昨日、彼女が僕のことを必死に守ってくれたおかげで安全な朝を過ごすことができた。だけどそんな安全もずっと保障されるわけではない。それを知ったのは昼休みだった。
「ねえ、ボチ也。一つ良い報告があるの。」
奴らがニヤニヤしながら近づいてくる。この顔は良いことじゃない。何故かとても嫌な予感がして冷や汗が止まらない。
「ボチ也の彼女って香奈でしょ。そいつさ、私のお姉ちゃんと同じ学校なんだって。すごい偶然だよね。」
この姉妹は、姉妹揃って人をいじめていると噂になっていた。
「香奈には、何もしてないよな。」
僕はこいつらを睨みつけて問う。彼女を守るためならば僕が標的になっても良い。彼女から目を逸らせるなら僕が犠牲になっても良い。
「何その反抗態度。何もしてないかなんて知らないよ。学校違うんだし。彼女に聞けばいいじゃん。何かされてたら助けてーって来るはずだよ。」
奴らは笑いながら僕のことも彼女のことも罵倒する。僕のことはいくらでも言ってもらって構わない。けれど彼女をこれ以上罵倒するのは許せなかった。
「もう良い。」
僕は本を開いた。これ以上こいつらの話には付き合っていられない。今度はこの本をおすすめしようかな。彼女は普段どんな本を読むのだろうか。
冷たい風が吹く。塾に向かう道には秋色しか見えなかった。彼女はもう来ているのだろうか。彼女に早く会いたくて、少し早めに来てしまった。
塾の扉を開けると中からは温かい空気が出てきた。何でだろうか。先生は暑がりでこの時期はまだ冷房がガンガンに効いているはずだ。外よりも寒いはずだ。教室に足を踏み入れた途端にその理由がわかった。
「よっ。」
何事もないかのように挨拶をしてくる彼女の姿がある。だけどいつもとは違う。僕が目を見開き驚いていると彼女は疲れた表情で小さく笑った。
「お、お前なんで。どうしたんだよ。」
彼女はびしょびしょに濡れた服を着て震えていた。何があったのだろうか。昼の奴らの言葉を思い出す。もしかしたら、僕のせいで彼女がこんな目にあっているのではないかと不安になった。
「あはは、水道掃除してたら水がかかっちゃったの。」
彼女は笑いながら意味不明な理由を述べる。顔は笑っているが、瞳の中は悲しみに揺れていた。
「いや、そんなにかからねえだろ。」
「なんか、ぼーっとしてて…。気づいたらこうなってた。」
僕を心配させないようにするためか必死に笑う彼女。僕の顔はそんなに険しくなっているのだろうか。もちろん僕は信じていない。彼女は誰よりもしっかりしているのだから、そんな失敗をするはずがないと心の中で否定する。でも、彼女が無理して笑う姿を見るとその行動に理由があるような気がし、何も言えなくなった。
「とりあえず、その服脱げよ。風引くぞ。」
「えっと、少々事情がありまして…。」
風邪を引く事よりも重要な事情とは何なのだろうか。そもそも、そんな事情はあるのだろうかと首を傾げる。
「そうじゃなくて、替えの服なんて持ってないの。だから、これ脱げないの。」
恥ずかしさが襲ってきたのか彼女が赤くなりながら説明する。
「ああ、ごめん。そう言うことじゃなくて。僕、もう一着服持ってるから。運動着だけど…。無いよりはましだろ。」
「もう、言葉足りないよ。びっくりしたじゃん。」
「ごめんって。」
確かに、言葉が足りな過ぎたかもしれない。彼女に変態だと思われそうな言い方だった。僕は運動着を探しながら悔いる。見つけた運動着を鞄から出すと彼女が何か気づいたようだ。
「あっ、でも…。髪の毛もびしょびしょで、服濡れちゃうから借りれない。」
どうしてここまで遠慮するのだろうか。まあ、彼女の髪も拭かないとと思っていたところだった。
「良かったな、僕が運動部で。」
彼女の髪をスポーツタオルでわしゃわしゃと拭いた。
「えっ、帰宅部じゃないの。ずっとそう思ってた。」
「失礼だな。バレー部だ。」
拭き方をより一層激しくした。
「初耳。すぐ家に帰って本ばっかり読んでると思ってた。」
「こら、僕をなんだと思ってるんだ。」
確かに僕がバレー部だと当てられる人はいなかったが、彼女までそう思っていたとは。でも、家に帰ったらすぐに本を読むと言うのは正解だ。
「ほら、これでちょっとはましだろ。」
水滴が垂れなくなるくらいには拭いた。
「ほら、早く着替えてきな。」
「ありがと。」
振り返った彼女は何故か少しだけ幸せそうな顔をしていた。彼女には少し大きい運動着を抱いてトイレに向かった。
「香奈さん、本当に水道で濡れたんだと思うか。」
先生が耳元に小さな声で尋ねてくる。
「そう思いませんよ。だって、彼女ですよ。」
「そうだよな。あの真面目な香奈さんが、ぼーっとしてたでびしょびしょになるはずがない。それに、どう頑張っても頭まであんなに濡れることは出来ないだろ。」
僕も同じことを思っていた。
「もしかして、いじめられたりしてないよな。」
先生の予想が多分正しい。先生が何か言いかけた瞬間にトイレの方からガチャッと音がした。
「先生、今の話絶対に彼女に言わないでください。」
「ああ、分かってる。」
彼女の姿を見た瞬間に声が出た。
「やっぱりそうなると思った。」
彼女も思っていたのか少しだけはにかんだ。
「めっちゃブカブカじゃん。お前が小さいから。」
自分が小さいと言われたことにムッとした顔をして僕を見る。
「仕方ないでしょ。てか、君が大きすぎるんだよ。大体私は百五十センチしかないのに、君は百八十センチあるから。」
僕たちには大きな身長差がある。並んで立つと兄弟に見られるかななんて思いながら、彼女を見ると震えが止まっていた。
「寒くなくなったか。」
「うん、ありがと。」
