山と農地と海が広がる小さな町。電車は一時間に一本あるからまだ良い方だとは思う。娯楽施設は車がないと行けない。多分誰がどう見ても田舎だと思うだろう。
ここで生まれた子供は保育園から中学、下手したら高校までずっと同じメンバーと過ごすと言っても過言ではない。生まれた時からほとんどずっと一緒に過ごしていたという人同士もいる。
もうそのまま幼少期から見知った者同士で高校卒業と同時に結婚することも割とあるみたい。
そういう場所で、私、一ノ瀬美優は育った。
◇◇◇◇
「美優、そろそろ荷物をまとめて引越しの準備を始めなさい。あなたは私と一緒に行くんだから」
自宅で母からそう言われて、私は憂鬱になった。
両親の離婚が決まり、母の方について行くことになった私。
両親の離婚の原因は性格の不一致と母がこの田舎町の暮らしに耐えられなくなったかららしい。
父と母は同じ都会の大学で、サークルが同じだったことにより出会った。そのまま二人は付き合い始めた。
大学卒業後も二人の交際は続いていた。父も母もしばらくは都会で働いていた。でも父はこの田舎町出身で、一ノ瀬家は従業員十人にも満たない小さな会社を経営している。だから父は数年経ったら都会の会社を辞めてこの町に戻り、会社を継ぐ準備をしていた。だから母とは少しの間遠距離恋愛になった。そしてその後、父と母は結婚した。母は結婚と同時にフリーランスのWebデザイナーになったみたいで、この田舎町に移り住み私を生んだ。でも、この町から遠い大都会出身でお嬢様育ちの母には田舎の暮らしが耐えられなかったようだ。
父はそんな母に歩み寄ろうとしていたし、一ノ瀬家側の祖父母も母に歩み寄ろうとしていた。しかし駄目だったみたいで、結果離婚が確定した。
両親の離婚と、母が私を引き取り大都会にいる南條家側(母方)の祖父母の元へ行く話を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。
確かに父と母の仲は微妙だったけど、二人共私には優しかった。祖父母も私のことを見守ってくれていた。ずっとここでの暮らしが続いていくと思っていた私にとっては青天の霹靂だ。
私は何も考えられなくなり、その後の両親の話が全く耳に入ってこなかった。
ずっとこの田舎町で育った私はこの場所しか知らない。
中学では学年全体で七十人にも満たず、全員が家族みたいな存在。仲の良いメンバーで昨日見たドラマや動画で盛り上がり、SNSに投稿されたお洒落なスポットを見ては都会に憧れつつも、このぬるま湯のような心地の良い場所で何だかんだ満足度していた毎日。
そんな日々が終わるだなんて全然予想すらしていなかった。
「お父さんの方に残ることは出来ないの?」
藁にもすがる気持ちで父に聞いてみた。
「ああ……美優、気持ちは嬉しいけど、恥ずかしい話お父さんな、お母さんより収入低いんだ。この先美優が大学進学するとなると、お母さんについて行った方が金銭的に困ることはない。ほら、南條のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんもお金持ちだし、おまけにあっちは大都会で高校の進学先もこの町よりたくさんある。美優の将来を考えたらやっぱりお母さんについて行った方が良いと思うんだ」
父は私の将来を案じてそう言ってくれていることは分かる。
確かにこの町には高校が三つしかない。しかも偏差値はどの高校も中途半端。おまけに私が住んでいる地区からは車じゃないと通いにくい。
一ノ瀬家側の祖父母も、夏休みとか冬休みに遊びに来てくれたらそれで十分だと言ってくれていた。父と祖父母との面会は制限されていないみたいだった。
こうして、中学二年の子供の私にはどうすることも出来ず、母について行くことが決まってしまった。
仲の良い友達と、心地良い学年のメンバーとの別れが嫌だ。新しい場所でのスタートが不安。
そして何よりも変化が怖い。私の意思に反して何もかもが色々と変わってしまうのが、怖い。
ただそれだけだった。
◇◇◇◇
「美優、ボーッとしてるけど、大丈夫?」
「あ……うん、大丈夫。ちょっと暑くてボーッとしてた」
部活中、ぼんやりとしていた私に話しかけたのは安藤桃果。保育園から一緒の私の親友。
「ああ、確かに。今日暑いよね。熱中症には気を付けないとだね」
桃果はフルートを片付けながら手で仰いだ。腰まで伸びた桃果のロングヘアは高い位置でポニーテールにまとめられている。
「うん。帰り自転車漕ぐの怠いかも」
私は苦笑しながらクラリネットを片付けていた。肩甲骨あたりまで伸びた髪が少し鬱陶しい季節だ。
「はい、では皆さん、暑いですからくれぐれも熱中症には気を付けて帰ること。それから、遊んだり部活を頑張るのも良いけれど夏休みの宿題は二学期が始まるまでに終わらせることね」
吹奏楽の顧問の先生が終礼でそう言い、今日の部活は解散になった。
「今日これから遊べる? 一緒に宿題やろ」
「あー、うん。数学のワーク分かんないとこあるから教えて」
「帰り図書館で涼む?」
「先輩、せっかくだし海に行きませんか?」
「あ、行きたい!」
「待って、今水着洗濯中」
「いいなー。俺も行っていい? てかバスケ部とか野球部の奴らも呼ぶ?」
部活が終わると皆晴れやかな表情で次の予定に移る。
夏休みだから基本的に部活は午前中のみ。
そしてこの町は田舎だから娯楽施設は近くにない。中学生の行動範囲内で出来ることは少し大きめのスーパーのフードコートで喋るか図書館に行くか海水浴くらい。
「美優先輩と桃果先輩も海に行きません?」
「あ、ごめん。私今日家の畑の手伝いで行けない」
後輩からの誘いを残念そうに断る桃果。桃果の家は農家で、たまに手伝いに駆り出されるみたい。
「私も家の用事があるから、ごめんね」
引越し準備がまだ終わっていない私も後輩からの誘いを断った。
親の離婚と転校のことはまだ桃果達には言えてない。学校の先生には、友達には自分から言いたいから黙っておいて欲しいとお願いしてある。
だけど、言ってしまったら本当に離婚と転校の事実から目を背けられなくなってしまう。だから今はまだ……。
「美優、帰ろ」
「うん」
私は桃果の言葉に頷いて、一緒に帰ることにした。
慣れた通学路を桃果と私は自転車で颯爽と通り過ぎる。
眩しい日差しは暑いけれど、海からくる潮風のお陰で少しだけ暑さが和らいでいる気がする。
「そういえば桃果のお祖母ちゃん、腰は大丈夫そう?」
「うん、まあ治ってはきてるみたい。今年はお祖母ちゃんが腰やったせいで夏の畑手伝いが大変になりそう」
桃果は怠そうに苦笑している。
「明後日のお祭りも今年は行けそうもないし」
桃果はむくれている。
二日後、私達が住む町では少しだけ規模が大きめの祭りがある。
夜には花火も打ち上げられるから毎年賑わっている。
