問わず語りの汽水域

 僕の勇気を外に出さないように抑え込んでいるのは、大抵僕の恐怖心と不安感だ。

 終業式とホームルームを終えた騒々しい教室。
 忘れ物が無いように念入りに確認しながら帰り支度をしていると、突然肩を叩かれて、驚きで身体が硬直した。
 
三上(みかみ)、マジでカラオケ来ねぇの? 一学期お疲れ的な感じでよ、結構みんな来るぜ」

「うん。行かない。家の手伝いあるし」

 僕はろくに振り向くこともせず答えた。感じが悪いと分かっていても直せない悪癖だ。人の目を見て喋れない。
 声から話しかけてきたのはクラスメイトの山本君だと分かる。男女問わず人望のある、嫌味の無いクラスの中心人物だ。

「あー、民宿だっけ? 今日くらい何とかならんと?」

 山本君は方言混じりの明るい声でさらに詰めてくる。
 手伝いは夕方からだから、行こうと思えば行ける。彼らが嫌いなわけでもない。クラスに馴染めていない僕にも声を掛けてくれて、優しい人達だと思う。カラオケだって興味はある。
 だから、これは完全に僕の問題だ。どうしたって僕が行っても場を白けさせてしまうイメージしか湧かない。その瞬間を想像しただけで身震いしてしまう。

「——ごめん、無理だから」

 自分の語気が実際の感情よりも刺々しくなっていることに気が付いたときにはもう後の祭り。
 せっかく遊びに誘ってくれた相手に強く当たってしまった申し訳なさと、自分の感情のコントロールすらままならない情けなさで頭がごちゃごちゃになる。視界が歪み、耳鳴りがする。喉に何か異物が引っかかったように息が苦しい。
 そして、「とにかくこの場から逃げ出したい」というひときわ強い想いに突き動かされるように、教室を飛び出してしまった。

「やっぱダメだったかー今日はいけると思ったんだけどな」

「残念だけどしゃーないわ。お前の笑顔が胡散臭かったんじゃねー?」
 
 背中に聴こえたその声は決して僕を責めるようなものではなかった。せめて僕の失礼な態度を咎めてくれたら良かったのに。
 
 この場で悪いのは僕ただ一人だった。

 足元だけを見て、人混みの隙間を縫うように遮二無二歩く。
 廊下を過ぎ下駄箱を過ぎ校門を抜けて、不快な暑さと夏空の下、蜃気楼を纏う灼熱のアスファルトの道を行けば、やがて寂れた駅が目の前に現れる。
 速やかに改札を通り、運が良いことに丁度停まっていた電車に滑り込む。これを逃すとクラスメイト達とホームで鉢合わせていたかもしれない。
 心底から安堵の息が漏れ、座席に腰を下ろすと強張っていた全身の力が抜けていく。そして、さっきまでの運動を思い出したように全身に嫌な汗がじんわりと滲んでくる。弱々しいクーラーの冷風も今はありがたい。

 ほとんど学生の登下校にしか使われないオンボロ電車は、二両しか無いが利用者は高校の生徒ばかり。その遠慮の無いおしゃべりのせいで乗車率の割にはワイワイと賑やかだ。明日から夏休みということもあって普段の三割増しで騒がしい。
 陰気な顔をしているのは僕くらいなものだ。

 周囲の雑音を遠ざける為にイヤホンを両耳に装着する。特別音楽が好きなわけではない、本当に耳栓代わりだ。
 適当な曲を再生して外の世界と自分を隔絶してから、カバンから一冊の文庫本を取り出す。本命はこっちだ。
 今読んでいるのは俗に言うボーイミーツガール的な高校生の恋愛話だ。あまり読んでこなかったジャンルだが、サブテーマが“好きな事と現実の板挟み”というもので何となく感情移入して読めている。作者が女子大生だとかで電撃デビュー作として少し話題になっていたから手に取ってみたが、良い買い物だった。

(僕には縁遠いものだな。青春)

 読むたびにそんな思考がフッと脳裏を過るが、それも読書体験の一環だ。
 物語の世界に没入している時間は、ある種のモラトリアムだ。

 頭の中で喧しく騒ぎ立てる現実の問題も将来の不安も、この瞬間ばかりは停滞せざるを得ない。

〈——終点です。お忘れ物ございませんようお気を付けください〉

 ハッと顔を上げると、周りに居た生徒達の姿は疎らになっていて、残った人達もそそくさとホームへ降りて行くところだった。
 いつの間にそんな時間が経っていたのかと驚く暇もなく、大慌てで荷物を抱えて電車から飛び出した。

「おい、兄ちゃん!」

 突然、背後からイヤホンをしていてもハッキリと聞こえる大声がして、反射的に足を止めて振り返ると、車掌のおじいさんがこちらに走ってきている。
 顔に刻まれた加齢の溝の数と深さに対して体格はがっしりしていて、その威圧感に思わず僕は硬直してしまった。

「これ、うっちゃかしとっぱい。気ばつかれ」

「うっちゃ? あ、お守り……ありがとうございます」

 方言が強くて何を言っているのかよく分からなかったが、車掌さんの手には僕が両親に持たされた交通安全祈願のお守りが握られていた。焦ってカバンを持った拍子に紐が切れて落としてしまったらしい。
 差し出されるそれを恐る恐る受け取ると、車掌さんは陽気に僕の背中を叩いて言った。

「なんじゃオドオドして、もっと胸ば張れ!」

「うっ、あ、はは……すみません」

 ああ、この人に悪気はないのだろうし、むしろ頼りない僕を心配してくれている“親切な人”だ。
 頭ではそう受け止められても、腹の底からはどうしても不快感が湧き出てしまう。そして他人の親切を素直に受け取ることもできない自分にまた嫌気がさす。

 駅を出た僕の足は無意識にある場所へ向かっていた。何かから逃げるようにひたすらに足を前に前に動かした。
 歩を進める度に緑の匂いに混ざって潮の香りが強まっていく。もう役目の終わったイヤホンを取ると、草木が風に揺れる軽やかな音が鼓膜をくすぐる。
 どんどん人の営みは遠ざかり、遠くに聴こえる波の音と海鳥たちの声が心地いい。

「もっと家から近ければ最高なんだけ、どっ!」

 土手の階段を上り切ると幅広で流れの穏やかな大河川が姿を現す。一陣の爽やかな風が吹き抜けて熱の籠った身体を優しく包み込んでくれる。

「自由だ」

 喉元で引っ掛かっていたものがやっと吐き出せた感覚がした。
 ここから海の方へ更に少し歩けば、一つの橋がある。その下は緩やかな斜面がアスファルトで階段状に舗装されていて座り込みやすく、雨風も気にしなくて良い、そして何よりも誰も来ない。ここが僕にとって最高の“安息の地”だ。
 
