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新菜は天雨家の神域である山の中腹へミツハを案内していた。まだ天雨家に居た頃、家族に難癖をつけられて家を数日間追い出されたときに過ごしていた場所だった。春は山菜、夏は小川の水、秋は木の実、冬は雪を溶かして飢えをしのいだ場所だ。頭上を覆う緑から零れる午後の陽の光を踏みながら、新菜は目的の場所にたどり着く。手のひらほどの楕円の石が四つ、詰まれただけの、簡素な墓。ミツハは自分の前に居る新菜に気付かれないよう、眉宇を寄せた。天宮家の宮巫女であった新菜の母親が、まさか帝都にある天雨家の墓に入らず、こんな侘しい所に居るとは思ってもみなかったのである。
「お母さま、お久しぶりです」
新菜は墓の前に静かに膝をついた。ミツハも倣い、手を合わせる。鳥たちが賑やかに鳴き、梢が風に揺れる音が、新菜の母親を慰めているような気がした。
「結。正当な血筋である君が、まさかこのようなところに眠っているとは思わなかったが、案外君は、しがらみから解き放たれ、安らいでいるのだろうか……」
自分の背後から墓に話し掛けるミツハを、新菜は穏やかな心で見やった。
「……母は、天雨家に居場所がないようでした……。病気がちだったのに手入れの行き届かない離れで過ごしましたし、父も私たちのことにはまるで関心がなかったのだと思います……。ですが、天雨家の巫として舞宮に立って戻って来た時の母は、確かに生き生きとしていたと思います……。母はミツハさまの宮巫女であることを、誇りに思っていた筈です」
静かに静かにそう言うと、ミツハは口の端(は)を小さく上げてくれた。
「結は自分が長くないことを悟っていたと思う……。彼女は君を良い巫に育てると言っていた。最期まで約束を違えない巫女だったよ……」
言葉を切り、ミツハは新菜に並ぶと、もう一度墓石を見つめた。
「結。私は新菜と夫婦(めおと)になった。君が幸せになれなかった分まで、新菜を幸せにすると誓うよ。君の絶たれてしまった生の分、そして新菜の今まで不幸だった時間の分まで、私は彼女を愛しぬこう。約束する。君が命を賭してまで、私に繋いでくれた縁を大事にするよ」
深く蒼い眼差しは、何処までも新菜と母親に対して真摯だった。ミツハが新菜を向き直り、新菜の左手を握った。
「新菜、これを」
ミツハが懐から取り出したものは、頭上の梢から差し込む細い光にきらきらと輝く、小さな輪だった。銀色のつるりとした珠が付いている。
「私の逆鱗で造った指輪だ。私の唯一は、君に着けていてほしい」
あの湖の色と同じ蒼の瞳が新菜をひたと見る。新菜は着物の袷を押さえて申し述べた。
「り……、鱗珠(りんじゅ)を既に頂いておりますが……」
ミツハが新菜を特別だと示すなら、これで十分ではなかろうか。困惑しながら言う新菜に、しかしミツハは深く笑む。
「外つ国の風習を、人々が取り入れ始めていると聞く。結婚指輪(エンゲージリング)の他に結婚記念指輪(ウエディングリング)も仕立てるそうじゃないか。私は君にいくら贈り物をしても足りないくらいなんだ。これくらい、受け取りなさい」
そう言って、ミツハは新菜の左手を取った。月の曲線を描く瞳が新菜を見つめ、薬指に指輪を通していく。じわ、じわ、と硬質な感触が指の皮膚に染みていき、ほんの少しの圧迫感なのに、それは確かにミツハと新菜を繋いでくれた。
指輪を嵌めきってしまうと、ミツハは手を新菜に返してくれた。新菜はぼう、と己の左手を見、そして木漏れ日にかざしてみた。銀の珠に光の粒が弾け飛ぶ。その光景は、新しくなった湖の祠から水宮の奥の池に届いた祈りの輝きにも見え、新菜は胸を熱くした。
