写真は、風景だけで言葉を伝える、言わば手紙だ。
そこにある喜怒哀楽、抽象概念、心理描写……
それらは全て、言葉になる。
誰かに寄り添い、突き放し、包み込む。
見る立場の心を痛いくらい締め付けて離さない。
かつて見たそんな写真を、“俺”は追い求めている。
心結side
それは、家に向かって帰っていた、何気ない雨の日のこと。
蒸し暑さに苛立ちながら、俺は首に下げた一眼レフのカメラを左手で支え、右手で傘を持って歩いていた。
スマホの画面には16:00と表示されている。
ふと視線を右にやる。
そこに映った、荒々しい波を立てながら過ぎゆく川の水は、自身を追う敵から必死に逃げようともがいているかのようだ。
我先にとでも言わんばかりに、一際大きく波を立てているところが一部。
その波を目で追っていると、反対側の河川敷に1人の女性が見えた。
どんな服を着ているのか、ここからでは細かくは分からないが、ゴウゴウと音を立てる風に、スカートの裾をヒラつかせていた。
傘もささずに……何してるんだ?
そう疑問に思った時、ある1つの答えが俺の頭をよぎった。
いや、流石に……な、そんなわけ。
そうは思うものの、足が勝手に動き出していて、気づけば川の上にかかる大きな橋を渡りきっていた。
階段を降り、女性まで距離8メートルといったところ。
俺と同じくらいの年齢に見える彼女は、淡い青色のワンピースを雨に濡らしながら、静かにそこに佇んでいた。
どうやら、ヒラついていたのはスカートの裾ではなく、ワンピースだったようだ。
腰あたりまである長い髪はとても艶やかで、雨水が滴っている。
そして。
彼女の瞳には色が、光が、映っていなかった。
どこかで、人は絶望したら瞳の色を失うと聞いたことがある。
彼女は今、まさにその状態なのだろう。
でも、その怖いくらいに不気味で、悲観せざるを得ない姿……しかし彼女の佇まいからほんの少し滲み出る嫋やかさが、涙が溢れるほど綺麗で。
紫陽花みたいだ……
そして俺は思ってしまった。
雨水が踊る地面に傘を置き、
早く残さなければ……と。
「パシャッ」
そう言って響いたのは、雨水が跳ねる音ではなく、一眼レフカメラのシャッター音だ。
いつもなら撮ってすぐ写りを確認するが、今はそんなことそっちのけで、彼女に近寄り声をかける。
“本当の自分”を偽って。
「何してるんですか」
彼女は少しの間を置いて、ゆっくり振り返った。
そっぽを向いていた瞳が、俺を真っ直ぐ見つめている。
色と光を失っているにも関わらず、その眼差しには圧倒される。
長いまつ毛に守られている黒曜石のような瞳が、この世の何よりも美しく思えたからだ。
「……誰」
たった二音。
初めて聞いた彼女の声は、これ以上ないほど透き通っていた。
同い年くらいに見えたため、敬語はなしにしよう。
「え?あ、“僕”は小園心結。先月で18歳になったかな」
18歳になったって……名乗り方おかしくない?
そんなどうでもいいこと、言われたって困るだけだろ。
と自分でも違和感を持ちながら、彼女の問いに答えた。
彼女は名乗るつもりはないようで、また質問をしてくる。
「それで、小園心結くん。どうして私に声をかけたの?見たら分かるよね、私がこれからしようとしてること。それなのに声をかけたってことは、何かしてくれるの?それとも自殺なんかやめろって、ただ喚くだけ?」
自殺という単語に、心臓が大きく跳ねる。
……この人も、俺と同じなのか。
俺は今まで、数え切れないほどたくさん自殺しようとしてきた。
それでも生きているのは、死ぬ前に撮った写真を見返そうと思いフォルダを開き、毎度「あの写真」が流れてきて、自殺を先延ばしにする、なんてことを繰り返しているからだ。
今まで、期待という名の重圧と、教育という名の罵詈雑言を浴びせられて生きてきた。
それでもなんとか、今も俺の心臓は動いている。
「自殺を止める、か。しないよ、そんなこと。いや、出来ないって言ったほうが正しいかな」
「……どうして?」
「僕も、自殺しようとしたことがあるからだよ」
「……どうして」
「自分の好きなものを否定されて、全部を無かったことにしてしまいたかったから。辛い気持ちを無くせるなら、嬉しい気持ちだって全部、喜んで捨ててやるって……」
「たったそれだけのことで……」
その言葉が、俺に突っかかる。
「ダメだよ、それは。自分が1番辛くなきゃ嫌だよね。でないと、自分の弱さに押しつぶされそうになるから。でも、それだけは絶対に言っちゃダメ。他人と不幸を比べるなんて、それほど醜いことはないよ」
その言葉に、彼女はショックを受けたような表情を浮かべる。
「……なたに、あなたに何が分かるって言うの!?私の生きがいの小説を認めてもらうどころか、触れることすら許してもらえなくて!……もう、私は……っこの世界に意味を感じない……っ」
彼女は、その場に座り込む。
その姿は、見ているだけでも痛々しい。
ドラマの演技など比にならないほど絶望に満ちた声色が、俺の耳にまとわりついて離れない。
見えない蜘蛛の巣に引っかかった時のような不快感を覚える。
「……分かるよ。君の感じている絶望が、どれ程のものなのかは分からないけど、分かるよ。僕も、そうだから」
自殺は止めないものの、境遇が似ているからか、死んで欲しくないと強く思う。
今まで鮮明に見えていたはずの夢への道が、突如として崩れたら、誰しも下を向いてしまだろう。
かく言う俺もそうだ。
そんな俺が言えたことではないが、凛律には前を向いて欲しいと思った。
こんなことを思ったのは、生まれて初めてだ。
凛律は俺の言葉に謝る。
「……そう、なの。ごめんなさい、本当に。小園くんも、同じように苦しんでいるのに……」
反省している様子の彼女が、少し可愛かった。
「気にしてないよ。だから気に病まないで。自殺は止めないよ。その代わり、君が川に身を投げる前に、聞いて欲しい話があるんだ。聞いてくれる?」
彼女は頭の上にハテナを浮かべながらも頷いてくれた。
「ありがとう。立ったままだけど、せめて傘に入ろう?」
そう言って、先程まで地面に置かれていた傘を拾い上げ、彼女に手渡す。
「ありがとう……でも、これじゃ小園くんが濡れてしまう。一緒に入ろう、傘」
「!わかったよ」
少し照れくさそうに言う彼女。
綺麗なだけで感情がない人形とは違う。
彼女は正真正銘人間だ。
ただ少し、道に迷ってしまっただけ。
再び俺が傘を持ち、もう既にビショビショだけど、最大限彼女が濡れないようにする。
「僕が10歳の時。父の弟……僕の叔父がガンで亡くなってしまって。父が叔父の家の片付けに行くというから、俺は車の中でそれが終わるまで待ってたんだ……」
あの時の記憶を丁寧に思い出しながら、俺は過去を今に伝え始めた。
2時間ほど待っていた僕は、その頃人気だったアニメのDVDにも飽きてしまった。
