君に出会うまで、誰かをこんなに好きになったことはなかった。
 溺愛なんて言葉は幻想にすぎない。そう思ってた。
 だけど私は今、初恋に溺れている。





 重い楽器ケースを持ち、夕陽がギラギラと差し込む広い教室に入る。
 楽器ケースを開けると、夕陽に照らされるせいで可視化された埃がぶわっと舞った。
 私はその埃まみれになった空気を吸い込みたくなくて、息を止める。
 苦しい。
 まるでプールで溺れているみたい。
 一ヶ月前に中学校に入学して憧れて入ったはずの吹奏楽部なのに、放課後のこの時間が息苦しい。
 私は窓の外の景色を眺めながら、今日も学校から借りた古いホルンを組み立てる。
 ベルをくるくると回していると緑青で手が汚れた。
 本当はトランペットがやりたかった。
 私はトランペットをやるために吹奏楽部に入ったのだ。
 それなのに、希望していなかったホルンを任されてしまった。
 私の中学の吹奏楽部は部員が少なく、ホルンは私だけだ。先輩もいない。
 今日も、一人ぼっちの練習だ。
 こんなことになるのなら、最初から期待なんてしなきゃよかった。
 それはいつの日か恋愛漫画で読んだ、実らずに散った片思いのようだった。
 憂鬱な気持ちでマウスピースに息を吹き込むと、歪な振動音が鳴った。まだ上手く鳴らすことができない。マウスピースを楽器に差し込み、右手をベルの中に入れると、すうっと息を吸い込み、唇を震わせた。
 トランペットの音色とはかけ離れた柔らかな、輪郭の丸い音が教室に響いた。
 あーあ。
 隣の教室からトランペットの音が聞こえてくる。
 気が付くと涙で視界が滲んでいた。
 どんどん涙が止まらなくなり、息が乱れてくる。私は溺れるようにしゃくりあげた。
 苦しいよ。
 これからは何かに期待するのはやめよう。
 自分が傷つくだけだから。
「大丈夫……?」
 え……?
 顔を上げるとそこにはスポーツブランドのロゴが描かれたプールバッグを持った髪の濡れた男子がいた。
「な、何しに来たんですか」
 緑青の付いた手で涙を拭いたくないから、私は泣いた顔を見られないように俯いてそう尋ねた。
「忘れ物取りに来たんだ。ここ俺のクラス」
 そうだ。ここは一年三組の教室だ。部活の時間だけ借りているのだから、そのクラスの生徒が入ってくるのもおかしくない。
「それってトランペット?」
 濡れ髪の彼は無邪気な笑顔で私に尋ねた。
「ホルンだけど」
 私が無愛想にそう答えると、彼はその無邪気な笑顔のまま目を輝かせた。
「へえ! 初めて聞いた!」
「……私ホルン好きじゃない」
「そうなの?」
「うん。本当はトランペットがやりたくて吹奏楽部に入部したの」
「どうして?」
「トランペットは音が目立つから、コンサートでお客さんに見てもらえそうだなって」
「そうなの? 俺がもしコンサートに行ったら、君がホルンを吹いている姿をすぐに見つけると思うけどね」
 濡れ髪の彼はそう言って笑った。
「まあまあ、そんなことはいい。何か曲吹いてみてよ」
「……まだ何も吹けない」
「じゃあ何でもいいから音出してみてよ。俺に聞かせて」
 仕方ないな、と私はホルンを構え息を吹き込んだ。息が安定せず、ふらふらと音が揺れてしまう。私はロングトーンと呼ばれる、音を真っ直ぐに伸ばす奏法が苦手だ。すぐに息が足りなくなってしまい、マウスピースを唇から離した。
 まだ人に聴かせられるほど吹けないよ……。
 私は恥ずかしさで消えそうになっていると、
「綺麗だね」
と濡れ髪の彼が私の目をじっと見つめて呟いた。
 あれ、心臓が……。
 何だろうこれは。
 今までの苦しさとは違う苦しさ。
 なんというか、心地良さのある苦しさ。

 その苦しさの正体に気付きそうになり、私はハッとする。 

 溺れてはいけない。
 勝手に期待して傷つくのはもうしたくない。

「ごめん、私練習しなきゃ。練習サボってるところ他の部員に見られたらまずい」
「そうだよね。ごめんね邪魔して。あ、俺の名前は蓮。ちなみに水泳部。君の名前は?」
「私は梨香。一年五組」
「いつもこの教室で練習してるの?」
「そうだけど」
「また、会えたらいいね。じゃあね」
 濡れ髪の彼、いや、蓮……くんが教室から出ていった。

