私が蓬莱夏美という女性に出会った日。
 
 その日も、私はいつものように動悸とともに目を覚ました。カーテンの隙間から光が差し込んでいる。時計を見る前から、日がとっくに昇ってしまっていることが分かった。

 浪人した末に、受験に失敗。親の期待に、応えることができなかった私は、未来に何の希望も見出すことができず、安直に死を考えていた。
 
 私はよく家の近くにある河川敷に寄っていた。
 勉強を止めてから、空いた時間をよくこの場所で過ごしていた。主に本を読んでいることが多かったが、昼寝をしたり、ただぼーっと川を眺めていたりと、過ごし方はその日によって様々だった。

 そんなことをしていたら、目につきそうなものだが、この場所は幸い人が来ない。
 何をしていても、人の目を気にする必要が無い、自由な場所。それでいて、閉塞感に襲われる自分の部屋とは違い、開放的な空間。
 ここはまさに、私にとっての聖域だった。

 そして、この川の底は深く、流れは速い。
 
 もう、終わりにしてしまおうか。簡単だ。そこから一歩を踏み出すだけで、私は全てを終わらせることができる。今まで、何度か足を踏み出しかけたが、しかし、結局覚悟を決めることができず、飛び込むことができなかった。今日は、不思議と飛べる気がしていた。

 だが、そこには先客がいた。髪の長い女の子が立っているのが見えた。

「……あんた、そんなところで、何をしているんだ」

 私が思わず声をかけると、その子がこちらを振り返った。

 月明かりに照らされた、その顔を見た瞬間、私は心臓が止まりそうになった。

 はっきりとした顔立ち。それでいて、どこか儚く、驚くほど美しい女性だった。
 
「川を見ているだけですよ。いけませんか?」

 彼女は、特に動揺した様子もなく、私にそう問いかける。

「いや……」
 
 私も日頃やっていることだし、そう言われてしまうと何も言い返せない。本当に聞きたいのは、飛び込もうとしているのではないかということだが。

「でも、確かにそろそろ帰ろうかと思っていたところです」

 そう言って、彼女は石段を登ってきた。そして、すれ違いざまに、彼女は、そこから見える小さな建物を指差して言った。

「良かったら、明日もここに来てくれませんか? お願いしたいことがあるんです」
 
 彼女は踵を返し、去っていった。
 
 それが、彼女との出会いだった。

 その日、どうやって家に帰ったのか、よく覚えていない。気づいたら自宅のベッドで横になっていた。
 身投げする気力は、失われてしまっていた。



 次の日、昨日の場所に行ってみると、彼女は本当に座っていた。

「約束通り、来たぞ」

 彼女はこちらを見て、「来てくれたんですね」と嬉しそうな顔で言った。

「改めまして。私の名前は、蓬莱夏美と言います」
「私は、朝霧修二郎という。……それで、お願いしたいことっていうのは?」
「バイト、しませんか?」

 突然そんな言いだした彼女に、私は困惑していた。

「気が向いたときで構いません。本を読み聞かせてほしいんです」

 彼女は、そう言って一冊の本を差し出した。

「これ以外にもあります。全て、私が書いた本です。私が死ぬまでの間で構いませんので、読んでくれませんか」
 
 その言葉に、私は、驚いて彼女の顔を見る。

「死ぬ?」
「ええ。病気で、余命半年なんです」

 彼女は頷いて、あっさりとそう言った。
 やめておけ。これ以上、彼女に関わらない方がいい。そんな声が、脳裏をかける。

「一つ、聞いてもいいか」
「どうぞ」
「自分があと少しで死ぬのに、どうして自分が書いた本を読み返そうと思うんだ?」

 私の質問に、彼女は得意げな笑みを浮かべて答えた。

「過去を振り返りたいのです。私みたいな人間は、自分の過去をひっくり返して、あーでもない、こーでもないって考えるのが、まあ趣味みたいなもんなんですよ」
「君の過去は、楽しい思い出ばかりだったのか」

 彼女は、首を横に振った。

「いえ。全体的には、これっぽっちもいい人生ではなかったです。惨めでちっぽけな、取るに足らない人生でした」
「では、なぜ?」
「嫌な思い出でも、結局それが私の人生なんですよ。あなたは気持ち悪いと思うかもしれないけれど、あの時こうしていれば、なんてありもしなかった人生について考えたりしたいのです」
「よくわからないな。嫌なことは、思い出したくないものだと思うけど」
「そういう奇特な人間もいるってことですよ」

 面倒でしかない。そう思った。
 でも、どうしてか、私は彼女の要求を断ることができなかった。

「分かった。引き受けるよ」
「本当ですか!」
「毎日来られるわけじゃないけれど、できるだけ空いている日は顔を出すようにする」
「ありがとうございます。じゃあ、さっそく……」

 それから、彼女に読み聞かせをする日々が始まった。



 日が経つにつれて、私は彼女のことを知っていった。
 小説は、中学生の時から書き始めたこと。今は、大学生で、文学研究会に所属していること。いつかプロの小説家になって、本を出したいと思っていること。

 彼女は、私が本を読み終えると、いつも満足そうに微笑んだ。それを見て、私も内心嬉しくなった。
 誰かのために何かをして、相手が喜んでくれるということ自体が、本当に久しぶりのことだった。小さなことだが、私の胸にじんわりと温かいものが広がっていくのが分かった。
 

 また、読み聞かせをしていると、彼女の本の内容が自然と頭に入ってきた。
 正直に言って、なんだか、都合のいい話ばかりだと感じた。たまたまとか偶然とか、そういうものが前提の話が多かった。