「お祭りか……」
最後になるから行きたいけれど、私もどうなるかは分からない。
その後は桃果と夏休みの宿題で出された数学のワークの中に一問だけ難し過ぎる問題があったこと、昨日見つけた動画のことなど、他愛のないことを話してそれぞれの家に向かっていた。
ちなみに転校予定の中学校からは、今の学校で出された夏休みの宿題を提出するようにと指示があった。
◇◇◇◇
「ただいま……」
「ああ、お帰り、美優。暑い中お疲れ様」
少し憂鬱な気持ちで帰宅すると、父が優しく出迎えてくれた。
母は出かけている。
「あれ? お父さん、仕事は?」
「部屋に忘れ物があったから今取りに戻ってたところだ。すぐ隣の事務所に戻るけど」
工具を持った父は笑いながらそう言って事務所に向かう。
私が今生活している家の隣に父の会社があるから、休憩時間や忘れ物があった時にこうして父は家に戻って来る。
その後、私は部屋に戻って持って行く荷物や送る荷物をまとめる。
本当はずっとここにいたい。だけど私にはどうしようも出来ない。
そんな思いを抱えているせいで、荷造りのスピードは落ちてしまう。
その時、スマートフォンに連絡が入る。隣の事務所にいる父からだった。来客用の飲み物を買って来て欲しいとのこと。どうやら今は父の会社の人達全員手が空いていないみたい。こういう時にこうして私がお使いに行くことがそこそこある。
私は気分転換に父のお使いに行くことにした。
◇◇◇◇
日差しは暑いけれど、自転車で颯爽と風を受けているお陰で幾分か暑さはマシな気がした。
私は父の会社がよく使う商店へ向かう。
「ああ、美優ちゃん、いらっしゃい。お父さんのお使い?」
「こんにちは。そうなんです。飲み物を頼まれて」
「じゃあいつもの領収書切っておくね」
「ありがとうございます。お願いします」
私が父のお使いによく来るものだから、店主も対応に慣れている。
父に頼まれたお使いを終え、帰る途中、いつもとは違う道を通ってみた。
私が住む町には、大きな川が流れている。たまにどこかの高校か大学のボート部が合宿で練習している光景を見ることもある。
不意に、河川敷の陰で本を読んでいる人を見つけ、私は思わず自転車を止める。
ブレーキ音に気付いたのか、その人も私の方を見た。
目が合ったことで、ドキリと私の心臓がうるさくなる。
七日間必死で鳴くセミと私の心臓、どっちがうるさいだろうか?
顔が火照るのは多分暑さのせいだけじゃない。
「あれ? 美優じゃん」
「……颯斗くん」
河川敷にいたのは、クラスメイトの水沢颯斗。
彼は私を見つけてニッと白い歯を見せて笑った。
颯斗くんとは、下の名前で呼び合っているけれど付き合っているとか幼馴染というわけではない。
ほとんど保育園から同じメンバー。中学も二つの小学校が合併したような感じで半分は見知った顔。そして六月くらいには全員が家族みたいな関係になるし、クラスメイトどころか同学年の名前は全員覚えてしまう。グループ間の壁や男女間の壁は低く薄く、あってないようなもの。だから異性間で下の名前で呼び合うことはここでは普通のこと。時々来る転校生も、転校翌日にはもう家族の一員として受け入れられて下の名前呼びになるのが当たり前だった。
だけど、颯斗くんから「美優」と呼ばれるとドキドキしてしまう。だって、私は彼のことが好きだから。
◇◇◇◇
私と颯斗くんは小学校が別々。中学一年の時も隣のクラスだった。
彼を知ったきっかけは委員会が同じだったこと。
一年の時に図書委員会になった私は、昼休みの図書室の貸出返却当番が颯斗くんと同じ曜日だった。昼休みに図書室を利用する人は割と少なく、暇だったので話すようになった。
「えっと……美優だったか?」
突然名前を呼ばれて、私は驚いてしまう。
「そうだけど、何で名前知ってるの?」
「いや、さっき本借りた奴にそう呼ばれてたから」
「ああ」
ついさっき友達が図書室に本を借りに来たから、私がその対応をしていた。確かにその時に名前を呼ばれた。
「美優は何で図書委員になったんだ?」
彼はきょとんとした様子だった。
「読書が好きだから」
彼の質問に完結に答えた。
「へえ、俺も。ちなみにどんな本読むの?」
彼はニッと白い歯を見せて笑う。
「ファンタジー系の小説かな。新書で入ったあの分厚いやつとか」
「ああ、あの本か。何か大人にも人気あるみたいだな」
「うん。あの本とにかく凄いよ」
読書が趣味の私は、本に関する話が出来たことが嬉しかった。
「えっと……」
当時の私はまだ別の小学校出身の子の名前を覚えきれておらず、颯斗くんの名前を知らなかったから口ごもってしまう。
「ああ、俺は颯斗。水沢颯斗。颯斗で良いよ」
彼もそんな私に気付いたみたいで、名前を教えてくれた。
「颯斗くんはどんな本読むの?」
何となく聞いてみた。
「俺は伝記とか。歴史上の人物の本が好きだな」
颯斗くんは楽しそうに話していた。
颯斗くんとは話が合って、一緒にいて心地良かった。だから、恋に落ちるのにはそんなに時間がかからなかった気がする。
図書委員の当番も、彼と話せるから楽しみになっていた。
そして二年になったら同じクラスになれて一人こっそり舞い上がったこともある。颯斗くんはクラスの中心人物をさりげなくフォローする立ち回りだということが分かって、格好良いなとも思った。
二年でも同じ図書委員会で、当番の日もまた同じになった。
彼との接点が増えて、一学期は毎日が楽しいと感じていた。
両親の離婚が決まるまでは。
◇◇◇◇
「何でここにいんの? 美優の家って真逆だったよな?」
颯斗くんは不思議そうに私を見ている。
「うん。お父さんにお使い頼まれて」
「そっか」
「颯斗くんはここで読書?」
私は日陰に入り、颯斗くんの隣に腰を下ろしてみた。
「ああ。弟が友達何人か呼んだせいでうるさくてな」
颯斗くんは困ったように苦笑していた。彼には小学四年生の弟がいる。
一人っ子の私からしたら、兄弟姉妹の存在には少し憧れがあった。
「じゃあ今家が賑やかなんだね」
「まあな」
颯斗くんはフッと笑って私から目をそらし、横に置いていたペットボトル飲料を飲む。
私達の間に流れる沈黙。
聞こえるのはやけにうるさい蝉の声と川の水流音。
少し風が吹き、颯斗くんが読んでいた本のページがめくれた。
「そういや明後日祭りだな」
ほんの少し掠れ声の颯斗くん。
「そうだね」
両親の離婚によりそれどころではない私は俯くことしか出来ない。
今年は桃果も祭りには行けそうにないみたいだし。
「美優は誰かと行く約束とかしてるのか?」
私にそう聞いてくる颯斗くん。暑さのせいか、少しだけ顔が赤くなっているように見えた。
熱中症とか大丈夫かな?
「いや、今年は約束はないよ。いつも一緒の桃果も今年は無理みたいだし」
私は何事もないように笑って答えた。平然を装えているだろうか?
