像し頬を緩める。
 然るべき時に渡そうと、そっと内ポケットへとしまった――。
 
 紅遠が官公庁へ詰め切りで、僅かな食事の時間しか過ごせなくなった日々。美雪は部屋に置かれた新しい封筒を見つめ――暗い瞳をしていた。
(また、叔母様や玲樺さん、和歌子様から……。もう、身の程は知っているというのに)
 中身を一瞬だけ目を通し、棚へしまう。
 封の開いていない自分宛の封筒をそのままにすると、どうしても気持ちが悪くなるのだ。中には、もしかしたらこれまでの罵詈雑言を謝罪し、和解するような手紙が入っているかもしれない。
 限りなく低い可能性だとは知りながら、美雪はどうしても――そうあってくれと願い、自ら封を切ってしまった。
「……また、ですか。私が生きていることが、如何に山凪国と紅浜国にとって不利益か……。ひたすら言われなくても、もう自覚しておりますのに……」
 このところ、紅遠は家にほとんど帰ってこれていない。
 山凪国からの国外逃亡者が押し寄せ、対応に追われていることは美雪の耳にも届いている。
 風邪の噂としてだけではない。
「美雪さん? 大丈夫?」
「き、菊さん!? すみません、すぐに淑女教育のお稽古に戻りますので!」
 自室のドア越しに、菊の心配そうな声が聞こえてきた。
 美雪は慌てて棚へと文を突っ込み、急ぎ外へと出る。
「……大丈夫? 顔色が悪いけど、最近頻繁に来る文、ご家族様からと思って渡してるけど……。何か、嫌なことでもあった?」
「い、いえ……。お心遣い、ありがとうございます」
「そう? それなら……。やっぱり、お仕事でのことかしら? あんな噂、気にしないでね」
「あ……」
 菊の言葉に、美雪は――軍の医療施設や民間人へ治癒の妖術を用いた時、そして行き帰りで耳に挟んだ噂を思い出す。
『山凪国では使い物にならなかった嫁御巫が、紅遠様に取り入り情報を流している』
『朱栄様が亡くなった原因である嫁御巫の娘』
『親子揃って、紅浜国に不幸をもたらそうとしている』
『白い喪服は、銀柳に未だ操を立ててる証拠。嫁入りしたクセに、紅遠様へ心を許さないという意志表示を続けている悪女』
 一部、事実が混じるだけに美雪の心を軋ませた。
 それでも、いただいた役目だからと全力で取り組んではいる。しかし、最近では美雪の妖術で治療を受けたがらない人も増えた。
 実際に治療を受けてくれた人の反応も、最初より薄くなっている。
 気まずそうな顔で『ありがとうございました』と小さく呟いたり、中には無言で頭を下げるだけの人もいた。
(紅遠様へ忠誠を誓い慕う方からしたら、私を警戒するのも当然のお話ですよね……)
 冷たい対応を取られても、美雪は別に心は痛まない。
 山凪国では当然の対応だったから、今の反応は別に当然だ。
「紅遠様や菊さん、岩鬼様……。私へ良くしてくれてる方々にご心配をかけてしまい、心苦しいです」
「気にしないでいいのよ。私たちは、美雪さんを信じてるからね」
「……あの、噂なのですが」
「何?」
 真っ直ぐな瞳で見つめられると、美雪は話す勇気が出ない。
 紅遠の父である朱栄が切腹する原因となったのが自分の母の責任という噂は、事実だということを……美雪は話せない。
 これだけ良くしてくれる方が――文子のように桶の水をかけるように変貌したらと、折檻ばかり受けていた美雪は考えてしまう。
 仲良くなったからこそ関係が壊れるのが怖くなることすら、美雪は初めて知った。
(ダメ……。黙っているのは、裏切りかもしれない。嫌われてでも、嘘を吐いてるような状況でいたくない)
 
「あの、菊さん」
「ん? どうしたの?」
「じ、実は……私」
 美雪が白い喪服の前で、震える手をギュッと握る。
 意を決して美雪が口を開こうとした時――
「――美雪殿、すぐにご避難を!」
 切迫した表情、声で岩鬼が飛び込んできた。
「い、岩鬼様!? そのように慌てられて、私は何かやってしまいましたでしょうか?」
「美雪殿が悪いわけではないのですが――デモ隊が、こちらへ向け押し寄せようとしております」
「……ぇ」
「美雪殿、そして菊殿も、すぐに警備が厳重な官公庁へとご一緒に。……過激なデモに発展すれば、美雪殿を処刑しろと叫ぶ民衆が暴徒化する可能性もございます」
 紅遠を慕い、一丸となっていた紅浜国。
 それが、美雪の存在のせいで大衆がデモを起こすほどに過熱してしまった。
「私は……。文に書かれた通り、でした……。菊さん、岩鬼様。そして紅遠様を――不幸にする女……」
 顔を真っ青にして震える美雪の腕と菊の腕を「御免!」と岩鬼は引っ張り、官公庁の中まで逃げ込んだ――。

 美雪たちが官公庁の最上階、厳重な警備が敷かれた一室へ逃げ込んでから数十分。
「朱栄様が死んだ罪人の子を出せ! 紅遠様まで殺す気か!」
「紅遠様を護れ! それでも紅浜国の民か、退けお前ら!」
「怪異の異常襲撃も無能な嫁御巫が原因だと聞いたぞ! 不幸を呼ぶ女を追放しろ!」
「他人に操を立てる白い喪服姿で嫁ぐなんて、この恥知らず! 死に装束に変えてやるわ!」
 夜の官公庁前には、通りを埋め尽くすほどの民衆が溢れかえり、怒声を上げていた。
 多数の継承者や軍人が防備を固めているため、今は侵入を防げてはいる。