彼女がにっこり笑う。これは本当の笑い方だ。やっぱり心から笑う彼女は本当にかわいい。
「まあ。」
「何よ、その曖昧な返事は。」
「別に何もないし。」
彼女を前にすると素直になれなくなる。優しく接したいのに、ぶっきらぼうな言い方になってしまうのは何故だろう。
「おーい。そろそろ授業始めるぞ。」
先生の声で彼女と一緒に席に向かう。 席に着くとこの辺りはまだ冷えていると感じた。そっと隣を見るとやはり彼女は震えていた。
「先生、こいつに風引かれたら困るので、席近づけて温めながら受けても良いですか。」
きっと僕がふざけるからダメだと言われ、許可は取れないと思っていた。しかし、帰ってきたのはまさかの返答だった。
「ああ、よろしくな。」
先生も彼女のことをとても心配していると伝わってきた。僕は彼女と机をつけて、体を寄せた。
「おいで、冷えたら困るから。」
彼女には少し抵抗があるようだ。それはそうだ。僕だって好きでもない女の子と引っ付いて授業を受けろなんて言われたらとんでもないと思うから。
「えっと、その。…まじで。」
「うん、まじ。」
だけど、今はそんなこと言っていられない。彼女が寒そうに体を震わす。きっと本人は気づいていないんだろうな。彼女が隠したいことはあえて言わない。決心をしたように僕にもたれかかって来た。
「温かい。」
彼女とくっついた部分から冷たさが伝わってきた。
「やっぱり、寒かったんじゃん。」
冷え切った体が温かくなるように肩を引き僕の方に寄せる。自分でやったことだがとてつもないくらいの速さで鼓動が鳴り響いている。彼女に聞こえませんようにと祈る。塾の授業中にこんなに近づくことができるとは思っていなかったので少し浮かれる。憂鬱な時間が幸せな時間へと変貌した。まるで二人きりの時間に感じた。
「この問題激むずだぞ。香奈、答えられるか。」
先生の声で現実世界に引き戻された。黒板を見ると何が書いてあるのかよくわからない図形と式が並んでいた。
「ええっと。…六十度です。」
「正解だ。流石だな。」
彼女は本当にすごい。今、ノートにぱぱっと計算しただけで答えを求めることができるのだから。彼女がもしも僕の本当の彼女だったら、きっと僕らは釣り合わない。真面目な彼女と不真面目な僕。強い彼女と弱い僕。
「この問題は前回の基礎の復習だぞ。凌也、答えろ。」
「えっと、わかりません。」
大事な考え事をしている時に話しかけられたので、少しの反抗心で黒板なんか見ないで答えた。
「凌也、お前な、真面目にやれ。」
先生が少し呆れながら怒っている。どんな顔をしたら、呆れも怒りも伝わるのだろう。先生みたいに器用にできない。
「先生って、器用だよな。」
僕が思ったことを口にする。予想以上に大きな声が出てしまい先生にも聞こえてしまったらしい。
「凌也、ちょっと黙れ。」
「はいはーい。」
僕がてきとうに答えると彼女が肩を震わせた。
「どうした。寒いか。」
「違う違う、面白くて。」
僕の予想とは裏腹の返答が返ってきた。だけど、何が面白かったのかさっぱりわからない。だけど振り返る仕草や顔が可愛い過ぎる。真面目で、しっかりしてて、強くて、でも最高に可愛い。彼女が大好きだ。彼女が身を任せてきた。また少しだけ彼女に近づく。彼女が何かを囁いたようだったが聞こえなかった。彼女のおかげで二時間ある退屈な塾が幸せな時間に変わったことだけは確かだった。授業が終わり僕たちの体が離れる。彼女はけっこう温まったみたいだ。安心からトイレに行きたくなり、少し席を外した。トイレから出て荷物を取りに教室に戻るところで声が聞こえた。
「ねぇねぇ、香奈ちゃん。ちょっと聞いても良い。」
「なに。どうしたの。」
彼女が誰かと話している。でも、彼女が塾で親しい人なんていなかった気がする。嫌な予感がして階段を二段とばしで駆け上がる。教室に入ると彼女が三人の女の子たちに囲まれていた。見たことあるような、ないような子だ。
「あのさ、凌也君と付き合ってるの。」
大方今日の授業のことだろう。少し目立ちすぎたかもしれない。真面目ナンバーワンの彼女と不真面目ナンバーワンの僕が仲良くしている光景を見たら誰だって関係を聞きたくなるだろう。
「ああ、そのことか。」
彼女もそのことを理解したらしい。彼女の背中から緊張の文字が消えた。
「うん、そんな感じ。」
彼女が堂々と答えると、三人の女の子の顔が暗くなる。
「あっ…。そうなんだね。」
何だろう。背筋に冷や汗が流れる。僕の勘は当たる。それも嫌な時には格別。彼女の身に危険が起きた時に飛び込む準備をして待機をする。
「あのさ、どっちからなの。」
どっちとは何の事を言っているのだろうか。彼女も僕と同じことを思ったらしい。
「えっ、どっちってどういうこと。」
「私は、凌也君のことが…ずっと好きだったのに。」
俯いていた女の子がいきなり顔を上げた。今、なんて言った。とんでもないようなことを聞いてしまったような気がする。僕のことが好きなんて、あいつは何を言っているのだろうか。
「で、どっちから告白したの。」
なるほど。これで彼女からと答えるとあいつに殺される。凄まじい量の殺気が彼女を覆っている。流石に怖気づいているのか、困っているのか彼女は何も答えなかった。
「僕からだけど。」
少しでも彼女の助けになればと声を出す。どうして彼女以外の女子はこんなにも面倒くさい生き物なのだろうか。
「だいたいさ、僕のことが好きだったなら香奈じゃなくて僕に言いに来なよ。香奈に言って何になるの。」
本当に思ったことを言っただけだった。それなのに僕の言葉に二人黙り、一人泣いた。
「私は、ずっと、凌也君のことが、好きだっ、たのに。」
