桜の花びらが、風に乗ってふわふわと舞っている。ここの桜はピンクが濃い色だ。あのときはもう少し薄い色だった。案外、こうして桜を見るのも悪くないなあ。
深呼吸をして大きく伸びをした。桜餅を思い出す香りを吸い込んだ。
青空に桜のピンクがよく映えている。こういうのは、落ち着いて見ているから気づけたのかもしれない。
「これってソメイヨシノなんですかね?」
「さぁねぇ。どうかしら」
「あれ、岩永先生の下の名前って桜から来てますよね?」
「そうそう、名前の由来は桜から。だからって桜に詳しくはないのだけど」
ふふ、と岩永先生が微笑んで、穏やかな目じりのしわが深くなる。
ぽかぽかと柔らかな日差し。ベンチでゆったりお花見日和。小さな公園は人も少なくて、静かでのんびりとした空間が広がっている。
「確かに。由来だからって詳しいわけじゃないですよね」
「そうねぇ。夫ならもう少し詳しいのよ。訊いておくわ」
スマホを桜に向けて、人差し指で画面に触れる岩永先生。
画面は見てないけど、見なくても、誰に宛てられたものかわかる。指先で愛しい人へのメッセージを打つときの柔らかな表情を見て、胸の奥がじんわり温かくなった。
「次みんなでお花見するときは大きい公園がいいと思ったけど、次回もぜひここにしましょう。そのとき、この桜が染井吉野なのか教えてください」
「ええ、もちろん」
今日は茶道部の人たちにメッセージを送ってお花見をしようと誘ったものの、惨敗だった。春休み中の急な誘いに残念ながら予定が合わなかったり色々あったりで、参加者は顧問の先生とあたしだけ。岩永先生も予定があるのに全員に断られてはかわいそうだと思ってくれたらしく、わざわざ時間を作ってくれた。
今度誘うときはちゃんと事前に伝えて、準備もしておかないと。
今日のこれは、 ただ眺めることがメインのお花見だ。お花見というものは、おいしいごはんが大事らしい。みんなと集まるときは、好きなものを色々用意してみよう。
一緒に桜を見て、一緒にご飯を食べる。生きてるときにしかできない。こうやって先生からもらったジュースを飲むのだって、そうだ。
みんなでお花見をするの、来年にならないといいなあ。
「ごめんなさい。そろそろ行かないと」
スマホで時間を確認できるのに、岩永先生は腕時計に目を落とした。長く大事にされているとわかる、味のあるベルトの腕時計。旦那さんからのプレゼントだと前に教えてもらった。
「岩永先生、わざわざありがとうございました。ジュースごちそうさまです」と言って、残っていた紙パックのジュースを最後まで飲み干す。
「あたしはもうちょっとだけ、のんびりしようと思います」
「そう。それじゃあ、楽しい時間をどうもありがとう」
「こちらこそです。あたしも公園の前まで行きます」
紙パックのごみを先生が引き受けてくれた。先生を見送って、ベンチへと戻る。
「どこから来たの?」
飛び入り参加者が現れて、思わず声をかけてしまった。あたしが隣に腰を下ろしても、白黒の猫は毛ずくろいをしている。
かなり人に慣れているみたいだ。手を伸ばしたら触れられる距離なのにまるで警戒されていない。
お日様に照らされて、気持ち良さそうに目を細めている白黒ちゃん。ふさふさしてそう、触りたい。かわいい。
黒い毛並みで太陽の光を集めて、温かそうに見えた。
「今日、いい天気だよねぇ」
おそるおそる手を伸ばして、白黒ちゃんの首元に触れる。すごく温かくて、毛並みが気持ちいい。嫌がっている様子が見られなかったので、そのまま、あごの下を優しく撫でてみた。
白黒ちゃんはちらっとあたしを見てから、合格とでも言うように指先にすり寄ってきた。喉をゴロゴロと鳴らす。
うわ、最高にかわいい。かわいさに悶つつ、もう片方の手で背中も撫でる。毛並みの感触と温もりをはっきりと感じられて、涙が出そうだった。
触れたくてもすり抜けていたことを思い出すと、胸が痛む。
といっても、昨日見た夢の中でのできごと。
先輩を追いかけている途中で先輩に見つかり、一緒に先輩の幼なじみの様子を見に行く夢。
生きているみたいに振る舞っていても、心臓は動いていないし呼吸はしていない状態。何となく感覚はあったけど痛みや苦しさはなくて、不思議だった。
物に触れないのが何より慣れなかった。建物もすり抜けるし、人はすり抜けていく。本当にそうなんだと驚いて楽しんだのは最初だけ。
椅子に座ったときは何だか浮遊感があった。夢だから物に触れないのではなく、自分が死んでいるという自覚を葉月は持っていた。葉月としての記憶もあった。
