まるでソーダ水のように澄み渡る、どこまでも青い空の下。

先輩が、帰ってきた。


「久し振り、二葉(ふたば)くん。
元気にしてた?」

土手の上から声をかけてきた先輩は、穏やかに微笑んでいる。
懐かしい表情だ。
子どもの頃、通学路で「おはよう」と手を振った時そのままの。

「……夏苗先輩。
お久し振りです。
帰ってきてたんですね」

「そう。
夏休みだから」

心なしか嬉しそうに、先輩は土手を降りてくる。
そうして、土手から川へ向かう階段に座っている、僕の隣に腰かけた。
淡い髪が香る。
近い距離感にドキッとする。
先輩が中学生になった頃から、なんとなく、手の届く距離には近付けなくなっていたから。
驚く僕には構わず、先輩は僕の手元を見た。

「また本読んでたの?」
「はい、まあ」
「相変わらず好きだね。
いつも読んでたもんね、どこででもさ」

にっこりと笑いかけてくる。
普段、クラスの女子を遠巻きに見ることしかできない僕は、つい顔を赤らめた。

……先輩は、憧れの人だ。
小さい時から家が近所で、先輩が小学生、僕が保育園児の頃から、しょっちゅう顔を合わせては遊んでもらう間柄だった。
大人しくて人見知りだった僕も、「夏苗お姉ちゃん」にはよく懐いた。
お姉ちゃんは、絶対に怒らない。
どんな意地悪な人とも仲良く話せて、困っているとすぐに助けてくれる。
いつもニコニコして、いざとなれば体を張って、怖いものから守ってくれる。
学校の集団登校では、手をつないでもらって歩き、スピードを出して幅寄せしてくる車からかばってもらったこともある。
中学生になると、「夏苗先輩の幼なじみ」として、僕まで一目置かれる有り様だった。
夏苗先輩がいるだけで、皆が喜ぶ。
先輩は非の打ち所のない、優しい人なのだ。

