彼を好きだと気がついたその時から世界が色鮮やかに見えるようになった。たとえ叶わぬ恋だとしても彼と共にいられるだけで良い。彼は私の特別な人だから。彼が隣にいると自分の意見もはっきり言える。空も飛べるような気分になった。今日はしっかり目を見て華音たちと話してみよう。嫌なことは嫌と言ってみよう。蝉の声がこだます。私は意気揚々と教室に足を踏み入れた。
「あれ、香奈じゃん。おはよう。」
美智子がいつもよりもニヤニヤしながら近づいてきた。嫌な予感がして鳥肌が立った。なんだろうか、何が起こっているのだろうか。美智子の隣に来た華音がにっこり笑った。
「昨日はありがとうね。うちの妹と仲良くしてくれて。」
妹。そんなの心当たりなんてない。華音は一体誰の話をしているんだろう。何の話をしているんだろう。
「どういうこと。」
意味が理解出来ずおそるおそる彼女たちに尋ねる。
「ああ、知らなかったの。昨日あんたとあんたの彼氏があった人、私の双子の妹だよ。あんまり似てないから姉妹だと思われないんだけど。で、あんた昨日妹と遊んでくれたそうだね。」
華音の言葉を理解した途端蝉の声が止んだ。それどころか周りの音が一切聞こえない。何が起こっているんだろう。息ができない。私は華音の妹に昨日なんて言った。完全に他人だと思い込み喧嘩を売った記憶しかない。息ができない。視界までぼーっとしてきた。そんな私を助けてくれる人なんていない。誰もいない。今にも弾けそうな視界で周りを見る。私と目が合うと逸らす人、絶対に目を合わせないようにする人、知らん顔で他の友達と話す人。私を助けようとしてくれる人は誰もいなかった。
「あの子、華音の妹さんだったんだね。」
華音が笑った。しかし、目は笑うことなく冷たかった。
「うん、昨日美音がずっと自慢してたよ。ボチ也の彼女の香奈って人に遊んで貰ったって。美音と遊んでくれた分のお礼はするね。」
華音の隣で美智子は笑っている。華音が自分の席に戻っていった。美智子はすれ違いざま私の耳元で小さく呟いた。
「ざまあ。」
耐えろ。ここで泣くわけにはいかない。チャイムが鳴り席に着く。椅子に座った途端全身の力が抜けた。今まで我慢して創り上げたものが全てめちゃくちゃになった。全て壊れてしまった。彼は大丈夫だろうか。彼に頼りたい、寄りかかりたい。けれどそれは許されない。
「このこと、絶対彼には秘密にしないとな。」
小さな小さな声で呟く。この無力な言葉は誰にも聞こえることなくただ空気に浸透した。彼に弱った姿は絶対に見せないと自分自身に誓う。この世界で一番大切な彼の重荷になりたくないから。
授業が終わりお昼の時間になった。今日は一人、自分の席で食べる。
「見て、なんか浮いてるやついるんですけど。」
「えっ、どこ。何も見えないけど。」
華音と美智子が私の方を見ながら笑う。何も反応することなく一人きりの休み時間を過ごした。
やっとの事で放課後になった。私が帰ろうと荷物を整理していると廊下から声が聞こえた。
「香奈、おい香奈。ちょっと来て。」
華音の声だ。何事だろう。今日あんな空気になってしまったのによく気軽に呼べるなと思いながら廊下まで行った。
「どうし…。」
私の声は途中で途切れた。
「ごめん、手が滑っちゃって。」
美智子が、水滴が流れ落ちているバケツを見せてきた。冷たい。私はバケツの水を頭からかけられた。髪の毛から水滴が滴る。
「美智子、転けそうになっちゃって。わざとじゃないの。」
彼女はよく私のことを知っている。私にどんな言い方をすれば許されるのか知っている。
「大丈夫だよ。わざとじゃないなら仕方ないよ。」
私は小さく笑って言う。寒い。びしょびしょに濡れた服を季節外れのエアコンの空気が冷やしていく。冷たい空気は私の体も心も凍らせていく。ああ、どうしよっかな、これ。今日も塾があるが、替えの服なんて持ってきていない。ましてや、服を買うお金なんてない。家に帰ったらもう間に合わない。そのまま行こう。私は鞄が濡れないように気をつけて持って教室から出た。
外の空気は容赦なかった。気温はいつの間にか秋にシフトチェンジしていた。冷たい風が吹く。顎から水滴が垂れる。髪の毛から垂れた水だと信じ必死で塾に向かった。
「こんにちは。」
私が教室に入ると先生が目を見開いた。
「ど、どうした。」