車から出るなとは言われていないし、と頭の中で言いわけをしながら、僕は叔父の瓦屋根の家へと足を踏み入れた。
家の中ではなく、僕は庭へ向かった。
そこには松の木が2本生えていて、小さな池には鯉が4匹いた。
鯉を少し眺めたあと、縁側に置いてあったあるものに目が止まった。
「……花」
フォトフレームに入れられた1枚の写真には、ある花が写っていて。
後ろには「Seika」と叔父の名前が書かれていて、その写真は叔父によって撮られたものだと分かった。
名前も知らない花の写真を見て、俺は思わず涙が出た。
自分でもなぜ泣いているのか訳が分からなくて、混乱しながら泣いたんだ。
ただただ、薄っぺらい長方形の中で静かに、それでいて堂々と咲き誇る純粋な色をしたその花が、あまりにも無垢で。
土から生えているのに汚れを知らない様子に、僕はしばらく見惚れていた。
気がついたのは、庭にいる僕の存在に気がついた父に声をかけられた時。
時計を見ると、僕は5分ほどその写真を眺めていたようだった。
家に帰り調べると、その花はクジャクソウであることが分かったんだ。
花言葉は、美しい思い出、悲しみ、一目惚れなど、他にも色々あるらしい。
夜ベッドに入ってもあの衝撃がずっと忘れられなくて、しばらくは眠れなかった。
「それから僕は、叔父の撮るような写真が撮りたくて、誕生日にカメラを買ってもらって、趣味でよく写真を撮るようになったんだ。空、海、花、虫、人。心を動かされたものをとにかく色々」
肩が触れるまでほんの10センチ。
彼女は隣で黙って聞いてくれている。
今彼女は、どんな顔をしているのだろうか?
気になりながらも話を続ける。
「毎日生きているのが楽しかった。写真に収めたいと思うものが、そこらじゅうにあったから。退屈な日なんて1日もなかった。でも、強制的に親に中学受験をさせられることになってから、両親は変わった。カメラで遊んでいる暇なんてないと、中学受験が終わるまで、ずっとカメラを取り上げられてたんだ。僕には地獄同然の日々だったよ」
写真を撮ることが楽しみだった俺からカメラを奪われたら、毎日が暇で仕方がなかった。
「毎日できる限りの時間勉強をさせられ、自殺しようと思ったこともあった」
その言葉に彼女はピク、と反応する。
「1年後、中学受験に合格して、親に懇願してカメラを返してもらったんだ。あの時は嬉しかったなぁ。その日は一日中写真を撮ったよ。でも高校に上がってからは、前よりカメラについて口うるさく言われることが増えて。ちゃんと勉強しろ、将来いい職に就けって、いい大学出てそれなりに稼いでる父には特に言われた。それをきっかけに、僕は……」
「ねぇ」
俺の言葉を遮って、彼女はこんなことを言ってきた。
「疲れない?その話し方」
「………え」
「話し方だよ。もしかして自覚ない?すごく苦しそう」
自覚がない?
むしろその逆だ。
自覚は嫌というほどある。
意図的にしていた偽ったトーンの話し方が、今や自然となり、「正しく話せなくなった」から。
そして、俺がこれから言おうとしていたことは、まさにその話し方のことなのだ。
俺は驚きを隠せない。
「周りの人に気が付かれたのは君が初めてだよ。そう、
僕はうまく話せなくなった。声のトーンから遊んでいると理不尽に怒られ、勉強の量が増やされる。ほんとおかしい。ありのまま話せていないことに気がついたのは、俺が大好きな犬が歩道を散歩してたとき。いつもなら飼い主に言って触らせてもらうのに、心のどこかで話してはいけないと思って言葉が出なかった」
あれは、人生で一番悲しくて悔しい出来事だった。
ちゃんと話せない俺は、人間の仲間はずれにされた気がしたから。
「僕は自分のことが怖くなって、鏡の前で鏡に映っている自分に話しかけて練習してみた。それで今の話し方になったんだ。そういう辛い出来事があって僕が自殺をしようとする時は、写真が好きだから、今まで撮ってきた写真を見返すんだ。その時に、叔父のクジャクソウの写真を見ると、もう少し生きてみよう、って思えるんだ。夢を思い出させてくれるような存在が、君にはない?」
その問いかけに、彼女は下を俯く。
よく見えないが、彼女は悔しそうな表情をしていた。
でも、どこか愛おしそうでもあり、何かを思い浮かべていることは明らかだった。
その“何か”が、彼女にとっての夢を思い出させてくれる存在なのだろう。
「……小説が、大好き。小説が唯一、私を照らしてくれる光。信じてくれないと思うけど、私結構人気な小説家なの。私の小説に感動した、救われたって言ってくれる人がたくさんいる。これからも、小説を書いていくつもりだった。なのに……」
「信じるよ」
彼女の正面に立ち、目を真っ直ぐ見て言う。
「君の瞳を見たらわかる。痛いくらいに辛くて、でも、愛する人を見つめるみたいだ」
「っ!……わたし、小説が大好きなのにっ。もう、書けなくなってしまった……っ」
彼女は、親から夢を応援されなかったのだろう。
そして、大好きな小説の執筆が行えなくなった。
自殺もしたくなる。
なぜなら、それは生きる目的を見失ったも同然だから。
彼女は俺と環境が似ている。
だから、彼女の感じている苦しみが痛いほど伝わってきて、胸が張り裂けそうになる。
そんな俺が、今彼女にしてあげられることとは。
「小説を諦めてもいいの?それは後悔がないと言い切れる?残された君の作品たちは、どうなるの?」
「……!」
何度も言うが、俺は自殺を止めはしない。
その代わり、「生きる」を続ける理由を、思い出させる。
まだ、手遅れではない。
叔父のように、生きることを望んでいても、それが叶わない人だっているのだ。
健康な体があるだけでも、恵まれている。
そのことに気がついてから、俺は現実に向き合うことを決めた。
でもそれは、父の言いなりになるということではなく、もちろん自分の夢を叶えるという強い意志のもとにある。
「私の、作品……」
彼女は、何か大切なものを思い出したかのように、パッと顔を上げて、焦った表情で俺を見つめる。
彼女の瞳に、心做しか一瞬だけ光が灯った気がした。
そう、現実が厳しいなら厳しいほど、たまには夢を見ることが必要だ。
現実逃避が上手くなってしまったら、スポットライトを浴びても、拍手が送られてくることはないのだから。
「君の作品が、泣いてしまうよ?」
凛律side
もう、全てを失くしてもいいと思った瞬間、豪雨の中家を出て、川へと向かう行動力には、自分でも少し驚いた。
波に飲み込まれ、永遠の眠りにつこう……
そうは思うものの、もしそんなことが起こっても、本心から悲しんでくれるのは私の作品たちだけ。
自分の創造者を失ったそれらは、なんの感情もないにも関わらず、涙を流してくれるだろう。
………なんて、あるはずないと分かっている。
本当に起こり得るわけない。
たかが「紙切れ」が泣くなんて。
……そう、思っていたけど。
小園心結くんは、私に小説は泣くと言った。
本当に……?
