ひとまず飯マズ男は魔法樹脂に封じ込めたままの状態でギルマスのカラドン預かりとなった。
あとは冒険者ギルドの本部から引き取りに来るまで、ギルマスの執務室に安置となる。
「お腹減ったなあ〜」
飯マズ男の襲撃を予測して警戒態勢のまま一日中過ごしたが、犯人を確保できたのでもうやることはない。
食堂まで降りていくと、何やらスパイスの複雑な匂いが外の通路まで漂ってきていた。
「あら。今日はカレー?」
女魔法使いのハスミンが嬉しそうに食堂へ入っていく。
他の面々のどことなくウキウキした様子だ。
「カレーってなあに?」
配膳台の料理人のオヤジさんのところに行くと、寸胴鍋を開けて見せてくれた。
中には黄色味の強い焦茶色の、具入りのどろっとしたスープが入っている。
むわーとスパイスの香りがものすごい。
「これはカレーっていう、香辛料をふんだんに使った料理でね。夏には最高の料理だよ」
「香辛料……からい?」
強い辛味の苦手なルシウスはドキドキしたが、試しにとオヤジさんが小皿に一口分よそってくれたスープを舐めて、カッと湖面の水色の目を見開いた。
「初めて食べる味! おいしい!」
辛いけど、心地よい辛さだ。全然問題なかった。
「今日はもう食材がないから、このカレーと飯だけになっちまうんだけどね。皆には悪いね」
そう、本来ならあの飯マズ男の担当日だった今日の分の食材は、彼が余計な手を入れたせいで廃棄となってしまっている。
新しい食材の配達は明日の早朝だ。
今晩の夕飯分は何とかオヤジさんが厨房に残った食材をかき集め、冒険者たちが釣りや素潜りで獲ってきた釣果によるものだった。
それでもオヤジさんは生野菜で浅漬けやピクルスも用意してくれていた。
しかも、本来なら今日は彼の休日なのに、休み返上で厨房に立ってくれたのだ。
本当に彼には頭が下がる思いである。
さて、他の面々はカレーを知っているようだが、ルシウスは初体験である。
オヤジさんが作ってくれたのはカレーライスといって、炊き上げた米飯にカレーをかけて食す料理だった。
ライスはクミンという小さな種のスパイスとバター少々を入れて炊き上げたものに、薄切りにしたレモンのイチョウ切りを混ぜ込んだ香り高いレモンライス。
らっきょうの甘酢漬けや、福神漬けという甘辛いピクルスもどきなどはお好みで。
そこに、ニンジンやじゃがいも、ヤングコーン、ナスやトマトの夏野菜の素揚げ。
それに海老やホタテなどの貝、イカなどがふんだんに入った、ちょっととろみのあるスープがかけられている。
見た目だけならビーフシチューにも似ているが、スパイスの色なのか黄色味がかっていて不思議な匂いもする。
「カレーすき。複雑な味でおいしい」
具沢山で食べ応えがあるところも良い。
香辛料や唐辛子の入ったカレーは食べると暑くて汗が出てくる。
だが暑い真夏の炎天下での汗と違って、爽やかな汗だ。
カレー自体、食べ進めていくと気分が良くなってふわふわした気持ちになってくる。
「カレーもライスもたっぷり用意したから、たくさん召し上がれ」
とオヤジさんがウインクしながらビシッと親指を立ててくれたので、遠慮なくお代わりしまくった一同だった。
最悪、今日は夕飯もあの飯マズ男の料理だったわけで、それを考えると地獄から一気に天国まで世界が変わってきた感がある。
「ルシウス君。カレーもお兄さんたちに送ってあげたらどう?」
と二杯目のカレーライスを皿半分だけ盛って貰いながら、女魔法使いのハスミンが声をかけてきた。
彼女は普段は少食なほうだが、さすがにオヤジさん特製カレーの誘惑には勝てなかったらしい。
「オヤジさん、カレーって妊婦さんも食べて大丈夫な料理?」
「問題はないと思うね。ただ、坊主みたいに辛いのが苦手な人もいるから、甘口と中辛、二種類作ってみようか」
「お願いします!」
それで甘口をビーフ、中辛をシーフードの二種類を明日、発送用に調理してくれることになった。
皆でお腹いっぱい満足するまでカレーを食べ終えたところで、オヤジさんが厨房からデザートを持ってきてくれた。
皆の前でオヤジさんはバットの上にパウンドケーキ型を引っ繰り返した。
現れたのは、真っ青なグラデーションの美しい細長のゼリーケーキだった。
青いだけでなく、表面に金箔や銀箔を散らしていて、キラキラと光を反射している。
「おや、この色って」
目敏く魔術師のフリーダヤが気づいた。
「僕の魔力の色だあ……」
一人分数センチ幅で切り分けて、立てた形で取り皿へ。
断面図を見ると、上から濃い青色で、下に向かって淡い水色のグラデーションになっている。
淡い色合いのところに光が差し込んで、濃い青色との境目がネオンブルーに発色するよう工夫されていた。
「昼間、あの男から坊主が庇ってくれただろ? 格好良かったねえ〜。この年で胸がキュンとしちまったよ」
塩をかけられそうになったところを、ルシウスがオヤジさんを背に庇っていた。
「えへへ。格好良かっただなんて。ちょっと恥ずかしい」
「いやいや、最高に格好良いヒーローだったよ。あのとき坊主から出てた青い魔力に見惚れちまってね。シロップで再現してみたら、案外良い感じだろ?」
硬めにゼラチンで固めたゼリーはぷるぷるだ。
食べると爽やかなレモン味。
「リコさんが言ってたアロエの果汁も入れてあるんだ。身体の熱が取れるよ」
「蒼穹のような天空ゼリーね。素敵なデザートだわ」
アロエ入りでちょっぴりほろ苦いネオンブルーのゼリーは、大人の味がした。
翌日、午前中はルシウスが故郷に送る用のカレーを料理人のオヤジさんに2種類作ってもらった。
シーフードカレーとビーフカレーだ。
「坊主の故郷も食べてる米の種類は同じなんだろ? ライスは現地で炊けるようにレシピを付けておくよ」
とのことで、レシピカードにオヤジさんが数種類、カレーライス用に美味しいライスのレシピを書いてくれた。
ひとつは昨日の夕飯にも出たクミン入りのレモンライス。
ふたつめは、ナッツとレーズン入りのバターライス。
みっつめは、夏が旬のとうもろこし入りの炊き込みご飯だ。
もちろん、普通に鍋や炊飯器で白飯を炊くだけでもじゅうぶん美味しくいただける。
「どれも美味しそう〜!」
聞いているだけで涎が出そうになる。
「オヤジさん、捏ねてる生地は何になるのー?」
カレー2種類を煮込んでいる間、オヤジさんはボウルで大量の小麦粉の生地を練っていた。
イーストの匂いがするからパン生地だ。
「こっちは昼飯用だね。昨日、カレーを少し取り分けておいたのを使って揚げパンを作ろうと思って」
「あげぱん」
カレー入りの。
確かに昨晩食べたカレーは美味しかったが、揚げパンとなるとどうなるのだろう?
