今日の授業の準備をする。するとクラスチャットにメッセージが来ていた。
「今日の四時間目は授業変更で体育になります。ジャージを忘れずに。」
昨日、彼女に貸しているからジャージは無い。こんな時に授業交換をする先生たちに少し腹が立ったが、サボれるので許すことにした。
家を出るとほんのり冷たい風が吹いたが、太陽の暖かさに中和された。公園のベンチで少しだけ日向ぼっこをする。赤い葉が一枚ひらりと舞い落ちた。今日は少し早めに出たため時間に余裕がある。ここにいると、この世界は平和だと言う錯覚に陥ってしまう。ずっとここにいたくなってしまうため僕は重い腰を持ち上げ仕方なく学校へ向かった。
教室に入ると奴らはスマホを見ながら笑っていた。あの調子では僕のところには来ないだろうと胸を撫で下ろし席に着く。しかし僕の予想は甘かった。
「あっ、ボチ也じゃん。やっと来た。見てこれ、面白い動画だよ。」
奴らが僕の目の前にスマホを突き出す。見たくなくても絶対に目に入る位置に置かれた。どこかの学校の廊下に人が二人立っている。一人の女はこいつと似ている。嫌な予感が僕の背筋を冷たく凍らせる。そんなことは無いはず、そんなわけないはずと自分に言い聞かせるが冷や汗が止まらない。
「香奈、おい香奈。ちょっと来て。」
違う、同名の人であって彼女ではない。頭では否定するが心は何かを悟っているらしい。鳥肌が立ち、冷や汗が止まらない。
「どうし…。」
教室から出てきた人物は僕が絶対に違うことを祈っていた人だった。
「ごめん、手が滑っちゃって。」
女がニヤニヤと笑いながら、空っぽなバケツの中を見せつける。
「美智子、転けそうになっちゃって。わざとじゃないの。」
もう一人の女もニヤニヤと笑いながら彼女を見下す。吐き気がした。どうして優しい人がこんな目に遭わなければいけないのか。どうして真面目で一生懸命な人がこんな目に遭わなければいけないのか。どうして彼女がこんな目に遭わなければいけないのか。ふと答えが頭によぎる。彼女が地獄に堕ちる原因となったのは僕だ。あの時、僕が彼女を連れて行かなければ。あの時、僕が彼女と付き合うフリなんてしなければ。あの時、僕が彼女を好きにならなければ。僕のせいできっとこれから彼女は壊れてしまうだろう。一方通行の片思い。愛の言葉を送っても返ってくるのは憎しみや恨みの言葉だろう。胸が苦しくなりうまく息が出来ない。それでも僕の思考は止まってくれない。僕が彼女から離れたら、彼女は元の生活に戻って、元の彼女に戻るかもしれない。彼女の疲れながら、悲しみながら、無理矢理笑うあの表情はもう見たくないから。僕がいなくなるしかないんだ。
「大丈夫だよ。わざとじゃないなら仕方ないよ。」
彼女が小さく微笑む。その目には悲しみと怒りを隠しながら。せめて怒ってくれれば良かった。正義感の強い真面目な彼女。僕が憧れた彼女はもう見る影もなくなっていた。
「こいつやば。この後どうしたんだろうね。」
奴らのぎゃはぎゃは笑うその声で僕は現実に引き戻された。この後のことは知っている。びしょびしょのまま塾に来て、嘘ついて、苦しいことを隠しながら無理矢理笑って。強く食いしばりすぎたようで口の中に鉄の味が広がる。しかし、こんなにも怒っているのに動けない。奴らに何も言えない。奴らに反撃することも出来ない。彼女を助けることが出来ない。自分の無力さに更に怒りを感じた。自分に嫌気が差す。居ても立っても居られなくて僕は教室から逃げ出した。逃げ出したのは教室だけでは無かった。憎い奴らから、壊れた憧れから、無力な自分から。僕の心にはしとしとと雨が降っていたが外の世界は違う。ギラギラと照りつける太陽の光はとても秋には似合わない。そう、あんな姿は彼女には似合わない。目的も決めずに無我夢中で走っていると気づいた時には朝の公園にいた。ベンチに腰を下ろす。朝よりも赤い葉は落ちていた。どうせ学校に戻っても真面目に授業を受けるつもりなんてないし、勉強なんてどうでもいいので僕は放課後に荷物を取りに戻り、それまではこの辺りにいようと思った。徐々に落ち着いて来た陽の光が僕を静かに照らす。やはり誰かに頼るべきではなかった。一人で大人しくしているべきだった。僕の甘えが彼女を、僕の憧れを壊すことになると知っていれば、僕はきっと彼女と関わらなかっただろう。手を伸ばしてはいけない他の世界の存在を求め、禁忌を犯してしまい、本来は繋がることのない世界が繋がってしまったことで、本来ならありえないような新しい未来が誕生してしまったのだ。
「時間が戻ればいいのに。」
ポツリと呟いたその言葉を叶えてくれる人なんていなかった。この言葉をすくい上げてくれる人すらいなかった。唐突に寂しさに襲われる。この先も彼女と一緒にいたいけれど、これ以上彼女を傷つけたくないので一緒にいたくない。こんな矛盾を抱えながら空を見上げる。同じ空の下にいるはずの彼女は今何を考えているのだろうか。彼女は今何をしているのだろうか。彼女が無事であるようにと願う事しか出来ない僕をどうか許してほしい。彼女に背を向け逃げたしてしまいそうな僕をどうか許してほしい。気がつくと太陽は雲に隠れ、冷たい風だけが僕に襲いかかった。さすがに肌寒いので、近くの図書館に身を置く事にした。
図書館に着くと一応あたりを見渡す。見えるはずのない彼女の姿を本能的に探してしまう。僕みたいに学校をサボって図書館に来る人はいないようで、また時間も早いので、いつもよりも人が少なかった。
「どうしたの、凌也君。」
「こんにちは、中島さん。」
週に三回も通っていたらさすがに司書に覚えられてしまった。僕のことを覚えてくれている司書の中で一番仲が良いこの中島さんは、いつも僕にピッタリの本を紹介してくれる。こんなにも本のことを知っているのだから中島さんも本が大好きなのだろう。
「実は、今日は、恋愛ものを読みに来ました。素直になれない弱い男子と、優しくて強い女子の話ってありますか。出来れば控えめなものが良いんですけど。」
いつも口を開けばミステリーとしか言わない僕がいきなり恋愛ものを読みたいと言ったからだろう。中島さんは数秒目を見開いて固まっていた。僕自身も自分の心境の変化に驚いているのだから、僕を知っている人が驚くことも無理はないだろう。
「ちょっと待っててね。」
我を取り戻した瞬間に自分のやるべきことをこなす姿はいつもよりもぎこちなかった。
「これがおすすめかな。」
中島さんが一冊の本を手に持ち戻って来、それを僕に渡した。美しい風景の中に二人の男女が微笑み合っている表紙。きっと物語も美しいのだろう。恋が実る美しい世界の物語。早くページを開きたかったが僕にはもう一つ読みたいものがあった。
「ありがとうございます。中島さん、もう一冊お願いしてもいいですか。」
僕は一度言葉を切って息を吸う。ここで言ってしまったら、なぜか取り返しがつかないように感じ緊張した。それでも僕は口を開くのを止めなかった。
「弱い男子が、自分よりも強い憧れの女子を守るために自分を犠牲にする話はありますか。」
中島さんは僕の言葉を聞いた後、下を向いて考え込んでしまった。世界は大量の本で溢れているが、僕がピントを絞りすぎたようだ。だけど中島さんを信じて返答を待つ。
「その小説読んで、ちょっと待ってて。」
その言葉を残して大量の本の中に消えていった。僕は目の前の本に視線を戻す。ページを開く。美しい世界に片足を踏み入れると、その足を引っ張られるかのように小説の世界に入る。美しい世界に飲み込まれる。
主役は弱い男の子。ある日、強い女の子に出会うことから物語が始まる。男の子は次第に女の子に惹かれていく。だけれども男の子と女の子の間には大きな分厚い壁がある。男の子のことを気に掛ける女の子は次第に男の子のことが好きだと言うことに気が付き両サイドから分厚い壁を壊し始める。色々な出来事が二人を襲うが、決して諦めることなく二人は互いを愛しあう。しかし二人とも自分が片思いしていると思っている。壁が壊れた時真実が明らかになり、二人は涙ぐみながら誓いを結ぶ。めでたしめでたし。
読み終わってしまった。少し刺激が強い部分もあったがなんとか読み終えることができた。苦手を克服する大変さを改めて感じた気がした。感想は、世界はそんなに甘くないと言うこと。そんなタイミング良く女の子が男の子を助けたり、タイミング良く二人がいる時にトラブルが起きて二人で解決するなんてことはない。やはり恋愛小説は現実味が無い。それに比べてミステリーは現実味があるものが多い。実際に本当に出来るのかと試してみたくなるあの胸の衝動は簡単に止めれるものでは無い。美し過ぎる小説は僕には合わない。こんなにも世界が簡単なら今、僕は何のために苦労しているのだろうか。何のために悩んでいるのだろうか。少し疲れた頭と心を休ませるためゆっくり目を閉じる。少し休ませていると、背後に気配を感じ目を開けた。
「凌也君、これで良いかな。」
少し黒い表紙に少女がぽつんと一人立っていた。
「やっぱり凌也君は読むの早いね。」
僕が付箋も挟まずに本を閉じていたのを見て、読み終わったことが分かったらしい。
「ありがとうございます。早速読んでみますね。」
「ごゆっくり。後で二冊分の感想聞かせてね。」
ページを開く。また先ほどとは違う世界が僕を包みこんだ。美しいけれど、どこか悲しい世界へ飲み込まれた。
幼馴染の女の子と男の子の話。成績優秀、容姿端麗、性格は優しく、正義の心を持つ女の子。不真面目、地味、正直になれない、いじめられている男の子。女の子と男の子は昔から仲が良かった。しかし、高校に入り学校が離れてしまう。その別々になった学校で男の子はいじめを受けてしまう。けれど、必死に女の子だけには弱いところを隠す。ある日、久しぶりに二人で出かけていると男の子を虐めている人たちに会ってしまう。真実を知った彼女は男の子を守るために立ち向かった。男の子を虐めてた人たちは面白がって、今度は女の子を虐め始める。何も出来ない男の子に女の子は微笑んで大丈夫と言う。男の子は女の子なら大丈夫だろうと少し油断していた。ある日、男の子が家に帰ると女の子の家の前に救急車が止まっているのが見えた。女の子はストレスが溜まりすぎて病気にかかってしまった。女の子の心臓はボロボロで後一年の余命宣告をされてしまう。男の子は何度も何度も女の子の病室に足を運ぶ。最初は平気だと笑っていた女の子の姿はどんどん痩せこけて笑うことすらしなくなった。自分のせいで女の子が壊れてしまったと思った男の子は、病院の先生に何とかする方法はないかと聞きに行くが、その時に女の子の両親と先生が話しているのを聞いてしまう。その内容は女の子は心臓移植をしないと残り一ヶ月しか生きられないと言うものだった。それを聞いた男の子は悲しみと絶望にくれた。ある晩、男の子は一人で川辺に向かう。ナイフと手紙とスマホだけを持って。そこで男の子は救急車に電話した。
「川辺に倒れている人がいます。」
救急車は急いで向かうと答えてくれた。遠くから救急車のサイレンの音がする。男の子は震える手でナイフを握り自分の喉を切り裂いた。手紙が血で汚れないように高く高く握り締めながら男の子の意識は遠のいていった。
ある日女の子が目覚めると苦しかった体が嘘のように軽くなっていた。隣で両親が泣きながら笑っている。女の子の友達も何人か来てくれていた。その友達の中を探しても、男の子の姿はどこにもなかった。男の子がいないなんておかしいと思った女の子はその場にいる全員を問い詰める。すると全員顔を見合わせて悲しそうな顔をした。男の子に何かあったのだと察した女の子は両親に尋ねる。すると母は一通の手紙を女の子に差し出して泣き崩れてしまった。嫌な予感が背筋をなぞる。震える指でゆっくりと手紙を広げると、見慣れた男の子の字が並んでいた。
