翌日、いつの間にか寝落ちしていた私は冷たい隙間風によって起こされた。窓が閉じられているので、今が朝なのか夜なのか分からない。
眠っていた私に掛けられていたのは白色の羽織り。羽織りからは微かに柑橘の香りがする。温かい。
カタクリの羽織りだと確信したが、それにしても不思議だ。どうして起こしてくれなかったのかな?
戸は押しても引いても少しも動かない。きっと外側から鍵が掛けられている。
少し経つと、神職達が来た。手には着物やらお化粧道具を持っていた。
「あの、、、」
「生き神様、如何なさいましたか?」
「昨日言っていた儀式というのは、、、」近くにいた神職の人に聞いてみる。聞き流そうにも聞き流せなかった言葉。カタクリが言っていたお母さんの話が頭を過ぎる。
神職の人は合点したように手を叩いて言った。「生き神に選ばれし者の魂はいずれ、月峰神様に捧げられ、その御許で神になるのです」
「え、、、?」
声が震え、指先が震える。この人達はきっと私を殺そうとしている。
神職達はよく分からない笑みを浮かべて、外に出してくれた。羽織りを持ち出そうとしたが、神職達に阻まれて持ち出せなかった。
太陽は傾き、空は茜色に染まっている。
私が押し込められていたのは境内にある小屋だった。
「ご、、、ごめんなさい!」
急な衝動だった。
同時に、今しかない、と思った。
このまま連れて行かれたら確実に殺される。
逃げなくては、、、。
神職の手を振り解いて鳥居の方に駆け出す。
全力で走れば、彼らが此方に来る前に外へ逃げられるかもしれない。
「お待ち下さい!」
「誰か〜!」
神職の焦り声が迫る。追いかけてくる声と足音。
、、、あれ?地面が、目の前にある。
いつの間にか転んでしまったのだろうか、、、。
「ひ、、、!」
手だ。
沢山の手が、此方に伸びている。
早く起き上がらないと、、、。
でも、力が入らない。
視界がぐらぐら揺れている。
神職達の表情が、此方に伸ばされた手が、とても恐ろしいものに感じた。
ぞっとした。今まで私は、人間のあんな表情を見たことはなかった。
救いを求めて伸ばした手は、何も掴むことが出来なかった。
「ごめん、、、なさい」
逃げられるはずが、ない。
だって、あの手は、、、きっと。
「生き神様、ご使命を放棄してはいけません」
宮司と呼ばれた人が私を強制的に引っ張り、連れ戻される。
大人の力に子供が逆らえるはずもなく、沢山の人に連れて来られた場所は神社の奥。鎮守の杜から柵を超えてもっと奥。こんな場所があったなんて知らなかった。
奥社と呼ばれたその場所は酷く冷えている。
奥社には綺麗な水で満ちた、池があった。
ひとりの神職が私に面を被せる。カタクリがしていた面だった。
「生き神様、お手をお出し下さい」
銀色に光る小刀を持った一人の神職がそう言った。
「いっ、嫌!」
神職達が困ったように顔を見合わせ、生き神様の血を垂らさなければ、、、など小声で話している。
すると一人の神職が声を張って、ひとつの提案をした。
「生き神様、此処に飛び込んで下さいませ」神職は池の中に入るように言う。やはり感情は感じられなかった。
他の人も「そうだ、それが良い」というばかりで助けての声に聞く耳を持たない。
もう私は、逃げられない、、、
お母さんはこの地を守りたかったのだろう。
でも、人々の望みを聞き入れ、この地を守り、、、そしていずれはその人々からも忘れられていく。それは一体、どんな感じなのだろう。
「、、、カタクリ」
彼に対して心残りがある。私はまだ、自分の気持ちを伝えられていない。
ありがとうも、ごめんなさいも、まだ本人に伝えられていない。
言えないままに終わってしまう気持ち。
そんなの、酷いよ、、、。
「今まで、、、ずっと、、、ありがとう」
ずっとずっと、一緒にいた。
誰よりも側にいてくれた。
それでも、私にはどうすることも出来ない。
この気持ちに終止符を打とうと、池の中に身を投げた。
冷たい水を覚悟したが、水の感触は幾ら経ってもこない。そればかりか、誰かに優しく抱きしめてもらっている感覚がする。