 だが、何か火種があれば――すぐに血が流れる事態となる、一触即発の様相だ。
 菊が寄り添う形で、美雪が部屋の隅で俯いていると――。
「――そんな顔をするな、美雪」
 凜とした軍服姿の紅遠が、キビキビとした足並みで部屋へとやってきた。
「紅遠様……。このようなことになってしまい、私は……」
「よい」
「い、今からでも、私が皆の望むように処刑されれば……。紅浜国は、また一丸と――」
「――私は、良いと言ったんだ。二度と、そのようなことを申すな」
 厳めしい表情で言う紅遠に、美雪は叱られた気分になる。
「……申し訳ございません」
 自分の発言が紅遠を不快にしてしまったこと。それだけではない。今、招いている状況など全てに対しての謝罪であった。
 紅遠はテラスの外から響くデモ隊の声に向かい、カツカツと革靴の音を鳴らして歩く。
「岩鬼、ピストルを貸してくれ。妖力の籠もってない通常弾でよい」
「はっ!」
 自分が相違していたピストルを机の上に置き、岩鬼は一歩下がる。
 紅遠は妖力が漏れ出ないよう、ここ最近は特に注意を払っていた。しかし、確実に岩鬼に影響を与えないとは限らない。
 岩鬼が離れたのを確認した紅遠は、ピストルを取り、テラスへ通じる戸を開く。
 すぐ下で響く怒声に躊躇うことなくテラスに出た紅遠は、夜空に向けピストルを構えると――引き金を引いた。
 西洋と紅浜国の文化が入り混じる街並みに、その炸裂音はよく響いた。
 狂気の熱で狂う民衆が、銃声の発生源――紅遠に目を向け、僅かに静まる。
「ここに押しかけた愛する民たちよ、私の問いに答えよ。――何の為に父上が腹を切り、私が首を跳ねたと思っている?」
 決して大きな声では無い。それでも凜とした、よく耳に残る声で、紅遠は問いかける。
「紅浜国の民を護る。その一心でした父上の決断と、私の覚悟を無に帰すつもりか?」
 紅遠の問いに、集っていた民衆は戸惑う。
 自分たちは紅遠のために、怪しい嫁御巫を追い出そうとしたのだ。それを何故、咎められなければいけないのかと不満にも思う。
「あ、あの嫁御巫は、紅遠様を陥れようとしています! 朱栄様が死ななければいけなくなった女の娘だと! 紅遠様は、騙されているのです!」
「美雪は、私が自ら山凪国から娶ってきた。美雪本人の意思など関係なく、有無を言わさずだ。美雪は確かに、父上が死んだ原因となる女の血も引いているかもしれない。だが同時に――我が最愛の師であり、生涯の友である銀柳殿の子でもある」
 デモ隊の一人が放った言葉に、紅遠は淡々と答える。
 紅遠と銀柳の仲は、紅浜国では有名だ。四方八方から狙われる紅遠の唯一の理解者にして、最愛の友。
 そんな紅浜国にとっても慕うべき男の血を、件の嫁御巫――美雪が引いているなど、デモ隊の誰一人として知らなかった。
「父の死因となった罪人の子だと? そんなことは承知の上で、私自身が美雪を読め御巫に選んだのだ」
 部屋で紅遠の演説を聴いていた美雪は、紅遠と初めて会った時のことを思い返す。
『私が最も愛した男と、最も難き女の子よ。――私の嫁に来い』
 今でも一言一句として忘れない。
 白い喪服で俯く自分に、新たな人生を与えてくれた――強引な言葉だ。
「私が護るべき、愛する国民たちよ。人の善悪は、血筋のみで決まるのか? 血が受け継がれれば、罪も受け継がれるのか? ならば、お前らの先祖に罪を犯した者が一人もいないと断言できる者のみ前に出よ!」
 身振りも交え、民衆を見渡すと――顔を見合わせるだけで、前に出る者はいなかった。
 自分が罪を犯したかどうかは、自分自身で分かる。
 だが、自分の親や先祖まで問われると、確かめようがない。
 紅遠の発現に、高まっていた民衆たちの熱は徐々に冷めていく。
「お前たちは、美雪が実際に紅浜国で何を成してきたか、本当に何も知らぬのか? 人の良い行いは、見て見ぬ振りをしていないか?」
 美雪の母の行いばかりに目が行っていた。美雪自身が、どのような人物かなど――噂話を信じ、確かめずに動いていた。
「知らぬのならば私が――改めて美雪の行いを、私情を交えず教えよう。他ならぬ、最も難き女の娘である美雪が紅浜国で成してきたことをな」
 紅遠は、ゆっくりと語り出す。
「初日、我が旧領の民であった子供を、美雪は未熟ながら命を賭して治癒の妖術で救った。次に、怪異との闘いにおいて、紅浜国を護る誇り高き軍人が死の危機に瀕しているのを救った。今でも、軍の治療施設で傷付いた軍人や民に治癒の妖術を施している。それは皆も、その目で見てきたことじゃないのか?」
 心当たりのある者がデモ隊に混じっていたようで、恥ずかしそうに顔を俯かせた。
「先日の怪異の大襲撃において、私は――妖力が枯渇し、致命傷を負った。私が棺に入り官公庁へ運び込まれたと、耳にした者もいるのではないか?」
 一部の者を除き、秘匿されていた情報である。
 押し黙っていた民衆たちは、まさかとざわめき始める。
「あの噂は事実だ。医者も治療できないで死を待つ私を救ったのが――他ならぬ美雪だ! どこの世界に、葬ろうとする相手の命を救う馬鹿がどこにいる!?」
 声を張り上げ、遙か遠くにいる者にも聞こえるように紅遠は言葉を発する。