出来上がったカレーを5人前ずつ、ルシウスが成形しておいた魔法樹脂の保存容器に注いで、熱々で冷めないうちにさっと継ぎ目なく蓋をして封入。
週に一、二度の高価な飛竜便を無駄にしないよう、配送用コンテナに詰められるだけ詰めて毎回送るようにしていた。
カレーを詰め終わり、封入し終わった保存容器を邪魔にならないよう食堂の端にまとめると、時刻は昼前の11時頃。
厨房を覗くとオヤジさんが、丸く伸ばした生地に冷蔵庫で固めてあったカレーをのっけて包み込んでいた。
「わあ。カレーって冷やすとそうやって固まるの?」
「これは魚の煮凝りを混ぜて冷やしたやつさ。カレーパンにするにはこれが良い」
煮凝りを混ぜて冷やして固めておくと、パン生地で包みやすいのだそうだ。
煮凝りがなければコラーゲンたっぷりの手羽先や手羽元を煮込んでできたゼリーでも良い。
ルシウスが手伝いを申し出ると、慣れないと中身をきちんと包めないそうなので、今回は見学のみ。
「本当なら二日続けて同じようなメニューは避けたいんだけどね。カレー系は皆、大好きだから」
カレーを包み終わった生地は一度、冷蔵庫で休ませておく。
あとはランチ用のサラダやドリンク類、肉や魚などのソテーの準備だ。
そしてランチタイム。
パン粉を付けてこんがり揚げられたカレーパンは、ルシウスに更なる感動を教えてくれた。
「シーフードカレーパン。おいしい。すごくおいしい!」
カリッと揚げたての表面に、ふわっと柔らかな生地。
ちょっと辛口のシーフードカレーのコクがすごく合う!
「やめられないとまらない」
もっと味わって食べたいのに、オヤジさんがこれでもかと大量に揚げてくれてくれるものだから、止まらなかった。
「!!!」
3つめのカレーパンに齧りついたとき、異変に気づいた。
「は、半熟茹で卵入り!!!」
こんな隠し玉が!
濃厚なカレーに絡む、とろっと半熟の黄身。堪らなかった。
しかもオヤジさんがよく作ってくれる味玉だ!
「カレーパンすき。だいすき」
「大好き頂いちゃったねえ」
ニコニコしながらオヤジさんがまた追加で一個、取り皿に載せてくれた。
「オヤジさん、僕これもおうちに送りたいです! あと作り方も覚えたいな!」
これは絶対に覚えて、おうちに帰ったときにパパやお兄ちゃんにも作ってあげたいやつだ。
「そろそろ、おうちに帰れると思うし。覚えられるだけオヤジさんの料理覚えたいな」
「いいねえ、坊主も調理スキル持ちだもんね。良かったら俺のレシピ帳を写して持っていくといい」
「!? いいの!??」
料理人にとっての魂のようなものなのに。
「俺の故郷の料理が大半なんだ。良かったら坊主のお国でも広めてくれたら嬉しいね」
「わかった! きっと皆も大好きなごはんだと思うよ!」
その日の午後はもう、故郷の学園からの課題の勉強もそっちのけで、オヤジさん秘伝の分厚いレシピ帳を写していたルシウスだ。
お魚さんモンスター発生原因だった飯マズ男も拘束済みなので、予想通り魔物の来襲がゼロだったのも良かった。
「坊主がいなくなっちまったら、ここココ村支部も寂しくなるねえ」
脅威の集中力でレシピ帳を写しまくるルシウスに、ヨーグルトっぽい甘酸っぱいジュースを出してくれながら、オヤジさんが溜め息をついていた。
「僕はオヤジさんと離れるのが寂しいよ……。オヤジさん、アケロニア王国に来ない? リースト伯爵家の料理人になってくれるなら大歓迎だよ!」
「ダメー! オヤジさんがいなくなったココ村支部なんてもうココ村支部の意味ないから!」
ルシウスの勧誘は、冒険者たちの全力の反対にあってしまった。
「休暇でちょいっと行ける距離じゃないしねえ」
オヤジさんも嘆息している。
ココ村のあるここゼクセリア共和国は円環大陸の南西部にある。
ルシウスの故郷アケロニア王国は北西部だ。
専用の高速馬車でも一週間以上かかる。
すると薄緑色の長髪の魔術師フリーダヤが、何だそんなこと、と近くのテーブルから席を移ってきた。
「なら空間転移術を覚えようか。魔力量からするとゲンジ君は難しいね。ルシウスは問題ない」
「よし、なら環を出しましょう」
す、と聖女のロータスがいつものように指先でルシウスの額を小突こうとしたが、ルシウスはさっと避けた。
「それやー! 自分で出すから結構です!」
ロータスはルシウスの額を突くたびに、衝撃と同時に莫大な魔力を流し込んでくる。
魔力はすぐにルシウスの環へと吸収されるのだが、それまでが結構きつい。頭がグラグラする。
何十回と無理やり出させられて来たのだ。感覚は何となく掴めている。
両目を瞑り、両手を握り締めて気合い! 気合い!
