――また、声をかけられなかったな。
蝉の声を聴きながら、僕は小さくため息を漏らした。
これで何度目だろう。今日こそはと思ったのに。
少し前、好きなひとができた。
最近通い始めたカフェでバイトをしている女の子だ。大学内でも何度か見かけたことがあるから、たぶん同じ大学生。だけど、それ以外はなにも知らない。
名前も、年齢も、彼氏がいるのかすらも。
毎日、カフェに着くまで今日こそはぜったいに声をかけると心に決めているのに。
いざ彼女を前にすると、途端に勇気が萎んでしまう。彼女と目が合うと、頭のなかが真っ白になってしまうのだ。とんだチキンだ。
彼女を好きになるまで、僕はじぶんがこんなに意気地無しだとは知らなかった。
なんの成果もなく僕は毎日カフェに通い続けて、結果珈琲には結構詳しくなった(気がする)。
彼女は、そのうちに僕の顔を覚えてくれたらしく、僕が行くと会釈してくれるようにはなった。けれど、それだけ。
彼女のなかで、僕はただの客のひとりに過ぎない。最近ちょっとよく見るな、くらいの。
彼女は、カフェではとても人気者で、いつもいろんな客に声をかけられていた。
彼女の周囲は、まるで太陽系のようだった。
僕には到底手の届かないひとなのだ。そう思いつつも、顔を覚えてくれているんだから、と、一抹の希望を捨てきれずにいた。
「――にゃあ」
不意に、腕のなかにいた猫が鳴いた。
「あっ」
ハッとして、僕は仔猫を脇に下ろす。
「ごっ、ごめん!」
仔猫は僕から離れると、ぷるぷると身体を震わせた。
うっかり強く抱き締め過ぎてしまったかもしれない。大丈夫だったかなと小さな背中を撫でると、仔猫は僕を見上げて「にゃあ」と鳴いた。
よかった。なんでもないようだ。怪我でもさせていたら大変なことだった。
気を取り直して、本を開く。猫についての本だった。
この仔猫は、最近ここに来るようになって見つけた猫だ。まだ子どものようだが、警戒心が強く、寄ろうとすると威嚇してくるので知らんふりしていた。
しかし、このあいだはどんな心境の変化か、急にそばへ来たかと思うと、すりすりと身を寄せてきたのだ。
二、三日前のことだっただろうか。
今までじぶんのそばへ来ることなんて一度もなかったのに、と驚いた記憶がある。
この河川敷の近くには、民家はない。母猫の姿も見たことがない。一度、ひどい夕立にあってここへ来たときも、この仔猫は一匹だった。
雨に濡れて冷えたのか、ぷるぷると小さな身体を震わせているものだから、さすがに可哀想になってバッグに入っていた使っていないほうのタオルを貸してやったのだ。
仔猫は、このあたりに住み着いた野良猫なのだろう。こんな小さいのに。
「……お前も、いつもひとりだな」
そっと、驚かせないように声をかけてみる。すると仔猫は僕をまっすぐに見あげて、「にゃあ」と鳴いた。
「……僕も同じだ。僕も……好きなひとがいるんだけどね。なかなか、うまくいかなくて」
その日、僕は彼女へ伝えられなかった想いをこの仔猫に訴えた。おかげでずいぶん心は楽になった。
仔猫はガラス玉のような瞳で、まばたきもせずにじっと僕を見つめていた。
近くで見ると、作りもののように美しい顔をした猫だった。
その日から、仔猫は僕に懐くようになった。自由なものだな、と呆れもしたが、甘えられるのは案外嬉しかった。
「にゃあ」
仔猫が僕を見上げて鳴き声を上げる。
そういえば、まだ名前を決めていない。そろそろ名前のひとつでもないと呼びづらい。だけど、飼っているわけでもないのに勝手に名前なんてつけてもいいのだろうか。
そんなことを思っていたときだった。
かさり、と草が擦れる音がした。顔を上げると、目の前にいたのは――。
「ねぇ、きみ」
目の前にいたのは、僕が一目惚れした彼女だった。
僕は驚きのあまり、というか、話しかけられたことが理解できなくて、声が出なかった。
「ねぇ、この子ってもしかして、きみが飼ってるの?」
彼女は、僕のとなりに腰掛けると、頬杖をついて言った。
「……――え?」
***
蒼ざめた夏空の下、僕は一目惚れの彼女と対峙していた。
「あ、いきなり話しかけてごめんね! 私、天風織花! 帯平大学の三年で、このすぐ近くにあるカフェでバイトしてるんだけど」
