セフレ、と世間で呼ばれるであろう存在の人が、当時の僕にはいた。
 
 最初から、そういう人に言えない関係だったわけじゃなかった。もともとは高校の同級生。同じクラスの奴から「お前らほんと仲良いよな」「付き合ってんのかよ」ってイジられるくらいには仲がよくて、ときにはからかいに近い表現をされることもあったけど、そんなのも笑って流せた。
 
 だって、誓ってふたりの間には色恋沙汰なんてなくて、ただ誰よりも気の許せる友人だったから。

 その仲のよさは高校を卒業しても続いた。大学に入っても、月に一度はふたりでサシで飲みに行くくらいには。
 
 「お前もう顔赤くなってるじゃん」「私は顔に出るだけ。あんたよりは強いから」「口だけは昔から達者なんだよな」そんな軽口を、何度も酒で流し込んできた。今思い出しても、彼女と飲む酒はとびきりうまかったように思う。

 彼女とのサシ飲み会。定期的に行われる飲み会。その飲み会のうちの一回、たった一回だけど、雰囲気に流されて彼女とワンナイトをしてしまったことがあった。
 
 泥酔してたから、と酒のせいにしてしまえば簡単だったけど、まあお互いに満更でもなかったというのが結論になるんだと思う。
 
 色恋まではいたらないけど、お互いに拒むほどじゃない。そういう雰囲気になって身体を止められるほどの理性が当時の自分たちにはなくて、彼女もそこまで嫌じゃなかった。ただそれだけのこと。

 おそらく普通の男女ならそのままなんとなくわだかまりができるんだろう。あんなにも仲がよかったのに、気付けば距離ができて、会わなくなって、疎遠になって。なんてことには僕たちはならなかった。
 
 なんせ、高校から続くなんでも話せる貴重な友達なわけで。一回のセックスで疎遠になるだなんてお互いに望んでいたことじゃないだろうし、少なくとも僕はそうだった。
 
 ワンナイトする前の関係に完璧に戻るのは無理でも、せめてルールを作ってこれからも会うのはどう? なんて、行為後のベッドの上であぐらをかいて話し合った。
 
 なんて色気のないピロートークだろう、と思った。それはそれで修学旅行の夜みたいで、これから過ごす彼女との時間に内心ワクワクが止まらなかったのを覚えている。

 まず、ルールのひとつ目は、お互いに恋人ができたらこの曖昧(あいまい)な関係はやめることだった。
 
 彼女いわく、「恋人がいるのにセフレ作るような奴が一番嫌い」とのことで、まあ、彼女ならそう言うだろうなと疑問は持たなかった。
 
 彼女は高校の頃から曲がったことが嫌いで、浮気された友達の相談に乗るような、自分のことのように怒ってくれるような、優しくて、それでいて芯の強い子だった。

 そして、ルールのふたつ目が、お互いに好意を持たないこと、だった。
 
 「好きになったら、これまでみたいに気軽に話せる関係じゃなくなっちゃうでしょ」
 
 おお、確かに。彼女の提案に妙に納得がいった。
 
 もし僕が彼女のことを好きになったら、かなり気まずい感じになるだろう。それこそ、高校の頃のような心地よい空気感は消えてしまうに違いない。
 
 枕の上で頬杖をつきながら「私のこと好きにならないでよ?」とおどける彼女に、僕は「努力するよ」とだけ答えた。彼女の横顔は、なんだかいつもよりも楽しそうに見えた。

 身体ワンナイトの後、僕たちは今まで以上の回数で顔を合わせるようになった。
 
 そもそも、お互いに友達としてはかなり相性はよかったのだ。それに加えて身体の関係も持つようになり、そちらの相性もまた悪くないとなれば、自ずと一緒にいる時間が増えていくのは自然なことだった。

 「こういうことよくすんの?」なんとなく気になって、それとなく彼女に聞いたことがあった。こういうこと、というのはセックス、セフレ、ワンナイト、その辺りの曖昧な部分を漠然と聞いたつもりだった。
 
 「えー言わなきゃダメ? ……それは、アプリとかですることはあるけど」
 
 目を合わせずに、彼女はぽつりと呟いた。ふーん、そういうもんか、と気のない返事をしてから、彼女が他の男に抱かれる姿を想像してみた。
 
 高校の頃から知っている彼女の生真面目さ、快活さ。その印象からはどうにも彼女が俺以外に身体を許すのが想像できなくて、異様に胃の奥が脈打つ感じがして、それ以上は考えるのをやめた。
 
 彼女の他の男の存在について考える以外、彼女と一緒に過ごすことは、これ以上ないくらい居心地がよくて、ほっとできた。

 暇<というか、文系の学生なんて講義以外やることがない>な日は、びっくりするくらい常に一緒にいた。他人とこんなにそばにいても不快じゃないんだ、というのは自分にとって新しい発見だった。