 親の都合で中学入学と同時に、東京からこの海沿いの町に越してきて四年。いつからか辛くなるとこの場所で心を落ち着けるようになった。
 海と川の境界——汽水域の緩やかな水流を前にすると不思議と心が落ち着いた。ここで本を読めば大抵のことは忘れられる。いつもそうやって誤魔化し誤魔化し生きてきた。

「カラオケ、行きたかったな」
 
 ただ今日は茹だるような暑さのせいか、頭に残ったしこりが中々消えてくれなかった。

 広めの古民家をリフォームして作られたこの民宿『みかみ』は、一階が僕ら家族の居住スペース兼スタッフルーム。二階は全て客室となっている。一部屋八畳ほどの部屋が三つ。
 売りといえば宿泊費の安さと遠くに海が見えるくらいなもので、お客の大半は釣り人か、一癖二癖ある変わった人ばかりだ。
 
「えーっと、〈食べ終わる頃に食器を下げに来ます。ごゆっくりお過ごしください〉——翻訳っと」

「Bien gracias‼ アリガトゴザイマス!」
 
 今日の客は物好きな若いバックパッカーが一人。スマホの翻訳アプリのおかげでなんとか接客できるが、文化や宗教の違いで面倒事になることも稀にあるから緊張感がある。去年「メッカの方角はどっちだ」と急に聞かれて戸惑ったことを思い出す。最終的には何故か一緒にお祈りをさせられた。
 今回はとりあえずそういったイレギュラーはなさそうだ。
 「アリガトー」と手を振る青年にお辞儀をして部屋を出る。主だった仕事が終わってふぅと一安心の吐息が漏れた。
 マニュアル化された接客上のやり取りは同級生との日常会話ほど気疲れしないが、それでも心は摩耗する。
 
佳樹(よしき)、少しは部屋片づけときなさいよ」

 食卓で残り物の煮物と刺身の切れ端を口に運んでいると、母が呆れたようにそんなことを言ってきた。
 普段から客室の掃除には口うるさいが、僕の部屋について何か言ってくるのは珍しい。

「え、何急に」

「急じゃないわよー! 明日から“おてつたび”で大学生の子が来るって言ったでしょー? あんたの部屋には入らないだろうけど、見られても大丈夫なくらいにはしときなさいよ。特に本、足の踏み場もないんだから」 

「……はいはい」

 そうだった。完全に忘れていた。最悪だ。

 おてつたび、名前の通り「お手伝いをしながら旅をする」というコンセプトで主に観光地の宿泊施設などで始まったサービスだ。
 施設側は宿を、手伝う側は労働力を提供することでウィンウィン——当然空き時間は自由に過ごすことができる——という数ヵ月前に母から聞いた概要を思い出す。サイトを見てみるとやはり全国有数の温泉街とか、リゾート地だとかが人気なようだった。
 温泉も出ず、有名な観光地でも何でもないこんな辺鄙な土地の民宿にわざわざ来るなんて人は相当な好事家だ。実際、母がおてつたびの受け入れ宿として登録してから数ヵ月は全く応募者が居なかった。

「どんな人なの」

 一応聞いてみたが、相槌のようなもので実際のところ大した興味は無い。
 こんな催しに乗る時点で社交的で意識が高くて行動力と決断力がある——僕の対極にいるような人だろうと予想はつく。

「メッセージでしかやりとりしてないからそんなの分かんないわよ。シキさんって子で東京の大学通ってて……そうそう、すごく丁寧な文章でね、あたしの方まで畏まっちゃうくらい。あんたと気が合う感じの子だったりして。あっ、畏まるといえばこの前のお客さんで——」

 お得意の会話の急カーブによっておてつたびの話は突然終わりを告げた。
 母はこの家で唯一社交的でおしゃべりだ。東京のおばあちゃんは「赤ん坊の頃から黙ってる時間の方が短かった」と言っていた。この民宿も、せっかく引っ越すならと母がほぼ独力で始めたことだ。凄まじい行動力である。
 多少がさつで騒がしいが、僕は母を尊敬している。

 母のマシンガントークに適当な相槌を入れながら、斜めの席で静かにビールグラスを傾ける父に視線を向ける。それに気づいた父はグラスに口を付けたまま小さく肩を竦めて見せた。
 そして目配せで「気にせず行け」と伝えてくれる。少なくとも僕はそう解釈したので、それに甘えることにした。父は寡黙だが、僕と思考が似ているから何となく連帯感がある。

「ごちそうさま。客室見てくる」

「はーい。ありがとね」
 
 お客さんの食器類を下げれば仕事も終わりだ。特にトラブルなく、今日の業務は終了。
 好きなだけ本を買うために始めたこの手伝いも、三年目ともなれば新鮮さも抵抗感も薄い。明日から始まる夏休みの過ごし方——ほぼ、どの積読から手を付けるか——を考えていたらあっという間だった。

 自室へ入り、床に散らばる本を躱して布団に飛び込む。シャワーは帰ってすぐに浴びたから良いとして、薄目で見る自室は母の言う通り確かに少し部屋が散らかっている。これは人が来るとか関係なく整理するべきだ。
 頭ではそう思うのだが、どうにも身体が重い。それに、そよそよと吹き込む夜風が何とも気持ち良い。心地よさの中でボーっと今日の反省と明日以降のことを考えている内に抗い難い眠気に襲われ、そのまま意識は徐々に泥濘に呑まれてしまった。

「部屋なんにも変わってないじゃない! ほらビニール紐、せめて要らない本とかまとめなさいな。あたし朝食出したらシキさん駅まで迎えに行ってくるから、それまでに身支度して掃除しなさいよ!」

 翌朝、母の怒声に近い大声で目が覚めた。その割に寝起きは悪くない。十時間以上寝ているから当然か。
 放り投げて渡されたビニール紐の束を辛うじてキャッチして、一つ大きく伸びをした。朝七時、活動するには気怠い時間だが、母の様子を見るにそうも言ってられない。
 普段以上に忙しなく廊下を行き来する音が聞こえる。おてつたびで来る人用に整頓した空き部屋を改めて掃除したり、布団を干してたりしているようだ。母は相当浮ついているらしい。

