高校生になった圭悟は、陰キャと呼ばれることに慣れていた。
部活には入らず、放課後友達と買い食いすることもなく、黙々と勉強して日々を過ごしていた。
……でも時々ロードバイクで堤防を走ったりするくらいの活力は持っているんだけどな。そう思うことはあるが、表立って主張するのも格好悪いから、今日も授業の合間に本を読んで過ごす。
圭悟が教室の窓の外を眺めると、水彩で描いたような透明な空模様だった。
本格的な夏が到来したら、さすがにロードバイクでは走れない。だから今週末辺り、ちょっと遠出してみようか。そう思うくらいには、印象的な空だった。
放課後、鞄を片手に廊下を歩きながらまた空を見ていたときだった。
ふとすれ違った先輩に見覚えがあった気がして、圭悟は振り向いた。
「……あ」
女の子だからというわけじゃなかった。特に中学生くらいの頃、圭悟を陰キャ呼ばわりするのは女の子が多くて、むしろ女の子は苦手だった。
でもその先輩に振り向いてしまったのは、心の奥に仕舞っていた箱がふいに開いたような感覚だった。
振り向いた先では、もうだいぶ先まで歩いていた先輩の背中しか見えなかった。
どうしてか先輩が悪戯っぽく笑っている気がして、圭悟は不思議な気分で立ちすくんだ。
家に帰って、小中学校のときの卒業アルバムを開いた。でもアルバムにその先輩はいなくて、部活や塾でも彼女と一緒になった覚えはなかった。
名前は一応知っている。二年生の、湊戸先輩。特に目立つ噂も聞いていないはずなのに、名前は知っているのが少しだけ不思議だった。
週末、ロードバイクで出かけた先でも、またふと先輩のことを考えていた。
まだ涼しい午前九時、早々に川のそばで涼を取りながら本を読んでいた。でも実は本の内容はちっとも頭に入っていなくて、記憶の中で湊戸先輩を探していた。
どうしてかな、そんなに悪い気持ちじゃない。圭悟はそう思って、じゃあどうして思い出せないだろうと不思議になる。
だから繰り返し考えてしまうのだろうけど、自分の気持ちの正体はわからない。
「何を読んでいるの?」
顔を上げたところに湊戸先輩の顔があったとき、圭悟は喉が詰まるくらいに驚いた。
「いつも本を読んでいるよね」
こんなに近くで見たことは初めてで、知らなかった。湊戸先輩は、まなじりのすっと通った目をした、落ち着いた雰囲気の人だった。制服とは違うレモンイエローのスカートと白いブラウスが、陽の光に映えていた。
圭悟は一瞬、何を訊かれたのかもわからなかったくらい、まじまじと先輩を見返してしまった。
でも一息ついて落ち着きを取り戻すと、圭悟は陰キャと呼ばれる平坦さで答える。
「新書です。兄の本棚から適当に持ち出してて」
「小説じゃないんだ」
「勉強の合間に読むものだから、先が気になるものは好きじゃなくて」
圭悟はひととおり答えてから、どうしてここに先輩がいるのだろうと思う。
身軽な格好で、自転車に乗ってきた様子もないから、家が近いのかもしれない。
家……そう思ったとき、少しだけ記憶の蓋が開く気配がした。
おひさまが赤くなる頃には家に帰らないと……。祖母の言葉が耳に蘇る。
でも今はこれから明るい陽射しが差し込む時間帯で、時間はまだたくさんある。
子どもの頃と違う今を実感して、圭悟は現在に戻って来る。
ふいに先輩は内緒話をするように声をひそめる。
「小説みたいな話をしようと思って、来たんだけど。聞きたい?」
圭悟はごくんと息を呑んで、先輩を見返した。
瞬間、圭悟の目の前を子どもの頃の光景が走っていった。積み木のような小さな家、完成できなかった木の葉のパズル……狐の尻尾。
夢の中のような不思議を信じるには、圭悟はもう高校生になっている。
でも心に仕舞ってある思い出は、決して悪いものだとは思わない。
圭悟はその気持ちを受け入れて、先輩に言う。
「……狐の尻尾は、隠せるようになったんですね」
そう言った途端の、先輩の表情の変化は鮮やかだった。
先輩は見覚えのある、悪戯っぽい楽しげな笑顔を浮かべてみせた。
「覚えててくれたんだ」
圭悟はそれに見惚れた自分に気づいて、いつかのように恥ずかしいような気持ちになった。
先輩は圭悟の目をのぞきこみながら、口を開く。
「そうだよ。夏の始まりは、少し不思議なことが起こってね……」
そうやって、先輩は宝箱を次々と開いていくように語り出す。
初夏の橋の下、小さな日陰で悪戯な先輩から聞いた、不思議な世界の物語。
