惜しむらくは、淡雪のごとく

「……名前」

「ん?」

「君の名前は何? 俺は東雲晨」

「ああ。私は、麻生(あそう)真白(ましろ)。十八歳!」

「……着いてきて。仕方がないから、俺の家に行こう」

 真白は大きな目をぱちくりさせると、満面の笑みを浮かべた。

 その瞬間、雑踏の音が止み、真白の世界に引きずり込まれた気がした。

「わぁい! 晨が私を殺してくれるんだ!」

 真白の大きな声に、晨は慌てて口を塞ぐ。

 周囲を見回したが、幸い真白の言葉を聞いた人はいないようだ。

「人聞きが悪いことを言わないでくれる⁉ 通報でもされたら、どうするんだよ!」

 晨は怒っているのに、真白は楽しそうに笑い、口を塞いでいる手に触れた。

 自分がしていることに気付き、晨は急いで手を離す。

「晨の手、綺麗だね!」

「俺、年上! 呼び捨てにしないでよ!」

「晨は晨だもん。もう決まったから、これは変えられません!」

 クスクスと笑う真白の様子に、晨は頭を抱えた。

 年下の真白に敵わない気がする。

 そんなことを予感しながらも、晨はご機嫌の真白を連れ、帰路に就いた。

「へぇ。結構、綺麗にしてるんだ」

 リビングのラグの上に足を伸ばして座る真白が、物珍しそうに部屋を見回す。

「普通だよ。一人暮らしだから、物が少ないだけ。このリビングとダイニングキッチン、向こうに一部屋あるだけの狭い家だけど、いい?」

「いいって?」

「だから、少しの間だけなら、ここに居ていいから。この家で我慢できるかってこと」

「えっ、いいの?」

 その瞬間の真白の表情に、晨の心は持っていかれた。

 パッと何かが弾けるような、でも、どことなく不安げな、とても複雑そうな表情。

 そもそも『殺してくれ』と言って回る時点で、複雑な事情があるのかもしれない。

 どこまで本気かはわからないが、連れてきてしまった以上、何も聞かないわけにはいかないだろう。

 晨は、揺れる視線で見つめてくる真白の向かいに座った。

「あのまま放っておいたら、また危ないことをするよね?」

 晨をジッと見ていた真白の視線が、わかりやすく泳ぐ。

「放っておいてもいいのに……」

「どうして、あんなことをしてたの?」

 真白は長い髪を指で遊ばせ、わざとらしく何かを歌い出す。

 誤魔化すのは下手らしい。

「俺は真面目に聞いてるんだけど」

「内緒! この話は終わり! それ以上聞くなら、私は出て行く」

 本当に面倒だ。面倒でしかない。

 それなのに、晨には深く追求する勇気がなかった。

 真白の荷物はほとんどなかった。

 着替えが数着と古くなった財布と通帳。

 駅のコインロッカーに入れてあった鞄には最低限、いや、最低限にも及ばないようなものしか入っていなかった。

 そこから、真白の状況は思ったよりも深刻な印象を受けた。

「わかったよ……とにかく、住むところと仕事が見つかるまでだから。その二つを真面目に探すこと。約束できる?」

 晨の言葉を聞いた真白から、スッと表情が抜けた。

 無言で、何を考えているのかわからない様子に、晨は狼狽(うろた)えた。

 失言だったのか。それとも、嫌な思いをさせたのか。

 よく考えたら、女の子が男の部屋に住むのは抵抗があるかもしれない。

 とにかく、何か言わなくては。晨の中で、様々な考えが交錯する。

 長く人を遠ざけてきたせいで、関わり方を忘れてしまった。

「あの、ごめ――」

「どうせ、捨てるくせに」

「え?」

 小声だったせいではっきりと聞き取れなかった言葉は、聞き逃してはいけない気がした。

 漠然とした不安を抱いた晨だったが、すぐに真白の声が晨の不明瞭な思考をかき消してしまった。

「よろしくね、晨!」

 真白の表情が明るくなり、声も元気なものへ戻ったことで、晨は聞きたいことを呑みこまされてしまった。

 晨は自分の気持ちを切り替えるように、ふわふわした髪を耳にかけ、大きく息を吐いた。