少し震えていたのかもしれない。先生は急いで暖房を入れてくれた。少しづつ暖かくなってきたと思ったら冷たい風が開けられた扉から入ってきた。ああ、今は会いたくなかったんだけどな。
「よっ。」
何事もなかったように彼に挨拶をした。彼の反応も先生と同じで少し笑えてきた。
「お、お前なんで。どうしたんだよ。」
「あはは、水道掃除してたら水がかかっちゃったの。」
うん、我ながら上手だ。上手く笑えている。窓に映る自分の顔を見て誇らしく思う。
「いや、そんなにかからねえだろ。」
彼の表情は少し硬かった。お願い、気が付かないでと心の中で必死に祈る。
「なんか、ぼーっとしてて…。気づいたらこうなってた。」
彼を心配させまいと必死に嘘と笑顔を取り繕う。それでも彼の顔は険しいままだった。
「とりあえず、その服脱げよ。風引くぞ。」
彼は真顔でやばい発言をする。私はこの服の下に何も着ていない。絶対に脱ぐことは不可能だ。
「えっと、少々事情がありまして…。」
彼は不思議そうな顔で私を見てきた。
「は。風引いてもいいのかよ。」
「そうじゃなくて、替えの服なんて持ってないの。だから、これ脱げないの。」
勢いで言ってしまってから恥ずかしさが襲う。
「ああ、ごめん。そう言うことじゃなくて。僕、もう一着服持ってるから。運動着だけど…。無いよりはましだろ。」
「もう、言葉足りないよ。びっくりしたじゃん。」
「ごめんって。」
彼が鞄の中から運動着を出してくれる。
「あっ、でも…。髪の毛もびしょびしょで、服濡れちゃうから借りれない。」
せっかくの申し出はありがたかったが彼の服が濡れてしまう。そこまで迷惑かけるつもりはなかった。濡れた服が体にへばり付いてきて、私の体温を奪っていく。あまりの寒さにくしゃみが出た。これ、本当にやばいかもと思っていると頭に何か乗せられた。
「良かったな、僕が運動部で。」
彼がタオルで髪の毛をわしゃわしゃと拭いた。
「えっ、帰宅部じゃないの。ずっとそう思ってた。」
「失礼だな。バレー部だ。」
「初耳。すぐ家に帰って本ばっかり読んでると思ってた。」
「こら、僕をなんだと思ってるんだ。」
彼の拭き方が一層激しくなる。彼の手の温かみや彼との会話が私の心までぽかぽかにした。
「ほら、これでちょっとはましだろ。」
しっかり拭いてくれたので水が垂れることがなくなった。
「ほら、早く着替えてきな。」
「ありがと。」
彼の大きな運動着を受け取りトイレに向かう。彼が私の心凍った心を溶かした。着替え終わり私は彼の下に向かった。
「やっぱりそうなると思った。」
彼も予想していたらしい。私も内心思っていた。
「めっちゃブカブカじゃん。お前が小さいから。」
「仕方ないでしょ。てか、君が大きすぎるんだよ。大体私は百五十センチしかないのに、君は百八十センチあるから。」
本当に羨ましいと思う。私と彼が並んで立つと兄と妹だと思われるくらいの身長差がある。
「寒くなくなったか。」
彼が心配そうな表情を浮かべながら聞いてくる。
「うん、ありがと。」
「まあ。」
「何よ、その曖昧な返事は。」
「別に何もないし。」
「おーい。そろそろ授業始めるぞ。」
先生の声で彼と一緒に席に向かう。彼の匂いに包まれながら授業を受けるのかと思うと何故か緊張してきた。
「先生、こいつに風引かれたら困るので、席近づけて温めながら受けても良いですか。」
彼が意味不明なことの許可を求めた。何を言っているんだ、彼はと思っているとまさかの返答が返ってきた。
「ああ、よろしくな。」
彼が、彼の机を私の机にくっつけ椅子も近づけてきた。
「おいで、冷えたら困るから。」
「えっと、その。…まじで。」
「うん、まじ。」
私は意を決して彼の胸に飛び込んだ。現実的には飛び込んではいないがそのくらいの決意をした。彼の方へ椅子を寄せて彼の体に自分の体を少し付ける。
「温かい。」
「やっぱり、寒かったんじゃん。」
一人で呟いた言葉は彼の耳にも届いていたらしい。彼が私の肩を引き寄せる。彼の匂いと彼の体温に私の体は抱きしめられていると勘違いする。鼓動が速くなる。これだけ近くにいたら彼にも聞こえてしまっているかもしれない。しかし、彼に堂々と甘えられる嬉しさの方が勝り、私が彼から離れることはなかった。憂鬱な授業の時間は幸せな時間へと変貌した。
「この問題激むずだぞ。香奈、答えられるか。」
幸せに浸り、ぼーっとしてた私はいきなり名指しされて驚いた。咄嗟に計算して答える。
「ええっと。…60゜です。」
「正解だ。流石だな。」