けれども物語を見ているような感覚で行く末を見守っていた。先輩の幼なじみふたりの関係を知ることができてよかった。先輩が安堵したような表情を見せたときは、あたしまで嬉しかったなあ。もう幼なじみふたりの名前は思い出せないけど、目が覚めてなお、嬉しかった。
最後に約束をして、戻った場所で誰かに何か言われたような気がする。生まれ変わりがどうとか言われたような。曖昧でよくわからない。その後はどうなったんだろう。
あたしが葉月だったりするんだろうか。先輩って可能性もないわけじゃないけど、葉月よりピンとこない。例え葉月の生まれ変わりだとしても、今のあたしは葉月ではない。まったく別の人間で、中身もきっと葉月とは全然違う。
葉月が先輩とした約束は叶えてあげたいと思った。あのくらいのことであれば、あたしにもできそうだもの。
あたしとして叶えてほしいと、葉月が望んだんだから。ただの夢だと片付けることは到底できなかった。問題は先輩がどこにいるかはまだ知らない、わからないけど。
今はまだ先輩を見つけられていなくても、せめて誰かとお花見をしたら楽しいかと思ったのに。これは今のあたしが思ったことだ。週末、雨の予報を知って慌てて予定を取り付けようとしたら失敗してしまった。
副部長からの急な呼び出しってどうかなと思ったけど、圧は全く感じられていないらしい。そこは良かったということにしよう。
何とか雨にならないで、来週にはみんなで来れたらいいな。いつかあのときみたいな公園で、葉月の先輩とお花見をできる日が来るといい。
会ってみたいなあ、今の先輩。どんな人になっているんだろう。相変わらず金髪だったら面白いし、わかりやすいかもしれない。再会がいつになるのかは皆目見当もつかないけど、そのときは気合を入れて美味しいご飯を準備しなくちゃ。いっそ、桜が見えるお店に行くのもありだ。
白黒ちゃんが伸びをして、ベンチから下りた。たくさん撫でられて満足したんだろうか。
あたしも帰ろうと立ち上がると、風が吹いて一層桜を散らせた。白黒ちゃんが、にゃっにゃっとかわいらしく鳴きながら歩いていく。白黒ちゃんはどこか帰るところがあるのかな。
進んでいる方向は帰り道と同じなので、ついていってみようとベンチから腰を上げた。ザッザッと、公園の砂を踏む音が響く。白黒ちゃんはこちらを一瞥してから、急に駆け足になった。
足音が良くなかったかな。ついてくるなんて怪しいやつだと警戒心を持たれちゃったのかもしれない。せっかく撫でさせてくれたのに怖がらせたらかわいそうだ。また今度触らせてもらいたいから、ついていくのはやめにしよう。
「またね」
小さく呟いて、歩くスピードを落として立ち止まる。白黒ちゃんが公園から出て、見えなくなってからあたしも公園を後にした。
信号待ちをしている間に、スマホで週末の天気予報を改めてチェックする。画面を見つめて、深いため息が漏れた。週末なら、もっと有名な場所にみんなで集まれそうな人だったのに。今週末は降水確率60%で、やっぱり雨の予報。
降らない可能性があるとしても、 微妙な確率だ。誘いやすい数字ではない。あとはもう、週明けまで桜が耐えてくれるのを願うばかり。
「ん?」
どうしたんだろう。手元のスマホが震えて、表示された名前に首を傾げる。今日断られた相手から電話がかかってきていた。
「もしもし、どした?」
電話に出ると、「もう家帰った!?」と勢いのある声で言われた。
「まだ家ではないよ」
「今どこにいる? 先生は――あ、よっしー先生! と、ハヤさん。こんにちは」
どうやら岩永先生とその旦那さんがいたらしい。電話の向こうの相手は、いったいどこにいるんだろう。
訪ねようにも会話が始まってしまったのが、うっすら聞こえてくる。まだ電話が繋がったままなのに。
聞こえてないだろうと思いつつ「もしもーし」と声をかけてみるも、案の定届いていないようだった。駅に歩いてる間は繋いでおくか。イヤホンを挿して、スマホを手に持っておく。
信号が青に変わっても、あたしはきちんと左右を見て安全を確認する。誰かに教えられるまでもなく、ずっとそうしてきていた。もしかするとこれは、葉月が事故にあっていたからだったのかもしれない。
ちゃんと、信号に気をつける人になれている。そうして今日も、息をしている。
「おーい。見えてる? 先生たち、お願いします」
横断歩道を渡ったところで声が聞こえて、立ち止まった。見えてるって何? 先生たち?