「要らない本って言われても……そんなもの無いし」

 目覚ましがてらシャワーを浴びて、改めて自室を入口から眺めて思わず呟く。確かに足の踏み場がギリギリになるくらいには本が溢れているわけだが、既読本も積読も、全部僕にとっては大切で必要なものだ。
 しかし、父はともかく母にはその辺りの理解が得られないのは分かりきっている。

「とりあえず形だけでもやっておくか」
 
 シキさんとやらが滞在するのは確か二週間程だったはずだ。その間には読まないであろう本を納戸へ“移動”させれば文句も言われないだろう。根本的解決にはなっていないが、他にすぐ打てる手もない。
 途中、誘惑に負けて読書に耽った時間もあったが二時間弱でなんとか床が綺麗に見える程度には整頓は済んだ。
 収納から溢れた本達を紐で纏め、それらを抱えて廊下へ出た丁度そのとき、ガラガラと音を立てて玄関扉がスライドし、目を背けたくなるほど眩しい陽光と共に一人の女性が現れた。

「こんにちはー! 今日からお世話になります、志木佳奈恵(しきかなえ)ですッ! よろしくお願いしまーす!」

 まず頭に浮かんだのは「思っていたのと違う」だった。
 母が畏まってしまうほど丁寧な文章を書く、意識の高い大学生——なんなら男の人——が来るもんだとばかり思っていた。

 元気な挨拶に呆気にとられていると、顔を上げた志木さんとバッチリ目が合ってしまった。
 彼女は分かりやすく目を輝かせ、キャリーケースを三和土の隅に寄せると素早く靴を脱ぎ、こちらに近づいてくる。
 反射的に本を床に置き、身構える。未知との遭遇に僕の頭も体も正常な判断が出来なくなっていた。

「もしかして君が陽子(ようこ)さんの息子さん? 佳樹くん、だっけ? これからよろしくね!」

 目の前まで来た志木さんはハツラツとした笑顔で再度挨拶をしてきた。背丈は僕より十センチは低いのにその勢いに気圧されてしまう。
 動かない身体と口に反して、頭には「母さんの名前久しぶりに聞いたな」なんてどうでもいい事が浮かんでいた。

「って、それ全部君の本!? 私の人生全部使っても読み切れなさそうなんだけど、すごいねっ!」

「えっと、その、はい……そうですか」

 志木さんは先ほど置いた本を見て驚愕の表情と共によく分からない褒め方をしてきた。
 なんというか、とにかく圧が強い。あと頭が悪そうだ。

「あっ、今バカっぽいって思ったでしょ。顔に出てるぞ」
 
 逸らした顔を覗き込まれながら図星を突かれて二重にドキッとしてしまう。
 セミロングの髪がふわりと揺れて視界の隅で揺れた。

「いやっ、そんな」

「大正解ー! 勉強はダメダメです。でもお仕事は頑張って覚えるから、色々教えてね。はい、握手ッ!」

 今度は握手を求めてきた。なんなんだこの人は? 欧米の客でもここまで初対面の相手にフレンドリーじゃない。
 しかし目の端に映る彼女の顔は期待に満ちているし、差し出された手は何故かじわじわ近づいてきている。これは僕が折れないといけないのか。

 そんな葛藤の末に恐る恐る右手を差し出し、あと少しで手が触れる——そのとき、彼女は「ハッ」と何かを思い出したような声を上げた。

「私まだ手洗ってないから握手はダメだね! 洗面所どこかな? あとキャリーケースのタイヤ拭く雑巾とかあると嬉しいな、と……えへへ、早速教えて貰うこと一個目だね。二個あるけど」

 ——本当になんなんだ!?
 
 そう叫びたい気持ちをぐっとこらえて、僕は自分でも驚くほど疲れ切った声で「こっちです」と彼女を洗面所へ案内した。彼女はその間もやけに上機嫌で、何を考えているのか全く分からなかった。

 それから程なくして、干していた布団を抱えた母が帰ってきて、志木さんと僕を居間に呼んだ。
 目的は当然顔合わせと、これから志木さんがする仕事の説明だ。
 内容は「アナタには主に朝の掃除洗濯、夜の炊事補助をしてもらう。困ったことがあればあたしか息子の佳樹に聞いてくれ」、というような簡潔なものだった。僕の紹介は今ので終わったらしい。

「大まかな説明はこんなもんね。細かいことは都度教えていくけど、難しいことは無いから気楽にね」

「はーい! よろしくお願いします!」

「……」

 本当に大丈夫だろうか。

 そんなことを思いながら無意識に志木さんの方を見ていると、ふっとこちらを見た彼女と視線がぶつかった。真っ直ぐで、眩しく輝くような瞳だ。
 彼女は条件反射のように口角を持ち上げてにへらっと笑ってみせる。そして僕は反射的に彼女から目を逸らした。

 志木さんは、僕が失礼なことを考えていたなんて想像だにしないだろう。僕が目を逸らしてしまった理由にも思い当たらないだろう。この人は僕と正反対な人だ。
 これからこの人と二週間も同じ屋根の下で過ごし、一緒に仕事をすると考えると不思議な気持ちになる。ネガティブな感情がほとんどで、ほんの少しの期待感のような何かが混じった気持ち。

 僕の心の動きはもちろん、僕が目を逸らしてしまったことも気にしないで志木さんは早速母に連れられて居間を出ようとしていた。
 去り際に彼女がこちらをチラリと伺って笑顔で手を振りながら小声で言う。

「これからよろしくね、佳樹くん」

「——はい、志木さん」
 志木さんが来てから三日目の朝。

 ここ二日はお客さんも例のバックパッカーだけで大した仕事もなく、僕がやっていた業務はほとんど練習のために志木さんへ割り振られたため大層楽が出来た。志木さんも不慣れからミスはあるが、母と気が合うこともあって上手くやっているようだ。バックパッカーともすぐに打ち解けていた。