 紅い目に見据えられた者、声が届いた者たちは――紅遠の尤もな言葉に、自分たちの軽率な行動を恥じた。
「傾国の鬼人と蔑まれる私を信じ、ここまで付いてきてくれる民たちよ! 他国の卑劣な流言に踊らされるな! 人とは――発した言葉で信じるのではない。成してきた行動で信じるのだ!」
 美雪は、紅遠の言葉に瞳を滲ませる。
 自分のしてきたことは無駄じゃなかった。紅遠が、そう告げてくれているように感じたのだ。
「それでも、万が一……本当に美雪が本当に私を裏切れば、他ならぬ私が美雪を斬る! 私以外の誰にも、美雪を殺す役割は渡さん!」
 歪な関係だ。
 生涯の師であり、最愛の友の子。同時に、最も難き――父の死因を生み出した女の血も引いている。たとえ紅遠の暴走した妖力により、正子が正気を失っていたとしても、正子が紅遠へ不用意に近付かなければ、あのような凄惨な事件は起こらなかったのだから。
 自分以外の誰にも、美雪に手出しをさせないという言葉は――歪な愛にも思えた。
 どうでもいい相手なら、野垂れ死のうが構わない。だが美雪は、たとえ復讐の相手であったとしても、紅遠にとってどうでも良い相手ではない。それだけで、幸せに思えた。
「私がここまで言っても分からぬ愛国心なき者は、傾いても残ってくれた民にはいないと、信じている! お前たちは、私の言葉より影も踏ませぬ卑劣な噂話を信じるのか!? どうなのだ!?」
 ざわめきは――徐々に紅遠の投げかけた言葉への賛同に変わっていく。
「私は紅遠様を信じます!」
「俺たちが間違っていました。紅遠様の選択に付き従うと心に決めたはずなのに!」
 口々にそのような言葉が聞こえ、紅遠は満足気に頷く。
「それでこそ、傾国に残る選択を選んだ――誇り高き、傾国の鬼人の民である! 皆、解散して各々の暮らしに戻るのだ。流言に惑わされず、私と友に強き国を作ってくれ!」
 怒りの声を上げ集っていた民衆が――まるで祝勝パレードにでも参加しているかのような叫び声を響かせた。
 暫し、その声を聞いていた紅遠は、やがて身を翻して室内へと戻る。
 立派な主の姿に、岩鬼や高官たちは頭を下げて迎える。
 そんな中を通り、紅遠は美雪の前まで歩き、息が届きそうな距離で立ち止まった。
「美雪、痛感したであろう。……信用なぞ、儚く脆いものだ。積み上げてきた信頼も、簡単に崩れ去る。それでも崩れぬ強固な信頼を築ける相手を、見つけよ」
「紅遠様、本当に……。私は、生きていてもよいのでしょうか? 御迷惑しかかけてない役立たずの私なんか、誰も求めて――」
「――動くな」
 紅遠が懐に手を入れたのを見て、美雪は目を閉じる。
 懐刀やピストルで殺されるのかと思い、覚悟を決めたのだ。
 しかし、感じたのは――髪に何かが付けられる感触。
 目を開けた美雪が、髪に触れると、硬い何かがある。
「……これは?」
 丸い目で紅遠に問う。
 紅遠は、それまでの冷徹な表情、紅い目を細め――微笑みを浮かべた。
「簪だ。美雪に付けてほしいと思い、買っておいた。……想像通り、美しいな」
「紅遠、様……」
「私はな、美雪以外にこうして……温もりを感じながら話せる相手がいないのだ。夫婦として当然な行動をできなくても、私は美雪を求めている。……この行動だけでは、伝わらぬか? 美雪が生きている理由としては足りないか?」
「いえ……。十分でございます。一人だけでも、私を求めてくれるなら、それで……」
 万感の想いに、美雪の声は涙混じりとなっている。
 そんな美雪の頭を優しく撫でると、紅遠はそっと美雪の肩を掴む。
「どうやら、一人だけではないようだぞ? 後ろを振り返ってみよ」
 美雪が後ろに振り向くよう、紅遠が手で誘導する。
 すると、美雪の目には――
「――岩鬼様、菊さん……」
 涙ぐむ岩鬼と、菊の姿が映った。
(そうだった……。私、菊さんに話せてなかった。紅遠様の父君、私は朱栄様の仇の娘だったって……。裏切られたって、思われていますよね)
 どう謝罪したものかと唇を震わせていると、岩鬼が先んじて口を開く。
「美雪殿は、間違いなく紅浜国に必要な方です。紅遠様の嫁御巫は、美雪殿以外には務まりませんからな」
 自分が必要とされている。山凪国で無能のゴミと罵られ、蔵で嬲られるぐらいしか役割がなかった自分が――換えの効かない存在のように、思って貰えている。
 全ての真相を知ってもなお、そう告げられると――美雪の瞳が、じわりと滲む。
「……美雪さん。よく似合ってるわよ。……辛かったわね。貴女の悩み……抱えていた血の因果に気づいてあげられなくて、ごめんなさいね」
 しわくちゃになった手で、菊は美雪を抱きしめた。
 優しく抱き寄せる力、温もりに――涙を湛える美雪は、いよいよ頬を伝うほどに溢れ出してきた。
「菊さん、私、私……」
「何も言わなくていいわ。……今は、私をお母さんと思って泣いてね」
「こんな温もり、感じたことが……。本当に、本当にごめんなさい」
「ごめんなさいって謝られるよりも、ありがとうって一回言われる方が嬉しいのよ?」
 優しく諭すような言葉だった。
 頷いた美雪は、ありったけの想いを込めて
「菊さん、本当に……。ありがとうございます」
 囁くように、感謝を伝えた。
 居並ぶ者たちが胸を熱くする中――一人の軍人が、室内に駆け込んできた。