私がいなくなって、悲しんでくれる存在がいてくれるかもしれないということに、少し世界が明るくなる。
「小説は、本当に泣いてくれるの?私の創ったものが、本当に……っ?」
その問いかけに、小園くんはとても穏やかな目をして、言ってくれた。
「もちろん。それに、悲しむのは君の小説だけじゃない。僕だって悲しいよ」
「え……?どうして……」
出会って数十分。
お互いの存在を認識してそれほどしか経っていないのにも関わらず、悲しむと言った彼の心の内には、何があるのか。
さっきの話を聞くに、彼は私と同じような環境にいる。
それなのに、私を照らしてくれるその理由が知りたい。
小園くんが答えてくれるまでの時間が、とてもゆっくりに思える。
「君を見てると、自分の生き方が否定されたようで、悔しいし、悲しいから。それだけじゃなく、命が消えることは悲しいよ。君はこんなこと言われるのは嫌かもしれないけど、やっぱり僕と君は同じ苦しみを知っている。そんな君を見てると、死んで欲しくないと思うし、胸が張り裂けそうになる。僕に君を見殺しにしろなんて酷なこと、言わないで」
「……っ」
そう言った小園くんの表情が、痛くて、痛くて、痛くて。
今助けられているのは私の方なのに、無理にでも笑う君を、放っておけないなんて生意気なことを思ってしまって。
「……こんなの、ダメだよ……」
そう呟いた声が、小園くんには届いていたようで。
「そう……そっか、そうだよね。ごめんね」
と謝った。
違う、そうじゃないっ。
あなたの優しさに触れて再び生きることを望むなんて、私には贅沢だと思ったから。
あなたに酷いことを言った私には、勿体ないくらい温かい言葉だったから。
でも、まだ、生きたい……
「小園くん。あなたは私に、もう一度生きてもいいって言える……?」
「生きていいよ」
「!」
言えるはずないと思っていたのに、彼の顔を見上げると、穏やかな表情をしていた。
優しさが浮かぶその瞳を見ていると、全てを許された気になってしまう。
優しさが苦しいというのは、こういうことを言うのだと、身をもって実感する。
「君は生きていい。小説が大好きだという素敵な心を持つ君が、生きてはいけない理由なんてどこにも無い。周りの人にどんなことを言われてこんなことをしようと思ったのかは分からない。それでも僕は、君に生きて欲しいと思うよ。そして、一緒に生きたい。お恥ずかしながら、僕友達がいないんだ。だから、もし良かったら僕の友達になってくれないかな?」
今だって自分より私を優先して傘で雨から私を守ってくれるあなたが、私と生きることを望んでいる。
小園くんは他の人とは違う。
そんなの。
「いい、の……?私っ、生きてて、小園くんの友達に……っ」
やっと私を認めてくれる人が現れて、それが小園くんだという事実に、涙が出てくる。
優しさが痛くて泣くなんて初めて。
彼は私を優しく抱きしめて、
「いいんだよ」
と一言。
私はその場に泣き崩れた。
その間、慌てふためく小園くんの声が聞こえてきて、最後には泣きながら笑ったっけ。
笑顔で泣き止んだあと、傘をずっと持っているのは大変だからと橋の下へ行き、私は自己紹介をした。
「私の名前は九条凛律。年は君と同い年だから、お互い下の名前で呼ばない?」
平静を装って言うものの、内心、胸はドキドキで。
「うん、凛律。綺麗な名前だね」
何気ない笑顔で私の名前を呼ぶ心結に、心拍数が上昇する。
私たちは友達。
だけど、私は早くも自分の気持ちに気がついた。
それ以上を望んでしまっていると。
そんな私は傲慢だ。
「あ、ありがとう……え、えと、心結」
「?」
首を傾げる動作にもときめいてしまう。
恋なんて初めて。
そして思う。
私ってもしかしてチョロいのかな……?
心を落ち着かせるために、深い呼吸を一つ。
聞きたかったことを口にする。
「もし違ったらごめんなんだけど、心結さ、一人称“僕”じゃないでしょ」
所々に滲み出る違和感があった。
それに、上手く言葉に表せないけど、心結は、自分を否定してくる人達に慣れてしまったのだと思う。
そして上手くなった“いい子の演技”。
僕という一人称は、そういった人達を前にした時に使うのだろう。
でも、せめて私の前ではありのままの心結でいて欲しい。
どうやら私の違和感は合っていたらしく、心結は気づかれたことに驚いたのか、目を見開いている。
「は、はは……バレたのは初めてだよ。じゃあ凛律の前では“俺”にする。素っ気ない話し方になるけど……大丈夫か?」
わっ、こっちのがやっぱりいい。
それに、私の前では……って、なんか特別みたいじゃん?