ならもっと前にそれを言えよ。だけど僕は彼女が好きだ。それは今も昔も変わらない。
「ごめん、僕もずっと前から香奈のことが好きだったから。」
本当のことを言う。でも、きっと彼女はこの言葉を嘘として取り扱うのだろう。彼女に堂々と本当の事を言いたい。けれど言えない。伝えられなくてこんなにも苦しいのならいっそのこと彼女の前から消えてしまおうか。僕の思考はダメな方に引っ張られる。
「う、うわーん。」
しかし、鳴き声によって断ち切られた。
「ちょっ、待って。ももか。」
走り去って行く後ろ姿を見ながら、何故かまた背筋ぎ冷える。猛烈なほどに鳥肌が立った。
「あのー、ごめん。私が君のことを彼氏にしてなければ、晴れてがちの彼女ができたのに。本当にごめん。今からでも…。」
そんなこと言わないでほしい。僕は彼女が好きだから、たとえフリだとしてもこの役割を選んだのだから。
「あのさ、僕が望んでお前の彼氏になったんだよ。僕がなりたかったの。だから謝らないで、頼む。」
僕の心からの言葉だった。また、彼女には気を使っていると思われそうだけどそれは違う。これは僕の本当だから。
「ありがとう。」
彼女は少し恥ずかしそうに、また嬉しそうに笑った。彼女の笑顔を守るためなら、たとえ彼女と離れ離れになることも厭わない。
「早く帰ろう。」
彼女の可愛い顔を他の人に見せたくなくて彼女を隠そうとする。手を繋ぐ。これは僕のものだと周りに見せつけるため。僕のものに手を出したらいかなる人でも容赦しないと伝えるため。そのためなのに心拍数が上がる。心が彼女で満たされていく。
「ありがとう。」
彼女が一言だけ呟く。僕が救われるにはその一言で十分だった。けれど、また罪悪感が僕を襲う。
「手冷た。お前な、なんで黙ってるんだよ。寒いなら寒いって言え。」
「でも…」
「でもじゃない。一人でどうにかしようとするな。抱え込むな。」
もっと僕を頼ってほしい。彼女が頼れるような人ではないと自分では重々承知している。僕をあまり心配させないでほしい。僕が心配できるような人ではないと自分では重々承知している。それでも、彼女には一人で抱え込まないでほしいと願ってしまう。
「ごめん、ありがと。」
彼女が僕の手を強く握り返す。何故だろうか。彼女といると、彼女がいると僕の心の穴を埋めてくれる気がした。
「香奈さん、まじで風引くなよ。凌也を手懐けられるの香奈さんだけなんだから。…あと、お前らいつから付き合っていたんだ。先生びっくりだぞ。」
先生が僕たちに話しかけてきた。良いところだったのに邪魔が入ったと思いムッとする。
「今日は温かくして寝ますね。」
「ああ、そうしろ。気を付けて帰れよ。」
彼女は先生の質問に答えずに返答だけしていた。彼女にもそんな一面があると知って少し驚いた。しかし、彼女も人間なんだ。それを理解した時、僕は少しの恐怖に襲われた。そうだ、今日は色々な事があったからもしかしたら彼女が壊れてしまうかもしれない。たとえ今日は大丈夫でも、明日壊れてしまうかもしれない。そう思うと彼女から離れたくなくなった。僕がそばにいて守ってあげたい。たとえ、弾除けだとしても彼女のためになれるなら何でもよかった。でも、そんなことすら叶わない。自分の無力さに怒りを感じた。僕が考え事をしていると、後ろから鍵が閉まる音がした。塾が完全に終わった。もうすぐ彼女と一緒にいられる時間が終わると知らせるチャイムのように僕の頭に響いた。
「あっ、ねえ。服どうしよ。」
彼女に言われるまで完全に忘れていた。
「ああ、それ着て帰っていいよ。明日使わないから。」
確か、明日は体育の授業がなかったはず。あれ、どっちだっけ。
「あ、ありがとう。」
「ん、明日の塾で返してくれれば良いから。」
彼女に冷たい服をもう一度着させるわけにはいかないのでとりあえず考えるのをやめた。
「あの、明日塾ないよ。」
全部の思考を停止したせいかもしれない。休みの日を忘れるなんて完全に僕らしいなかった。
「あー、じゃあ二人でどっか遊びに行かない。」
自分で言ってから自分を疑った。もしかしたら、心のどこかでこうなる事を予想して運動着を貸したかもしれない。
「いいね。じゃあ、その時に持って行くね。」
最近、自分で自分の気持ちがよくわからない。
「おう。」
少し浮かれながら少し困る。
「先生よりも器用かもしれない。」
僕の小さな小さなひとりごとは小さな悲鳴にかき消され誰の耳に届くこともなかった。
「痛っ。」
悲鳴が聞こえたのは彼女が靴を履き替えようとしていた時だった。
「大丈夫か。どうした。」
彼女がゆっくりと靴から足を抜く。彼女の足の裏には画鋲がきらりと忌々しく輝いていた。
「誰だよ、こんなことしたやつ。」
僕が周りを見渡すと、ドアの近くの木にさっきの奴らが隠れていた。
「絶対あいつらだな。」
一発ぶん殴ってやらないと気がすまなかった。僕は睨みつけながら奴らのところに向かう。
「ちょっと。違うかもでしょ。多分掲示物の張り替えをしてて誤って入っちゃったんだよ。私は大丈夫だから、ね。」
下駄箱と掲示板は離れており、また彼女は上の方に入れていたため誤って入ることなど決してない。しかし、彼女の顔を見ると自然と落ち着いてきた。こんなに他人に対して怒ったのはいつぶりだろうか。僕にも人間らしい感情があったのだと気づく。まるで、彼女のおかげで意思を持ったロボットみたいだと思うと少し笑えてきた。片足立ちの彼女を支える。
「ごめん、鞄の一番上のポケットの中に絆創膏入っているから取ってくれない。」
彼女が片手に持つ赤く湿った金色の鋼を憎たらしく思いながら絆創膏を探す。絆創膏は小さなポーチに入っていたためすぐに見つけることができた。きっと片足立ちのまま絆創膏を剥くのは大変だろうと思い、外側のカバーらしき紙を剥がして渡す。
