心結side



それは、家に向かって帰っていた、何気ない雨の日のこと。



蒸し暑さに苛立ちながら、俺は首に下げた一眼レフのカメラを左手で支え、右手で傘を持って歩いていた。



スマホの画面には16:00と表示されている。



ふと視線を右にやる。



そこに映った、荒々しい波を立てながら過ぎゆく川の水は、自身を追う敵から必死に逃げようともがいているかのようだ。



我先にとでも言わんばかりに、一際大きく波を立てているところが一部。



その波を目で追っていると、反対側の河川敷に1人の女性が見えた。



どんな服を着ているのか、ここからでは細かくは分からないが、ゴウゴウと音を立てる風に、スカートの裾をヒラつかせていた。



傘もささずに……何してるんだ?



そう疑問に思った時、ある1つの答えが俺の頭をよぎった。



いや、流石に……な、そんなわけ。



そうは思うものの、足が勝手に動き出していて、気づけば川の上にかかる大きな橋を渡りきっていた。



階段を降り、女性まで距離8メートルといったところ。



俺と同じくらいの年齢に見える彼女は、淡い青色のワンピースを雨に濡らしながら、静かにそこに佇んでいた。



どうやら、ヒラついていたのはスカートの裾ではなく、ワンピースだったようだ。



腰あたりまである長い髪はとても艶やかで、雨水が滴っている。



そして。



彼女の瞳には色が、光が、映っていなかった。



どこかで、人は絶望したら瞳の色を失うと聞いたことがある。



彼女は今、まさにその状態なのだろう。



でも、その怖いくらいに不気味で、悲観せざるを得ない姿……しかし彼女の佇まいからほんの少し滲み出る嫋やかさが、涙が溢れるほど綺麗で。



紫陽花みたいだ……



そして俺は思ってしまった。



雨水が踊る地面に傘を置き、



早く残さなければ……と。



「パシャッ」



そう言って響いたのは、雨水が跳ねる音ではなく、一眼レフカメラのシャッター音だ。



いつもなら撮ってすぐ写りを確認するが、今はそんなことそっちのけで、彼女に近寄り声をかける。



“本当の自分”を偽って。



「何してるんですか」



彼女は少しの間を置いて、ゆっくり振り返った。



そっぽを向いていた瞳が、俺を真っ直ぐ見つめている。



色と光を失っているにも関わらず、その眼差しには圧倒される。



長いまつ毛に守られている黒曜石のような瞳が、この世の何よりも美しく思えたからだ。



「……誰」



たった二音。



初めて聞いた彼女の声は、これ以上ないほど透き通っていた。



同い年くらいに見えたため、敬語はなしにしよう。



「え?あ、“僕”は小園心結。先月で18歳になったかな」



18歳になったって……名乗り方おかしくない?



そんなどうでもいいこと、言われたって困るだけだろ。



と自分でも違和感を持ちながら、彼女の問いに答えた。



彼女は名乗るつもりはないようで、また質問をしてくる。



「それで、小園心結くん。どうして私に声をかけたの?見たら分かるよね、私がこれからしようとしてること。それなのに声をかけたってことは、何かしてくれるの?それとも自殺なんかやめろって、ただ喚くだけ?」



自殺という単語に、心臓が大きく跳ねる。



……この人も、俺と同じなのか。



俺は今まで、数え切れないほどたくさん自殺しようとしてきた。



それでも生きているのは、死ぬ前に撮った写真を見返そうと思いフォルダを開き、毎度「あの写真」が流れてきて、自殺を先延ばしにする、なんてことを繰り返しているからだ。



今まで、期待という名の重圧と、教育という名の罵詈雑言を浴びせられて生きてきた。



それでもなんとか、今も俺の心臓は動いている。



「自殺を止める、か。しないよ、そんなこと。いや、出来ないって言ったほうが正しいかな」



「……どうして?」



「僕も、自殺しようとしたことがあるからだよ」



「……どうして」



「自分の好きなものを否定されて、全部を無かったことにしてしまいたかったから。辛い気持ちを無くせるなら、嬉しい気持ちだって全部、喜んで捨ててやるって……」



「たったそれだけのことで……」



その言葉が、俺に突っかかる。



「ダメだよ、それは。自分が1番辛くなきゃ嫌だよね。でないと、自分の弱さに押しつぶされそうになるから。でも、それだけは絶対に言っちゃダメ。他人と不幸を比べるなんて、それほど醜いことはないよ」