恐る恐る目を開けると、そこにはカタクリがいた。
カタクリだ、カタクリがいる。
夢じゃない。幻想でもない。生身のカタクリがいる。
「、、、カタクリ!」
カタクリは水に触れるギリギリで浮いている。カタクリが浮いているので私は溺れずに済んだ。それよりも、他の人からしたら驚くだろう。浮いているんだもの。
「大丈夫だ。村の奴らからはオレ達の姿が見えていないよ」
「そう、、、なの?」
確かにカタクリは面をしていないし、なんなら私が被っている。
「ああ。遅れてすまなかった」
もう聞けないと思っていた声。
私の大好きな声。
温かい声。
「良かった、、、もう会えないかと思った、、、」
「、、、寒かったろう。神職達がアンズを探しに来ることはもうないから帰ろう。来たとしてもオレが守ってやる」
「うん。ありがとう、、、」
カタクリがいることに安心し、私はカタクリの体をを抱きしめる。それは温かくて、微かに震えていた。
(カタクリも、、、怖かったんだ、、、)
一人の男が広い山の中を歩いていた。
ハァハァと吐く息は浅く、足はふらついている。
この男―――宗一は遭難していた。
登り続けて数時間が経っているが、未だ目的地には辿り着けていない。
何時になれば辿り着くのか、本人には分からない。
「くそっ、、、何で遭難なんか」
宗一が山を登っていたのには理由があった。
宮司から「生き神として娘を受け入れらた月峰神様に感謝して、米を奉納して来なさい」と言われたからである。
正直、宗一は乗り気ではなかった。少し前、境内から山の外にいたという不思議な体験をしたからだ。
ひたすら山道を歩いているが、一向に辿り着く気配がしない。そればかりか、何時もの道を歩いているのに山奥に入っていく。
もう辺りは暗い。提灯を持って来れば良かったと後悔した。
何処からか微かに柑橘の香りがする。
「おい、そこで何をしている」
不意に、聞き覚えのある声が聞こえた。
目の前には、面を付けたカタクリが提灯を持ちながら立っていた。その明るさだけで宗一は救われる。
姿は見える。だが、宗一はカタクリに違和感を感じた。
「、、、君は一体、、、」
表情は分からない。そこに立っているように見えるが、いるのかいないのかも分からない妙な気配だと宗一は思った。、、、声も何処か遠くから響くようだ。
「言葉を話す豺とでも思うんだな」風がカタクリの羽織りと灰色の髪を揺らす。
「神社に行かなければいけないんだ。頼む!案内してくれ!」
宗一がカタクリに助けを求めたが声色ひとつ変えずにカタクリは言い放った。
「何故?」
その声は氷より冷たかった。宗一は何か言い返そうとしたが、カタクリの圧力を受けて黙った。
「お前はマヨイのことも、あの子のことも見捨てたうえ、罪悪感から逃れようと自分の娘を生贄として生き神に崇め祀った。それが罪だ」
その言葉を聞いた瞬間、宗一は何故か唐突に確信してしまった。それは、宗一が一番信じたくなかったことだった。
この少年は、月峰神だと、、、。
「ちが、、、」
「違うか?」
違う。そう反論したいのに、宗一は口を噤んだ。
言えない。言ってはいけない。
「、、、生き神として生まれた娘は、生き神の使命を果たさなければいけない、、、」
ぽつり、ぽつりと話し始める。
「とんだ戯言だな」
「、、、」
「何かを支配しようなどと愚かなことを考え、そして自分が困ったら救いを求める、、、図々しいにも程がある」
強い風が吹く。
強い柑橘の香りが辺りに充満する。
「この地から去れ」
その言葉を最後にして、宗一は意識を失った。
宗一が目を覚ました場所は村の医者の所だった。
どうやら山道で倒れているところを発見されたらしい。
奉納品の米はその場になかったと言う。
それから、宗一は村を去ることに決めた。
村人達は自分の娘が生き神として殺されたのが耐えられなかったのだろうと思ったが、宗一は月峰神から逃げる為に村を去った。
あの時の腕の痛みは覚えている。
まだ消えず、残っている 。
きっと宗一は自分の犯した罪を背負って、これからの人生を過ごすのだろう。
