「ねえ、きみ。何読んでるの?」

 夏休み、ここは田舎の町にも関わらず、どこに行っても人の気配があった。
 人混みを避けた結果、自転車で町内を巡り辿り着いた人気のない河川敷で、不意に声をかけてきたのは見知らぬ女の人だった。

「うわ!?」
「あはは。驚かせてごめんね。あんまり熱中してるからさ、気になっちゃって。……それで、何読んでるの?」

 いつの間に隣に居たのだろう。誰も居ない穴場を見つけたと思い、人が近付いてきたことにも気付かぬ程つい集中してしまっていた。

「え、えっと……祖父の遺品を整理していて、出てきた日記を読んでたんです」

 僕は簡単に説明しながら、手書きの文字が連ねられたノートを示す。
 それにしても、随分と不思議な人だ。初対面なのにぐいぐいと来る人懐っこさもさることながら、僕も知らない人に話し掛けられて警戒すべきところを、彼女の懐っこい笑みを見ていると、つい答えてしまった。
 ここまで来ると、いっそ初めて会った気がしない。

 しかし昔から夏休みや正月くらいしか祖父の田舎に来る機会はなく、中学に上がってからは夏休みに来ることもなくなった。
 久しぶりに親族以外のこの町の人と接したが、田舎の人と言うのは総じてこんなに距離感が近いものなのだろうか。
 僕の手元を覗き込むように彼女は隣にしゃがみ込み、じっと視線を向けてくる。

「……それが、おじいさんの日記? 結構新しく見えるね」
「あー、はい……日の当たらない所に丁寧に保管されていて。……さすがに人様の日記を盗み見るのは、気がひけたんですよ。でも、祖父は日記なんてつけるタイプじゃなかったから、どうしても中身が気になって……」

 褒められた行動ではない自覚はあった。だから息抜きと称して抜け出して、こうして隠れて読んでいたのだ。

「そっかぁ、気持ちはわかるよ。私も同じように、おばあちゃんのアルバムとか見たことあるし。……それで、どんなことが書いてあったの?」

 彼女は咎めるでもなく、ただ興味のままに問いを重ねる。同じくらいかいっそ少し歳上に見えるのに、好奇心旺盛な子供のようだ。
 しかし同意を得られたことで、罪悪感が少し薄れるのを感じた。

「えっと……学生時代の日記みたいで、テストがどうだったとか、運動会のリレーがどうのとか、近所の犬に吠えられたとか……今の僕とあまり変わりのない、ありふれた日記です」
「きみも犬に吠えられるんだ」
「……そこはスルーしてください」

 そう。わざわざこんな所まで来てみたものの、これは重大な秘密のひとつもない、何の変哲もない日記だった。
 お菓子の空き缶に入れて本棚の本の奥にだなんて、あれだけ厳重に隠すように保管していたにも関わらず、何だか拍子抜けしてしまった。
 三分の一ほど読み進めたものの、無駄なものは捨ててしまいがちな祖父が、何故こんなものを残していたのかわからない。

「ふうん……学生時代……なら、好きな人のこととか書いてたりして?」
「えっ」

 彼女の言葉に、どきりとした。自分のことではないものの、女子と恋話をしているようで、思わず照れが滲む。

「なぁに、赤くなって。自分の好きな子の顔でも想像した?」
「ち、ちが……そんな子居ないですし!」
「そ? 照れることないのに」
「照れてない! です!」

 くすりと余裕の笑みを浮かべる彼女に何だか悔しくなり、僕は顔を隠すように俯き、少し古い紙の匂いがするページをぱらぱらと捲る。
 好きな人。もし祖父の日記に祖母の名前が載っていたら、何となく気恥ずかしい。身内のそういうのは極力知りたくないものだ。
 けれどふと、日記の中に女性の名前が出てきて、僕は手を止める。