「あかりへ
僕が虐められているのを庇ったからあかりが虐められる事になって本当にごめん。
僕たちは小さい頃よく兄弟だと間違えられるほど仲良しだったね。一緒に海に行ったね。一緒に山に行ったね。一緒に色々なところに行ったね。一緒にお買い物したね。一緒にお泊り会したね。一緒に色々なことしたね。本当に楽しかった。
僕が虐められていた事をあかりに隠していたのは理由があったんだ。きっとあかりは隠し事されて嫌だったよね。ごめん。でも僕は、あかりにだけはかっこいい僕を見てほしかったんだ。弱くて、人に守られないと生きていけないような人間だと思われたくなかったんだ。だって、あかりのことが大好きだから。人として、友達として、恋愛対象として大好きだ。本当は自分の口であかりに伝えたかった。
僕のせいで辛い思いをさせてごめん。代わりにはならないけれどあかりのがボロボロなら僕のをあげる。あかりには精一杯生きてほしいから。大丈夫だよ。僕はこれからずっとあかりといるよ。絶対に一人にはしないって言う約束覚えてるかな。お泊り会の夜にあかりが怖がって泣いちゃった時に指切りしたね。だから、精一杯生きてください。たとえ話し合えなくても、見つめ合えなくても、笑い合えなくても、僕はあかりと一緒にいる事を忘れないでね。
大好きだよ。さようなら。」
手紙を読み終える頃には女の子の目から溢れた大粒の涙が手紙と布団にシミを作っていた。男の子が女の子に命をあげて女の子を救ったのだ。女の子は泣きながら男の子の名前を叫び続ける。もう二度と帰っては来ないと知りながら。もう二度と返事は聞こえないと知りながら。女の子は自分の心臓に向かって呼びかけ続けた。おしまい。
読み終える頃には僕の目にも涙が溜まっていた。美しい自己犠牲の精神を讃えながら、それが正解だったのか吟味する。この後、女の子はどうなったのだろうか。果たして男の子がいなくなった世界に色はあるのだろうか。この男の子と女の子は幼馴染で両思いだ。僕と彼女との関係とはかけ離れ過ぎている。僕と彼女は両思いではない。僕の一方的な片思い。きっと僕が自分の気持ち犠牲にして彼女を守っても彼女が悲しむことはないだろう。
「自分の好きな人が壊れてしまっても目を背けないのはすごい。」
僕は逃げ出したくて、目を背けたくて仕方がないのに一生懸命彼女を支えていた男の子を尊敬する。
「じゃあ凌也君は背けちゃうの。」
突然隣から声が聞こえて驚く。中島さんが座っていた。僕が読み終わるのを待っていてくれたらしい。
「もしかして凌也君、好きな人でも出来たの。」
中島さんの唐突な質問に少し慌ててしまう。その反応を肯定と受け取ったのか中島さんは少し笑って楽しそうな表情を見せた。
「へー、どんな子。私が良い子か判定してあげる。」
にやりと歯を見せて笑う。話を逸らそうとしても強引に出されて真実を吐くまで問い詰められるのは分かっているので渋々写真を見せた。一番好きなクレープを頬張っている写真だ。写真を見た瞬間に中島さんは眉を寄せた。
「えっ、この子狙ってるの。超絶美人じゃん。どんな性格なの。」
目をキラキラさせながら問いかけてくる中島さんは子供のように見えた。
「えっと、すごく優しくて、可愛くて、あとめちゃめちゃ頭が良いんです。努力家で。あと誰よりも強くて頼れる。どんな悪にも怯まず挑むって感じです。…あの。」
僕が言葉を切ったのは、中島さんがあんぐり口を開けて僕を見つめていたからだ。普段は見ない中島さんの反応を珍しく思いながらも、変なことでも言ったかと不安になる。
「えっと、容姿端麗、成績優秀、性格最高って感じ。」
「そうです。」
実際本当にそうだと思う。彼女は完璧な人なのだから。僕なんかとは真逆の、違う世界に生きる違う存在。
「で、その子を狙ってるの。彼女にしたいの。」
中島さんは防御の隙を与えないようにどんどんと質問をしてくる。だけど少し的外れな中島さんの質問に笑いと悲しみが込み上げる。完璧な彼女の彼氏が僕なんて誰一人想像できないだろう。だけど、相談に乗ってもらうためにここは嘘だけれど本当の事を言う。
「えっと、僕の彼女です。」
中島さんが停止する。きっと今中島さんの脳は理解するために一生懸命動いているのだろう。
「ほう。」
中島さんがこの言葉を発するのに三十秒くらいかかった。僕も彼女のことを自分の彼女と人に言うのは恥ずかしい。僕らが全く釣り合っていないことくらい自分でも分かっているから。
「それで何の相談かな。」
やはり中島さんは感がいい。僕だって相談しないのだったら絶対に中島さんにこんなこと言わないから。
「中島さん。この二冊目の本すごく良かったです。感動しました。」
「いえいえ。それで彼女の話は…」
僕の顔を見て何かを察してくれたらしい。良くも悪くも中島さんは感が鋭いから。
「もしかして彼女と凌也君の状況と似ているの。」
「病気にはかかってないですよ。あと、僕も死ぬつもりなんて微塵もありませんよ。」
あまりにも心配そうな表情で尋ねるので、心配をかけない様ににっこり笑う。中島さんは少し落ち着いたようだ。
「で、何悩んでるの。」
「僕がいなくなったら彼女は幸せになれると思いますか。」
中島さんは苦虫を噛み潰したような顔をする。
「何言ってるの。彼氏がいなくなって幸せになる彼女はどこにいるのよ。」
中島さんが呆れたように不思議そうに言う。違うんだ。本当は違うんだ。言うか否か悩んだ末、中島さんは信用出来ると結論に至った。
「あの、実は彼女は本当の彼女ではないんです。」
僕は今まであった本当のことを話し出す。中島さんの顔など見れずに下を向く。言葉を一言発するたびに胸が苦しく肺が痛い。彼女は彼女ではない。自分で発する一言一言が僕の心に突き刺さり、なぜだか涙が出てくる。僕が泣くことなんてないのに、ただ真実を自分自身に突きつけているだけなのに。言葉が止まる。だけど、中島さんは次の言葉を静かに待ってくれている。それだけで次の言葉を発するのに十分だった。一回深呼吸をする。喉に詰まって出てこない言葉を必死に引き出す。
「僕は彼女を愛しているけれど、彼女はそうじゃない。僕は彼女に一方的な片思いをしているんです。自分がいじめられる原因に愛されるなんて辛すぎですよね。ほんと僕はどうかしている。」
僕が話している間、中島さんは静かに聞いてくれていた。沈黙が流れる。自分吐いた言葉がチクチクと僕の心を刺した。
「あのね、凌也君。その言葉は彼女さんが言っていたの。彼女さんが凌也君のことを好きじゃないってそう言ったの。」
中島さんが真剣な顔つきで僕に問いかける。
「そんなこと、言うわけないじゃないですか。」
優しい彼女にそんなことが言えるわけがない。たとえ、そう思っていても、彼女は絶対にそんなことを言わない。
「彼女は人を傷つける言葉をむやみに言ったりしません。」
彼女のことを罵倒されているのかと思い少し声を荒げた僕を中島さんが手で静止させる。
「ごめん、そういうことが言いたいわけじゃないの。凌也君が思っていることは本当に彼女さんも思っていることなのかが気になっただけだから。」
そう言えば、彼女の口から好きも嫌いも聞いたことがなかった。彼女に意識されていなかったのではないかと思うくらいに彼女は僕に対してそんな言葉を吐かない。たとえ、僕のことをからかう事はしても、冗談を言うことはしても、いつだって彼女の本心はわからないままだ。
「彼女さんに相談してみたらどうかな。彼女さんの本心すら知らないで、黙って勝手に消えたりしたら悲しいよ。私が凌也君の彼女さんだったら怒りながら泣いちゃうよ。」
中島さんの声が僕の頭に響く。彼女に相談するなんて事は出来ない。僕から彼女に聞くなんてことは絶対に出来ない。もし拒絶されてしまったら怖いから。
「もしも、彼女が僕のことを拒絶したらどうするんですか。それこそ、本末転倒じゃないですか。彼女に「ごめん、君のこと全く好きじゃないし、もう辛いから消えて。」なんて言われたら僕は、この先の人生をまともに生きていける気がしません。心を開いた人にそんなこと言われたら。」
「彼女さんはそんなことを言うような人なの。」
絶対に違う。そう否定したかった。彼女が誰よりも優しいことを僕が誰よりも知っているから。自分を犠牲にしてでも、僕を守ってくれた強くて優しい彼女。だけど。
「だけど、彼女だって人間なんです。いつか壊れてしまうかもしれないんです。もしも、僕の憧れが僕のせいで消えることになったら僕はどうすればいいんでしょうか。僕が目指した光が闇に飲まれ消えてしまったら僕はどう生きればいいんてしょうか。だった一つしかない明かりが消えてしまった時、僕はどこに向かえばいいんでしょうか。」
溜まっていた不安とストレスを撒き散らすかのように中島さんにぶつける。僕が泣き喚いて、中島さんにひどい言葉をぶつけようが、意味不明な質問を重ねようが中島さんはいつもの穏やかな笑顔で聞いてくれていた。僕を拒絶などせずに受け入れてくれた。
「その気持ちを彼女さんに伝えてみたら。」
しばらくして、僕が落ち着いた時に聞こえた意外な言葉。
「今回ばかりは、凌也君だけの事じゃないし、きっと私が場をかき乱して良いことじゃないから。これは、私にはどうにも出来ない範囲の話だよ。でもね、凌也君。これだけは覚えておいて。もしも、何かあったらすぐに相談すること。私じゃなくても良い。お母さんでも、お父さんでも、お姉さんでも。誰でも良いから相談すること。私はいつでも話聞くから。君は一人じゃないよ。」
気がつくと彼女との待ち合わせ時間に迫っていた。中島さんの言葉に背を押され、彼女との待合場所に向かう。大丈夫、僕は一人じゃない。そう思うと傷ついた心が少しずつ治っていく気がした。
「ねえ、君一人。可愛いね。良かったら俺たちと遊ばない。」
駅に着くなり聞こえてきた言葉に不快を覚える。なんで、あんな人がいるのだろうか。
「人を待っているのでお断りします。」
ナンパをされていた人物の声を聞いた途端僕は一目散に駆け出した。
「君が待っているのは女友達かい。それなら、その子も入れて四人で遊ぼうよ。」
彼らが彼女に触れようとする。僕は声を出す。触るな、僕の彼女に触るなと思いながら。
「あ、いたいた。ごめん、待ったか。ってこいつら誰だよ。」
「なんか、いきなり話しかけられて。」
不安そうな彼女に駆け寄る。良くも悪くも少し怖い顔つきをしているので奴らは少し後ずさりした。追い打ちをかけるように元々鋭い目を更に細めて彼らを睨めつける。
「僕の彼女に何か用か。」
「ただ、俺たちはこの子が可愛いから遊びに誘おうとしただけで。」
彼らの言葉を聞いた途端僕の体全身が彼らに怒りを感じた。彼らに軽蔑の眼差しを向ける。
「僕の彼女が超可愛いことは、僕が一番知っている。だから、彼女が可愛いことは大いに認める。だけど彼女に手を出すことは絶対にさせないからな。」
彼らを彼女に近づけさせないように言った言葉。けれど全てが本心だ。きっと彼女は嘘だと、フリだと思っているけれど正真正銘本当の言葉だ。彼女に面と向かって伝えられたらいいのだけど、僕にそんな勇気は到底なかった。けれど、彼らには僕の熱い思いが届いたらしい。尻尾を巻いて恐る恐る逃げって行った。
「ありがと、守ってくれて。」
「別に大したことじゃないし。」