それから二ヶ月の月日が流れた。
その日はカタクリが古いお米を潰してお煎餅を作ると言ったので賛成した。
潰して混ぜて焼く。醤油を塗ったりすると美味しい、、、。
六畳程の厨は二人で何かすると狭いが、何故かこの狭さが丁度良い。
「千早は脱いでおくと良い。醤油が飛んだら中々取れないからな」
カタクリは私の巫女服に目線を向けた。確かに汚れたら洗濯が大変なことになる。
一旦部屋に戻り、着替える。
千早を押さえている金糸雀色の帯を取り、千早を脱ぐ。、、、そういやカタクリの愛用している帯も金糸雀色だった。
なんて考えながら長持から細長い白色の紐を取り出してたすき掛けをした。
厨に行くと丁度お煎餅を焼き始めている工程。相変わらず速い、、、。
「美味しそう、、、お腹空いた〜!」
「アンズ、醤油を塗ってくれ」
「分かった!」
私が醤油をペタペタ塗って、カタクリがひっくり返す。
「お煎餅、、、早く食べたい!」
「煎餅は逃げないからな」カタクリは声に出さずに笑う。
出来上がったお煎餅をお皿に盛っていく私の隣でカタクリは夕餉の用意。包丁で野菜達を切っっていく。「今日は肉じゃが?」野菜達を見ながら聞く。
「ああ、よく分かったな」
「やったぁぁ!!」
嬉しくてその場で飛び跳ねる。カタクリの作る肉じゃがは甘いから好きなんだよね〜。
夕餉に思いを馳せながらお皿に盛ったお煎餅を菓子鉢に入れて棚に戻した。
夕餉が終わり、各々好きなように時間を潰す。
本を読んだり手鞠で遊んだり、、、好きなようにして時間を潰す。
「なぁアンズ」
カタクリが口重そうに声をかけた。
「どうしたの?」
「アンズが拐かされて殺されそうになった時、、、怖かったんだ」目を伏せて話す。
「、、、私も怖かった、、、」
アンズは思い出した。小屋に押し込められている時、一緒にご飯を食べて、笑って、遊んで、、、その日常が当たり前ではないことに気付いたことを。
そして、そんな大切な日常を一日でも長く続いたら良いと願った。
「お前はオレのことが好きか?」
「え、、、どうゆう、、、」
「好きだ」
思考が停止した。
何かが落ちた音がした。
落ちたのはさっきまでアンズが持っていた手鞠だった。
はっきりと聞こえていたのに、頭まで届かない。
頭まで届いた途端、顔がみるみる赤くなっていく。
「え、、、カタクリが、、、私を、、、?」
「そうだ」
真剣な眼差しをしながら言ったので、冗談や反応を面白がっているのではないと分かる、、、本気だ。
カタクリは言ってくれた。だから、そこで言わないアンズではない。
「わ、、、私も好きだよ、、、って恥ずかしい!!」 アンズは頬を赤らめた。告白する時は照れないって決めていたのに、恥ずかし過ぎて顔を隠してしまった。
(だって、、、告白するの、、、初めてだもん、、、)
自分に言い訳をしていると、カタクリがそっと顔を隠した手を退かす。
「やっぱり可愛い」優しく微笑むカタクリは、今まで見てきた中で一番、幸せそうな笑みを浮かべている。
「アンズ」
「、、、!!」
「、、、愛してる」
そして、カタクリはアンズへこの世の何よりも優しい口付けを落とした。
翌日、外を見ると境内が真っ白になっていた。
雪が降ったのだ。
「カタクリ!雪だよ!」火鉢で温まっているカタクリを揺さぶる。
「あー、、、うん。そうだな」
「遊んで来る!」目を輝かせながら境内に行くと一面真っ白な雪。
嬉しくて寝間着のまま雪に飛び込んだ。
十五歳になって何しているんだろうと思ったが、気にしないでおく。
「、、、寝間着で雪の中に飛び込む奴がおるか」ため息交じりに怒られた。
雪に飛び込んだせいで寝間着はびしょ濡れ、、、すぐに着替えた。
「もう飛び込むなよ」
「気を付けます」
「はぁ、、、大きくなっても全然変わってないな」
「そうかな?」
「性格だけ見ると五歳児」
「そんな子供っぽくないよ?」
「、、、」
まるで嘘だろ、、、とでも言いたいのか無言で此方を見てきた。
そんなカタクリを放って置いて、雪を握って雪玉を作り、雪兎に挑戦する。
目は南天の実、耳は奉納されていた榊の葉。