「ううん……うー! ……出しました!」
「そんなに気合い入れて出すものでもないんだけどなあ」
呆れたように笑いながらも、フリーダヤが顔を真っ赤にして出したルシウスの環の中に片腕を突っ込む。
「さすがハイヒューマン、空間転移術は問題なく使えるね。大勢を同時に転移させることも可能みたいだ。……悪いことに使っちゃダメだよ。戦争とかさ」
「それ僕がアケロニア王国の貴族だってわかってて言ってるなら侮辱ですからね?」
「あれ、まだアケロニアって戦争しない国?」
「ヴァシレウス様がご存命のうちは絶対やらないと思います。この間はタイアド王国との間でヤバかったけど」
何だか集中力が途切れてしまった。
レシピ帳を返すのはいつでも構わないとオヤジさんが言ってくれたので、ちょうどお茶を飲みに集まってきたギルマスや他の冒険者たちを交えての雑談タイムとなった。
「そういえば、アケロニア王国のヴァシレウス大王って、何で“大王”なんでしたっけ?」
受付嬢のクレアが人数分の紅茶を入れてくれながら首を傾げている。
大王というのは、単純に“王”の上位職なのだが、円環大陸の中央にある神秘の永遠の国が授与する称号でもある。
そして、現在、円環大陸広しといえど、ルシウスの故郷アケロニア王国の先王ヴァシレウスのみが保持する称号だ。
「まあ偉業を讃えての授与なのは間違いないよ」
「そうだね」
と、その永遠の国所属の魔術師のフリーダヤも頷いている。
「彼の場合、確か……うん、現在79歳と高齢だから、長生きの間に延々と業績が積み重なっている。それもある」
「単純に、長い在位期間中、一度も国家間の戦争をやらなかったからですよー。もちろん、小競り合いなんかはいくつかあったみたいだけど」
それでも実際に争いが起きないよう、ヴァシレウス大王が取った手段が洒落ている。
自国や他国で開催される武術大会や魔法や魔術の大会に、自分や臣下が出まくったのだ。
本人は武術大会や武芸大会へ。
宰相や大臣、騎士団長たちはそれぞれの得意技に応じた大会へと。
「ヴァシレウス様、まだ王子だった学生時代に同級生たちとAランク冒険者証明をゲットされてるんです。本当ならSランクにも挑戦したかったけど、当時の王様だったお父上に反対されてAランクのまま」
「王族でAランクって滅多にないよな?」
「その意味でもレアケースなんだよね。強いですよー」
まだ幼かった頃のルシウスが悪戯して叱られる前に逃げようとしたときも、あの巨体と太い腕でがしっと捕まえられて抱っこされてしまう。
いくら幼かったとはいえ、ハイヒューマンで身体能力に優れるルシウスを捕まえて離さないのだから、なかなかのものだ。
ちなみに、ルシウスの父、リースト伯爵メガエリスは剣術大会、兄のカイルも魔法魔術大会に出場してそれぞれ幾つも優勝トロフィーや勲章をゲットしている。
「僕も絶対、兄さんたちと同じ大会に出て優勝するんだー。勲章たっくさん貰っちゃうんだから」
えへへと自分が将来得るだろう栄誉を想像して笑っている。
自分が負けることなど微塵も考えていない。
そんなルシウスの現在の冒険者ランクはA。
そろそろ更に上へランクアップしそうな勢いだった。
もしここココ村支部に常駐している間にSまで上がるなら、歴代最速ランクアップだ。
「つまり、俺たちゃこんなに強いんだぜヘイヘイヘーイ! ってのを見せつけて抑止力にしたわけか」
「その通り! 面白いこと考えるよね」
元々、十代の頃からかなり血の気の多い性格で、策謀大好きな気質だったと言われているヴァシレウス大王だ。
そこをあえて難易度の高いことに挑戦してみたら上手くいったということらしい。
「元から戦争やらないって決めてたらしいけど、在位20周年記念のときにご自分の在位期間中の戦争行為の停止を宣言されて。で、その直後に永遠の国からの使者が来て大王の称号を授与されたわけ」
「戦争しない王の治世なら他国にもあったけど、公式発表まで行ったのは彼だけだったみたいだね」
当時を思い返してフリーダヤが言う。
「でも実際は、険悪だった『タイアド王国以外とは』戦争しない、だったんだろ?」
「ふふふ。多分ね」
それでも70歳の大台に入って退位するまでの50年以上に渡って、小競り合い以上の争いを起こさなかった国がアケロニア王国という国だ。
戦争で疲弊がなかった分だけ国は繁栄を続けている。
「ここ数十年のアケロニアは面白いよね。どこの国の社交界で王族や貴族たちと遭遇しても、皆ピシーッとした軍服姿でさ。たまに女性たちがドレス着てるかと思ったら、あれ下に軍服着てていつでもドレスを着脱できるって聞いたときはビックリしたよ」
世界で最も有名な魔力使いの魔術師フリーダヤがしみじみ思い返している。
彼は彼なりの行動規範によって、各国を旅していることが多い。現地で周囲に正体が露呈すると請われて宴席に招かれるため案外顔が広かった。
「うち、王侯貴族や、官僚なら平民も問答無用で軍属ですから」
「戦争しないのに何で軍装にこだわるの?」
「戦争しないと決めたからと言ったって、いつ敵と出くわしたり、戦争になるかわからないじゃないですか。タイアド王国とかタイアド王国とか」
そもそもが、貴族全員を軍属にさせ、女性にも軍装を標準礼装にさせるに至った原因こそが、タイアド王国との関係摩擦だ。