 紅遠は、山凪国の民が押し寄せてきた時と似た光景に、何が起きたか悟る。
「紅遠様へ、ご報告を申し上げます! 山凪国より、突然の同盟破棄の宣言と書状が!」
「やはり、来たか」
「さ、更に! 国境を目指して、数万の軍勢が押し寄せてきているとの報告が!」
 その報告に、感動に胸を熱くしていた面々は驚愕に鼓動を高める。
 岩鬼は、思わず
「数万だと!? そのような軍勢を、即座に動かせる筈がない。山凪国め……。どれだけ前から準備をしていたのだ!」
 忌々しげに、そう叫んで机を拳で叩いた。
 山凪国の国主が壬夜銀に代替わりしてから起きていた、数々の異変が――全て、この時のためだったのだ。紅浜国内部を弱らせ、力尽くで奪う。
 準備は、遙か前から着々と進んでいたのに、自分たちは何も有効な手を打てなかったと、表情を歪める。
 そんな中、紅遠は
「無理やり攫われた自国民の保護という名目か。……壬夜銀め、内部からの煽動工作が失敗したからと、遂に力押しにでたな」
 書状に目をとおしながら、静かながらも昂揚したような声で言う。
 全員の視線が紅遠に集中する中で、紅遠はぐしゃりと書状を握りつぶした。
 そうして、待ちかねたように瞳を紅く輝かせ――
「――ならば、私も鬼人の力を見せてやろうではないか」
 闘志を燃やし、そう宣言した――。
 
 デモ隊への対策本部は、すぐに軍事作戦本部へと名前を変えることになった。
 美雪や菊などは館へと帰し、紅遠は軍部の上層部を中心に作戦を練る。
 まず最初に指示をしたのは、敵軍の数や兵科、継承者らしき人物や嫁御巫の存在などである。
 数万の大軍の行軍速度など、遅い。騎兵隊のみで構成できる人数ではなく、間違いなく歩兵の速度に合わせているはずだ。
 偵察兵が急行すれば、その詳細が分かるはずだ。
 そうして、偵察兵が戻ってくると――。
「――岩鬼は継承者たちを指揮し、丑三つ時の怪異侵攻へ備えよ。山凪国側は無視してよい」
「はっ! それでは紅遠様が自ら、山凪国軍へ対抗する兵の指揮を執られるということでしょうか?」
「いや、そのようなものは不要だ。……一般兵、及び残った継承者は、国内の警戒に当たらせろ。既に埋伏の毒は、一度デモの煽動という形で起きた。不穏な動きをした者は、捕らえろ」
「そ、それでは山凪国軍は放置ですか!? 山凪国側の駐屯地だけでは、数万の軍勢に一飲みにされてしまうと意見具申致します!」
 一つの駐屯地には、一般兵を合わせても軍人が千人程度しかいない。職業軍人のみではなく、国民を動員して防衛に当てようにも物資が不足している。
 とても数万の大軍に対して対抗できるとは思えなかった。
 紅遠は、揺るがぬ瞳で岩鬼に答える。
「勘違いをするな、放置はしない」
「……どういう、ことでしょうか?」
 敵軍に対して軍は派遣しないが、放置はしない。
 どうやって数万の大軍を食い止めるのか、方法が思い浮かばなかった。
「岩鬼。……私が何日、妖力を溜め込んだと思っている? 岩鬼の知る限り、私が妖力を爆発的に向上させてから、最大何日妖力を溜め込んだ?」
「それは……。これまでは、丸一日もなかったかと。……紅遠様、まさかとは思いますが」
 紅遠が国主に就いてからのことを、岩鬼は振り返る。
 嫁御巫の助力を得られない紅遠は、自身の妖力を用いて国中を駆け回り最低でも一日一回は防衛に参加していた。
 それが、ここのところは全く参加していない。妖力は、かつてないほどに充填されているだろう。
 そのことを、ここで口にするということは
「岩鬼の予想通りだ。申したであろう――鬼人の力を見せてやるとな」
鬼の妖人である自分が、単身で大軍に立ち向かうということを意味していた。
 つい最近、怪異の大軍により市の危機に瀕した紅遠を目にしている岩鬼は止めたい。
 だが、紅遠の声には、一歩も譲らないという意思が籠もっていた。
 信頼した国主が、意見を聞いた上で決定したことならば従わざるを得ない。
「我が主を信じ、もしもの時は――後を追わせていただきます」
「もしもなど、起きようもない」
「それは、何故でしょうか?」
「本当に、岩鬼も分からぬのか? いや、岩鬼は仕方ない。だが壬夜銀は相当に私を侮っているか、暗君だな」
 嘲るように、紅遠は口にする。
 そうして、心なしか低い声で
「――妖人が万全の力を振るった時、人間に抗う力はない。妖力を持つ嫁御巫だろうと継承者だろうと、脈々と力を増し受け継がれてきた魂刀も無しには無力だ。だからこそ、どの国も妖人が君主になっているのだろう。これは不条理なまでの決定的な武力差。種族の差という世の摂理だ」
 居並ぶ皆に説明した。
 これまで万全の紅遠を目にしたことがない人々は、わすれていたのかもしれない。
 朱栄や銀柳といった偉大な妖人でさえ、幼い紅遠を見て自分を超える。そう言わしめる、理不尽の権化であったことを。
「最強の鬼人様を侮るような発現をしたこと、謹んでお詫び申し上げます」
 頭を下げ、岩鬼は眼前の主を信じる。
 魅了の妖力にばかり目が行きがちだが、十一年前の時点で朱栄と銀柳を相手に渡り合っていたのだ。
 それが――まともに休む間もないほど、怪異との実戦を一七年間も続けていたら?
