塾の夏期講習をサボるのは
これで5度目だ。
僕が無断欠席をすれば
あの人に塾から連絡が届くことになっている。
その度にあの人は
わざわざ僕を探しに来る。
夏期講習をサボるのには
理由がふたつある。
ひとつめは。
あの人の前では
いつも優等生を演じてしまう僕の
小さな反抗だ。
「夏期講習だけでも行ってみたら?
夏期講習が良かったら、
大学受験までずっと通って良いからね。」
塾に行かなくても大丈夫だよ。と言った僕に
あの人はそう言いながら笑った。
そんなことになったら
あの人にもっと無理をさせてしまう。
無理して笑わせてしまうことになる。
ー僕らの両親の葬儀の日。
僕があの人の手を握り、
「僕は姉ちゃんと一緒にいたい。
姉ちゃんが良い!!」
そう言ったせいで
あの人は入学したばかりの高校を辞めた。
働きながら僕と妹弟たちを育てるために。
その日以来、
あの人は無理して笑うようになった。
僕があの人から青春を奪ってしまったんだ。
だから、
もうこれ以上、あの人が僕のせいで
無理をしないように。
ーそして、
もうひとつの理由は。
あの人と2人きりで過ごせる
特別な時間を作るため。
あの人がゆっくりと近づいて来る。
僕が精一杯の勇気を振り絞って
「かわいいね。」と褒めた
黄色のロングスカートを
風に揺らして。
楽しそうに「暑いね。」と
顔を手で扇ぎながら、
ゆっくりと僕の右隣に腰掛ける。
吐息が聞こえそうな
少し動けば触れてしまいそうな距離で。
僕は平静を装って
参考書に目を落とす。
風が運ぶ、甘いムスクの香り。
緊張で、呼吸の仕方さえ忘れそうになる。
「はい。これ。」
顔を上げると
天然水のペットボトルが差し出されている。
「夏空の好きなやつ。」
「ありがとう。」
水滴のついたペットボトル。
キャップを開けて、
口に含むと生ぬるい。
それでも僕にとっては宝物。
日向に置くと
ペットボトルはキラキラと光り、
地面に影を伸ばす。
「なんでサボるの?
夏期講習。」
僕は誤魔化すように
参考書にまた目を落とす。
「ごめん。
今日はちょっと気が乗らなかっただけ。」
掠れた声でそう呟く。
「じゃあさ。」
俯いた視界の片隅で
あの人のセミロングの髪が
はらりと風に靡くのが見えた。
「これから夏期講習、
サボらず全部行ったら、
お姉ちゃんとデートしない?」
ハッと参考書から顔を上げ、
あの人を見る。
あの人は右手に頰を乗せ
覗き込むように微笑んでいた。
一気に体温が上がる。
顔が赤くなっていることが
自分でも分かるくらいに。
「それ。
本気で言ってる?」
戸惑うように訊ねる僕に
「フフフッ。
冗談だよ。
やっぱり、夏空は可愛いね。
可愛い私の弟だよ。」
あの人は揶揄うように笑った。
あの人にとって僕は
可愛い弟。
それ以上でもそれ以下でもない。
ただ、
今の僕は
あの人の弟でいることでしか
隣にいることができない。
「ねぇ、夏空。
…私の弟になってくれてありがとね。」
あの人は微笑み
僕の頭を優しく撫でた。
ほんの少し、哀しい顔をしながら。
だから僕は
また、期待してしまう。
「じゃあ。
頑張ってね!
夏期講習。」
そう言いながら走り去ろうとする
あの人を呼び止める。
「待って!姉ちゃん。
これ!」
トートバッグに隠しておいた
ミルクティーのペットボトルを
慌てて手渡す。
「ありがとう!」
そう言ってあの人は、
笑顔で僕に手を振る。
「またね。」って。
遠ざかる
あの人に聞こえない声で
こう呟く。
「またね。
…清夏。」
僕たちが初めて出逢った日から
しばらくして、
僕たちは家族になった。
僕の初恋のあの人は
僕の姉になった。
ーあの日、
〝姉弟は結婚出来ない。〟
そう知ってしまったあの日から
ずっと心に閉じ込めてきた
一番伝えたい想いを。
僕は《もうすぐ》伝えるつもりだ。
好きだ。って。
あの人がまた、
心から笑えるように
今度は僕があの人を支えていく。
弟としてではなく
一生、ずっと隣を歩いていく。
〝あの約束を果たすために。〟
ペットボトルの天然水を一気に飲み干す。
僕たちが初めて出逢った日に交わした
あの約束を想い出しながら。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -ഒ
『清夏。
僕たち《おとな》になったらさ。
結婚しようよ。』
『うん!』
まだ幼いあの人は嬉しそうに笑っていた。
これは夏空の初恋のお話。
夏空の初恋〈𝐹𝒾𝓃〉
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -ഒ
これで5度目だ。
僕が無断欠席をすれば
あの人に塾から連絡が届くことになっている。
その度にあの人は
わざわざ僕を探しに来る。
夏期講習をサボるのには
理由がふたつある。
ひとつめは。
あの人の前では
いつも優等生を演じてしまう僕の
小さな反抗だ。
「夏期講習だけでも行ってみたら?