「……ナギサ?」

 それは祖母の名前ではなかった。
 別に祖父母の馴れ初めを知りたいわけではなかったが、他の女性の名前が出てくるのも正直複雑だ。

 そこからの祖父の日記は、その『ナギサ』という少女についての記載が大半だった。

 それまでは数日ごとに思い出したように綴られていた日記が、ナギサが来てからというもの、毎日しっかりと記されている。

『七月二十五日。お隣の三上さん宅に、親戚のナギサという子が遊びに来ているらしい。歳が近いのだから仲良くするようにと言われたが、女子とどう接したら良いのかわからない。とりあえず家に招いたものの、特にやることはなく、たまに言葉を交わしながらお互い自由に過ごした。彼女はビー玉がお気に召したようだった』

『七月二十六日。ナギサは今日も遊びに来た。特段もてなしもしなかったから、てっきりもう来ないかと思った。だが、ナギサには友達も居ないのだろうから仕方ない。それにしたって玄関から来ればいいものを、背伸びをして窓から必死に部屋の中を覗き込もうとする姿を見つけた時には、驚きよりも笑ってしまった。窓辺に活きの良い麦わら帽子が生えてきたかと思った』

『七月二十七日。今日はナギサがお裾分けにとスイカを持ってきた。一緒に縁側で食べて、ナギサは種を飲み込んだと騒いでいた。腹から芽が出たらどうしようと泣くものだから、その時はまたスイカが食べられるだろうと言うと、すっかり納得したようだった。言っておいてそれで良いのか疑問だったが、マイペースなナギサらしい』

 あまり社交的ではなかった祖父が、このナギサという少女に対しては短期間で心を開いたのであろう様子がありありと浮かんだ。
 そこからナギサと祖父の日々の欠片は、当時の夏の温度を閉じ込めるように何ページにも渡って丁寧に記されていた。
 これが、この日記を大切に保管していた理由なのだろう。

「……おじいちゃんは、ナギサさんが好きだったのかな」
「そうかもね。こんなに毎日、ナギサさんのことばっかり。もはやおじいさんの日記っていうか、ナギサ観察日記?」
「そんな朝顔の観察みたいに……」
「あはは、あったねぇ、そんなやつ。懐かしい」

 思わずぽつりと呟いて、すぐ近くから返事があったことに内心驚いた。
 そういえば、先程から彼女が傍に居たのだ。集中するとつい周りが見えなくなるのは、僕の悪い癖だ。
 それにしたって、他人が傍に居てもここまで気にならないというのもどうなのか。

 決して存在感が希薄という訳ではない。寧ろ華やかな彼女は目立つ部類だ。都会の人混みの中でも人目を惹く存在だろう。

「……」

 いつの間にか太陽が傾いて、快適な日陰だった場所も日光に照らされ始めている。
 彼女の白いシャツが夏の日差しを受けて眩しい。けれど目を離すと、そのまま陽炎の中に幻のように消えてしまいそうだった。

 人懐っこくて、マイペースで、気付けば傍らに居る夏の香りを纏った少女。ふと、ノートの中で息づく少女と、目の前の彼女の姿が重なった。

「……もしかして、あなたがナギサ、さん……?」

 ナギサは祖父の日記の中に居る、もう何十年も前の人だ。有り得ないのに、ついそんな言葉が口をついた。
 目の前の彼女は一瞬目を丸くして、再びくすりと楽しげな笑みを浮かべる。

「……ううん。違うよ」
「で、ですよね……びっくりした」

 すぐに否定を返されて、安堵する。もし目の前に居るのがナギサの幽霊か何かだとしたら、怖いのも当然あるけれど、祖父の日記をそこに書かれた当人に見せるなんて目も当てられない。

「何となく雰囲気が似ている気がしたから、つい……」

 しかしふと、話に夢中で手の中で傾いていたノートの隙間から、一枚の紙が落ちてきた。

 風に飛ばされる前にと慌てて拾うと、それは古い写真だった。
 よく見ると、画質はあまりよくないものの、そこに映っているのは十代前半くらいに見える若かりし頃の祖父と、目の前の彼女に似た少女だった。