 妖力が万全となった紅遠の見えない強さを想像し、冷や汗すら流れる。
 そうしていると、会議室のドアがノックされた。
 入室を許可すると、一人の若い軍人が片膝を付いて
「申し上げます。敵兵の一人……一軍の司令官である坂柳という者が単身で投降してきた為、拘束した上で連行して参りました。手土産を持ち、紅遠様へのお目通りを願っております」
 そう報告をした。
 紅遠は、銀柳と同じ『柳』の文字が入る名字を記憶から探る。
「坂柳……。山凪国の老将、銀柳殿が深く信を置く人物として語られていたのを聞いたことがある。自身の名を一文字分け与えるほどに、重用していたとな。……いいだろう、投降を受け入れる。通せ」
 先日、直接話した逃亡兵が裏切ってデモを煽動していたかのは分からない。だが、不用意に会うのは間違いかも知れない。そうとは知りつつも、紅遠の直感が会うべきだと告げていた。
 やがて入ってきたのは、後ろ手を縛られ継承者二人に連行される総白髪の軍人だった。縫い付けられた徽章から、身分が高いことが窺える。
 縛られながらも、坂柳は頭を下げた。
「面を上げよ。坂柳と申したな。紅浜国へ投降したいとのことだが、何故だ? この情勢なら、山凪国が有利ではないのか?」
 坂柳は、笑みを浮かべながら首を振る。
「紅遠様。ご冗談で老人を試されずとも、手前は裏切るつもりなどありませぬ。山凪国が有利など、有り得ない話でございます。壬夜銀様が総指揮を執り、紅遠様が戦場に出たら戦うのなら、まだ僅かに可能性はあったかもしれませんがねぇ」
「……ほう。傾国の鬼人という二つ名で蔑まれる私を、侮らないのか」
「ご冗談を。侮っているのは、壬夜銀様や今回の総司令官を務める朝原親子でしょうな。私は、銀柳様の片腕として幼き紅遠様が立派に父上の介錯を務め――魂刀に認められた場に立ち合っております。あの力を見て、直接戦闘を挑むなど愚行ですなぁ。……そう、お諫めしたのですが、無念です」
 その言葉から、銀柳の跡を継いだ壬夜銀に諫言を呈したのが窺える。
 同時に紅遠は、総司令官役が――美雪の実家である朝原家なことに強い違和感を抱いた。
「朝原家は、それほど壬夜銀に重用されているのか? 十七年前の事件以降、没落の一途を辿っていると認識していたが」
「仰る通り、家臣団の強い反対で権力の中枢から遠ざけられておりました。……しかし、このところは頻回に壬夜銀様と謀を企てていた様子ですな。追い詰められた旧名家が、最も何をするか分からない。そういうおつもりかもしれませぬ」
 坂柳の言葉に、紅遠は頷いた。
 手を縛っている縄を解くよう指示をする。
 自由になった坂柳は――懐から一冊の手記を取り出し、捧げるように突き出した。
 岩鬼伝いに、紅遠が手記を手にする。
「これは?」
「手土産にございます。……銀柳様の手記で、自分の死後――美雪様を選ばれたら、紅遠様へと。壬夜銀様の目があり、お渡しするのが遅れて申し訳ございません」
「銀柳殿の手記……。私が美雪を娶ったら渡すよう、事前に指示をしていただと?」
「ええ。……どうぞ、出陣を前にでもお読みくだされ」
 坂柳は、やっと役目を果たせたとばかりに頬を緩ませる。
 紅遠はゆっくり頷くと、手記を懐にしまった。
「――それでは、各自行動に移れ。丑三つ時に行動開始だ」
 居並ぶ一同が了承したのを確認した紅遠は一旦、館へと足を進める。
 誰もいない場所で、銀柳の残した想いを確認したかった――。

 風呂で身を清めた後、紅遠は戦闘まで身体を休めようと浴衣に着替え離れに戻る。
 座布団に正座しながら、銀柳の残した手記を読むと――書いてあったのは、美雪と十二歳の選定の儀で会ってからの見解ばかりであった。
「……選定の儀での妖術発露は微弱なれど、その神眼の底が知れぬ面妖さがある。自分の血を引く子の中で、最も己と似た力を感じさせた。自分と同じであれば、私の妖力にも魅了されない可能性があるものの、正子の血も継いでいることから嫁入りさせるよう踏み切れなかったか……」
 能力不足の美雪を、銀柳が無理やり嫁御巫見習いに引き上げたとは耳にしたことがあった。
 だが、何故か紅遠に魅了されない美雪の可能性にまで、銀龍が気がついているとは思わなかった。結局、自分の考察だけでは確証を得るには至ってなかったようだが――。
「――だから、私自身が一人の嫁御巫を選択して娶るよう、遺言状を届けたのだな……。銀柳殿。我が生涯の師であり、最愛の友よ……」
 銀柳は、残され誰の温もりにも触れられず――数百年という天寿を生きる紅遠を、案じてくれていたのだ。同時に、紅遠ならばきっと美雪を選ぶと思っていたに違いない。
(どこまで思い描いていたのだ……。銀柳殿、あなたは凄い銀狼だ……)
 壬夜銀の魂刀となった友を思い、紅遠は唇を噛む。
 もう会えない友と、また語りたい。もう剣を交えられない師と、また武を高めたい。
 そんな想いに胸を痛め、思考を銀柳の残した美雪に移す。
(美雪の体質は、銀柳殿の血による特異性だったのか。……だが、一度魅了されている正子と血を分けた子だ。……どこまで私の妖力に耐えられるかなど、試してみねば分からぬが……)
 美雪の献身的な行動と、銀柳の見解を照らし合わせる。
「……もしかすると――美雪は正気でありながらも、私に尽くすよう既に魅了で誘導されているのかもしれない」
 紅遠の中で、もっとも可能性が高く――最も、嫌な予想が頭に浮かんだ。
(正子のように自我を失わず正気を保てたのは、銀柳殿の妖力を受け継いでいるからだろう。……だが、私のような至らぬ夫に、奇妙なまでに尽くそうとしてくれてるのは、常に優しかった正子と重なる。両者の力が混ざり合えば、正気は保ちつつ私へ尽くそうとする――自由とは程遠い、操り人形のような存在へなり果ててしまうのではないか?)