『二週間と言わず、ずっと居て欲しいくらいだわ』

『えー嬉しい! じゃあ養子になっちゃおっかな!』
 
 昨晩、夕食の席での母と志木さんの会話が思い出される。
 彼女が居るだけで『みかみ』は生まれ変わったみたいに明るくて、笑い声も増えて……僕には少し居辛い。


 彼女のおかげで僕は早く眠れてしまい、日が昇るかどうかという時間に目が覚めてしまった。クーラーを付けたまま寝たからか喉が酷く乾燥している。
 エアコンを消し、水でも飲もうと部屋を出ると、洗濯場の方から何かゴソゴソと動く人の気配がした。一瞬身体に緊張が走る。いくら宿屋の朝が早いとはいえ、こんな時間にはまだ母も起きていないはずだ。客も、バックパッカーは昨晩チェックアウトしたから今は誰も居ない。
 元が古民家のこの家のセキュリティは比較的緩い——まさか、泥棒?
 思い至った瞬間、心臓が大きく跳ねた。
 足音を忍ばせて洗濯場に近づくと、やはり誰か人が居るのは間違いないようだ。通報した方がいいか? でも勘違いで駐在さんに来てもらってしまうと今後ずっと気まずい思いをするかもしれない。この狭い町では一度人にかけた迷惑は流れることなく滞留してしまう。
 とにかく確認しないことにはと、意を決してチラリと中を覗き込むと——。

「え、志木さん?」 

 気配の正体は志木さんだった。安心してつい声が出てしまう。
 それで驚かせてしまったようで、彼女は一瞬肩を震わせてただでさえ小さい背中をさらに縮こまらせた。彼女はいつもどんな時も堂々としているから、なんだかその姿は新鮮と言うか、違和感が強かった。

「ビッ、クリしたー……なんだ佳樹くんか。早起きだね! 空き巣の人とかかと思ってビビっちゃった、ごめんね」

 しかしこちらを振り返った志木さんはすっかりいつも通りだった。
 こんな早朝だというのに化粧もバッチリ、服装もスポーティなスウェットとパンツに支給したエプロンという普段となんら変わらないものだ。
 
「全体的にこっちの台詞です……僕も泥棒かと思いました。こんな時間に何してるんですか?」

 本当に怖かったし、疑問だらけで正直混乱している。
 彼女は問いに対して少し恥ずかしそうに俯いて子どもが言い訳をするみたいに答えた。

「えっと、教えて貰った洗濯の手順をおさらいしててね。陽子さんに今日は私一人でやってみようって言われたから、その、ちょっぴり“不安”で——あっ、ねぇ柔軟剤の量ってこれくらいだっけ」

「ちょっと……いや、だいぶ多いですね。表面張力ギリギリじゃないですか。洗濯物の量にもよりますけど、大体このライン分です」

「えへへ、やっぱりそうだよね、なんとなくそんな気はしてた。ありがとうね、佳樹くん。さすが先輩!」

 早朝だからか声を抑えたお礼だ。そしてなによりも、彼女の目には僕が良く知る感情が見て取れた、気がした。
 その瞬間、僕の中で一つの衝動が急に湧き出てくる。それはとても抑えることは出来ず、気が付けば僕の口は勝手に動いていた。

「あの、よかったら少し話しませんか。他にすることとかあったら全然そちら優先で良いんですが」

 ——この人の事が知りたい。

 見た目や立ち振る舞いで勝手に彼女の為人を決めつけていた。僕と真逆の人間であると。
 しかしそれは愚かな浅慮からの勘違いだった。

「え、うん! 話そ話そ!」

 志木さんの驚きつつも本当に嬉しそうな返事を聞いて、ようやく自分が“らしくない”ことをしたとハッキリ自覚した。
 今からでも取り消せないだろうか、なんていう情けない考えは右手に触れた冷たく柔らかな感触と志木さんの明るい声によってかき消されてしまった。

「それじゃあリビングにゴー! 実は佳樹くんに色々聞きたいことあったんだー!」

「……僕もです」

 ああ、顔が熱い。足元が浮ついている。
 緊張と、気恥ずかしさと、何かが決定的に動き出したようなちょっとの予感。そんな複雑な熱が身体を包んでいた。
 
「ふぃー、お布団洗濯って大変だねー。朝から汗だく!」

「ですね……腕痛いです」

 昨晩から新たに、釣り目当てのお客さんが二組来て少し忙しくなった。朝から釣りへ出た彼らの布団を洗うだけでそれなりの重労働だ。だが、それもまた彼女との交流の契機になっている。

「我が息子ながら情けないわー。まぁとりあえず二人ともお疲れ様。あとはあたしがやるから、自由時間ね。夕方またよろしく」

「はーい、お疲れ様でしたッ! 佳樹くん今日はどうする?」

「すみません、昨日できなかった分ちょっと勉強したいです」

「偉っ! それはお邪魔できないね」

 あの朝以来、僕と志木さんは昼夜の空き時間をよく一緒に過ごした。
 それまで時々出掛けていた彼女もあまり外には出ず、居間で談笑することが増えた気がする。

 喋る内容は仕事の話や世間話を除けば、お互いの取るに足らない思い出話や身の上話——それも表面的なプロフィールをなぞるような、深く踏み込まないものだ。
 そもそも会話の主導権は常に志木さんが握っているから、僕にできるのは精々彼女からの質問を答えた後に同じものを返すくらいなものだ。
 彼女の事で新たに知ったことと言えば、二十歳の大学二年生であること、兄と姉が居る末っ子であること、高校までバスケを熱心にやっていたこと、くらいである。どの話も彼女は本当に楽しそうに話した。子どもが学校であった出来事を家族に報告するときみたいだ、と思った。

 唯一、僕から能動的に質問したことがある。最初にちゃんと会話をしたあの朝、勢いで聞いた。彼女に対して抱いていた一番の疑問だ。

『志木さんはなんでわざわざこんな辺鄙な場所に来たんですか』

『えー、良い所だと思って来たんだけどな……強いて言うなら、海が近くて静かそうだったから、かなぁ』
 
 志木さんからの返事はシンプルで、裏もなさそうなあっけらかんとしたものだった。何か特別な理由があって欲しかったわけでもないが、なんとなく拍子抜けした。
 海が近いと言っても海水浴ができるわけでもないし、今もそうだが四六時中セミやら正体不明の虫やらで外は騒がしい。きっと彼女の思い描いていた場所ではなかっただろう。今日も外は茹だるような暑さだ。
 
 学習机に広げた解きかけの参考書に肘をついて、窓の向こうのセミを眺めながらそんなことを考えていると、ノックの音と共にいつも通り元気な志木さんの声が耳に飛び込んできた。

「よーしーきくーん、この辺に美味しいお店ある? 一緒に行かない?」

 言いながら志木さんは扉をわずかに開けてチラリと顔を覗かせる。
 躊躇なく扉は開けるのに部屋には入ってこない程度に遠慮はする、その塩梅がなんとも彼女らしいと思う。
 壁掛け時計を見るともう正午になろうという時間だった。