ミツハには民が寄り添い、新菜にはミツハが寄り添ってくれる。そのことを改めて理解し、新菜はミツハに深い感謝を述べた。
「ミツハさま、ありがとうございます。ミツハさまの唯一であり続けられるよう、努めます」
微笑むと、ミツハは恭しく新菜の額の印(いん)に口づけた。契約の為に受けるそれよりも、もっと新菜の胸の底を溶かしてしまう熱に、新菜はくらくらした。
「私も君に愛想をつかされないよう、努めよう」
少しいたずら気味な表情でミツハが言うから、新菜もふふっと笑ってしまった。
母を弔ったころには思いもしなかった未来に、自分は立っている。ここへ導いてくれた彼女に改めて新菜は感謝した。
「お母さま……。私をお母さまの子として産んでくださって、ありがとうございました。私、ミツハさまと幸せになります」
*
帝都に戻り、ミツハを祀る神社の門前町に来た。チコと鯉黒に土産を買って帰ろうという話になり、土産物屋を見てまわる。ふと、新菜に声を掛ける人が居た。
「おや、この前のお嬢さん。水ようかんは口に合ったかい?」
声の主を見ると、水ようかん屋の主人だった。にこにこと人の好い笑みを浮かべている。
「はい、おかげさまで、みんなで美味しくいただきました」
「そいつぁ良かった。その言葉を、きっと天雨神さまも喜んでくださるだろうな。しかし、お嬢さんも隅に置けないねえ。お連れがこの前と違うじゃないか」
主人の言葉に、ミツハがピクリと反応する。
「新菜……。私と違う連れというのは……」
心なしか、声も低い。新菜は慌てて弁明した。
「あ、あの……、アマサトさまにこちらに降ろして頂いたときにこのお店を訪れたのですが、ナキサワさまが偶然いらして……」
ナキサワ、の言葉に、ミツハは再度ピクピクっと反応した。ミツハとナキサワは同じ水の神族であるが、ナキサワがミツハに敬意を抱いているのとは逆に、ミツハはナキサワのことを好いていないように見受けられる。不穏な空気を漂わせるミツハに、これ以上どう言えばいいのか迷っていると、ミツハは新菜の肩を抱くようにして、店主に言った。
「主人。彼女は私の妻であり、恩人だ。彼女の評判を傷付けるような言葉は、厳に慎んで頂きたい」
ミツハの言葉に、店主も気づいたように笑った。
「おや、すまなかったねえ。じゃあお前さんがお嬢さんの旦那かい? この前してなかったお嬢さんの左手の指輪は、旦那からの贈り物ってことか。いいねえ、新婚さんかい。大事にしな。お嬢さん、間違ってもこの前の色男に振り向いたりするんじゃないよ。あの御仁は行き交う人を色々たぶらかしてそうな顔をしてたからねえ」
カラカラと笑って店主が言う。新菜は肩を抱かれて動揺していたが、これだけは伝えることが出来た。
「はい。私には、ミツハさましか見えませんので」
しっかりとした声で言えば、ミツハが瞠目して新菜を見る。新菜はミツハを振り仰ぎ、
「ですので、ご心配は要りません」
と微笑むことが出来た。
*
その後、門前町でどら焼きを土産に買い求めた。水ようかんのときと同じく、店を切り盛りする夫婦が、餡を作るのに美味しい水を使っている、と言っていたからだ。ミツハにとって生地に卵や砂糖を使っていて目新しかったことも、決め手となった。前の時代まで、どら焼きの生地は小麦粉のみを使用したものだったからだ。
包まれた焼きたてのどら焼きを持って歩いていると、ミツハがちらちらと新菜の手元を見てきているのが分かった。
「気になりますか?」