彼女の素直な感謝が僕の心に誇りと恥ずかしさにを生む。
「本当、恥ずかしがり屋なんだから。」
彼女の小さい囁きは僕の耳に届いていたが、あえて何も聞かなかったフリをし、目的に向かった。
水族館に着くとロータリーには想像以上の人がいた。こんなにも多くの人が集まっているので、さすがに暑くなってくる。平日の夕方でこの人数なら、土日のここはまさに地獄なのだろう。
「人多いけど大丈夫。無理しなくて良いよ。」
少々引いていたのが顔に出ていたらしく、彼女にバレて気を使われてしまった。
「大丈夫。」
いつもよりも大きな声で会話をしなくてはいけないし、迷子になってしまったら困るので彼女の手を握る。彼女に近づく。
「迷子になるなよ。」
この距離なら多少小さい声でも聞こえるだろう。彼女の言葉を一言一句聞き漏らしたくなかった。
「すみません、学生二人分お願いします。」
「学生書のご提示をお願いしますね。」
学生書なんて持っていただろうか。僕は自分の鞄の中を懸命に探す。やっと見つけた学生書はぐちゃぐちゃに折れ曲がっていた。でも、それでいい。僕がこの学校の生徒だと誇りに思ったことは一度もないから。
「もう、そう言うの大事にしないとダメだよ。」
だけど、これを見た彼女には怒られてしまった。彼女はものを大事にするので、こういう事が気に入らないのだろう。僕がしょぼくれていると彼女がくすくすと笑った。
「なんだよ。」
彼女ご何に対して笑っているのか分からずに少し拗ねる。
「別に何も。」
「何もないわけ無いだろ。そんな可愛い顔して…。」
言ってしまってから気づくがもう遅い。バツか悪くなり下を向く。恥ずかしさに顔から火が出そうだった。
「何言ってるの。可愛い顔してるのは君の方でしょ。」
彼女は冗談交じりにそう返した。彼女は僕の言葉を冗談として受け取ってくれたらしい。本当に助かったと思う。
「あらあら、仲の良いカップルだこと。」
チケット販売のおばさんがくすくすと笑っている。おばさんにからかわれてしまったが、無事にチケットは買えたので良しとしよう。入場口のゲートをくぐると円柱で大きな水槽が見えた。中では小魚やサメが優雅に泳いでいる。
「わー。きれい。」
僕は声を上げてこの風景に見惚れる。
「ふふっ、可愛いんだから。」
「おい、聞こえてるぞ。」
彼女の声が聞こえ我を取り戻す。危うく、この魚たちに僕の全意識を持っていかれるところだった。彼女にからかわれたので少しムッとすると、彼女は微笑んだ。どんと音がしてもう一度水槽へ目線を向けるとそこにはサメが一匹いた。まるで、僕達が魚を見ずに会話をしていたことが気に食わず、俺を観ろとでも言いたいかのようだった。僕たちは一斉に吹き出した。
「あはは、いいね。この子、ちょーかわいい。最高なんですけど。ふふっ。」
「くくっ、なんだよ、俺たちの邪魔する気か。」
サメは身を翻して、美しく泳いでいる。水に光が入り込み、まるでコンサート会場の様な華やかさがサメを照らしていた。
「まるで、有名シンガーだな。」
僕がそう言うと彼女はもう一度笑う。
「なんだよ、ったく。」
彼女がじっと見つめてくるので、とっさに彼女の目を手で覆い隠した。
「ちょっと、見えないって。」
「何が見えないのかはっきりいいな。」
せっかくなので少しイタズラをする。彼女の困っている顔が可愛いから。
「えっと、さめ…。」
「本当のこと言わないと離さないから。」
予想通り彼女はあたふたと困りながら、照れ始めている。彼女の可愛い反応に僕の理性も限界を迎えそうになる。
「君。君のこと見てたの。」
真っ赤な顔で恥ずかしそうに小さな声で言う彼女がより愛おしくなる。もっとその顔が見たくて追い打ちをかける。
「ふーん、なんで。」
「考えていたことが同じでびっくりして君の顔見たら、君の笑った顔が可愛かったから。可愛すぎたから。」
思いも寄らない彼女の返答に僕の顔は熱くなる。彼女から手を外して、今度は自分の顔を覆い隠す。自分から挑発しておいて、彼女に仕返しをされて照れたなんて馬鹿すぎるだろ。
「もう、可愛いって言うの禁止。」
さすがに恥ずかしすぎて彼女に禁止令を出す。
「へー、なんで。事実を言えって言ったの君だよね。」
さっきの仕返しか、彼女から様々な攻撃が飛んでくる。
「いや、お前がそんなこと考えていたなんて普通に考えつかなかった。それに、僕可愛くないし。」
「安心して。君は世界で一番可愛いから。」
だけど、僕はこの言葉を聞いた瞬間に我を取り戻す。僕には譲れないものがあるのだから。
「馬鹿だな、お前は。世界で一番可愛いのはお前だ。これだけは絶対に譲らないからな。」
彼女を抱きしめて、自分の方に近づける。これ以上顔を見られないようにするためと、彼女ともっと近づきたかったから。彼女が上を向くと僕と目が合った。予想以上に彼女と顔が近くなり、心臓が骨や筋肉、更に皮膚を突き破って飛び出るのではないかと心配になる。彼女の心臓と同じくらいの爆音を鳴らす僕の心臓を何とか落ち着けようとする。
「あ、あのさ。」
彼女が何かを決心したかのように僕に話しかける。彼女の言葉を一言一句聞き漏らさないように細心の注意を払いながら彼女の言葉に耳を傾けた。
「これからは、名前で呼び合いたいです。」
特に最後の方は心臓の音にかき消されそうなほど小さかったが彼女の言葉を聞き漏らさず受け取ることができた。
「何で敬語なんだよ。」
同様を隠すために僕は可笑しそうに微笑んだ。
「もちろん、僕もそうしたいと思ってたよ。香奈。」
ずっと口にしたかった言葉をやっと発する事が出来た。いきなり名前呼びして引かれたら嫌だったのでずっと我慢していた。
「ありがと、凌也君。」
彼女に名前を呼ばれただけで自分の名前がなぜか特別なものとして感じてしまうのはなぜだろう。
「僕は君付けかよ。…ま、良いけど。」
照れ隠しに少しだけ悪態をつく。でも、彼女にはびっくりするほどバレていた。彼女だって顔を真っ赤にして照れているのに。こんなに恥ずかしがっているのがわかるのは彼女ぐらいだろうと心の中で思う。きっと口に出すと彼女は恥ずかしがりながら怒るのだろう。
「つ、次どこ行く。」
恥ずかしくて話題を逸らす。
「このコース行きたい。ショーに間に合うから。」
今度は彼女が僕の手を取る。いつの間にか離れていた温もりが蘇る。彼女に癒される。
「ほら、行くぞ。」
彼女の手を引く。少し考え事でもしているのかぼっーとしている彼女。らしくないななど思いながら問いかける。
「どうした。」
「あっ、少し考え事してただけ。」
予想は的中していたようだった。手をつないだまま僕たちは館内を見歩いた。僕は色々な魚の情報を彼女に伝える。
「詳しいんだね。」
「…このために調べてきたから。」
僕の言葉に彼女が驚き目を丸くする。そんな反応もまた愛おしい。
「なんだよ。恥ずかしい事言わせんな。」
彼女が僕の顔をじっと見つめてくるので、恥ずかしくなってきた。
「ごめんて。」
「後で仕返してやる。」
僕の言葉に二人して笑う。そのままショーに向かう。回るのが少し早かったのか、まだ時間があったため席はまだまだ空いていた。
「前に座ろうぜ。」
「後ろがいいな。」
見事に真逆の回答に分かれてしまった。
「えー、濡れたくない。」
「濡れたい。」
「じゃあ別々に座る。」
「それは嫌だ。」
彼女の背は少し低めなので前の方が見やすいと思ったのだがどうやら濡れたくないらしい。僕たちは少しの間考えていた。僕たちが決めかねている間に少しずつ人が増えていく。
「じゃあ間を取ろう。」
人がだんだん多くなってきたので、そろそろ決めないとやばいと思い二人の意見の真ん中を取った。
「香奈、背が小さいから前じゃないと見えないと思ったのに。」
「そんなに、小さくないし。ここでも全然見えてるし。」
僕が少しからかうと彼女は拗ねたように頬を膨らませた。そんな彼女が愛らしくて頭をわしゃわしゃと撫でる。彼女の膨らんだ頬が余計に膨らみ破裂しないか心配になる。
「ごめんて、始まるよ。」
彼女といると時が経つのがとても早く感じる。気がつけば開演時間になっており、人もたくさん増えていた。
「ん、見えない。」
「だから言ったじゃん。」
僕の予想通り、彼女の視界には人の背中と頭しか写っていないだろう。彼女は体を動かしながら見える場所を探している。
「全く。だから、前に行こうって言ったじゃん。」
呆れながらため息までつくと彼女はしゅんとうなだれた。
「ん。」
仕方がないので最終手段に出ることにする。僕は僕の太ももをポンと叩くと、彼女は何かを考える。彼女は時間差で気づいたらしく、顔を真っ赤にしていた。
「絶対に無理矢理。私重いし凌也君が潰れる。それに、凌也君が私の頭で見えなくなっちゃうよ。」
「良いから、良いから。早くしないと終わっちゃうよ。」
僕は彼女に安心してほしく笑いかける。
「絶対に重い。凌也君を潰しちゃう。」
それでも、彼女が真面目な顔であたふたし始めるため、そんなに重いのかと心配になった。
「体重何キロ。」
「女の子に聞くものじゃないから、それ。」
僕が真面目に尋ねると彼女は
「多分お前なら大丈夫だし。一応。て言うか、忘れてるかもだけど僕運動部だよ。筋肉なら若干付いてるよ。」
自分自身でも何を言っているのかよくわからない変な説得を受けて彼女は渋々移動してきた。彼女が真っ赤な顔をして僕の顔をうかがう。華奢な彼女が重いわけないのにそんなにも気にすることがあるのだろうか。言ったら怒られそうなので止めておくが。そんなことを考えているうちにある違和感を持った。確かに彼女は華奢だけど、こんなにも軽いわけがないと。彼女を見ると、まるで何かすごい運動をしているような表情と、プルプルと震える足。全く彼女は人に甘えるということを知らないらしい。仕方がないので彼女を後ろから抱きしめる。不意に後ろに引かれた彼女はバランスを崩してそのまますっぽり僕の胸に収まった。またあんなことされたら元も子もないので僕はショーが終わるまで彼女の周りに回した手を解こうとはしなかった。
「だから無理するなよ。そんなことしてたら歩けなくなるぞ。」
僕の言葉に彼女は僕に身を任せてきた。相当疲れたことと、僕が抱きしめていることで諦めたのだろう。やはり僕が思っていたよりも彼女は少し軽かった。その間にも、イルカたちは身を翻して様々な技をする。
「え、あんなに濡れるもんなの。」
ふと前の方の席を見ると、そこに座った人々はプールに浸ったのかのようにびしょびしょになっていた。驚いたのと少し引いた顔で彼女を見ると彼女は小さく笑った。
「前にしなくて良かったでしょ。」
「うん、助かった。」
彼女がいなければ危うく僕の体はイルカ汁でびしょびしょになるところだった。ラストにクロスジャンプが繰り出された。お互いを信頼しているからこそ成せる技に僕は感銘を受けた。
「すごかったね。」
「だな。よく見えただろ。」
ショーが終わると彼女はにっこり笑いながら感想を述べてきた。きっと彼女は僕の膝の上と言うことを忘れているのだろう。
「うん、ありがとう。」
僕の顔を見た彼女は思い出したのかのように顔から火が噴いた。そんな彼女の姿に幸せの笑いが溢れた。
「じゃあ他も観て回ろっか。」
彼女がそう言いながら鞄を持つと小さくふらついた。そんな姿を僕は見逃さなかった。
「どうした。具合悪いか。」
「違う違う。大丈夫だよ。」
彼女が安心させるかのようにそっと微笑む。そんな姿がやけに不自然で違和感を持つ。
「あ、分かった。腹減ったんだな。」