先輩がふと、顔を上げて、近くに停めた僕のクロスバイクを見つめる。

「いいね、スポーツ自転車って言うの?
格好いい。
二葉くんの?」

「はい。
先週、買ったんです」

「ふうん」

先輩は頬杖をつくように、手のひらを細い顎に当てる。
と、いたずらを思いついた子どものように、茶目っ気のある大きな瞳で、僕を見つめてきた。

「ねえ、連れてってよ。
海まで」

「えっ」

「いいでしょ?」

先輩はじっと見つめてくる。
僕はどきどきしながら、でも、珍しいな、と心の片隅で思った。

先輩は、どちらかと言うと尽くす人だ。
自分から、これをしたいとか、あれをやってとか、強引なことを言ったり、振り回したりすることは滅多にない。

「海って、海まで結構距離ありますよ。
それにこのクロスバイク、2人乗りはできなくて」

「なあんだ。
つまんないの」

僕はびっくりする。
先輩から『つまらない』なんて言葉を聞くのは初めてだった。
そんな、人を傷つけるようなことは、絶対に言わない人だったのに。

すると先輩は、僕のぽかんと口を開けた表情に気付いたのか、すぐにいつものニッコリ笑顔に戻る。

「じゃあ、歩いていこうよ。
気分転換にさ。
ここでずっと座って本読んでたら、疲れちゃうでしょ」

「……本気ですか?」

「うん」

短く答えた先輩の声が、なぜか、泣きそうなほど震えているように聞こえて、僕は思わずうなずいた。

「分かりました。
行きましょう。
……歩き疲れたら、いつでも帰りますから、言ってくださいよ」

「ありがとう!」

先輩が、まさに破顔と言うべき、とびきりの笑顔を見せてくれて、僕はほっとする。

やっぱり先輩には、笑顔が似合う。
ずっと、笑っていてほしい。


夏の直射日光の下、僕と先輩は、川沿いを下流へ向かう。

クロスバイクを引きながら、僕は隣を軽やかに歩く先輩を見つめた。

白いワイシャツとイエローのボトムスが、日差しに負けないほど輝いていて、まるで夏の妖精のようだった。

暑さも日焼けも、てんで気にしていない様子で、踊るように、機嫌良さそうに歩いていく。


僕はと言えば、半袖のTシャツから出た腕が、じりじりと痛み始めていた。
ずっと、橋の下の日陰で本を読んでいて、そろそろ帰ろうという頃合いだったから、暑さが堪える。

なんとなく、先輩を差し置いて、ぬるくなったミネラルウォーターに口をつけるのも悪い気がして、ひたすら歩いていると。

「ねえ、コンビニ寄ろうよ」

顔を上げると、先輩が振り返って、こちらを心配そうに覗き込んでいた。

「ね、寄ろう?
あっちの交差点のコンビニ、まだある?」

「あります……たぶん」

「じゃ行こう。
あと3分だから、そこまで行ける?」

僕がうなずくと、先輩が微笑む。

「水も飲んで。
カバンに入ってるんでしょ?
遠慮しなくていいから」

僕はまたうなずいて、手提げからミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。
ごくごくと飲み干した水は、お湯と言って差し支えない生温かさだったけれど、なんとか口の中は潤った。

「こっちだよ。
おいで」

先輩に誘導されるようにして、道端の日陰沿いを歩きながら、コンビニへ向かう。

……やっぱり、先輩は優しい。
こちらが何か言う前に、察して気遣ってくれる。
僕に日陰を譲って、先輩は日向を歩いてくれている。

「ごめんね、無理させちゃって」

先輩がぽつりと呟いた。

「もう、十分だから。
……帰って大丈夫だから」

唐突に気弱なことを言い出す先輩を、僕は見つめる。

「大丈夫ですよ。
ほら、……もうすぐコンビニです」

指差した僕を、先輩は嬉しそうに見つめ返してくれた。



コンビニの自動ドアをくぐった瞬間、異世界のような冷気に包まれる。

先輩はまっすぐに、奥のドリンクコーナーへ向かうと、両手にスポーツドリンクを持って戻ってきた。

僕が手にしたレジかごに、それをポンポンと入れていく。

「二葉くん、財布持ってる?」

「はい」

「じゃあ、二葉くんの奢りね」

「えっ」

やっぱりどこか、今日の先輩はおかしい。
人に奢ることはあっても、奢らせるような人じゃなかったはずなのに。

レジへ向かう先輩の後ろ姿を見ながら、ふと僕は気付く。
……今日の先輩は、手ぶらだ。
先輩はいつも、何かしらバッグやポーチを持っていて、そこから魔法のように、絆創膏やハンカチ、お菓子なんかを出して、必要な人に差し出していた。
今日は何も持っていない。
ボトムスのポケットもペタンコだし、財布も、もしかしたらスマホも持っていないのかもしれない。

あの河川敷は近所だったし、手ぶらでも特に支障はないのかもしれないが……それにしても、先輩らしくなかった。

と、不意に先輩が、酒類コーナーのガラス扉を開ける。
そうして無造作に、レモンの描かれた缶チューハイを手に取ると、僕の持つかごへ放った。
なんだかすごく投げやりな仕草だった。

「……先輩?」
「えっ、あぁごめん、手が滑っちゃった」

あはは、と困ったように笑う先輩は、僕の知る先輩の顔だったけれど、やっぱりどこかが、いつもと違う。

確かに、先輩が県外の大学に進学して以来、会うのは久し振りだ。
時間は人を変えるのかもしれない。
でも。
知っているようで知らない先輩の姿に、僕は戸惑いを隠せない。

「先輩、お酒飲むんですね」

「何?いけないの?」

途端に不機嫌になる先輩。
僕の知らない顔だ。

「二葉くんは知らないかもしれないけど。
……大学生になると、みんな大抵飲むんだよ。
18、19歳の子がメインの新歓だって、会場は居酒屋で、ビールを注がれるんだから」

苦々しい顔で、先輩はそう言った。
なんだか、すごく苦しそうだった。
……後悔、しているのだろうか。

「もういいの、もう」

ごまかすように、先輩はいつもの笑顔を見せる。
こうなると、笑顔の先輩とそうでない先輩と、どちらが素なのか、分からなくなってくる。

「あ、二葉くん。
帽子も買った方がいいんじゃない?」

あっさり話題を変えた先輩が、レジ横の日除けグッズを指差す。

日焼け止めや日傘、アームカバーと一緒に、白、ネイビー、黒の帽子が陳列されている。

「そうですね、買います」

僕が深く考えずに答えると、先輩は帽子に手を伸ばす。

そうしてかごに入れたのは、白のレディースハットではなく、黒いメッシュキャップだった。

これも、先輩らしくない。
自分より他人を優先し、僕の帽子を選んでくれるのは、いかにも先輩らしいのだが……
先輩の好きな色は白だし、僕の青いTシャツに合わせるならネイビーだ。
黒、って。
選ぶ理由が見つからない。