「あ……は、はい。どうも……」
ひょんなことから彼女の名前と年齢まで知ることができ、内心驚く。というか、僕より歳上だったとは。同じ歳か、一年生だと思っていた。
「あ……あの、えっと」
僕はどぎまぎしながらも必死に言葉を探した。しかし、気の利いた言葉なんて浮かぶはずもなく、ただそばにいた仔猫を抱き上げた。
「いきなり話しかけてごめんね! この子、きみにすごい懐いてるみたいだから、もしかして飼い主なのかなって」
「いや……違います」
ぶんぶんと首を横に振る。
「そうなんだ。バイト休憩のときとか、たまにこの仔猫見かけるんだけど、私が触ろうとすると逃げちゃうんだよね」
「そうなんですか」
「うん! 私、猫が大好きだからこの子のこと可愛がりたいんだけど」
言いながら、彼女は仔猫に手を伸ばす。すると、仔猫は警戒心をあらわに、ふーっと毛を逆立てた。
「きらわれてるみたい」と、彼女は苦笑した。
そういえば、出会った頃は僕に対してもこんな調子だったかもしれない。
「ねぇ、名前なんて言うの?」
「え? ……あ、えっと……この仔猫は、僕もたまにここで見かけるだけだから、名前はないっていうか……」
たった今付けようとしていたところだけれど、正直、今は猫の命名どころじゃない。
こんな至近距離で彼女と目を合わせて、且つ会話をしているなんて状況。冷静でいられるわけもない。
頭のなかは真っ白だ。
それでもなんとか、しどろもどろになりつつそう答えた。すると、彼女は小さく笑って首を振った。
「違うよ、きみの名前だよ」
「えっ。僕?」
「うん。きみ」
考えてみれば、それもそうか。
「えっと……水上星夜、です」
「セイヤくんって、どういう字?」
名前を呼ばれ、どきんと心臓が跳ねた。
「ええと……星の夜って書いて星夜……です」
「へぇ。すてきな名前だね」
彼女はにっこりと微笑む。それだけで、僕の心臓ははち切れんばかりに高鳴っている。
「ねえきみ、いつもカフェに来てくれてる子だよね?」
どきりとした。
「あ、いや、そ、それはたまたま大学が近くて……あと、あのカフェの雰囲気が気に入ってて」
ストーカーだと思われたらと怖くて、僕はつい早口になった。
「大学が近いってことはもしかして、星夜くんも帯平大学? 何年?」
慌てる僕の様子を気にすることなく、彼女はさらに問いかけてくる。
「二年です。二年の文学部で……」
「文学部? 私も私も! すごい偶然じゃん」
「……そうなんですね」
知らなかったふうの相槌を打ちながら、内心では少しがっかりしていた。やっぱり彼女にとって僕は、カフェに来るただの客でしかなかったのだ。
「もしかしたら、構内でも会ってたかもね!」
「……そう、ですね」
――実際会ってるんだけどな、何度も。
「私ね、カフェできみを見かけるたび、話してみたいなって思ってたんだ」
「えっ?」
驚いて顔を上げる。目を丸くする僕を見て、彼女は目の下あたりをほんのり赤らめて、はにかむようにして笑った。
「なんていうか、ほかのお客さんとはなんか違うなぁって思ってて。いつもひとりだったし。だからなんか気になってたんだ。うまく説明できないけど」
――見られてた。というか、僕のこと、結構見ててくれてたんだ。
嬉しいような、恥ずかしいような。じわじわと顔が真っ赤になるのを感じた。
「今日、ここに来てみてよかった。この子のおかげできみに会えた」
「この子?」
「うん、この仔猫ちゃん」
彼女は僕が抱いている仔猫を見た。
「今日、カフェの入口にたまたまこの子がいてさ。ちょうど休憩時間だったから、追いかけてきたの。そうしたらここに行き着いて、それでもってきみがいたってわけ」
「……そう、だったんですか」
「私ね、猫が大好きなんだけど、お母さん猫アレルギーだから飼えなくて」
僕は仔猫と彼女を交互に見た。
仔猫は、僕の腕のなかでごろごろと喉を鳴らしている。ずいぶん気を許してくれているみたいだ。
「……触ってみますか?」
「えっ?」
彼女が目を丸くする。
「たぶん、僕がこのまま抱いてれば逃げないと思うから」
大きな瞳が、きらりと輝く。
「いいの?」