 いってしまえば、自分の都合がいいように動く――催眠だ。
 紅遠は、今までの美雪の言動を思い返し、美雪には自分の意思で生きてもらいたい。
(疑いながら接するなど、美雪に対しても無礼だ。……それならば、魅了されない確実な距離を保てばいい。ただ時折、話せるだけでも……私は幸せだ)
 美雪はどうだろうか、と紅遠は考えた。
 止まった時の中にいるように、思考をぐるぐると巡らせ続けていると――。
「――紅遠様、入ってもよろしいでしょうか?」
 襖の外から、美雪の声が聞こえた。
 紅遠は慌てて手記を浴衣の袖に隠す。
「ああ」
 己の心情、この胸に広がる感情をどう表現していいか分からず、ぶっきらぼうに返事をした。
 静々と襖を開け、髪を簪で飾り白い喪服に身を包んだ美雪は紅遠の近くへ座る。
「夜分に申し訳ございません。……閨に近付けば、斬ると仰っておりましたのに」
「……そのようなことも、申したな。遠きことのように思えるが、あれは美雪がきた初日か」
「はい。……言いつけを破り、申し訳がございません。不埒な考えではなく、紅遠様のお役に立てないかと参りました」
「…………」
 紅遠の役に立つ。
 一見、正気を保っているようには見えるが、中身は分からない。
(人間の心とは……本当に難しいものだ)
 注意されれば言いつけを護りつつも、自分に尽くすことは止めない美雪を見て、紅遠は思う。
「紅遠様は、この後で山凪国との戦へ出られるのですよね?」
「そうだ」
「私も、一緒に連れて行ってはいただけませんか? その、治癒の妖術がありますので、盾には慣れずとも包帯や薬の代わりにはなれるかと……」
「……何故だ」
 紅遠は、辛そうに呟く。
 美雪は、紅遠の様子が変だと思い
「何故、とは?」
 恐る恐る、そう尋ねた。
 暫し沈黙していた紅遠は、ゆっくり言葉を選ぶように口を開く。
「美雪は何故、死ぬかも知れない戦場にまでついてきて、私に尽くしたいと言うのだ? 嫁御巫としての責務か、血の因果による罪悪感からか?」
 問われて目を丸くする美雪に、紅遠は
「それとも――私へ、愛情を抱いているのか?」
 紅い目を一直線に向けながら、美雪に尋ねた。
 美雪は、心の中で紅遠の問いに自分なりの答えを探す。
(……分からない。私の胸を疼かせる、この感情は……。一体、何なのでしょう。何か答えなければ、失望させてしまう。ですが……いい加減なことを、紅遠様に答えたくありません)
 胸を押さえながら俯き、葛藤を続ける。
 二人の間に、気まずい沈黙の時間が流れ続ける。
 やがて、紅遠はスッと立ち上がり――軍服を取りだした。
「……時間だ。私は着替える。美雪は館へ戻っていろ」
「ぁ……。紅遠様、申し訳ございません。どうか、私も一緒に連れていってください!」
 危険な戦場へ、紅遠が一人で行ってしまうと思った美雪は、腕を引き紅遠を引き留めようとするが――紅遠は、その手を避けた。触れられることさえ、嫌ったかのように。
「安全なところで、大人しくしていろ。……やはり、私には必要以上に近寄るな」
 少し前の紅遠に戻ってしまったかのような、拒絶するような言葉。
 だが、どこか思いやりが籠もった語調に聞こえる。
(私が、優柔不断で自分の心情さえ分からないから……。嫌われてしまったのでしょうか)
 美雪は自分を責め「失礼致します」と、離れを去る。
 自室へ向かい歩きながら、美雪の頭には――紅遠と親しくなってかたの日々が次々と浮かんでくる。
(一緒に食べたお食事、いただいた簪……。自責の念で震える私の肩を……心を温かく包んでくれた温もり。あの時に感じた心すら言葉として表現できず、申し訳がございません)
 自分も、少なからず魅了の影響を受けているのかもしれない。
 一度そう考えてしまうと、軽々しく口にはできない。
 美雪は自室に戻り、ベッドへ腰掛けると
「お願いします。……どうか、ご無事に再会できますように」
 月明かりが差し込む部屋、白い喪服で祈りを捧げ姿は神聖さを感じさせた――。

 山凪国側の門前には、夜闇の中を行軍してきた数万の軍が押し寄せていた。
「雲霞の如き大軍、烏合の衆。……どう表現すれば適切か」
 門の上に立つ紅遠は、月明かりに照らされる山凪国軍を見て、風に吹かれながら呟く。
「早々に済ますとしよう」
 人差し指を突き立てると――指先に妖力込め、ぽっと小さな火が灯る。
 その小さな火に気がついた山凪国軍は
「傾国の鬼人が出たぞ!」
「継承者、一斉射撃準備! 嫁御巫様には、守護結界を張っていただけ!」
「ガトリングガンを前に! 妖力を込めた弾を、ありったけ撃ち込め!」
 口々にそう言いながら、慌ただしく動き出す。
「山凪国からここまで、わざわざガトリングガンを転がしてくるとはな。ご苦労なことだ」
 戯れとばかりに、紅遠は準備が整うのを待つ。
 嫁御巫による守護結界が、五重に発動した。数万の軍勢を覆う亀の甲羅にも似ている。
 銀柳の妖力が満ちていた美しい銀色をした妖力とは違う。くすんだ灰色のような妖力を目にして、紅遠は感傷に浸る。
「わっはっは! この数の結界は破れまい! 撃てぇえええ!」
 聞き覚えのある声――朝原冬雅の声に会わせ、弾丸が紅遠に向かって放たれた。
 立ちこめる煙に、硝煙の臭いが辺りに立ちこめる。
「はっはっは! 大物ぶりおって国を傾ける愚王が! 蜂の巣に――……」
 ありったけの弾を撃ち尽くした後、そこには
「……もう終わりか?」
 紅色の障壁により、無傷な紅遠が退屈そうに立っていた。
「ば、化け物か……。だが、貴様の攻撃はこちらへ届かん」
「おい、早く妖力を新しい弾に込め直せ!」
 冬雅や双次の声が、恐怖に戦く山凪国の軍勢に響く。
