「こっちこっち!」
駅中にあるファミマの前で美紀は手を大きく振って俺を招いた。にやけてしまいそうになる頬をなんとか内側に押し込みながら、彼女の隣に立つ。
「着くの遅いー。てかお店どうする? いつも行ってたとこでいい?」
スマホを弄りながらこちらを一瞥もせずに言って、俺はとりあえず頷きで返す。彼女の横顔は鼻筋が綺麗に通っていて、羨ましいな、と思う。
美紀の住むこの街は居酒屋がやたらと多い。サラリーマンの数に対して釣り合っていないとすら思う。チェーン店が乱立する駅前に、抜ければ個人店が連なる飲み屋の商店街もあって、「その日の気分で選べるの強くない?」と、彼女はよく自慢げに話した。事実そうだったし、自分のことでもないのに自慢げに口角を上げる彼女の癖は、正直嫌いじゃなかった。
商店街を、付かず離れずの絶妙な距離で歩く。自然と美紀は俺の左側を陣取って、そこに迷う素振りは一切感じられなくて、一瞬、遠い昔の記憶が蘇った。そんなちょっとしたことでいちいち目頭が熱くなる。だめだ、今日の俺はどうかしてるのかもしれない。
「かんぱーい!」
機嫌がよさそうに腕をいっぱいに伸ばしながらグラスを高々と上げて、美紀は飲み口に唇をつけた。白い気泡のついた上唇に見蕩れて、慌てて視線を落とす。目を逸らした先には、お通しの山盛りに盛られたキャベツが雑に置いてある。摘まんで口に運ぶと、芯の部分がシャリと音を立てて歯の間に引っかかった。
「そんでさ、昨日あった話。聞いてよ」
ただらなぬ雰囲気を醸す前置きをしてから、彼女は愚痴を話し始めた。俺は彼女の目をじっと見つめながら、その話に最適な相槌を探す。
『彼氏と喧嘩した。今から会えない?』
さっき美紀からそのメッセージが入ったとき、俺は手の震えをもう片方の手で押さえながら『会えるよ。最寄りに行けばいい?』と即返信した。彼女と別れてから、早いもので半年が経っていた。
半年前、あっけらかんと彼女から「好きな人できたから別れたい」と言われたとき、悲しみより先に俺はとんでもない女と付き合っていたんだな、という衝撃が先に来た。付き合っていた二年間は、そんなくだらない十三文字で終わってしまうのかと、途方に暮れた。
泣いて縋ろうかとも思ったが、自分以外の男を好いている女と付き合えるわけがないし、そもそも彼女に俺と付き合う気がない。離れた気持ちはもう如何ともできず、別れるしかなかった。そんな仕打ちをされても、彼女と過ごした時間と思い出だけは疑うことができなかった。
自分でもアホだと思うけれど、「好きな人ができたから別れたい」という女を、俺は今の今の今まで引きずり続けていた。
彼女のことを好きだという気持ちが今もなお生きているのかどうかは、よくわからない。でも、今まで一緒に時間を共にしてきた人が隣から急に消えるというのは、想像以上のダメージがあった。一週間に一度は夢にすら出てきて、起きるたびに夢だったことに絶望して、もう一回彼女との夢を見ようと二度寝を試みたりもした。
そんなタイミングで彼女からのLINEが届いて、それも飲みの誘いで、断れるわけがなかった。
都合よく使われているだけだ、というのは充分理解している。それでも、また彼女に会えるというのはこれ以上なく魅力的な提案に思えた。またヨリを戻せるのかもしれない、という下心も実際あった。
事実、今目の前に美紀がいて、彼女は昔みたいに話をして、俺は笑っている。昔と同じ空気が、ふたりの間を優しく流れている。
彼女は例の新しい彼氏とはうまくいっていないそうで、今度こそ別れるかもしれないと、元彼である俺に愚痴り続けている。