「あれ、、、?」
雪は綺麗なのに、目の位置は揃ってないという不恰好な雪兎が出来てしまった。
実の位置を調整する為に簪で跡を付けて目印にしたのに、、、それを見たカタクリが「簪が思わぬ使われ方をしている、、、」と呟いていた。
昔から雪が降れば作っているが、何故か一度も可愛く作れた試しがない。
(その度に手先が器用なカタクリに泣きついていた記憶が、、、)
「可愛く作れない、、、」
「でも上達はしてるだろ?」
「そうかな、、、?」
「初めて作った時なんかただの雪玉だったしな」
「何歳の話?」
「お前が四歳の時」
「十一年前のこと覚えているんだ、、、」呆れて良いのか尊敬して良いのか分からない。
鎮守の杜に行くと沢が凍っていた。乗っても割れないかな?カタクリはそんな私の考えを読み取ったのか、すかさず「絶対に乗るな!割れるから」と言う。
その後、朝餉を済ませて雪遊びを始めた。
しばらく遊んでから部屋に戻ると、まだカタクリは火鉢の側で本を読んでいた。カタクリも誘ったが「オレはいい」の一点張り。
じっとカタクリを見る。
「行かないのか?」目線を本から移し、私を見る。
「一人で雪遊びはつまんない、、、から部屋で遊ぶことにした〜!」
「これ以上、外にいたら風邪引くぞ」
、、、言うと思った。
火鉢はパチパチと炭が燃える音を鳴らす。
手を近付けると冷たかった手がじんわりと温まってくる。鉄などは火の近くに置いておけば熱くなるけど、両手に嵌めてある鈴輪の鈴だけは不思議と熱くならない。
この鈴輪は十三歳の時、カタクリがお守りと称してくれた物。シャラシャラときらびやかな音を鳴らす金色の鈴はかなり好きだ。
「温か〜い」
「だな」
二人揃って火鉢の側で各自好きなことをする。カタクリは竹笛を吹いている(しかも上手)、私は鋏を取り出して紙を切り、折り紙にして遊ぶ。
「カタクリはどうして神様になったの?」
カタクリは私の出生のことや両親について話してくれたが、未だ彼自身についてはあまり話してくれない。
「、、、オレを神にしたのも人間だ」
「え、、、不本意なの?」
「当たり前だ」
カタクリはそう呟くと面を持って来た。神職が月峰神を模した面だとカタクリは言うが、あまり似ていないような、、、。
「かつて、この地の人間達は山に棲む豺を畏れ、鎮める為に土地を守る神として崇め祀った」思っていたよりも深い理由に少し困惑する。
「カタクリが何かしたの?」
「する訳ないだろ。天変地異や流行り病など、人間ではどうしようもないことを人間達は神の祟りと考え、恐れる。それらが起こった時、人間達は救いを求めて生贄を寄越してきた。それが生き神の始まりだ」
だからこの地の伝承に生き神が神になる、とは書かれていないんだね。
「生き神の始まりはもうずっと昔だ。、、、時が経てば、あらゆる物はその在り方を変える」
ずっと昔から、生き神というのは続いていた、、、。
ただ、その在り方が変わっているだけで、根本的には同じこと。
「、、、思いのままじゃないの?」そう尋ねるとカタクリは眉間を摘んだ。
「だとしたら今、オレもお前も此処にはいないだろ」
「う、、、」
「人の言葉を理解し、姿も変えたが、、、得たものより失ったのものの方が多い」きっと、失ったものという中にお母さんも入っているのだろう。
「ずっと一人で山を守って、、、寂しくなかったの?」
「オレにとって山は命に等しい。この山の神となった以上、守り続けなくてはいけない。山が滅ぶのなら共に絶える」
「そうなんだ、、、」軽々しく聞いてはいけなかった気がして、申し訳ない気持ちで頭がいっぱいになる。
「私やお母さん以外にもカタクリのことが見える子はいたの?」
「ああ」
カタクリがずっと一人じゃなかったと知れて、少し安心した。
「、、、この地で生まれた子は生後三十日程経つと、必ずこの社に連れて来られる」
「どうして?」
「初宮参りだ」
「、、、はつみやまいり?」
聞き慣れない単語だ。初めて聞いた気がする。
「この地で生まれた命を祝福するんだ」
つまり、カタクリに赤ちゃんを見せに行く、、、ってこと?