「梅野さん、見えてますか?」
「えっ、あ、岩永先生!? 見えて、ますっ!」
いきなり岩永ご夫妻の姿。スマホが滑り落ちそうになったのを何とか持ち直して、自分のカメラもオンにした。何なんだ、いったい。
「突然ごめんなさいね。こちら、わたしの夫です」
遠慮がちにはにかみながら手を振る先生の旦那さんにあたしも画面に向かって手を振り返した。
「どうも。いつも妻がお世話になっております」
落ち着いた声。帽子を外すと、白髪混じりの黒髪が見えた。恭しく頭を下げた彼にこちらも「こちらこそです」と会釈をする。状況がいまだに飲み込めない。
額がうっすら汗ばむのを感じて、手の甲で拭った。そよそよと優しい風が吹き抜ける。
「さっきの桜についてなんだけど、今は大丈夫? まださっきの公園かしら」
「公園は出ちゃったんですけど、大丈夫です。桜の種類ですよね」
さっき岩永先生が一生懸命撮ってくれていた桜。すぐに確認してくれたんだ。
「ですって。どうぞ、教えてあげて」
「うん。あの木は、染井吉野でした。正確には、漢字のほうの染井吉野。カタカナのソメイヨシノの場合、いくつか種類があるみたいで、それの1つが漢字の染井吉野なんです」
「違いがあるなんて知らなかったです」
「あんまり知る機会もないでしょう。ただ僕もね、詳しいと言っても庭の草花をいじるのが好きなだけだから、基本は桜については詳しくないんです。染井吉野だけ覚えました」
他は検索でお願いします、のところで画面が傾いた。スマホを持っている人が「へぇ~」と声を出して画面の端に映っても、無視をしてうなずく。あとで調べてみよう。
あれ、今あたし惚気られた気がする。気づいたら、にやけてしまいそうになって口元を手で押さえた。うっかり流してしまうところだった。
わざわざ訊くのは野暮かと思いつつ、訊かずにはいられない。答えてほしいんだもの。
「教えてくださって、ありがとうございます。染井吉野は岩永先生の花だから覚えたってことで、いいですか?」
「……その通りです」
少し間を空けて、いたずらっぽく微笑んだ岩永先生の旦那さん。「そうなんですか⁉」と余計な声が聞こえて「静かにして」と映っていない彼に伝えた。画面が大きく揺れて、次に映ったのは見知った顔だった。
「先生たち、もう行かなきゃみたいだから梅野からも何か。どうもありがとうございました!」
「すいません、水嶋に付き合っていただいて。ありがとうございました。染井吉野がわかって良かったです」
再び映った2人に会釈する。挨拶をして画面越しに遠ざかる岩永夫妻を見送って、こちらのカメラを切った。水嶋のカメラも切れて、スマホを持つ手を少し下げる。
ほんとに良かったなあ。
静かに息を吐いて、肩の力を抜く。じわりじわりと心を占める温かさが全身をめぐって、目の奥が熱くなった。
画面越しでも短い時間でも、並ぶ2人をまた見られて良かった。奥歯をかみしめてまぶたを閉じる。
「梅野、今どこにいる?」
「えー」
すぐに声が出ず、適当に間をつなぐ。もう一度息を吐いて、目を開けてから「どこだろう」と返した。高校の近くではあるものの、普段は通らない道だ。
「お花見誘った公園を出て、右に歩いて……その先の信号渡ったところ」
「わかった。俺は駅出て公園向かうから、梅野戻れる?」
「うん、戻れるよ。水嶋来れたんだね」
てっきり来れないと思っていた。
「ダッシュで来た。他の人は?」
「今はあたしひとり」
「りょーかい。俺は途中ちょっと寄るところあるから待ってて」
「はーい。わざわざ付き合ってもらってごめんね」
「大事だろ、花見」
何が、と訊ねる前に切れてしまった。茶道部をお花見に誘ったのは初めてだし、恒例行事でもない。そんなに大事なイベントだったかな。
とりあえず公園を目指して踵を返す。戻る途中で塀の上を歩く白黒ちゃんに遭遇した。今度はそっちで日向ぼっこなのかな。
ベンチは相変わらず人気がなく、桜の花びらがいくつか上に乗っているだけだった。いい場所だけど、春休みにわざわざ来るには物足りないのかもしれない。