「そっか。じゃあさ……一緒に行かねえ? 俺と二人で」
「え……?」
私をまっすぐ見ている颯斗くん。
何を言われたのか理解出来るまで数秒かかった。
私、颯斗くんからお祭りに誘われてる!?
しかも二人きり!?
奇跡みたいな出来事に、頭が真っ白になってしまう。鳴いている蝉以上に心臓がうるさく感じた。
「ああ、やっぱいきなりは無理だよな。悪い、忘れてくれ」
颯斗くんは気まずそうに私から目をそらして頭を掻いていた。
「……行く。一緒に行く」
私はそう答えるのが精一杯だった。
「じゃあ……明後日の午後六時、唐津神社前集合な」
「うん」
私はひたすら頷いた。
その後はふわふわとした気持ちで、どうやって帰ったのかあまり覚えていない。
◇◇◇◇
夢じゃないよねと思いつつ、颯斗くんとの約束の日になった。
「やっぱりこの浴衣は美優にぴったりだわ」
私に浴衣を着せながら、そう笑う祖母。
淡いピンクの生地に紫の朝顔柄の浴衣。祖父母に買ってもらったお気に入りの浴衣だ。
後は赤い帯を祖母に結んでもらえば完成。
「ありがとう、お祖母ちゃん」
「いいえ。あ、そうだ美優、その浴衣に合いそうな簪を持っているのだけれど、使う?」
「簪かあ……。前に使ってみようとしたらすぐに抜けちゃったからやめておく。お祖母ちゃんの簪、なくしたり壊したりしたくないし。それに、今日はヘアアレンジ自分で頑張ってみたからこれで行く」
私は自分で頑張ってアレンジした髪型を祖母に見せる。
編み込みのハーフアップにピンクの花の髪飾り。
颯斗くんと行くから少し張り切ってしまった。
「そう。今時のお洒落な髪型で素敵ね。美優によく似合う」
「ありがとう、お祖母ちゃん」
祖母に褒められ、嬉しくて自然に口角が上がる。
「今日はお友達とお祭り楽しんでね。来年も忙しくなければ是非こっちにも来て欲しいところよ。美優が来てくれるだけで私は嬉しいから」
「うん」
祖母の優しさに少し泣きそうになった。
家族に見送られながら家を出て、颯斗くんと約束した唐津神社に向かう。
途中、クラスメイトや部活の先輩、後輩とすれ違ったりもした。
町全体がお祭りモードに入っていて、いつもより賑やかな気がした。
屋台の焼きそばやたこ焼きのソースの香りが漂っている。
私、颯斗くんと本当に約束したよね……?
この髪型、変じゃないよね?
浴衣とか着てたら気合い入れてるなって思われて引かれないかな?
ウキウキした気持ちと少しの不安を抱えながら、唐津神社に到着した。
どうやら颯斗くんは既に到着していたらしい。
「お待たせ、颯斗くん。ごめんね、遅くなって」
少し急いで駆け寄ったら、颯斗くんは黙り込んでしまった。
約束の時間よりまだ少し早いけれど、結構待たせてしまったのではないかと不安になる。
「いや……俺も今来たとこだし。……美優、浴衣……似合ってる。髪型も……可愛い……」
好きな人にそう言われて、胸が高鳴らないわけがない。
颯斗くんからのその言葉が聞けただけで、全てが報われた気がするし、両親の離婚や転校の不安を忘れることが出来た。
「ありがとう」
確実に私の顔は赤くなっている。絶対に暑さのせいなんかじゃない。心臓も、いまだに鳴いている蝉の声よりもうるさい気がした。
私はまともに颯斗くんを見ることが出来なかった。
「じゃあ……屋台回るか」
「うん」
私は颯斗くんの隣に並んで歩き始めた。
バスケットボール部に所属しているからか、長身の颯斗くん。彼は歩くのが早いはずなのに、私の歩幅に合わせてくれている。
他意のない気遣いだとしても、それを嬉しく感じてしまう。
「美優、そういえばさ、今年の数学のワークの宿題、一問だけ意味分かんないくらい難しいのあるよな?」
「うん。私もその問題全然解けてない。難しいよね」
宿題の進み具合とか、お互いの部活のこととか、他愛のない話で盛り上がるけど、胸がドキドキして、変なことを言っていないか少し不安になってしまう。
その時、焼きそばやたこ焼きの暴力的なソースの香りが私達の鼻を掠めた。
「そろそろ腹減らねえ?」
颯斗くんは屋台を見てから私に問いかけた。
「うん。丁度晩ご飯の時間だもんね」
確かにソースの香りが空腹を刺激している。
たこ焼き屋、焼きそば屋、焼き鳥屋、フライドポテトと食べ物系の屋台が勢揃いだった。
「だよな。何食う? 俺たこ焼きと焼きそばと焼き鳥とフライドポテト食いたいんだけど」
「全部じゃん」
思わず私は笑ってしまう。
「でもせっかくだし全部買っちゃおっか」
「おう、一緒に食おう」
たこ焼き、焼きそば、焼き鳥、フライドポテト。
運動部に所属している颯斗くんは動くし食べ盛りなのか、見ていて気持ちが良いくらいに食べる。
私もお腹が空いてきたから、彼の隣でゆっくり焼きそばを食べた。いかにもお祭りという感じの味がした。
フライドポテトに手を伸ばしたら、丁度颯斗くんも食べようとしていたらしく、手が触れてしまう。
「あ……ごめん」
私は慌てて手を引っ込めた。
「……いや、大丈夫」
颯斗くんもフライドポテトから手を引いていた。
少しだけ沈黙が流れる。
祭りで賑わう音が、やけに大きく感じた。
「……美優、先に食ったら?」
「うん……ありがとう」
勧められるがまま、私はフライドポテトを口に入れる。
味がよく分からなかった。
そのまま私は焼きそばを食べてから缶のジュースを飲み干し、必死にうるさい心臓を落ち着かせていた。
「あのさ、美優……」
何か言いたげな颯斗。
「……何?」
私は少しだけ視線を泳がせる。どこを見て良いか分からない。
「口に青海苔付いてる」
「え!? 嘘!?」
恥ずかし過ぎる。
慌ててハンカチで口を拭って青海苔を取ろうとするけれど取れたかは分からない。
「そこじゃなくて……」
不意に颯斗くんの手が私の顔まで伸びてくる。
「ここ」
彼の手が、私の口角に触れる。
颯斗くんはそのまま私の口角に付いていた青海苔を取った。
彼に触れられたことで、私の心臓はうるさくなる。頭がパンクして何も考えられなかった。
「いきなりごめん」
颯斗くんは明後日の方を向いていた。
「……ううん、大丈夫」
そうとしか答えられなかった。
その時、ドーンと大きな音が響き渡る。
暗くなった空が明るくカラフルに光り、人々の歓声が聞こえた。
打ち上げ花火が始まった。
「始まったな、花火」
「うん」
私達は空を見上げていた。
大きな音と共に、夜空にカラフルな花が咲いて心が華やぐ。
好きな人と二人で見る花火は、私にとって特別だった。
この時間が永遠に続いて欲しいとすら願ってしまう。
「凄えな」
「うん。綺麗だね」
私達は夜空に咲くカラフルな大輪の花を夢中になって眺めていた。
終盤のクライマックスは、まるでひたすら花の雨が降り注いでいるみたい。
その迫力と美しさに圧倒されてしまった。
◇◇◇◇
「凄かったね」
「ああ、そうだな」
花火が終わり、祭りも終盤になってきた頃。
彼との時間もそろそろ終盤だから、何だか切なくなってしまう。
私達の間には、沈黙が流れていた。
彼の隣にいることが出来て嬉しい反面、少しだけ落ち着かない。
「あのさ、美優……」
颯斗くんが沈黙を破り、私の名前を呼ぶ。
その声は、少しだけ掠れているように聞こえた。
「……何?」
私は平然を装って笑う。
ちゃんと自然に笑えているか自信がない。
「俺さ……美優のことが好きなんだ」
時が止まったような気がした。私は何を言われたのか理解するのに数秒かかった。
「え……?」
今、颯斗くんは私のことが好きって言った……!?