自分の思考も止めるべくいつかの言葉を放つ。彼女の鞄をひったくるように持つと僕もふらつくかと思うほど重かった。
「重。これ、何が入ってるんだよ。」
「ええっと、教科書とか…。」
さすが優等生の彼女らしい回答に内心ほっとする。
「やっぱり香奈、偉いな。」
「あはは。」
彼女の乾いた笑い声が聞こえたが、何もなかったフリをした。そのまま一階のカフェテリアに向かう。カフェテリアはそこまで混んでおらずすぐに入ることができた。彼女がメニューを眺めるのを眺める。いきなり彼女が目を輝かせた時には何事かと思った。
「ぺ、ペンギンパフェ…。」
壁にも大きく宣伝されているここの名物みたいなものだ。だけど、一人で食べれる量ではなかったはずだ。
「なあ、香奈。これ食べたいの。」
念の為彼女に問いかける。
「うん、可愛いから。」
しかし、一人では食べ切れなくて諦めようとしているらしい。
「二人で一緒に食べるか。僕も気になっていたし。」
「りょ、凌也君…。」
僕の提案に何か不備があったのかと焦る。
「えっ、何。ダメだった。」
「君は神ですか。」
彼女の真面目な顔とセリフが合っていなくて吹き出した。
「いや、だって。食べたいの我慢してたんだろ。流石に一人じゃ食べきれないよな、この量。て言うか、ここに二人用って書いてあるし。」
僕の言葉に彼女はより嬉しそうに笑う。彼女のこの笑顔を守りたいなどと思っていると立派なペンギンが僕の思考を停止させた。彼女が目をキラキラとさせながらスマホを構える。思い出を切り取って保存する。
「ねえ、一緒に撮りたい。」
僕は小さな声で望みを語る。そんな僕に彼女はスマホを向けた。
「ねえ、今撮った。」
「よし、一緒に撮ろう。」
僕の言葉を遮るようにスマホを構え、僕たちの方へカメラの視点を向ける。彼女と僕とペンギンと言うアンバランスな僕たちが同じ画面に収まった。
「撮れたよ。」
「送って。ホーム画面にしたい。」
「え、恥ずかしいんだけど。私がして良いなら良いよ。」
「じゃあいいよ。二人でお揃いにしよう。」
自分で言っておいて彼女とお揃いにすると言うことに気持ちが高ぶった。それを彼女に悟られないよう冷静を装う。彼女には可愛いじゃなくて、かっこいい僕を見てほしいから。少し落ち着こうと思いスプーンにペンギンのかけらを乗せる。乗せたそれを口に運ぶと口の中で一瞬にして消えてしまった。
「んまぁ。」
彼女が頬に手を添えながらペンギンのかけらを味わっている。彼女の言うように確かに絶品だった。美味しくて、夢中になって食べてるとふと彼女がスマホを構えている姿が見えた。
「今、撮ったろ。」
彼女は少し困りながらあたふたして、いつもよりも子供みたいに笑った。その姿が珍しくて僕も彼女をスマホに収める。
「お返し。」
「今、絶対に変な顔してた。消して。」
「そっちの消したら消してもいいよ。」
「…じゃあいい。」
「いいのかい。」
彼女との他愛もない会話で癒されながら、愛らしいペンギンはどんどん崩壊した。
「美味しかった。」
「だな。」
僕たちは軽食タイムを終えて再び館内を散策し始めた。角を曲がるとペンギンコーナーが見えてきた。
「なんか、美味そうに見えてきた。」
本当に思ったことを口にすると彼女は耐えきれなくなったかのように吹き出した。
「あはは、それ私も思った。」
彼女につられて僕も笑う。
「香奈はさ、大学とか決めてんの。」
場違いで、このタイミングじゃないと分かっているのに、頭で考える前に口が動いていた。ずっと気になっていた彼女の将来。彼女が思い描いている未来に僕はいるのだろうか。
「一応、T大学だけど。」
「そこ、偏差値エグいところじゃん。やっぱり頭良いよな。」
やはり彼女の未来に僕はいない。僕がそんな賢い大学に行けるわけもないし、たとえ行けたとしても彼女はもっと自分とつり合う人と付き合うだろう。僕と彼女では生きる世界が違うのだから。
「何でいきなりそんなこと聞くの。」
彼女がこてんと首を傾ける。
「いや、僕将来の夢とかなくて。今、ペンギンの飼育員になろっかなって思ったから。」
最近では上手で自然な僕らしい嘘が付けるようになってきた。実際のことと、嘘のことを混ぜて作る作品は誰にもバレない完璧なものと成るのだ。彼女がまた笑う。その笑いは不自然なものではなくきっと自然に笑っているのだろう。彼女を騙したみたいで胸がチクリと痛んだ。
「凌也君がいきなり真面目な話するから、頭を打ったのかと思ったけどそう言うことか。びっくりした。」
「香奈は僕をなんだと思ってるんだよ。」
彼女が見ている作った僕と本当の僕は全然違う。彼女は僕のどこを見ているのだろうか。僕が彼女に見せている姿は作った姿なので彼女が本当の僕なんかを見ているわけがないのに何故か彼女には手の内が全部バレているのような気がする。何を考えているんだろうか、僕は。思考を無理矢理にでも変えるため、ペンギンをじっくり眺める。
「こいつらは気楽に生きてるのかな。」
僕の呟いた言葉に反応する「人」は誰もいなかった。彼女も考え事をしていたようだから。しかし、僕の独り言を聞いているものがいた。ドンッと音がして視線をあげるとペンギンが水槽を突っついていた。まるでペンギン界だって大変なんだよ、ペンギン様をなめるなと言っているようで笑えてきた。ペンギンと会話をしながら様子を観察する。よく見ると一匹一匹顔が違い、もちろん行動も違った。僕は集中して食い入るように彼らを見ていた。
閉館を告げる放送が僕を現実に引き戻した。我ながらすごい集中力だと思う。三十分近くもの時間をペンギン観察に費やしたと思うと彼女に申し訳なくなり彼女をそっと見る。彼女は怒る様子も、呆れる様子もなく、ただいつもの優しい顔で微笑んでいた。彼女と目が合う。鼓動が高鳴る。そんな僕にはお構いなく、彼女はいつものような足取りで出口に向かう。水に反射した光に照らされ、まるで海の精霊ではないのかと思うほどの美しさを放っていた。ゲートが見えてきた。この美しい時間はもう終わる。ふと、視界の端にグッズショップが入り込んだ。
「待って、あと十五分ある。」
理由は何でも良かった。彼女とあと少しでも一緒にいることができるなら何でも良かった。そんな気持ちで彼女の手を引く。予想以上に力が入ってしまった。バランスを崩し、よろけた彼女を後ろからしっかり抱きしめる。さらさらの髪が顔にかかり、彼女の髪がなびくたびに香ってくるいつもの香りがした。顔が熱い。熱々の僕の顔を館内の冷房がガンガンと冷やす。水族館は僕の味方なのだろう。
「ごめん、力加減間違えた。」
「あ、ありがとう。」
僕の腕の中から離れると、少し頬を染めながら彼女ははにかんだ。僕のせいでよろけたのに、僕に感謝をしてくる優しい彼女に心が高鳴る。いっそのこと彼女を僕だけのものに出来たら良いのにと危険な思想に染まっていく。
「どうしたの。」
不意に聞こえた彼女の声が僕を闇の世界から引きずり出した。僕は無言でショップの方に指を向けた。
「こんなところにあったんだ。」
彼女は少し驚きながらはしゃいでいた。きっと彼女も探していたのだろう。
「今見つけたから寄って行きたい。」
「ん、いいよ。私も探してたし。」
ほら、予想通りだった。時間がないので早足で吸い込まれるかのようにショップに入る。ペンギングッズコーナーを見つけるとそっちに対極の磁石なあるかのように引かれた。ペンギンのキュルキュルとした目に引かれ、危うく全てかごに入れようとしていた時、二つのキーホルダーが磁石でくっつくというものを見つけた。
「香奈にコレあげよ。」
自分がしようとしていることを考えるだけでニヤニヤしてしまう。口もとを筋肉で押さえつつ、金欠の財布を持ちレジに向かった。僕の高校はバイト禁止なためバイト良くならないかなと思っていると、レジの近くにペンギンのふわふわぬいぐるみを見つけてしまった。一目見ただけなのに、買わないといけない。そんな衝動に駆られ少し高めのそいつをかごに入れ今度こそ半分目を瞑りながらレジに向かった。彼女は会計を済ましていたようで僕を静かに待っててくれた。僕の姿を見ると彼女は微笑む。おかげでお待たせの一言も喉に引っかかり出てこなくなってしまった。そんな状態で館内を出る。これで終わりかと思い憂うつな気分に浸っていると、彼女が公園で戦利品の見せ合いを提案してきた。僕も彼女に渡したい物があったからちょうどよかった。ベンチに腰をかけ、あのぬいぐるみを取り出した。
「同じじゃん。」
彼女も全く同じ物を持っていたので二人して吹き出した。やはりこのキュルンとした目から逃れられるものはいないのだろう。僕と彼女のぬいぐるみを隣に並べる。
「可愛い過ぎる。超可愛い。」
彼女がぬいぐるみに夢中になり構ってくれなくなったので、意地悪な質問をしてみた。
「あのさ、香奈って僕のこと可愛いって言ったじゃん。世界で一番可愛いって言ったじゃん。じゃあさ、僕とそのぬいぐるみどっちの方が可愛いと思う。」
彼女が僕の冗談交じりに質問に驚いて振り返る。彼女は満面の笑みを浮かべながら即答した。
「もちろん凌也君だよ。」
一瞬、頭が真っ白になり何も考えられなくなった。彼女が勝ち誇った顔をしたのでやり返されたのだと理解するのに時間がかかった。でも、言った本人も恥ずかしくなってきたようで少し顔を赤らめた。
「ねえ、これ見て。」
僕に指摘されないようにするためか、彼女は即座に話を変えた。彼女が二本のシャープペンシルをずいっと僕の顔の前に出す。
「え、可愛い。それどこにあったの。」
「一個あげる。」
箱から一本をそっと出して僕の手に乗せてくれた。
「え、いいの。ありがとう。」
僕は丁重に受け取った。
「実は僕も。これどっちが良い。」
袋からキーホルダーを出し、彼女に見せると目をキラキラとさせていた。
「可愛い。こんなの売ってたんだ。」
「磁石でくっつくんだって。」
彼女の手に水色の方をそっと乗せる。彼女は大切そうに受け取った。
「ありがとう。本当に。」
彼女が優しく微笑む。何故だろうか。彼女の笑顔を見るとストッパーが外れてしまう。
「それはこっちもだよ。あのさ、提案があるんだけど。せっかくホーム画面お揃いだからさ、このキーホルダーをスマホに付けないか。」
「いいね。」
断られると思ったのだが彼女は即答で僕の案に乗ってくれた。僕とお揃いのキーホルダーが付いたスマホを大切にしまう彼女の横顔に心が温かくなった。空が暗闇に閉ざされていく。
「今日も楽しかったね。ありがとう。」
「ありがとうは僕のセリフだよ。僕もすっごい楽しかった。ありがとう。」
電車に乗り、空いていた席に腰を下ろす。疲れていたのだろうか。席に座るなり彼女は気を失うように眠りについた。彼女のあどけない寝顔を愛おしく眺める。電車が揺れて、僕の肩に重みを感じた。彼女の香りに包まれる。抱きしめたい衝動を抑えていた。
僕が降りる駅が近づいていく。このまま彼女と何処かに。そんな事は叶わない。彼女がそう望んでいないから。彼女の事を好きなのは僕だけだ。彼女は僕を好いていない。そんな事は僕が一番分かっている。
「おい、起きろ。僕、もう着くぞ。」
彼女の肩を軽く揺する。彼女がゆっくり瞼を開ける。あどけないその表情に胸が締め付けられる。
「うん、ありがとう。」
まだ寝ぼけている彼女を覚醒させるべく彼女に冗談を囁く。
「よだれたれてるぞ。」
僕の冗談に驚いた彼女は、飛び起きて自分の口もとを確認する。彼女が少し頬を膨らませて僕を見る。愛しく思う。
「じゃあ僕降りるから。またね。」
「うん、またね。」
涼しい風を受けながら頬を赤らめる。家に帰るまでにはこの熱も風が持ち去ってくれることを願っていた。
