この泡沫の恋が消えてしまいませんように

 雨粒が水たまりに波紋をつくり、そこに映る世界が揺れて、違う顔を見せる。

 世界は一つで、現実世界しか存在しないはずなのに、歪んで見える水たまりの中の世界は、創りもののように見えた。

 佐倉(さくら)(あおい)は視線を上げると、傘を持ち直し、雨の中を歩く学生たちの背中を一つ一つ確認した。

 もうすぐ夏休みだというのに、最近の長雨のせいか、どの背中も憂鬱そうだ。

 傘のせいで友達との距離ができてしまい、一緒に登校しているはずの学生ですら、会話は少ない。

 碧は再び視線を落とし、白いスニーカーが雨を弾く様子を見ながら、沈んだ気持ちを誤魔化した。

 別に探してないし、と心の中で呟く。 偶然がいくつも重なると、それが必然であるように感じるが、結局は偶然が積み重なっただけだ。

 期待していたわけでもない。

 それなのに、どうして、いつも見つける背中を見つけられなかっただけで、こんなにも落ち込んでいるのだろう。

 碧は小さく溜息を吐き、機械的に足を動かし続けた。



「うわ、ベタベタで気持ち悪い」
「梅雨明けしたんじゃないのかよ」

 タオルで鞄を拭きながら、愚痴を零しているクラスメイトの後ろを通り、碧は窓際の一番後ろの席に向かった。

 湿ったリュックサックを机に置き、ズボンについた水滴を手で払う。

 隣の席は空席だ。

 碧は時計を見て、始業時間まであと五分だと確認した。
「休み、かな」

 意図せず出た言葉に、顔をしかめる。

 碧の隣の席は、星宮(ほしみや)千乃(ちの)という生徒で、明るく人懐っこい性格と可愛らしい容姿で、男女から人気がある。

 大人しく静かな碧とは対照的な人物だ。

 碧は高校入学当時から、人気のあった千乃のことを知っていたが、千乃は三年生で同じクラスになり、こうして席が隣になって初めて、碧のことを認識したはずだ。

 いや、隣の席になっても、認識されていないのではと思っていた。

 それくらい、碧と千乃はタイプが違う。

 しかし、碧は千乃の人懐っこい性格を甘く見ていた。

 いつも教室の隅っこで本を読んでいる碧にも、みんなと接する時と変わりなく話しかけてきたのだ。

 それは、予想もしていなかったことで、人見知りの碧はどう返事をすればいいか、迷ってしまった。 変な間ができてしまったにもかかわらず、千乃は優しく笑い、「本、好きなの?」と会話を繋げてくれた。

 あまり人と話すのが得意ではない碧でも困らないよう、千乃が気を配ってくれていることはわかっている。

 それでも、碧の目を見て話してくれる千乃との会話は、学校での唯一の楽しみとなっていた。
 千乃が遅れて登校してきたのは、二時間目が終わり、休み時間に入った時だった。