「いきなりこんなこと言ってごめん。でも、伝えたくなった。美優が好きだって」
颯斗くんの声は真剣だった。まっすぐな彼の目は、そらしたくなる程。
颯斗くんが私を好き……。
これ以上に嬉しいことはない。
だけど……。
私の脳裏には両親の姿が浮かぶ。
「美優……? もしかして、泣く程嫌だったか?」
颯斗くんの声はしょんぼりと弱くなる。
「え……? 泣く……?」
彼が何を言っているのか分からなかった。
「だって美優、泣いてるだろ」
颯斗くんは肩掛け鞄からタオルを取り出して渡してくれた。
そこでようやく理解する。どうやら私は泣いていたようだった。
「まさか泣く程嫌われてたとは思わなかった。ごめん」
私から目をそらし、暗い声の颯斗くん。
「違うの!」
私は咄嗟に否定した。
颯斗くんが嫌いだなんてありえない。
私だって、好きだったから。
「色々考えちゃって……。あのね……私も颯斗くんのことが……好きなの」
「え……!?」
今度は颯斗くんが固まった。
「じゃあ俺ら、両思いってことか!?」
嬉しそうな、照れたような颯斗くん。
「だけど、多分上手くいかないよ」
再び涙があふれ出す。
「え……? 美優、何で? どういうことだよ?」
混乱している颯斗くん。無理もない。私は色々と正直に話すことにした。
「私、転校するの。お父さんとお母さんの離婚が決まって、お母さんの方について行かないといけない」
「え……? それ初耳だぞ……!」
「うん。今初めて言ったから」
私は俯いて黙り込む。
「美優が転校……。その、新しい家ってどこになるんだ?」
「隣の県の〇〇市」
「え……めちゃくちゃ都会だな。ここからも……そこそこ距離あるよな」
引越し先を答えたら颯斗くんは困ったように笑うしかなかった。
「本当は行きたくない。颯斗くんとも一緒にいたいし、桃果やみんなとも離れたくない。でも……どうしようもなかったの。……新しい学校が怖い。何よりも……変化が怖い」
私は気付けば本音を吐露していた。
「そっか……」
颯斗くんは黙って私の話を聞いてくれている。
今まで黙っていた分、涙が止まらなかった。
感情がぐちゃぐちゃだった。
「なあ、美優、少し歩かねえ?」
涙が落ち着いた頃、颯斗くんにそう提案された。
「……うん」
私が頷くと、「こっちだ」と颯斗くんは案内してくれた。
しばらく歩いてやって来たのは、この町でよく見慣れた海。
「美優、この海、いつもと同じに見えるか?」
不意に、颯斗くんが聞いてきたから私は頷く。
「うん。いつも通りの海に見える」
すると、彼はニッと笑う。
「実は海って毎日違うんだぜ」
ドヤ顔の颯斗くん。彼はそのまま言葉を続ける。
「俺の祖父ちゃんと父さんが漁師やってるのは知ってるよな?」
「うん。前に話してたの聞いたことある」
「祖父ちゃんと父さん、いつも言ってるんだ。海は毎日同じに見えて日々少しずつ変わってるって。毎日採れる魚の量や種類が微妙に違うんだ。二人はその変化を楽しんでる」
私は黙って颯斗くんの話を聞いていた。彼はニッと歯を見せて笑い、私の方を見る。
「確かに急な変化って怖いよな。いきなり転校とか、ここじゃない場所に引越しとか。でもさ、変化って怖さはあっても悪いことなのかって俺は思う。祖父ちゃんと父さんの話を聞いてそう思うようになったんだ」
「変化は……悪くはない……」
今までずっと後ろ向きだったせいか、新たな視点だった。
「ああ。祖父ちゃんと父さんなんか、日々海の変化を楽しんでるぞ。変化を楽しめたら最高じゃね?」
「変化を楽しむ……」
ただ不安がるだけで、不変を願うだけで、そんなこと全く考えたことがなかった。
「それにさ、俺らだって変わってるだろ。去年と比べて背が伸びたとかさ。世の中変わらねえものってないんだよ」
どうしてかは分からない。でも、颯斗くんの言葉がスッと胸の中に入って溶け込んだ。
少しだけ、不安が和らいだ気がする。
「あのさ、連絡先教えてくれたら毎日連絡する。SNSとかのアカウントも教えてくれたらいいねするし絡みに行く。休みの時とかは交通費何とかして美優に会いに行くから。だって……美優のことが好きだから」
颯斗くんの目は、どこまでもまっすぐだった。
「ありがとう。……私も颯斗くんが好き」
何となく、自然に笑えた気がする。
ここにいたい気持ちは変わらないけれど、引っ越しや転校に関しては少し前向きに見ることが出来るようになった気がした。
◇◇◇◇
八月下旬。
ついにこの町を離れる日が来た。
「美優、向こうに行っても元気でね。連絡するから」
「ありがとう、桃果。桃果も元気でね」
祭りが終わった数日後、桃果や仲の良い友達に転校することを話した。
そしたらいつの間にか学年全体にも伝わって、今日そこそこ多くの人数が見送りに来てくれた。
「美優」
颯斗くんが前に出て来る。
あの後、彼と私は付き合い始めた。
この町での思い出作りに、二人で図書館デートとかもした。
私達が付き合い始めたことは自然と広まっていたから、見送りに来た人達全員が知っている。
周囲の視線はやけに生温かい感じがして少し気恥ずかしい。
「毎日連絡するし、絶対会いに行くから」
彼のまっすぐな視線は、やっぱりドキドキしてしまう。
「うん。ありがとう。私も連絡するね」
多分私の顔は赤くなっているだろうな。
その後は、見送りに来てくれた子達と話した後、電車に乗り込んだ。
私はみんなの姿が小さくなるまで手を振り続けた。
新しい環境は少し不安だけど、頑張ろうと思えてきた。
その時、スマートフォンに通知が入る。
颯斗くんからだった。
『美優、向こうでも頑張れよ。大好きだ!』
彼のストレートな言葉にドキッとしてしまう。
だけど、たとえ遠距離だとしても彼がいてくれるなら、きっと大丈夫だと思えた。
この先も変わっていくけれど、颯斗くんのお陰で平気になれた。
どうなっていくか分からない未来に、私は胸をときめかせた。
ここで生まれた子供は保育園から中学、下手したら高校までずっと同じメンバーと過ごすと言っても過言ではない。生まれた時からほとんどずっと一緒に過ごしていたという人同士もいる。
もうそのまま幼少期から見知った者同士で高校卒業と同時に結婚することも割とあるみたい。
そういう場所で、私、一ノ瀬美優は育った。
◇◇◇◇
「美優、そろそろ荷物をまとめて引越しの準備を始めなさい。あなたは私と一緒に行くんだから」
自宅で母からそう言われて、私は憂鬱になった。
両親の離婚が決まり、母の方について行くことになった私。