「今日の四時間目は授業変更で体育になります。ジャージを忘れずに。」
昨日、彼女に貸しているからジャージは無い。こんな時に授業交換をする先生たちに少し腹が立ったが、サボれるので許すことにした。
家を出るとほんのり冷たい風が吹いたが、太陽の暖かさに中和された。公園のベンチで少しだけ日向ぼっこをする。赤い葉が一枚ひらりと舞い落ちた。今日は少し早めに出たため時間に余裕がある。ここにいると、この世界は平和だと言う錯覚に陥ってしまう。ずっとここにいたくなってしまうため僕は重い腰を持ち上げ仕方なく学校へ向かった。
教室に入ると奴らはスマホを見ながら笑っていた。あの調子では僕のところには来ないだろうと胸を撫で下ろし席に着く。しかし僕の予想は甘かった。
「あっ、ボチ也じゃん。やっと来た。見てこれ、面白い動画だよ。」
奴らが僕の目の前にスマホを突き出す。見たくなくても絶対に目に入る位置に置かれた。どこかの学校の廊下に人が二人立っている。一人の女はこいつと似ている。嫌な予感が僕の背筋を冷たく凍らせる。そんなことは無いはず、そんなわけないはずと自分に言い聞かせるが冷や汗が止まらない。
「香奈、おい香奈。ちょっと来て。」
違う、同名の人であって彼女ではない。頭では否定するが心は何かを悟っているらしい。鳥肌が立ち、冷や汗が止まらない。
「どうし…。」
教室から出てきた人物は僕が絶対に違うことを祈っていた人だった。
「ごめん、手が滑っちゃって。」
女がニヤニヤと笑いながら、空っぽなバケツの中を見せつける。
「美智子、転けそうになっちゃって。わざとじゃないの。」
もう一人の女もニヤニヤと笑いながら彼女を見下す。吐き気がした。どうして優しい人がこんな目に遭わなければいけないのか。どうして真面目で一生懸命な人がこんな目に遭わなければいけないのか。どうして彼女がこんな目に遭わなければいけないのか。ふと答えが頭によぎる。彼女が地獄に堕ちる原因となったのは僕だ。あの時、僕が彼女を連れて行かなければ。あの時、僕が彼女と付き合うフリなんてしなければ。あの時、僕が彼女を好きにならなければ。僕のせいできっとこれから彼女は壊れてしまうだろう。一方通行の片思い。愛の言葉を送っても返ってくるのは憎しみや恨みの言葉だろう。胸が苦しくなりうまく息が出来ない。それでも僕の思考は止まってくれない。僕が彼女から離れたら、彼女は元の生活に戻って、元の彼女に戻るかもしれない。彼女の疲れながら、悲しみながら、無理矢理笑うあの表情はもう見たくないから。僕がいなくなるしかないんだ。
「大丈夫だよ。わざとじゃないなら仕方ないよ。」
彼女が小さく微笑む。その目には悲しみと怒りを隠しながら。せめて怒ってくれれば良かった。正義感の強い真面目な彼女。僕が憧れた彼女はもう見る影もなくなっていた。
「こいつやば。この後どうしたんだろうね。」
奴らのぎゃはぎゃは笑うその声で僕は現実に引き戻された。この後のことは知っている。びしょびしょのまま塾に来て、嘘ついて、苦しいことを隠しながら無理矢理笑って。強く食いしばりすぎたようで口の中に鉄の味が広がる。しかし、こんなにも怒っているのに動けない。奴らに何も言えない。奴らに反撃することも出来ない。彼女を助けることが出来ない。自分の無力さに更に怒りを感じた。自分に嫌気が差す。居ても立っても居られなくて僕は教室から逃げ出した。逃げ出したのは教室だけでは無かった。憎い奴らから、壊れた憧れから、無力な自分から。僕の心にはしとしとと雨が降っていたが外の世界は違う。ギラギラと照りつける太陽の光はとても秋には似合わない。そう、あんな姿は彼女には似合わない。目的も決めずに無我夢中で走っていると気づいた時には朝の公園にいた。ベンチに腰を下ろす。朝よりも赤い葉は落ちていた。どうせ学校に戻っても真面目に授業を受けるつもりなんてないし、勉強なんてどうでもいいので僕は放課後に荷物を取りに戻り、それまではこの辺りにいようと思った。徐々に落ち着いて来た陽の光が僕を静かに照らす。やはり誰かに頼るべきではなかった。一人で大人しくしているべきだった。僕の甘えが彼女を、僕の憧れを壊すことになると知っていれば、僕はきっと彼女と関わらなかっただろう。手を伸ばしてはいけない他の世界の存在を求め、禁忌を犯してしまい、本来は繋がることのない世界が繋がってしまったことで、本来ならありえないような新しい未来が誕生してしまったのだ。
「時間が戻ればいいのに。」
ポツリと呟いたその言葉を叶えてくれる人なんていなかった。この言葉をすくい上げてくれる人すらいなかった。唐突に寂しさに襲われる。この先も彼女と一緒にいたいけれど、これ以上彼女を傷つけたくないので一緒にいたくない。こんな矛盾を抱えながら空を見上げる。同じ空の下にいるはずの彼女は今何を考えているのだろうか。彼女は今何をしているのだろうか。彼女が無事であるようにと願う事しか出来ない僕をどうか許してほしい。彼女に背を向け逃げたしてしまいそうな僕をどうか許してほしい。気がつくと太陽は雲に隠れ、冷たい風だけが僕に襲いかかった。さすがに肌寒いので、近くの図書館に身を置く事にした。
図書館に着くと一応あたりを見渡す。見えるはずのない彼女の姿を本能的に探してしまう。僕みたいに学校をサボって図書館に来る人はいないようで、また時間も早いので、いつもよりも人が少なかった。
「どうしたの、凌也君。」
「こんにちは、中島さん。」
週に三回も通っていたらさすがに司書に覚えられてしまった。僕のことを覚えてくれている司書の中で一番仲が良いこの中島さんは、いつも僕にピッタリの本を紹介してくれる。こんなにも本のことを知っているのだから中島さんも本が大好きなのだろう。
「実は、今日は、恋愛ものを読みに来ました。素直になれない弱い男子と、優しくて強い女子の話ってありますか。出来れば控えめなものが良いんですけど。」
いつも口を開けばミステリーとしか言わない僕がいきなり恋愛ものを読みたいと言ったからだろう。中島さんは数秒目を見開いて固まっていた。僕自身も自分の心境の変化に驚いているのだから、僕を知っている人が驚くことも無理はないだろう。
「ちょっと待っててね。」
我を取り戻した瞬間に自分のやるべきことをこなす姿はいつもよりもぎこちなかった。
「これがおすすめかな。」
中島さんが一冊の本を手に持ち戻って来、それを僕に渡した。美しい風景の中に二人の男女が微笑み合っている表紙。きっと物語も美しいのだろう。恋が実る美しい世界の物語。早くページを開きたかったが僕にはもう一つ読みたいものがあった。
「ありがとうございます。中島さん、もう一冊お願いしてもいいですか。」
僕は一度言葉を切って息を吸う。ここで言ってしまったら、なぜか取り返しがつかないように感じ緊張した。それでも僕は口を開くのを止めなかった。
「弱い男子が、自分よりも強い憧れの女子を守るために自分を犠牲にする話はありますか。」
中島さんは僕の言葉を聞いた後、下を向いて考え込んでしまった。世界は大量の本で溢れているが、僕がピントを絞りすぎたようだ。だけど中島さんを信じて返答を待つ。
「その小説読んで、ちょっと待ってて。」
その言葉を残して大量の本の中に消えていった。僕は目の前の本に視線を戻す。ページを開く。美しい世界に片足を踏み入れると、その足を引っ張られるかのように小説の世界に入る。美しい世界に飲み込まれる。
主役は弱い男の子。ある日、強い女の子に出会うことから物語が始まる。男の子は次第に女の子に惹かれていく。だけれども男の子と女の子の間には大きな分厚い壁がある。男の子のことを気に掛ける女の子は次第に男の子のことが好きだと言うことに気が付き両サイドから分厚い壁を壊し始める。色々な出来事が二人を襲うが、決して諦めることなく二人は互いを愛しあう。しかし二人とも自分が片思いしていると思っている。壁が壊れた時真実が明らかになり、二人は涙ぐみながら誓いを結ぶ。めでたしめでたし。
読み終わってしまった。少し刺激が強い部分もあったがなんとか読み終えることができた。苦手を克服する大変さを改めて感じた気がした。感想は、世界はそんなに甘くないと言うこと。そんなタイミング良く女の子が男の子を助けたり、タイミング良く二人がいる時にトラブルが起きて二人で解決するなんてことはない。やはり恋愛小説は現実味が無い。それに比べてミステリーは現実味があるものが多い。実際に本当に出来るのかと試してみたくなるあの胸の衝動は簡単に止めれるものでは無い。美し過ぎる小説は僕には合わない。こんなにも世界が簡単なら今、僕は何のために苦労しているのだろうか。何のために悩んでいるのだろうか。少し疲れた頭と心を休ませるためゆっくり目を閉じる。少し休ませていると、背後に気配を感じ目を開けた。
「凌也君、これで良いかな。」
少し黒い表紙に少女がぽつんと一人立っていた。
「やっぱり凌也君は読むの早いね。」
僕が付箋も挟まずに本を閉じていたのを見て、読み終わったことが分かったらしい。
「ありがとうございます。早速読んでみますね。」
「ごゆっくり。後で二冊分の感想聞かせてね。」
ページを開く。また先ほどとは違う世界が僕を包みこんだ。美しいけれど、どこか悲しい世界へ飲み込まれた。
幼馴染の女の子と男の子の話。成績優秀、容姿端麗、性格は優しく、正義の心を持つ女の子。不真面目、地味、正直になれない、いじめられている男の子。女の子と男の子は昔から仲が良かった。しかし、高校に入り学校が離れてしまう。その別々になった学校で男の子はいじめを受けてしまう。けれど、必死に女の子だけには弱いところを隠す。ある日、久しぶりに二人で出かけていると男の子を虐めている人たちに会ってしまう。真実を知った彼女は男の子を守るために立ち向かった。男の子を虐めてた人たちは面白がって、今度は女の子を虐め始める。何も出来ない男の子に女の子は微笑んで大丈夫と言う。男の子は女の子なら大丈夫だろうと少し油断していた。ある日、男の子が家に帰ると女の子の家の前に救急車が止まっているのが見えた。女の子はストレスが溜まりすぎて病気にかかってしまった。女の子の心臓はボロボロで後一年の余命宣告をされてしまう。男の子は何度も何度も女の子の病室に足を運ぶ。最初は平気だと笑っていた女の子の姿はどんどん痩せこけて笑うことすらしなくなった。自分のせいで女の子が壊れてしまったと思った男の子は、病院の先生に何とかする方法はないかと聞きに行くが、その時に女の子の両親と先生が話しているのを聞いてしまう。その内容は女の子は心臓移植をしないと残り一ヶ月しか生きられないと言うものだった。それを聞いた男の子は悲しみと絶望にくれた。ある晩、男の子は一人で川辺に向かう。ナイフと手紙とスマホだけを持って。そこで男の子は救急車に電話した。
「川辺に倒れている人がいます。」
救急車は急いで向かうと答えてくれた。遠くから救急車のサイレンの音がする。男の子は震える手でナイフを握り自分の喉を切り裂いた。手紙が血で汚れないように高く高く握り締めながら男の子の意識は遠のいていった。
ある日女の子が目覚めると苦しかった体が嘘のように軽くなっていた。隣で両親が泣きながら笑っている。女の子の友達も何人か来てくれていた。その友達の中を探しても、男の子の姿はどこにもなかった。男の子がいないなんておかしいと思った女の子はその場にいる全員を問い詰める。すると全員顔を見合わせて悲しそうな顔をした。男の子に何かあったのだと察した女の子は両親に尋ねる。すると母は一通の手紙を女の子に差し出して泣き崩れてしまった。嫌な予感が背筋をなぞる。震える指でゆっくりと手紙を広げると、見慣れた男の子の字が並んでいた。