 みんなから声を掛けられながら、千乃は碧の隣の席に着き、彼に笑顔を向けた。

「セーフ!」
「アウトだよ」
「やっぱり?」

 クスクスと楽しそうに笑う千乃を見て、碧はそっと目を逸らした。

「珍しいね、遅刻なんて」
「寝坊しちゃった!」

 碧は千乃の言葉に呆れ、彼女の方へ顔を向ける。

 色白の千乃の目の下に隈を見つけ、そっと息を吐いた。

「夜更かししたの?」
「ちょっとだよ、ちょっと」

 千乃は親指と人差し指で『ちょっと』を作り、舌を出した。

 そんな仕草を上目遣いでされ、碧の心臓はドクンと脈打つ。「ち、ちょっとでも、遅刻するなら、ダメなものはダメだよ」
「もう! 佐倉くんのケチ!」

 千乃はわかりやすく頬を膨らませ、熱くなり始めた碧の顔を覗き込んできた。

 碧は慌てて顔を逸らし、机の中から一冊の本を取り出すと、自分の顔の前で広げた。

「佐倉くん」

 千乃の声が笑っている。

「本、逆さまだよ」
「えっ⁉」

 驚きと恥ずかしさのあまり、碧の手から本が飛び出し、千乃の足元へ着地した。

 それを拾った千乃は、本をパラパラとめくり「ふうん」と呟く。

「な、なに」
「佐倉くんって、難しそうな本ばっかり読んでるのかと思ったら、こういう青春ものも読むんだね」
「本なら、何でも好きだから」

 碧は千乃の手から本を救出し、いそいそと机の中にしまった。

「恋愛小説も読む?」

 これにどう返事するか、碧は悩んだ。

「なんだ、読まないんだ」
「よ、読むよ!」

 なぜか不服そうに聞こえた千乃の声に背中を押され、碧は正直に白状した。 だけど、本当は言いたくなかった。

 中学時代に、恋愛小説が原作の映画の話を振られ、原作を読んだことや、その感想を 滔々(とうとう)と語ってしまい、周囲に引かれたことがあった。

 それが、トラウマとなり、碧は極力、恋愛小説を読むことを隠すようになった。

 それでも、碧にとって、小説は小説。

 恋愛、ファンタジー、ミステリー、ホラー、フィクション、ノンフィクション、小説というものは何でも好きだった。

「そうなんだ! じゃあさ、これ読んだことある?」

 千乃の反応を不安に思っていた碧だったが、千乃はまったく気付かなかったようで、鞄の中から一冊の本を取り出した。

 その表紙を見て、碧は頷く。

「うん、読んだよ」
「ほんと⁉ 嬉しい! この話さ――」
「席につけ。授業始めるぞ」

 千乃の話を遮りながら、数学の教師が教室に入ってきた。

 千乃の不満げな表情が可愛くて、碧は笑みを浮かべる。

 「また、後でね!」

 千乃の小声に、碧は笑いを堪えながら頷いた。


 それから、碧と千乃は互いの読んだ小説について、毎日、話すようになった。

 授業の合間の休み時間では足らず、昼休みや放課後にも、二人は夢中になって話し込んだ。

「この時、主人公はどうして、こんなこと言ったんだと思う?」

 千乃の問いに、碧は顎に触れて、真剣な表情を浮かべた。

 顎に触れるのは考える時の癖だ。

 ちなみに、照れている時は唇を触るのだが、どちらも本人に自覚はない。

「これは、主人公が本心を隠したいからじゃないかな。だって、まだ彼女に気持ちを知られるわけにはいかない。この時、主人公は、彼女の好きな人が自分の友達だと思っているんだよ。だから、嘘をついた」

「確かに。だったら、この時の主人公はどんな表情をしていたのかな」

 碧は顔を上げ、隣に座る千乃の顔を見た。

 千乃は目線を少し上げて、(くう)を見ている。

 きっと、この小説の主人公の顔を思い浮かべているのだろう。「ここの場面では、表情に関しての描写がないから、わからないね」
「でも、絶対に作者は表情をイメージして書いてるはずだよ。必要がないと思ったのか、書かない方が良いと思ったのかはわからないけど」

 碧は、その言葉にハッとさせられた。

 これまで小説を読んでいて、文字からイメージされるものを想像しながら読んでいたけれど、書かれていないことまでは想像してこなかったから。

「そうだよね。書かれていることが、すべてじゃないよね」

 碧は行間を読むことが得意な方だと思っていたが、どうやら千乃はその上を行くらしい。

 書かれていない登場人物の表情なんて、考えたこともなかった。

 セリフに気を取られ、続く行動の描写に意識を奪われて、このシーンを流してしまっていた。
「もしかしたら、主人公が噓をついた時の表情は、すごく大事なものだったかもしれない。その表情を見ていた人がいるかもしれない。その表情が、言葉以上のものを見せていたかもしれない」