「ありがと。」
「てか、女子ってすごいよな。こういうものが鞄の中からほいほい出てくるから。」
感心して頷きながら彼女を見る。彼女は僕から受け取った絆創膏を見るなり少し微笑んだ。僕は何か変なことでも言っただろうかと考えながら彼女の手伝いをした。彼女が靴を履き、一歩踏み出すと少し顔をしかめた。彼女は無意識だろう。
「大丈夫か。駅まで歩けるか。」
強がりな彼女がこんな顔をするなんてよほど痛むのだろうと思い尋ねる。
「うん、頑張る。」
彼女の口からはいつもの大丈夫ではなく、頑張ると言う言葉が出てきた。彼女は本当に人に頼ろうとしない。自分だけで解決しようとすることが唯一の欠点と言えるかもしれない。
「僕も駅まで着いていく。」
彼女が心配だったのと、頼ってくれない寂しさと、もう少し彼女と一緒にいたいと言うわがままが僕を襲う。きっと断られるだろうと思い、必死に理由を探す。しかし、彼女の口から出た言葉は予想外の言葉だった。
「じゃあ、お言葉に甘えて。」
きっと相当痛むのだろう。彼女をここまで変えてしまうほどの痛みは想像できなかった。
「大丈夫だよ。帰り道だからついでに寄ってく感じ。」
僕は小さく微笑みながら手を差し出す。彼女が気を使わないように嘘を付く。多分彼女はこれが嘘と分かっている。けれど大丈夫、これぐらいの嘘ならきっと彼女は許してくれる。その印に彼女はくすっと笑い僕の手を取った。僕たちはゆっくりと歩く。こんなことを言ったら彼女に失礼だろうが、僕はこの時間を幸せだと感じてしまった。隣に彼女がいて、彼女の体温が手から伝わり、のんびりと彼女との時間を刻む。この時間が終わらなければいいのに。ずっと、彼女の隣にいられたらいいのに。そんな僕の儚い願いは叶わないと分かっている。だから、この貴重な時間を僕は大切に心に刻む。
「本当にありがとね。」
気づけば駅のホームの前まで来ていた。今日はここでお別れだ。
「大丈夫。明日どうする。」
彼女に無理させるのも悪いと思い尋ねる。
「行く、絶対に。だから、詳細はこれで連絡する。」
彼女の言葉に僕の心は熱くなる。彼女がスマホを見せてくる動作に心が躍る。ああ、まだ別れではない。家に帰った後でも彼女と会話ができることに気が付く。
「分かった。それじゃあ、またね。」
また後でと言おうか迷ったが、結局いつも通りにすることにした。僕がこんなことで舞い上がっているなんて知られたら格好悪いし、恥ずかしいから。
「ん、またね。」
彼女が小さく手を振り去っていく。早く帰らねば。僕は来た道を急いで引き返し、いつもの帰路へと駆けていった。
家につく頃には、日はすっかり落ちていた。
「もう、暗くなってきたな。」
暗い道で一人呟く。不意に空を見上げると星が輝いていた。彼女もこれを見ているのだろうか。もし、見ていたら彼女は何を考えているのだろうか。僕の脳内は彼女のことだけに支配されてしまったみたいだ。けれど、それで良いと思った。家の扉を開ける。
「おかえり、今日なんか遅かったね。」
リビングから大きな声が聞こえて来た。
「そんなに大きな声出さなくても、聞こえてるって。姉ちゃん。」
「ごめんって。」
エプロンを着た姉ちゃんが照れくさそうに出迎えてくれた。僕の家は父は単身赴任で東京におり、母はスーパーのパートで帰りが遅いので、家事は姉ちゃんがしてくれている。
「今日の夕飯は豚汁。」
姉ちゃんの料理はうまい。キッチンからいい匂いが漂ってきて、僕のお腹から雷のような音がした。
夕飯を食べ終わり風呂に入る。肩まで温かいお湯に浸かると足先が少し痺れた。
「冷えてきた。」
もうすぐ秋が来る。それとも、もう来ているかもしれない。そんなどうでも良いことを考えながら僕の体は湯の中へ溶けていった。少し時間が経ち我を取り戻した時、彼女との約束を思い出した。余韻に浸る間もなく慌ててタオルを掴み取り、水分が少し残っているまま服を着る。髪の毛から水滴が滴り、ジャージを水玉模様に濡らすがそんなことに構っている暇などなかった。全速力で階段を駆け上がり自室に飛び込む。スマホに飛びかかるように掴み取りながら画面を見ると彼女からの連絡はもう来ていた。
「連絡遅くなってごめんね。明日、君は何したい。出来れば君がしたいことしたい。」
彼女らしい言葉に愛しさと安堵に耐えかねたため息が漏れ出る。
「ごめん、風呂は入ってた。僕は特にしたいことはない。お前がしたいことが良い。」
これは僕の本音だ。彼女のしたいことをすることが、彼女の楽しそうな顔を見ることが僕にとっての幸せだと気がついたから。
「でも、前回もそうだったじゃん。」
「違うでしょ。僕が勝手に連れて行ったんだよ。」
きっと彼女はショッピングモールのことを言っているのだろう。あれは、奴らに言われて僕が勝手に連れて行ったのに。
「じゃあさ、水族館行こう。ちょっと遠いけど大丈夫なら。」
「いいな、それ。僕魚見るの好きなんだよ。腹減ってくるから。」
水族館と言う単語を聞いて腹が減ったことを正直に話す。きっと彼女は笑っているだろうな。彼女の笑い声が脳裏に蘇る。
「じゃあ、明日塾の駅集合ね。」
「オッケー。おやすみ。」
ノリで彼氏らしくおやすみと送ってみる。
「ん、おやすみ。」
僕の予想通りの返答が彼女から送られてきた。少しは彼女のことを分かってきたかもしれない。そのことに気がつくと喜びと緊張が襲ってきた。誰から隠そうとしているのか知らないけど、この顔を誰にも見られたくなくて顔に枕を押し付けた。明日が楽しみだ。早く明日になってほしい。そんなことを思ったのはいつぶりだろうか。僕は知らない間に眠りについていた。