「大丈夫。心結が楽な方が、私も嬉しいから」
「ああ、ありがとう。で、凛律は元気取り戻したか?」
「もうっ、からかわないで」
「ははっ、悪い。じゃあ、元気取り戻したってことで……行くか!」
心結は私の手を引いて走り出した。
「えっ、え!?」
階段を駆け上がり、いつもより広く見える世界を走る。
「行くってどこに!?」
「ん?」
心結は、今までの穏やかな笑顔とは違う、無邪気な笑顔を浮かべた。
……あ、この顔、心結だ。
そして、
「最高なところ!」
と言って再び前を向いた。
「それじゃ分からないじゃんっ」
でも、心結の笑顔を見ていると、行き先が分からないままなのも、とても楽しく思える。
もう空は晴れていて、太陽が町一帯を照らしている。
でもきっと、一番輝いているのは私たち。
そう思えるくらい、幸せ。
その一方、小説は「紙切れ」だと思ってしまったことを後悔する。
そう、小説は紙切れなんかじゃない。
1文字1文字に心が込められた言葉の結晶で、私にとって未来を見せてくれる唯一無二の存在。
そんな小説を悲しませようなんて、もうしない。
そう思えたのは、心結が気づかせてくれたから。
心の中で心結に何度もありがとうと呟く。
すると、心結は私にこう言った。
「なんかさ、俺ら迷子みたいじゃね?」
え、迷子?
と思ったけれど、すぐ納得する。
親とはぐれたのではなく、親から逃げるために迷子になってしまったのだ。
「確かに」
「じゃあ、俺ら今日から迷子同盟だな」
「迷子同盟……うん、そうだねっ」
私と心結だけの迷子同盟。
迷子であることをこんなに嬉しく思うのはおかしいけど、今がそれくらい心地いいのだ。
心結の背中はどこまでも温かい。
いつか胸を張ってこの人の隣を歩けるように、自分の幸せを大切にしよう。
そう思いながら、太陽に向かって走り続けた。
────────────
「凛律、ここだ」
「はぁ、はぁ……着いた?」
思っていた以上に走った距離が長く、息が切れる。
「あっ、悪い。夢中で……」
「ううん、大丈夫。私も夢中だったから」
繋いでいた手が離れ、少し残念な気持ちになる。
もうちょっと繋いでいたかったな……
その気持ちを胸に秘めたまま、辺りを見渡す。
「ここって……広場?」
そこには芝生広場があり、屋台やキッチンカーが並んでいる。
「ああ。ここでは毎日屋台とかイベントをやってるんだ」
「そうなんだ。でもなんでここに?」
「ここのソフトクリームを凛律に食べてほしいんだ。あそこのキッチンカーのお店のやつ、めっちゃ美味くてさ」
「えっと……ソフトクリーム?ってなに?」
「……は?」
予想外の返事が返ってきたようで、心結はとても驚いている。
ソフトクリーム……ソフトクリーム?
聞いたことないんだけど、そんなに驚くことなのかな?
「凛律、ソフトクリーム知らねぇの?」
「う、うん」
「マジか……どこのお嬢様なんだよ?」
「えっ、なんで分かるの?」
「いや、ソフトクリーム知らないって……余程の箱入り娘くらいじゃないと有り得ねぇよ」
「そう、なんだ……」
確かに、両親は私を家から中々出してくれない。
今日だって、親に黙って家を出てきた。
もしかして私って、すごい世間知らず?
その事実に気づき、結構なショックを受ける。
「じゃあ買う前に、ソフトクリームの説明からするぞ?」
……あ、家のこと聞かないでくれるんだ……
そういうさり気ない優しさがある所、好きだなぁ。
そう思いながら、私はソフトクリームの説明を一生懸命聞いていた。
「冷たい、甘い、美味しい」
「そ。この3つが合わさった最高峰が、ソフトクリーム」
気になる……!
「ねぇ心結、早く食べたいっ」
「そう焦るな。ソフトクリームは逃げねぇから」
自殺しようとして家を出たのに、財布なんて持っているはずもなく、結局心結にご馳走になってしまった。
「ありがとう心結、それとごめんなさい」
「いいって。ほら、早く食べねぇと溶けるぞ?」
「あっ、そうだった……いただきますっ」
そしてソフトクリームを1口。
次の瞬間、私は衝撃を覚えた。
「ななな何これっ、すごく美味しい……っ」
「だろ!?俺が今まで食べてきた中でここのソフトクリームが1番上手くてさ、凛律にも食べて欲しかったんだ。祝・初ソフトクリーム、だな」
「うんっ」
買い食いなんて初めてで、少し悪いことをしているような感じがたまらなく幸せなことに気がつく。
私はきっと、この味を一生忘れられないと思う。
そして、今日のことも。
私が夢中になってソフトクリームを食べていると、心結が
「凛律、こっち向いて」
と言ってきたので、その通りにすると。
「パシャッ」
という音が辺りに響いた。
え。
「ちょ、ちょっと。今写真撮った?」
「うん」
「今すぐ消してっ、絶対変な顔してたからっ」
「嫌だ。それと……ここ、付いてる」
心結はそう言って、私の口周りに付いていたソフトクリームを指で拭き取った。
「!?」
ち、近い……っ
もしかしなくても、心結って距離感おかしい……!?