「うん、優しく……してあげてください。まだ仔猫で、結構臆病だから」
僕は仔猫を見る。仔猫も僕を見て、「にゃあ」と鳴いた。
「もちろん! じゃあ……そっと」
彼女はおそるおそるといったかんじで、仔猫に手を伸ばす。彼女の細く小さな手が、仔猫の頭を撫でる。
「わっ……ふわふわだぁ」
仔猫は逃げることなく、僕の腕のなかでじっとしていた。少しだけ身体が強ばっているようだったが、次第に解けていった。彼女に悪意がないことが伝わったのだろう。
「めっちゃ可愛いね!」
仔猫に触れた彼女は、今まで見たことないくらいにとろけた笑顔で僕を見た。
「そ……う、ですね」
不意打ちの笑顔に、僕は思わず赤面する。
「やっぱり猫は可愛いなぁ……」
思ったよりおとなしい仔猫に安心しつつ、僕は彼女の笑顔を盗み見る。
ぱたぱたと揺れる長いまつ毛に縁取られた瞳はしっとりと濡れていて、きらきらしていた。光の加減で青にも緑にも見える。僕が見ているものとはまた違った世界を映しているような不思議な瞳だと思った。
不意に、彼女が瞬きをした。
「ねぇ、この子って、ここに住み着いてるんだよね?」
「え?」
ぱちりと目が合い、ハッとする。
「あ……そうですね、たぶん。ここに来ると、いつもいるから。母猫は見たことないけど……」
「じゃあこの子、ひとりぼっちなのかな」
「……そうですね」
僕は小さく頷く。
「……そういえば猫って、赤系の色が分からないんだっけ」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。前に本で読んだんだ。……それを知ってからかな。同じものを見ていても、ひとによって見えかたが違うかもしれないんだって意識するようになったのは」
「ひとによって……」
「そうやって生活してみると結構楽しくて、どんどんひとに興味が湧いてくるのよね」
「へぇ……」
僕では考えもしなかったことだ。
まさか、猫が赤を認識できていなかったなんて。僕はちらりと背後に置いてある自転車を見た。自転車のボディは、深い赤色だ。
この仔猫に僕の自転車は、何色に見えているのだろう……。
「きみの見ている景色と、私が見ている景色もきっと違う。そう考えると不思議だし、お互いのこと気になっちゃうよね」
と、彼女は言いながら僕の顔を覗き込んだ。
「そっ……そう、ですね」
どきどきしながらなんとか頷く僕の横で、
「あっ、そうだ!」
いいこと考えた、と、彼女が一際明るい声を出す。
「これからふたりで、この子のお世話しない?」
世界中の音が一瞬にして鳴り止んだように思えた。
「……えっ?」
ここで。ふたりで。
……ふたりで?
「えっと……それってつまり、先輩と僕で、ここでこの仔猫を飼うってことですか?」
「そう!」
屈託のない笑顔を見せる彼女に、僕は目を丸くする。
「私ひとりじゃ、たぶんこの仔猫逃げちゃうしさ」
「それは……」
たしかに。
「仔猫が懐いてくれてるきみがいれば、私もこの子に気に入ってもらえるかもしれないし? あ、もちろん猫缶とかのお金は私が出すし!」
「いや、お金は僕も出しますけど……」
ちらりと仔猫を見る。仔猫はなんのことやら、きょとんとした顔で僕を見上げている。
……どうしよう。どうしたらいいんだろう。
彼女の提案はこれ以上ないくらいに嬉しい。
けれど。こんな急に距離が縮まるだなんて思ってもいなくて、ちょっと怖気付いてしまう。
黙り込んでいると、視界の端で彼女の前髪が揺れた。
ハッと息を呑む。すぐ目の前に、彼女の顔があった。覗き込むようにして、僕を見ている。
「ダメ?」
「えっと……ダメではないですけど……」
一度濁してみたものの、結局彼女の圧に押し負けて、
「わ、分かりました……」
気が付けば、そんな言葉を口走っていた。
「やたっ!」
彼女が嬉しそうに笑う。
「ありがとう! お礼にカフェでカフェモカを一杯ごちそうするね!」
「カフェモカ?」
「うん! あのカフェはね、実はカフェモカがいちばん美味しいんだよ」
「……知らなかった」
「きみ、カフェモカ好き?」
僕はこくりと頷いた。
「……好きです」
言ってから、顔を背ける。