俺の毒を含んだ返しに、彼女は楽しそうに笑っている。付き合っていた頃と変わらず一杯目にはビールを選んで、二杯目からはレモンサワーを頼み続けている。お通しのキャベツには手をつけないから、俺が減らさないといけない。全て、付き合っていた頃と同じだ。
奇跡のような空間に、俺は夢を見ているんじゃないかとすら思う。このまま、離れたくない。元カレといるのがそんなに辛いなら、また俺と、付き合えばいいのに──
不意に彼女が言葉を止めて、スマホの画面を凝視した。俺は覗き込みたい衝動を必死に抑え込む。彼女はそういう束縛が嫌いなんだと、付き合ってた頃から話していた。
「……ほんとにごめん。今急に、彼氏から謝りたいってメッセージきた。先、帰る!」
彼女は申し訳なさそうに手のひらを擦り合わせてから千円札を何枚かテーブルに置き、全ての荷物をまとめて、席を立った。
とっさのことに何の言葉も出せず、その後ろ姿を眺める。彼女の香水の柔らかい匂いだけが微かに香った。今まで嗅いだことのない匂いだった。
テーブルには手のつけられていないお通しのキャベツがだらしなく残されていて、俺みたいだな、となんとなく思う。
必要がないのに呼ばれるだけ呼ばれる、都合のいい存在。ないよりはあった方がいいけど、決して一番にはなれない。最後は残されるだけ。
箸でつまんで放り込むと、口の中にごま油の風味が広がった。
ふとスマホを見たら、LINEの通知に、美紀からのメッセージが届いていた。今日はごめんね、また埋め合わせするから!
既読をつけずにブロックしようか迷って、するべきだとわかっているのに、結局親指は動かない。
俺はたぶんまた彼女から会いたいと連絡が来れば、しっぽを振って会いに行く。そんな気がする。そうしてしまう気がする。だから、ブロックはできない。
会えただけで嬉しいと思えてしまうのは、俺がおかしいんだろうか。
俺は未だに、彼女の写真が消せない。
駅中にあるファミマの前で美紀は手を大きく振って俺を招いた。にやけてしまいそうになる頬をなんとか内側に押し込みながら、彼女の隣に立つ。
「着くの遅いー。てかお店どうする? いつも行ってたとこでいい?」
スマホを弄りながらこちらを一瞥もせずに言って、俺はとりあえず頷きで返す。彼女の横顔は鼻筋が綺麗に通っていて、羨ましいな、と思う。
美紀の住むこの街は居酒屋がやたらと多い。サラリーマンの数に対して釣り合っていないとすら思う。チェーン店が乱立する駅前に、抜ければ個人店が連なる飲み屋の商店街もあって、「その日の気分で選べるの強くない?」と、彼女はよく自慢げに話した。事実そうだったし、自分のことでもないのに自慢げに口角を上げる彼女の癖は、正直嫌いじゃなかった。
商店街を、付かず離れずの絶妙な距離で歩く。自然と美紀は俺の左側を陣取って、そこに迷う素振りは一切感じられなくて、一瞬、遠い昔の記憶が蘇った。そんなちょっとしたことでいちいち目頭が熱くなる。だめだ、今日の俺はどうかしてるのかもしれない。
「かんぱーい!」
機嫌がよさそうに腕をいっぱいに伸ばしながらグラスを高々と上げて、美紀は飲み口に唇をつけた。白い気泡のついた上唇に見蕩れて、慌てて視線を落とす。目を逸らした先には、お通しの山盛りに盛られたキャベツが雑に置いてある。摘まんで口に運ぶと、芯の部分がシャリと音を立てて歯の間に引っかかった。
「そんでさ、昨日あった話。聞いてよ」
ただらなぬ雰囲気を醸す前置きをしてから、彼女は愚痴を話し始めた。俺は彼女の目をじっと見つめながら、その話に最適な相槌を探す。
『彼氏と喧嘩した。今から会えない?』
さっき美紀からそのメッセージが入ったとき、俺は手の震えをもう片方の手で押さえながら『会えるよ。最寄りに行けばいい?』と即返信した。彼女と別れてから、早いもので半年が経っていた。