その言葉に、彼女はショックを受けたような表情を浮かべる。



「……なたに、あなたに何が分かるって言うの!?私の生きがいの小説を認めてもらうどころか、触れることすら許してもらえなくて!……もう、私は……っこの世界に意味を感じない……っ」



彼女は、その場に座り込む。



その姿は、見ているだけでも痛々しい。



ドラマの演技など比にならないほど絶望に満ちた声色が、俺の耳にまとわりついて離れない。



見えない蜘蛛の巣に引っかかった時のような不快感を覚える。



「……分かるよ。君の感じている絶望が、どれ程のものなのかは分からないけど、分かるよ。僕も、そうだから」



自殺は止めないものの、境遇が似ているからか、死んで欲しくないと強く思う。



今まで鮮明に見えていたはずの夢への道が、突如として崩れたら、誰しも下を向いてしまだろう。



かく言う俺もそうだ。



そんな俺が言えたことではないが、凛律には前を向いて欲しいと思った。



こんなことを思ったのは、生まれて初めてだ。



凛律は俺の言葉に謝る。



「……そう、なの。ごめんなさい、本当に。小園くんも、同じように苦しんでいるのに……」



反省している様子の彼女が、少し可愛かった。



「気にしてないよ。だから気に病まないで。自殺は止めないよ。その代わり、君が川に身を投げる前に、聞いて欲しい話があるんだ。聞いてくれる?」



彼女は頭の上にハテナを浮かべながらも頷いてくれた。



「ありがとう。立ったままだけど、せめて傘に入ろう?」



そう言って、先程まで地面に置かれていた傘を拾い上げ、彼女に手渡す。



「ありがとう……でも、これじゃ小園くんが濡れてしまう。一緒に入ろう、傘」



「!わかったよ」



少し照れくさそうに言う彼女。



綺麗なだけで感情がない人形とは違う。



彼女は正真正銘人間だ。



ただ少し、道に迷ってしまっただけ。



再び俺が傘を持ち、もう既にビショビショだけど、最大限彼女が濡れないようにする。



「僕が10歳の時。父の弟……僕の叔父がガンで亡くなってしまって。父が叔父の家の片付けに行くというから、俺は車の中でそれが終わるまで待ってたんだ……」



あの時の記憶を丁寧に思い出しながら、俺は過去を今に伝え始めた。



2時間ほど待っていた僕は、その頃人気だったアニメのDVDにも飽きてしまった。



車から出るなとは言われていないし、と頭の中で言いわけをしながら、僕は叔父の瓦屋根の家へと足を踏み入れた。



家の中ではなく、僕は庭へ向かった。



そこには松の木が2本生えていて、小さな池には鯉が4匹いた。



鯉を少し眺めたあと、縁側に置いてあったあるものに目が止まった。



「……花」



フォトフレームに入れられた1枚の写真には、ある花が写っていて。



後ろには「Seika」と叔父の名前が書かれていて、その写真は叔父によって撮られたものだと分かった。



名前も知らない花の写真を見て、俺は思わず涙が出た。



自分でもなぜ泣いているのか訳が分からなくて、混乱しながら泣いたんだ。



ただただ、薄っぺらい長方形の中で静かに、それでいて堂々と咲き誇る純粋な色をしたその花が、あまりにも無垢で。



土から生えているのに汚れを知らない様子に、僕はしばらく見惚れていた。



気がついたのは、庭にいる僕の存在に気がついた父に声をかけられた時。



時計を見ると、僕は5分ほどその写真を眺めていたようだった。



家に帰り調べると、その花はクジャクソウであることが分かったんだ。



花言葉は、美しい思い出、悲しみ、一目惚れなど、他にも色々あるらしい。



夜ベッドに入ってもあの衝撃がずっと忘れられなくて、しばらくは眠れなかった。



「それから僕は、叔父の撮るような写真が撮りたくて、誕生日にカメラを買ってもらって、趣味でよく写真を撮るようになったんだ。空、海、花、虫、人。心を動かされたものをとにかく色々」



肩が触れるまでほんの10センチ。



彼女は隣で黙って聞いてくれている。



今彼女は、どんな顔をしているのだろうか?