ミツハに問うと、ミツハはきまり悪げに笑って、頭を掻いた。
「いや……、餡子の味だとは思うのだが、どのような味なのだろうかと気になって……」
「では、召し上がりますか?」
そう言って、新菜は紙袋からどら焼きを一つ、ミツハに渡した。先ほど焼きあがったどら焼きは、まだほかほかとあたたかく、渡されたミツハは、おおっ、と目を輝かせた。
「ふわふわとやわらかいが、しかししっかりとした手ごたえもある……。供え物であたたかいものはないから、新鮮な感覚だ」
そう言って、こがね色に焼かれたどら焼きをほおばる。はむっとひと口噛みしめれば、ミツハの美しい口がやわらかい生地を食み、白い歯がそれに埋まっていく。むぐむぐと咀嚼する様子から、ミツハは味を堪能しているのか、顎を上げ、目をぎゅっと閉じた。
「ん……、んまい! 餡子のやさしい甘さ、卵の芳醇な香り、すこし、はちみつが入っているのだろうか、喉の奥から鼻に抜ける濃厚な蜜のにおいがまた、饅頭とはまったく異なっていて、とても旨いぞ!」
興奮しきりの様子で新菜に訴えてくるから、微笑ましくなってしまう。
「良いお買い物が出来ましたね」
「そうだな。持って帰ると冷めてしまうだろうから、チコたちには火に当てて温め直してから渡してやろう」
自分の感動をチコや鯉黒にも伝えたい、というミツハのやさしさに、新菜も心があたたまる。午後のざわめきの中、そう話をしていると、駆けてきた子供が新菜にぶつかった。
「あっ!」
子供はぶつかった拍子にその場で転び、手に持っていた小銭を地面に落とした。新菜は慌てて子供を立たせると、着物に着いた土を払ってやり、足元に転がった小銭を拾って渡してやった。
「ごめんなさい。怪我はない?」
顔を覗き込み、問うと、まさにその時、子供の腹がぐう、と鳴った。時間は午後三時を過ぎたところ。水宮(すいぐう)に居たら、ミツハが茶と菓子を持って、仕事をしている鯉黒と新菜を呼ぶ頃だった。
腹の音に子供は恥ずかしそうに耳を赤くし、もじもじと俯いた。見れば着物は擦り切れていて、まるでミツハに会う前の新菜のような身なりだった。新菜は膝をつき、子供と目線を合わせると、お腹が空いているのね? と尋ねた。
「そ……、そんなことは……っ!」
子供は弾かれたように顔を上げたが、その時またぐう、と腹が鳴る。流石に言い訳が厳しいと思ったのか、減ってる、と小さく呟いた。
「弟と妹に、ご飯を分けちゃったから……」
「それでお腹が空いているのね? お金を持っているのに、ご飯は買わなかったの?」
子供の手には、新菜が拾って渡した小銭が握られている。贅沢なものは無理だが、握り飯くらい買えるだろうに。新菜の視線に、子供は首を振った。
「これは、とーちゃんとかーちゃんから預かったお金だから……。最近、雨が良く降って、畑の野菜が育って売れるんだ。とーちゃんとかーちゃんが、あまうかみさまのおかげだって言ってて、神さまにお礼を言いたいんだって。でも、まだまだ畑の仕事はいっぱいあるから、あたしがとーちゃんとかーちゃんの代わりにあまうかみさまにお礼を言いに来たの」
これは、おさいせんだから、使っちゃ駄目なんだ。
そう言う子供は、満足そうに微笑んだ。新菜は子供の言葉に耳を傾けながら、背後のミツハの様子を感じていた。ミツハは子供の言葉を聞いて、一瞬息を呑み、それから小さく息を零していた。
新菜は手に持っていた紙袋からどら焼きを取り出し、子供に差し出した。
「?」