それともこれが普通なのかな……少なくとも、私が今までお見合いしてきた人たちはこんなことしてこなかった。
いや、そもそもお見合いの時はこんなに急いで食べたりしないから……う〜ん……
と私が混乱していると、心結は声を真剣なトーンに変えて話し始めた。
「凛律、気がついてる?」
「……何に?」
「今まで1回もちゃんと笑えてないの」
「っ……」
もう、随分昔のことだと思う。
私の気持ちを聞いてくれない両親に失望し、笑えなくなったのは。
「……うん」
なんて言われるのかな、と思っていると、心結は予想外の言葉を口にした。
「俺は、凛律に心の底から笑って欲しい」
「……え?」
「俺の趣味なんだ、写真撮ること。俺がこれからたくさん凛律のことを笑わせてみせる。だから、凛律が心の底から笑えるようになったら、それを写真に収めたい。ダメか?」
「……」
心結、そんなこと思ってたんだ……
どうしよう、すごく嬉しい……
こんなの、断るはずないじゃん。
「ううん、お願いします」
「!ありがとう」
「でもさ、“これから”、って……どうするの?」
私は疑問を口にした。
すると、心結はにっと笑って。
「今日が土曜日だから……そうだな。毎週土曜日、さっきの橋の下で会おう。そしたら、俺が今日みたいに色んなところに凛律のことを連れてく。絶対、楽しませるから」
毎週土曜日……
親や使用人の目があって、今日みたいに抜け出せるか分からないけど……
心結と一緒にいたい。
「うん、じゃあそれで決まり」
「ありがとう。ソフトクリーム食べ終わった?じゃ、今日はもう帰るか」
「あ……うん」
こんなに“今日”を楽しめたのは久しぶりだから、それが終わってしまうのは悲しい。
でも、来週の土曜日にまた会える。
だから、寂しくはない。
「家まで送る。帰ろ」
「えっ、いいよ。1人で大丈夫」
「……怪しい。また自殺なんて考えるんじゃないだろうな?」
「心結のおかげでもうそんなこと考えてないよ。だから大丈夫」
「そっか、なら良かった。俺帰る方向こっちだけど、凛律は?」
空を見上げると、もうだいぶ日が沈んでいた。
もう何年も感じていなかった、綺麗という感情が頭をよぎる。
全部全部、心結と今日出会えたから。
自殺しようと思って川に行ってよかった……なんて。
そう思いながら、私は手を振った。
「私はこっち。じゃあ、またね、心結」
「ああ、またな」
“またね”をこんなに嬉しく思えるのは、生まれて初めて。
今日一日で、心結は私にたくさんのものをくれた。
勇気に希望、幸せな感情まで思い出させてくれて……それに、人を恋愛的に好きになる気持ちも。
私、心結のこと好きになったんだよね……
わっ、どうしよう?
そう顔を赤くしながら足早に家へ帰ったのは、心結の優しさに触れて、恋の味のソフトクリームを食べた、そんな日のこと。
心結side
凛律と出会ってから、4回目の土曜日がやってきた8月のある日。
ソフトクリームにゲームセンター、商店街と来て、今日は水族館へ行く約束をしている。
今はもう、凛律はだいぶ瞳の輝きを取り戻している。
でもまだ完全にではないため、今日も俺は、凛律に自由を教える。
そしていつか、満面の笑みを浮かべてくれたらいい。
14時の待ち合わせより今は15分ほど早い時間。
俺は橋の下で、しっかりカメラを持ちながら凛律を待っていた。
その10分後、凛律が慌てながらやってきた。
「はぁっ、ごめん心結、遅れた?」
「ん?いや、まだ5分前」
「あ、よ、よかった……」
そう言って身だしなみを整えている凛律は、どこかいつもより元気がないように見えた。
「よし、じゃあ行こう?」
「ああ」
電車で一駅先まで行くとすぐに見えてくるその水族館は、ここら辺では1番大きい水族館で、クラゲのエリアがとても綺麗なことで有名だ。
俺も凛律もそれを楽しみに電車に乗り込み、あっという間に到着する。
「やっと着いた……」
「はは、お疲れ様」
一駅と言っても、電車なんて乗ったことないであろう凛律にとっては、切符や改札口のことがよく分からず一苦労だったようだ。
でも水族館はもう目の前だ。
「凛律、あの建物が水族館だ」
指さしながら言った俺のその言葉に、凛律は目を輝かせた。
「あれが、水族館……早く行こ、心結」
「そうだな、行こう」
そして俺たちは、水族館館内へと足を踏み入れた。
「あ、私このカクレクマノミっていう子好き、かわいいっ」
カクレクマノミとは、鮮やかなオレンジ色に白色の縞模様が入った水族館ではよく見る魚だ。
凛律はそれを気に入ったらしい。
実は今日会った時から元気がないように見えてたけど、大丈夫そうだな。
そう思っていると、凛律は俺にこんな質問をしてきた。
「ねぇ、心結が1番好きなのはどの魚?」
「好きな魚?」
これといったものはないが、以前写真を撮って綺麗だと思ったのは……
「ウズマキヤッコかな」
「何その魚?」
「えーっと……あ、あれ」
近くの水槽にウズマキヤッコの姿を見つけ、近くまで足を運ぶ。
「え〜これ?私これ好きじゃない……」
大抵の人は、そう言うかもそれない。
ウズマキヤッコの模様は、その名の通り渦を巻いていて、青紫や黒といった色も相まって、毒々しい見た目をしている。
でも、その寒色に身を包んだウズマキヤッコが、俺にはとても綺麗に思えた。
凛律にも、そう思ってもらえたら。
「でも綺麗じゃないか?青紫色が神秘的で……」
皆に嫌われ、孤独な世界を生きているからこその、美しさがある。
すると凛律は、俺の言葉に同意してくれた。
「言われてみれば、確かにそうかも。“青”って、綺麗だよね……」
そうしてしばらくウズマキヤッコを見つめたあと、俺たちはお目当てのクラゲエリアへ向かった。
「わっ、綺麗……」
俺たちは、瞬きも出来ないくらいその綺麗さに見惚れた。
クラゲといっても様々な種類があり、ゆっくり水中を移動する姿には、それぞれ違った良さがあった。
クラゲエリアの中で1番大きな水槽の前にやってきた時、ふと左隣にいる凛律の方へ目を移す。
いつもより輝いて見える大きな瞳と、白いブラウスに水槽の青いライトアップが映っており、その美しさにはため息が出そうなほど。
水族館にいるどの生き物よりも、凛律が綺麗だと思った。
カメラを構えて、写真を一枚撮る。
凛律の横顔と無数のクラゲたちが収められたその一枚は、なんとも幻想的だ。
そして、写真を撮られたことに気づいた凛律が、俺の方を向く。
凛律の瞳を正面から見て、俺は驚いた。
凛律の瞳に、涙が浮かんでいたから。
ここで、元気がなさそうに見えたのは気のせいではなかったと確信する。
瞳がいつもより輝いて見えたのは、泣いていたからだろう。
「凛律、どうした?」
そう尋ねると、凛律は
「心結……私ね、もう心結に会えなくなるかもしれない」
と口にした。
そして泣き出す凛律を落ち着かせるため、俺は凛律を連れて水族館を出た。
「まだ見たかったか?なら勝手に連れ出してごめん。でも、何か話したいことあるんだろ?」
「う、ん……ぐす」
「なら、どこで話す?」
「……橋の下……」
「ん、分かった」
そして俺たちは、待ち合わせから1時間しか経っていないのにも関わらず、電車に乗り橋の下へと逆戻りした。
橋の下へ着くと凛律はだいぶ落ち着いてきたようで、自分から事情を話し始めた。
「……私ね、九条財閥っていう家の一人娘なの」
……え?