王太子妃として輿入れしたヴァシレウス大王の長女クラウディア王女を粗末に扱って早死にさせたタイアド王国は、今なおアケロニア王国の敵性国家である。
軍服を纏っている間は、性別は女性でも男性と同等扱いと公示されているため、女性の礼法としてのカーテシーも行わず、男性と同じ手を胸に当ててお辞儀するボウアンドスクレープだったりする。
ちなみにアケロニア王国の軍装の貴族女性はまさに男装の麗人となるため、他国のパーティーでは若いご令嬢のダンスパートナーとして大人気だ。
背も高く、性格も顔立ちも男前のグレイシア王女様など競争率が高いのなんの。
おやつの時間になって、オヤジさんがパンケーキを焼いてくれたので、食べながらお喋りの続きだ。
「パンケーキはお国柄が出るんだよね。皆、ふくらし粉を入れた甘い生地で大丈夫かな」
「あ、僕はクレープ生地のやつが食べたい!」
「了解」
それでオヤジさんが作ってくれたのが、牛乳とミルク入りのクラシックパンケーキと、ルシウス希望のクレープタイプのパンケーキの2種類だ。
クラシックパンケーキはふっくら厚みが出るよう焼き上げた甘い生地をバターとメープルシロップで。
クレープタイプのものは、卵多めの緩い生地を薄焼きにして折りたたんだ、もっちり食感で甘くないタイプ。
こちらはジャムやクリームを添えて。
ちょうどオヤジさんが手作りしたばかりのベリーのジャムを出してくれた。
「アケロニア王国は王女様もご懐妊なんだろ? 坊主の兄貴の嫁さんより予定日がちょっと早そうだね」
おやつ希望の人数分のパンケーキを作り終えたオヤジさんが一休み、とお茶を飲んでいる。
「お生まれになったら、グレイシア王女様以来の王族の誕生だね。お祭りになるだろうな〜」
「ルシウスの甥っ子か姪っ子も同い年になるんだよな。ご学友になるんじゃね?」
「どうかなあ。今の王族の皆さんと僕の父様がすごく仲が良いから、兄さんや子供の世代はちょっと距離を置くかもしれない」
今の王家とルシウスのリースト伯爵家は何かと因縁有りの仲の良さだが、あまり親しくしすぎると伯爵家から爵位を上げられて王族派として担ぎ上げられかねない。
その辺の距離の取り方は結構重要だった。
「アケロニア王国は王朝が代わってからずっと安定した良い国だわ。近年、王政国家は腐敗した国が増えてきてるけど、あそこは王族たちの人柄も良いし」
「やっぱり神殿と関係が深い王家は長持ちするね。アケロニアの今の王家は前王家と違って、教会より神殿と密接な関係がある」
訳知り顔で聖女のロータスと魔術師のフリーダヤが頷いている。
「他国だと教会の方が組織が大きいんですっけ?」
「だいたい、その国における福祉の担当が教会だからねえ。病院や孤児院、救貧院の運営を担ってて寄付金も集まる。人々に倫理や道徳を教える集会や勉強会も開いてるけど、やっぱり資金が集まる場所はね」
人と物と金の集まる場所は腐敗しやすい。
「神殿は独立自営の組織ですからね……。けれど世界の理を追求し、神祇や儀式儀礼を執り行う優れた神官が必ずどこの国の神殿にも常駐しています」
とこちらはまた別の“神殿と関係の深い“王家”を持つカレイド王国出身のサブギルマス、シルヴィスだ。
彼は冒険者になる前、祖国では神殿所属の神官だった経歴の持ち主なのだ。
「神殿のある国は、国が神殿の規定する年間行事を儀式として行うことで、国土と人心が安定しやすいんです。特にアケロニア王国の場合、神殿の託宣に王や国民がよく従っていると聞いています」
「託宣って?」
「世界の……いわゆる永遠の摂理、真理に通じた専門の神官がおりましてね。彼らに疑問や悩みを相談すると、真理に基づいた助言を下してくれます」
へえ〜と皆が関心している。
神殿も教会も、本部は円環大陸中央の謎の永遠の国にあるが、世界を見回してみると圧倒的に教会組織のほうが各地を席巻している。
神殿に重きを置く国は少数派だ。
しかし、神殿派の国のほうが良い意味で“長持ち”である。
「神殿の託宣は、聖女や聖者らの予言や忠告と同じなのよね。基本的に外れないし、従えば良いことが起こり、反すれば相応の結果が起こる。困難や苦境にあっても従えば事態が打開されることが多いわ」
当の聖女本人、ロータスが更に詳しく説明してくれた。
「お、ならルシウスは聖者覚醒したんだし、同じスキルがあるんじゃね?」
「託宣……予言に忠告……うーん……」
食べ応えのあるクラシックパンケーキを大きな口で一気に食べ終えていたギルマスのカラドンに言われて、こちらもクレープ生地タイプのパンケーキを食べながらルシウスが唸っている。
「……ううん……確かに僕は、言ったことが現実になることが多いよ。話を聞いてくれる人には良いことが起こるし、聞いてくれない人は……はああ……」
残ったジャムごとパンケーキを食べ終え、紅茶を飲んで一息ついてから「ステータスオープン」と呟いた。
ルシウスの目の前に、ステータスウィンドウが浮かび上がる。
「これかなあ。“絶対直観”。でも絶対って書いてあるわりに、話を聞いてくれない人、結構いるんだよね」
話を聞いてくれる人の代表はおうちのパパや王族の皆さんで、聞いてくれない人の代表は亡くなったママの弟や、あと話半分なのがお兄ちゃんだったりする。