「ねえ、ボチ也。一つ良い報告があるの。」
奴らがニヤニヤしながら近づいてくる。この顔は良いことじゃない。何故かとても嫌な予感がして冷や汗が止まらない。
「ボチ也の彼女って香奈でしょ。そいつさ、私のお姉ちゃんと同じ学校なんだって。すごい偶然だよね。」
この姉妹は、姉妹揃って人をいじめていると噂になっていた。
「香奈には、何もしてないよな。」
僕はこいつらを睨みつけて問う。彼女を守るためならば僕が標的になっても良い。彼女から目を逸らせるなら僕が犠牲になっても良い。
「何その反抗態度。何もしてないかなんて知らないよ。学校違うんだし。彼女に聞けばいいじゃん。何かされてたら助けてーって来るはずだよ。」
奴らは笑いながら僕のことも彼女のことも罵倒する。僕のことはいくらでも言ってもらって構わない。けれど彼女をこれ以上罵倒するのは許せなかった。
「もう良い。」
僕は本を開いた。これ以上こいつらの話には付き合っていられない。今度はこの本をおすすめしようかな。彼女は普段どんな本を読むのだろうか。
冷たい風が吹く。塾に向かう道には秋色しか見えなかった。彼女はもう来ているのだろうか。彼女に早く会いたくて、少し早めに来てしまった。
塾の扉を開けると中からは温かい空気が出てきた。何でだろうか。先生は暑がりでこの時期はまだ冷房がガンガンに効いているはずだ。外よりも寒いはずだ。教室に足を踏み入れた途端にその理由がわかった。
「よっ。」
何事もないかのように挨拶をしてくる彼女の姿がある。だけどいつもとは違う。僕が目を見開き驚いていると彼女は疲れた表情で小さく笑った。
「お、お前なんで。どうしたんだよ。」
彼女はびしょびしょに濡れた服を着て震えていた。何があったのだろうか。昼の奴らの言葉を思い出す。もしかしたら、僕のせいで彼女がこんな目にあっているのではないかと不安になった。
「あはは、水道掃除してたら水がかかっちゃったの。」
彼女は笑いながら意味不明な理由を述べる。顔は笑っているが、瞳の中は悲しみに揺れていた。
「いや、そんなにかからねえだろ。」
「なんか、ぼーっとしてて…。気づいたらこうなってた。」
僕を心配させないようにするためか必死に笑う彼女。僕の顔はそんなに険しくなっているのだろうか。もちろん僕は信じていない。彼女は誰よりもしっかりしているのだから、そんな失敗をするはずがないと心の中で否定する。でも、彼女が無理して笑う姿を見るとその行動に理由があるような気がし、何も言えなくなった。
「とりあえず、その服脱げよ。風引くぞ。」
「えっと、少々事情がありまして…。」
風邪を引く事よりも重要な事情とは何なのだろうか。そもそも、そんな事情はあるのだろうかと首を傾げる。
「そうじゃなくて、替えの服なんて持ってないの。だから、これ脱げないの。」
恥ずかしさが襲ってきたのか彼女が赤くなりながら説明する。
「ああ、ごめん。そう言うことじゃなくて。僕、もう一着服持ってるから。運動着だけど…。無いよりはましだろ。」
「もう、言葉足りないよ。びっくりしたじゃん。」
「ごめんって。」
確かに、言葉が足りな過ぎたかもしれない。彼女に変態だと思われそうな言い方だった。僕は運動着を探しながら悔いる。見つけた運動着を鞄から出すと彼女が何か気づいたようだ。
「あっ、でも…。髪の毛もびしょびしょで、服濡れちゃうから借りれない。」
どうしてここまで遠慮するのだろうか。まあ、彼女の髪も拭かないとと思っていたところだった。
「良かったな、僕が運動部で。」
彼女の髪をスポーツタオルでわしゃわしゃと拭いた。
「えっ、帰宅部じゃないの。ずっとそう思ってた。」
「失礼だな。バレー部だ。」
拭き方をより一層激しくした。
「初耳。すぐ家に帰って本ばっかり読んでると思ってた。」
「こら、僕をなんだと思ってるんだ。」
確かに僕がバレー部だと当てられる人はいなかったが、彼女までそう思っていたとは。でも、家に帰ったらすぐに本を読むと言うのは正解だ。
「ほら、これでちょっとはましだろ。」
水滴が垂れなくなるくらいには拭いた。
「ほら、早く着替えてきな。」
「ありがと。」
振り返った彼女は何故か少しだけ幸せそうな顔をしていた。彼女には少し大きい運動着を抱いてトイレに向かった。
「香奈さん、本当に水道で濡れたんだと思うか。」
先生が耳元に小さな声で尋ねてくる。
「そう思いませんよ。だって、彼女ですよ。」
「そうだよな。あの真面目な香奈さんが、ぼーっとしてたでびしょびしょになるはずがない。それに、どう頑張っても頭まであんなに濡れることは出来ないだろ。」
僕も同じことを思っていた。
「もしかして、いじめられたりしてないよな。」
先生の予想が多分正しい。先生が何か言いかけた瞬間にトイレの方からガチャッと音がした。
「先生、今の話絶対に彼女に言わないでください。」
「ああ、分かってる。」
彼女の姿を見た瞬間に声が出た。
「やっぱりそうなると思った。」
彼女も思っていたのか少しだけはにかんだ。
「めっちゃブカブカじゃん。お前が小さいから。」
自分が小さいと言われたことにムッとした顔をして僕を見る。
「仕方ないでしょ。てか、君が大きすぎるんだよ。大体私は百五十センチしかないのに、君は百八十センチあるから。」
僕たちには大きな身長差がある。並んで立つと兄弟に見られるかななんて思いながら、彼女を見ると震えが止まっていた。
「寒くなくなったか。」
「うん、ありがと。」
彼女がにっこり笑う。これは本当の笑い方だ。やっぱり心から笑う彼女は本当にかわいい。
「まあ。」