九条財閥ってまさか、あの有名な電子機器のメーカーの……?
思ってた以上のお嬢様だな……
驚いている俺に、凛律は更にこんなことを言ってきた。
「親が厳しくて、普段家から出してもらえないの。そんな中あの雨の日は家を出たから、帰ってからすごく怒られた。だから今までの毎週土曜日は、バレないようにこっそり出てきたつもりだったの。でも、先週心結と会って家に帰ったら、お父さんに今までのこと全部知ってるって言われて……それで、留学に行きなさいって……っ」
留学……?
俺と会うのを防ぐためか?
いや、九条の後継者として外国語を学ぶため?
どっちにしろ、凛律は行きたがってないのに、おかしいだろ……っ
凛律の両親に怒りを覚えながら、俺は凛律に尋ねる。
「もう、それは決まったことなのか?」
「……2週間後に、行くことになってるって、お父さんが……っ」
「っ……2週間後?」
あまりにも早すぎる展開に俺は戸惑う。
こうなってしまったのは、全部俺のせいだ。
凛律の事情を考えずに、楽しませたいと、心の底から笑って欲しいと、突っ走ってしまった。
笑顔どころか、泣かせてんじゃねぇかよ、俺……っ
「ごめんね、ごめんね……っ」
自分のせいだと思っているのか、何度も謝る凛律を前に、俺は自分の無力さを痛感することしか出来なかった。
凛律side
九条財閥の後継者である私は、当然のように厳しく育てられた。
ゲームなんか以ての外で、学校が終わって帰ってきても、家庭教師とひたすら勉強。
でも、そんな日々を送っていた私にも楽しめることはあった。
それは小説を読むこと。
読書は読解力や知識が身につくといった理由で許されており、私は夜寝る前などの空き時間には必ず小説を読んでいた。
少ない時間だけだとしても、それは私にとって何よりも楽しい時間だった。
高校1年生のある冬、いつものように小説を読んでいて、私はふとこう思った。
自分でも書いてみたい、と。
それから私は、両親や家庭教師の目がない時に、密かにスマホで小説を書いた。
小説を描き始めて4ヶ月ほど経過したころ。
私は、とあるネットの小説コンテストに自分の作品を応募した。
自分とは正反対の、自由を手にして生まれてきた少年の一生を描いた物語。
自分もこうだったらな、という気持ちを込めながら書いたそれには、自分の夢が詰まっていた。
私は、誰にも言わないで作品を応募した。
バレたら、絶対に怒られるから。
それどころか、スマホを奪われ、作品のデータを消されてしまう可能性だってある。
それなのに話してしまうわけには絶対いかない。
そうして月日が経ち、私のスマホのもとに1件の通知が来た。
私の小説が、大賞を受賞したらしい。
自分の唯一の生きがいを自分以外の人にも認めてもらえて、私はすごく嬉しかった。
夢のようなその事実に自分の部屋で静かにガッツポーズをし、ベッドの上を転がり回った。
大賞の作品は書籍化される。
今度、本を買いたいと言ってネットで注文してもらおう。
それが私の書いた小説だと、両親にバレる可能性はない。
今まで自分以外の人に小説を書いていることを話したことはないから。
だから、大丈夫、大丈夫。
でもその翌日、父親が私の部屋までやってきて、大きな声で言った。
「なぜ勝手に小説なんか応募したんだ!」
え……なんでバレてるの……?
そんなはずないのに。
でも、もうバレてしまったものは仕方ない。
せめて、小説を消されることは防がないと。
内心焦りながらも、私はそのために落ち着いた態度を見せた。
「文章力を上げたかったんです」
でも、父はそう簡単に騙されてはくれない。
「それだけならコンテストに出す必要はないはずだ」
「自分の実力がどれほどのものなのかを、家庭教師ではなく、小説を書くことを本職としている人達の評価から確かめたかったんです」
「………」
渋い顔をされたが、最後には小説を書くことを認めてもらえた。
成績を落とさない、そして上げることが条件にあるけど。
それでも、これからは周りの目を避けながら書かなくてもいいということが、とても嬉しかった。
それから私は、両親の機嫌取りをした。
礼儀作法は完璧に、成績もこれ以上ないところまで上げ、それを維持する。
そして両親の言うことは大人しく聞いていた。
そうしていたら、小説を書くことを辞めさせられることはないと思ったから。
いい子でいるのは嫌だったけど、そうするしかなかったのだ。
そして、私が高校3年生になり、約3ヶ月が経過したころ。
つまり、心結と出会う1週間前。
大賞を受賞したことや、いくつかの新作がまた書籍化されたことから、ネットではたくさんの人が私を応援してくれるようになっていた。
だからか、嬉しくて気が緩んでいたのだろう。
私は成績を少しだけ落としてしまった。
そのことは当然両親の耳に入り、激怒した両親から小説を書くことを禁止された。
小説を書くスマホのアプリが制限されたのだ。
その日の夜、私は父の怒鳴り声が怖くて反抗することが出来ないまま自分の部屋に戻り、声を上げて泣いた。
いい子にしていても、結局は幸せなんて訪れないのだと。
………まだ、小さい頃は優しかった記憶があるんだけどな。
小説を書けない日々に戻って1週間。
その日々は想像以上に退屈で、絶望に暮れていた。
せっかく“私”を見てくれる人に出会えたのに、小説を更新しなかったらその人たちに失望されてしまうのではないか。
そんなことだけを考えていて、ついに私はその不安に耐えられなくなった。
………もう、生きてる理由、なくない?