「あ、そうか。ステータス表記のテンプレート、私たちと同じものにしておこう。同じ鑑定スキル持ちでも旧世代と新世代は表記が変わるものがあるんだ」
環を出すよう言われてルシウスが腰回りに出すと、魔術師のフリーダヤがそこに手を突っ込んで何やらゴソゴソと操作していた。
「あ。絶対直観が『忠告スキル(絶対直観)』に変わった!」
「そう、お国で使ってたテンプレートはカッコ内に付記されるから安心して」
こうして、何だかんだでルシウスのスキルは増え続けている。
聖女のロータスより、この魔術師のフリーダヤは他者にスキルや教えを授けることに熱心だ。
実際、ここココ村支部の冒険者たちの中には、ルシウス以外にも新世代魔力使いの環を発現させた者がちらほら出始めている。
「忠告スキルってさ、その通りに言うこと聞けば良くなるのに、受け入れてくれない人がいるのはなぜなんだろ?」
ルシウスのそれは素朴な疑問だった。
たとえば、ルシウスの亡母の実の弟は人間性の良くない人物だったが、ルシウスの大好きなお兄ちゃんはなぜかこの叔父を慕っていた。
ルシウスは己の直観から、この母方の叔父と仲良くしないほうがいい、と幼い頃からお兄ちゃんに訴え続けるという“忠告”を続けていた。
だが、次第にこの話題を出すたび鬱陶しがられるようになってしまった。
「それは感情の問題ね。自分の中に解決できていない鬱屈がある者ほど、忠告スキル持ちの忠告を拒絶するの」
「その鬱屈を拗らせていくと、あの飯マズ男みたいになるのさ」
「感情の苦痛を誤魔化して興奮方向に向かうとあの男みたいになる。抑圧方向に行けばまた別の異常な人間になる。まともな者ほど、こういう異常者たちの被害を受けやすい」
そこから魔術師のフリーダヤが語ったことは、ある意味、魔力使いたちの根幹に触れる話だった。
「古い時代なら、魔力使いたちは今の冒険者たちみたいに魔物や魔獣と戦って倒すのが使命だったよね。でも今はああいう飯マズ男みたいな異常化した人間のほうが世界にとって深刻な問題になっている」
「え、どういうこと?」
そりゃあ、あんなタイプが身近にたくさんいたら被害は甚大だろうが。
するとフリーダヤはじろじろと、かなり不躾な視線をルシウスに向けてきた。
ルシウスの全身の魔力の流れを読んでいる目つきだ。
「あの男はさ、君みたいな聖なる魔力持ちの聖剣使いに突っかかっていたんだろ? 聖なる魔力は強い浄化作用があるし、浄化作用を持つ者は世界に調和をもたらす者だ。そんな人物に攻撃してくるなんて正気じゃない」
「そういう魔の入った者を私たちは単純に“異常者”と呼んでいる。環使いは異常者に対応できるから、新世代と呼ばれる側面があるわ」
それからも、彼らのいう“異常者”のレクチャーを受けた一同だったが、話がわかる者と、いまひとつ要領を得ない顔をした者とに分かれた。
「何にせよ、あの手の異常者に目をつけられると破壊的で破滅的な悪影響を受ける。もし近くにいたら速攻で逃げることだ」
そこでフリーダヤが話を締めようとしたところで、女魔法使いのハスミンが爆弾発言を投下した。
「あたしもねえ。あの男と同じようなことになってたことがあるのよね」
え、と皆の視線が可憐な人形のような彼女に向いた。
あの飯マズ料理人と同じようなこと、といえば、理不尽なことでルシウスに突っかかっていたようなことだろうか?
「あたしにも、ルシウス君みたいに大好きな姉……お姉様がいてね。お姉様が悪い魔力使いに誘拐されたと思い込んで、頭に血が上がっちゃって、おかしくなってしまったのよ」
「か、彼と同じということは、ハスミンさんも何かやらかしたってことですか?」
恐る恐る、受付嬢のクレアが尋ねると、ハスミンが頷いた。
「お姉様を連れ出した魔力使いの仲間を、片っ端からとっ捕まえて拷問して惨殺したわ」
「「「!?」」」
ハスミンは環使いで、師匠はこの場に二人いる。
ということは、即ち、魔術師フリーダヤと聖女ロータスのファミリーのことを指していると思われる。
「この業のせいで、なかなか環も使えるようにならなくてねえ。
いまのハスミンは面倒見の良いお姉さんだが、過去はそれなりに重いらしい。
普段の彼女からは、重苦しさを感じることはないし、今も話している内容のどぎつさのわりに、口調は軽やかだった。
「……今のハスミンさんからは想像もつかないけど、どうやって普通に戻れたの?」
素朴な疑問を抱いたルシウスに、ハスミンはあっけらかんと答えた。
「お姉様本人が助けてくれたのよ。もう頭の中が沸騰してまともな考えができなくなって暴走してたあたしに、その頃既に環使いになってたお姉様が付きっきりで治るまで看病してくれた感じ?」
「看病……そっか、異常化して暴走したハスミンさんの魔力を環で癒し続けたってことか」
既に環を発現させているルシウスには、さすがにすぐにピンときた。
「つまり、異常者は身近な者の献身があれば戻れる余地があるわけ。……でも、普通はそこまでやらないし、やれないわよね」
「あの飯マズ男に最後まで責任を持って、まともな真人間に戻してやろうって情熱、持てる?」
フリーダヤの問いかけに、一同はぷるぷると首を振って否定した。無理、絶対無理!