クラスのみんなの視線が痛い。真面目にやっている私と、遅刻常習犯の不真面目な彼がくっついて座っているのだから。
「この問題は前回の基礎の復習だぞ。凌也、答えろ。」
「えっと、わかりません。」
彼は黒板さえ見ることなく答えた。
「凌也、お前な、真面目にやれ。」
先生が少し呆れながら怒っている。
「先生って、器用だよな。」
彼がはっきり堂々と発言する。先生の耳にももちろん届いていたようだ。
「凌也、ちょっと黙れ。」
「はいはーい。」
全く何なんだろう、この人は。ちょっと優しいなと思えばマイペースで場を乱すは、ちょっとかっこいいなと思えば不真面目すぎる。小さな笑いが溢れた。
「どうした。寒いか。」
肩を震わせているので彼に寒いと勘違いされてしまったらしい。
「違う違う、面白くて。」
彼はきょとんと首を傾ける。何に対して笑っているのか分からないと言う顔だ。そんな姿がまた可愛くて仕方が無い。マイペースだけど優しくて、不真面目だけどかっこよくて、空気が読めないけどかわいい。彼が大好きだ。もう少しだけ彼に体を任せる。もう少しだけ彼に近づく。
「大好き。」
聞こえないくらい小さな小さな声で囁く。彼のおかげで二時間ある退屈な塾が幸せな時間に変わった。
「ねぇねぇ、香奈ちゃん。ちょっと聞いても良い。」
帰る準備をしていると三人の女の子が話しかけてきた。見たことはあるけど話したことなんてない。
「なに。どうしたの。」
彼女たちはもじもじしながら何か相談している。
「あのさ、凌也君と付き合ってるの。」
「ああ、そのことか。」
何のことだろう、私は何かしただろうかと身構えていたが彼との関係のことだったらしく、私は無駄に力んでいた全身の力を抜いた。
「うん、そんな感じ。」
私の発言に彼女たちの顔が暗くなった。
「あっ…。そうなんだね。」
何だろう。変なことでも言っただろうか。
「あのさ、どっちからなの。」
「えっ、どっちってどういうこと。」
彼女たちは何の事を言っているのだろうか。
「私は、凌也君のことが…ずっと好きだったのに。」
今まで無言で俯いていた女の子がいきなり顔を上げて涙目で私を睨めつけた。
「で、どっちから告白したの。」
これはまずい。私からと答えると、この女の子に呪われる気がしてきた。でも、彼からなんて言ったら彼が私みたいなつまらない人に告白するヤバい人だと思われてしまう。
「僕からだけど。」
後ろからいきなり声がした。彼だった。この人は人に興味なさそうに見えて私が困っている時はすぐに助けてくれる。
「だいたいさ、僕のことが好きだったなら香奈じゃなくて僕に言いに来なよ。香奈に言って何になるの。」
彼の辛辣な言葉に二人黙り、一人泣いた。
「私は、ずっと、凌也君のことが、好きだっ、たのに。」
「ごめん、僕もずっと前から香奈のことが好きだったから。」
彼の言葉にドキッとする。これは私を守るための嘘だ。信じてはいけない。
「う、うわーん。」
「ちょっ、待って。ももか。」
高揚を抑え、走り去った彼女たちの背中を見る。
「あのー、ごめん。私が君のことを彼氏にしてなければ、晴れてがちの彼女ができたのに。本当にごめん。今からでも…。」
「あのさ、僕が望んでお前の彼氏になったんだよ。僕がなりたかったの。だから謝らないで、頼む。」
彼が私の言葉を遮った。彼の言葉が嬉しかった。胸が高鳴る。
「ありがとう。」
私はこの一言を言うことが精一杯だった。
「早く帰ろう。」
彼が私の手を握る。これは、周りに見せつけるため。私たちが本当のカップルだと思い込ませるため。自分の胸に手を当てると幸せの音がした。
「手冷た。お前な、なんで黙ってるんだよ。寒いなら寒いって言え。」
「でも…」
「でもじゃない。一人でどうにかしようとするな。抱え込むな。」
彼に怒られてしまった。でも、彼が私のことを心配してくれていると伝わる。
「ごめん、ありがと。」
彼の手を強く握り返す。強く強く。決して離れることのないように。
「香奈さん、まじで風引くなよ。凌也を手懐けられるの香奈さんだけなんだから。あと、お前らいつから付き合っていたんだ。先生びっくりだぞ。」
先生が私たちの姿を見て、声をかけてきた。
「今日は温かくして寝ますね。」
「ああ、そうしろ。気を付けて帰れよ。」
先生が教室の鍵を閉める。その音と共に私はあることを思い出した。
「あっ、ねえ。服どうしよ。」