 朝はバターのいい匂いで目が覚める。強めの茶色に焼けたトーストを大きく口に頬張りながら、なんとなく点けたテレビにはNetflixにおすすめされた映画が自動で流れる。いつも見てるからか、時間には見合わないホラーばかりがおすすめされる。
 
 食べ終われば皿も片付けずにそのままベッドに再度ダイブして、流し見していた映画を見終われば、どちらからともなく身体へ触れる。
 
 行為が終わり、ふと眠気に襲われてどちらともなく昼寝をしたら、カーテンの隙間から優しい夕日が差し込んでいる。ごそごそと、彼女が台所の戸棚の奥に眠っていたたこ焼き器を取り出してくる。よし来た、と近くのスーパー大関(おおぜき)で具材を調達する。刻み海苔を買うかどうかで軽く()める。結局買ってから帰路につき、何でもない日に唐突にたこやきパーティが始まる。当たり前のように冷蔵庫からストロング缶を取り出して、打ちつけ合う。
 
 いい感じに酔えば、ふたりで最近あったどうでもいい話を消費する。この前ゼミで初めて飲み会あったんだけど、びっくりするほど面白くなかったんだよね。そりゃまたどうして? だってさ、初対面で面白くもない下ネタ身内ネタ言ってくるんだよ、普通になくない? あーそういう男いるよな、そういう奴に限って童貞なんだよな。そう、ほんとにそんな感じだった、でもあんたも最近まで童貞だったじゃん。それは言わないお約束だろ。
 
 ――そしてまたセックス。ただそれだけ。それだけだけど、一緒にいることをお互いに疑うことはなく、日々もまた過ぎた。

 これって彼女じゃん、と思った。きっかけはないけど、何をしていても楽しくて、一緒にいて安心できて、何でも愚痴でも話せて、逆になんで付き合ってないんだろう、僕たちは。今の関係の方が、不純じゃないか。
 
 高校の友達に、当時からかわれた言葉を思い出す。そうだ、「お前ら付き合ってんのかよ」。たしかにそう言われたんだ。そう言われるくらい、あの頃から僕達は仲がよかった。今になっては、あのからかいの言葉さえ誇りにすら思えた。
 
 僕と彼女なら付き合ってもうまくいく。恋人という特別な関係になっても今までと変わらないでいられる。そんな自信があった。
 
 問題はもう、いつ彼女にこの気持ちを伝えるか。ただそれだけだった。

 結論から話すと、彼女に振られることはなかった。
 
 ただ、僕の気持ちが彼女に伝わることも、なかった。

 カーテン越しに雪が降ってるのがわかるくらい、シンと静まる朝だった。僕の両腕にすっぽりと収まりながら、顔を背けて、彼女は口を開く。

 「あのさ、私恋人ができたから」

 嫌なくらいに静まり返った朝、時間が止まったような気がした。
 
 止まった時間を無理やり動かすかのように、だからもうこれからは会えない、ずっと伝えられなくてごめん、そう彼女は言葉を続けた。いつも話すときは顔を覗き込んでくるくらいなのに、目を全く合わせてくれなかった。そのくせ、僕の腕の中から出ようとはしなかった。
 
 まるで最後の時間を慈しむように、三十分か、いやもっと長い時間だったかもしれない、僕たちはベッドの上で過ごした。
 
 頭の中はぐちゃぐちゃで、別れ際、何を話したのか、何を伝えたのかはよく覚えていない。少なくとも、好きだとは伝えられていない。

 それから、彼女とは距離を置いた。ルールのひとつ目は、「どちらかに恋人ができたら別れる」だったから、あの日した約束の通りに、僕たちは離れた。
 
 彼女に、いい感じの人がいるだなんてまったくわからなかった。マッチングアプリをしていても、一番仲がよくて、彼女の隣にいるべきなのは、自分だと思っていた。これだけ一緒にいて、高校の頃から一番の仲だなんて自負しておきながら、その存在に気付くことさえできなかった。
 
 僕とセックスをしながら、腕に抱かれながら、唇を重ねながら、髪を撫でられながら、ずっと想ってきた人が別にいたのだろうか。
 
 君はそんな人だっただろうか。好きな人がいながら、他の男に抱かれるような人だっただろうか。「恋人ができた」と言いながら、他の男の両腕に包まれるような人だったんだろうか。

 その後すぐに嵐のような就活の時期が来て、忙しさと共に君との時間も(いろ)()せて、それぞれまた新しい人間関係ができて、気付けば物理的にも会えない距離に君が就職してしまったと、風の(うわさ)で聞いた。
 
 彼女は元気にしているだろうか。例の彼氏とうまくやっているのだろうか。
 
 あの(ただ)れたようでいて何よりも澄んでいた時間は、紛れもなく僕の青春だった。

 願わくばまたいつかどこかで会えたら、仲のいい同級生でもなくて、親友なんかじゃなくて、セフレなんかでもなくて、君の恋人に、僕はなりたい。