いつも通りの時間、いつも通りのルーティーンを繰り返す。
「行ってきます。」
家には僕一人しかいなかったため、まるでペンギンのぬいぐるみに話しかけているようだった。あの時、水族館で彼女とお揃いになったそのぬいぐるみは、今でも愛らしい目で僕を見つめる。この家にはもう慣れた頃だろうか。ペンギンにそう問いかけた。当然答えは返って来ない。あの水族館の後から、どうも彼女の様子がおかしい。今までしなかったような、しんどそうで辛そうな顔で僕に笑いかけてくるのだ。どうしてあんな偽笑顔を作るのだろうか。どうしたら彼女を助ける事ができるのだろうか。ペンギンにもう一度問いかける。当然、答えは返って来なかった。
 家を出ると肌寒い風が僕の横をすり抜ける。彼女を助けるためには、彼女をこの地獄から連れ出すためには、僕は。辺りを見回すと、いつもと違う景色が広がっていた。色の無い、その白黒の世界はどこか僕に似ている気がした。
 教室に入る。いつもの笑い声が聞こえる。うるさい。うるさい、うるさい。どうして、あいつらは笑っているのだろうか。どうしてあいつらは笑うことを許されているのに、どうして彼女は笑顔も奪われなければいけないのか。腹の底からふつふつと沸く怒りをなんとか抑える。僕はそのまま机に突っ伏した。僕が離れれば彼女はきっと…。
 放課後になり、少し早足で塾に向かう。先生と話がしたかった。
「先生、こんにちは。」
僕が塾に着くと、一番会いたい人の背中が見えた。しかし、今は我慢する。僕は少し声を潜めた。
「先生、ちょっと相談があります。」
何かを察してくれたのか、先生は個別相談室に連れて行ってくれた。
「どうした、凌也。」
先生は真面目な顔で僕に尋ねる。
「実は、……塾を辞めたいと思ってて…。」
自分の口から発したことがないような低い声で話を切り出す。
「…授業の方針が、合わないのか。」
「違います。」
真面目に尋ねてくる先生には、申し訳ないと思いながら返答する。
「じゃあ、何でか理由が聞きたい。最近の凌也はずっと楽しそうだったから。」
言葉が喉の奥の方で引っかかる。
「僕のせいで、彼女は…。だから、僕は、彼女から…。」
そう言って黙り込んでしまう。言わないといけないのに、言えない。「離れなきゃいけない」たったそれだけの言葉が言えない。
「…最近な、香奈さんの様子がちょっとおかしいんだよ。」
沈黙に耐えかねたのか、先生が淡々と話し始めた。先生の言葉に胸がキリキリと痛む。
「最近の香奈さんは、目の奥が笑っていないんだ。必死に笑っているフリをして、誰にも心配かけないように頑張ってる。…頑張る方向性がズレてるんだよな。きっと、これは俺が言う話じゃない。凌也と、香奈さんの間に何があったのか俺が口出しする話じゃない。…だけど、お前は違うだろ。ちゃんと彼女と向き合うべきだろ。一度だけ、本音で話してみろよ。」
先生の言葉が胸に染みる。僕が向き合わなきゃいけない。本音で話さなきゃいけない。でも、僕のせいで傷付いた彼女と、僕は何を話すのだろうか。彼女と過ごしていて分かったことがある。当たり前かもしれないけど、彼女も一人の人間なんだということ。嬉しい時は喜ぶし、辛い時は悲しむ。だから、僕のせいで傷付いた彼女は僕にどんな言葉を向けるのだろうか。きっと、僕が向けている感情とは真逆の感情だろう。彼女と話をしたい、しなきゃいけない。けれど、それがとても怖かった。
「まあ、何だ。塾辞めるって言うなら、親連れて来い。一度、三人で話さないといけないからな。…以上。」
先生はそれだけ言って、部屋から出ていった。そろそろ授業の時間なので、僕も部屋を出て、彼女の隣に向かう。僕が席に座ると彼女が話しかけてきた。
「ねえ、何やらかしたの。」
予想外の質問に驚き、そして笑いが溢れた。
「香奈の中で俺は何かをやらかす人なのかよ。」
彼女も少し楽しそうに笑った後、ふと笑顔が消えた。本当に楽しそうに笑っても、それはほんの一瞬だけ。彼女は笑う権利すら奪われてしまったのか。
「どうした。具合悪いか。」
僕は敢えて知らないフリをして問いかける。彼女が必死に隠そうとしている部分に無駄に踏み込むほど愚かな人間にはなりたくなかったから。
「ううん、違うの。ただ、寝不足で。」
予想通り彼女は嘘を付く。自分がいじめられる原因を作った僕に頼りたくないのだろう。
「さ、授業始まるよ。また、怒られたら大変でしょ。」
彼女が隠そうとするなら、僕は…。
「だから、さっき別に怒られたわけじゃねぇし。」
二人で冗談交じりのやり取りをしながら笑い合う。彼女の下手くそな偽笑顔を見つめる。心がちくりと痛んだ。