 また、会えたらいいね。

 ……このままだと、溺れてしまいそう。





 それから部活中に蓮くんが教室に来ることはなく、中学生活初めての夏休みがやってきた。

 君に出会うまで、誰かをこんなに好きになったことはなかった。
 溺愛なんて言葉は幻想にすぎない。そう思ってた。
 だけど私は今、初恋に溺れている。

 蓮くんの私を見つめたあの目を思い出して頬を熱くしていると、廊下から誰かの足音が聞こえてきた。足音がどんどん近づいてくる。
 その足音の正体は蓮くんだった。
「蓮くん……?」
 久しぶりに会った蓮くんは涙を流していた。
「溺れるのが怖い」
 蓮くんはそう言うと、私が練習している場所の近くの席に座り、机に突っ伏した。
「何があったの……?」
 私がそう尋ねると、蓮くんは机に突っ伏したまま弱々しい声で話し始めた。
「俺、水が怖いんだ。幼稚園の頃プールで溺れかけたことがあって。水を克服するために水泳部に入った。だけどやっぱり怖くて……」
 蓮くんの声がどんどん弱々しくなっていく。
「二十五メートルすらも泳げないなんてかっこ悪いよな」
 そんなこと……!
 そんなことないよ。
 私は思わず真剣な眼差しで蓮くんを見つめていた。
「かっこ悪くなんかないよ」
「え……?」
「頑張ってる蓮くんは、かっこいい」
「梨香さん、ありがとう」
「……梨香でいいよ?」
「梨香、ありがとう」
 どきんと心臓が跳ねた。
 溺れてしまわないように、深呼吸をした。
 落ち着け、私の心臓。
 しかし、そう心の中で唱えても、鼓動は速くなるばかりだ。
「俺、夏休みの最終日に先輩に泳ぎを見てもらうことになってるんだ。目標は二十五メートル泳ぎ切ること」
「……! 何時から?」
「十時から」
「あのね、私もその日の十時からロングトーンのテストがあるの。ロングトーンって言うのは長い間息を入れ続けて吹く奏法のこと」
「そうなんだ! ……梨香、一緒に頑張ろう」
「うん、頑張ろ!」
「……部活が終わったらさ、一緒に帰らない?」
「もちろん、帰りたい」
 
 こんなの言われたら期待しちゃうよ。

 私へ。溺れちゃダメだからね?




 私はその日の部活が終わったあと楽器倉庫に残って初めて楽器の手入れをした。今まで汚いって思っててごめんね、と心の中でホルンに語りかけながらクロスでホルンを丁寧に磨き続けた。
 気が付くと磨き続けて三十分が経っていた。
 私は、ふうっと息を吐き汗を拭う。
 全ての緑青を取ることはできなかったが、手入れ前と比べるとかなり綺麗になった。
 ホルンが夕陽に照らされてピカピカと光る。
 勝手に嫌っていたホルンだけど、よく見るとホルンって可愛い形をしているんだな。
「なんだかカタツムリみたいな形」
 私はくすくすと笑った。

 その日の帰り道、通学路で蓮くんに会った。
「梨香! 今日もおつかれさま! ……って、大丈夫?」
 蓮くんが私の顔を覗き込んでくる。
「何が?」
「くちびる」
「ん?」
「血出てる」
 ポーチから鏡を取り出し確認すると唇が少し切れて血が出ていた。
 蓮くんはリュックの中からごそごそと何かを取り出すと、
「手出して」
と言った。
 私が右手を差し出すと、そこにリップクリームが置かれた。
「これ貸す」
「え?」
「唇、テストの日まで治さないと」
「私、リップクリーム持ってるよ?」
「いいよ、明日まで持っときな。お守り」
「あ、ありがと」
 蓋を開けるとメントールのスースーとした香りが鼻をついた。
「え、本当に使っていいの?」
「いいよ」
 だって、こんなの間接キスじゃん! と私は叫びそうになったが蓮くんは何も気にしていないようだった。
 こんなに意識しているのは私だけなのか。
 なんだかそれも少し寂しい。
 ん?
 寂しい?