「すみません、よく分かりません。あと暑いから行きません」

「わぁ、スマホみたいなお返事。陽子さんが『町内会の集まりで居ないから好きなもの食べてきな』って、お金貰ったんだよ。ほら。豪遊しようよー!」

 そう言って志木さんは右手につまんだ二枚の千円札をひらひらと自慢気に見せびらかしてくる。
 志木さんは時々こういう少しズレた、変な言動をする。僕はどうもその予想できない言葉や行動がツボで、つい笑ってしまう。

「フフッ。できますかね、豪遊」

 なんだか気が抜けてしまった。本当はまだ課題のノルマが終わっていないが、このままグダグダやるくらいなら息抜きをして切り替えた方が良いかもしれない。
 「支度するのでちょっと待ってください」と伝えると、彼女は驚き半分の顔で「やった!」と弾むように声を上げて扉を閉めていった。僕が了承すると思っていなかったのだろう。上機嫌な鼻歌と軽快な足音が遠ざかっていくのを聞きながら、僕は思わずこめかみを抑えた。
 彼女の“ああいう”反応や態度はなんら特別じゃない。一緒に出掛けることを彼女が喜ぶことで僕がどれだけ肯定された気分になるか、彼女は知らないのだ。
 変な勘違いをしてはいけないと改めて頭に刻み直して、適当な服に着替えて部屋を出た。

「佳樹くん、まだ二年生なのに受験生くらい勉強してて凄いよね。私なんて三年のこの時期でもまだその辺走り回ってたよ」

 玄関で待っていた志木さんは、鍵入れの籠から自転車のワイヤー錠の鍵をこちらに渡しながら言う。
 やけに馴れていると驚いたが、彼女が出掛ける時はいつも母が自転車を貸していたのを思い出した。それも僕のと同じタイプの鍵だからすぐに分かったのだろう。

「走り回ってたってそんな犬みたいな。僕はただ早めに課題終わらせたいだけです。残ってると不安になるので」

「十二分に偉いけどね。私も課題授業のレポートいい加減手付けないと——うっ、わー夏! って感じの日差しと暑さだね」

 喋りながら玄関扉を開けた彼女は手をサンバイザーのようにして、それでも全く怯まずに大股で外へ出て大きく伸びをした。僕はもう気が滅入りそうになったが何とか一歩外に踏み出すと、脳が沸騰するような熱気が潮風と共に襲ってきた。思わず顔をしかめると、志木さんは何が面白いのか笑いながら「走れば風が気持ちいかもね」と言って自転車に跨った。
  
「オススメはホントに無い?」

「おすすめというか、飲食店自体はこの坂を降りて道なりに行けば何軒かありますけど……大体個人経営の老舗っぽい感じで、正直入り難いっていうか」

「えーいいじゃん! せっかくだから行ってみようよ。“おもうまい”お店かもしれないよ!?」

 志木さんは妙な期待に目を輝かせてしまった。
 僕は一瞬「やっぱり怖いからやめておきましょう」と言おうか本気で迷った。しかし彼女の様子を見て、もう何を言っても無駄だな、というのが一目でわかってしまった。

「じゃあ出発しんこー! お店見逃したら教えてね!」

 諦めて項垂れたのを肯定の頷きだと解釈したのか、志木さんは意気揚々とペダルを漕ぎ始めた。普通は案内する側が先頭を走ると思うのだが、その指摘はもう遅い。僕は慌ててワイヤー錠を外して彼女の後を追った。追い越すのも危険だし、店までは本当に一本道だ。このまま付いていく形でも良いだろう。
 家から商店街、そして港へ続く緩い坂道を志木さんと二人で下りていく。
 さっきまでぬるくて不快だった潮風が、今はなんとなく心地よい。暑さが吹き飛ぶ——ということは流石にないが、少なくとも「夏も悪くない」と、そう思えた。

 三、四分走れば『お食事処 古谷』と看板を掲げる平屋の建物が現れた。志木さんも気が付いたようで前から「ここー?」と声が飛んできたのでなるべく大きな声で肯定すると、彼女は軽快に自転車から降りた。運動ができる人の動きだ。僕にはできない。
 
「いかにも老舗の定食屋さんって姿形だね! お、定休は……日曜日だって、良かった良かった」

「志木さんって、いつもこんな風にお店選ぶんですか?」

 錠を掛けようとしゃがみながら、思い浮かんだ疑問がそのまま口に出た。暑さと運動後の高揚のせいでいつもはフル稼働している“言葉をせき止める機能”がショートしてしまったらしい。
 志木さんは店外に無造作に置かれたメニュー写真を見ながら、あっけらかんと「こんなってー?」と答えた。

「勢い任せというか、無鉄砲というか、チャレンジャー、そんな感じの」

 ワイヤー錠がなんだか固くて、頭が回らず良い表現が何も出てこなかった。我ながら咄嗟に出る語彙は酷いものだ。
 なんとか鍵を回して志木さんの方を向き直ると彼女は困ったように笑って、視線が泳いで落ち着かない様子だった。珍しい反応だ。
 
「宇宙人でも見るような目やめてー! でも、そうだね。ご飯だけじゃなくて何事も実際に経験してこそかなって。他人の評価って結局はその人の好き嫌いじゃん? だったらやっぱり体験第一! みたいな感じかも」

 それは非常に志木さんらしい考え方で、口先だけじゃない確かな彼女の人生哲学だった。
 僕とたったの四歳差、それなのに彼女は何十歩も先に居るような感じがする。

「経験、体験……なんかカッコイイですね。僕には絶対無理です」

 それは本当に心の底から湧き出てきた何気ない発言だった。小学生が学ラン姿の中学生に憧れるように、“年上らしい年上”である志木さんを、僕は当たり前のように憧憬している。少し大げさかもしれないが偽りない気持ちと言葉だった。

「かっこい——えー!? 本当に? そ、そう思う?」

 しかし、志木さんにとってそれは完全に想定外だったようで、彼女は驚きと喜びと困惑を喜び多めでぐちゃぐちゃに混ぜたような顔でオーバーにも思えるくらい強く反応した。
 彼女はバスケをしていたとも言っていたし、こういうのは言われ慣れているとばかり思っていたから少し面食らってしまった。
 なんだか自分がとても大それたことを言ってしまったような気がして落ち着かない。しかし訂正するのも何だか変な感じがする。
 