「じゃあ、家の中を説明して、簡単なルールを決めよう」

「うん! ルールその一、真白のことは真白と呼ぶこと」

「いきなり無意味なルールが出てきた」

「え、大事だよ? 一緒に暮らすのに『麻生さん』って呼ばれるのは疲れる」

「……わかった」

「その二、真白を殺して!」

 晨の身体から力が抜ける。

 幸い、座っていたお蔭で崩れ落ちることはなかったが、立っていたら危なかったかもしれない。

「絶対に殺さないから」

「絶対、殺されるようにがんばる!」

「……がんばるところ、違うよね?」

 晨の言葉に、真白は楽しそうに笑う。

 屈託のない笑顔には悩みの欠片も見つけられない。

 晨が口を開きかけた瞬間、真白が勢いよく立ち上がって、スタスタと迷いなく歩き、仕事部屋兼寝室のドアを開けた。

 確かに部屋は一つしかないから、迷いようはないけれど、他人の家に初めて来て取る行動としては、突拍子もない。

「ここが、二人の愛の巣!」

「違うでしょう⁉」

 晨は慌てて駆け寄り、ドアを閉めた。

 とんでもないことばかり言う真白には、確実に手を焼く。

 振り回される毎日を想像して、静かな日常が壊れる音がした。






「晨! 起きて!」

 真白の元気な声とともに、朝陽を遮っていたグレイの遮光カーテンが開かれた。

 窓から射し込むのは、陽気な春を思わせる暖かな陽射し。

 真っ暗だったリビングに小花が舞うように、真白は楽しそうに晨が包まっている布団をリズミカルに叩く。

「起・き・て! あーきー!」

 ぽんぽんぽん。タタタンタン。

 真白は晨が起きるまで、ずっとこれを繰り返す。それも毎朝だ。

 今は真白が寝室のベッドを使い、晨がリビングのソファーで寝ている。

 しかし、寝室は仕事場でもあるため、夜の間ずっと絵を描いていることも多い現状は、真白の睡眠には適していない。

 この問題を解決すべく、二人は今日、布団を買いに行くことにした。

「晨ってば!」

「もう、わかったって!」

 晨は布団を跳ね上げ、顔を出した。

 晨のしかめっ面を見て、真白は満足そうに笑う。

「こっちは遅くまで仕事していたんだから、もう少し寝かせてくれても――」

「お買い物、早く行きたいんだもん!」

「別に慌てなくても、店は逃げな、あっ、ちょっと……危ないなぁ」

 真白は晨の言葉を無視して、その両手を掴むと、強く引っ張った。

 そのせいで、体重の軽い晨は簡単にバランスを崩し、ソファーから転がり落ちてしまった。

「逃げるんだよ、本当に欲しいものは! ほらほら、顔を洗う!」

 晨は、鼻歌まじりの真白がキッチンへ向かったのを目で追いながら、欠伸《あくび》をかみ殺した。

「布団を買うくらいで、何がそんなに嬉しいんだか……」

 確かに晨にとっても、今の環境の悪さと効率の悪さは居心地が悪い。

 絵を描いている晨の背後には、ベッドで寝ている真白がいる。

 起こしてはかわいそうだ。

 静かにしないと。

 明るくて起きないだろうか。

 ちょっとした心配が過るたびに、イラストを描く手が止まる。

 没頭していたはずなのに、その世界から現実へと引き戻されてしまう。

 そんな雑念が、これまで淡々とした日常を繰り返していた晨の生活を侵食し始めている。

 その上、晨はソファーで寝ているのだから、疲れも取れない。

 だったら、いっそ布団を買って、生活環境を整えた方がいい。

 顔を洗い、身支度を終えた晨が洗面所を出ると、ふわりといい匂いが鼻先をくすぐった。

「ご飯、できてるよ」

「あ、うん」

 真白はここに住むようになってから、頼んだわけでもないのに、当たり前のように家事全般をこなしている。

 晨の不規則な生活を正すように、食事は一日三回。

 晨に合わせて、多少時間が変わることはあっても、回数が減らされることはない。

 それから、必ず朝陽を部屋に入れる。

 晨が遅くまで絵を描いていた翌日も、必ず朝、カーテンを開ける。