茶道部のみんなは、人がいないほうがちょうどいいって言ってくれそうだ。
「……えっ、」
ようやくやって来たその人の横顔が視界に入って、目を見張る。瞬きを繰り返せば、当然ながら別人で何もかもが違っていた。それなのに、気持ちが完全に遥か遠い過去に引き戻されたような感覚になった。すっかり今のつもりだったけど、まだ戻り切れていなかったらしい。
そうだよね。そんなはずがない。
一瞬、本当に一瞬だけ、先輩がそこにいるのかと思ってしまった。似ているところなんて何一つとしてないのに。まったく、おかしな話だ。
あれはクラスメイトであり、同じ茶道部に所属する水嶋だ。先輩じゃない。
「梅野おまたせ」
「そんなに待ってないよ。髪、変わったね」
「え、うん。似合ってないとか!?」
水嶋は不安げに片手で髪をつかんだ。いくつものビニール袋やら紙袋やらを腕に提げている。
見当違いをしている水嶋に「似合ってるから安心して」と笑った。似合っていて、見間違えた自分に心が揺らいだだけだ。
この前会ったときは真っ黒だった髪の毛が、アッシュブラウンに変わっている。金色ではないけど、きれいな色だ。
「良かった。髪染めるか迷って、結局染めたから」
「何で急に染めたの? 水嶋、染めたら後がめんどいって言ってたじゃん」
「んー、春だから気分で。伸びてもあんまり目立たない色にした」
色味はまるで似つかない。同じところなんて1つもないのに。既視感が胸の底をざわつかせた。
「へー。どこか具合悪いとかじゃないんだよね?」
「有り余るほど元気。もしかして髪色的に顔色悪く見えるとかある?」
ううん、と首を横に振る。水嶋は水嶋でしかない。過去に引っ張られて余計な不安をするのは不毛なことだ。
もう長くないと知って、やってみたいことをやろうと手始めに金髪になった先輩と、それを見ていた葉月はここにいない。夢は夢で、現実がそうなのかもまだわからない。
「頭皮は何ともないのかなあって気になっただけ」
へらへらと笑ってごまかす。水嶋なら夢の話をしても笑わずに聞いてくれるとはわかっているけど、さすがに勝手に重ねられてると知ったら困惑するだろう。
あたしだって、そんな話を急に聞かされたらどう反応していいものかわからない。
「頭皮は無事。大丈夫だよ。心配しなくても、今の俺は生命線長いから」
ほら、と手のひらを見せてくれた。ふっと笑ってしまうと「梅野も長い?」と訊ねられた。気にしたことがなかった。
自分の手のひらを確認して答える。
「まあまあかな」
「まあまあはダメだろ。長生きしろよ」
「するよ、たぶん」
「たぶんかよ」
苦笑した水島はあたしの横にビニール袋と紙袋を置いて、トートバッグを探る水嶋。見ているとレジャーシートを広げ始めた。
なるほど、ベンチに座って眺めるよりもお花見感が出る気がする。
「わざわざ用意してくれたの?」
「まあ、これは梅野用」
「え?」
訊き返しても水島は聞こえていないようで、あたしはレジャーシートを敷くのを手伝いつつ「何であたし用なの?」と訊き方を変えた。
「花見するなら、大事なんだろ。レジャーシート必要かは知らねぇけど」
「だから、それが何でなの!」
「さあ。わかんね。梅野が花見がしたいって言ったときのために買っといた」
水嶋は肩をすくめて「ついこの前売ってるの見かけたから」と付け加えた。ちょっと待って。あたしは今朝、突然思い立って誘った。今日買ったならまだしも、事前に準備なんてできるわけがない。
「え、あたしそんなにお花見しようって誘いそうだと思われてたってこと?」
「そんなとこ。それより、買ってきたの見る? 近くの商店街で良さそうだと思ったの全部買ってみた」
ベンチに置いていたものをまとめて取ってきて、レジャーシートの上に並べていく水嶋。とても2人では食べきれなさそうなほどの量だ。
「飲み物はお茶だけだけど、食べ物はコロッケに団子、総菜系があって……パンもあるし、あとケーキも買った。どういうのがいいかわかんなくて、余ったら持って帰ればいっかなって。これなら梅野も連れてけば良かったか」