「本当ですよ。嘘つく意味もないです」

「そっか、そっか——っていうかお店入ろっか! さすがにお腹空いてきちゃった」

 彼女はまだ浮ついた様子でそう言って、話も体も方向転換して店のドアを開けた。
 慌ててその後を付いて行くと、よく言えばレトロな内装と、着古した割烹着姿のおばあさんが柔らかな声で「いらっしゃい」と出迎えてくれた。店内には野球中継を映した小型テレビが一つあり、常連と思しきおじいさん二人組がそれを見ながら何やら話している。議論が白熱しているからか、こちらには気が付いていないようだ。
 数十年前の世界にタイムスリップしたのかと思うような光景に僕と志木さんは思わず目を見合わせ、「絶対美味しいやつじゃない?」と、彼女は子どものように笑った。
 
 僕たちは、それぞれメニュー表の上の方にある定番と思われるものを注文して、そして——。



「なんというか……ご老人の常連さんが居る理由は分かりましたね」

 店を出て、僕は思わず口走っていた。
 ここの料理はなんというか、本当に優しいお味だった。おそらく、全部の調味料を倍入れても問題ないと思うくらいには。
 志木さんもハッキリと肯定はしないが、口食べた時点で明らかに何か言いたげ表情になり、言葉少なになったから多分同じような感想だったと思う。

「まぁ、時には失敗もあるよね」

 という、ともすれば一番残酷な台詞を吐いて彼女は自転車を押して歩き始めた。
 上り坂を漕いで行くのは中々大変だからという判断だとは思うが、その背中には何とも言えない哀愁が漂っていた。

「あの、志木さん」

「ん?」

「アイスとか、どうですか?」

 指さす先にはこの辺でしか見ないマイナーなコンビニがある。口直しと機嫌取りを兼ねた思い付きの提案だったが、彼女は予想以上に目を輝かせてくれた。
 そのコンビニは蛍光灯が一つ二つ切れていて薄暗く、空調も外よりはマシ程度にしか効いていない。店員もいかにもやる気が無さそうな学生バイトが一人いるだけである。
 そんなことは全く意に介さず、志木さんはアイス売り場に直行する。

「わー懐かしい! この分けっこできる棒アイスにしよう! これならお昼と合わせても予算内だし」

「僕も一応財布持ってきてますし、食べたいやつで大丈夫じゃないですか?」

「分かってないなー佳樹くん。こういうのは予算ギリギリに収めるのがツウなのだよ」

「通……なんですか? それは」

 人差し指メトロノームのように振りながら志木さんはしたり顔だ。正直言っている意味はよく分からなかったが、彼女がそうしたいのなら止める理由も無かった。
 会計を済ませ、店先に置かれたベンチが日陰になっていたから腰掛けてアイスを開ける。ソーダ味の爽やかな青い氷菓は目にも涼しい。志木さんが二本刺さった棒を持って外側に力を加えるとそれはアッサリと割れた。差し出された一本を受け取り、二人そろってすぐに齧りつく。
 粒立った氷粒の触感と共に冷気が口内を占領し、次いで人工的で背徳的な甘みが押し寄せてくる。気温や状況が味方して、それらが暴力的に感覚を刺激する。隣からも「んー!」と感嘆の声が聞こえた。さっきまでの落ち込みが嘘のような無邪気な笑顔に、思わずこちらの頬も緩む。

「よし! 明日のお昼は別の所チャレンジしよう」

「え、まだやるんですか」

 アイスを食べ終え、立ち上がりながら志木さんはそんな提案をしてきた。
 さっきの失敗をもう忘れてしまった、なんてことは流石に無いだろう。僕は彼女のチャレンジ精神を正しく測り切れていなかったらしい。

「このままじゃ終われないでしょ! 最終日までに佳樹くんが常連になっちゃうようなお店見つけよう!」

 最終日という言葉がやけに頭に響いた。
 志木さんが来て今日で八日目、彼女との時間はもう半分以上過ぎてしまっている。

「そう、ですね。色んな所行きましょう」

 その日の晩、『みかみ』はてんてこ舞いだった。まさに修羅場、一年に一度あるかないかの繁忙日だ。

「よし、盛り付け完了! 佳奈恵ちゃん、おぼん持ってちゃってー! 焦んなくて良いから溢さないように。佳樹とお父さんはごはん御櫃(おひつ)に移しちゃって」

「はーい! いってきます!」

 母がキッチンからテキパキと指示を飛ばし、僕達は手足のようにいそいそと従う。
 連泊の釣り人二組に加えてまた外国人の一人旅客が急遽入った。客室が全て埋まること自体珍しいのに、さらに釣り人達が意気投合したらしく、一つの部屋に集まって宴会の様相になってしまった。
 本来時間をズラして処理するものを纏めて一気に熟さねばならず、こちらは大忙しなわけだ。

「佳樹、こっち終わったぞ」

「ありがとう父さん……ほんと助かるよ」

「たまにはな」

 仕事終わりの父も、スーツの上からエプロンを付けて手伝ってくれている。
 父は寡黙で、不要な事は口にせず、必要なこともあまり話さない。だが家族が困っている時は黙って助けてくれる人だ。

「じゃあ持ってくよ」

「うんよろしくー……って、そういえば佳奈恵ちゃん遅いわね。お客さんに捉まってるのかしら」

 そう言われれば確かに遅い。志木さんが客間へ向かってもう五分以上経っている。
 遅いと言ってもいつもテキパキしている彼女にしては、という程度だが何となく嫌な予感がする。
 本来の倍重いお櫃を抱えて騒がしい客間の前まで行くと、馬鹿笑いの中にひときわ大きな声が聞こえた。

「お嬢ちゃんもほら、一緒に飲もうよ」

「いやー、ハハハ。無理ですよーお仕事中ですし」

「いいじゃんいいじゃん! あのおばちゃんに任せておけばさ。ほら隣空いてるよー」

 急いで襖を開けると、四人の中年男性たちの中で一番年上らしきおじさんが片膝を立て、部屋を出ようとする志木さんの方へ手を伸ばさんとしていた。床には空の缶ビールが数本転がっていた。
 僕の頭に、今までの人生で湧いたことのない類の感覚が走るのがわかった。名状し難いそれに一番近いのは、怒りだった。

「佳奈恵さん、下の人手足りてないです。行ってください」

「え、あっうん……!」

 冷たい言い方になってしまったかもしれない。でも、とにかく志木さんをこの人たちから遠ざけたかった。
 すれ違うように客間を出る彼女を横目で見送って、何事もなかったようにお櫃を床に置くと頭上から呂律の怪しい不快な喋り声が降ってくる。