 それを、晨は煩わしいと思う反面、どこか、気持ちにゆとりができてきたことを感じ、複雑な気分になる。

 寝不足で、気だるいはずの朝が、少しだけ気持ちよく感じるのだ。

 ダイニングに行くと、こじんまりとしたテーブルに、朝食が並べられていた。

 今日は和食のようだ。

「ほらほら、早く座って! 私、おなか空いた」

「……うん」

 いつの間にか、晨と真白の座る席が決まっている。

 晨は真白の正面に座ると、目の前に並んだ食事に視線を落とした。

 バラバラの食器に盛り付けられた料理は、特別なものではない。

 どちらかというと、素朴で、まるでおばあちゃんちの朝食のようだ。

「いただきます!」

 真白の元気な声に、晨はハッと顔を上げた。

 手を合わせていた真白が首を傾げる。

「どうかした?」

「いや、別に」

 晨の違和感は日に日に増している。

 真白は明るく、元気いっぱいで、年上のはずの晨を│揶揄《からか》うことを楽しんでいるし、張り切って家事をこなしている。

 何かを悩んでいる様子も、暗い表情も見せない。

 それなのに、『殺してほしい』という言葉が出てきたのはどうしてだろうか。

 もしかしたら、単なる気まぐれ。

 もっと言うなら、ただ人を揶揄って遊んでいただけなのかもしれない。

 そう言われる方が納得できる。

 でも、真白の環境は普通ではなさそうだ。

 このちぐはぐした印象が晨を混乱させる。
 朝食を終えた二人はマンションを出て、最寄り駅を目指して歩いた。

 十分ほど歩いたところに百貨店があり、もう少し進んだところには、手頃な値段の家具や生活雑貨を置いている店がある。

 二人は迷うことなく、後者を選んだ。

「うわぁ! すごいすごい!」

 真白のはしゃいだ様子に、晨は苦笑する。

「特別なものなんて、無いでしょ? これが高級店ならわかるけど……」

 晨の言葉に、真白は力強く首を振った。

「ううん、特別だよ! 私、こういうところ、初めてなの。だから、すっごく嬉しい!」

 晨は思わず言いそうになった言葉を飲み込んだ。

 人の生きてきた道は、人の数だけある。

 真白の人生は、まだ十八年だ。

 それほど長くない真白の人生はどんなものだったのか。

 今の晨には想像すらできない。

 だったら、晨にとって当たり前のことも、真白にとって当たり前ではない可能性は充分に考えられる。

「じゃあ、今日は布団一式と食器。あと、他の店に行って、真白の服も買おう」

「真白って言った!」

「え?」

「だから、今、私のことを真白って言った! 嬉しい。もしかして、忘れたのかと思ってた」

 晨は自分の顔が熱くなったのがわかった。

「だ、だって、そう呼べって言ったでしょ」

「晨!」

「なに?」

「なに、じゃなくて、私の名前を返さなきゃ!」

「返さない」

「なによ、いいじゃない。減るものでもないのに」

「何かが減る気がするから、言わない。ほら、時間がなくなるから、行くよ」

 晨は口を尖らす真白のパーカーの袖を引っ張り、寝具コーナーへ向かった。

 後ろからぶつぶつと文句が聞こえる。

 晨は自分の口元が緩んでいることに気付いていなかった。



 二人の買い物は、非常にサクサクと済んだ。

 女の子の買い物は時間がかかると聞いたことがあった晨にとっては拍子抜けするほどだった。

 真白はファッションにこだわりも好みもないような様子で、安いものを適当にかごに入れていった。

 晨ですら、好みがあって、悩むこともあるのに、真白にはそんな様子がまったくない。

 考えなくてもいいのかと聞いても、『着られたらいい』とだけ返ってきたのには驚いた。

 晨が真白の潔さに圧倒されているうちに、あっという間に買い物が終わっていた。

 布団は配達を頼んだが、荷物は思っていたよりも多くなった。

 それぞれ両手にショッピングバッグを抱えて歩き、マンションに着いたのは昼を少し回ったくらいだった。