やばい。耳まで熱い。どうしよう、今ぜったい茹でダコだ。
「よかった!」
と、僕の心の内を知らない彼女は、無邪気に笑っている。
「私のことは、織花って呼んで。私は星夜くんって呼ぶね」
「……はい」
名前を呼ばれた嬉しさにむずむずしながらも、僕はそれを悟られないよう、なんとか真顔のまま頷いた。
「にゃあ」
仔猫が鳴く。
僕は仔猫を抱き上げ、じっとその目を見つめた。
よく見ると、仔猫の瞳は美しい黄金色をしていた。
「にゃっ」
もう一度、仔猫が鳴く。どこか、得意げな顔に見えたが――まぁ気のせいだろう。
それにしても、
「……人生って分からない」
小さく呟きながら、僕は織花さんを見る。
「え?」
彼女が顔を上げる。
「なんか言った?」
「あ……いや……。まさか、こんな展開になるなんて夢にも思わなかったな、って」
ずっと焦がれていたひとがこんな近くにいるなんて。それでもって、彼女と仔猫の世話をすることになるなんて。
「ふふ。私も」
風が彼女の柔らかな栗色の髪の毛をさらう。微笑んだ織花さんは、びっくりするほど美しい。
「この子、月みたいな瞳してるね」
「月?」
「そう。きれいな黄金色」
「……言われてみれば」
「ね、この子の名前、私が決めてもいい?」
「いいですけど……」
「じゃあ、月にしよ!」
「月? それってもしかして」
とある猫のキャラクターを連想した僕に、織花さんはにやりと意味深に微笑んだ。
「私、セーラームーン大好きだったの!」
やっぱりか、と僕は苦笑を漏らす。
「……僕も、姉がいたからセーラームーンは小さい頃ちょっと見てました」
「ほんと!?」
美少女たちが変身して悪役を倒すという女の子版のヒーローアニメだ。アニメには惑星の名を冠した美少女たちが出てくるのだが、それぞれ惑星にちなんだ特徴を持っている。そのため、惑星の勉強をするとき、あのアニメを参考にしたらすごく覚えやすくて助かった。
そう言うと、織花さんは大きな瞳をさらに大きく輝かせた。
「ほんと? 星夜くんはだれが好きだった? 私はやっぱりうさぎちゃんが……」
織花さんはそれから、楽しそうにセーラームーンの話を始めた。とても、無邪気な笑顔で。
僕はその笑顔に見惚れつつ、相槌を打った。
どうやら、彼女はアニメが好きらしい。少し意外だったけれど、彼女の新たな一面が知れたことは純粋に嬉しかった。
僕は、大好きなアニメを語る織花さんを、太陽でも見るかのように目を細めて見つめた。
僕もアニメはよく見るけれど、陰キャ趣味だと思われてしまいそうでじぶんから口にしたことはなかった。
好きなものを好きとまっすぐに言ってしまう織花さんは、とても眩しかった。織花さんはしばらく話したあと、おもむろに「やば! 休憩時間終わってた!」と慌てて立ち上がった。
「ごめん、星夜くん。私そろそろバイト戻るね!」
「あ、はい」
ならって立ち上がった僕に、彼女はハッとした顔をして、
「あ、その前に連絡先教えてよ」
と、言った。
メッセージアプリを開き、友だち登録を済ませると、彼女は安心したように微笑んで、手を振って高架下から出ていった。
彼女の姿が見えなくなり、僕はふうっと息を吐く。
まるで夢のような時間だった。いったいどれくらいの時間、僕は彼女と話していたのだろう。
友だち欄に追加された織花さんの名前を見つめながら、僕は高鳴る心臓を押さえた。
風が吹いた。ぽつ、と雫が頬を撫でたような気がして、顔を上げる。
空には、少し傾いた太陽と、澄んだ蒼。雲はほとんどない。
雨ではなかった。おそらく、草花に落ちていた露が、風で飛ばされて降りかかったのだろう。
僕は空から地面に視線を落とした。足元には、仔猫がいる。顔を洗っていた。仔猫にも露が降りかかったのかもしれない。
「……月」
織花さんが決めた名前で、仔猫を呼んでみる。すると仔猫はぴたりと動きを止めて、僕を見上げた。僕は月を抱き上げて、視線を合わせた。
黄金色の澄んだ瞳には、頬を赤く染めた僕が映っている。
まるきり、恋をしている顔だった。
うわ。もしかして僕、こんな顔で彼女と話してたのか。
今さらになって、恥ずかしさが込み上げてくる。
さらに頬を染めた僕を見て、月はやっぱり得意げな顔で「にゃあ」と鳴くのだった。