「何よ、その曖昧な返事は。」
「別に何もないし。」
彼女を前にすると素直になれなくなる。優しく接したいのに、ぶっきらぼうな言い方になってしまうのは何故だろう。
「おーい。そろそろ授業始めるぞ。」
先生の声で彼女と一緒に席に向かう。 席に着くとこの辺りはまだ冷えていると感じた。そっと隣を見るとやはり彼女は震えていた。
「先生、こいつに風引かれたら困るので、席近づけて温めながら受けても良いですか。」
きっと僕がふざけるからダメだと言われ、許可は取れないと思っていた。しかし、帰ってきたのはまさかの返答だった。
「ああ、よろしくな。」
先生も彼女のことをとても心配していると伝わってきた。僕は彼女と机をつけて、体を寄せた。
「おいで、冷えたら困るから。」
彼女には少し抵抗があるようだ。それはそうだ。僕だって好きでもない女の子と引っ付いて授業を受けろなんて言われたらとんでもないと思うから。
「えっと、その。…まじで。」
「うん、まじ。」
だけど、今はそんなこと言っていられない。彼女が寒そうに体を震わす。きっと本人は気づいていないんだろうな。彼女が隠したいことはあえて言わない。決心をしたように僕にもたれかかって来た。
「温かい。」
彼女とくっついた部分から冷たさが伝わってきた。
「やっぱり、寒かったんじゃん。」
冷え切った体が温かくなるように肩を引き僕の方に寄せる。自分でやったことだがとてつもないくらいの速さで鼓動が鳴り響いている。彼女に聞こえませんようにと祈る。塾の授業中にこんなに近づくことができるとは思っていなかったので少し浮かれる。憂鬱な時間が幸せな時間へと変貌した。まるで二人きりの時間に感じた。
「この問題激むずだぞ。香奈、答えられるか。」
先生の声で現実世界に引き戻された。黒板を見ると何が書いてあるのかよくわからない図形と式が並んでいた。
「ええっと。…六十度です。」
「正解だ。流石だな。」
彼女は本当にすごい。今、ノートにぱぱっと計算しただけで答えを求めることができるのだから。彼女がもしも僕の本当の彼女だったら、きっと僕らは釣り合わない。真面目な彼女と不真面目な僕。強い彼女と弱い僕。
「この問題は前回の基礎の復習だぞ。凌也、答えろ。」
「えっと、わかりません。」
大事な考え事をしている時に話しかけられたので、少しの反抗心で黒板なんか見ないで答えた。
「凌也、お前な、真面目にやれ。」
先生が少し呆れながら怒っている。どんな顔をしたら、呆れも怒りも伝わるのだろう。先生みたいに器用にできない。
「先生って、器用だよな。」
僕が思ったことを口にする。予想以上に大きな声が出てしまい先生にも聞こえてしまったらしい。
「凌也、ちょっと黙れ。」
「はいはーい。」
僕がてきとうに答えると彼女が肩を震わせた。
「どうした。寒いか。」
「違う違う、面白くて。」
僕の予想とは裏腹の返答が返ってきた。だけど、何が面白かったのかさっぱりわからない。だけど振り返る仕草や顔が可愛い過ぎる。真面目で、しっかりしてて、強くて、でも最高に可愛い。彼女が大好きだ。彼女が身を任せてきた。また少しだけ彼女に近づく。彼女が何かを囁いたようだったが聞こえなかった。彼女のおかげで二時間ある退屈な塾が幸せな時間に変わったことだけは確かだった。授業が終わり僕たちの体が離れる。彼女はけっこう温まったみたいだ。安心からトイレに行きたくなり、少し席を外した。トイレから出て荷物を取りに教室に戻るところで声が聞こえた。
「ねぇねぇ、香奈ちゃん。ちょっと聞いても良い。」
「なに。どうしたの。」
彼女が誰かと話している。でも、彼女が塾で親しい人なんていなかった気がする。嫌な予感がして階段を二段とばしで駆け上がる。教室に入ると彼女が三人の女の子たちに囲まれていた。見たことあるような、ないような子だ。
「あのさ、凌也君と付き合ってるの。」
大方今日の授業のことだろう。少し目立ちすぎたかもしれない。真面目ナンバーワンの彼女と不真面目ナンバーワンの僕が仲良くしている光景を見たら誰だって関係を聞きたくなるだろう。
「ああ、そのことか。」
彼女もそのことを理解したらしい。彼女の背中から緊張の文字が消えた。
「うん、そんな感じ。」
彼女が堂々と答えると、三人の女の子の顔が暗くなる。
「あっ…。そうなんだね。」
何だろう。背筋に冷や汗が流れる。僕の勘は当たる。それも嫌な時には格別。彼女の身に危険が起きた時に飛び込む準備をして待機をする。
「あのさ、どっちからなの。」
どっちとは何の事を言っているのだろうか。彼女も僕と同じことを思ったらしい。
「えっ、どっちってどういうこと。」
「私は、凌也君のことが…ずっと好きだったのに。」
俯いていた女の子がいきなり顔を上げた。今、なんて言った。とんでもないようなことを聞いてしまったような気がする。僕のことが好きなんて、あいつは何を言っているのだろうか。
「で、どっちから告白したの。」
なるほど。これで彼女からと答えるとあいつに殺される。凄まじい量の殺気が彼女を覆っている。流石に怖気づいているのか、困っているのか彼女は何も答えなかった。
「僕からだけど。」
少しでも彼女の助けになればと声を出す。どうして彼女以外の女子はこんなにも面倒くさい生き物なのだろうか。
「だいたいさ、僕のことが好きだったなら香奈じゃなくて僕に言いに来なよ。香奈に言って何になるの。」
本当に思ったことを言っただけだった。それなのに僕の言葉に二人黙り、一人泣いた。
「私は、ずっと、凌也君のことが、好きだっ、たのに。」
ならもっと前にそれを言えよ。だけど僕は彼女が好きだ。それは今も昔も変わらない。