部活には入らず、放課後友達と買い食いすることもなく、黙々と勉強して日々を過ごしていた。
……でも時々ロードバイクで堤防を走ったりするくらいの活力は持っているんだけどな。そう思うことはあるが、表立って主張するのも格好悪いから、今日も授業の合間に本を読んで過ごす。
圭悟が教室の窓の外を眺めると、水彩で描いたような透明な空模様だった。
本格的な夏が到来したら、さすがにロードバイクでは走れない。だから今週末辺り、ちょっと遠出してみようか。そう思うくらいには、印象的な空だった。
放課後、鞄を片手に廊下を歩きながらまた空を見ていたときだった。
ふとすれ違った先輩に見覚えがあった気がして、圭悟は振り向いた。
「……あ」
女の子だからというわけじゃなかった。特に中学生くらいの頃、圭悟を陰キャ呼ばわりするのは女の子が多くて、むしろ女の子は苦手だった。
でもその先輩に振り向いてしまったのは、心の奥に仕舞っていた箱がふいに開いたような感覚だった。
振り向いた先では、もうだいぶ先まで歩いていた先輩の背中しか見えなかった。
どうしてか先輩が悪戯っぽく笑っている気がして、圭悟は不思議な気分で立ちすくんだ。
家に帰って、小中学校のときの卒業アルバムを開いた。でもアルバムにその先輩はいなくて、部活や塾でも彼女と一緒になった覚えはなかった。
名前は一応知っている。二年生の、湊戸先輩。特に目立つ噂も聞いていないはずなのに、名前は知っているのが少しだけ不思議だった。
週末、ロードバイクで出かけた先でも、またふと先輩のことを考えていた。
まだ涼しい午前九時、早々に川のそばで涼を取りながら本を読んでいた。でも実は本の内容はちっとも頭に入っていなくて、記憶の中で湊戸先輩を探していた。
どうしてかな、そんなに悪い気持ちじゃない。圭悟はそう思って、じゃあどうして思い出せないだろうと不思議になる。
だから繰り返し考えてしまうのだろうけど、自分の気持ちの正体はわからない。
「何を読んでいるの?」
顔を上げたところに湊戸先輩の顔があったとき、圭悟は喉が詰まるくらいに驚いた。
「いつも本を読んでいるよね」
こんなに近くで見たことは初めてで、知らなかった。湊戸先輩は、まなじりのすっと通った目をした、落ち着いた雰囲気の人だった。制服とは違うレモンイエローのスカートと白いブラウスが、陽の光に映えていた。
圭悟は一瞬、何を訊かれたのかもわからなかったくらい、まじまじと先輩を見返してしまった。
でも一息ついて落ち着きを取り戻すと、圭悟は陰キャと呼ばれる平坦さで答える。
「新書です。兄の本棚から適当に持ち出してて」
「小説じゃないんだ」
「勉強の合間に読むものだから、先が気になるものは好きじゃなくて」
圭悟はひととおり答えてから、どうしてここに先輩がいるのだろうと思う。
身軽な格好で、自転車に乗ってきた様子もないから、家が近いのかもしれない。
家……そう思ったとき、少しだけ記憶の蓋が開く気配がした。
おひさまが赤くなる頃には家に帰らないと……。祖母の言葉が耳に蘇る。
でも今はこれから明るい陽射しが差し込む時間帯で、時間はまだたくさんある。
子どもの頃と違う今を実感して、圭悟は現在に戻って来る。
ふいに先輩は内緒話をするように声をひそめる。
「小説みたいな話をしようと思って、来たんだけど。聞きたい?」
圭悟はごくんと息を呑んで、先輩を見返した。
瞬間、圭悟の目の前を子どもの頃の光景が走っていった。積み木のような小さな家、完成できなかった木の葉のパズル……狐の尻尾。
夢の中のような不思議を信じるには、圭悟はもう高校生になっている。
でも心に仕舞ってある思い出は、決して悪いものだとは思わない。
圭悟はその気持ちを受け入れて、先輩に言う。
「……狐の尻尾は、隠せるようになったんですね」
そう言った途端の、先輩の表情の変化は鮮やかだった。
先輩は見覚えのある、悪戯っぽい楽しげな笑顔を浮かべてみせた。
「覚えててくれたんだ」
圭悟はそれに見惚れた自分に気づいて、いつかのように恥ずかしいような気持ちになった。
先輩は圭悟の目をのぞきこみながら、口を開く。
「そうだよ。夏の始まりは、少し不思議なことが起こってね……」
そうやって、先輩は宝箱を次々と開いていくように語り出す。
初夏の橋の下、小さな日陰で悪戯な先輩から聞いた、不思議な世界の物語。