そう言ったのと同時に、ぶわぁっとみぃちゃんの目から大量の水が溢れ出てくる。
 僕は、みぃちゃんの言葉の意味を理解するよりも先に、その華奢な体を抱き寄せていた。それに応えるように、みぃちゃんの細い腕が、僕の首に回ってくる。みぃちゃんの背中を摩りながら、先ほどの言葉の意味を考えた。
 たっちゃんのこと、忘れられなかったんだよ――。たしかに、みぃちゃんはそう言った。僕のことが忘れられなくて、みぃちゃんはあの男と別れた。
 嬉しさと同時に、とてつもない罪悪感が襲ってきた。
 あの小説を読んだせいだろう。
 小説の主人公は、家族の幸せを何よりも大切に思い、一番好きだった人に別れを告げた。バッドエンドではあったけれど、それは正しいことなのかもしれない、と思っていた。
 創作された物語であれば、これはハッピーエンドなのだろう。しかし、これは現実であって、僕以外の人と幸せになるはずだったみぃちゃんは――家族になった人を捨てたみぃちゃんは、僕のもとへと戻ってきた。
 このまま、僕らは幸せになっていいのだろうか?
 そんな考えが頭をよぎって、二年前に言えずにいた言葉を、いま一番伝えたい言葉を、口に出せずにいた。
 みぃちゃんは少し落ち着いたのか、僕の胸に手を押し当てると、そっと体を離した。

「ごめんっ」
「あぁ、いや……」

 どうすればいいかわからず、狼狽える。

「本当は、その小説の主人公みたいに、きっぱりと別れを告げられるような、かっこいい女性になりたかったの」
「……うん、」
「でも、もうそんなの無理。わたしは、巡り合わせだとか運命だとか、そんなの信じたくない。だって――」

 みぃちゃんの真っ直ぐな視線が、

「わたしは、たっちゃんのこと、諦めたくないから」

 言葉が、僕の心を貫いた。

「みぃちゃん、僕っ……」
「うん、」
「僕、みぃちゃんのことがずっと好きだった。いまも、変わらず」

 みぃちゃんの顔から、笑みが溢れる。
 僕もそれにつられて、微笑んだ。

「……わたしも、たっちゃんのことが好き」

 そう伝えあったあとは、もう、あの本なんて僕たちには必要なかった。
 トートバッグの中で本をもう一度眠らせ、川沿いの道を、僕がクロスバイクを押しながら、二人で歩いた。
 日は大きく傾き、空はオレンジ色に染められていた。
 左を向けば、大きな川。右を向けば、昔馴染みの住宅地。その住宅地のうちの、年季が入った一軒家のベランダから、きょろきょろと様子を伺う一人の影。

「あれ、おばさんじゃない?」
「あぁ……うん」
「手振ってあげなよ!」
「嫌だよ。恥ずかしい」
「そんなこと言ってないでさ、ほらっ。おーいっ!」
「ちょっ、ばかっ」

 みぃちゃんが、母親に向かって大きく手を振る。
 気づいた母親が、こちらに手を振り返す。

「みぃちゃんじゃなーい! どおしたの!」
「帰ってきましたーっ!」
「あらそお! おかえりぃ!」

 大きな声で、自然と会話が繰り広げられている。恥ずかしくないのだろうか。

「ちょっと、やめなって」
「いいじゃん、これくらい。おばさん、昔からあそこのベランダで、たっちゃんが帰ってくるの待ってたんだよ?」
「えっ?」
「もしかして、知らなかったの?」

 愛情だねぇ、とみぃちゃんが呟いた。
 いままで鬱陶しく思っていた母親の行動が、なんだか急に、ありがたく、愛おしく思えてきた。

「……っ、ただいまーっ!」

 その日、僕は初めて、堤防道から母親に向かって手を振った。
 大好きな人の、隣を歩きながら。

fin.