(あかね)色の空いっぱいに広がるような掛け声とボールを蹴りだす音が夕方のグラウンドで混ざり合う。

 購買のある三階の窓からその様子を流し見しつつ、紅色の十番のビブスを身につけた彼の姿を必死に目で追う。

 キャプテンだという彼の声は、だだっ広いグラウンドでもしっかりと()(れい)に響く。その存在感は、他の人とは比べ物にならない。いつまでも見ていたいその光景は、もう限られるほどしかない。

 「ねー(たい)()……先輩。前全校応援で試合観に行ったとき思ったんだけど、なんでゴールにボールちゃんと入ってたのに、得点取り消されちゃってたの?」

 先輩、とは形式上呼んではいるものの、彼とは小学校からの幼なじみだった。ちょうど団地の隣の部屋だったから彼とはお互いに家族のような関係で、高校生になった今こそ頻度は減ったものの、勝手に部屋を出たり入ったりもする。

 「あー、あれはね、オフサイドっていうんよ。相手の一番後ろのディフェンスラインより、こっちのフォワードの選手が少しでも出てたらダメなの。ノーゴールになる」

 机の上にある厚めの参考書から目を逸らすことなく、背をこちらに向けたまま答える。よくわからないワードがすらすらと出てきたけど、全く意味がわからない。

 「オフサイド? ディフェンスライン? 待って全然わかんないどゆこと」

 「そこから話し始めるとキリないからなー。……そんじゃあさ、たとえばの話だけどさあ」

 彼は思いついたように(こぶし)をポンと弾く。

 「端的に言えば、相手のゴール前で自分勝手に待ち伏せしてたらダメよーってこと。たとえば、()()に好きな人がいるとするじゃん? 好きな人と付き合うってゴールのために、真っ直ぐに正当なアプローチしようとしてるわけさ」

 私は、うんうんと頷く。

 「それなのに、全く知らないポッと出の人が急にゴール前に出てきて、それ私のです!ってボールを()(さら)って得点しちゃうわけよ。どうする? そんなん許せる?」

 想像してみて、うっと胃の辺りがキリキリした。そんなの、許せるわけがない。

 「……許せないかも」

 「でしょー? だからそれは反則ってことで、ゴール決めても得点は認めらんないってこと。たとえ方ぐちゃぐちゃだけど、なんとなく意味はわかったろ」

 私はこくりと首を縦に振る。彼は満足そうな表情を浮かべて、またもや参考書の世界へ戻る。

 大学受験を前にして、くわえてインターハイ予選とやらの決勝も控えている彼は、朝練、夜練とハードな部活を終えるとすぐさま家に帰り、勉強を始める、という日々を続けている。私はそんな彼の部屋にたまに遊びに来ては、一緒に課題をしたり、わからないところを教えてもらったり、飽きたらちょっかいを出したりしている。最近は、少しウザがられている気がしないでもない。

 オフサイド、かあ。彼が説明してくれた情報を頭の中で整理してみる。

 待ち伏せして、いきなりゴールを掻っ攫う。たしかにそれは、サッカーという試合の中では反則なんだろうけど、もしそれが現実の恋愛で起きたとしたら、どうなるんだろう。真っ直ぐに、誠実にアプローチした方がいいのか、ギリギリまで待ち伏せしてでも、勝利に徹して奪った者勝ちなのか。

 先輩は、相変わらず勉強机にかじりついている。よくもまあこんなに集中力が続くものだなあと思う。勉強もサッカーもできるのに、ふたりきりのこの状況に慣れきっている彼に、なんだか少しだけムカついた。

 「ねえ、由香! (うわさ)で聞いたんだけどさ、あの大河先輩と幼なじみってほんと!?」

 大して話したことのないクラスメイトの()()に、そう聞かれたのは先月のことだ。

 クラスでも目立つ方の恵美と、教室の端っこにがお似合いの私。化粧っ気のある恵美と、形だけの校則を(りち)()に守る私。普段、接点なんてない。にもかかわらず、彼女は込み上げる興奮を隠そうともせず、私の机に両手を置いて一方的にまくしたてた。