「ごめん、僕もずっと前から香奈のことが好きだったから。」
本当のことを言う。でも、きっと彼女はこの言葉を嘘として取り扱うのだろう。彼女に堂々と本当の事を言いたい。けれど言えない。伝えられなくてこんなにも苦しいのならいっそのこと彼女の前から消えてしまおうか。僕の思考はダメな方に引っ張られる。
「う、うわーん。」
しかし、鳴き声によって断ち切られた。
「ちょっ、待って。ももか。」
走り去って行く後ろ姿を見ながら、何故かまた背筋ぎ冷える。猛烈なほどに鳥肌が立った。
「あのー、ごめん。私が君のことを彼氏にしてなければ、晴れてがちの彼女ができたのに。本当にごめん。今からでも…。」
そんなこと言わないでほしい。僕は彼女が好きだから、たとえフリだとしてもこの役割を選んだのだから。
「あのさ、僕が望んでお前の彼氏になったんだよ。僕がなりたかったの。だから謝らないで、頼む。」
僕の心からの言葉だった。また、彼女には気を使っていると思われそうだけどそれは違う。これは僕の本当だから。
「ありがとう。」
彼女は少し恥ずかしそうに、また嬉しそうに笑った。彼女の笑顔を守るためなら、たとえ彼女と離れ離れになることも厭わない。
「早く帰ろう。」
彼女の可愛い顔を他の人に見せたくなくて彼女を隠そうとする。手を繋ぐ。これは僕のものだと周りに見せつけるため。僕のものに手を出したらいかなる人でも容赦しないと伝えるため。そのためなのに心拍数が上がる。心が彼女で満たされていく。
「ありがとう。」
彼女が一言だけ呟く。僕が救われるにはその一言で十分だった。けれど、また罪悪感が僕を襲う。
「手冷た。お前な、なんで黙ってるんだよ。寒いなら寒いって言え。」
「でも…」
「でもじゃない。一人でどうにかしようとするな。抱え込むな。」
もっと僕を頼ってほしい。彼女が頼れるような人ではないと自分では重々承知している。僕をあまり心配させないでほしい。僕が心配できるような人ではないと自分では重々承知している。それでも、彼女には一人で抱え込まないでほしいと願ってしまう。
「ごめん、ありがと。」
彼女が僕の手を強く握り返す。何故だろうか。彼女といると、彼女がいると僕の心の穴を埋めてくれる気がした。
「香奈さん、まじで風引くなよ。凌也を手懐けられるの香奈さんだけなんだから。…あと、お前らいつから付き合っていたんだ。先生びっくりだぞ。」
先生が僕たちに話しかけてきた。良いところだったのに邪魔が入ったと思いムッとする。
「今日は温かくして寝ますね。」
「ああ、そうしろ。気を付けて帰れよ。」
彼女は先生の質問に答えずに返答だけしていた。彼女にもそんな一面があると知って少し驚いた。しかし、彼女も人間なんだ。それを理解した時、僕は少しの恐怖に襲われた。そうだ、今日は色々な事があったからもしかしたら彼女が壊れてしまうかもしれない。たとえ今日は大丈夫でも、明日壊れてしまうかもしれない。そう思うと彼女から離れたくなくなった。僕がそばにいて守ってあげたい。たとえ、弾除けだとしても彼女のためになれるなら何でもよかった。でも、そんなことすら叶わない。自分の無力さに怒りを感じた。僕が考え事をしていると、後ろから鍵が閉まる音がした。塾が完全に終わった。もうすぐ彼女と一緒にいられる時間が終わると知らせるチャイムのように僕の頭に響いた。
「あっ、ねえ。服どうしよ。」
彼女に言われるまで完全に忘れていた。
「ああ、それ着て帰っていいよ。明日使わないから。」
確か、明日は体育の授業がなかったはず。あれ、どっちだっけ。
「あ、ありがとう。」
「ん、明日の塾で返してくれれば良いから。」
彼女に冷たい服をもう一度着させるわけにはいかないのでとりあえず考えるのをやめた。
「あの、明日塾ないよ。」
全部の思考を停止したせいかもしれない。休みの日を忘れるなんて完全に僕らしいなかった。
「あー、じゃあ二人でどっか遊びに行かない。」
自分で言ってから自分を疑った。もしかしたら、心のどこかでこうなる事を予想して運動着を貸したかもしれない。
「いいね。じゃあ、その時に持って行くね。」
最近、自分で自分の気持ちがよくわからない。
「おう。」
少し浮かれながら少し困る。
「先生よりも器用かもしれない。」
僕の小さな小さなひとりごとは小さな悲鳴にかき消され誰の耳に届くこともなかった。
「痛っ。」
悲鳴が聞こえたのは彼女が靴を履き替えようとしていた時だった。
「大丈夫か。どうした。」
彼女がゆっくりと靴から足を抜く。彼女の足の裏には画鋲がきらりと忌々しく輝いていた。
「誰だよ、こんなことしたやつ。」
僕が周りを見渡すと、ドアの近くの木にさっきの奴らが隠れていた。
「絶対あいつらだな。」
一発ぶん殴ってやらないと気がすまなかった。僕は睨みつけながら奴らのところに向かう。
「ちょっと。違うかもでしょ。多分掲示物の張り替えをしてて誤って入っちゃったんだよ。私は大丈夫だから、ね。」
下駄箱と掲示板は離れており、また彼女は上の方に入れていたため誤って入ることなど決してない。しかし、彼女の顔を見ると自然と落ち着いてきた。こんなに他人に対して怒ったのはいつぶりだろうか。僕にも人間らしい感情があったのだと気づく。まるで、彼女のおかげで意思を持ったロボットみたいだと思うと少し笑えてきた。片足立ちの彼女を支える。
「ごめん、鞄の一番上のポケットの中に絆創膏入っているから取ってくれない。」
彼女が片手に持つ赤く湿った金色の鋼を憎たらしく思いながら絆創膏を探す。絆創膏は小さなポーチに入っていたためすぐに見つけることができた。きっと片足立ちのまま絆創膏を剥くのは大変だろうと思い、外側のカバーらしき紙を剥がして渡す。