「あのね、お姉ちゃんは神さまにお祈りをするお仕事をしているの。今のあなたの言葉、必ず神さまに届けるわ。神さまは人からお祈りされるのが、なにより好きなの。だから、あなたはお父さんとお母さんの気持ちのこもったそのお賽銭で、神社の神さまに一生懸命、お祈りしてあげて欲しいの。そのお礼に、このお菓子をあげるわ。これでお腹いっぱいになってね」
「いいのっ!?」
新菜の言葉に、子供は目を輝かせた。差し出されたどら焼きをもぎ取るように手に取ると、その場でぱくりと大きな口に頬張った。子供はひと口のみならず、ふたくち、みくち、と食べ進み、頬をパンパンに膨らませると、先程のミツハのようにぎゅっと目を閉じ、そして喉を震わせながらその場でじたばたと足踏みをした。頬張ったどら焼きを咀嚼しきって飲み込むと、子供は大きな目が零れるかと思うくらいに見張り、新菜を見た。
「おいしいっ! ねえ、お姉ちゃん、これ美味しいねっ! すっごく美味しいから、残りの半分は弟と妹に持って帰って良いかな!?」
一生懸命に言う子供に、良いわよ、と微笑み、頷く。すると背後から、ぬっと腕が伸びてきた。ミツハだった。
「子供。これも持って行きなさい」
ミツハはそう言うと、土産の分のどら焼きを新菜が持っていた紙袋から取り出し、子供に与えた。子供は目の前に差し出されたふたつのどら焼きに、目を輝かせてミツハを見上げた。
「いいのっ!?」
「良いとも。良い話を聞けた礼だ。ご尊父、ご母堂にもよろしく伝えてくれ」
「ごそんぷ? ごぼどー?」
「お父さんとお母さんのことよ」
新菜の助け舟に、子供はミツハにも元気よく、うん! と頷いた。そうして新菜が紙袋に入れてやったどら焼きを持って、神社の方へと走っていく。子供の後姿を見送りながら、新菜とミツハはあたたかい気持ちになっていた。
「……君という巫女姫を得ることが出来て、本当に良かった……」
「ミツハさま?」
この場でミツハが言及するなら、あの子供のやさしさについてだと思ったが、違うようだった。
「もし鈴花が私の正式な巫女姫であったとしても、あの子供に自分の持っていた菓子を与えようとはしなかっただろう。君は巫である前に、ひとりの人として真(まこと)の道を選べる人だ。そういう人を、私は得難いものだと思っているし、君と契約出来たことによる私の雨で、そのような人が、ひとりでも増えると良いと思っている。そして、そういう君を巫女姫と出来、花嫁と出来たことは私とっての幸運だとしか言いようがないと思うんだよ」
凪いだ蒼の瞳が新菜を見、子供が消えた雑踏を見、そして行き交う人々を見つめる。勧請の儀式で力を得ていたあの時のようなまなざしに、新菜はミツハが今の一連でもそうであったのだと知る。
すべてが変わった。変わっていく。新菜の行ったことはきっかけに過ぎず、今、ミツハを取り巻く環境が変わっていき、神と人の良き関係が戻りつつあることを、新菜は穏やかな気持ちで受け止めていた。
「ですが、チコさんと鯉黒さんへのお土産がなくなってしまいました。困りましたね……」
「彼らは土産がなくとも文句を言うような心の狭い者たちではないぞ」
「鯉黒さんは違うかもしれませんが、チコさんはずっと宮に居られるのですから、宮奥にないものは喜んでくださると思ったのです。……つまり、私が、お二方にお土産を持って帰りたかった、という気持ちもあるのです……」
眉を寄せて、さて、困った……、と新菜が悩んでいると、今しがたのミツハを思い、ふと思いつくものがあった。日没までにはまだ時間はあり、その思い付きは実行できそうだった。
「ですのでミツハさま。今からあの湖に行きませんか?」
*