 「幼なじみ、ってほどでもないんだけど。でも一応、小学校からの付き合いではあるのかな」

 彼女は綺麗に伸びたアイラインを余計輝かせて詰め寄る。近くでみると、ひとつひとつのメイクがよりよくパーツを引き立たせている。可愛(かわい)いって、いいなあ。

 「すごーーーー(うらや)ましい! ね、わたし最近大河先輩のこと超推してて。インスタもフォローしてるんだけど、メッセージなかなか送れなくて」

 そうなんだ、と一応は返したけど、テンション感にどうしようもない差を感じた。彼女の、期待に満ちたような瞳が、ズンと重たく背中にのしかかる。

 はいはいはい、そういうことね。

 大河……いや先輩は、はっきり言って人気がある。顔がいい。サッカーがうまい。身長が高い。国立志望を公言できるくらいに地頭がいい。インスタのフォロワーもなぜか千人を超えているし。

 だから、どこでかこうやって私との関係を嗅ぎ取って、「彼と繋いでくれ」という無茶なお願いをされることが、少なからずある。どこでそんな情報が漏れるのだろうかと、最近は特に辟易していた。

 「前の全校応援のときもさ、すごかったよね! 大河先輩が二点も取っててさー。なんだっけ?ハットトリック? 違うっけ? でももうほんと、どうしてもお近づきになりたくて!」

 彼女の視線はキラキラしていて、自信に満ち溢れていて、うっとりと恋する乙女の表情をしていて、これだけ可愛かったら彼ともお似合いなんだろうな、と思う。

 「わかった。そしたら、先輩にいったんメッセージ送ってみたら? それとなく、恵美ちゃんのこと伝えておくよ」

 「ほんと!? やったーめちゃうれし、話せてよかったー、てか前から由香と仲良くなりたいって思ってたの!」

 そろそろこういう橋渡し役も卒業しなきゃいけないな。そう思いつつも、先輩との話題が一個できたなと、今日も部屋に遊びに行く口実ができたなと思った。彼の部屋に行けるのだけは、誰にも言わない私の特権だから。

 あの後、恵美は「大河先輩とDMしてるの! 由香のおかげ!」と甘ったるい笑顔で甘ったるい報告をしてきた。

 私は彼にこういうメッセージがくると思うよ〜とだけしか伝えていなかったけど、恵美的には私が彼女のために相当な根回しをしたのだと勘違いしたらしく、授業との合間、昼休みと、やたらと懐いてくるようになった。周りは、急にタイプの違う私たちふたりが仲良くなったのを不思議そうに見ていた。

 「昨日はね、夜遅くにメッセージくれたの。それまでずっと勉強してたんだって。すごいよね? 

 サッカー部の朝練とか早くからあるはずなのに」

 知ってるよ。勉強してるとこ、私は誰よりも近くでずーっと見てたんだから。

 「今日の朝練、ちょっと(のぞ)いてきちゃったんだ。そしたら、私のこと気付いてくれたの。ちょっと目が合ったもん」

 知ってるよ。最近あの子めっちゃ練習観に来てくれるなーって、彼言ってたから。

 「おうちどの辺なんだろうな、大河先輩。ほんと偶然装って一緒に帰れたりしたらいいのに」
 彼の家なら知ってるよ。私の家の隣だよ。

 恵美のことは、よくあるミーハーの類いで、どうせすぐ飽きるだろうと思っていた。けれど、予想に反して、彼女は大河先輩のことを大切に思っているようだった。口では大袈裟に好きだの付き合いたいだの言うけれど、大事な試合を前にして迷惑だけはかけないよう、きちんと一線は引いていた。そして何より、彼のしていることに理解を示して、歩み寄ろうと努力をしていた。

 「私ね、今までサッカーのことよく知らなかったけど、最近勉強してるんだ。由香、Jリーグとか知ってる? プロのリーグなんだけど、ちゃんと観てみると意外と面白いんだよ。なんたってイケメンが多い! ……冗談だってえ、今度一緒に観てみようよ」

 「大河先輩って結構頭いいらしいよね。私馬鹿だからってずっと進学諦めてたけど、勉強してみようかなあ。今から頑張ったら国立目指せるかな? いけるはず! ……由香と一緒ならなんか頑張れる気するんだけど!」

 恵美は、先輩目的で私と距離を詰めたのだと思っていたけれど、そんなことはなかった。ひょっとしたら本当に私と仲良くしたかったのかと錯覚してしまうくらい、たくさんのことを話した。

 移動教室に、一緒に行くようになった。昼休みは、お目当てが売り切れる前に走ったりもした。帰り、一緒に寄り道するようになった。ふたりで過ごす時間は、素直に楽しかった。話題はそれこそ〝先輩〟のことばかりだったけど。やっぱりどこか憎めなかった。