両親の離婚の原因は性格の不一致と母がこの田舎町の暮らしに耐えられなくなったかららしい。
父と母は同じ都会の大学で、サークルが同じだったことにより出会った。そのまま二人は付き合い始めた。
大学卒業後も二人の交際は続いていた。父も母もしばらくは都会で働いていた。でも父はこの田舎町出身で、一ノ瀬家は従業員十人にも満たない小さな会社を経営している。だから父は数年経ったら都会の会社を辞めてこの町に戻り、会社を継ぐ準備をしていた。だから母とは少しの間遠距離恋愛になった。そしてその後、父と母は結婚した。母は結婚と同時にフリーランスのWebデザイナーになったみたいで、この田舎町に移り住み私を生んだ。でも、この町から遠い大都会出身でお嬢様育ちの母には田舎の暮らしが耐えられなかったようだ。
父はそんな母に歩み寄ろうとしていたし、一ノ瀬家側の祖父母も母に歩み寄ろうとしていた。しかし駄目だったみたいで、結果離婚が確定した。
両親の離婚と、母が私を引き取り大都会にいる南條家側(母方)の祖父母の元へ行く話を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。
確かに父と母の仲は微妙だったけど、二人共私には優しかった。祖父母も私のことを見守ってくれていた。ずっとここでの暮らしが続いていくと思っていた私にとっては青天の霹靂だ。
私は何も考えられなくなり、その後の両親の話が全く耳に入ってこなかった。
ずっとこの田舎町で育った私はこの場所しか知らない。
中学では学年全体で七十人にも満たず、全員が家族みたいな存在。仲の良いメンバーで昨日見たドラマや動画で盛り上がり、SNSに投稿されたお洒落なスポットを見ては都会に憧れつつも、このぬるま湯のような心地の良い場所で何だかんだ満足度していた毎日。
そんな日々が終わるだなんて全然予想すらしていなかった。
「お父さんの方に残ることは出来ないの?」
藁にもすがる気持ちで父に聞いてみた。
「ああ……美優、気持ちは嬉しいけど、恥ずかしい話お父さんな、お母さんより収入低いんだ。この先美優が大学進学するとなると、お母さんについて行った方が金銭的に困ることはない。ほら、南條のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんもお金持ちだし、おまけにあっちは大都会で高校の進学先もこの町よりたくさんある。美優の将来を考えたらやっぱりお母さんについて行った方が良いと思うんだ」
父は私の将来を案じてそう言ってくれていることは分かる。
確かにこの町には高校が三つしかない。しかも偏差値はどの高校も中途半端。おまけに私が住んでいる地区からは車じゃないと通いにくい。
一ノ瀬家側の祖父母も、夏休みとか冬休みに遊びに来てくれたらそれで十分だと言ってくれていた。父と祖父母との面会は制限されていないみたいだった。
こうして、中学二年の子供の私にはどうすることも出来ず、母について行くことが決まってしまった。
仲の良い友達と、心地良い学年のメンバーとの別れが嫌だ。新しい場所でのスタートが不安。
そして何よりも変化が怖い。私の意思に反して何もかもが色々と変わってしまうのが、怖い。
ただそれだけだった。
◇◇◇◇
「美優、ボーッとしてるけど、大丈夫?」
「あ……うん、大丈夫。ちょっと暑くてボーッとしてた」
部活中、ぼんやりとしていた私に話しかけたのは安藤桃果。保育園から一緒の私の親友。
「ああ、確かに。今日暑いよね。熱中症には気を付けないとだね」
桃果はフルートを片付けながら手で仰いだ。腰まで伸びた桃果のロングヘアは高い位置でポニーテールにまとめられている。
「うん。帰り自転車漕ぐの怠いかも」
私は苦笑しながらクラリネットを片付けていた。肩甲骨あたりまで伸びた髪が少し鬱陶しい季節だ。
「はい、では皆さん、暑いですからくれぐれも熱中症には気を付けて帰ること。それから、遊んだり部活を頑張るのも良いけれど夏休みの宿題は二学期が始まるまでに終わらせることね」
吹奏楽の顧問の先生が終礼でそう言い、今日の部活は解散になった。
「今日これから遊べる? 一緒に宿題やろ」
「あー、うん。数学のワーク分かんないとこあるから教えて」
「帰り図書館で涼む?」
「先輩、せっかくだし海に行きませんか?」
「あ、行きたい!」
「待って、今水着洗濯中」
「いいなー。俺も行っていい? てかバスケ部とか野球部の奴らも呼ぶ?」
部活が終わると皆晴れやかな表情で次の予定に移る。
夏休みだから基本的に部活は午前中のみ。
そしてこの町は田舎だから娯楽施設は近くにない。中学生の行動範囲内で出来ることは少し大きめのスーパーのフードコートで喋るか図書館に行くか海水浴くらい。
「美優先輩と桃果先輩も海に行きません?」
「あ、ごめん。私今日家の畑の手伝いで行けない」
後輩からの誘いを残念そうに断る桃果。桃果の家は農家で、たまに手伝いに駆り出されるみたい。
「私も家の用事があるから、ごめんね」
引越し準備がまだ終わっていない私も後輩からの誘いを断った。
親の離婚と転校のことはまだ桃果達には言えてない。学校の先生には、友達には自分から言いたいから黙っておいて欲しいとお願いしてある。
だけど、言ってしまったら本当に離婚と転校の事実から目を背けられなくなってしまう。だから今はまだ……。
「美優、帰ろ」
「うん」
私は桃果の言葉に頷いて、一緒に帰ることにした。
慣れた通学路を桃果と私は自転車で颯爽と通り過ぎる。
眩しい日差しは暑いけれど、海からくる潮風のお陰で少しだけ暑さが和らいでいる気がする。
「そういえば桃果のお祖母ちゃん、腰は大丈夫そう?」
「うん、まあ治ってはきてるみたい。今年はお祖母ちゃんが腰やったせいで夏の畑手伝いが大変になりそう」
桃果は怠そうに苦笑している。
「明後日のお祭りも今年は行けそうもないし」
桃果はむくれている。
二日後、私達が住む町では少しだけ規模が大きめの祭りがある。
夜には花火も打ち上げられるから毎年賑わっている。
「お祭りか……」
最後になるから行きたいけれど、私もどうなるかは分からない。
その後は桃果と夏休みの宿題で出された数学のワークの中に一問だけ難し過ぎる問題があったこと、昨日見つけた動画のことなど、他愛のないことを話してそれぞれの家に向かっていた。
ちなみに転校予定の中学校からは、今の学校で出された夏休みの宿題を提出するようにと指示があった。
◇◇◇◇
「ただいま……」
「ああ、お帰り、美優。暑い中お疲れ様」