「生まれたばかりの赤子の中に、オレに気付く子は多い。それからまた一年程村で過ごし、再び社に呼ばれる。その頃にはもう殆どの子はオレを見ることはないが、、、マヨイやお前のように、ごく稀にその力を持ち続けることがある」
カタクリは一体、何人の子と出会い、さよならをしてきたのだろうか。
随分前に問われたあの言葉が蘇る。
『置いて逝く側と置いて逝かれる側、どちらが辛いんだろうな』
そういうことだったんだ、、、。
「この地から出た生き神の子はいたの?」
「いない」さらりと、でも悔しそうに言った。
きっと、私みたいに外に興味を持った子はいたはず。それに、カタクリは生き神の使命を哀れんでいるのだろう。それなのに、どうして、、、。
「この地で使命を果たすことを、当然だと受け入れる生き神の子も少なくなかった。そのような子を外に出してやったとして、果たして一人では生きていけないだろう」
「、、、」
「生き神の力を持った子供は山に招かれ、、、やがてこの山で死に、神とされる。土地を守る為のその犠牲が人には分かりやすく、、、人は信仰を厚くする。だが人はすぐに忘れる。見えないものを信じ続けるのも難しいのだろう。信仰心が薄れると土地は荒れる。土地が荒れると人々は救いを求める、、、そしてこの地に生き神が生まれる」
「犠牲と信仰、、、?」
「人の信仰心というのは、そういうものだ」
何かを犠牲にして信仰心を保っている。よく理解出来ていないのに、カタクリはそう言っているような感じがした。
それからまた月日が流れ、桜の花が咲き誇る時期になった。
「桜が咲いたね〜」
「花見も良いな」
「やった〜!」
境内にそびえ立つ満開の桜の木。地面は散った花びらで埋め尽くされている。
風が枝を揺らす。花びらが数枚散り、地面に落ちる。
「もう十六年か、小さかったお前も随分と大きくなった」
「うん」
私は昨日、誕生日を迎えた。
境内しか知らない世界。知り合いなどいないし親もいない暮らし。それでも、カタクリがいるから頑張れたんだと思う。
「カタクリ、ありがとう」
「こちらこそ」ふわり優しい笑みを浮かべるカタクリ。
カタクリは優しい神様だ。
沢山の人々に寄り添い、願いを聞き受けてきたのだろう。全てを叶えることは出来なくても、、、。
この山で生まれ、この山で育った。、、、きっと本当に小さな世界だ。
それでも此処は私にとって大切なものが沢山ある。
此処から見える外の景色は私を悲しい気持ちにさせたけど、同時に愛しい気持ちにもさせた。
カタクリがいて、美しい山も綺麗な水も、、、大切なこの場所にいたい。
「お母さんには私達が見えてるかな?」
「きっと見えてるよ。そして笑ってるだろうな」
「そっか、良かった!」
拝啓、お母さん。桜が舞い散るこの日に私は、生まれ育った大好きな山でカタクリと共に自分の人生を歩んで行こうと思います。
オレが守る山に、一人の女性が連れて来られた。
女性というには若く、少女というには大人びている、、、そんな子だった。
女性はオレに気付いた子だろう。そして神職によって『生き神』と崇められたということは火を見るより明らかだった。
山に招かれた女性の名はマヨイと言った。背中まで伸びた黒髪に華奢な体を包んだ巫女服は彼女を一段と綺麗にする。
「お初にお目にかかります、マヨイと申します。この度は大変、名誉なお役目を仰せつかりました。どうぞ、よろしくお願い致します」
「、、、」
頭を下げて静かにそう言うマヨイに、初めは可哀想な子だと思っていた。神職はマヨイを殺し、いずれ神へと仕立て上げる。
頭を上げ、オレを見る。赤みがかった瞳に映るのは希望か、絶望か、、、果たしてどちらだろうか?