二人はあの湖に来ていた。ミツハが飛ぶと言ってくれたが、新菜がチコと鯉黒に土産を持って帰りたかったので、自分の脚で歩くと断った。飛べるミツハに歩かせてしまったことは悪かったとも思うが、次第に色を青からピンクへ、ピンクから金色へと変えていく頭上の大きなカーテンを木々の間から垣間見ながらの山登りは、天雨家から湖に向かった時とは気持ちが雲泥の差であった。
二人は元気のいい草を踏みしめながら歩いた。こがねに輝いていた雲の端も灰に覆われ、やがて夜去方(よさりつかた)となる。流石に鬱蒼と生えている木々が視界を遮るので、ミツハが鱗珠に力を籠めて、輝かせてくれた。銀の明かりを頼りにさらに上ると、ちょろちょろと水の流れる音がするから、湖から下る細い川が近いに違いない。意気揚々と森を抜けると、拓けたそこには果たしてあの時のままの湖がその水面にひっそりと夜空の星を映して居た。そして。
「ミツハさま、ほら!」
……いや、湖の湖面が映していた光は、空の星々だけではなかった。小さく明滅する黄色の光……、蛍がそこかしこに飛び交っていた。
「おお……、これは凄いな……」
感嘆の様子でミツハが言う。蛍は右に左に、上に下にと、恋の相手を求めて飛んでいた。ゆるりゆるりと浮遊する黄色の光は、奥の池に浮かび上がる祈りの念にも似ている。ミツハが目を細めた。
「君は、美しいものを見つけるのが上手いな」
「鯉黒さんはご覧になったことがあるかもしれませんが、チコさんは蛍をご存じないですよね? 蛍を連れて帰ることは、出来ないでしょうか?」
ミツハから創られ、宮奥から出たことがないチコが下界のものを直に見たり触ったりしたのは、きっと新菜がミツハに持って帰った土産のラムネくらいだろう。ものでもあんなに喜んでくれたのだから、ミツハに祈る念にも似たこの美しい蛍を見せてあげられたら喜んではくれないだろうか。新菜はそう考えたのだった。新菜の言葉に、ミツハは腕を組み、ふむ、と思案する。しかし。
「しかし新菜。蛍の命は短い。それにこの光は番う相手を求めての、狂おしい光だ。その恋を止めてまで、私は蛍を宮奥に迎えるのはどうだろうかと思うのだが」
はっとした。きれいだからと、その命に思いを馳せることが出来ないようでは、神嫁失格だ。新菜はミツハと蛍に謝罪する。
「広くものごとを見ることが出来ていませんでした。命の生き様こそ神さまのお喜び。今を一生懸命生きている蛍にも申し訳ないことを考えました。改めます」
「指摘を直ぐに受け入れられるのは、君が素直な証拠。君は私の伴侶として、道を誤らないだろうと確信するよ」
新菜は眉を下げて微笑んだ。しかしチコたちへの土産の案が振出しに戻ってしまった。帝都からは離れてしまったし、今から戻るにはもう時間がない。どうしようかしら、と思案していると、ミツハが微笑した。
「しかし、私も彼らにこの美しい光景を是非見て欲しいとは、思う。そこでだ」
ミツハは新菜に片目をつむってみせた。仕掛けを聞いた新菜は、なるほど、と納得して、宮に戻ることにした。
*
「おかえりなさいませ!」
六角宮から伸びる雲の端を渡って戻ると、玄関からチコが飛び出してきた。扉の所には鯉黒が控えている。
「チコ、鯉黒、留守をご苦労だった。何事もなかったか?」
「はい、ミツハさま! 本日もつつがなく仕事を終え、今、お食事のお支度を整えたところでございます!」
チコの言葉を聞き、頷いたミツハは、玄関を上がる前にそこを逸れ、宮の外壁を辿った。食事の支度が整っているのに宮に入らないミツハを、チコと鯉黒が疑問顔で見る。
「まあ来なさい。君たちに土産があるんだ。新菜が設えてくれた」