夏期講習が良かったら、
大学受験までずっと通って良いからね。」
塾に行かなくても大丈夫だよ。と言った僕に
あの人はそう言いながら笑った。
そんなことになったら
あの人にもっと無理をさせてしまう。
無理して笑わせてしまうことになる。
ー僕らの両親の葬儀の日。
僕があの人の手を握り、
「僕は姉ちゃんと一緒にいたい。
姉ちゃんが良い!!」
そう言ったせいで
あの人は入学したばかりの高校を辞めた。
働きながら僕と妹弟たちを育てるために。
その日以来、
あの人は無理して笑うようになった。
僕があの人から青春を奪ってしまったんだ。
だから、
もうこれ以上、あの人が僕のせいで
無理をしないように。
ーそして、
もうひとつの理由は。
あの人と2人きりで過ごせる
特別な時間を作るため。
あの人がゆっくりと近づいて来る。
僕が精一杯の勇気を振り絞って
「かわいいね。」と褒めた
黄色のロングスカートを
風に揺らして。
楽しそうに「暑いね。」と
顔を手で扇ぎながら、
ゆっくりと僕の右隣に腰掛ける。
吐息が聞こえそうな
少し動けば触れてしまいそうな距離で。
僕は平静を装って
参考書に目を落とす。
風が運ぶ、甘いムスクの香り。
緊張で、呼吸の仕方さえ忘れそうになる。
「はい。これ。」
顔を上げると
天然水のペットボトルが差し出されている。
「夏空の好きなやつ。」
「ありがとう。」
水滴のついたペットボトル。
キャップを開けて、
口に含むと生ぬるい。
それでも僕にとっては宝物。
日向に置くと
ペットボトルはキラキラと光り、
地面に影を伸ばす。
「なんでサボるの?
夏期講習。」
僕は誤魔化すように
参考書にまた目を落とす。
「ごめん。
今日はちょっと気が乗らなかっただけ。」
掠れた声でそう呟く。
「じゃあさ。」
俯いた視界の片隅で
あの人のセミロングの髪が
はらりと風に靡くのが見えた。
「これから夏期講習、
サボらず全部行ったら、
お姉ちゃんとデートしない?」
ハッと参考書から顔を上げ、
あの人を見る。
あの人は右手に頰を乗せ
覗き込むように微笑んでいた。
一気に体温が上がる。
顔が赤くなっていることが
自分でも分かるくらいに。
「それ。
本気で言ってる?」
戸惑うように訊ねる僕に
「フフフッ。
冗談だよ。
やっぱり、夏空は可愛いね。
可愛い私の弟だよ。」
あの人は揶揄うように笑った。
あの人にとって僕は
可愛い弟。
それ以上でもそれ以下でもない。
ただ、
今の僕は
あの人の弟でいることでしか
隣にいることができない。
「ねぇ、夏空。
…私の弟になってくれてありがとね。」
あの人は微笑み
僕の頭を優しく撫でた。
ほんの少し、哀しい顔をしながら。
だから僕は
また、期待してしまう。
「じゃあ。
頑張ってね!
夏期講習。」
そう言いながら走り去ろうとする
あの人を呼び止める。
「待って!姉ちゃん。
これ!」
トートバッグに隠しておいた
ミルクティーのペットボトルを
慌てて手渡す。
「ありがとう!」
そう言ってあの人は、
笑顔で僕に手を振る。
「またね。」って。
遠ざかる
あの人に聞こえない声で
こう呟く。
「またね。
…清夏。」
僕たちが初めて出逢った日から
しばらくして、
僕たちは家族になった。
僕の初恋のあの人は
僕の姉になった。
ーあの日、
〝姉弟は結婚出来ない。〟
そう知ってしまったあの日から
ずっと心に閉じ込めてきた
一番伝えたい想いを。
僕は《もうすぐ》伝えるつもりだ。
好きだ。って。
あの人がまた、
心から笑えるように
今度は僕があの人を支えていく。
弟としてではなく
一生、ずっと隣を歩いていく。
〝あの約束を果たすために。〟
ペットボトルの天然水を一気に飲み干す。
僕たちが初めて出逢った日に交わした
あの約束を想い出しながら。
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『清夏。
僕たち《おとな》になったらさ。
結婚しようよ。』
『うん!』
まだ幼いあの人は嬉しそうに笑っていた。
これは夏空の初恋のお話。
夏空の初恋〈𝐹𝒾𝓃〉
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