「うん、確かに。書かれていないからといって、大事じゃないとは限らないよね」

 それから、二人はこの時の主人公の表情について話し合った。

 それは随分と白熱し、下校時刻ギリギリまで続いた。

 二人で昇降口を出て、校門へ向かう。

 碧は隣を歩く千乃を盗み見た。

 まっすぐ前を向いて歩く千乃は、自信に満ちていて、迷うことも悩むこともなさそうに見える。

 それに比べて、碧はたくさん悩むし、何度も迷って、諦めてきた。

 当然、自信を持つなんて難しい。「もう夏休みだね」
「うん」

 あと二日で、夏休みに入る。

 そうなれば、毎日のように続いていた小説談議ができなくなってしまう。

 寂しいけれど、碧からそれを言うことはできない。

 仲良くなったとはいえ、今でも千乃が碧のペースに合わせてくれていることはわかっている。

 千乃には碧の他にたくさんの友達がいるし、遊ぶ相手も話し相手もたくさんいる。

 碧には千乃だけだが、千乃にとって碧は友達の中の一人に過ぎない。

 それどころか、碧との時間は、大事な友達との時間を割いて、作ってくれているとさえ思っている。

「今年は、受験勉強に追われるのかぁ」

 千乃の呟きに、碧は空を仰いだ。

「それ、言わないでよ」
「私も言いたくないけどさ。言われたじゃん。この夏休みが勝負です!って……」
「勝負か……」

 千乃の溜息交じりの言葉を聞き、碧も憂鬱な気持ちを隠さずに呟く。
 碧は表情に感情が出ないように意識し、千乃を見下ろした。

 夕陽に照らされた千乃の髪が、涼風に吹かれて、さらさらと流れる。

 美しいと思った。

 可愛いことは知っているし、顔つきも整っている。

 だけど、それだけでは言い表せない美しさを見た気がした。

「私、迷ってるんだよね」
「星宮さんの成績なら、行きたいところに行けるんじゃない?」

 碧は意外に感じながらも、素直に思ったことを言った。

 すると、不満そうな顔で、千乃は碧のことを睨んでくる。

「え、なんか、ごめん」
「反射的に謝ってもダメだよ」
「……それについても、ごめんなさい」
「別に怒ってないけどさ。私もいろいろと悩むわけです。佐倉くんだって、悩んでるから受験の話は嫌なんじゃないの?」
「まあ、ね」