ミツハは新菜を従えたままチコと鯉黒を呼び、庭の奥池へいざなった。日の暮れた宮奥でも新菜の下げている鱗珠は光っており、四人の視界を照らしていた。
「下界で、新菜が私に美しいものを見せてくれたんだ。君たちにも是非見て欲しい」
そう言い、ゆるりとミツハがその場で腕を振るうと、鱗珠の光が消え、代わりにあの湖で飛び交う蛍の様子が奥池の水面に映し出された。
輝く光の飛び交う様に、チコは声を上げて驚き、そして身を乗り出して興奮した。池の面(おもて)から飛び出てくる蛍を捕まえようとチコが池の傍から腕を伸ばすから、新菜が慌ててチコの体を支えなければならなかった。鯉黒は蛍を見たことがあったのか、懐かしいな、と穏やかに呟いている。
「これは……、記憶の共有ですね!?」
チコが興奮気味にミツハに問う。ミツハが満足げに頷くと、新菜もチコが理由に思い至ったことに微笑んだ。
ミツハは蛍の命を尊重することと、新菜がチコたちに蛍を見せてやりたいという希望を同時に叶える方法として、彼らと記憶の共有を仕掛けたのだ。ミツハが見た情景は、ミツハの神力から創られたチコと、毎日ミツハの神力を食べている鯉黒には、網膜に映るような感覚で脳裏に蘇らせることが出来る。ミツハは彼らを驚かせるために、湖から帰って来るまでの間、記憶を閉じた。そして今、チコたちを前に、記憶を共有したのだ。
「ほたる、というのですね!? お月さまの欠片が沢山飛んでいるみたいです! とても綺麗!」
「下界に居た頃は、散った蛍の命を頂いたこともあったが……、こうして水の上から見る蛍というものは、確かに幻想的で、少し地上の生き物が羨ましくなってしまうな」
二人のそれぞれの感想を聞けて、新菜は満足だった。そして新菜の希望を叶えてくれたミツハに礼を言う。
「ミツハさま、気をまわして頂き、ありがとうございました。確かに宮奥に蛍を連れてくるよりも、こうやってみんなで見た方が、蛍は帰るべきところに帰れるし、良かったです」
「新菜、礼を言うのは私の方だよ。今日は一日楽しかったし、最後にチコたちに土産まで持ってくることが出来た。私たちだけ楽しんで帰ってきたら、チコに恨まれるところだった。君が気の利く妻で良かった」
妻、と言われて、改めて左の薬指に嵌っている指輪に手を添える。指で辿ると硬質な感触が指の腹に何とも言えない質量を訴えていて、新菜は頬を朱にして黙り込んでしまった。それをおや、とチコが目ざとく見つける。
「それは逆鱗の珠ですか? 新菜さまとミツハさまは本当に一対となられたのですね……」
蛍を見るのとは違う目の煌めかせ方をするチコが言うのに、鯉黒も新菜の手元を見る。ほう、と目を瞠った鯉黒の視線は、流石に耐えきれなかった。
「チ、チコさん、鯉黒さん、お食事の支度が出来ていたのですよね? ミツハさまは今日一日下界にいらっしゃって、きっとお疲れですから、はやく食事にしましょう」
慌てて二人の背中を押して宮に戻ろうとする新菜を、ミツハが笑って見ている。宮に消えていく新菜の背中に、ミツハがいとおしさを籠めて呟いた。
「私の対なる蝶。早く私に溺れておくれ。もう待たないと言ったじゃないか」
口元に浮かぶのは、微笑み。ため息は零れて。それでも。
「仕方ない。結に、誓ってしまったからね」
五百歳(いおとせ)、千歳、幾星霜。
二人の行く先は限りなく長いから。
神が民に寄り添うように、民が神に寄り添うように、彼女にもありったけの想いを籠めて寄り添おうじゃないか。
とこしえを超えて巡り合えた奇跡をこれからも離さないために。
「ミツハさま!」
ミツハは返事をして、宮に戻る。
銀の指輪に願いを託して。