半年前、あっけらかんと彼女から「好きな人できたから別れたい」と言われたとき、悲しみより先に俺はとんでもない女と付き合っていたんだな、という衝撃が先に来た。付き合っていた二年間は、そんなくだらない十三文字で終わってしまうのかと、途方に暮れた。
泣いて縋ろうかとも思ったが、自分以外の男を好いている女と付き合えるわけがないし、そもそも彼女に俺と付き合う気がない。離れた気持ちはもう如何ともできず、別れるしかなかった。そんな仕打ちをされても、彼女と過ごした時間と思い出だけは疑うことができなかった。
自分でもアホだと思うけれど、「好きな人ができたから別れたい」という女を、俺は今の今の今まで引きずり続けていた。
彼女のことを好きだという気持ちが今もなお生きているのかどうかは、よくわからない。でも、今まで一緒に時間を共にしてきた人が隣から急に消えるというのは、想像以上のダメージがあった。一週間に一度は夢にすら出てきて、起きるたびに夢だったことに絶望して、もう一回彼女との夢を見ようと二度寝を試みたりもした。
そんなタイミングで彼女からのLINEが届いて、それも飲みの誘いで、断れるわけがなかった。
都合よく使われているだけだ、というのは充分理解している。それでも、また彼女に会えるというのはこれ以上なく魅力的な提案に思えた。またヨリを戻せるのかもしれない、という下心も実際あった。
事実、今目の前に美紀がいて、彼女は昔みたいに話をして、俺は笑っている。昔と同じ空気が、ふたりの間を優しく流れている。
彼女は例の新しい彼氏とはうまくいっていないそうで、今度こそ別れるかもしれないと、元彼である俺に愚痴り続けている。
俺の毒を含んだ返しに、彼女は楽しそうに笑っている。付き合っていた頃と変わらず一杯目にはビールを選んで、二杯目からはレモンサワーを頼み続けている。お通しのキャベツには手をつけないから、俺が減らさないといけない。全て、付き合っていた頃と同じだ。
奇跡のような空間に、俺は夢を見ているんじゃないかとすら思う。このまま、離れたくない。元カレといるのがそんなに辛いなら、また俺と、付き合えばいいのに──
不意に彼女が言葉を止めて、スマホの画面を凝視した。俺は覗き込みたい衝動を必死に抑え込む。彼女はそういう束縛が嫌いなんだと、付き合ってた頃から話していた。
「……ほんとにごめん。今急に、彼氏から謝りたいってメッセージきた。先、帰る!」
彼女は申し訳なさそうに手のひらを擦り合わせてから千円札を何枚かテーブルに置き、全ての荷物をまとめて、席を立った。
とっさのことに何の言葉も出せず、その後ろ姿を眺める。彼女の香水の柔らかい匂いだけが微かに香った。今まで嗅いだことのない匂いだった。
テーブルには手のつけられていないお通しのキャベツがだらしなく残されていて、俺みたいだな、となんとなく思う。
必要がないのに呼ばれるだけ呼ばれる、都合のいい存在。ないよりはあった方がいいけど、決して一番にはなれない。最後は残されるだけ。
箸でつまんで放り込むと、口の中にごま油の風味が広がった。
ふとスマホを見たら、LINEの通知に、美紀からのメッセージが届いていた。今日はごめんね、また埋め合わせするから!
既読をつけずにブロックしようか迷って、するべきだとわかっているのに、結局親指は動かない。
俺はたぶんまた彼女から会いたいと連絡が来れば、しっぽを振って会いに行く。そんな気がする。そうしてしまう気がする。だから、ブロックはできない。
会えただけで嬉しいと思えてしまうのは、俺がおかしいんだろうか。
俺は未だに、彼女の写真が消せない。