外に出ると、肌寒い風が僕の横を通り過ぎた。流石に寒かった。彼女の顔を見つめる。今日で、最後であろう彼女はいつもと同じように、世界で一番可愛かった。あの話をしていいのか、彼女が必死に隠しているところを探っていいのか悩む。
「なあに。言いたいことあるんじゃない。」
彼女の一言で僕は言う決心をした。どうせ、今日で終わりなのだから。どうせ、今日が最後なのだから。
「言いたいことっていうか、質問。答えてくれる。」
彼女が首を縦に振った。
「ねえ、無理してない。」
「何言って…。」
明らかに動揺していた。またあの笑顔で誤魔化そうとする。笑っていない、その笑顔で。
「それ、嫌だ。」
僕の口は無意識に動いていた。
「何でよ、いつも通りじゃん。」
一度決壊したダムから流れる水が止まらないように、一度呟いてしまった言葉はもう歯止めが効かなかった。
「違う。全然違うよ。香奈は、香奈はもっと心から幸せそうに笑うもん。全部、全部知ってるんだよ。何で相談してくれないの。何で隠すの。何で無理しながら笑うの。…そっか、僕には相談できないよね。ごめん、本当にごめん。」
そのまま僕は彼女に背を向ける。
「本当にごめんね。僕のせいでこうなったのに、僕が踏み込んじゃいけないところまで踏み込んで、僕がいけないんだ。…でも、もう大丈夫だから。」
彼女は一言も発しない。これでいいんだ、そう自分に言い聞かせる。
「変なこと言ってごめん。…香奈、ばいばい。」「今、何て言ったの。」
今まで黙っていた彼女が突然口を開いた。
「え、だから変なこと言ってごめんって。」
僕が彼女の方を振り返ると、彼女は大粒の涙を流していた。
「ばいばいなんて言わないで。お別れなんて嫌だよ。」
「香奈…。」
「君が、いつも君が『またね』って言ってくれるから、また会えるんだって。それが私の支えで…。もう、会えなくなるみたいに言わないでよ。」
そう、彼女とはもう会えなくなる。それがこんなにも早くバレるとは思っていなかった。彼女は何かを決意したような顔で僕の目を真っ直ぐ見つめた。
「私、私は凌也君にずっとずっと支えられてきました。あなたが話しかけてくると心が踊ります。あなたの笑顔で頑張ることが出来ます。あなたが私の横にいてくれたから、私は今ここにいます。あなたのおかげで私は生きています。どんなに苦しくても、辛くてもあなたと会うだけで、そんなの全部吹き飛んで、春のような穏やかな優しい風が心を癒してくれます。」
彼女の目には涙が浮かんでいた。その光る雫が、これが彼女の本音だということを物語っていた。
「君が好き。君の声が、君の匂いが、君の優しさが、君の笑顔が全部全部大好き。君は引くかもしれない。この気持ちが重いかもしれない。それでも、君は私の生きがいなの。放課後、君と会えると思うと、その日の学校がどれだけ地獄だろうとその中を駆け抜けることが出来た。君がいなくなったら、私の心には穴が空いちゃうよ。今まで傷つけられて、君という存在で埋めていた穴が、空いちゃうよ。君がいないと私は駄目なの。…『ばいばいなんて言わないで、お願いだから。お別れなんて、そんなの嫌だよ。」
彼女はその場に泣き崩れた。咄嗟に手を伸ばす。彼女が僕の手を強く強く握りしめた。もう二度と届かないと思っていた彼女の手。僕が一度振りはろうとしたその手から、ひしひしと気持ちが伝わってきた。
「ごめん、香奈がそんな風に思っていたなんて、僕気付かなかった。分からなかった。」
息を飲む。ここからは本音で話そう。本音をぶつけてくれた彼女に返せるものは、僕の本当の気持ちしかない、そう思ったから。
「僕は、僕が香奈から離れればそれで解決すると思った。香奈がいじめられるようになったのは、他でもないこの僕のせいだから。原因である僕が香奈から離れたら、香奈は元の世界に戻れるんじゃないかって思った。でも、僕はこの幸せを自分から壊したくなかった。僕の居場所は香奈の隣がいいから。それでも、最近の香奈の苦しそうな顔を偽笑顔を見た時、僕の中の何かが弾けるんだ。お前は俺の憧れだったから。昔からずっと、僕はお前に憧れていた。僕のせいで僕の憧れが壊れてしまう、そう思った。お前だって一人の人間なんだって、完璧じゃないって分かってからますます怖くなった。お前を壊したくせに、僕がお前の隣で幸せを感じたらいけないと思ったんだ。お前のおかげで幸せな僕と、僕のせいで不幸なお前。どう考えたってフェアじゃない。だから僕はお前から離れないといけないと思った。お前が壊れる前にどうしても。…だけど、一番は自分の憧れが目の前で壊れていくのを見たくなかっただけかもしれない。自己中だろ、本当に。」
ここで一度言葉を止める。本当にいいのだろうか。こんな僕が彼女の隣にいてもいいのだろうか。悩んでいると、彼女の視線とぶつかる。どれだけ怖かっただろうか。今もなお目が揺れていた。僕は、どうすればいいのだろうか。僕は…。
「…でも、俺が、間違っていた。ごめん。お前の考えを何も聞かずに勝手に一人いなくなろうとして、本当にごめん。大好きなお前を守りたかったんだ。世界で一番お前が、好きだから。お前の声が、お前の香りが、お前の優しさが、お前の笑顔が、全部全部大好きだ。」
無意識のうちに頬に涙が流れていた。でも、それでも、まだ彼女に伝えていないこと、伝えなくてはいけないことがある。だから、もう一度口を開く。
「もう二度と、お前の気持ちを勝手に決めつけない。もう二度と、お前の前から勝手に消えたりしない。だから、フリなんてやめて僕と、本当に、付き合って欲しい。」
彼女の返事を待つ。
「うん、もちろんだよ。」
彼女の声が聞こえた。彼女の返事が聞こえた。安心と、喜びで口角が上がる。両手を広げると、彼女は僕の胸めがけて飛び込んできた。夕陽が僕達の横顔を照らしていた。