少し憂鬱な気持ちで帰宅すると、父が優しく出迎えてくれた。
母は出かけている。
「あれ? お父さん、仕事は?」
「部屋に忘れ物があったから今取りに戻ってたところだ。すぐ隣の事務所に戻るけど」
工具を持った父は笑いながらそう言って事務所に向かう。
私が今生活している家の隣に父の会社があるから、休憩時間や忘れ物があった時にこうして父は家に戻って来る。
その後、私は部屋に戻って持って行く荷物や送る荷物をまとめる。
本当はずっとここにいたい。だけど私にはどうしようも出来ない。
そんな思いを抱えているせいで、荷造りのスピードは落ちてしまう。
その時、スマートフォンに連絡が入る。隣の事務所にいる父からだった。来客用の飲み物を買って来て欲しいとのこと。どうやら今は父の会社の人達全員手が空いていないみたい。こういう時にこうして私がお使いに行くことがそこそこある。
私は気分転換に父のお使いに行くことにした。
◇◇◇◇
日差しは暑いけれど、自転車で颯爽と風を受けているお陰で幾分か暑さはマシな気がした。
私は父の会社がよく使う商店へ向かう。
「ああ、美優ちゃん、いらっしゃい。お父さんのお使い?」
「こんにちは。そうなんです。飲み物を頼まれて」
「じゃあいつもの領収書切っておくね」
「ありがとうございます。お願いします」
私が父のお使いによく来るものだから、店主も対応に慣れている。
父に頼まれたお使いを終え、帰る途中、いつもとは違う道を通ってみた。
私が住む町には、大きな川が流れている。たまにどこかの高校か大学のボート部が合宿で練習している光景を見ることもある。
不意に、河川敷の陰で本を読んでいる人を見つけ、私は思わず自転車を止める。
ブレーキ音に気付いたのか、その人も私の方を見た。
目が合ったことで、ドキリと私の心臓がうるさくなる。
七日間必死で鳴くセミと私の心臓、どっちがうるさいだろうか?
顔が火照るのは多分暑さのせいだけじゃない。
「あれ? 美優じゃん」
「……颯斗くん」
河川敷にいたのは、クラスメイトの水沢颯斗。
彼は私を見つけてニッと白い歯を見せて笑った。
颯斗くんとは、下の名前で呼び合っているけれど付き合っているとか幼馴染というわけではない。
ほとんど保育園から同じメンバー。中学も二つの小学校が合併したような感じで半分は見知った顔。そして六月くらいには全員が家族みたいな関係になるし、クラスメイトどころか同学年の名前は全員覚えてしまう。グループ間の壁や男女間の壁は低く薄く、あってないようなもの。だから異性間で下の名前で呼び合うことはここでは普通のこと。時々来る転校生も、転校翌日にはもう家族の一員として受け入れられて下の名前呼びになるのが当たり前だった。
だけど、颯斗くんから「美優」と呼ばれるとドキドキしてしまう。だって、私は彼のことが好きだから。
◇◇◇◇
私と颯斗くんは小学校が別々。中学一年の時も隣のクラスだった。
彼を知ったきっかけは委員会が同じだったこと。
一年の時に図書委員会になった私は、昼休みの図書室の貸出返却当番が颯斗くんと同じ曜日だった。昼休みに図書室を利用する人は割と少なく、暇だったので話すようになった。
「えっと……美優だったか?」
突然名前を呼ばれて、私は驚いてしまう。
「そうだけど、何で名前知ってるの?」
「いや、さっき本借りた奴にそう呼ばれてたから」
「ああ」
ついさっき友達が図書室に本を借りに来たから、私がその対応をしていた。確かにその時に名前を呼ばれた。
「美優は何で図書委員になったんだ?」
彼はきょとんとした様子だった。
「読書が好きだから」
彼の質問に完結に答えた。
「へえ、俺も。ちなみにどんな本読むの?」
彼はニッと白い歯を見せて笑う。
「ファンタジー系の小説かな。新書で入ったあの分厚いやつとか」
「ああ、あの本か。何か大人にも人気あるみたいだな」
「うん。あの本とにかく凄いよ」
読書が趣味の私は、本に関する話が出来たことが嬉しかった。
「えっと……」
当時の私はまだ別の小学校出身の子の名前を覚えきれておらず、颯斗くんの名前を知らなかったから口ごもってしまう。
「ああ、俺は颯斗。水沢颯斗。颯斗で良いよ」
彼もそんな私に気付いたみたいで、名前を教えてくれた。
「颯斗くんはどんな本読むの?」
何となく聞いてみた。
「俺は伝記とか。歴史上の人物の本が好きだな」
颯斗くんは楽しそうに話していた。
颯斗くんとは話が合って、一緒にいて心地良かった。だから、恋に落ちるのにはそんなに時間がかからなかった気がする。
図書委員の当番も、彼と話せるから楽しみになっていた。
そして二年になったら同じクラスになれて一人こっそり舞い上がったこともある。颯斗くんはクラスの中心人物をさりげなくフォローする立ち回りだということが分かって、格好良いなとも思った。
二年でも同じ図書委員会で、当番の日もまた同じになった。
彼との接点が増えて、一学期は毎日が楽しいと感じていた。
両親の離婚が決まるまでは。
◇◇◇◇
「何でここにいんの? 美優の家って真逆だったよな?」
颯斗くんは不思議そうに私を見ている。
「うん。お父さんにお使い頼まれて」
「そっか」
「颯斗くんはここで読書?」
私は日陰に入り、颯斗くんの隣に腰を下ろしてみた。
「ああ。弟が友達何人か呼んだせいでうるさくてな」
颯斗くんは困ったように苦笑していた。彼には小学四年生の弟がいる。
一人っ子の私からしたら、兄弟姉妹の存在には少し憧れがあった。
「じゃあ今家が賑やかなんだね」
「まあな」
颯斗くんはフッと笑って私から目をそらし、横に置いていたペットボトル飲料を飲む。
私達の間に流れる沈黙。
聞こえるのはやけにうるさい蝉の声と川の水流音。
少し風が吹き、颯斗くんが読んでいた本のページがめくれた。
「そういや明後日祭りだな」
ほんの少し掠れ声の颯斗くん。
「そうだね」
両親の離婚によりそれどころではない私は俯くことしか出来ない。
今年は桃果も祭りには行けそうにないみたいだし。
「美優は誰かと行く約束とかしてるのか?」
私にそう聞いてくる颯斗くん。暑さのせいか、少しだけ顔が赤くなっているように見えた。
熱中症とか大丈夫かな?
「いや、今年は約束はないよ。いつも一緒の桃果も今年は無理みたいだし」
私は何事もないように笑って答えた。平然を装えているだろうか?
「そっか。じゃあさ……一緒に行かねえ? 俺と二人で」
「え……?」
私をまっすぐ見ている颯斗くん。
何を言われたのか理解出来るまで数秒かかった。
私、颯斗くんからお祭りに誘われてる!?