蝉の声を聴きながら、僕は小さくため息を漏らした。
これで何度目だろう。今日こそはと思ったのに。
少し前、好きなひとができた。
最近通い始めたカフェでバイトをしている女の子だ。大学内でも何度か見かけたことがあるから、たぶん同じ大学生。だけど、それ以外はなにも知らない。
名前も、年齢も、彼氏がいるのかすらも。
毎日、カフェに着くまで今日こそはぜったいに声をかけると心に決めているのに。
いざ彼女を前にすると、途端に勇気が萎んでしまう。彼女と目が合うと、頭のなかが真っ白になってしまうのだ。とんだチキンだ。
彼女を好きになるまで、僕はじぶんがこんなに意気地無しだとは知らなかった。
なんの成果もなく僕は毎日カフェに通い続けて、結果珈琲には結構詳しくなった(気がする)。
彼女は、そのうちに僕の顔を覚えてくれたらしく、僕が行くと会釈してくれるようにはなった。けれど、それだけ。
彼女のなかで、僕はただの客のひとりに過ぎない。最近ちょっとよく見るな、くらいの。
彼女は、カフェではとても人気者で、いつもいろんな客に声をかけられていた。
彼女の周囲は、まるで太陽系のようだった。
僕には到底手の届かないひとなのだ。そう思いつつも、顔を覚えてくれているんだから、と、一抹の希望を捨てきれずにいた。
「――にゃあ」
不意に、腕のなかにいた猫が鳴いた。
「あっ」
ハッとして、僕は仔猫を脇に下ろす。
「ごっ、ごめん!」
仔猫は僕から離れると、ぷるぷると身体を震わせた。
うっかり強く抱き締め過ぎてしまったかもしれない。大丈夫だったかなと小さな背中を撫でると、仔猫は僕を見上げて「にゃあ」と鳴いた。
よかった。なんでもないようだ。怪我でもさせていたら大変なことだった。
気を取り直して、本を開く。猫についての本だった。
この仔猫は、最近ここに来るようになって見つけた猫だ。まだ子どものようだが、警戒心が強く、寄ろうとすると威嚇してくるので知らんふりしていた。
しかし、このあいだはどんな心境の変化か、急にそばへ来たかと思うと、すりすりと身を寄せてきたのだ。
二、三日前のことだっただろうか。
今までじぶんのそばへ来ることなんて一度もなかったのに、と驚いた記憶がある。
この河川敷の近くには、民家はない。母猫の姿も見たことがない。一度、ひどい夕立にあってここへ来たときも、この仔猫は一匹だった。
雨に濡れて冷えたのか、ぷるぷると小さな身体を震わせているものだから、さすがに可哀想になってバッグに入っていた使っていないほうのタオルを貸してやったのだ。
仔猫は、このあたりに住み着いた野良猫なのだろう。こんな小さいのに。
「……お前も、いつもひとりだな」
そっと、驚かせないように声をかけてみる。すると仔猫は僕をまっすぐに見あげて、「にゃあ」と鳴いた。
「……僕も同じだ。僕も……好きなひとがいるんだけどね。なかなか、うまくいかなくて」
その日、僕は彼女へ伝えられなかった想いをこの仔猫に訴えた。おかげでずいぶん心は楽になった。
仔猫はガラス玉のような瞳で、まばたきもせずにじっと僕を見つめていた。
近くで見ると、作りもののように美しい顔をした猫だった。
その日から、仔猫は僕に懐くようになった。自由なものだな、と呆れもしたが、甘えられるのは案外嬉しかった。
「にゃあ」
仔猫が僕を見上げて鳴き声を上げる。
そういえば、まだ名前を決めていない。そろそろ名前のひとつでもないと呼びづらい。だけど、飼っているわけでもないのに勝手に名前なんてつけてもいいのだろうか。
そんなことを思っていたときだった。
かさり、と草が擦れる音がした。顔を上げると、目の前にいたのは――。
「ねぇ、きみ」
目の前にいたのは、僕が一目惚れした彼女だった。
僕は驚きのあまり、というか、話しかけられたことが理解できなくて、声が出なかった。
「ねぇ、この子ってもしかして、きみが飼ってるの?」
彼女は、僕のとなりに腰掛けると、頬杖をついて言った。
「……――え?」
***
蒼ざめた夏空の下、僕は一目惚れの彼女と対峙していた。
「あ、いきなり話しかけてごめんね! 私、天風織花! 帯平大学の三年で、このすぐ近くにあるカフェでバイトしてるんだけど」
