「以上が、私が知る彼女についての全てだ。その後、まもなくして彼女は息を引き取った。親族でも何でもない、赤の他である私は、彼女の葬儀がいつ行われたのかも、彼女がどこの墓に入っているのかも知らない。結局、私は彼女に何も伝えることはできなかった。奇跡は……起こらなかったよ」

 しばらくの間、僕は言葉を発することができなかった。
 既に終わってしまったこと。変えられない過去に対し、何を言えばいいのか。
 だが、彼女の悲しそうな顔がフラッシュバックし、僕は勇気を振り絞って問いかけた。

「完成、させないの?」
 
 その言葉に、祖父は苦笑して言った。

「私自身が、塞ぎこんでしまったのだ。物語を台無しにする愚行だ。そして、傷も癒えないまま、お見合いで会ったばあさんと結婚した。勘違いしないでほしいのは、ばあさんは本当に私によくしてくれた。塞ぎこんでいる私を支えてくれたのだ。そんなばあさんを、私も大切に想っていた。……実は、一度、書こうとはしたんだ。だが、書くのが怖かった。彼女の死に、目を背けてきた現実に、もう一度正面から向き合う勇気は、私には無かった。だから、諦めて、そのまま本にしたんだ」
「でも、未練があるから、最後に白紙のページを残した。違う?」

 僕の言葉に、祖父は沈黙する。

「じいちゃんが書かないのなら、僕が代わりに書くよ」
「幸成が?」

 祖父は驚いた表情を見せた。

 この話は、何としても完成させなくてはいけない。

「その代わりその時の心境を、正確に教えてほしい」
「なんで……どうして、今になってそんな……」

 僕は、戸惑う祖父に向かって、はっきりと告げた。

「待っている人が、いるんだよ」



 それから、僕は祖父の元に通い続けた。体調が良い日に、短時間でも祖父の話を聞いた。

「どうだ、幸成。酷い話になってしまっただろう」
 
 最後の一文を書き終えた直後。
 弱弱しい声で言う祖父に、僕は毅然とした態度で言った。

「それを決めるのは、じいちゃんじゃないよ」

 その言葉に、祖父は顔をあげた。

「……なぁ、今から言うことは、ボケた老人の戯言だと思って聞いてもらいたいんだが……。もし、もしも、その待っている人とやらに、幸成がもう一度会うことができたなら……一言、伝えてくれないか」
「分かった。何を伝える?」
 
 縋るような、今にも泣き出しそうな、そんな表情で、祖父は口を開いた。



 その日、河川敷に行くと、彼女は立ったまま、川を見つめていた。

「ナツさん」

 僕が声をかけると、彼女は振り向いて笑顔で言った。

「暫く来てくれなかったから、もう私のことなんて忘れちゃったのかと思いましたよ」
「忘れたりなんてしませんよ。それより、見せたいものがあります」

 僕はそう言って彼女の本を差し出した。

「手書きで恐縮ですけど、祖父の言葉を元に、僕が書きました」

 彼女が死ぬ結末。それは変えられない。そしてそのあとは、彼女の視点では書くことはできない。だから、僕がしたのは、視点を変えることだった。

「祖父の視点で、物語の最後を書きました」


 本に触れられない彼女の代わりに、僕は本を開いて彼女に見せ、書いた文章を読み上げ始めた。
 
 本は、祖父の言葉を脚色せず、そのまま用いた。



 最後まで読み上げたところで。

 彼女の目から、涙がすーっと流れ落ちた。

 ああ、そうか。
 何のことは無い。彼女は、話を完成させられなかったことを未練に想っていたわけではなかったのだ。

 彼女にとっての奇跡は、病気が治ることだけではなかった。

 彼女はただ、祖父の想いを知りたかった。祖父が自分のことをどう思っているのか。知りたいのは、たったそれだけのことだったのだ。
 
 その時、彼女の身体が光り始めた。僕は、残された時間がわずかであることを直感する。

「祖父から、言伝を預かってます」
「……え?」
「『遅くなって、ごめん』」

 その言葉を告げると、彼女は涙でぐちゃぐちゃな顔で、にこっと笑った。
 そして、彼女の身体が光に包まれて消える最中、微かに聞こえた。

「……ありがとう」

 そう、これは。

 作者に送る。

 五十年越しの、ラヴレター。