「なんだよつれないなー。こんなショボいとこ、一人二人居なくても回るでしょー?」

 酔っ払いの戯言、まともに受け取るだけ無駄だ。それに一応この人らは客で、僕がここでトラブルを起こしても責任は母に行ってしまう。
 それは分かっていても彼らの無遠慮な言葉と、なによりも志木さんに絡んだ態度に、そして何もできない自分にどうしようもなく腹が立つ。
 客の言葉をなんとか気にしないように聞き流しながら手を動かしていると、背後から母の声がした。

「すみませんねー。この子もあの子もうちの大事な働き手なので。“こんなところ”で油売ってられませんの。っと、そんなことより! はいこれ釣ってきてもらったお魚、色々調理しましたの。美味しいですよー、田舎料理がお口に合うか分かりませんけど、カレイは煮付にして——」

 母は言葉の端々に棘を含ませながら牽制するように、しかし丁寧な態度で接客した。
 客たちはその静かな怒りに驚いたのか、自分たちの発言の愚かさを自覚したのかは分からないが水を打ったように静かになった。多分前者だろう。
 話の途中、母はこちらにさり気なく目配せをしてきた。それに甘えて急ぎ足で部屋を出て、階段を駆け下りる。

 キッチンに入ると項垂れる志木さんがハッと顔を上げた。泣いてこそいないが、どこか怯えたような表情だった。

「ごめんね! 私、上手く躱せなくて時間喰っちゃって、迷惑かけちゃったよね……えと、次は何をするのかな? 陽子さんも上がってっちゃったみたいだけど」

「手が足りないのは嘘、というか適当な口実です。あと迷惑じゃないですし、志木さんは全く悪くないですから、謝らないでください」

 僕はてっきりお客さんにセクハラをされてへこんでいるのかと思っていた。でも、彼女の中では僕らに迷惑をかけたことが一番比重の大きい問題になっているようだった。それは僕が持っている“志木佳奈恵像”から若干外れているような気がした。

 彼女は僕の言葉を聞いて、安堵の溜息を吐いていつもの明るい笑顔に戻った。

「なんだ良かったー! 佳樹くんのあんな声初めて聴いたから、怒らせちゃったかと」

「あれは、すみません。おっさんにムカついただけです——そんなことより大丈夫でしたか? 触られたりとかしてないですか」

 ちょうどそれを聞いたとき母が降りてきて、深刻な表情で「セクハラされてないかい?」と彼女の肩を抱きながら同じようなことを聞いた。騒ぎを聞きつけた父も中途半端に緩めたネクタイをぶら下げたまま居間へ入ってくる。
 それから一瞬間があって、志木さんの瞳が涙ぐんだ。

「だ、大丈夫ですか!?」

「やっぱりなにかされたのね……!? あいつら、とっちめてやる!」

「違います違います!」

 早合点して廊下へ出ようとする母を引き留めて、狼狽する僕と父とを見回して志木さんはふわりと笑った。

「こんなに心配して貰えるのが嬉しくって……私、ここに来てよかったなーって」

 母はそんな彼女を愛おしそうに、そして力強く抱擁した。

 上階の宴も終わり、帳尻を合わせるみたいな静寂の夜半だった。
 まだ日も跨いでいないが疲れからか体感時間が二時間ほど現実の先を行ってしまっている感じがする。
 そんな気怠さの中、漫然とノートにペンを走らせていると控え目なノックの音が響いた。反射的に「どうぞー」と声を掛けると、志木さんがおずおずと顔を覗かせた。
 父と母はもう寝ているだろうから十中八九彼女だとは分かっていたが、風呂上りの紅潮した肌のせいかいつもと何か雰囲気が違っていてわずかに心臓が高鳴るのが分かる。

「どうかしました、か……それは?」

 努めて平静を装って彼女の方へ歩み寄るとすると、彼女は深々と頭を下げた。そして同時にその両手には賞状のように差し出される五千円札が一枚。

「さっき、庇ってくれたお礼なにかしなきゃなって。でも思いつくのがこれしかなくて……ごさしゅうください」

「いやいや、受け取れませんよ! 現金なんて」

「えー、じゃあ私に何かして欲しい事ない? なんでもするよー思春期特有のやつ以外なら!」

「頼みませんよそんなこと……! 分かってて言ってますよね」

「バレたかー」

 にへら笑いでおどけて見せて、そのまま志木さんは待ちの姿勢に入る。初めからこちらに提案させる算段だったのかもしれない。
 何かないかと考えるがそもそも特別なお礼をされることをした訳じゃないから悩ましい。
だが彼女は引き下がらなそうだし、何かを奢ってもらうというのが無難なところだろうか。ただ無難過ぎて彼女が難色を示す気もする。
 ふと、昼間の会話を思い出して、一つやりたいことを思い付いた。

「一緒に勉強してくれませんか。僕は気分転換になりますし。志木さんも課題やらないとって言ってましたよね」

「うっ、確かに課題残ってるけど……おしゃべりは禁止?」

「時々なら」

「じゃあやるっ! パソコン持ってくるから、リビング集合ね」

 パタパタと自室に飛び込む彼女の背中を見送り、勉強机から最低限のテキスト類と筆記用具を持って居間へ向かう。ダイニングテーブルを軽く拭いているとステッカーで装飾されたノートパソコンを抱えた志木さんが来て“お礼”が始まった。

 彼女は存外真面目にキーボードを叩く。ここまで真剣な表情はなんだか新鮮だった。
 この空間にはペンを走らせる音とキーボードをゆっくり叩く音が小さく響く。それがやけに心地よい。
 志木さんがやっているのは英語の課題らしい。時たま彼女が苦しげな表情でうめき声を上げるので教えたりもした。

「関係代名詞ってなんだっけ」

「ええ……マジですか」

「マジだから困っちゃうよね!」

 今日も外国人のお客さんと翻訳なしでコミュニケーション——単語と身振り手振りが主だったが——を取っていたのに、中学レベルの文法も怪しいというのは何とも彼女らしい。
 しばらくは喋りながらも課題に取り組んでいた志木さんだが、一時間ほど経ったところで徐々に静かになり、いつの間にか机に突っ伏してしまった。

「志木さん、寝るならちゃんと部屋戻らないと」

 顔の近くで机を指先でつつきながら呼びかけると、彼女は顔をゆっくりこちらに向けて目は閉じたまま口角だけフッと持ち上げて答えた。

「んー……佳奈恵ってまた呼んでくれなきゃ、やだ。起きない」

「えっ」

 狸寝入りだったことも、彼女の要求も意図が全く分からなかった。ただただ頭が混乱した。
 何かそういう脈略があったかと考えて、そういえば客間で彼女を呼んだとき、咄嗟に母の呼び方につられて下の名前で呼んでしまっていたことを思い出した。