 実は、碧にはやりたいことがある。

 なりたい職業がある。

 それは、小説家だ。 本が好きだから、本に携わる仕事がしたいとは思っていたが、最近、千乃と話すようになって、自分が物語を書く側になりたいと思うようになった。

 ただ、そのためにどうすればいいのかが、わからない。大学に行って、もっと文学について学べばいいのか。

 それとも、小説家になるためのスクールに行ってみればいいのか。

 はたまた、独学で書いてみればいいものか。

 それが、ここ最近の悩みだった。

「悩まない人はいないか……」

 千乃のどこか諦めたような声色に、碧は漠然とした不安を抱いた。

 悩んでいるという言葉とは違う『諦め』という感情。

 まだ高校生の自分たちが、何かを諦めるのは早いのではないだろうか。

 こんな碧でも、小説家という特殊な職業になれたらと夢見ているのだから。

「あの、星宮さん」
「なに?」

 碧は立ち止まり、千乃に向き合った。

 千乃は見慣れない碧の様子を不思議そうに見ながら、立ち止まり、彼を見上げている。

「あの、頼りないかもしれないけど、僕で良かったら、いつでも話を聞くから」

 顔が熱いのは、気温のせいだと言い聞かせ、思い切って言った。

 自分らしくないセリフだとわかっている。

 謙虚な姿勢で『頼りない』のではなく、言葉どおり『頼りない』。

 そんな嫌な部分には自信があった。

「ありがとう」

 千乃はからかったり、笑ったりせず、優しい笑みを浮かべている。

「う、うん」

 碧の方が感謝の気持ちを言いたくなった。

 自分の世界で生きてきて、あまり人と関わることもなかった碧にとって、とても意味があり、大きな進歩だと言える、そんな言葉だった。

 それを、千乃に受け入れてもらえたことが心底嬉しかった。
 夏休みに入り、碧は千乃の笑顔を恋しく思いながら、一つのチャレンジを始めた。

 一冊のノートに小説にしたいアイディアを書き始めたのだ。

 今はまだ話にもなっていないアイディアの数々。

 使いたい言葉、好きな表現、登場人物や物語の設定。

 これまでインプットしてきた財産を不器用ながらアウトプットしていく。

 それは、思ったよりもおもしろいものだった。

 しかし、いざ物語を創ろうとして、いきなり行き詰ることになった。

 起承転結が大事で、一本の筋が通っていないと話が成り立たない。

 理屈はわかるのに、上手くまとめられないという壁にぶつかった。

 碧はノートをトートバッグに入れ、自転車を走らせた。

 蝉の鳴き声が頭に響き、熱風のような風が頬を撫でていく。

 ただ、久しぶりに自転車を走らせるのは気持ちが良かった。

 好きなことをしているのに、行き詰ったことが、自覚以上にストレスになっていたようだ。 碧はお気に入りの川へ行き、日陰を探した。

 ちょうど橋で影ができているところを見つけ、そこを陣取ることにした。

 ノートを広げ、自分が書いたことを読み返す。

 聞こえてくるのは蝉の声と川のせせらぎ。

 時折、車の走行音が聞こえたり、小学生が自転車で通っていく楽しそうな声が聞こえたりする。

 静かな音楽をかけるのとは違った環境音の心地良さを感じ、碧は大きく伸びをした。

「佐倉くん!」
「うわっ⁉」

 すっかり気を抜いていたところに声を掛けられ、驚いた碧は勢いよく振り向いた。

 視線の先には、私服姿の千乃が笑顔で立っている。

「ほ、星宮さん……」
「偶然だね! 佐倉くんに会えるなんて思ってなかったから、嬉しい」

 千乃は隣にしゃがみ、顔を赤くしている碧の顔を覗き込んでくる。

 思いがけない出会いと、思いもしなかった言葉に、碧の心臓が悲鳴を上げた。

 涼しい表情を浮かべる千乃が憎いほどだ。
「よく気が付いたね」
「佐倉くんに呼ばれた気がしたんだ」
「えっ」

 碧は思わせぶりな言葉に狼狽(うろた)え、唇に触れる。

 すると、千乃からクスクスと笑い声が聞こえてきて、からかわれたのだと思い至った。

「もう、からかわないでよ」
「そんなつもりじゃなかったんだけど、佐倉くんの反応がかわいくて」
「か、かわいいなんて……」

 自分には不釣り合いだ。

 どうせ不釣り合いなことを言われるなら、『かっこいい』と言われたかったなと思う。

 そう思ってから、千乃にかっこいいと思われたいのだと気付き、ますます顔が熱くなる。

 そうだ。

 自分は千乃を意識している。

 女の子として。

 ただの友達だと思い込もうとしていたけど、本当はとっくに初恋の人になっていたのだ。「それで、佐倉くんはここで何をしていたの?」

 千乃が話題を変えてくれたことにホッとしながらも、正直に話すか迷う。

 きっと千乃は碧の夢を聞いても、笑わないだろう。

 本が好きな千乃のことだから、応援してくれるかもしれない。

 碧はさらさらと流れる清流に視線を遣り、深く息を吸い込む。

 千乃の反応に、淡い期待を寄せながら、碧は口を開いた。

「小説を書こうと思って。まだ、全然形になっていないんだけど、この夏に一作だけでもいいから、話を書き上げたいと思ってる。高三の大事な時期に、バカみたいでしょ?」

「すごいよ! こんな時だからこそ、自分のやりたいことに挑戦するなんて、かっこいい!」

 千乃の笑顔が弾け、碧の目の前で眩しく煌めく。

 笑われるどころか、『かっこいい』という言葉が聞けるとは思っていなかった。