気になりながらも話を続ける。



「毎日生きているのが楽しかった。写真に収めたいと思うものが、そこらじゅうにあったから。退屈な日なんて1日もなかった。でも、強制的に親に中学受験をさせられることになってから、両親は変わった。カメラで遊んでいる暇なんてないと、中学受験が終わるまで、ずっとカメラを取り上げられてたんだ。僕には地獄同然の日々だったよ」



写真を撮ることが楽しみだった俺からカメラを奪われたら、毎日が暇で仕方がなかった。



「毎日できる限りの時間勉強をさせられ、自殺しようと思ったこともあった」



その言葉に彼女はピク、と反応する。



「1年後、中学受験に合格して、親に懇願してカメラを返してもらったんだ。あの時は嬉しかったなぁ。その日は一日中写真を撮ったよ。でも高校に上がってからは、前よりカメラについて口うるさく言われることが増えて。ちゃんと勉強しろ、将来いい職に就けって、いい大学出てそれなりに稼いでる父には特に言われた。それをきっかけに、僕は……」



「ねぇ」



俺の言葉を遮って、彼女はこんなことを言ってきた。



「疲れない?その話し方」



「………え」



「話し方だよ。もしかして自覚ない?すごく苦しそう」



自覚がない?



むしろその逆だ。



自覚は嫌というほどある。



意図的にしていた偽ったトーンの話し方が、今や自然となり、「正しく話せなくなった」から。



そして、俺がこれから言おうとしていたことは、まさにその話し方のことなのだ。



俺は驚きを隠せない。



「周りの人に気が付かれたのは君が初めてだよ。そう、
僕はうまく話せなくなった。声のトーンから遊んでいると理不尽に怒られ、勉強の量が増やされる。ほんとおかしい。ありのまま話せていないことに気がついたのは、俺が大好きな犬が歩道を散歩してたとき。いつもなら飼い主に言って触らせてもらうのに、心のどこかで話してはいけないと思って言葉が出なかった」



あれは、人生で一番悲しくて悔しい出来事だった。



ちゃんと話せない俺は、人間の仲間はずれにされた気がしたから。



「僕は自分のことが怖くなって、鏡の前で鏡に映っている自分に話しかけて練習してみた。それで今の話し方になったんだ。そういう辛い出来事があって僕が自殺をしようとする時は、写真が好きだから、今まで撮ってきた写真を見返すんだ。その時に、叔父のクジャクソウの写真を見ると、もう少し生きてみよう、って思えるんだ。夢を思い出させてくれるような存在が、君にはない?」



その問いかけに、彼女は下を俯く。



よく見えないが、彼女は悔しそうな表情をしていた。



でも、どこか愛おしそうでもあり、何かを思い浮かべていることは明らかだった。



その“何か”が、彼女にとっての夢を思い出させてくれる存在なのだろう。



「……小説が、大好き。小説が唯一、私を照らしてくれる光。信じてくれないと思うけど、私結構人気な小説家なの。私の小説に感動した、救われたって言ってくれる人がたくさんいる。これからも、小説を書いていくつもりだった。なのに……」



「信じるよ」



彼女の正面に立ち、目を真っ直ぐ見て言う。



「君の瞳を見たらわかる。痛いくらいに辛くて、でも、愛する人を見つめるみたいだ」



「っ!……わたし、小説が大好きなのにっ。もう、書けなくなってしまった……っ」



彼女は、親から夢を応援されなかったのだろう。



そして、大好きな小説の執筆が行えなくなった。



自殺もしたくなる。



なぜなら、それは生きる目的を見失ったも同然だから。



彼女は俺と環境が似ている。



だから、彼女の感じている苦しみが痛いほど伝わってきて、胸が張り裂けそうになる。



そんな俺が、今彼女にしてあげられることとは。



「小説を諦めてもいいの?それは後悔がないと言い切れる?残された君の作品たちは、どうなるの?」



「……!」



何度も言うが、俺は自殺を止めはしない。



その代わり、「生きる」を続ける理由を、思い出させる。



まだ、手遅れではない。



叔父のように、生きることを望んでいても、それが叶わない人だっているのだ。



健康な体があるだけでも、恵まれている。



そのことに気がついてから、俺は現実に向き合うことを決めた。



でもそれは、父の言いなりになるということではなく、もちろん自分の夢を叶えるという強い意志のもとにある。



「私の、作品……」



彼女は、何か大切なものを思い出したかのように、パッと顔を上げて、焦った表情で俺を見つめる。



彼女の瞳に、心做しか一瞬だけ光が灯った気がした。



そう、現実が厳しいなら厳しいほど、たまには夢を見ることが必要だ。



現実逃避が上手くなってしまったら、スポットライトを浴びても、拍手が送られてくることはないのだから。



「君の作品が、泣いてしまうよ?」