しかも二人きり!?
奇跡みたいな出来事に、頭が真っ白になってしまう。鳴いている蝉以上に心臓がうるさく感じた。
「ああ、やっぱいきなりは無理だよな。悪い、忘れてくれ」
颯斗くんは気まずそうに私から目をそらして頭を掻いていた。
「……行く。一緒に行く」
私はそう答えるのが精一杯だった。
「じゃあ……明後日の午後六時、唐津神社前集合な」
「うん」
私はひたすら頷いた。
その後はふわふわとした気持ちで、どうやって帰ったのかあまり覚えていない。
◇◇◇◇
夢じゃないよねと思いつつ、颯斗くんとの約束の日になった。
「やっぱりこの浴衣は美優にぴったりだわ」
私に浴衣を着せながら、そう笑う祖母。
淡いピンクの生地に紫の朝顔柄の浴衣。祖父母に買ってもらったお気に入りの浴衣だ。
後は赤い帯を祖母に結んでもらえば完成。
「ありがとう、お祖母ちゃん」
「いいえ。あ、そうだ美優、その浴衣に合いそうな簪を持っているのだけれど、使う?」
「簪かあ……。前に使ってみようとしたらすぐに抜けちゃったからやめておく。お祖母ちゃんの簪、なくしたり壊したりしたくないし。それに、今日はヘアアレンジ自分で頑張ってみたからこれで行く」
私は自分で頑張ってアレンジした髪型を祖母に見せる。
編み込みのハーフアップにピンクの花の髪飾り。
颯斗くんと行くから少し張り切ってしまった。
「そう。今時のお洒落な髪型で素敵ね。美優によく似合う」
「ありがとう、お祖母ちゃん」
祖母に褒められ、嬉しくて自然に口角が上がる。
「今日はお友達とお祭り楽しんでね。来年も忙しくなければ是非こっちにも来て欲しいところよ。美優が来てくれるだけで私は嬉しいから」
「うん」
祖母の優しさに少し泣きそうになった。
家族に見送られながら家を出て、颯斗くんと約束した唐津神社に向かう。
途中、クラスメイトや部活の先輩、後輩とすれ違ったりもした。
町全体がお祭りモードに入っていて、いつもより賑やかな気がした。
屋台の焼きそばやたこ焼きのソースの香りが漂っている。
私、颯斗くんと本当に約束したよね……?
この髪型、変じゃないよね?
浴衣とか着てたら気合い入れてるなって思われて引かれないかな?
ウキウキした気持ちと少しの不安を抱えながら、唐津神社に到着した。
どうやら颯斗くんは既に到着していたらしい。
「お待たせ、颯斗くん。ごめんね、遅くなって」
少し急いで駆け寄ったら、颯斗くんは黙り込んでしまった。
約束の時間よりまだ少し早いけれど、結構待たせてしまったのではないかと不安になる。
「いや……俺も今来たとこだし。……美優、浴衣……似合ってる。髪型も……可愛い……」
好きな人にそう言われて、胸が高鳴らないわけがない。
颯斗くんからのその言葉が聞けただけで、全てが報われた気がするし、両親の離婚や転校の不安を忘れることが出来た。
「ありがとう」
確実に私の顔は赤くなっている。絶対に暑さのせいなんかじゃない。心臓も、いまだに鳴いている蝉の声よりもうるさい気がした。
私はまともに颯斗くんを見ることが出来なかった。
「じゃあ……屋台回るか」
「うん」
私は颯斗くんの隣に並んで歩き始めた。
バスケットボール部に所属しているからか、長身の颯斗くん。彼は歩くのが早いはずなのに、私の歩幅に合わせてくれている。
他意のない気遣いだとしても、それを嬉しく感じてしまう。
「美優、そういえばさ、今年の数学のワークの宿題、一問だけ意味分かんないくらい難しいのあるよな?」
「うん。私もその問題全然解けてない。難しいよね」
宿題の進み具合とか、お互いの部活のこととか、他愛のない話で盛り上がるけど、胸がドキドキして、変なことを言っていないか少し不安になってしまう。
その時、焼きそばやたこ焼きの暴力的なソースの香りが私達の鼻を掠めた。
「そろそろ腹減らねえ?」
颯斗くんは屋台を見てから私に問いかけた。
「うん。丁度晩ご飯の時間だもんね」
確かにソースの香りが空腹を刺激している。
たこ焼き屋、焼きそば屋、焼き鳥屋、フライドポテトと食べ物系の屋台が勢揃いだった。
「だよな。何食う? 俺たこ焼きと焼きそばと焼き鳥とフライドポテト食いたいんだけど」
「全部じゃん」
思わず私は笑ってしまう。
「でもせっかくだし全部買っちゃおっか」
「おう、一緒に食おう」
たこ焼き、焼きそば、焼き鳥、フライドポテト。
運動部に所属している颯斗くんは動くし食べ盛りなのか、見ていて気持ちが良いくらいに食べる。
私もお腹が空いてきたから、彼の隣でゆっくり焼きそばを食べた。いかにもお祭りという感じの味がした。
フライドポテトに手を伸ばしたら、丁度颯斗くんも食べようとしていたらしく、手が触れてしまう。
「あ……ごめん」
私は慌てて手を引っ込めた。
「……いや、大丈夫」
颯斗くんもフライドポテトから手を引いていた。
少しだけ沈黙が流れる。
祭りで賑わう音が、やけに大きく感じた。
「……美優、先に食ったら?」
「うん……ありがとう」
勧められるがまま、私はフライドポテトを口に入れる。
味がよく分からなかった。
そのまま私は焼きそばを食べてから缶のジュースを飲み干し、必死にうるさい心臓を落ち着かせていた。
「あのさ、美優……」
何か言いたげな颯斗。
「……何?」
私は少しだけ視線を泳がせる。どこを見て良いか分からない。
「口に青海苔付いてる」
「え!? 嘘!?」
恥ずかし過ぎる。
慌ててハンカチで口を拭って青海苔を取ろうとするけれど取れたかは分からない。
「そこじゃなくて……」
不意に颯斗くんの手が私の顔まで伸びてくる。
「ここ」
彼の手が、私の口角に触れる。
颯斗くんはそのまま私の口角に付いていた青海苔を取った。
彼に触れられたことで、私の心臓はうるさくなる。頭がパンクして何も考えられなかった。
「いきなりごめん」
颯斗くんは明後日の方を向いていた。
「……ううん、大丈夫」
そうとしか答えられなかった。
その時、ドーンと大きな音が響き渡る。
暗くなった空が明るくカラフルに光り、人々の歓声が聞こえた。
打ち上げ花火が始まった。
「始まったな、花火」
「うん」
私達は空を見上げていた。
大きな音と共に、夜空にカラフルな花が咲いて心が華やぐ。
好きな人と二人で見る花火は、私にとって特別だった。
この時間が永遠に続いて欲しいとすら願ってしまう。
「凄えな」
「うん。綺麗だね」
私達は夜空に咲くカラフルな大輪の花を夢中になって眺めていた。
終盤のクライマックスは、まるでひたすら花の雨が降り注いでいるみたい。
その迫力と美しさに圧倒されてしまった。
◇◇◇◇
「凄かったね」
「ああ、そうだな」
花火が終わり、祭りも終盤になってきた頃。
彼との時間もそろそろ終盤だから、何だか切なくなってしまう。
私達の間には、沈黙が流れていた。
彼の隣にいることが出来て嬉しい反面、少しだけ落ち着かない。
「あのさ、美優……」
颯斗くんが沈黙を破り、私の名前を呼ぶ。
その声は、少しだけ掠れているように聞こえた。
「……何?」
私は平然を装って笑う。
ちゃんと自然に笑えているか自信がない。
「俺さ……美優のことが好きなんだ」
時が止まったような気がした。私は何を言われたのか理解するのに数秒かかった。
「え……?」
今、颯斗くんは私のことが好きって言った……!?