ん、と差し出された紙コップを受け取ると緑茶を注いでくれた。
「ありがとう。あたしが行ってたら全然決められなさそう」
「梅野だったら、今頃コロッケ完食してここに来たときには食べるものないとか言いそう。連れてかないほうが正解だな」
「失礼な!」
小突いてやろうとしたものの、水嶋の髪の毛に桜の花びらが乗っているのに気づいて手を伸ばして取ってあげた。つまんだ花びらを「あげる」と水嶋に差し出す。
仲が良いと思ってはいるけど、こうして2人になるのは意外と初めてかもしれないと思った。一緒に帰ることはあったし、部活で話すこともあったけど、どこかに出かけるほど仲が良いかというと微妙なところだ。誘ったら来てくれただろうし、誘われたら行ったけど。そんな機会はなかった。
「花びらって意外と薄いんだ。あたりまえだけど、すり抜けずに触れるのっていいな」
「わかる。触れるって、いいよね」
触れなくて、しんどかったもんね。うんうんとうなずいて、はたと気づいた。水嶋は、あえて言っていることなんだろうか。あたし、夢のことはまだ誰にも話していない。
さっきから何だか言うことが引っかかるのは、もしかしてわざと?
あたしに何か気づかせようとしてるのかな。
ぐいっと緑茶を飲んで息を吐く。ただの偶然の一致で、水嶋が何となく言っていることがすべて当てはまるような気がしてしまっているだけなのかもしれない。思い込んで失敗するのは良くない。
いきなり前世がどうとか言って、ドン引きされるのだけはごめんだ。今の距離感が壊れたら、遡って自分でない過去まで恨んでしまいそう。
「おっ、にゃーすけ。いると思ったからご飯あるよ。おいで」
今度は花壇の向こうから「にゃー」と返事をするように鳴きながらやって来た白黒ちゃん。にゃーすけという名前があったのか。
近づいてきてゴロゴロと水嶋に甘えている。あたしに対する態度と違うところを見ると、水嶋とにゃーすけは顔見知りらしい。水嶋が「めっちゃ温い」とひっくり返ってお腹を見せるにゃーすけをわしゃわしゃと撫でた。
「今日こそは一緒に帰るか?」
穏やかな微笑みをこぼして、にゃーすけに声をかける水嶋。あたしの気も知らずに「そうか、帰るか」と、すっかりにゃーすけと意思疎通を図れている様子。その勢いであたしの心も察知してほしい。
あたしの心臓の鼓動が速くなっているのを感じる。指先が微かに震えてきて、きゅっと握りしめた。生きているからこその、感覚。
もし、水嶋が先輩だったら。同級生なのがややこしいけど、でも、そうだったら。
確かめるにはどうしたらいいだろう。約束を覚えてるか訊ねるのも直球すぎる。違う雰囲気を察したら逃げられるようなほうがいい。何か、何かないか。一か八か。
「――猫と桜と、おいしいご飯って完璧じゃない?」
うわ、声が上擦った。脳内を探って出てきた言葉。何の気なしに言ったように装いたかったのが、緊張感に溢れてしまった。
不審に思われたかなと横目で水島をうかがうも、水嶋はさして気にしていなさそうだった。
「そうだな。ザ・花見って感じ」
あっさりとした回答。あたしのふり絞った質問は伝わっていないらしい。暑さとは別の汗が額ににじんで、パタパタと手で扇いだ。
「お花見といえば、そうだよね。そんなもんだよね」
先輩なら、さすがに今のでわかりやすく明確な返事をくれただろう。水嶋は、あくまで水嶋か。大きく息を吐いてから、一口お茶を飲む。
よし、せっかく買ってきてくれたんだし、何食べようかな。今日はひとまずおいしいご飯を食べて、お腹いっぱいになれたら良しとしよう。
「あ、お金あとで払うからね」
「いーよ」
「そんなのだめだよ。こんだけたくさん買ってくれたんだもの、ちゃんと払わせて」
にゃーすけを足の間に乗せて撫でながら、水嶋はふっと柔らかく口元を緩ませる。
「いいんだよ。美味しく食べてくれたら、それで梅野からはもらったようなもんだから」
「まーたそれ。ちょいちょい意味わかんないこと言うのやめてもらっていい? 紛らわしいったらないんだからね」
って、言ったところで水嶋には伝わるわけもない。あたしが勝手に期待をしたくせに、八つ当たりみたいなことをしてしまった。