「あんなの、拘束して海にポイでいいじゃない」
関わるたび不快な気分にさせられたルシウスは、飯マズ男の一番の被害者だ。
実際、フリーダヤが止めなければ飯マズ男を封印したままの魔法樹脂を、今すぐにでも海にポイ捨てしたいと思っている。
「あの手の異常者の対処は、やり方だけなら簡単なんだ。大抵はものすごい我が強くて自尊心の塊だから、煽って自滅するよう持っていけばいい。ただし……」
「強い悪影響を及ぼす者ほど力が強いから、戦いは長期化しやすいわ。その間ずっと関わることになるから、こちらも消耗しやすい。最後まで倒しきるには戦略が必要ね」
フリーダヤとロータスの説明に、「確かにな……」と髭面ギルマスのカラドンがご自慢の顎髭に手を当てて考え込んでいる。
「ケンのやらかした被害の範囲は相当なもんだ。あいつが成り代わった元々の臨時料理人も結局殺害されてたことが判明してな……」
そう、そもそも飯マズ男をなぜ、ここココ村支部が食堂の臨時料理人として雇ったかの問題があった。
あの男を雇用したのはカラドン以前のギルマスなのだが、前任者に問い合わせしたことでようやく、飯マズ男が本来の臨時料理人と入れ替わっていたことが判明したばかりだった。
飯マズ男がココ村支部の食堂で、料理人のオヤジさんの代打で臨時料理人になったのは、カラドンやシルヴィス、クレアといった冒険者ギルドの責任者や職員が新たに赴任するタイミングの少し前のことになる。
前任者たちがいなくなる隙を狙って元々の臨時料理人と入れ替わったことで、他の職員や冒険者たちに怪しまれることなくココ村支部に潜入してきたわけだ。
これには料理人のオヤジさんも青ざめていた。
「お、俺がもっと早く厨房から察知した異変をギルマスに伝えていればよかったんだな……」
「いや、あの飯マズ自体がもうおかしかった。そこはギルドマスターの俺の責任だ」
飯マズ男が入れ替わった元の料理人は町の食堂の料理人で、現在は行方不明になっている。
拘束後、飯マズ男に自白を幾度か繰り返させたところ、殺害して沖合に捨てたと供述が取れている。
そちらへの対応もカラドンにとっては頭の痛いところだった。
「まあ、あの手の攻撃的でおかしな人間がいたら、関わらずにすぐ離れるのが第一。でも向こうから突っかかってくるようなら、逆に潰し返せばものすごく魔力が上がるんだよね。下手な魔物を倒すより、よっぽど効率がいい」
「「「!???」」」
とんでもないことをフリーダヤが言い出した。
「本当よ。ある種のモンスターだと思えばわかりやすいでしょ」
聖女のロータスも同意した。
「実際、異常者と化したハスミンを押さえつけて下した彼女の姉は、“時を壊す”を実現したわ。魔力使いとして莫大な力を得て覚醒したわけ」
「時を壊すって、不老不死になるっていうあれ?」
「正確には、寿命の消失ね。加齢による魔力の消耗がなくなるの」
実際、800年近く、あるいはそれ以上長い年月を生き続けているのが、いまここにいる魔術師フリーダヤと聖女ロータスなわけで。
それから数日様子を見たところ、ついにココ村海岸の砂浜に二の脚が生えた巨大なお魚さんモンスターが来襲することはなかった。
飯マズ男への尋問で、お魚さんモンスターは海の中に設置した邪悪な黒い魔石を、手元の魔石でコントロールすることで発生させていたことが判明している。
海の中に潜水するための術が使える魔術師のフリーダヤが中心となって、海底に残っていた魔石を回収していくことになった。
地元の漁師たちに協力を要請して船を出してもらい、冒険者たちで手分けして海底に降りてひとつひとつ回収していく。
魔石を素手で触ってしまうと邪悪な魔力に汚染されてしまう。
魔法樹脂で魔力を遮断できるルシウスと、聖女のロータスが冒険者たちに付いて、魔石を発見した側から封入していった。
海底以外にも邪悪な魔力の痕跡がココ村海岸に残っていた。
調べてみると、近隣に生息する動物や魔物、魔獣の死体が海岸線に沿って満ち潮でも波が来ないところギリギリの深いところに何十ヶ所にも渡って埋められていた。
あの綿毛竜の幼生の翼をむしって生贄にしたようなことを、多数行っていたわけだ。
「くそ、ケンの野郎。惨いことしやがる」
ギルマスのカラドンが毒づいた。
どの遺骸も乾燥してミイラ化していたが、苦悶の表情を浮かべているものが大半だ。
腕や脚の骨を折ったり、酷いものだと切断して身動き取れなくなった状態で砂の中に生き埋めにされて、そのまま生き絶えたものと思われる。
ルシウスが助けた綿毛竜の仔竜も運が悪ければこれらと同じ末路を迎えていたのだろう。
「すごい邪気。きもちわるい……」
生きながら砂に埋められ死んでいった魔物たちの苦しみや怨念が、埋められた場所に濃厚に漂っている。
「このままだと、この邪気に引き寄せられて新しい魔物が押し寄せてくるわね」
「かわいそうだけど、まとめて薙ぎ払って浄化します!」
ルシウスが両手の中に魔法樹脂の両刃剣を作り出した。
同時に腰回りに光の円環、環が出現する。
剣はすぐに白い光を放ち、ルシウスのネオンブルーの魔力を帯びる。
聖剣だ。聖槍や聖杖と同じで、聖なる魔力を帯びた武器や装備は基本、浄化のための道具である。
「あれ。なんか剣の感じが変わった?」
陽光燦々と降り注ぐ浜辺でも光り輝いていた金剛石ダイヤモンドの聖剣の聖なる光が、いつもより数十倍増しで輝いていて眩しい。
「る、ルシウス。それ、アダマンタイトじゃないか!」
「へ?」
いつも飄々とした感じのフリーダヤがびっくりした顔で聖剣を指差している。
アダマンタイト、即ちダイヤモンドの上位鉱物だ。