「いきなりこんなこと言ってごめん。でも、伝えたくなった。美優が好きだって」
颯斗くんの声は真剣だった。まっすぐな彼の目は、そらしたくなる程。
颯斗くんが私を好き……。
これ以上に嬉しいことはない。
だけど……。
私の脳裏には両親の姿が浮かぶ。
「美優……? もしかして、泣く程嫌だったか?」
颯斗くんの声はしょんぼりと弱くなる。
「え……? 泣く……?」
彼が何を言っているのか分からなかった。
「だって美優、泣いてるだろ」
颯斗くんは肩掛け鞄からタオルを取り出して渡してくれた。
そこでようやく理解する。どうやら私は泣いていたようだった。
「まさか泣く程嫌われてたとは思わなかった。ごめん」
私から目をそらし、暗い声の颯斗くん。
「違うの!」
私は咄嗟に否定した。
颯斗くんが嫌いだなんてありえない。
私だって、好きだったから。
「色々考えちゃって……。あのね……私も颯斗くんのことが……好きなの」
「え……!?」
今度は颯斗くんが固まった。
「じゃあ俺ら、両思いってことか!?」
嬉しそうな、照れたような颯斗くん。
「だけど、多分上手くいかないよ」
再び涙があふれ出す。
「え……? 美優、何で? どういうことだよ?」
混乱している颯斗くん。無理もない。私は色々と正直に話すことにした。
「私、転校するの。お父さんとお母さんの離婚が決まって、お母さんの方について行かないといけない」
「え……? それ初耳だぞ……!」
「うん。今初めて言ったから」
私は俯いて黙り込む。
「美優が転校……。その、新しい家ってどこになるんだ?」
「隣の県の〇〇市」
「え……めちゃくちゃ都会だな。ここからも……そこそこ距離あるよな」
引越し先を答えたら颯斗くんは困ったように笑うしかなかった。
「本当は行きたくない。颯斗くんとも一緒にいたいし、桃果やみんなとも離れたくない。でも……どうしようもなかったの。……新しい学校が怖い。何よりも……変化が怖い」
私は気付けば本音を吐露していた。
「そっか……」
颯斗くんは黙って私の話を聞いてくれている。
今まで黙っていた分、涙が止まらなかった。
感情がぐちゃぐちゃだった。
「なあ、美優、少し歩かねえ?」
涙が落ち着いた頃、颯斗くんにそう提案された。
「……うん」
私が頷くと、「こっちだ」と颯斗くんは案内してくれた。
しばらく歩いてやって来たのは、この町でよく見慣れた海。
「美優、この海、いつもと同じに見えるか?」
不意に、颯斗くんが聞いてきたから私は頷く。
「うん。いつも通りの海に見える」
すると、彼はニッと笑う。
「実は海って毎日違うんだぜ」
ドヤ顔の颯斗くん。彼はそのまま言葉を続ける。
「俺の祖父ちゃんと父さんが漁師やってるのは知ってるよな?」
「うん。前に話してたの聞いたことある」
「祖父ちゃんと父さん、いつも言ってるんだ。海は毎日同じに見えて日々少しずつ変わってるって。毎日採れる魚の量や種類が微妙に違うんだ。二人はその変化を楽しんでる」
私は黙って颯斗くんの話を聞いていた。彼はニッと歯を見せて笑い、私の方を見る。
「確かに急な変化って怖いよな。いきなり転校とか、ここじゃない場所に引越しとか。でもさ、変化って怖さはあっても悪いことなのかって俺は思う。祖父ちゃんと父さんの話を聞いてそう思うようになったんだ」
「変化は……悪くはない……」
今までずっと後ろ向きだったせいか、新たな視点だった。
「ああ。祖父ちゃんと父さんなんか、日々海の変化を楽しんでるぞ。変化を楽しめたら最高じゃね?」
「変化を楽しむ……」
ただ不安がるだけで、不変を願うだけで、そんなこと全く考えたことがなかった。
「それにさ、俺らだって変わってるだろ。去年と比べて背が伸びたとかさ。世の中変わらねえものってないんだよ」
どうしてかは分からない。でも、颯斗くんの言葉がスッと胸の中に入って溶け込んだ。
少しだけ、不安が和らいだ気がする。
「あのさ、連絡先教えてくれたら毎日連絡する。SNSとかのアカウントも教えてくれたらいいねするし絡みに行く。休みの時とかは交通費何とかして美優に会いに行くから。だって……美優のことが好きだから」
颯斗くんの目は、どこまでもまっすぐだった。
「ありがとう。……私も颯斗くんが好き」
何となく、自然に笑えた気がする。
ここにいたい気持ちは変わらないけれど、引っ越しや転校に関しては少し前向きに見ることが出来るようになった気がした。
◇◇◇◇
八月下旬。
ついにこの町を離れる日が来た。
「美優、向こうに行っても元気でね。連絡するから」
「ありがとう、桃果。桃果も元気でね」
祭りが終わった数日後、桃果や仲の良い友達に転校することを話した。
そしたらいつの間にか学年全体にも伝わって、今日そこそこ多くの人数が見送りに来てくれた。
「美優」
颯斗くんが前に出て来る。
あの後、彼と私は付き合い始めた。
この町での思い出作りに、二人で図書館デートとかもした。
私達が付き合い始めたことは自然と広まっていたから、見送りに来た人達全員が知っている。
周囲の視線はやけに生温かい感じがして少し気恥ずかしい。
「毎日連絡するし、絶対会いに行くから」
彼のまっすぐな視線は、やっぱりドキドキしてしまう。
「うん。ありがとう。私も連絡するね」
多分私の顔は赤くなっているだろうな。
その後は、見送りに来てくれた子達と話した後、電車に乗り込んだ。
私はみんなの姿が小さくなるまで手を振り続けた。
新しい環境は少し不安だけど、頑張ろうと思えてきた。
その時、スマートフォンに通知が入る。
颯斗くんからだった。
『美優、向こうでも頑張れよ。大好きだ!』
彼のストレートな言葉にドキッとしてしまう。
だけど、たとえ遠距離だとしても彼がいてくれるなら、きっと大丈夫だと思えた。
この先も変わっていくけれど、颯斗くんのお陰で平気になれた。
どうなっていくか分からない未来に、私は胸をときめかせた。