「これ、って……」
「あ、懐かしい写真。これうちの庭なんだよね」
「え……?」

 ここに映っているのはきっと、当時の祖父とナギサだ。
 写真を覗き込みながら告げられた言葉と、目の前の彼女より幼いながらあまりにもよく似た顔に困惑する。

「あの……あなたは、ナギサさんじゃないって……」
「うん。私は『ナギサ』じゃないけど、半分くらいは正解」
「半分……? って、どういう……?」

 彼女の答えを待つ間、思わずごくりと喉が鳴った。
 あれだけうるさかった河川敷の虫の声も、高架下の風の音も、遠くの喧騒も聞こえないくらいの一瞬の重たい静寂の後、彼女は僕の緊張を笑い飛ばす。

「ふふっ、私『三上汀』の孫の『渉里灯』っていうの」
「……えっ」
「ね、文字の半分くらい同じでしょ。三とさんずいの辺りとか……上と渉の止部分も惜しいし、名前は右側の丁とか……」
「え、は……!? いや、漢字はあれだけど……孫!? あなたが、ナギサさんの!?」
「そう。だから、同じ写真うちにもあってね。懐かしいなーって」

 何でもないことのように笑う彼女は、嘘をついているようには見えない。
 しかし、そんな偶然あるのだろうか。いっそ日記に引き寄せられて幽霊が出てきたと言われた方が納得できるタイミングとその正体に、僕は困惑する。

「……私はね、この町に住んでるの。夏休みに遊びに来たナギサおばあちゃんと、ここに住んでたきみのおじいさん……ふふ、私たちと立場が逆だね」
「え、っと……」

 そんな出来すぎた状況に、暑さに茹だった頭が追い付かない。
 それでも、次がれた言葉にすべて納得した。

「実はさ、きみのお母さんに頼まれたんだよね。『波音が片付け放っぽり出して家の自転車乗ってどっか行っちゃったから、灯ちゃん探してきてくれない?』って」
「げっ……。というか、うちの母と知り合いなんですね……?」
「そうだよ。寧ろ……きみとも昔、遊んだことあるんだけどな? 『なっちゃん』?」
「えっ」

 それは、僕の小さい頃のあだ名だ。驚く僕に対して、彼女は悪戯な笑みを浮かべながら、手元のノートを指差す。

「それこそ、夏休みのナギサたちみたいに……」

 そう言われて、幼い頃の記憶が少し甦った。
 小学生の頃か、もっと前。夏休みに遊びに来た祖父の家は退屈で、近所のお姉さんによく遊んで貰った。
 もうほとんど顔も覚えていない、遠く淡い初恋の記憶。

「あ……」
「思い出した?」
「……まじか……」

 初恋の彼女が目の前に居る現実。偶然にしては出来すぎた、運命の悪戯とでも言える再会。様々な出来事に、情緒が追い付かない。

 こうなると、もしかすると僕の昔の日記も祖父の家のどこかに隠してあるかもしれないと思い当たり、母にそれが見つかる前にと、僕は慌てて祖父の家へと戻ることにする。

「あ、そろそろ帰る?……昔みたく手でも繋ごっか?」
「繋ぎません!」
「あー、自転車あるもんねぇ。片手は難しいか」
「そういうことじゃなく……」

 人懐っこくて、マイペースな彼女。ナギサと居た祖父も、こんな気持ちだったのだろうか。

「ねえねえ、夏休みはまだあるよね。明日は一緒に、スイカ食べよっか」
「……種は飲み込まないように気を付けてくださいね……灯さん」
「ふふ、芽が生えたら大変だもんね」

 自転車を押しながら彼女と並んで歩く、夏の田舎道。暑い日差しも、揺らめく陽炎も、深い空の色も、やけに鮮やかに見える。

 祖父の日記の続きは、鞄に詰め込み読むのをやめた。結局、祖父とナギサは結ばれることはなかったのだ。その結果、僕と彼女がここに居る。

 いくら出来すぎた偶然でも、同じ運命を辿ってしまわないように。
 再び訪れた初恋の君との夏の温度を確かめるように、僕は隣を歩く彼女の手を、そっと握った。

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