「ああ、それ着て帰っていいよ。明日使わないから。」
「あ、ありがとう。」
「ん、明日の塾で返してくれれば良いから。」
彼の言葉にふと違和感を感じた。違和感の正体はすぐに分かった。
「あの、明日塾ないよ。」
そう、明日は一週間に一度の休みなのだ。
「あー、じゃあ二人でどっか遊びに行かない。」
「いいね。じゃあ、その時に持って行くね。」
「おう。」
彼と階段を降りながら明日遊ぶ約束を取り付けた。楽しみだなと心が浮かれていた。
「痛っ。」
足の裏に痛みを感じたのは、くつを履き替えようとしていた時だった。
「大丈夫か。どうした。」
私は恐る恐る足をあげる。足の裏を見ると確かに画鋲がぐっさりと刺さっていた。
「誰だよ、こんなことしたやつ。」
彼が怒りながら周りを見ると、ドアの近くの木にさっきの女の子たちが隠れていた。
「絶対あいつらだな。」
彼が彼女たちのところに向かおうとする。
「ちょっと、違うかもでしょ。多分掲示物の張り替えをしてて誤って入っちゃったんだよ。私は大丈夫だから、ね。」
彼はようやく落ち着きを取り戻したらしい。片足立ちの私を支えてくれた。やっとのことで画鋲を抜くと血が滲んできた。
「ごめん、鞄の一番上のポケットの中に絆創膏入っているから取ってくれない。」
私を支えたまま彼は私の鞄の中を見た。この人、器用だなとどうでもいいことを考えていた。
「はい、見つけた。」
彼が私に剥いた絆創膏を差し出してきてくれた。
「ありがと。」
「てか、女子ってすごいよな。こういうものが鞄の中からほいほい出てくるから。」
彼が感心して頷いている。感心したいのは私の方だ。彼は絆創膏の小分けパッケージみたいなものを剥いて、すぐに貼れるようにしてくれているのだから。そう言う細かいところに気がついてくれる彼は本当に優しい。絆創膏を貼り、靴を履くことが出来たのも彼のおかげだ。
「大丈夫か。駅まで歩けるか。」
「うん、頑張る。」
少し辛いけれど、これ以上彼に迷惑をかけるなんてことはしたくなかった。
「僕も駅まで着いていく。」
ここまでくれば、呆れるほどにお人好しだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて。」
ここで彼の善意を断るのも悪い気がして、そして、予想以上に足が痛かったので彼に駅まで送ってもらうことになった。
「大丈夫だよ。帰り道だからついでに寄ってく感じ。」
彼が安心させるように小さく微笑んだ。彼は嘘つきだ。彼の家は駅とは真逆の方面だ。彼の優しい嘘に私まで笑ってしまう。本当にどうしようもない人だ。駅まで彼が手を繋いでくれたおかげであまり足の裏を刺激することなく来れた。
「本当にありがとね。」
「大丈夫。明日どうする。」
きっと彼は足の心配をしてくれているのだろう。
「行く、絶対に。だから、詳細はこれで連絡する。」
私はスマホを彼の目の前に出し、小さく振った。
「分かった。それじゃあ、またね。」
「ん、またね。」
ちょうど電車が来たので私は彼と別れて電車に乗り込んだ。服から彼の匂いがするので、まだ彼と一緒にいる気分になってしまう。安心感から穏やかな気持になった。
家につく頃には日はすっかり落ちていた。夜空には星が輝く。ふとあれは何年前の光なのだろうかと気になった。
「ただいま。」
「ねえね、おかえり。」
私が戸を開けると妹の咲来が出迎えてくれた。家の中からは美味しそうな匂いがする。
「今日はねえねが好きなグラタンだよ。」
無邪気に飛び回る咲来に笑いが溢れた。
ご飯を食べ終わり、寝る支度を整えてからベッドに寝転びスマホを手に取る。
「連絡遅くなってごめんね。明日、君は何したい。出来れば君がしたいことしたい。」
彼の返信を待つ。十分後くらいに返ってきた。
「ごめん、風呂は入ってた。僕は特にしたいことはない。お前がしたいことが良い。」
「でも、前回もそうだったじゃん。」
「違うでしょ。僕が勝手に連れて行ったんだよ。」
正直、どこに行けば彼が楽しめるのか分からなかった。彼の好きなこと、好きな場所を私は知らない。
「じゃあさ、水族館行こう。ちょっと遠いけど大丈夫なら。」
「いいな、それ。僕魚見るの好きなんだよ。腹減ってくるから。」
その理由は何なのだろうか。私は一人きりの部屋で笑っていた。
「じゃあ、明日塾の駅集合ね。」
「オッケー。おやすみ。」
「ん、おやすみ。」