「あかりへ
僕が虐められているのを庇ったからあかりが虐められる事になって本当にごめん。
僕たちは小さい頃よく兄弟だと間違えられるほど仲良しだったね。一緒に海に行ったね。一緒に山に行ったね。一緒に色々なところに行ったね。一緒にお買い物したね。一緒にお泊り会したね。一緒に色々なことしたね。本当に楽しかった。
僕が虐められていた事をあかりに隠していたのは理由があったんだ。きっとあかりは隠し事されて嫌だったよね。ごめん。でも僕は、あかりにだけはかっこいい僕を見てほしかったんだ。弱くて、人に守られないと生きていけないような人間だと思われたくなかったんだ。だって、あかりのことが大好きだから。人として、友達として、恋愛対象として大好きだ。本当は自分の口であかりに伝えたかった。
僕のせいで辛い思いをさせてごめん。代わりにはならないけれどあかりのがボロボロなら僕のをあげる。あかりには精一杯生きてほしいから。大丈夫だよ。僕はこれからずっとあかりといるよ。絶対に一人にはしないって言う約束覚えてるかな。お泊り会の夜にあかりが怖がって泣いちゃった時に指切りしたね。だから、精一杯生きてください。たとえ話し合えなくても、見つめ合えなくても、笑い合えなくても、僕はあかりと一緒にいる事を忘れないでね。
大好きだよ。さようなら。」
手紙を読み終える頃には女の子の目から溢れた大粒の涙が手紙と布団にシミを作っていた。男の子が女の子に命をあげて女の子を救ったのだ。女の子は泣きながら男の子の名前を叫び続ける。もう二度と帰っては来ないと知りながら。もう二度と返事は聞こえないと知りながら。女の子は自分の心臓に向かって呼びかけ続けた。おしまい。
読み終える頃には僕の目にも涙が溜まっていた。美しい自己犠牲の精神を讃えながら、それが正解だったのか吟味する。この後、女の子はどうなったのだろうか。果たして男の子がいなくなった世界に色はあるのだろうか。この男の子と女の子は幼馴染で両思いだ。僕と彼女との関係とはかけ離れ過ぎている。僕と彼女は両思いではない。僕の一方的な片思い。きっと僕が自分の気持ち犠牲にして彼女を守っても彼女が悲しむことはないだろう。
「自分の好きな人が壊れてしまっても目を背けないのはすごい。」
僕は逃げ出したくて、目を背けたくて仕方がないのに一生懸命彼女を支えていた男の子を尊敬する。
「じゃあ凌也君は背けちゃうの。」
突然隣から声が聞こえて驚く。中島さんが座っていた。僕が読み終わるのを待っていてくれたらしい。
「もしかして凌也君、好きな人でも出来たの。」
中島さんの唐突な質問に少し慌ててしまう。その反応を肯定と受け取ったのか中島さんは少し笑って楽しそうな表情を見せた。
「へー、どんな子。私が良い子か判定してあげる。」
にやりと歯を見せて笑う。話を逸らそうとしても強引に出されて真実を吐くまで問い詰められるのは分かっているので渋々写真を見せた。一番好きなクレープを頬張っている写真だ。写真を見た瞬間に中島さんは眉を寄せた。
「えっ、この子狙ってるの。超絶美人じゃん。どんな性格なの。」
目をキラキラさせながら問いかけてくる中島さんは子供のように見えた。
「えっと、すごく優しくて、可愛くて、あとめちゃめちゃ頭が良いんです。努力家で。あと誰よりも強くて頼れる。どんな悪にも怯まず挑むって感じです。…あの。」
僕が言葉を切ったのは、中島さんがあんぐり口を開けて僕を見つめていたからだ。普段は見ない中島さんの反応を珍しく思いながらも、変なことでも言ったかと不安になる。
「えっと、容姿端麗、成績優秀、性格最高って感じ。」
「そうです。」
実際本当にそうだと思う。彼女は完璧な人なのだから。僕なんかとは真逆の、違う世界に生きる違う存在。
「で、その子を狙ってるの。彼女にしたいの。」
中島さんは防御の隙を与えないようにどんどんと質問をしてくる。だけど少し的外れな中島さんの質問に笑いと悲しみが込み上げる。完璧な彼女の彼氏が僕なんて誰一人想像できないだろう。だけど、相談に乗ってもらうためにここは嘘だけれど本当の事を言う。
「えっと、僕の彼女です。」
中島さんが停止する。きっと今中島さんの脳は理解するために一生懸命動いているのだろう。
「ほう。」
中島さんがこの言葉を発するのに三十秒くらいかかった。僕も彼女のことを自分の彼女と人に言うのは恥ずかしい。僕らが全く釣り合っていないことくらい自分でも分かっているから。
「それで何の相談かな。」
やはり中島さんは感がいい。僕だって相談しないのだったら絶対に中島さんにこんなこと言わないから。
「中島さん。この二冊目の本すごく良かったです。感動しました。」
「いえいえ。それで彼女の話は…」
僕の顔を見て何かを察してくれたらしい。良くも悪くも中島さんは感が鋭いから。
「もしかして彼女と凌也君の状況と似ているの。」
「病気にはかかってないですよ。あと、僕も死ぬつもりなんて微塵もありませんよ。」
あまりにも心配そうな表情で尋ねるので、心配をかけない様ににっこり笑う。中島さんは少し落ち着いたようだ。
「で、何悩んでるの。」
「僕がいなくなったら彼女は幸せになれると思いますか。」
中島さんは苦虫を噛み潰したような顔をする。
「何言ってるの。彼氏がいなくなって幸せになる彼女はどこにいるのよ。」
中島さんが呆れたように不思議そうに言う。違うんだ。本当は違うんだ。言うか否か悩んだ末、中島さんは信用出来ると結論に至った。
「あの、実は彼女は本当の彼女ではないんです。」
僕は今まであった本当のことを話し出す。中島さんの顔など見れずに下を向く。言葉を一言発するたびに胸が苦しく肺が痛い。彼女は彼女ではない。自分で発する一言一言が僕の心に突き刺さり、なぜだか涙が出てくる。僕が泣くことなんてないのに、ただ真実を自分自身に突きつけているだけなのに。言葉が止まる。だけど、中島さんは次の言葉を静かに待ってくれている。それだけで次の言葉を発するのに十分だった。一回深呼吸をする。喉に詰まって出てこない言葉を必死に引き出す。
「僕は彼女を愛しているけれど、彼女はそうじゃない。僕は彼女に一方的な片思いをしているんです。自分がいじめられる原因に愛されるなんて辛すぎですよね。ほんと僕はどうかしている。」
僕が話している間、中島さんは静かに聞いてくれていた。沈黙が流れる。自分吐いた言葉がチクチクと僕の心を刺した。
「あのね、凌也君。その言葉は彼女さんが言っていたの。彼女さんが凌也君のことを好きじゃないってそう言ったの。」
中島さんが真剣な顔つきで僕に問いかける。
「そんなこと、言うわけないじゃないですか。」
優しい彼女にそんなことが言えるわけがない。たとえ、そう思っていても、彼女は絶対にそんなことを言わない。
「彼女は人を傷つける言葉をむやみに言ったりしません。」
彼女のことを罵倒されているのかと思い少し声を荒げた僕を中島さんが手で静止させる。
「ごめん、そういうことが言いたいわけじゃないの。凌也君が思っていることは本当に彼女さんも思っていることなのかが気になっただけだから。」
そう言えば、彼女の口から好きも嫌いも聞いたことがなかった。彼女に意識されていなかったのではないかと思うくらいに彼女は僕に対してそんな言葉を吐かない。たとえ、僕のことをからかう事はしても、冗談を言うことはしても、いつだって彼女の本心はわからないままだ。
「彼女さんに相談してみたらどうかな。彼女さんの本心すら知らないで、黙って勝手に消えたりしたら悲しいよ。私が凌也君の彼女さんだったら怒りながら泣いちゃうよ。」
中島さんの声が僕の頭に響く。彼女に相談するなんて事は出来ない。僕から彼女に聞くなんてことは絶対に出来ない。もし拒絶されてしまったら怖いから。
「もしも、彼女が僕のことを拒絶したらどうするんですか。それこそ、本末転倒じゃないですか。彼女に「ごめん、君のこと全く好きじゃないし、もう辛いから消えて。」なんて言われたら僕は、この先の人生をまともに生きていける気がしません。心を開いた人にそんなこと言われたら。」
「彼女さんはそんなことを言うような人なの。」
絶対に違う。そう否定したかった。彼女が誰よりも優しいことを僕が誰よりも知っているから。自分を犠牲にしてでも、僕を守ってくれた強くて優しい彼女。だけど。
「だけど、彼女だって人間なんです。いつか壊れてしまうかもしれないんです。もしも、僕の憧れが僕のせいで消えることになったら僕はどうすればいいんでしょうか。僕が目指した光が闇に飲まれ消えてしまったら僕はどう生きればいいんてしょうか。だった一つしかない明かりが消えてしまった時、僕はどこに向かえばいいんでしょうか。」
溜まっていた不安とストレスを撒き散らすかのように中島さんにぶつける。僕が泣き喚いて、中島さんにひどい言葉をぶつけようが、意味不明な質問を重ねようが中島さんはいつもの穏やかな笑顔で聞いてくれていた。僕を拒絶などせずに受け入れてくれた。
「その気持ちを彼女さんに伝えてみたら。」
しばらくして、僕が落ち着いた時に聞こえた意外な言葉。
「今回ばかりは、凌也君だけの事じゃないし、きっと私が場をかき乱して良いことじゃないから。これは、私にはどうにも出来ない範囲の話だよ。でもね、凌也君。これだけは覚えておいて。もしも、何かあったらすぐに相談すること。私じゃなくても良い。お母さんでも、お父さんでも、お姉さんでも。誰でも良いから相談すること。私はいつでも話聞くから。君は一人じゃないよ。」
気がつくと彼女との待ち合わせ時間に迫っていた。中島さんの言葉に背を押され、彼女との待合場所に向かう。大丈夫、僕は一人じゃない。そう思うと傷ついた心が少しずつ治っていく気がした。
「ねえ、君一人。可愛いね。良かったら俺たちと遊ばない。」
駅に着くなり聞こえてきた言葉に不快を覚える。なんで、あんな人がいるのだろうか。
「人を待っているのでお断りします。」
ナンパをされていた人物の声を聞いた途端僕は一目散に駆け出した。
「君が待っているのは女友達かい。それなら、その子も入れて四人で遊ぼうよ。」
彼らが彼女に触れようとする。僕は声を出す。触るな、僕の彼女に触るなと思いながら。
「あ、いたいた。ごめん、待ったか。ってこいつら誰だよ。」
「なんか、いきなり話しかけられて。」
不安そうな彼女に駆け寄る。良くも悪くも少し怖い顔つきをしているので奴らは少し後ずさりした。追い打ちをかけるように元々鋭い目を更に細めて彼らを睨めつける。
「僕の彼女に何か用か。」
「ただ、俺たちはこの子が可愛いから遊びに誘おうとしただけで。」
彼らの言葉を聞いた途端僕の体全身が彼らに怒りを感じた。彼らに軽蔑の眼差しを向ける。
「僕の彼女が超可愛いことは、僕が一番知っている。だから、彼女が可愛いことは大いに認める。だけど彼女に手を出すことは絶対にさせないからな。」
彼らを彼女に近づけさせないように言った言葉。けれど全てが本心だ。きっと彼女は嘘だと、フリだと思っているけれど正真正銘本当の言葉だ。彼女に面と向かって伝えられたらいいのだけど、僕にそんな勇気は到底なかった。けれど、彼らには僕の熱い思いが届いたらしい。尻尾を巻いて恐る恐る逃げって行った。
「ありがと、守ってくれて。」
「別に大したことじゃないし。」
彼女の素直な感謝が僕の心に誇りと恥ずかしさにを生む。