「——佳奈恵さん、明日も早いですよ」

「ちぇ。ちょっとは照れるかと思ったのに。初日のウブな佳樹くんは何処に行っちゃったのかなー」

 冗談めかして不満を零し、椅子から立ち上がった志木さんは「眠いのはホントだから寝るね、おやすみ」とあくび混じりに言って廊下へ出た。
 一人残され、本当の静寂の中に廊下の奥から扉を閉める音が響く。同時に喉元で詰まっていた息と共に胸に留めていた感情が零れ落ちた。

「照れないわけないでしょ」

 彼女にバレてやしないだろうか、僕の今にも溢れてしまいそうなこの気持ちが。煩くて仕方がない心臓の拍動が。
 歳も、住む場所も、性格もかけ離れた彼女を想う気持ちがいっそ全部筒抜けなら楽になれるのだろうか。


 釣り人の二組が去った後、客は一人旅の外国人だけになり、また『みかみ』に平穏と暇が戻ってきた。

 その客はディランという二十代のカナダ人で、暇している僕や志木さんにカタコトの日本語で話しかけてくれた。
 曰く、彼は世界中を旅しているがその目的の大部分は現地人との交流なのだという。気づかなかったが、昨日のバカ騒ぎしていた釣り人達にも後から少し混ざっていたらしい。

『オシャベリハ、ドコデモタノシイデス!』

 ——と満面の笑顔で宣言するディランからは子どものような無邪気さと同時に、あらゆる面での強さを見せつけられた感じがした。

 彼も、先日のバックパッカーも世界中を旅する中で、その土地の文化や人を通して自分や人間について見つめ直すのだろう。もしかしたら志木さんもそうだ。“自分探し”といえば安っぽく聞こえるが、僕は彼らの勇気と行動力を尊敬する。
 そしてそれと同時に自己嫌悪に苛まれる。僕はこのままでいいのかと。

「ディランさんのインドトーク面白かったねー! ……って、浮かない顔だね? 体調悪い?」

「ああいや、大丈夫です。名前の違うメニュー頼んでも全部カレーの味がしたってところとか、笑っちゃいましたね」

「そう、だね」

 翌日、ディランは朝焼けの空の下、太陽よりも明るい笑顔で『みかみ』を去っていった。

「アリガトゴザマシタ。サラバデス!」
 
 フェリーの時間があるからと明け方にチェックアウトした二メートル近い体躯を見送りながら、寝ぼけた頭に浮かぶ寂しさと少しの安堵を振り払うように手を振った。
 母が隣町のフェリー乗り場まで車で送るとのことで、後部座席に身を屈めて収まる彼はこちらに気が付いて爽やかな笑顔と共に手を振り返す。本当に何もかも眩しい存在である。
 隣の志木さんは両手を全力で振りながら車内にも聞こえる声で叫ぶ。

「グッバイ! はばないすでーい!」

 志木さんは車がカーブを曲がって見えなくなるまで手を振り続けた。ゆっくりと手を降ろして「行っちゃったね」と呟く彼女と僕は全く同じ気持ちではなかっただろう。
 僕にとってはここ数年で何度か経験した日常の光景だが、彼女にとってはひと夏の貴重な体験であり、出会い全てが特別なのだ。

「志木さんは、その英語でも外国の方とも仲良くなれるから凄いですよね」

「え、素直に喜べない」

「ごめんなさい、言葉選び間違えました……臆さず言語の垣根も超えてすぐに親しくなるコミュニケーション能力が凄いなと。僕はそういうの大の苦手で、友達も居ないので」

 ほんの雑談のつもりで話題を振ったつもりが、つい暗い話になってしまった。それでも志木さんなら明るく笑い飛ばしてくれるかと思ったが、彼女は一瞬とても深刻そうな顔をしたのが見えてしまった。
 それに驚く間もなく、彼女は普段通りニヤッと笑った。

「私は短期決戦型だからね」

「……決戦?」

「持続力がない代わりにスピードはある、みたいな? すぐ馴れ馴れしくするのは得意」

 志木さんの独特な語彙の中でも特に理解が難しくて疑問符を浮かべていると、見かねた彼女が説明をしてくれた。どうやら漫画由来らしい。
 漫画はあまり読まないと言うと「絶対読んだ方がいいよー!」と彼女は声を張り上げた。彼女がサブカルチャーにここまで熱くなるのはかなり意外だった。
 それから彼女は最高の提案だと言わんばかりに意気揚々と続けた。

「私はおすすめの漫画教えるから、佳樹くんはおすすめの小説教えてよ! それなら私も最後まで読めるかも」

「おすすめですか……ちょっと悩ませてください」

「うんうん、わかるよ。選出難しいよね。私もちゃんと考えよ……楽しみに待ってるね!」

 その場はそこで話は終わり、ディランの去った部屋の片付ける作業に取り掛かった。

 それ以来、何をしていても常に頭の片隅に“志木佳奈恵に読んで欲しい本はどれか”という思考が生じた。
 きっと本来はこんなに悩むことではないのだろうと分かっていても、僕の中ではどうしてもこれは重要な決め事であるという考えが払拭できなかった。
 結局、決めきれないまま志木さんが『みかみ』を出る二日前の夜になってしまった。僕はまだこうして布団の中で悩み続けている。
 出立は朝早いと言うから実質的な猶予はあと一日だけだ。

「誰かにおすすめとか、考えたことも無かったな」

 僕にとって読書は最高に楽しい趣味であると同時に、孤独の言い訳でもあった。だから人と共有するものでは決してなかったのだ。

『はいこれ、私が考えた珠玉の漫画リストね』

 昨夜、自室へ戻ろうとしたときに志木さんから渡されたメモ紙と、意外にも達筆で美しい彼女の字を眺めながら、僕は自分が閉じた世界に生きていたことを改めて自覚した。
 本屋に足繫く通っているのにも関わらず、僕は紙いっぱいにリストアップされた作品の大半を知らなかった。彼女と出会わなければ一生知らないままだったかもしれない。下らない事かも知れないが、本当にハッとさせられた。

 思い返せば志木佳奈恵と過ごす日々で、何度もそれを思い知らされたことだ。——僕はただでさえ狭い視野の中の、自分が見たいものしか見ていない。