 紅遠は、火の灯る指先を――雲霞の如く押し寄せていた山凪国軍を囲うように動かす。
「馬鹿め! そのような小さな炎、何のことはないわ!」
「……燃え上がれ」
 呟くように紅遠が指示すると――炎の壁が天を目がけ燃え盛った。
 五重に張った守護結界を打ち破り、山凪国軍は炎の壁を前に一歩も動けなくなる。
「な、何だ……。何なのだ、これは!? 嫁御巫様、早く結界を!」
「張ってるわよ! でも、妖力が打ち消される! ダメ、私はもう逃げるわ!」
「逃げ場なんてないだろう!? いいから、全力、で……」
 炎の壁を睨みながら叫ぶように指示していた双次は、言葉が止まる。
 空に――炎の太陽が浮かんでいたからだ。
「武器を捨て、総司令官である朝原親子を私の前に連れて来い。十秒だけ待ってやる」
 この瞬間にも大きさを増していく妖力の塊――炎渦巻く太陽。
 指先に灯る小さな炎でさえ、火の壁で大軍を覆ったのだ。あんなものを、撃ち込まれたら……。灰すら残さず、死んだことにも気がつかない未来を浮かべ、絶望が広がった。
 人の上に位置する理不尽の権化である妖人、最強の鬼人。
 山凪国兵は我先にと銃や剣を捨てていく。
 遂には朝原親子を捕らえ「これでよろしいでしょうか!? どうか、命ばかりは!」と助命を請い始めた。
 紅遠は、炎の太陽に込めた妖力を自分の元へ再吸収することで、答えとした。
「あ、あれだけの妖力を自由自在に……」
「誰よ、傾国の鬼人は……国を危うくする無能とか言ったやつは。とんでもない、化け物じゃないの……」
「妖人の本気とは、ここまで怖ろしいものだったのか?」
 顔から表情を失い、呆けたように山凪国軍は呟く。
 たとえその身は業火に焼かれなくとも、心には決して消えない火傷のような跡が深々と刻まれた。
「お、お前ら! 総司令官であるワシに何てことをする!」
「止めろ、貴様らが足止めをしろ! 俺は、名門朝原家の次代当主だぞ!?」
 後ろ手に縛られた朝原親子が山凪国兵によって引き摺られ、紅遠の前へと投げ捨てられた。
 連れてきた軍人や嫁御巫は、平伏している。
「このまま武装を放棄して国へ帰るのであれば、命令されて動いた貴様らは見逃してやる。二度はない。よいな?」
「は、はい! ありがとうございます!」
「二度と、二度と紅浜国への手出しは致しません!」
「行け」
 弾かれたように、山凪国兵たちは逃げ去る。
 朝原親子も、腕を縛られたまま走って逃げようとするが――。
「――何処へ行く? 私は、貴様らに自由を許した覚えはない」
「……ひっ」
 行く先に、紅遠が立ち塞がる。
 恐怖に声が引き攣った。
「聞こえるか、門衛よ」
「は、はい! 聞こえます紅遠様!」
「こいつら二人は、牢に――……」
 紅遠が指示を出そうとした時だった。
 紅浜国の中心地で膨大な妖力が巻き上がり、轟音が国境沿いの門にまで響いて聞こえた。
 紅遠が慌てて振り返ると
「空を駆る、狼の怪異だと?」
 巨大な灰色の狼が、夜空を走っていた。回って山凪国側へと向かうように。
「まさか……嫁御巫の身体に生贄術を組み込んだか」
 人間と協力して国を護る、妖人として禁忌と呼べる術に、紅遠が忌々しげな眼差しを向ける。
「がっはっは! 我が事成れり! 最初から軍勢は囮よ!」
「逃げ込んだ民の中に、生贄となった嫁御巫が紛れ込んでいたのにも気がつかないとはな! やはり国を傾ける愚人か! 俺たち朝原の名は、これで永遠に語り継がれる!」
 血走った目で、狂ったように叫ぶ二人には目もくれず、紅遠は――空を駆る狼の口元を見て
「……美雪」
 呟くように、名前を呼んだ。
 白い喪服姿の美雪が、みるみる遠ざかっていく。
 いくら紅遠とはいえ、空は飛べない。あの狼に追いつくのは、不可能だった。
「わっはっは! ワシらの命なぞ、内部工作が終わった時点で捨てておったわ!」
「俺たちは、家の名誉を護った! 子々孫々、語り継がれる戦功だ!」
「……何故、美雪を攫う計画を立てた。答えよ」
「ふんっ! 壬夜銀様は自分の物を誰かに奪われるのを決して許さない! 美雪のようなゴミであってもだ! あのゴミに傾倒する貴様が苦しむと思えば、それこそ何でもするわ!」
 吐き捨てるような冬雅の言葉は、もう死という運命を受け入れていた。
 最期に言いたいことを全て言ってやるとばかりに、紅遠へ暴言を吐く。
 余りの無礼さに、門衛達が銃口を向けるが――紅遠は、手で制した。
「……この者たちの処分は、後々決める」
「で、ですが! 我らが主君に対して余りにも目に余る――」
「――二度、言わせるな」
 紅遠の怒りが、妖力を発さずとも門衛たちへ伝わる。
 いや、内に怒りと妖力をマグマのように込めているからこそ、より身震いするような恐ろしさであった。
「牢へ閉じ込め、生かしておけ。……処分は、美雪と共に決める」
「か、かしこまりました!」
 紅遠は一秒でも早く館へ戻りたい気持ちを抑え、駐屯地に停めてあった車に乗る。
 この先も見据え、妖力の消費を抑えた行動であった――。
 
 館へと着き、車から降りた紅遠が目にしたものは――西洋の建物を真似て建てられた館が崩れ落ちた姿だった。
 そこには既に岩鬼を始めとした高官たちが集い、着物を汚した菊も立っていた。
「紅遠様……。お帰りなさいませ。美雪さんを護れず、私は……」
「菊は悪くない。犯人は分かっている」
「……はい。こちらの文が、崩れた建物から出てきました。棚に入っていたのを、見つけたのですが……」
 便箋の束を差し出す菊の手は、皮が捲れていた。
 一瞬で夜空へと去った怪異は見えず、美雪が瓦礫の下にいると思い素手で掘り起こした結果だろう。
 血と埃で汚れた便箋から文を取りだし、紅遠は目を通す。