小説を書けないのなら死んでいるのも同然だと、両親に反抗しないまま早いうちに諦めてしまった。
それが自分が弱いせいだと分かっているから、余計に辛かった。
これから生きていても、九条の後継者として両親の言いなりになるだけ。
それならもう、全部失くしちゃっていいや。
窓の外を見ると結構な勢いで雨が降っていたけど、そんなこと構わず家を出た。
地獄同然の家から開放されたとき、私の足取りはとても軽くなった。
一方通行の車道の端を歩きながら、
ああ……広い……
と私は思う。
それほどまでに、私は世界を知らなかった。
これから自殺をしに行くというのに、私はこれまでにない自由に全身で浸った。
この広さを知ってすぐ死ねるなら、幸せじゃない?
そうも思った。
けれど、彼は自由よりも私の心を掴むのが上手かった。
そんな彼に、いとも簡単に自殺をやめさせられた。
自殺しようとしたことがあると、小説は泣くと、私が死んだら悲しいと、彼が言うものだから。
自由以上の“救い”を知ってしまって、私は生きることを望んだのだ。
私が家のどこにもおらず慌てたであろう両親の元へその日帰ると、父には手をあげられた。
痛かった。
でも、心は痛くなかった。
“毎週土曜日”という言葉が、しっかり私の心を覆い尽くしていたから。
父に手をあげられることにも恐れず私は家を出て、その“毎週土曜日”は私たちに4回訪れた。
そして彼、心結のおかげで、小説以外の世界についても少し知ることが出来た。
私の前でだけ見せてくれるありのままの心結は、少しやんちゃだったり、頼れるお兄さんみたいでもある。
そのかっこよさに惚れて、一生無縁だと思っていた恋もすることが出来た。
本当に、土曜日って幸せ……
なのに、“九条の後継者”という足枷は、小説だけでなくそれすらも奪っていく。
全ては、この世に生まれてきたときに決まっていたのだ。
つまり、運が悪かったということ。
それを今更変えることは出来ない。
抗っても無駄なのだ。
そうやってまたすぐに諦めてしまった私は、暗い顔をする心結に震える声で言った。
「ねぇ心結、迷子同盟、終わりにしよっか……?」
右頬を滑り落ちたその雫は、心結の目にどう映っていたのだろうか。
無理があるのは分かってるけど、その私の涙を見て、心結が悲しくなっていないといいな。
そんな気持ちを胸に、私はその場を立ち去った。
心結side
あの日から2週間が経った今日、凛律は留学へ行く。
空は嫌味ったらしいほど快晴だ。
そんな中呑気に川沿いなんて自転車で走っている俺は、彼女の泣き顔が目に焼き付いて、離れないままでいる。
凛律と出会った日に見た涙とは別の感情を含んだ涙。
それは、諦めの裏にある「まだ終わりたくない」という叫びを隠しきれていなかった。
その雫が滴っていった果てには、辛かったあの頃以上の苦難しか待っていない。
でも、その事実を受け入れてしまった涙の色が、見惚れるほど美しくて。
最近、俺は思っていた。
彼女は“綺麗そのもの”だと。
でもそんな彼女は、俺の元から離れていった。
いや、離されたという方が正しい。
九条の後継者という立場には、俺には想像もできないほどの責任や我慢が伴うのだろう。
彼女にそんな立場は似合わない。
凛律には、もっと自由な生き方が似合っている。
今まで過ごした4回の土曜日で、俺は少しの自由しか凛律に教えてあげられてない。
そのまま、凛律は今日遠いところへ行ってしまう。
いや、元々知ってたけど。
俺、こんなにダメなやつだったのか。
自由を知らない少女一人守れない、ダメなやつ。
そう思いながら、飛行機どこかな、なんて空を見上げると。
視界が滲んでいるのだ。
一度ペダルを漕ぐ足を止める。
………あれ、なんだこれ。
え、泣いてんのか、俺?
あまりにも静かな後悔で、気づいた時には既に、大粒の涙で顔が大変なことになっていた。
手の甲や手首で拭っても拭っても、瞳という名の雨雲は雨上がりを知らなくて。
この4回の“毎週土曜日”が、俺たちにどれほどの生きている実感を与えてくれる存在だったか。
それを、泣いている自分から改めて実感する。
「………」
だった……いや、“だった”?
なに、簡単に諦めてるんだよ、俺。
散々諦めに浸っておいて、今この時ハッとする。
心の中で誰かが、嫌味になるほど何回も言うのだ。
『まだ囚われたままでいる彼女を、救い出さないといけないだろう?』と。
それはきっと、自分だって両親に囚われたままなくせに、自由を知った気になって慢心している、本当の自分。
同じように囚われている凛律を救い出すことで、両親なんかに屈さず自由になれると信じている自分。
それが報われない“信じる”だとしても、俺たちはそんな根拠の無いものにでも縋っていないと、前へ進んでいけないのだ。
楽しませるとか、笑顔にするとか。
そんなこと、これくらいで折れていたらいつまで経っても成し遂げられない。
俺は、“信じる”んだ。
そう強く決意し、俺は8月の猛暑日の中、空港へ向かって全力でペダルを漕ぎ始めた。
滑り落ちる汗が焦りを煽る。
凛律が何時に飛び立つのかは聞いていない。
もしかしたらもう飛行機に乗り込んでいるかもしれない。
だから無駄になるかも知れないけど、急がずにはいられないのだ。
君の助けを求める声が頭に響くから。
1秒でも早く着かなければ。
凛律、大丈夫だ。
俺のカメラの中で輝いているのは、いつだって凛律だから。
自由を手に入れた君の笑顔を見てみたいという俺の欲もあるけど、何よりも、誰よりも願う。
君の自由を。
──────────
そして、空港に到着した。
どこにいるんだ、凛律!