「あ……は、はい。どうも……」
ひょんなことから彼女の名前と年齢まで知ることができ、内心驚く。というか、僕より歳上だったとは。同じ歳か、一年生だと思っていた。
「あ……あの、えっと」
僕はどぎまぎしながらも必死に言葉を探した。しかし、気の利いた言葉なんて浮かぶはずもなく、ただそばにいた仔猫を抱き上げた。
「いきなり話しかけてごめんね! この子、きみにすごい懐いてるみたいだから、もしかして飼い主なのかなって」
「いや……違います」
ぶんぶんと首を横に振る。
「そうなんだ。バイト休憩のときとか、たまにこの仔猫見かけるんだけど、私が触ろうとすると逃げちゃうんだよね」
「そうなんですか」
「うん! 私、猫が大好きだからこの子のこと可愛がりたいんだけど」
言いながら、彼女は仔猫に手を伸ばす。すると、仔猫は警戒心をあらわに、ふーっと毛を逆立てた。
「きらわれてるみたい」と、彼女は苦笑した。
そういえば、出会った頃は僕に対してもこんな調子だったかもしれない。
「ねぇ、名前なんて言うの?」
「え? ……あ、えっと……この仔猫は、僕もたまにここで見かけるだけだから、名前はないっていうか……」
たった今付けようとしていたところだけれど、正直、今は猫の命名どころじゃない。
こんな至近距離で彼女と目を合わせて、且つ会話をしているなんて状況。冷静でいられるわけもない。
頭のなかは真っ白だ。
それでもなんとか、しどろもどろになりつつそう答えた。すると、彼女は小さく笑って首を振った。
「違うよ、きみの名前だよ」
「えっ。僕?」
「うん。きみ」
考えてみれば、それもそうか。
「えっと……水上星夜、です」
「セイヤくんって、どういう字?」
名前を呼ばれ、どきんと心臓が跳ねた。
「ええと……星の夜って書いて星夜……です」
「へぇ。すてきな名前だね」
彼女はにっこりと微笑む。それだけで、僕の心臓ははち切れんばかりに高鳴っている。
「ねえきみ、いつもカフェに来てくれてる子だよね?」
どきりとした。
「あ、いや、そ、それはたまたま大学が近くて……あと、あのカフェの雰囲気が気に入ってて」
ストーカーだと思われたらと怖くて、僕はつい早口になった。
「大学が近いってことはもしかして、星夜くんも帯平大学? 何年?」
慌てる僕の様子を気にすることなく、彼女はさらに問いかけてくる。
「二年です。二年の文学部で……」
「文学部? 私も私も! すごい偶然じゃん」
「……そうなんですね」
知らなかったふうの相槌を打ちながら、内心では少しがっかりしていた。やっぱり彼女にとって僕は、カフェに来るただの客でしかなかったのだ。
「もしかしたら、構内でも会ってたかもね!」
「……そう、ですね」
――実際会ってるんだけどな、何度も。
「私ね、カフェできみを見かけるたび、話してみたいなって思ってたんだ」
「えっ?」
驚いて顔を上げる。目を丸くする僕を見て、彼女は目の下あたりをほんのり赤らめて、はにかむようにして笑った。
「なんていうか、ほかのお客さんとはなんか違うなぁって思ってて。いつもひとりだったし。だからなんか気になってたんだ。うまく説明できないけど」
――見られてた。というか、僕のこと、結構見ててくれてたんだ。
嬉しいような、恥ずかしいような。じわじわと顔が真っ赤になるのを感じた。
「今日、ここに来てみてよかった。この子のおかげできみに会えた」
「この子?」
「うん、この仔猫ちゃん」
彼女は僕が抱いている仔猫を見た。
「今日、カフェの入口にたまたまこの子がいてさ。ちょうど休憩時間だったから、追いかけてきたの。そうしたらここに行き着いて、それでもってきみがいたってわけ」
「……そう、だったんですか」
「私ね、猫が大好きなんだけど、お母さん猫アレルギーだから飼えなくて」
僕は仔猫と彼女を交互に見た。
仔猫は、僕の腕のなかでごろごろと喉を鳴らしている。ずいぶん気を許してくれているみたいだ。
「……触ってみますか?」
「えっ?」
彼女が目を丸くする。
「たぶん、僕がこのまま抱いてれば逃げないと思うから」
大きな瞳が、きらりと輝く。
「いいの?」