「……先輩?」

「ん?」

「何か、あったんですか?」

「あ、塩レモンのタブレット。買うよ?」

「はい」

まるで聞こえていないかのように、先輩はタブレットをかごに入れ、僕からレジかごを受け取るとレジ台へ乗せた。

きっと何かがあったのだ。
僕は確信する。
でも、何があったのか、分からない。


コンビニを出ると、先輩は早速レモンチューハイを手に取り、ぐいっと一気に煽った。

「……からーい。
喉痛い」

自分で飲んでおきながら、先輩は弱音を吐いた。
確か、「超絶ストロング!」みたいなCMを流しているお酒だ。
それを知らないわけでもなかろうに、先輩は、たいして美味しいわけでもないであろうアルコールの塊を、一滴残らず胃へ流し込んだ。

そうして空き缶を、コンビニのくずかごに放り込む。

「あはは、じゃ、行こうか」

お酒で顔を赤くしながら、先輩は陽気に歩きだした。

僕は黒のメッシュキャップをかぶり、先輩の後をついていく。

が、先輩がふらふらと車道へ出そうになったので、慌てて先輩の隣へ行き、僕が車道側を歩くことにした。

……小学生の時とは、立場が逆だ。
あの時は、「夏苗お姉ちゃん」に守られてばかりで。
自分が世話を焼く立場になるとは、思ってもみなかった。

「……優しいね、二葉くんは」

お酒のせいか、若干舌足らずな口調で、先輩はこちらを見上げてくる。

「……二葉くんだったら、よかったのに」

先輩はそう呟いた。
え、と僕が間の抜けた声を漏らすと、先輩はニコニコと笑いかけてくる。

「どうしたの?」

「え……いえ、その」

「あはは」

先輩は何がおかしいのか、意味もなく笑って、スタスタと歩き続ける。
……からかわれているのだろうか?


もう、どれくらい歩き続けただろう。
まだまだ、海までには距離がある。
そもそも、自転車でも躊躇するような遠さなのだ。
日暮れまでに着けるのかも、先輩や僕の体力がもつのかも怪しい。

足腰が痛くなり始めた頃に、先輩が「ねえ」と声をかけてきた。

「公園だよ。
ちょっと休憩しない?」

顔を上げると、植木に囲まれた、ベンチと滑り台があるだけの、小さな公園があった。

僕はうなずいて、先輩と公園に入り、並んでベンチに座る。
ちょうど、枝葉で木陰ができており、少し涼しい。
コンビニで買ったスポーツドリンクを、先輩に渡すと、先輩は美味しそうに飲んだ。

ぷは、と、爽やかに息を吐く姿が艶っぽい。
よく見れば、白いシャツも汗だくだった。
つい目をそらした僕とは裏腹に、先輩は僕を見つめてくる。

「二葉くんも飲んだら?」

そう言って、あろうことか先輩が先程まで飲んでいたペットボトルを差し出してきた。

「い、いいですよ、僕、自分のがありますから」

慌てて手提げから、もう1本のスポーツドリンクを取り出して、キャップを開ける。

「いいのかなぁ、せっかく、間接キスのチャンスだったのに」

先輩の口からキスという言葉が出て、僕はうっかりキャップを取り落としそうになる。

ケラケラと先輩が笑った。

「ほら、ちゃんと持たなきゃ」
「分かりました、分かりましたから」

先輩の手から逃れるように、ベンチから立ち上がる。
これでは心臓がもたない。

先輩はベンチに座り込んだまま、からかうように笑っている。

人が悪い。
いったい、どうしてしまったのだろうか。
僕の記憶にある、純真で清楚な先輩は、幻だったのだろうか?