この世界でアダマンタイトは究極の浄化作用を持つレア中のレア鉱物である。
「あなたの環と連動してるわね。聖者に覚醒して環を通して、世界があなたに新しい力を授けたのよ」
「ふーん。これがアダマンタイトかあ」
見た感じ、ルシウス本人には聖者云々の自覚は薄いようだった。
それでもルシウスの出身のリースト一族は古代に、強すぎて有り余る魔力を魔法樹脂の武器に加工して、そこから今度は金剛石ダイヤモンドに性質転換したものを魔法剣として血筋に受け継いできている。
だが、強い魔力持ちとして、更なる高みを目指すことは忘れなかった。
強大な魔力をもってなお果たせなかった、ダイヤモンドの上位鉱物アダマンタイトに武器を進化させるという悲願が一族には代々伝えられてきている。
「まあ普通に使えるなら問題なし! よし! じゃあ行きますよー!」
アダマンタイトに進化した聖剣を、小柄な身体で大きく振りかぶった。
そしてココ村海岸から対岸のカーナ王国までの海を、聖なる魔力の奔流で一気に浄化していく。
ココ村海岸と海中に飯マズ男が仕掛けた邪悪な結界を、聖剣でまとめて破壊し、漂う邪気ごと強い浄化力で焼き尽くした。
超広範囲攻撃だ。
他の冒険者達もルシウスの実力はとっくにわかっていたが、一瞬だけとはいえ海を割った聖剣の威力には腰を抜かしそうだった。
「うん。これで更に様子見て、お魚さんモンスターが完全に出なくなればおしまい!」
達成感でいっぱいのルシウスが胸を張って海に向かって立っている。
後には濃厚な松葉や松脂のような香りが、ルシウスのネオンブルーの魔力と一緒に漂っていた。
「何という火力……」
「しかもこの香り。聖者の芳香ね。ここまで顕著な瑞兆が出るとは」
聖者の芳香は、聖なる魔力の持ち主に発生する聖なる現象のひとつだ。
人によって香りの種類が違う。
聖女のロータスは名前と同じ蓮の花の甘く神秘的な香りだが、ルシウスは松の樹木に似た香りが出るらしい。
ルシウスが聖剣を振るうのを後ろから見学していた伝説級魔力使いのフリーダヤとロータスは頷き合った。
「この子、このままにしておくと危ないわ。やっぱりきっちり鍛えましょ」
本人はここに至っても環や聖者の使命感への認識が薄いようだが、必要最低限の心得だけでも教え込まないと、悪意ある他者に利用されかねなかった。
幸いココ村支部は気の良い人物が集まっている。
食堂のごはんも美味しいし、申し分ない環境の今がチャンスだ。
魔術師フリーダヤが開発した光の円環、環というのは魔法と魔術の中間のような術式だ。
人間の胴体をくぐる、帯状の光るフラフープは魔法や魔術を使うためのコントロールパネルとして使える。
自分という個を超えて魔力を調達し、環使い同士で共鳴し合ったり、離れた場所からでも物品や情報のやりとりが可能になる。
空間移動の転移術もその応用だ。
この特徴から、環使いは自分の環の内部にアイテムボックスと呼ばれる保存領域を持つことが可能になる。
「倉庫3棟分のアイテムボックスとは……いやはや、破格な子だねえ」
そんな大容量の人間を見たことがないと、フリーダヤが苦笑している。
アイテムボックスは無限収納ではない。
開発者の魔術師フリーダヤの意向により、環使い本人の魔力量に応じた容量しか持てない。
元が医師の息子で魔力使いではなかったフリーダヤは庶民の家の部屋ひとつ分。
亡国の王女が出自のロータスは倉庫1棟分の容量を持つそうな。
「倉庫3棟分、お魚さん詰めなきゃ! あとオヤジさんの美味しいごはんもね!」
あまり環に興味を持っていないルシウスでも、アイテムボックス機能には大喜びした。
しかも容量がとにかく大きい。
使い方を覚えた後は、おうちから送られてきた衣服や家族の写真、おもちゃや大事なぬいぐるみ、学園の教科書や筆記用具、それに家族からの手紙ももう捨てる必要がなくなったのですべて収めていくのだった。
「俺は何を作ればいいんだい? 坊主」
「えっとね、サーモンパイでしょ、ツナマヨのおにぎりとサンドイッチ、海藻の炊き込みご飯、鯛めしも美味しかった……アサリのクラムチャウダーはマスト、海老ピラフは絶対、シーフードたっぷりのカレーは中辛でお願いします、カレーパンは多めに欲しいし、」
料理人のオヤジさんからレシピを写させてもらっていたが、やはり本人の作るごはんが一番美味しい。
「待った待った! そんなに言われても一度には作れないからね。メモにまとめてくれるかい?」
「はーい」
ルシウスがココ村支部に派遣される大元の原因の飯マズ男はもう拘束済み。
ギルマスのカラドンが頭を抱えていた巨大で二の脚が生えていたお魚さんモンスターももう出没しない。
あとはもう、おうちに帰るだけ! とウキウキしながら帰る準備をしているわけである。
明日は冒険者ギルドの本部から、飯マズ男を回収するための護送用の馬車が到着する。
そうしたら、故郷アケロニア王国に任務完了の報告をして、帰還手続きと馬車の手配をしてもらうのだ。
「あー……。ようやくケンの野郎ともおさらばだ。今日中に一階に降ろしておくか」
などとギルマスのカラドンが話していたのが昼食時のこと。
それから夕方になって、彼が3階の執務室へ向かうと、そこにあるはずの魔法樹脂に封印された飯マズ男が無くなっていた。
「お、おい! 執務室からケンを誰か下に降ろしたか!?」
慌てて冒険者たちが駄弁っている食堂に駆け込んできたが、誰も知る者がいない。
「ま、まさか……」
「逃亡……?」
「嘘だ! 僕の魔法樹脂があんな飯マズ男に解けるわけがない!」
ルシウスが叫んだ。
もしそうなら、魔法の大家リースト伯爵家の本家筋の沽券に関わる。
「くそっ、絶対有り得ないんだから!」