「うん、優しく……してあげてください。まだ仔猫で、結構臆病だから」
僕は仔猫を見る。仔猫も僕を見て、「にゃあ」と鳴いた。
「もちろん! じゃあ……そっと」
彼女はおそるおそるといったかんじで、仔猫に手を伸ばす。彼女の細く小さな手が、仔猫の頭を撫でる。
「わっ……ふわふわだぁ」
仔猫は逃げることなく、僕の腕のなかでじっとしていた。少しだけ身体が強ばっているようだったが、次第に解けていった。彼女に悪意がないことが伝わったのだろう。
「めっちゃ可愛いね!」
仔猫に触れた彼女は、今まで見たことないくらいにとろけた笑顔で僕を見た。
「そ……う、ですね」
不意打ちの笑顔に、僕は思わず赤面する。
「やっぱり猫は可愛いなぁ……」
思ったよりおとなしい仔猫に安心しつつ、僕は彼女の笑顔を盗み見る。
ぱたぱたと揺れる長いまつ毛に縁取られた瞳はしっとりと濡れていて、きらきらしていた。光の加減で青にも緑にも見える。僕が見ているものとはまた違った世界を映しているような不思議な瞳だと思った。
不意に、彼女が瞬きをした。
「ねぇ、この子って、ここに住み着いてるんだよね?」
「え?」
ぱちりと目が合い、ハッとする。
「あ……そうですね、たぶん。ここに来ると、いつもいるから。母猫は見たことないけど……」
「じゃあこの子、ひとりぼっちなのかな」
「……そうですね」
僕は小さく頷く。
「……そういえば猫って、赤系の色が分からないんだっけ」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。前に本で読んだんだ。……それを知ってからかな。同じものを見ていても、ひとによって見えかたが違うかもしれないんだって意識するようになったのは」
「ひとによって……」
「そうやって生活してみると結構楽しくて、どんどんひとに興味が湧いてくるのよね」
「へぇ……」
僕では考えもしなかったことだ。
まさか、猫が赤を認識できていなかったなんて。僕はちらりと背後に置いてある自転車を見た。自転車のボディは、深い赤色だ。
この仔猫に僕の自転車は、何色に見えているのだろう……。
「きみの見ている景色と、私が見ている景色もきっと違う。そう考えると不思議だし、お互いのこと気になっちゃうよね」
と、彼女は言いながら僕の顔を覗き込んだ。
「そっ……そう、ですね」
どきどきしながらなんとか頷く僕の横で、
「あっ、そうだ!」
いいこと考えた、と、彼女が一際明るい声を出す。
「これからふたりで、この子のお世話しない?」
世界中の音が一瞬にして鳴り止んだように思えた。
「……えっ?」
ここで。ふたりで。
……ふたりで?
「えっと……それってつまり、先輩と僕で、ここでこの仔猫を飼うってことですか?」
「そう!」
屈託のない笑顔を見せる彼女に、僕は目を丸くする。
「私ひとりじゃ、たぶんこの仔猫逃げちゃうしさ」
「それは……」
たしかに。
「仔猫が懐いてくれてるきみがいれば、私もこの子に気に入ってもらえるかもしれないし? あ、もちろん猫缶とかのお金は私が出すし!」
「いや、お金は僕も出しますけど……」
ちらりと仔猫を見る。仔猫はなんのことやら、きょとんとした顔で僕を見上げている。
……どうしよう。どうしたらいいんだろう。
彼女の提案はこれ以上ないくらいに嬉しい。
けれど。こんな急に距離が縮まるだなんて思ってもいなくて、ちょっと怖気付いてしまう。
黙り込んでいると、視界の端で彼女の前髪が揺れた。
ハッと息を呑む。すぐ目の前に、彼女の顔があった。覗き込むようにして、僕を見ている。
「ダメ?」
「えっと……ダメではないですけど……」
一度濁してみたものの、結局彼女の圧に押し負けて、
「わ、分かりました……」
気が付けば、そんな言葉を口走っていた。
「やたっ!」
彼女が嬉しそうに笑う。
「ありがとう! お礼にカフェでカフェモカを一杯ごちそうするね!」
「カフェモカ?」
「うん! あのカフェはね、実はカフェモカがいちばん美味しいんだよ」
「……知らなかった」
「きみ、カフェモカ好き?」
僕はこくりと頷いた。
「……好きです」
言ってから、顔を背ける。
やばい。耳まで熱い。どうしよう、今ぜったい茹でダコだ。