「……家族とは、血の繋がりとは何なのだ」
 怒りを押し殺した声に、菊は頭を下げる。
「ご家族からの文と思い、美雪さんへ届けてしまった私に非があります。……思えば、文が届く度に美雪さんは表情を暗くしていたのに……」
「…………」
 紅遠は文を握り潰し、音を立てて引き裂いた。
 美雪が連れ去られた方角を見つめ
「山凪国を、落とす」
 そう宣言した。
 それは朱栄や銀柳が何としても護りたかった、両国の平和的友好関係を終わらせる宣言だ。
 壬夜銀の暴走で軍を差し向けられただけであれば、犠牲者も出ていない故に賠償や謝罪、二度と同盟を破棄しない条件で落ち着けようと紅遠は考えていた。
 しかし――壬夜銀は、やり過ぎた。
 岩鬼は、黄昏時のような紅い瞳を夜空へ向ける紅遠に、申し訳なさが滲み出ている声で語りかける。
「久遠様。恐れながら……。我が国には、国土を拡大させる余力がございません。無論、久遠様の妖人としての武力は疑いようのないものです。壬夜銀に敗れるなどとは欠片も考えておりませぬので、誤解なさらず」
 岩鬼として、心情では黙って紅遠の背を押してやりたい。
 だが、神座不足な国家の大事を一手に担う国務大臣として、言わないわけにはいかない。
「拡大した領土を治めるには人材という力が必要です。現状の紅浜国の領土維持ですら、じり貧なほどに乏しき人材。内政官の不足。そして何より嫁巫女様の御力がなき我が国では……。そこにたとえ、正気を保てた美雪殿が加わろうとも、です。一地方すら守護する結界をも張れぬ美雪殿お一人の妖術では……」
 苦しそうに語る岩鬼の言葉を、紅遠は遮る。
「皆まで言うな。分かっている。――私に、側室の嫁巫女や妾を多数取れと言うのだろう。私の妖力によって正気を無くすとしても、それを受け入れ利用しろ、と」
 嫁御巫が不在の国。
 それは、正子が暴走した件の二の轍を踏まないという理由もあるが――加減次第では、嫁御巫を意のままに動かすこともできてしまう。
 暴走しないように、それこそ銀龍の葬儀の場で紅遠の虜になった嫁御巫たちのようにだ。
 御心の儀を行えない以上、個々の力は他国より弱いだろう。
 それでも、数を揃えれば国境の守護結界ぐらいは張れるはずだった。
「……はっ。久遠様が望まぬ、誠に心苦しいことと知りながら」
「私は何でも、引き受けよう。これから先の一生、人を愛せず役割をこなす歯車になろうとも構わん。――二度と美雪に顔を合わせられぬ、鬼の所業。……それでも、よい」
「久遠様……。誠に、痛ましきことです。このような諫言を申す私に、如何様にも罰を……」
「よい。岩鬼は理屈に合った正しきことを申し、私が理屈に合わぬ愛しき感情を抑えられぬ子供であっただけだ。真の忠臣を罰する、愚かな主君にしてくれるな」
 岩鬼は涙を呑み、紅遠の言葉を胸に刻む。
 紅遠は儚げな顔、優しい声音で
「……美雪には二度と得られぬ感情、一生分の温もりと、愛を教えてもらった。それで十分、私は役割に徹することができよう。……皆も、それでよいな」
 そう問いかけた。
 敬愛する主が抱く胸の内を思えば、誰も異論など挟めない。
 再び得た幸せを、自ら放棄するかもしれない。
 それが、どれだけ辛い決断なのかは理解しているからだ。
「紅遠様……。嫁御巫である美雪殿への想いを自覚されてもなお、御身は想いを行動に移せない……。僭越ながら幼き頃より紅遠様の成長を目にしてきた某は、これが悔しく思います」
 多数の嫁御巫を迎えるにしても、美雪だけは特別だと言ってやれればよい。
 しかし、それをすれば――美雪をも、狂わせる可能性がある。
「……好きというだけが、想いではない。愛おしいと伝えるだけが、愛ではない。言葉にすべきこと、言葉にしてほしいことなど重々承知している。だが私は、軽々に言葉も発せぬ罪深き妖力を持った妖人。そんなことは、生まれ持った宿命だ。ならば――美雪のしないでほしいと願うことを、陰ながらでも叶え続けよう。……この想いは今後、永遠に行動で語り続ける」
 美雪を攫った壬夜銀と戦闘になるとすれば、紅遠の膨大な妖力を――美雪に対する想いを、間近で感じることになるだろう。
 一心に想ってしまった紅遠の妖力を受ければ、銀柳の力を強く引き継いでいたとしても影響を受けるかもしれない。
「菊。この館は建て直せばよい。だが……美雪はもう、ここに帰っては来られないかもしれない」
「…………」
「その時は、菊の家で面倒を見てやってはくれないか? 年齢のこともある。退職金は弾もう」
「新しくなった館で、これからも紅遠様のお世話をさせていただきます。美雪さんと一緒にです」
 しわくちゃな顔で、柔らかな笑みを浮かべながら菊は言う。
 美雪なら、紅遠の持つ魅了の妖力にも耐えられると、信じて疑っていない様子だ。
「美雪を、信じているのだな」
「あの子は、幸せになってほしい。報われてほしいと応援したくなる子ですからね。たとえ裏切られても、私はいいのです。何年かけてでも、笑ってほしいのですよ」
「……ふっ、そうだな。全く、その通り……。裏切られても、構わない。いや、そもそも裏切られたなどと被害者意識を持たなければ、美雪が裏切ったことにもならんか……」
 吹っ切れたように、紅遠は表情を和らげた。
 大切なのは、美雪が幸せになれるかどうかだ。
 己の妖力で正気を失ってしまったとしても、何をされたとしても……。それさえ、受け入れてやればいい。正気に戻るまで、待ってやればいい。
 そう思い直した紅遠は、カツカツと靴音を鳴らし車へと戻る。
「私は少々、国を出て来る。皆、後は任せたぞ」
 皆が頭を下げて見送る中、紅遠は単身山凪国へ向け出立した――。