ギルマスのカラドンから、あの飯マズ男が消えたと聞いてルシウスは大慌てだ。
男を魔法樹脂に封印したのはルシウスなのだ。
しかもルシウスは、今ではポピュラーな術式となっているが、魔法樹脂の開発者一族の直系である。
自分が人類の古代種ハイヒューマンであることを抜きにしても、そう簡単に解けるような甘い術の掛け方などしていないはずだった。
食堂入口のカラドンの横をすり抜けて、三階のギルマスの執務室へ飛び込むように駆け込んだ。
机の脇に立てかけてあったはずの飯マズ男を封印した魔法樹脂の柱が、確かに消失していた。
部屋の中をくまなく探したが、やはりない。いない。
「フリーダヤ。探索スキルを」
「了解」
ルシウスの後を追いかけてきた聖女のロータスが、パートナーのフリーダヤに指示した。
飯マズ男を置いてあった辺りの床に、何やら水滴がいくつか飛んでいる。
「これは……あの男の唾液か。しまった、やられたな」
邪気や邪悪な魔力のこもった唾液を、聖水を染み込ませた布で拭き取り清掃してから、現場から読み取った情報を魔術師のフリーダヤが説明したところによると。
「自白させるために何度も頭部だけ魔法樹脂を解いてしまったのが良くなかったみたいだ。あの男、再び魔法樹脂に全身を封じ込められる前に口の中に唾液を溜めて、その中に魔力を溜め込んでいたんだろう」
床に飛び散っていた水滴は、そのとき用いた唾液なわけだ。
「嘘、嘘、そんなことぐらいで僕の魔法樹脂からどうやって抜け出せたっていうの!?」
「うーん……」
少し考えて、フリーダヤは自分の頭部の周りに細い光の環を出し、その表面に指先で触れた。
「現場の状況からすると、口の中の唾液に溜めた魔力を媒介として魔法樹脂の中でも意識を保ち続けていたんじゃないかな」
「最終的に周囲に人の気配がなくなったときを見計らって魔法樹脂を破壊することに成功した。そういうことね」
「そんなあ……」
魔法樹脂は中に封入した時間経過を完全に止める術式だ。
人間なら意識も内部で完全に停止するはずなのに。
しばらくして、ギルド周辺の探索に出ていた冒険者たちが、砕けた魔法樹脂の塊を回収してきた。
どうやら飯マズ男は魔法樹脂から足が付くのを恐れて、ギルマスの執務室から魔法樹脂ごと逃亡し、外で完全に脱ぎ捨てたということらしい。
「……くそ、これ僕が作った魔法樹脂だ。確かに中から崩壊している」
実検しながら悔しげにルシウスが呟いた。
「あの男、そんなに魔力が強いようには見えなかったのに」
「そこが邪悪な魔力の怖いところね。物事を破滅させる力は強いわよ」
「おのれ飯マズ男ー!!!」
ネオンブルーの魔力を全身から吹き出し、青銀の髪を逆立ててルシウスは激怒した。
人生でこんなに怒ったことはない、というぐらいの激おこだった。
「リースト伯爵家の名にかけて、次に見つけたら速攻でトドメ刺してやるんだからー!!!」
冒険者ギルドの建物が、ルシウスの魔力でみしみしと軋んでいる。
周りが必死に宥めるがルシウスの怒りは収まらない。
最終的に、食堂の料理人のオヤジさんから甘くてキンキンに冷えたレモネードを飲まされてようやく落ち着いたほどで。
こうして、6月から8月までの3ヶ月間に渡ってココ村支部に常駐してお魚さんモンスターと戦い続けてきたルシウスの活躍は、見事に台無しになったわけである。
翌日、冒険者ギルドの本部から護送用の馬車に乗ってやってきた担当者は、護送するはずの犯人が逃亡したと聞いて渋い顔になった。
「ココ村支部のギルドマスター、カラドン。早急に報告書を提出するように」
ギルマスのカラドンは管理責任を問われてペナルティが課されたようだが、ルシウスたち冒険者に明らかにされることはなかった。
恐らくは減給やそれに類する処分が下されたものと思われる。
だが、さすがに他国の工作員を一冒険者ギルドだけで対処するのは難しいと、本部でも判断されたことは幸いだった。
その後、逃亡した飯マズ男の手配書が円環大陸全土の全冒険者ギルドに掲示されることになったのだ。
これで、ココ村支部だけにかかっていた負担はぐっと減る。
そして、予算や人員を出し渋っていたココ村のあるゼクセリア共和国もさすがに重い腰を上げた。
今後は国の首脳部も、他国からの国家転覆を狙う工作員対策に動くことになる。
もう、脚の生えたお魚さんモンスターがココ村海岸に上がってくることはない。
漁船を襲う海の魔物が海中や海上だけに出没する、以前通りのココ村海岸に戻ったのだ。
以前通りなら、職員の数が少なくても、ココ村支部は普通に回る。
またすぐに、海辺のバカンス目当ての冒険者たちが戻ってくるだろうし、ココ村海岸の宿屋や民宿、海の家に飲食店なども営業を再開するはずだ。
「……僕はいつになったらおうちに帰れるの?」
食堂の端っこでしょんぼりしているルシウスは、もうすっかりやる気を失ってしまっている。
「坊主、暇ならスイカ割りでもやるかい?」
と近所の農家が朝イチで持ってきてくれた大玉のスイカを料理人のオヤジさんが指差したのだが。
「やりません」
ぷいっと顔を背けてしまった。
つれないルシウスの態度に、オヤジさんは苦笑している。
不貞腐れてしまったルシウスは、大好きだったお砂遊びも、安全になった海での海水浴にも興味が薄れてしまったようだ。
「とりあえず現状をアケロニア王国とお前さんの実家に報告して返事待ちだ。王様とパパから手紙が来るまで待っててな」
「そうそう。もしかしたら、パパが迎えに来てくれるかもしれないわよ?」
ギルマスのカラドンと女魔法使いのハスミンが宥めてくる。
そしてアケロニア王国からの手紙は2日後にココ村支部へと飛龍便で届いた。