 一度、彼女にそれを指摘してみたことがある。
 すると、彼女は言った。

「それは運命って言うんですよ。初めからそうなるって決まってたんです」
「でも、現実はそう上手くいくことの方が少ないだろ」
「だからいいんじゃないですか。せめてフィクションの世界くらい、夢見る権利はあるでしょう?」
 

 いつの間にか、サボりがちだった勉強に、手を付けるようになっていた。
 いつか彼女が復学すると信じて、彼女と同じ大学に通うことが、私の目標になった。
 先のある人間からそんな話を聞かされて、気を悪くすると思ったのだが、むしろ彼女は、私の話を聞きたがった。
 私がちゃんとこの世で生きていく道を歩くこと。投げやりにならないこと。
 先の残されていない彼女は、私がきちんと生きていくことを望んだ。
 彼女に悲しい顔をさせたくなかった。嘘をつきたくも無かった私は、真面目に勉学に取り組んだ。


 本当に、それだけの日々だった。劇的な何かが起こることは無く、私は読み聞かせを続けた。彼女は医者の宣告どおり、だんだんと衰弱していった。

 やがて彼女は外に出ることはできなくなり、いつしか読み聞かせをする場所は、河川敷から病室へと変わっていた。



 その本は、ほとんどのページが白紙だった。
「……死にたくない」

 見開きの二つのページを丸々使って、殴り書きされたその文字を読み上げた瞬間、彼女の顔が凍り付いた。
 次の瞬間、彼女は私の腕からその本を奪い取り、両腕で胸に抱え、顔を伏せた。

「……すみません。それは、別の本でした」

 窓の外が白く光り、次の瞬間、空気が震えるほどの轟音が、部屋の中に鳴り響く。
 暫く沈黙が流れた後、彼女は重い口を開いて言った。

「今日は、帰ってもらえませんか?」
「……この豪雨の中をか?」

 雨は強い風に吹かれ、まるでそれ以外の音をかき消すかのように、激しい音を立てて降りしきる。

「朝霧さん?」
 
 彼女の声で、私は現実に引き戻された。
 私は、無意識に彼女の右手を、左手で握っていた。

「……ごめん」

「どうして、泣いているんですか」

 そう言われて、自分の頬を触ると、涙が流れているのが分かった。
 私は、その涙の理由を知っていた。

「……怖かったんだ。余命宣告されている君が、常に前向きでいることが。たぶん私だったら、気分が落ち込んで耐えられないと思うから。逆に私の前で気丈に振舞っているのなら、そんな演技をさせていることを、申し訳なく思っていた。すごく遠い距離を感じていた。でも、ようやく君の真意に触れられたことに……私はほっとしたのだと思う」
 
 正直に。赤裸々に。私は彼女に言葉をぶつけた。

「ねえ、朝霧さん。どこか知らない町に行って、二人で暮らしましょうか」

 私は彼女の方を見る。彼女は微笑を浮かべながら、こちらを見つめていた。

「……あと数か月したら、君は死ぬんだろう? そんな君と一緒に行ったところで、私はその町に一人取り残されるだけじゃないか」
「私と出会う前のあなたは、そうやって一人で生きていたのではないですか。それとも、一人でいる事が、寂しいと思うようになってしまったのですか?」
「……二人分の家賃を払うのが、馬鹿らしいって話だよ」

「まあ、言ってみただけですよ。ごめんなさい、冗談です」

 彼女と一緒に、どこかの町で生きていくことを、想像する。
 
「手、冷たいですね」

 手がじんわりと温かく、気づくと、私の手を、彼女の手が包み込んでいた。

「冷え性だから。その代わり、心が、あったかいんだよ」

 自分の声が、思ったより掠れていたことが恥ずかしくて、私は咳払いをする。

「そうですね」

 彼女は微笑んで肯定する。
 脈の音は、きっと彼女まで伝わっている。でも、認めたくなかった私は、何も言わなかった。

「朝霧さん。私があの時河川敷にいたこと、偶然だと思いますか」

 天井を見つめる彼女の顔は、とても哀しそうだった。

「あなたのことを最初に見つけたのは、私だったんですよ。縋る相手を探していただけだった。普通の人は、日常に撲殺されて、河川敷をずっと眺めている余裕なんてないと思う。この人なら、私の相手をしてくれるかもしれないと思った。そして、あわよくば、私を物語の世界に連れて行ってくれるかもしれない。運命とか奇跡が通用する世界に」

「期待に沿えなくて、ごめん」

「いいんですよ。そんなの無理だから。だから、物語にしてみたんです。結局、完成させることはできなかったけれど」

 彼女は、私の方に向き直り、続けて言った。

「私が死んだら……この本の続き、書いてくれませんか」

 私は、慌てて拒否する。
 
「申し訳ないけど、それは無理だ。私に文才は無い。下手に手を出せば、作品自体を台無しにしてしまうだろう。それに……奇跡が起きなかった話なんて、君は好きじゃないだろ?」
「実は、そうでもないですよ。じゃあ、最後のお願いって言っても、駄目ですか?」
「……そういうこと、冗談でも言うなよ」
「台無しにするとか、そういうことじゃ、無いんですけどね。まぁ、無理にとは言わないけど。強要はできないですし。でも、一応、預けときますね」

 そう言って、彼女は私に本を押し付けた。
 本に、お金が挟まっている。

「製本は、サークルの誰かにお願いすれば、やってくれると思います 。お金は、そこに挟んであるものを使ってください。余った分がバイト代です。もし、あなたが続きを書かなかったなら……作者名は空欄のままにしてほしいです」
「……」
「しかし、やっぱり現実は、作り話みたいに上手くいかないなぁ」

 大丈夫だと、言ってあげたかった。
 でも、その言葉は何の気休めにもならないことを、私も彼女も嫌になるくらい、知り尽くしていた。