 私、自分の気持ちにはっきり気付いてしまったかもしれない。






 夏休み最終日がやってきた。ポケットには前に蓮くんから借りたリップクリームが入っている。これがあれば大丈夫。今朝も塗ってきたから。
 私はポケットに手を入れてお守り代わりのリップクリームをこっそり握った。

「次は梨香さん、お願いします」
 金管セクションリーダーのトロンボーンの先輩が私を音楽室に呼んだ。
 三階に位置している音楽室の窓からはプールが見えるのだが、先輩と向かい合うとプールに背を向けることになってしまう。
 音が、蓮くんに直接届かないじゃないか……。
 そう思った時私はハッとあることに気が付いた。 
「先輩、お願いします」
 私はホルンを構え、息をすーっと吸い、チューニングの音を鳴らした。
 蓮くん、届いて!
 必死の思いで息を吹き込んだ。
 大丈夫。ホルンだから、届く。
 ホルンはトランペットと違ってベルが後ろ向きなんだ。
 だから直接蓮くんに届く。
 ホルンでよかった。
 ホルンが好きだ。

「梨花さん、合格です」
「え!」
 私は思わず声を上げてしまった。
「しっかりとした息を吹き込めているし、それに……」
 先輩は私の目をじっと見て言葉を続けた。
「楽しそうに吹いていた。ホルンが好きなのが伝わってきた」
 ホルンを好きになれている自分に驚きだった。
「梨花さん、楽器を吹くのに一番大事なのは楽器を愛する気持ちよ」
 そして先輩が、ふふ、と笑って、
「私もね、入部した時はトロンボーンじゃなくてトランペットがやりたかったの」
と言った。
「先輩もだったんですね」
「うん。でも今はトロンボーンが大好き。梨花さん、好きという気持ちは大切にした方がいいよ」

 好きという気持ちは大切にした方がいいよ。

 この言葉が私の体に浸透していった。

 もう自分の気持ちをごまかさない。
 私は蓮くんのことが好き。





 部活が終わり、蓮くんと待ち合わせしている校門前に行くと、蓮くんがタオルで濡れた髪を拭きながら立っていた。私に気が付くと、おーい、と手を振ってくれた。
「梨香おつかれ! どうだった?」
「無事合格できたよ!」
「おー! おめでとう!」
「リップクリームのおかげかも」
「本当だ。唇治ってる。綺麗」
 蓮くんが私の唇をじっと見つめてくるものだから恥ずかしくて顔を背けてしまう。
「このリップクリームあげるよ」
 どきん、と心臓が跳ねる。
「え、そんな、いいよ!」
「いらないならあげない」
「やっぱ欲しいかも……」
「じゃああげる」
「ありがとう」
 そして私は、あのね、と続けた。
「……ホルンのこと、好きになれたかも」
「それはよかった! ホルンの音聞こえてたよ。水の中に入る直前に、梨香のホルンの音が聞こえたんだ」
 ……!
 私は言い表せないほどの嬉しさでいっぱいになった。
「梨香の音を聞いた瞬間、怖さがなくなったんだ。水の中の世界は綺麗だったよ」
 蓮くんが出会った日のような無邪気な笑顔を浮かべた。
「二十五メートル、初めて泳ぎ切った!」
「おめでとう……!」
 私は気が付けば目に涙を浮かべていた。
 蓮くんの前髪からは水が滴り落ちた。
 蓮くんが目を擦った時、その水分は涙だと知った。
「俺、もう怖くない」
 私は、うん、うん、と頷いた。
「梨香のおかげだ。本当にありがとう」
 涙が止まらない。
「あのね、私も溺れるのが怖かったの」
「溺れるのが?」
「うん……」
 心臓が速くなる。
 頬が熱い。
 頬の熱が伝わって、全身が熱い。
「あのね」
 もう、溺れるのは怖くない。
 例え傷つくことになったとしても、それでも伝えたい。
「蓮くんのことが好きです」
 ……言ってしまった!
 心臓のドキドキが耳まで伝わる。
「好きでいちゃダメだと思ってた。溺れたらダメだと思ってた。でも無理だった。私はもう蓮くんが好きすぎて溺れてるよ……」
 梨香、と呼ばれ顔を上げると優しい笑顔の蓮くんがいた。
「もう、溺れるのを怖がらなくていいよ。大丈夫」
 蓮くんはそう言い、息をすうっと吸い込むと私の目をじっと見て言った。
「俺も梨香のことが好きだから」
 




 溺れることが怖かった私たちは夏の終わりに両思いになった。
 空はすっかり暗くなって、星が浮かんでいた。
「梨香、そろそろ帰ろっか」
「うん」
「家まで送ってく」
「ありがとう……!」
 蓮くんが私を見て微笑む。その笑顔にときめいてしまう。顔が熱い。
 溺愛、って言うと恥ずかしいけど私は蓮くんのことが大好きで、蓮くんも私のことを大好きでいてくれている。
 両思いというものはこんなにも幸せなものなのか!
「梨香」
 蓮くんがそっと手を差し出してくる。
「うん」
 私は蓮くんの手を取り、優しくぎゅっと握る。
 私のドキドキが蓮くんに伝わる。
 蓮くんのドキドキが私に伝わる。
 幻想じゃなかったね。
 だって私今、溺れるように素敵な恋をしているから。