赤くなった頬を冷ますように、僕はスポーツドリンクを飲み込む。

お酒のせいだ。
きっとお酒のせいで、先輩は僕に絡んでいるのだ。
酔いが冷めたら、きっと後悔するに違いない。

「先輩、もっと自分を大事にしてください」
「え?」
「先輩はもっと、大切にされるべきです」

説明にならない言葉を繰り返すと、急に先輩は、しゅんと大人しくなった。

「……先輩?」

先輩はうつむいたまま、すっくと立ち上がった。

「行こう」

先輩はそれきり、黙ってしまった。



何が先輩の気に障ったのか、分からない。
そもそも、先輩が怒っているのかどうかすら、分からない。

ただ、先輩は、追い詰められたように、必死に、ひたすら歩き続けていた。

下手をすると、赤信号でも渡りそうになっていて、慌てて前へ立ち塞がって止めることもしばしばだった。

日が暮れ始めても、先輩の歩みは止まらない。

……最初、「海に行きたい」と言い出した時には、冗談かと思った。
一緒に歩き始めても、本当に海へたどり着ける実感は、どうしても湧かなかった。
それだけの距離がある。
夢のような場所だ。

でも、先輩の目は、真剣そのものだった。
先輩は本当に、海へ行くつもりなのだ。


ふと、考える。
……先輩は、なぜ海に行きたいのだろう?
僕のクロスバイクを見て、「海へ連れてってよ」と言い出した先輩。

ただの思いつきに、見えた。
気まぐれに思えた。

でも、今の先輩は、すがるように海の方角を見つめたまま、目を離さない。

……海に何があるのだろう?
記憶を手繰る。
家族ぐるみで行った海水浴。
子供会のバーベキュー。
地区で動員された海岸清掃。
どれもピンと来ない。

考えていたら、先輩が、歩道の段差につまずいた。
助ける間もなく、あっという間に地面に倒れ込んだ先輩に、僕は駆け寄る。

先輩は震えていて、なかなか立ち上がれない。
辺りは暗くなり始めていた。
夜目にも先輩の手足は細い。
今まで、お酒の酔いで歩き続けてはいたものの、体力はとっくに限界を迎えていたのだろう。

「……先輩」

「ごめん、二葉くん、起こして」

先輩に手を伸ばされて、僕は、砂利のついた華奢な手を握る。
なんとか助け起こすと、先輩はなおも歩こうとする。

「先輩」

「行こう」

「先輩!
いったい、どうしたんですか!?」

先輩は首を横に振る。
わけが分からない。

「このままじゃ、怪我しますよ」

「いいの」

「よくないですよ!
なんでそんなこと言うんですか!」

先輩は震えている。
そうして、絞り出すようにささやいた。

「着いたら、話すよ……
だから……
だから、お願い……」

僕はため息をつく。
とりあえず路肩に先輩を座らせ、引いてきたクロスバイクを、近くの電柱に寄せて鍵をかける。
せめてママチャリだったら、2人乗りができたし、先輩に乗ってもらうこともできたのだが、仕方がない。

「とにかく、しばらく休んでください」

座り込んだ先輩の隣に、僕も腰かける。
正直、僕自身の体力も尽きかけていた。

夏の日暮れは遅いが、暮れ始めると早い。
一気に薄暗くなる空気を、重く感じながら、体を休めた。

ここからは、海が近付くにつれ、外灯の数も減ってくる。

「……帰るなら、今ですよ。
僕、スマホ持ってますから、家にも連絡できます」

先輩は、うつむいたまま、かぶりを振る。
しばらく黙っていた先輩が、ようやく口を開いた。

「二葉くんは、帰っていいんだよ」

「……ここまで来たんです。
付き合いますよ」

不思議と、帰りたい気持ちはなかった。
それよりも、先輩のことが心配で。

ずいぶんと長い間、黙って休憩を取り、やがて先輩は立ち上がった。

「行ける?
二葉くん」

「行けます」

先輩はうなずいて、歩き始めた。


ようやく、海岸に到着した頃には、すっかり夜になっていた。

空には月と星が輝いている。

明かりのない砂浜では、海と浜の境すら分からない。
それでも、足の裏の砂の感触と、風に乗って流れてくる潮の匂い、昼と変わらぬ響くような波の音が、海の存在を知らせていた。