「貴方が、月峰様ですか?」
「、、、ああ」
「この地を守ってくださり、ありがとうございます」
「、、、」
そうして、マヨイとオレの生活が始まった訳だが―――。
「マヨイ、、、お前はこのままで良いのか?」
「え?」
聞けば村に夫がいるらしく、腹には子供が宿っていると言うのだ。
「、、、大丈夫です。あの人は私の自慢の旦那様ですし、この子もきっと元気に産まれてきます」
「そうか、、、」
マヨイの朝は思ったより遅い。
何度声をかけても中々起きる気配がない。気が付けば自分で起きているが、、、。
生き神の子はオレの言葉をキき、それを神託として村の者を導く、、、呆れる程変わらない生き神と神職の関係。
「ありがとうございます生き神様。どうかこの村を末永くお守りください」
「、、、はい」
「、、、、、、」
上辺だけの感謝の言葉。どうせ儀式が行われたらじきにマヨイのことも忘れるだろうに、、、。
「お前は、どうして助けを求めない」
「、、、え?」
意図せずに口から出た質問。
オレが今まで見てきた生き神の子達は、外の世界に強い興味を持っている子が大半を占めていた。中には外と通じていると知ってからか、度々奥社に出入りする子もいた。だが、結局神職に感付かれ、外に出してやることは叶わなかった。
マヨイが招かれて何ヶ月経っただろうか。一度もマヨイはオレに助けを求めなかった。
外の世界を知っていながら、どうして此処に留まるのか、オレには理解出来なかった。
「このままこの地に残っていたらいずれ死ぬぞ」
少し圧力をかけて脅すが嘘も偽りもない、ただの現実だ。
「、、、でも、その為に生きてきましたから。祖母は何時も、貴方は月峰様と縁を結んでいるから、生き神の使命を果たしてほしいと言っていましたし、、、」
この子の祖母はかなり信仰心が強かったな。
この子もまた、生き神の使命に囚われているのだろう。
「マヨイ、、、此処から出たいか?」
「!!」
それでも、聞いておきたかった。
「お前が本当に望むのならオレは力を貸してやる」
「でも、、、」
「一度出れば、もう帰ることは許されない。それでも此処から出たいか?お前の意志で決めたのならそれで良い」
「私は、、、」
本人が望まないとオレが何を言っても意味ないだろう。だが、伸ばされる手があるなら掴みたい。
「でも、、、そうしたら村の人々は、、、」
「どうしたいのかよく考えるんだ。他の誰でもない、お前自身のことだ。そこに誰かの意志は介入しない。お前は、お前の好きに生きれば良い」
「子供の頃は良かったです。遊び呆けていましたから」
そういやマヨイは幼い頃に家族もろともこの地を出て、数年前祝言を挙げる為に戻って来たんだったな。
あの両親は自分の娘が生き神として選ばれたことを知っていた。だから殺されないようにこの地を出たのだろう。
「、、、でも、このお腹にいる子が元気に生きてくれるのなら私はどうなっても幸せです。例え、私が死んでしまっても、、、」
この子は自分の子に全てを託した。希望も、夢も、自由も、今まで自分が出来なかったこと、これから自分がしてみたかったことを託したのだろう。
膨れるお腹をさすりながら微笑む彼女の瞳は光が宿っていた。
「かなり大きくなったな」
「もうすぐ産まれてくれるなんて、、、早くこの子に会える日が待ち遠しいです」微笑みながら膨らんだお腹を撫でるマヨイ。
「月峰様、この子は無事に産まれてきてくれるでしょうか?」
「きっと、無事に産まれてくるよ」
生まれたばかりの子はとても弱い。『七つまでは神のうち』という言葉があるように、七歳未満の子は何時も死と隣り合わせで、死んでいく子も珍しくはない。今は行なわれることが少なくなったが、昔はこの社で水子供養が行われることもあった。
「、、、あの男は一度も来ていないな」
マヨイが山に招かれてからかれこれ六ヶ月程が経ち、季節は冬になっていた。その間、一度も夫という男は社を訪れない。初めの方は普段落ち着いているマヨイでも、そわそわしながら男が来るのを待っていたが、今は「きっとあの人も忙しいから、、、」と自分に言い聞かせている。
神職は最近何も起こっていないから社を訪れない。恐らく腹にいる子供のことも知らないだろう。この調子だと儀式の日まで訪れなさそうだ。
「月峰様」窓から外を見ていたマヨイが思い出したように言った。
「もしも、私が役目を放棄し、山の外に出たとしたら、、、この山はどうなってしまうのですか?」
「、、、、、、、」
『生き神に選ばれし者の魂はいずれ、月峰神様に捧げられ、その御許で神になるのです。その使命が果たされなければ月峰神様は荒み、、、やがて山を地を、人を祟るでしょう。、、、どうか我々に正しき道を示し、この地を守る神とおなり下さい』マヨイが山に招かれた時、宮司が言っていた言葉。思い返しても反吐が出そうだ。
「お前が気にすることではない」
「、、、でも」
どうしたら良いのか分からない瞳でオレを見る。「初めから何も知らなければ、選んだことにも捨てたことにも気付かなかったのでしょうか?」
目を伏せ、何処か遠くの方に目を向ける。
「生まれた時から此処にいれたら良かった、、、」
オレは何も言ってやることが出来なかった。ただ、マヨイを哀れみ、胸を痛ますことしか出来なかった。