「本当、恥ずかしがり屋なんだから。」
彼女の小さい囁きは僕の耳に届いていたが、あえて何も聞かなかったフリをし、目的に向かった。
水族館に着くとロータリーには想像以上の人がいた。こんなにも多くの人が集まっているので、さすがに暑くなってくる。平日の夕方でこの人数なら、土日のここはまさに地獄なのだろう。
「人多いけど大丈夫。無理しなくて良いよ。」
少々引いていたのが顔に出ていたらしく、彼女にバレて気を使われてしまった。
「大丈夫。」
いつもよりも大きな声で会話をしなくてはいけないし、迷子になってしまったら困るので彼女の手を握る。彼女に近づく。
「迷子になるなよ。」
この距離なら多少小さい声でも聞こえるだろう。彼女の言葉を一言一句聞き漏らしたくなかった。
「すみません、学生二人分お願いします。」
「学生書のご提示をお願いしますね。」
学生書なんて持っていただろうか。僕は自分の鞄の中を懸命に探す。やっと見つけた学生書はぐちゃぐちゃに折れ曲がっていた。でも、それでいい。僕がこの学校の生徒だと誇りに思ったことは一度もないから。
「もう、そう言うの大事にしないとダメだよ。」
だけど、これを見た彼女には怒られてしまった。彼女はものを大事にするので、こういう事が気に入らないのだろう。僕がしょぼくれていると彼女がくすくすと笑った。
「なんだよ。」
彼女ご何に対して笑っているのか分からずに少し拗ねる。
「別に何も。」
「何もないわけ無いだろ。そんな可愛い顔して…。」
言ってしまってから気づくがもう遅い。バツか悪くなり下を向く。恥ずかしさに顔から火が出そうだった。
「何言ってるの。可愛い顔してるのは君の方でしょ。」
彼女は冗談交じりにそう返した。彼女は僕の言葉を冗談として受け取ってくれたらしい。本当に助かったと思う。
「あらあら、仲の良いカップルだこと。」
チケット販売のおばさんがくすくすと笑っている。おばさんにからかわれてしまったが、無事にチケットは買えたので良しとしよう。入場口のゲートをくぐると円柱で大きな水槽が見えた。中では小魚やサメが優雅に泳いでいる。
「わー。きれい。」
僕は声を上げてこの風景に見惚れる。
「ふふっ、可愛いんだから。」
「おい、聞こえてるぞ。」
彼女の声が聞こえ我を取り戻す。危うく、この魚たちに僕の全意識を持っていかれるところだった。彼女にからかわれたので少しムッとすると、彼女は微笑んだ。どんと音がしてもう一度水槽へ目線を向けるとそこにはサメが一匹いた。まるで、僕達が魚を見ずに会話をしていたことが気に食わず、俺を観ろとでも言いたいかのようだった。僕たちは一斉に吹き出した。
「あはは、いいね。この子、ちょーかわいい。最高なんですけど。ふふっ。」
「くくっ、なんだよ、俺たちの邪魔する気か。」
サメは身を翻して、美しく泳いでいる。水に光が入り込み、まるでコンサート会場の様な華やかさがサメを照らしていた。
「まるで、有名シンガーだな。」
僕がそう言うと彼女はもう一度笑う。
「なんだよ、ったく。」
彼女がじっと見つめてくるので、とっさに彼女の目を手で覆い隠した。
「ちょっと、見えないって。」
「何が見えないのかはっきりいいな。」
せっかくなので少しイタズラをする。彼女の困っている顔が可愛いから。
「えっと、さめ…。」
「本当のこと言わないと離さないから。」
予想通り彼女はあたふたと困りながら、照れ始めている。彼女の可愛い反応に僕の理性も限界を迎えそうになる。
「君。君のこと見てたの。」
真っ赤な顔で恥ずかしそうに小さな声で言う彼女がより愛おしくなる。もっとその顔が見たくて追い打ちをかける。
「ふーん、なんで。」
「考えていたことが同じでびっくりして君の顔見たら、君の笑った顔が可愛かったから。可愛すぎたから。」
思いも寄らない彼女の返答に僕の顔は熱くなる。彼女から手を外して、今度は自分の顔を覆い隠す。自分から挑発しておいて、彼女に仕返しをされて照れたなんて馬鹿すぎるだろ。
「もう、可愛いって言うの禁止。」
さすがに恥ずかしすぎて彼女に禁止令を出す。
「へー、なんで。事実を言えって言ったの君だよね。」
さっきの仕返しか、彼女から様々な攻撃が飛んでくる。
「いや、お前がそんなこと考えていたなんて普通に考えつかなかった。それに、僕可愛くないし。」
「安心して。君は世界で一番可愛いから。」
だけど、僕はこの言葉を聞いた瞬間に我を取り戻す。僕には譲れないものがあるのだから。
「馬鹿だな、お前は。世界で一番可愛いのはお前だ。これだけは絶対に譲らないからな。」
彼女を抱きしめて、自分の方に近づける。これ以上顔を見られないようにするためと、彼女ともっと近づきたかったから。彼女が上を向くと僕と目が合った。予想以上に彼女と顔が近くなり、心臓が骨や筋肉、更に皮膚を突き破って飛び出るのではないかと心配になる。彼女の心臓と同じくらいの爆音を鳴らす僕の心臓を何とか落ち着けようとする。
「あ、あのさ。」
彼女が何かを決心したかのように僕に話しかける。彼女の言葉を一言一句聞き漏らさないように細心の注意を払いながら彼女の言葉に耳を傾けた。
「これからは、名前で呼び合いたいです。」
特に最後の方は心臓の音にかき消されそうなほど小さかったが彼女の言葉を聞き漏らさず受け取ることができた。
「何で敬語なんだよ。」
同様を隠すために僕は可笑しそうに微笑んだ。
「もちろん、僕もそうしたいと思ってたよ。香奈。」
ずっと口にしたかった言葉をやっと発する事が出来た。いきなり名前呼びして引かれたら嫌だったのでずっと我慢していた。
「ありがと、凌也君。」
彼女に名前を呼ばれただけで自分の名前がなぜか特別なものとして感じてしまうのはなぜだろう。
「僕は君付けかよ。…ま、良いけど。」
照れ隠しに少しだけ悪態をつく。でも、彼女にはびっくりするほどバレていた。彼女だって顔を真っ赤にして照れているのに。こんなに恥ずかしがっているのがわかるのは彼女ぐらいだろうと心の中で思う。きっと口に出すと彼女は恥ずかしがりながら怒るのだろう。
「つ、次どこ行く。」
恥ずかしくて話題を逸らす。
「このコース行きたい。ショーに間に合うから。」
今度は彼女が僕の手を取る。いつの間にか離れていた温もりが蘇る。彼女に癒される。
「ほら、行くぞ。」
彼女の手を引く。少し考え事でもしているのかぼっーとしている彼女。らしくないななど思いながら問いかける。
「どうした。」
「あっ、少し考え事してただけ。」
予想は的中していたようだった。手をつないだまま僕たちは館内を見歩いた。僕は色々な魚の情報を彼女に伝える。
「詳しいんだね。」
「…このために調べてきたから。」
僕の言葉に彼女が驚き目を丸くする。そんな反応もまた愛おしい。
「なんだよ。恥ずかしい事言わせんな。」
彼女が僕の顔をじっと見つめてくるので、恥ずかしくなってきた。
「ごめんて。」
「後で仕返してやる。」
僕の言葉に二人して笑う。そのままショーに向かう。回るのが少し早かったのか、まだ時間があったため席はまだまだ空いていた。
「前に座ろうぜ。」
「後ろがいいな。」
見事に真逆の回答に分かれてしまった。
「えー、濡れたくない。」
「濡れたい。」
「じゃあ別々に座る。」
「それは嫌だ。」
彼女の背は少し低めなので前の方が見やすいと思ったのだがどうやら濡れたくないらしい。僕たちは少しの間考えていた。僕たちが決めかねている間に少しずつ人が増えていく。
「じゃあ間を取ろう。」
人がだんだん多くなってきたので、そろそろ決めないとやばいと思い二人の意見の真ん中を取った。
「香奈、背が小さいから前じゃないと見えないと思ったのに。」
「そんなに、小さくないし。ここでも全然見えてるし。」
僕が少しからかうと彼女は拗ねたように頬を膨らませた。そんな彼女が愛らしくて頭をわしゃわしゃと撫でる。彼女の膨らんだ頬が余計に膨らみ破裂しないか心配になる。
「ごめんて、始まるよ。」
彼女といると時が経つのがとても早く感じる。気がつけば開演時間になっており、人もたくさん増えていた。
「ん、見えない。」
「だから言ったじゃん。」
僕の予想通り、彼女の視界には人の背中と頭しか写っていないだろう。彼女は体を動かしながら見える場所を探している。
「全く。だから、前に行こうって言ったじゃん。」
呆れながらため息までつくと彼女はしゅんとうなだれた。
「ん。」
仕方がないので最終手段に出ることにする。僕は僕の太ももをポンと叩くと、彼女は何かを考える。彼女は時間差で気づいたらしく、顔を真っ赤にしていた。
「絶対に無理矢理。私重いし凌也君が潰れる。それに、凌也君が私の頭で見えなくなっちゃうよ。」
「良いから、良いから。早くしないと終わっちゃうよ。」
僕は彼女に安心してほしく笑いかける。
「絶対に重い。凌也君を潰しちゃう。」
それでも、彼女が真面目な顔であたふたし始めるため、そんなに重いのかと心配になった。
「体重何キロ。」
「女の子に聞くものじゃないから、それ。」
僕が真面目に尋ねると彼女は
「多分お前なら大丈夫だし。一応。て言うか、忘れてるかもだけど僕運動部だよ。筋肉なら若干付いてるよ。」
自分自身でも何を言っているのかよくわからない変な説得を受けて彼女は渋々移動してきた。彼女が真っ赤な顔をして僕の顔をうかがう。華奢な彼女が重いわけないのにそんなにも気にすることがあるのだろうか。言ったら怒られそうなので止めておくが。そんなことを考えているうちにある違和感を持った。確かに彼女は華奢だけど、こんなにも軽いわけがないと。彼女を見ると、まるで何かすごい運動をしているような表情と、プルプルと震える足。全く彼女は人に甘えるということを知らないらしい。仕方がないので彼女を後ろから抱きしめる。不意に後ろに引かれた彼女はバランスを崩してそのまますっぽり僕の胸に収まった。またあんなことされたら元も子もないので僕はショーが終わるまで彼女の周りに回した手を解こうとはしなかった。
「だから無理するなよ。そんなことしてたら歩けなくなるぞ。」
僕の言葉に彼女は僕に身を任せてきた。相当疲れたことと、僕が抱きしめていることで諦めたのだろう。やはり僕が思っていたよりも彼女は少し軽かった。その間にも、イルカたちは身を翻して様々な技をする。
「え、あんなに濡れるもんなの。」
ふと前の方の席を見ると、そこに座った人々はプールに浸ったのかのようにびしょびしょになっていた。驚いたのと少し引いた顔で彼女を見ると彼女は小さく笑った。
「前にしなくて良かったでしょ。」
「うん、助かった。」
彼女がいなければ危うく僕の体はイルカ汁でびしょびしょになるところだった。ラストにクロスジャンプが繰り出された。お互いを信頼しているからこそ成せる技に僕は感銘を受けた。
「すごかったね。」
「だな。よく見えただろ。」
ショーが終わると彼女はにっこり笑いながら感想を述べてきた。きっと彼女は僕の膝の上と言うことを忘れているのだろう。
「うん、ありがとう。」
僕の顔を見た彼女は思い出したのかのように顔から火が噴いた。そんな彼女の姿に幸せの笑いが溢れた。
「じゃあ他も観て回ろっか。」
彼女がそう言いながら鞄を持つと小さくふらついた。そんな姿を僕は見逃さなかった。
「どうした。具合悪いか。」
「違う違う。大丈夫だよ。」
彼女が安心させるかのようにそっと微笑む。そんな姿がやけに不自然で違和感を持つ。
「あ、分かった。腹減ったんだな。」
自分の思考も止めるべくいつかの言葉を放つ。彼女の鞄をひったくるように持つと僕もふらつくかと思うほど重かった。