こんな会話をしていたら、彼が本当の彼氏みたいに思えてきてしまう。そんな想像をしていることが恥ずかしくなって枕で顔を覆い隠す。疲れていたのかもしれない。知らない間に私は眠ってしまっていた。
「あれ、香奈じゃん。おはよう。」
美智子がいつもよりもニヤニヤしながら近づいてきた。嫌な予感がして鳥肌が立った。なんだろうか、何が起こっているのだろうか。美智子の隣に来た華音がにっこり笑った。
「昨日はありがとうね。うちの妹と仲良くしてくれて。」
妹。そんなの心当たりなんてない。華音は一体誰の話をしているんだろう。何の話をしているんだろう。
「どういうこと。」
意味が理解出来ずおそるおそる彼女たちに尋ねる。
「ああ、知らなかったの。昨日あんたとあんたの彼氏があった人、私の双子の妹だよ。あんまり似てないから姉妹だと思われないんだけど。で、あんた昨日妹と遊んでくれたそうだね。」
華音の言葉を理解した途端蝉の声が止んだ。それどころか周りの音が一切聞こえない。何が起こっているんだろう。息ができない。私は華音の妹に昨日なんて言った。完全に他人だと思い込み喧嘩を売った記憶しかない。息ができない。視界までぼーっとしてきた。そんな私を助けてくれる人なんていない。誰もいない。今にも弾けそうな視界で周りを見る。私と目が合うと逸らす人、絶対に目を合わせないようにする人、知らん顔で他の友達と話す人。私を助けようとしてくれる人は誰もいなかった。
「あの子、華音の妹さんだったんだね。」
華音が笑った。しかし、目は笑うことなく冷たかった。
「うん、昨日美音がずっと自慢してたよ。ボチ也の彼女の香奈って人に遊んで貰ったって。美音と遊んでくれた分のお礼はするね。」
華音の隣で美智子は笑っている。華音が自分の席に戻っていった。美智子はすれ違いざま私の耳元で小さく呟いた。
「ざまあ。」
耐えろ。ここで泣くわけにはいかない。チャイムが鳴り席に着く。椅子に座った途端全身の力が抜けた。今まで我慢して創り上げたものが全てめちゃくちゃになった。全て壊れてしまった。彼は大丈夫だろうか。彼に頼りたい、寄りかかりたい。けれどそれは許されない。
「このこと、絶対彼には秘密にしないとな。」
小さな小さな声で呟く。この無力な言葉は誰にも聞こえることなくただ空気に浸透した。彼に弱った姿は絶対に見せないと自分自身に誓う。この世界で一番大切な彼の重荷になりたくないから。
授業が終わりお昼の時間になった。今日は一人、自分の席で食べる。
「見て、なんか浮いてるやついるんですけど。」
「えっ、どこ。何も見えないけど。」
華音と美智子が私の方を見ながら笑う。何も反応することなく一人きりの休み時間を過ごした。
やっとの事で放課後になった。私が帰ろうと荷物を整理していると廊下から声が聞こえた。
「香奈、おい香奈。ちょっと来て。」
華音の声だ。何事だろう。今日あんな空気になってしまったのによく気軽に呼べるなと思いながら廊下まで行った。
「どうし…。」
私の声は途中で途切れた。
「ごめん、手が滑っちゃって。」
美智子が、水滴が流れ落ちているバケツを見せてきた。冷たい。私はバケツの水を頭からかけられた。髪の毛から水滴が滴る。
「美智子、転けそうになっちゃって。わざとじゃないの。」
彼女はよく私のことを知っている。私にどんな言い方をすれば許されるのか知っている。
「大丈夫だよ。わざとじゃないなら仕方ないよ。」
私は小さく笑って言う。寒い。びしょびしょに濡れた服を季節外れのエアコンの空気が冷やしていく。冷たい空気は私の体も心も凍らせていく。ああ、どうしよっかな、これ。今日も塾があるが、替えの服なんて持ってきていない。ましてや、服を買うお金なんてない。家に帰ったらもう間に合わない。そのまま行こう。私は鞄が濡れないように気をつけて持って教室から出た。
外の空気は容赦なかった。気温はいつの間にか秋にシフトチェンジしていた。冷たい風が吹く。顎から水滴が垂れる。髪の毛から垂れた水だと信じ必死で塾に向かった。
「こんにちは。」
私が教室に入ると先生が目を見開いた。
「ど、どうした。」
少し震えていたのかもしれない。先生は急いで暖房を入れてくれた。少しづつ暖かくなってきたと思ったら冷たい風が開けられた扉から入ってきた。ああ、今は会いたくなかったんだけどな。
「よっ。」
何事もなかったように彼に挨拶をした。彼の反応も先生と同じで少し笑えてきた。