周りの目線なんて気にせず、空港の中を駆け回る。
非常識だと言われたっていい。
凛律のために全力になれる自分を、恥ずかしいとは思わないから。
凛律は、案外すぐに見つかった。
幸いまだ飛行機には乗り込んでいないようで、父親らしき人と一緒に、壁の近くで佇んでいた。
凛律は暗い表情で俯いている。
そりゃそうだ。
本意でない留学を目前にして、上を向けるわけがない。
そんな凛律を早く救いたくて、凛律とその父親の元へ走った。
「凛律!」
俺に呼ばれ、顔を上げる凛律。
酷い顔だ。
でも、俺が来たことに驚いている表情は可愛いと思った。
「えっ、心結?どうしてここに……」
「誰だお前は」
1歩踏み出して俺の前へやってきた男。
「……凛律、この人は?」
「……私の、お父さん……」
だと思った。
スーツを上手く着こなしているその姿からは、プライドの高さが伺える。
いかにも社長という感じだ。
「お前は誰だと聞いているんだ」
威圧的な態度。
自分の父親を見ているようだ。
「小園心結です」
わざと生意気に名前だけを答えてやった。
上から見下ろしてりゃ俺がビビるとでも思ったか?
もうその威圧には慣れてんだよ。
そんな俺の自己紹介に、凛律の父親は不快そうな表情を浮かべる。
「お前が凛律と会っていた高校生か。ここに何をしに来たのか知らないが、娘はこれからカナダへ留学に行くんだ。その邪魔をするつもりなら……」
「1ヶ月と少し前」
凛律の父親の言葉を遮って、俺は話し始めた。
「………?」
「あんたの娘が家を黙って出たことがあったんじゃないか?あんたは怒っただろうよ。おかしな真似はするな、ってな。これを凛律があんたらに言ったのか知らないが、あの日凛律は自殺しようとしたんだ。雨の中、川に身を投げて」
「!?」
どうやら知らなかったようだ。
その原因が自分だということも、知らないんだろうな。
そんな凛律の両親には呆れるしかない。
「何を言って……」
「原因はあんたらだ。凛律の大好きな小説を凛律から奪ったから。そんな権利があんたらにあると思ってるのか?いくら家のためだからってそんなこと、許されるはずないだろ!?」
「違う!」
凛律の父親は、俺の言葉に何を思ったのか、大きな声を上げた。
何が違うんだよ?
と怒りを覚えながら凛律の父親の言葉を待つ。
「私は……家のためにやったのではない。いずれ九条をまとめる立場につく凛律に、社会で生きていけるようになって欲しかったんだ。このあまりにも重たい立場で生きていくためには、足元を救われないようにするしか……しかし、私は間違っていたのだな。大切な娘に、自殺という選択をとらせてしまうなど……」
「え、お父さ……今、大切な娘って……」
どうやら、その大切に思う気持ちは娘には微塵も伝わっていなかったようだ。
実際、この父親はやり方を間違った。
そしてその娘を思う気持ちを伝えれていなかったことも、父親としての役目を成し遂げられていない証拠だ。
でも、そうか……
凛律は、愛されていないわけではなかったのか。
そのことはとても嬉しく思う。
もしかしたら、俺の親も……
なんて、10年ぶりくらいに親への期待を感じた瞬間だった。
いや、今となっては意味が無い期待だ。
例え俺の両親もやり方を間違っただけだったとしても、俺はその両親を許せるほど心が広くないから。
もう、遅い。
凛律の父親は、本気で自分を責めているようだった。
そんな父親に俺は言う。
「それは、あんたら自身、社会を恐れているということか?なら、俺たちはあんたらじゃなくて社会に反抗する。逃げ場のない社会のせいで夢を諦めるなんてこと絶対にしない。だろ、凛律?」
「っ……」
凛律はまだ、父親へ抗うことが出来ないでいるようだった。
せっかく父親は自分のことを愛してくれていると分かったのに、それじゃ勿体ない。
そのことに気がついてほしくて、俺は凛律に伝える。
「凛律。俺たちなら、迷子同盟なら、恐れるものなんて何も無い。俺たちが“勇気ある反抗”という武器を手にした時、俺たちは自由になれる。凛律にも夢があるだろ?まだ間に合う。凛律の気持ちを、伝えてみるといいんじゃないか?そして俺に、凛律を心の底から笑わせるって約束を、果たさせてくれ」
「っ……!」
凛律が満面の笑みで笑ってくれるとしたら、それはきっと自由の中にあると思うから。
凛律に夢を諦めてほしくないんだ。
それに、凛律なら絶対夢を叶えられる。
大丈夫、怖くない。
そんな気持ちを込めた瞳で、凛律を見つめる。
そして凛律は、自分の気持ちを話すことを決意したようだった。
「お、お父さん」
「………ああ」
「私ね、小説家になることが夢なの。勉強ばっかりで不自由な生活の中、小説を読むことだけが私の生きがいで。私、お父さんの言う通りになれるよう頑張ってた。なのに、小説を書いてることを知ったらお父さんは私を怒った。すごく、悲しくて辛かったよ」
「……凛律……」
「もう死んじゃおうと思ったんだけど、心結が大事なことに気づかせてくれて、まだ生きたいって思えたの。そんな心結に恩返しするためにも、この夢を叶えたい。すごくわがままだって分かってる。でも、お願いします。留学には行きたくありません。そして、私の小説を否定しないでください……っ」
「っ……」
凛律、よく頑張ったな。
そして、最後の選択肢は凛律の父親にある。
凛律の父親は、少しの間目をつぶって、凛律の名を呼んだ。
「凛律。顔を上げてくれ」
「………」
「今まで、本当にすまなかった。凛律を苦しめるものなど、良いはずが無いのに……私が間違っていた。留学はやめにして、小説家になるという夢も応援する。でも、これだけは覚えていてくれ。本当に馬鹿で不器用な父さんと母さんだが、凛律のことは本当に大切に思っているよ」
「っ……うん、絶対忘れない。それと、小説を認めてくれて、ありがとう」
一件落着か。
「凛律、良かったな」
「うんっ」
そう言う彼女を、俺はまた写真に収めた。
そうして、飛行機のキャンセルなどがある凛律の父親を残して、俺たちは空港を出た。
「心結、本当にありがとう」
そう言った凛律の瞳は、完全に輝きを取り戻していた。
「っ……いや、凛律が勇気を出したからだろ?この自由は、紛れもなく凛律のものだ」
そう言うと、凛律は嬉しそうな表情を浮かべた。
そして、俺は凛律に言う。
「それで、凛律。来週の土曜日、いつもの橋の下に来てくれないか?」
自由になった君に、伝えたいことがあるんだ。