「よかった!」
と、僕の心の内を知らない彼女は、無邪気に笑っている。
「私のことは、織花って呼んで。私は星夜くんって呼ぶね」
「……はい」
名前を呼ばれた嬉しさにむずむずしながらも、僕はそれを悟られないよう、なんとか真顔のまま頷いた。
「にゃあ」
仔猫が鳴く。
僕は仔猫を抱き上げ、じっとその目を見つめた。
よく見ると、仔猫の瞳は美しい黄金色をしていた。
「にゃっ」
もう一度、仔猫が鳴く。どこか、得意げな顔に見えたが――まぁ気のせいだろう。
それにしても、
「……人生って分からない」
小さく呟きながら、僕は織花さんを見る。
「え?」
彼女が顔を上げる。
「なんか言った?」
「あ……いや……。まさか、こんな展開になるなんて夢にも思わなかったな、って」
ずっと焦がれていたひとがこんな近くにいるなんて。それでもって、彼女と仔猫の世話をすることになるなんて。
「ふふ。私も」
風が彼女の柔らかな栗色の髪の毛をさらう。微笑んだ織花さんは、びっくりするほど美しい。
「この子、月みたいな瞳してるね」
「月?」
「そう。きれいな黄金色」
「……言われてみれば」
「ね、この子の名前、私が決めてもいい?」
「いいですけど……」
「じゃあ、月にしよ!」
「月? それってもしかして」
とある猫のキャラクターを連想した僕に、織花さんはにやりと意味深に微笑んだ。
「私、セーラームーン大好きだったの!」
やっぱりか、と僕は苦笑を漏らす。
「……僕も、姉がいたからセーラームーンは小さい頃ちょっと見てました」
「ほんと!?」
美少女たちが変身して悪役を倒すという女の子版のヒーローアニメだ。アニメには惑星の名を冠した美少女たちが出てくるのだが、それぞれ惑星にちなんだ特徴を持っている。そのため、惑星の勉強をするとき、あのアニメを参考にしたらすごく覚えやすくて助かった。
そう言うと、織花さんは大きな瞳をさらに大きく輝かせた。
「ほんと? 星夜くんはだれが好きだった? 私はやっぱりうさぎちゃんが……」
織花さんはそれから、楽しそうにセーラームーンの話を始めた。とても、無邪気な笑顔で。
僕はその笑顔に見惚れつつ、相槌を打った。
どうやら、彼女はアニメが好きらしい。少し意外だったけれど、彼女の新たな一面が知れたことは純粋に嬉しかった。
僕は、大好きなアニメを語る織花さんを、太陽でも見るかのように目を細めて見つめた。
僕もアニメはよく見るけれど、陰キャ趣味だと思われてしまいそうでじぶんから口にしたことはなかった。
好きなものを好きとまっすぐに言ってしまう織花さんは、とても眩しかった。織花さんはしばらく話したあと、おもむろに「やば! 休憩時間終わってた!」と慌てて立ち上がった。
「ごめん、星夜くん。私そろそろバイト戻るね!」
「あ、はい」
ならって立ち上がった僕に、彼女はハッとした顔をして、
「あ、その前に連絡先教えてよ」
と、言った。
メッセージアプリを開き、友だち登録を済ませると、彼女は安心したように微笑んで、手を振って高架下から出ていった。
彼女の姿が見えなくなり、僕はふうっと息を吐く。
まるで夢のような時間だった。いったいどれくらいの時間、僕は彼女と話していたのだろう。
友だち欄に追加された織花さんの名前を見つめながら、僕は高鳴る心臓を押さえた。
風が吹いた。ぽつ、と雫が頬を撫でたような気がして、顔を上げる。
空には、少し傾いた太陽と、澄んだ蒼。雲はほとんどない。
雨ではなかった。おそらく、草花に落ちていた露が、風で飛ばされて降りかかったのだろう。
僕は空から地面に視線を落とした。足元には、仔猫がいる。顔を洗っていた。仔猫にも露が降りかかったのかもしれない。
「……月」
織花さんが決めた名前で、仔猫を呼んでみる。すると仔猫はぴたりと動きを止めて、僕を見上げた。僕は月を抱き上げて、視線を合わせた。
黄金色の澄んだ瞳には、頬を赤く染めた僕が映っている。
まるきり、恋をしている顔だった。
うわ。もしかして僕、こんな顔で彼女と話してたのか。
今さらになって、恥ずかしさが込み上げてくる。
さらに頬を染めた僕を見て、月はやっぱり得意げな顔で「にゃあ」と鳴くのだった。