先輩は、ふらふらと海へ近付いていく。
慌てて僕も後を追う。
離れたらきっと、見失ってしまう。

先輩は、波打ち際まで駆け寄った。
ぱしゃり、と、先輩の足が水をかぶった音がした。
そこでようやく、先輩は立ち止まる。

僕は先輩の隣に行く。
靴が濡れる。
あっという間に、素肌にまで海水が浸透する。
波が寄せるたびに、くるぶしが水に浸かっては出てを繰り返す。

先輩の様子をうかがう。

先輩は肩を震わせていた。
しゃくり上げるような呼吸音が聞こえて、泣いているのだと気付いた。

どれくらい、そうしていただろうか。

先輩はふらふらと後ずさると、尻餅をつくようにして砂浜に座り込んだ。

僕も隣に座る。

「ありがとう。
一緒に来てくれて」

先輩は、静かにそう言った。
少なくとも、不機嫌さや、追い詰められた様子は、感じられなかった。

「気は済んだよ。
二葉くんのおかげ。
……ありがとう」

どうやら、目的は達成できたらしい。
でも、先輩が何をしに来たのか、僕にはまだ分からなかった。

「……もう、いいんですか?」

「よくはないけど、でも、私にはそんなこと言う資格はないから」

どういうことなのか。
僕が戸惑っていると、先輩が微かに笑った気配がする。

「ここに来れば、会えるかと思ったの」

誰に、と聞きかけて、口をつぐんだ。
海で、それも波打ち際の向こうで会える人。
……わだつみは、黄泉の国だ。
黙っている僕に、先輩は再び話し始める。

「二葉くん、河川敷にいたでしょ。
川を見て、思ったんだ。
流れちゃったんなら、行き着く先は、海だなって」

流れちゃった。
血の気が引く。
まさか、そういうことだったのだろうか。

「……私には、悲しむ資格なんてないの。
だって私のせいだから。

でも……私以外の誰も、悲しんではくれなかった。
あの人も、私の親も。
みんな厄介者扱いするの。
流れてよかったなんて、そんなひどいこと言うの。

……だから……」

思い出す。
今はお盆だ。
墓標のない魂のために、先輩は、迎えに行こうとしたのだろう。

「……一緒に悲しんでくれる人が欲しかったの。
ごめんね、巻き込んで」

かぶっていた黒のメッシュキャップを、胸に抱く。
先輩が黒を選んだ理由が分かった。
大っぴらには誰にも言えない中、僕にだけは、喪に服して欲しかったのだろう。


……先輩は、きっと、ずっと苦しかったのだ。

河川敷に来た時だって、寝ても覚めてもいられずに、着の身着のままで出歩いていたのかもしれない。

たまたま僕を見かけて、海へ行けば会えるかもと思いつき、弔いの旅の伴侶に僕を選んだ。

弱いくせに無理やり強い酒を飲んだり、わざわざ徒歩で行こうとしたのは、もしかしたら自傷の1つだったのかもしれない。
心の痛みに、体がついていかなくて、それで余計につらくて。
『自分を大切にしてほしい』と言われて黙り込んだのも、とてもそんな気になれなかったからなのだろう。

どこか情緒が不安定だったのも、感情がぐちゃぐちゃになってしまっていたからかもしれない。


「……二葉くん」

「はい」

「二葉くんがいてくれて、よかった。
本当に、そばにいてくれるだけで、よかったの」

本当は。
彼氏にいてほしかったのだろうと、思う。
『二葉くんだったら、よかったのに』
という呟きは、きっと、そういうことだったのだ。

「二葉くんは、彼女を大切にしてあげてね。
自分の子どもも、大切にしてあげて」

「はい」

「決して、勢いでしたりしないように」

「しません」

「……まあ、公園での様子からして、大丈夫だとは思うけどね」

先輩の声が、少し柔らかくなる。

「せめて二葉くんは、幸せな家庭を築いて。
そうしたら私、少しは嬉しくなれる、かもしれない……」

僕はうなずく。
それが、先輩に伝わったかは分からないけれど、先輩はくるりと海へ背を向けた。

「……ありがとう、二葉くん」

さく、さくと、砂を踏む音がする。
先輩は再び、歩き始めた。


その後、最寄りのバス停まで歩いて、先輩を家まで送っていった。

先輩は、気の抜けた笑顔で、僕に手を振って、扉の向こうへ姿を消した。

僕も家に帰る。
自室のベッドの上に寝転び、先輩とのやり取りを思い返す。

幼かった頃の、優しく強い「夏苗お姉ちゃん」の姿。
その笑顔を保てなくなってしまった、深い悲しみのこと。
それに寄り添う、隣にいるということ。

黒のメッシュキャップを胸に抱く。
どうか、どうか、先輩達の痛みが癒えますように。


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