千乃が遅れて登校してきたのは、二時間目が終わり、休み時間に入った時だった。

 みんなから声を掛けられながら、千乃は碧の隣の席に着き、彼に笑顔を向けた。

「セーフ!」
「アウトだよ」
「やっぱり?」

 クスクスと楽しそうに笑う千乃を見て、碧はそっと目を逸らした。

「珍しいね、遅刻なんて」
「寝坊しちゃった!」

 碧は千乃の言葉に呆れ、彼女の方へ顔を向ける。

 色白の千乃の目の下に隈を見つけ、そっと息を吐いた。

「夜更かししたの?」
「ちょっとだよ、ちょっと」

 千乃は親指と人差し指で『ちょっと』を作り、舌を出した。

 そんな仕草を上目遣いでされ、碧の心臓はドクンと脈打つ。「ち、ちょっとでも、遅刻するなら、ダメなものはダメだよ」
「もう! 佐倉くんのケチ!」

 千乃はわかりやすく頬を膨らませ、熱くなり始めた碧の顔を覗き込んできた。

 碧は慌てて顔を逸らし、机の中から一冊の本を取り出すと、自分の顔の前で広げた。

「佐倉くん」

 千乃の声が笑っている。

「本、逆さまだよ」
「えっ⁉」

 驚きと恥ずかしさのあまり、碧の手から本が飛び出し、千乃の足元へ着地した。

 それを拾った千乃は、本をパラパラとめくり「ふうん」と呟く。

「な、なに」
「佐倉くんって、難しそうな本ばっかり読んでるのかと思ったら、こういう青春ものも読むんだね」
「本なら、何でも好きだから」

 碧は千乃の手から本を救出し、いそいそと机の中にしまった。

「恋愛小説も読む?」

 これにどう返事するか、碧は悩んだ。

「なんだ、読まないんだ」
「よ、読むよ!」

 なぜか不服そうに聞こえた千乃の声に背中を押され、碧は正直に白状した。 だけど、本当は言いたくなかった。

 中学時代に、恋愛小説が原作の映画の話を振られ、原作を読んだことや、その感想を 滔々(とうとう)と語ってしまい、周囲に引かれたことがあった。

 それが、トラウマとなり、碧は極力、恋愛小説を読むことを隠すようになった。

 それでも、碧にとって、小説は小説。

 恋愛、ファンタジー、ミステリー、ホラー、フィクション、ノンフィクション、小説というものは何でも好きだった。

「そうなんだ! じゃあさ、これ読んだことある?」

 千乃の反応を不安に思っていた碧だったが、千乃はまったく気付かなかったようで、鞄の中から一冊の本を取り出した。

 その表紙を見て、碧は頷く。

「うん、読んだよ」
「ほんと⁉ 嬉しい! この話さ――」
「席につけ。授業始めるぞ」

 千乃の話を遮りながら、数学の教師が教室に入ってきた。

 千乃の不満げな表情が可愛くて、碧は笑みを浮かべる。

 「また、後でね!」

 千乃の小声に、碧は笑いを堪えながら頷いた。