「お、お前なんで。どうしたんだよ。」
「あはは、水道掃除してたら水がかかっちゃったの。」
うん、我ながら上手だ。上手く笑えている。窓に映る自分の顔を見て誇らしく思う。
「いや、そんなにかからねえだろ。」
彼の表情は少し硬かった。お願い、気が付かないでと心の中で必死に祈る。
「なんか、ぼーっとしてて…。気づいたらこうなってた。」
彼を心配させまいと必死に嘘と笑顔を取り繕う。それでも彼の顔は険しいままだった。
「とりあえず、その服脱げよ。風引くぞ。」
彼は真顔でやばい発言をする。私はこの服の下に何も着ていない。絶対に脱ぐことは不可能だ。
「えっと、少々事情がありまして…。」
彼は不思議そうな顔で私を見てきた。
「は。風引いてもいいのかよ。」
「そうじゃなくて、替えの服なんて持ってないの。だから、これ脱げないの。」
勢いで言ってしまってから恥ずかしさが襲う。
「ああ、ごめん。そう言うことじゃなくて。僕、もう一着服持ってるから。運動着だけど…。無いよりはましだろ。」
「もう、言葉足りないよ。びっくりしたじゃん。」
「ごめんって。」
彼が鞄の中から運動着を出してくれる。
「あっ、でも…。髪の毛もびしょびしょで、服濡れちゃうから借りれない。」
せっかくの申し出はありがたかったが彼の服が濡れてしまう。そこまで迷惑かけるつもりはなかった。濡れた服が体にへばり付いてきて、私の体温を奪っていく。あまりの寒さにくしゃみが出た。これ、本当にやばいかもと思っていると頭に何か乗せられた。
「良かったな、僕が運動部で。」
彼がタオルで髪の毛をわしゃわしゃと拭いた。
「えっ、帰宅部じゃないの。ずっとそう思ってた。」
「失礼だな。バレー部だ。」
「初耳。すぐ家に帰って本ばっかり読んでると思ってた。」
「こら、僕をなんだと思ってるんだ。」
彼の拭き方が一層激しくなる。彼の手の温かみや彼との会話が私の心までぽかぽかにした。
「ほら、これでちょっとはましだろ。」
しっかり拭いてくれたので水が垂れることがなくなった。
「ほら、早く着替えてきな。」
「ありがと。」
彼の大きな運動着を受け取りトイレに向かう。彼が私の心凍った心を溶かした。着替え終わり私は彼の下に向かった。
「やっぱりそうなると思った。」
彼も予想していたらしい。私も内心思っていた。
「めっちゃブカブカじゃん。お前が小さいから。」
「仕方ないでしょ。てか、君が大きすぎるんだよ。大体私は百五十センチしかないのに、君は百八十センチあるから。」
本当に羨ましいと思う。私と彼が並んで立つと兄と妹だと思われるくらいの身長差がある。
「寒くなくなったか。」
彼が心配そうな表情を浮かべながら聞いてくる。
「うん、ありがと。」
「まあ。」
「何よ、その曖昧な返事は。」
「別に何もないし。」
「おーい。そろそろ授業始めるぞ。」
先生の声で彼と一緒に席に向かう。彼の匂いに包まれながら授業を受けるのかと思うと何故か緊張してきた。
「先生、こいつに風引かれたら困るので、席近づけて温めながら受けても良いですか。」
彼が意味不明なことの許可を求めた。何を言っているんだ、彼はと思っているとまさかの返答が返ってきた。
「ああ、よろしくな。」
彼が、彼の机を私の机にくっつけ椅子も近づけてきた。
「おいで、冷えたら困るから。」
「えっと、その。…まじで。」
「うん、まじ。」
私は意を決して彼の胸に飛び込んだ。現実的には飛び込んではいないがそのくらいの決意をした。彼の方へ椅子を寄せて彼の体に自分の体を少し付ける。
「温かい。」
「やっぱり、寒かったんじゃん。」
一人で呟いた言葉は彼の耳にも届いていたらしい。彼が私の肩を引き寄せる。彼の匂いと彼の体温に私の体は抱きしめられていると勘違いする。鼓動が速くなる。これだけ近くにいたら彼にも聞こえてしまっているかもしれない。しかし、彼に堂々と甘えられる嬉しさの方が勝り、私が彼から離れることはなかった。憂鬱な授業の時間は幸せな時間へと変貌した。
「この問題激むずだぞ。香奈、答えられるか。」
幸せに浸り、ぼーっとしてた私はいきなり名指しされて驚いた。咄嗟に計算して答える。
「ええっと。…60゜です。」
「正解だ。流石だな。」
クラスのみんなの視線が痛い。真面目にやっている私と、遅刻常習犯の不真面目な彼がくっついて座っているのだから。
「この問題は前回の基礎の復習だぞ。凌也、答えろ。」