 そして、彼女との距離が格段に縮まっていることを自覚するたびに、徐々に罪悪感を覚えるようになった。

 私、彼の隣の家に住んでるんだよ。

 課題とかも、一緒にしたりするし。

 部屋によく遊びに行ったりもするんだよ。

 あとね、
 私も、恵美よりもずっと前から、先輩のことが、彼のことが、好きなの。

 彼女に伝えなきゃフェアじゃないのに、誠実じゃないのに、ずっと言えないでいた。

 幼なじみって関係性は、ときに残酷だ、と思う。近い関係性であるからこそ、持っている感情がぼやけて相手には映ったりする。

 長い間伝えたかった気持ちは、次第に()びて()ちる。心地よい関係を守ろうとするあまりに、本当の心のうちは届かない。家族のような空気感は、新鮮で真新しい空気感には到底太刀打ちできない。

 彼の言葉を、今一度咀()(しゃく)しようと試みる。

 相手のゴールで自分勝手に待ち伏せしてたらダメよーってこと。たとえば由香に好きな人がいるとするじゃん? 好きな人と付き合うってゴールのために、真っ直ぐにアプローチしようとしてるわけさ。

 それなのに、全く知らないポッと出の人が急にゴール前に出てきて、ボールを掻っ攫って得点しちゃうわけよ。どうする? そんなん許せる?

 許せないよ、そんなの。

 でも、恵美が大河先輩を想う気持ちだって、たぶん偽物じゃない。否定していい感情なんかじゃ、ない。

 「ごめん恵美、実は私も先輩のこと好きなの」

 放課後、購買からグラウンドを見下ろしながら、意を決してそう恵美に伝える。

 これからは彼女とライバルになるのか、もしかしたら人が変わったようにツーンと冷たくなるのかもしれないな。どちらにせよ今の楽しい関係にはもう戻れないんだろうなと思うと、涙腺がゆるみそうになった。

 どうにでもなれという投げやりな気持ちもあって、でも彼女を(だま)し続けるよりはいいと思った。

 恵美は、一瞬意表を突かれたような表情を見せた。そして、
 「ようやく言ってくれたーー!!」

 と、予想外の台詞(せりふ)を叫んで、私に抱きついた。果実が弾けたような、いい匂いがした。

 「え、気づいてたの……?」

 「当たり前じゃん、気づいてたよ、もういつ言ってくれるんだろうってずっと思ってた。ほんと水臭いなー由香ーーこんちくしょーー、って」

 そんなに自分のことをわかりやすい人間だと思っていなかったから、焦る。そんなに、ダダ漏れだったんだろうか。

 「ごめん、恵美も好きなんだろうと思って、言えなかった。でもそんなに私、バレバレだったかな」

 彼女はキョトンとした表情で、目を丸くさせる。

 「もちろん先輩のことは好きだよ? でも、由香と一緒にはしゃげる時間も好き。先輩のこと、語り合う時間も好き。先輩のこと話すときの由香、楽しそうだったもん。だからね、いつか三人で仲良くなれたら、なんてわがままもちょっとだけ思ったりもした!」

 彼女の迷いのない眼差しを見て、ああ、私はとやかく考えすぎていたのかもなと思った。好きだという気持ちに、誠実なアプローチとか掻っ攫うとかオフサイドとか、そんなことをうだうだと考える必要なんてなくて。

 たぶん後悔しないように、自分の感情に嘘をつかずにいられたらいいんだ。

 「実は私、先輩の家の隣に住んでるんだよね」

 ようやくそこで、珍しく彼女が驚いた顔を見せた。

 「え! まって、それはずるい! ダメ! 反則! イエローカード!」

 わたわたする彼女が面白くて、思わず笑みが溢れる。

 私からしたら、とんでもなく可愛くて、ぽっと出てきて、彼のことを好きになれる恵美が心の底から羨ましかった。でもたぶん彼女からしたら、長い間自然と彼の近くにいた私のことを羨ましく思っているのかもしれなくて。「とりあえず、ふたりとも振られないようにしないとね」と、ふたりで笑い合う。

 こんなにも想われている当の本人は、そんな私たちの事情などつゆ知らず、グラウンドの上を駆け回っている。彼が蹴り放った白黒のボールがゴールに突き刺さってネットを揺らして、私たちは顔を見合わせる。

 たしかにこの時間が続いたらいいなと、本当に、本当に、思った。