「重。これ、何が入ってるんだよ。」
「ええっと、教科書とか…。」
さすが優等生の彼女らしい回答に内心ほっとする。
「やっぱり香奈、偉いな。」
「あはは。」
彼女の乾いた笑い声が聞こえたが、何もなかったフリをした。そのまま一階のカフェテリアに向かう。カフェテリアはそこまで混んでおらずすぐに入ることができた。彼女がメニューを眺めるのを眺める。いきなり彼女が目を輝かせた時には何事かと思った。
「ぺ、ペンギンパフェ…。」
壁にも大きく宣伝されているここの名物みたいなものだ。だけど、一人で食べれる量ではなかったはずだ。
「なあ、香奈。これ食べたいの。」
念の為彼女に問いかける。
「うん、可愛いから。」
しかし、一人では食べ切れなくて諦めようとしているらしい。
「二人で一緒に食べるか。僕も気になっていたし。」
「りょ、凌也君…。」
僕の提案に何か不備があったのかと焦る。
「えっ、何。ダメだった。」
「君は神ですか。」
彼女の真面目な顔とセリフが合っていなくて吹き出した。
「いや、だって。食べたいの我慢してたんだろ。流石に一人じゃ食べきれないよな、この量。て言うか、ここに二人用って書いてあるし。」
僕の言葉に彼女はより嬉しそうに笑う。彼女のこの笑顔を守りたいなどと思っていると立派なペンギンが僕の思考を停止させた。彼女が目をキラキラとさせながらスマホを構える。思い出を切り取って保存する。
「ねえ、一緒に撮りたい。」
僕は小さな声で望みを語る。そんな僕に彼女はスマホを向けた。
「ねえ、今撮った。」
「よし、一緒に撮ろう。」
僕の言葉を遮るようにスマホを構え、僕たちの方へカメラの視点を向ける。彼女と僕とペンギンと言うアンバランスな僕たちが同じ画面に収まった。
「撮れたよ。」
「送って。ホーム画面にしたい。」
「え、恥ずかしいんだけど。私がして良いなら良いよ。」
「じゃあいいよ。二人でお揃いにしよう。」
自分で言っておいて彼女とお揃いにすると言うことに気持ちが高ぶった。それを彼女に悟られないよう冷静を装う。彼女には可愛いじゃなくて、かっこいい僕を見てほしいから。少し落ち着こうと思いスプーンにペンギンのかけらを乗せる。乗せたそれを口に運ぶと口の中で一瞬にして消えてしまった。
「んまぁ。」
彼女が頬に手を添えながらペンギンのかけらを味わっている。彼女の言うように確かに絶品だった。美味しくて、夢中になって食べてるとふと彼女がスマホを構えている姿が見えた。
「今、撮ったろ。」
彼女は少し困りながらあたふたして、いつもよりも子供みたいに笑った。その姿が珍しくて僕も彼女をスマホに収める。
「お返し。」
「今、絶対に変な顔してた。消して。」
「そっちの消したら消してもいいよ。」
「…じゃあいい。」
「いいのかい。」
彼女との他愛もない会話で癒されながら、愛らしいペンギンはどんどん崩壊した。
「美味しかった。」
「だな。」
僕たちは軽食タイムを終えて再び館内を散策し始めた。角を曲がるとペンギンコーナーが見えてきた。
「なんか、美味そうに見えてきた。」
本当に思ったことを口にすると彼女は耐えきれなくなったかのように吹き出した。
「あはは、それ私も思った。」
彼女につられて僕も笑う。
「香奈はさ、大学とか決めてんの。」
場違いで、このタイミングじゃないと分かっているのに、頭で考える前に口が動いていた。ずっと気になっていた彼女の将来。彼女が思い描いている未来に僕はいるのだろうか。
「一応、T大学だけど。」
「そこ、偏差値エグいところじゃん。やっぱり頭良いよな。」
やはり彼女の未来に僕はいない。僕がそんな賢い大学に行けるわけもないし、たとえ行けたとしても彼女はもっと自分とつり合う人と付き合うだろう。僕と彼女では生きる世界が違うのだから。
「何でいきなりそんなこと聞くの。」
彼女がこてんと首を傾ける。
「いや、僕将来の夢とかなくて。今、ペンギンの飼育員になろっかなって思ったから。」
最近では上手で自然な僕らしい嘘が付けるようになってきた。実際のことと、嘘のことを混ぜて作る作品は誰にもバレない完璧なものと成るのだ。彼女がまた笑う。その笑いは不自然なものではなくきっと自然に笑っているのだろう。彼女を騙したみたいで胸がチクリと痛んだ。
「凌也君がいきなり真面目な話するから、頭を打ったのかと思ったけどそう言うことか。びっくりした。」
「香奈は僕をなんだと思ってるんだよ。」
彼女が見ている作った僕と本当の僕は全然違う。彼女は僕のどこを見ているのだろうか。僕が彼女に見せている姿は作った姿なので彼女が本当の僕なんかを見ているわけがないのに何故か彼女には手の内が全部バレているのような気がする。何を考えているんだろうか、僕は。思考を無理矢理にでも変えるため、ペンギンをじっくり眺める。
「こいつらは気楽に生きてるのかな。」
僕の呟いた言葉に反応する「人」は誰もいなかった。彼女も考え事をしていたようだから。しかし、僕の独り言を聞いているものがいた。ドンッと音がして視線をあげるとペンギンが水槽を突っついていた。まるでペンギン界だって大変なんだよ、ペンギン様をなめるなと言っているようで笑えてきた。ペンギンと会話をしながら様子を観察する。よく見ると一匹一匹顔が違い、もちろん行動も違った。僕は集中して食い入るように彼らを見ていた。
閉館を告げる放送が僕を現実に引き戻した。我ながらすごい集中力だと思う。三十分近くもの時間をペンギン観察に費やしたと思うと彼女に申し訳なくなり彼女をそっと見る。彼女は怒る様子も、呆れる様子もなく、ただいつもの優しい顔で微笑んでいた。彼女と目が合う。鼓動が高鳴る。そんな僕にはお構いなく、彼女はいつものような足取りで出口に向かう。水に反射した光に照らされ、まるで海の精霊ではないのかと思うほどの美しさを放っていた。ゲートが見えてきた。この美しい時間はもう終わる。ふと、視界の端にグッズショップが入り込んだ。
「待って、あと十五分ある。」
理由は何でも良かった。彼女とあと少しでも一緒にいることができるなら何でも良かった。そんな気持ちで彼女の手を引く。予想以上に力が入ってしまった。バランスを崩し、よろけた彼女を後ろからしっかり抱きしめる。さらさらの髪が顔にかかり、彼女の髪がなびくたびに香ってくるいつもの香りがした。顔が熱い。熱々の僕の顔を館内の冷房がガンガンと冷やす。水族館は僕の味方なのだろう。
「ごめん、力加減間違えた。」
「あ、ありがとう。」
僕の腕の中から離れると、少し頬を染めながら彼女ははにかんだ。僕のせいでよろけたのに、僕に感謝をしてくる優しい彼女に心が高鳴る。いっそのこと彼女を僕だけのものに出来たら良いのにと危険な思想に染まっていく。
「どうしたの。」
不意に聞こえた彼女の声が僕を闇の世界から引きずり出した。僕は無言でショップの方に指を向けた。
「こんなところにあったんだ。」
彼女は少し驚きながらはしゃいでいた。きっと彼女も探していたのだろう。
「今見つけたから寄って行きたい。」
「ん、いいよ。私も探してたし。」
ほら、予想通りだった。時間がないので早足で吸い込まれるかのようにショップに入る。ペンギングッズコーナーを見つけるとそっちに対極の磁石なあるかのように引かれた。ペンギンのキュルキュルとした目に引かれ、危うく全てかごに入れようとしていた時、二つのキーホルダーが磁石でくっつくというものを見つけた。
「香奈にコレあげよ。」
自分がしようとしていることを考えるだけでニヤニヤしてしまう。口もとを筋肉で押さえつつ、金欠の財布を持ちレジに向かった。僕の高校はバイト禁止なためバイト良くならないかなと思っていると、レジの近くにペンギンのふわふわぬいぐるみを見つけてしまった。一目見ただけなのに、買わないといけない。そんな衝動に駆られ少し高めのそいつをかごに入れ今度こそ半分目を瞑りながらレジに向かった。彼女は会計を済ましていたようで僕を静かに待っててくれた。僕の姿を見ると彼女は微笑む。おかげでお待たせの一言も喉に引っかかり出てこなくなってしまった。そんな状態で館内を出る。これで終わりかと思い憂うつな気分に浸っていると、彼女が公園で戦利品の見せ合いを提案してきた。僕も彼女に渡したい物があったからちょうどよかった。ベンチに腰をかけ、あのぬいぐるみを取り出した。
「同じじゃん。」
彼女も全く同じ物を持っていたので二人して吹き出した。やはりこのキュルンとした目から逃れられるものはいないのだろう。僕と彼女のぬいぐるみを隣に並べる。
「可愛い過ぎる。超可愛い。」
彼女がぬいぐるみに夢中になり構ってくれなくなったので、意地悪な質問をしてみた。
「あのさ、香奈って僕のこと可愛いって言ったじゃん。世界で一番可愛いって言ったじゃん。じゃあさ、僕とそのぬいぐるみどっちの方が可愛いと思う。」
彼女が僕の冗談交じりに質問に驚いて振り返る。彼女は満面の笑みを浮かべながら即答した。
「もちろん凌也君だよ。」
一瞬、頭が真っ白になり何も考えられなくなった。彼女が勝ち誇った顔をしたのでやり返されたのだと理解するのに時間がかかった。でも、言った本人も恥ずかしくなってきたようで少し顔を赤らめた。
「ねえ、これ見て。」
僕に指摘されないようにするためか、彼女は即座に話を変えた。彼女が二本のシャープペンシルをずいっと僕の顔の前に出す。
「え、可愛い。それどこにあったの。」
「一個あげる。」
箱から一本をそっと出して僕の手に乗せてくれた。
「え、いいの。ありがとう。」
僕は丁重に受け取った。
「実は僕も。これどっちが良い。」
袋からキーホルダーを出し、彼女に見せると目をキラキラとさせていた。
「可愛い。こんなの売ってたんだ。」
「磁石でくっつくんだって。」
彼女の手に水色の方をそっと乗せる。彼女は大切そうに受け取った。
「ありがとう。本当に。」
彼女が優しく微笑む。何故だろうか。彼女の笑顔を見るとストッパーが外れてしまう。
「それはこっちもだよ。あのさ、提案があるんだけど。せっかくホーム画面お揃いだからさ、このキーホルダーをスマホに付けないか。」
「いいね。」
断られると思ったのだが彼女は即答で僕の案に乗ってくれた。僕とお揃いのキーホルダーが付いたスマホを大切にしまう彼女の横顔に心が温かくなった。空が暗闇に閉ざされていく。
「今日も楽しかったね。ありがとう。」
「ありがとうは僕のセリフだよ。僕もすっごい楽しかった。ありがとう。」
電車に乗り、空いていた席に腰を下ろす。疲れていたのだろうか。席に座るなり彼女は気を失うように眠りについた。彼女のあどけない寝顔を愛おしく眺める。電車が揺れて、僕の肩に重みを感じた。彼女の香りに包まれる。抱きしめたい衝動を抑えていた。
僕が降りる駅が近づいていく。このまま彼女と何処かに。そんな事は叶わない。彼女がそう望んでいないから。彼女の事を好きなのは僕だけだ。彼女は僕を好いていない。そんな事は僕が一番分かっている。
「おい、起きろ。僕、もう着くぞ。」
彼女の肩を軽く揺する。彼女がゆっくり瞼を開ける。あどけないその表情に胸が締め付けられる。
「うん、ありがとう。」
まだ寝ぼけている彼女を覚醒させるべく彼女に冗談を囁く。
「よだれたれてるぞ。」
僕の冗談に驚いた彼女は、飛び起きて自分の口もとを確認する。彼女が少し頬を膨らませて僕を見る。愛しく思う。
「じゃあ僕降りるから。またね。」
「うん、またね。」
涼しい風を受けながら頬を赤らめる。家に帰るまでにはこの熱も風が持ち去ってくれることを願っていた。