「えっと、わかりません。」
彼は黒板さえ見ることなく答えた。
「凌也、お前な、真面目にやれ。」
先生が少し呆れながら怒っている。
「先生って、器用だよな。」
彼がはっきり堂々と発言する。先生の耳にももちろん届いていたようだ。
「凌也、ちょっと黙れ。」
「はいはーい。」
全く何なんだろう、この人は。ちょっと優しいなと思えばマイペースで場を乱すは、ちょっとかっこいいなと思えば不真面目すぎる。小さな笑いが溢れた。
「どうした。寒いか。」
肩を震わせているので彼に寒いと勘違いされてしまったらしい。
「違う違う、面白くて。」
彼はきょとんと首を傾ける。何に対して笑っているのか分からないと言う顔だ。そんな姿がまた可愛くて仕方が無い。マイペースだけど優しくて、不真面目だけどかっこよくて、空気が読めないけどかわいい。彼が大好きだ。もう少しだけ彼に体を任せる。もう少しだけ彼に近づく。
「大好き。」
聞こえないくらい小さな小さな声で囁く。彼のおかげで二時間ある退屈な塾が幸せな時間に変わった。
「ねぇねぇ、香奈ちゃん。ちょっと聞いても良い。」
帰る準備をしていると三人の女の子が話しかけてきた。見たことはあるけど話したことなんてない。
「なに。どうしたの。」
彼女たちはもじもじしながら何か相談している。
「あのさ、凌也君と付き合ってるの。」
「ああ、そのことか。」
何のことだろう、私は何かしただろうかと身構えていたが彼との関係のことだったらしく、私は無駄に力んでいた全身の力を抜いた。
「うん、そんな感じ。」
私の発言に彼女たちの顔が暗くなった。
「あっ…。そうなんだね。」
何だろう。変なことでも言っただろうか。
「あのさ、どっちからなの。」
「えっ、どっちってどういうこと。」
彼女たちは何の事を言っているのだろうか。
「私は、凌也君のことが…ずっと好きだったのに。」
今まで無言で俯いていた女の子がいきなり顔を上げて涙目で私を睨めつけた。
「で、どっちから告白したの。」
これはまずい。私からと答えると、この女の子に呪われる気がしてきた。でも、彼からなんて言ったら彼が私みたいなつまらない人に告白するヤバい人だと思われてしまう。
「僕からだけど。」
後ろからいきなり声がした。彼だった。この人は人に興味なさそうに見えて私が困っている時はすぐに助けてくれる。
「だいたいさ、僕のことが好きだったなら香奈じゃなくて僕に言いに来なよ。香奈に言って何になるの。」
彼の辛辣な言葉に二人黙り、一人泣いた。
「私は、ずっと、凌也君のことが、好きだっ、たのに。」
「ごめん、僕もずっと前から香奈のことが好きだったから。」
彼の言葉にドキッとする。これは私を守るための嘘だ。信じてはいけない。
「う、うわーん。」
「ちょっ、待って。ももか。」
高揚を抑え、走り去った彼女たちの背中を見る。
「あのー、ごめん。私が君のことを彼氏にしてなければ、晴れてがちの彼女ができたのに。本当にごめん。今からでも…。」
「あのさ、僕が望んでお前の彼氏になったんだよ。僕がなりたかったの。だから謝らないで、頼む。」
彼が私の言葉を遮った。彼の言葉が嬉しかった。胸が高鳴る。
「ありがとう。」
私はこの一言を言うことが精一杯だった。
「早く帰ろう。」
彼が私の手を握る。これは、周りに見せつけるため。私たちが本当のカップルだと思い込ませるため。自分の胸に手を当てると幸せの音がした。
「手冷た。お前な、なんで黙ってるんだよ。寒いなら寒いって言え。」
「でも…」
「でもじゃない。一人でどうにかしようとするな。抱え込むな。」
彼に怒られてしまった。でも、彼が私のことを心配してくれていると伝わる。
「ごめん、ありがと。」
彼の手を強く握り返す。強く強く。決して離れることのないように。
「香奈さん、まじで風引くなよ。凌也を手懐けられるの香奈さんだけなんだから。あと、お前らいつから付き合っていたんだ。先生びっくりだぞ。」
先生が私たちの姿を見て、声をかけてきた。
「今日は温かくして寝ますね。」
「ああ、そうしろ。気を付けて帰れよ。」
先生が教室の鍵を閉める。その音と共に私はあることを思い出した。
「あっ、ねえ。服どうしよ。」
「ああ、それ着て帰っていいよ。明日使わないから。」
「あ、ありがとう。」
「ん、明日の塾で返してくれれば良いから。」
彼の言葉にふと違和感を感じた。違和感の正体はすぐに分かった。
