「部屋なんにも変わってないじゃない! ほらビニール紐、せめて要らない本とかまとめなさいな。あたし朝食出したらシキさん駅まで迎えに行ってくるから、それまでに身支度して掃除しなさいよ!」
翌朝、母の怒声に近い大声で目が覚めた。その割に寝起きは悪くない。十時間以上寝ているから当然か。
放り投げて渡されたビニール紐の束を辛うじてキャッチして、一つ大きく伸びをした。朝七時、活動するには気怠い時間だが、母の様子を見るにそうも言ってられない。
普段以上に忙しなく廊下を行き来する音が聞こえる。おてつたびで来る人用に整頓した空き部屋を改めて掃除したり、布団を干してたりしているようだ。母は相当浮ついているらしい。
「要らない本って言われても……そんなもの無いし」
目覚ましがてらシャワーを浴びて、改めて自室を入口から眺めて思わず呟く。確かに足の踏み場がギリギリになるくらいには本が溢れているわけだが、既読本も積読も、全部僕にとっては大切で必要なものだ。
しかし、父はともかく母にはその辺りの理解が得られないのは分かりきっている。
「とりあえず形だけでもやっておくか」
シキさんとやらが滞在するのは確か二週間程だったはずだ。その間には読まないであろう本を納戸へ“移動”させれば文句も言われないだろう。根本的解決にはなっていないが、他にすぐ打てる手もない。
途中、誘惑に負けて読書に耽った時間もあったが二時間弱でなんとか床が綺麗に見える程度には整頓は済んだ。
収納から溢れた本達を紐で纏め、それらを抱えて廊下へ出た丁度そのとき、ガラガラと音を立てて玄関扉がスライドし、目を背けたくなるほど眩しい陽光と共に一人の女性が現れた。
「こんにちはー! 今日からお世話になります、志木佳奈恵ですッ! よろしくお願いしまーす!」
まず頭に浮かんだのは「思っていたのと違う」だった。
母が畏まってしまうほど丁寧な文章を書く、意識の高い大学生——なんなら男の人——が来るもんだとばかり思っていた。
元気な挨拶に呆気にとられていると、顔を上げた志木さんとバッチリ目が合ってしまった。
彼女は分かりやすく目を輝かせ、キャリーケースを三和土の隅に寄せると素早く靴を脱ぎ、こちらに近づいてくる。
反射的に本を床に置き、身構える。未知との遭遇に僕の頭も体も正常な判断が出来なくなっていた。
「もしかして君が陽子さんの息子さん? 佳樹くん、だっけ? これからよろしくね!」
目の前まで来た志木さんはハツラツとした笑顔で再度挨拶をしてきた。背丈は僕より十センチは低いのにその勢いに気圧されてしまう。
動かない身体と口に反して、頭には「母さんの名前久しぶりに聞いたな」なんてどうでもいい事が浮かんでいた。
「って、それ全部君の本!? 私の人生全部使っても読み切れなさそうなんだけど、すごいねっ!」
「えっと、その、はい……そうですか」
志木さんは先ほど置いた本を見て驚愕の表情と共によく分からない褒め方をしてきた。
なんというか、とにかく圧が強い。あと頭が悪そうだ。
「あっ、今バカっぽいって思ったでしょ。顔に出てるぞ」
逸らした顔を覗き込まれながら図星を突かれて二重にドキッとしてしまう。
セミロングの髪がふわりと揺れて視界の隅で揺れた。
「いやっ、そんな」
「大正解ー! 勉強はダメダメです。でもお仕事は頑張って覚えるから、色々教えてね。はい、握手ッ!」
今度は握手を求めてきた。なんなんだこの人は? 欧米の客でもここまで初対面の相手にフレンドリーじゃない。
しかし目の端に映る彼女の顔は期待に満ちているし、差し出された手は何故かじわじわ近づいてきている。これは僕が折れないといけないのか。
そんな葛藤の末に恐る恐る右手を差し出し、あと少しで手が触れる——そのとき、彼女は「ハッ」と何かを思い出したような声を上げた。
「私まだ手洗ってないから握手はダメだね! 洗面所どこかな? あとキャリーケースのタイヤ拭く雑巾とかあると嬉しいな、と……えへへ、早速教えて貰うこと一個目だね。二個あるけど」
——本当になんなんだ!?
そう叫びたい気持ちをぐっとこらえて、僕は自分でも驚くほど疲れ切った声で「こっちです」と彼女を洗面所へ案内した。彼女はその間もやけに上機嫌で、何を考えているのか全く分からなかった。
それから程なくして、干していた布団を抱えた母が帰ってきて、志木さんと僕を居間に呼んだ。
目的は当然顔合わせと、これから志木さんがする仕事の説明だ。
内容は「アナタには主に朝の掃除洗濯、夜の炊事補助をしてもらう。困ったことがあればあたしか息子の佳樹に聞いてくれ」、というような簡潔なものだった。僕の紹介は今ので終わったらしい。
「大まかな説明はこんなもんね。細かいことは都度教えていくけど、難しいことは無いから気楽にね」
「はーい! よろしくお願いします!」
「……」
本当に大丈夫だろうか。
そんなことを思いながら無意識に志木さんの方を見ていると、ふっとこちらを見た彼女と視線がぶつかった。真っ直ぐで、眩しく輝くような瞳だ。
彼女は条件反射のように口角を持ち上げてにへらっと笑ってみせる。そして僕は反射的に彼女から目を逸らした。
志木さんは、僕が失礼なことを考えていたなんて想像だにしないだろう。僕が目を逸らしてしまった理由にも思い当たらないだろう。この人は僕と正反対な人だ。
これからこの人と二週間も同じ屋根の下で過ごし、一緒に仕事をすると考えると不思議な気持ちになる。ネガティブな感情がほとんどで、ほんの少しの期待感のような何かが混じった気持ち。
僕の心の動きはもちろん、僕が目を逸らしてしまったことも気にしないで志木さんは早速母に連れられて居間を出ようとしていた。
去り際に彼女がこちらをチラリと伺って笑顔で手を振りながら小声で言う。
「これからよろしくね、佳樹くん」
「——はい、志木さん」