「ありがと。」
「てか、女子ってすごいよな。こういうものが鞄の中からほいほい出てくるから。」
感心して頷きながら彼女を見る。彼女は僕から受け取った絆創膏を見るなり少し微笑んだ。僕は何か変なことでも言っただろうかと考えながら彼女の手伝いをした。彼女が靴を履き、一歩踏み出すと少し顔をしかめた。彼女は無意識だろう。
「大丈夫か。駅まで歩けるか。」
強がりな彼女がこんな顔をするなんてよほど痛むのだろうと思い尋ねる。
「うん、頑張る。」
彼女の口からはいつもの大丈夫ではなく、頑張ると言う言葉が出てきた。彼女は本当に人に頼ろうとしない。自分だけで解決しようとすることが唯一の欠点と言えるかもしれない。
「僕も駅まで着いていく。」
彼女が心配だったのと、頼ってくれない寂しさと、もう少し彼女と一緒にいたいと言うわがままが僕を襲う。きっと断られるだろうと思い、必死に理由を探す。しかし、彼女の口から出た言葉は予想外の言葉だった。
「じゃあ、お言葉に甘えて。」
きっと相当痛むのだろう。彼女をここまで変えてしまうほどの痛みは想像できなかった。
「大丈夫だよ。帰り道だからついでに寄ってく感じ。」
僕は小さく微笑みながら手を差し出す。彼女が気を使わないように嘘を付く。多分彼女はこれが嘘と分かっている。けれど大丈夫、これぐらいの嘘ならきっと彼女は許してくれる。その印に彼女はくすっと笑い僕の手を取った。僕たちはゆっくりと歩く。こんなことを言ったら彼女に失礼だろうが、僕はこの時間を幸せだと感じてしまった。隣に彼女がいて、彼女の体温が手から伝わり、のんびりと彼女との時間を刻む。この時間が終わらなければいいのに。ずっと、彼女の隣にいられたらいいのに。そんな僕の儚い願いは叶わないと分かっている。だから、この貴重な時間を僕は大切に心に刻む。
「本当にありがとね。」
気づけば駅のホームの前まで来ていた。今日はここでお別れだ。
「大丈夫。明日どうする。」
彼女に無理させるのも悪いと思い尋ねる。
「行く、絶対に。だから、詳細はこれで連絡する。」
彼女の言葉に僕の心は熱くなる。彼女がスマホを見せてくる動作に心が躍る。ああ、まだ別れではない。家に帰った後でも彼女と会話ができることに気が付く。
「分かった。それじゃあ、またね。」
また後でと言おうか迷ったが、結局いつも通りにすることにした。僕がこんなことで舞い上がっているなんて知られたら格好悪いし、恥ずかしいから。
「ん、またね。」
彼女が小さく手を振り去っていく。早く帰らねば。僕は来た道を急いで引き返し、いつもの帰路へと駆けていった。
家につく頃には、日はすっかり落ちていた。
「もう、暗くなってきたな。」
暗い道で一人呟く。不意に空を見上げると星が輝いていた。彼女もこれを見ているのだろうか。もし、見ていたら彼女は何を考えているのだろうか。僕の脳内は彼女のことだけに支配されてしまったみたいだ。けれど、それで良いと思った。家の扉を開ける。
「おかえり、今日なんか遅かったね。」
リビングから大きな声が聞こえて来た。
「そんなに大きな声出さなくても、聞こえてるって。姉ちゃん。」
「ごめんって。」
エプロンを着た姉ちゃんが照れくさそうに出迎えてくれた。僕の家は父は単身赴任で東京におり、母はスーパーのパートで帰りが遅いので、家事は姉ちゃんがしてくれている。
「今日の夕飯は豚汁。」
姉ちゃんの料理はうまい。キッチンからいい匂いが漂ってきて、僕のお腹から雷のような音がした。
夕飯を食べ終わり風呂に入る。肩まで温かいお湯に浸かると足先が少し痺れた。
「冷えてきた。」
もうすぐ秋が来る。それとも、もう来ているかもしれない。そんなどうでも良いことを考えながら僕の体は湯の中へ溶けていった。少し時間が経ち我を取り戻した時、彼女との約束を思い出した。余韻に浸る間もなく慌ててタオルを掴み取り、水分が少し残っているまま服を着る。髪の毛から水滴が滴り、ジャージを水玉模様に濡らすがそんなことに構っている暇などなかった。全速力で階段を駆け上がり自室に飛び込む。スマホに飛びかかるように掴み取りながら画面を見ると彼女からの連絡はもう来ていた。
「連絡遅くなってごめんね。明日、君は何したい。出来れば君がしたいことしたい。」
彼女らしい言葉に愛しさと安堵に耐えかねたため息が漏れ出る。
「ごめん、風呂は入ってた。僕は特にしたいことはない。お前がしたいことが良い。」
これは僕の本音だ。彼女のしたいことをすることが、彼女の楽しそうな顔を見ることが僕にとっての幸せだと気がついたから。
「でも、前回もそうだったじゃん。」
「違うでしょ。僕が勝手に連れて行ったんだよ。」
きっと彼女はショッピングモールのことを言っているのだろう。あれは、奴らに言われて僕が勝手に連れて行ったのに。
「じゃあさ、水族館行こう。ちょっと遠いけど大丈夫なら。」
「いいな、それ。僕魚見るの好きなんだよ。腹減ってくるから。」
水族館と言う単語を聞いて腹が減ったことを正直に話す。きっと彼女は笑っているだろうな。彼女の笑い声が脳裏に蘇る。
「じゃあ、明日塾の駅集合ね。」
「オッケー。おやすみ。」
ノリで彼氏らしくおやすみと送ってみる。
「ん、おやすみ。」
僕の予想通りの返答が彼女から送られてきた。少しは彼女のことを分かってきたかもしれない。そのことに気がつくと喜びと緊張が襲ってきた。誰から隠そうとしているのか知らないけど、この顔を誰にも見られたくなくて顔に枕を押し付けた。明日が楽しみだ。早く明日になってほしい。そんなことを思ったのはいつぶりだろうか。僕は知らない間に眠りについていた。