「あの、明日塾ないよ。」
そう、明日は一週間に一度の休みなのだ。
「あー、じゃあ二人でどっか遊びに行かない。」
「いいね。じゃあ、その時に持って行くね。」
「おう。」
彼と階段を降りながら明日遊ぶ約束を取り付けた。楽しみだなと心が浮かれていた。
「痛っ。」
足の裏に痛みを感じたのは、くつを履き替えようとしていた時だった。
「大丈夫か。どうした。」
私は恐る恐る足をあげる。足の裏を見ると確かに画鋲がぐっさりと刺さっていた。
「誰だよ、こんなことしたやつ。」
彼が怒りながら周りを見ると、ドアの近くの木にさっきの女の子たちが隠れていた。
「絶対あいつらだな。」
彼が彼女たちのところに向かおうとする。
「ちょっと、違うかもでしょ。多分掲示物の張り替えをしてて誤って入っちゃったんだよ。私は大丈夫だから、ね。」
彼はようやく落ち着きを取り戻したらしい。片足立ちの私を支えてくれた。やっとのことで画鋲を抜くと血が滲んできた。
「ごめん、鞄の一番上のポケットの中に絆創膏入っているから取ってくれない。」
私を支えたまま彼は私の鞄の中を見た。この人、器用だなとどうでもいいことを考えていた。
「はい、見つけた。」
彼が私に剥いた絆創膏を差し出してきてくれた。
「ありがと。」
「てか、女子ってすごいよな。こういうものが鞄の中からほいほい出てくるから。」
彼が感心して頷いている。感心したいのは私の方だ。彼は絆創膏の小分けパッケージみたいなものを剥いて、すぐに貼れるようにしてくれているのだから。そう言う細かいところに気がついてくれる彼は本当に優しい。絆創膏を貼り、靴を履くことが出来たのも彼のおかげだ。
「大丈夫か。駅まで歩けるか。」
「うん、頑張る。」
少し辛いけれど、これ以上彼に迷惑をかけるなんてことはしたくなかった。
「僕も駅まで着いていく。」
ここまでくれば、呆れるほどにお人好しだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて。」
ここで彼の善意を断るのも悪い気がして、そして、予想以上に足が痛かったので彼に駅まで送ってもらうことになった。
「大丈夫だよ。帰り道だからついでに寄ってく感じ。」
彼が安心させるように小さく微笑んだ。彼は嘘つきだ。彼の家は駅とは真逆の方面だ。彼の優しい嘘に私まで笑ってしまう。本当にどうしようもない人だ。駅まで彼が手を繋いでくれたおかげであまり足の裏を刺激することなく来れた。
「本当にありがとね。」
「大丈夫。明日どうする。」
きっと彼は足の心配をしてくれているのだろう。
「行く、絶対に。だから、詳細はこれで連絡する。」
私はスマホを彼の目の前に出し、小さく振った。
「分かった。それじゃあ、またね。」
「ん、またね。」
ちょうど電車が来たので私は彼と別れて電車に乗り込んだ。服から彼の匂いがするので、まだ彼と一緒にいる気分になってしまう。安心感から穏やかな気持になった。
家につく頃には日はすっかり落ちていた。夜空には星が輝く。ふとあれは何年前の光なのだろうかと気になった。
「ただいま。」
「ねえね、おかえり。」
私が戸を開けると妹の咲来が出迎えてくれた。家の中からは美味しそうな匂いがする。
「今日はねえねが好きなグラタンだよ。」
無邪気に飛び回る咲来に笑いが溢れた。
ご飯を食べ終わり、寝る支度を整えてからベッドに寝転びスマホを手に取る。
「連絡遅くなってごめんね。明日、君は何したい。出来れば君がしたいことしたい。」
彼の返信を待つ。十分後くらいに返ってきた。
「ごめん、風呂は入ってた。僕は特にしたいことはない。お前がしたいことが良い。」
「でも、前回もそうだったじゃん。」
「違うでしょ。僕が勝手に連れて行ったんだよ。」
正直、どこに行けば彼が楽しめるのか分からなかった。彼の好きなこと、好きな場所を私は知らない。
「じゃあさ、水族館行こう。ちょっと遠いけど大丈夫なら。」
「いいな、それ。僕魚見るの好きなんだよ。腹減ってくるから。」
その理由は何なのだろうか。私は一人きりの部屋で笑っていた。
「じゃあ、明日塾の駅集合ね。」
「オッケー。おやすみ。」
「ん、おやすみ。」
こんな会話をしていたら、彼が本当の彼氏みたいに思えてきてしまう。そんな想像をしていることが恥ずかしくなって枕で顔を覆い隠す。疲れていたのかもしれない。知らない間に私は眠ってしまっていた。



