彼の住むアパートの扉のドアノブに手をかけると、カチャリと音が鳴って、こいつはなんて不用心なんだと腹の奥がムカムカした。

 付き合いたての頃から、鍵はちゃんと閉めておいて、特に私が来るときはって口うるさく伝えてるはずなのに、全然治る気配がない。治る気配がないというか、その場しのぎで治す治すと言いつつも、本当はそんな気はないんだろうというのが毎度毎度ひしひしと伝わってくる。まあ、女の防犯意識を男に強制するってのがそもそも無理な話なのかもしれないけれど。

 1Kの部屋の大部分を占めるベッドの上で彼はスマホを片手にだらんと寝転がっていた。いつもの景色、親よりも見た顔。

 私のことを視界に捉えると、「お、いつも来てもらっちゃってわるいじゃんね」と体勢を直そうとする素振りを見せる。素振りだけ。私が「そのままでいいよ」とだけ言うと、その背中はまた丸くなった。今起きようとしてないですよねあなた? というトゲをぐっと押し込む。

 「最近どうですよ」

 「まあ仕事はぼちぼちって感じかな」

 「私もそんな感じ」

 「この時期、どこの会社もそんなバタバタしないよな」

 「しないね、リアルに閑散期」

 「閑散期自体はありがたいけど、上司が仕事とってこいってうるさくなんだよなあ」

 当たり障りのない言葉の投げ合いっこをして、なんとなくの間の悪さをかき消そうとしてみる。

 間が悪いとまではいかなくても、当たり前のように会話は広がらない。投げたボールが返ってこない。壁当てでもしてるのだろうか、私は。

 彼は片手でスマホをいじってたまま、視線がこちらへ向く気配はない。昔は何見てるのー♡なんてお茶目に画面を(のぞ)き込むなんてイチャコラを決め込んだこともあったけれど、彼のリアクションがだんだんと薄くなっていくのを感じて次第にしなくなった。

 「ちょっとタバコ1本だけ吸わせて」と聞くと、「換気扇だけ回しといてねー」と気のない返事が届いて、合法的に距離がとれた。

 付き合ってから一年。ライターのギザギザに親指を擦り当てながら、いつからこんな感じになっちゃったんだろうなあと意味もなく考えてみる。

 出会いたての頃こそ、互いが相手に寄り添おうと努力していた。仕事で何かあればすすんで中身を話してくれたし、愚痴みたいなことも素直に吐いてくれていた。彼の愚痴相手になれていることが、素直に嬉しかったりしたものだ。

 私がタバコを吸うと言えば、「俺も俺も!」と私の隣を陣取ってきていた。隣で、メビウスのオプションを吸うやつは民度が低いだの、iQOSに至っては紙タバコからの逃げだだの、くだらない偏見を言い合っては笑っていた。あれは紛れもなく楽しい時間だったはずだ。

 灰を()(りん)特製レモンサワーの空き缶に落とす。灰が底の水に触れて、微かにジュッと音が聞こえる。

 それこそ世のカップル間にあるような大事件は私たちには存在しなかった。浮気されてるかも?なんて疑うこともなかったし、(とが)めるような行為をされたこともなかった。

 常になんとなく幸せで、数えられるくらいの不満はあるけれど、言葉にするほどでもなくて。そこにいるのが当たり前みたいな空気が延々と蔓延していた。この人もなんとなく私のことが好きなんだろう、とは伝わってきてたから、不安はなかった。

 灰を空き缶に落とす。ジュッ。

 マンネリというあまりにも他責すぎる言葉は嫌いだけど、でも一般的に今の私たちの状態を形容するなら、がそういうことなんだろう。大きなきっかけはないけれど、少しずつ、だけれどたしかに、すり減っている。ふたりでいることに、慣れきっている。

 家族みたいな空気感とかいう不確かな言葉に、頼り切っている。

 互いを大切にする方法はわかっているはずなのに、尊重してきた過去はあったはずなのに、少しずつ、大切にしなくてはいけない何かを、サボり始めて、戻れないままに今こうなっている。

 互いのことを知ろうとしなかったな、と最近は思う。彼に関する大抵のことは知っているつもりでいる。優しい性格、メーカーに勤めていること、彼と仲のいい友達の名前だって、ちゃんとわかってる。

 でも、今あなたが何を考えてるか、何をしてほしいのか、これからふたりでどうしていきたいのかが、全くわからない。会話が、ない。要求が、ない。言及するほどではないけれど、無視はできない不安がこの部屋にはちりばめられている。

 安定した日々の退屈と、もう間に合わない壊れた日常は、たぶん紙一重なのだと思う。

 タバコがつまめないくらいの長さになってきて、諦めて空き缶に落とす。ジュゥ。

 私たちの関係値は、今どのくらいの長さなんだろう。まだ一口吸えるくらいは残ってるんだろうか、それとも、もう空き缶の中か。

 部屋に戻ると、彼はすやすやと寝息を立てていた。私はまた無意識にため息をついて、彼の隣に寝転がる。

 彼の隣は、やっぱりそんなに居心地は悪くない。でも、たぶんだけど、その場所にいるのが彼じゃなきゃいけない理由もない。私である必要もないもない。

 これからも当たり障りのない話を繰り広げながら、()(さい)な会話で本質から目を逸らしながら、スマホをいじり続けるんだろうか。互いをタバコのように消費し合う日々が、いつまで続いてくれるのかは、そもそも続くべきなのかは、まだ私にもわからない。