ムッとした顔をする水嶋を見て、慌てて「ごめん」と言った。
「あの、ちょっと変な夢見て、それで何か水嶋が言うことが気になっ――」
「俺だって、意味もなく言わねぇよ」
あたふたするあたしの声に、水嶋の声が重なった。
「え?」
水嶋の腕の中にいるにゃーすけのふてぶてしい顔つきが、あの日の茶トラを思い起こさせた。
爽やかな風が水嶋の前髪を揺らす。きれいな金色、じゃない色。まぶしくて、やっぱり太陽みたいだと思った。先輩でなくても、今のあたしにとって水嶋がそうなんだ。
水嶋は髪を払った指先で目頭をなでて、ゆっくりとこちらを向く。視線がぶつかると、その瞳がきらめいて見えた。
「わざと言ってた。今は梅野がどんな反応するか、わかればそれで良いなって思ってたから」
「……何で?」
「だってあのとき、」
息をのんで、続きを待つ。淡い期待があっという間に世界を塗り替えていく。瞬きを繰り返しているうちに目の前が潤んできた。
遥か遠い過去、遥か遠い未来に望んだことが、今ようやくここにある。きっと、ずっと、ずっと、待っていた。いつか、叶うことがあればと願っていた。
「約束しただろ?」
桜の花びらが、まるで祝福してくれているみたいに優しく降り注いでいた。
END
深呼吸をして大きく伸びをした。桜餅を思い出す香りを吸い込んだ。
青空に桜のピンクがよく映えている。こういうのは、落ち着いて見ているから気づけたのかもしれない。
「これってソメイヨシノなんですかね?」
「さぁねぇ。どうかしら」
「あれ、岩永先生の下の名前って桜から来てますよね?」
「そうそう、名前の由来は桜から。だからって桜に詳しくはないのだけど」
ふふ、と岩永先生が微笑んで、穏やかな目じりのしわが深くなる。
ぽかぽかと柔らかな日差し。ベンチでゆったりお花見日和。小さな公園は人も少なくて、静かでのんびりとした空間が広がっている。
「確かに。由来だからって詳しいわけじゃないですよね」
「そうねぇ。夫ならもう少し詳しいのよ。訊いておくわ」
スマホを桜に向けて、人差し指で画面に触れる岩永先生。
画面は見てないけど、見なくても、誰に宛てられたものかわかる。指先で愛しい人へのメッセージを打つときの柔らかな表情を見て、胸の奥がじんわり温かくなった。
「次みんなでお花見するときは大きい公園がいいと思ったけど、次回もぜひここにしましょう。そのとき、この桜が染井吉野なのか教えてください」
「ええ、もちろん」
今日は茶道部の人たちにメッセージを送ってお花見をしようと誘ったものの、惨敗だった。春休み中の急な誘いに残念ながら予定が合わなかったり色々あったりで、参加者は顧問の先生とあたしだけ。岩永先生も予定があるのに全員に断られてはかわいそうだと思ってくれたらしく、わざわざ時間を作ってくれた。
今度誘うときはちゃんと事前に伝えて、準備もしておかないと。
今日のこれは、 ただ眺めることがメインのお花見だ。お花見というものは、おいしいごはんが大事らしい。みんなと集まるときは、好きなものを色々用意してみよう。
一緒に桜を見て、一緒にご飯を食べる。生きてるときにしかできない。こうやって先生からもらったジュースを飲むのだって、そうだ。
みんなでお花見をするの、来年にならないといいなあ。
「ごめんなさい。そろそろ行かないと」
スマホで時間を確認できるのに、岩永先生は腕時計に目を落とした。長く大事にされているとわかる、味のあるベルトの腕時計。旦那さんからのプレゼントだと前に教えてもらった。
「岩永先生、わざわざありがとうございました。ジュースごちそうさまです」と言って、残っていた紙パックのジュースを最後まで飲み干す。
「あたしはもうちょっとだけ、のんびりしようと思います」
「そう。それじゃあ、楽しい時間をどうもありがとう」
「こちらこそです。あたしも公園の前まで行きます」
紙パックのごみを先生が引き受けてくれた。先生を見送って、ベンチへと戻る。
「どこから来たの?」
飛び入り参加者が現れて、思わず声をかけてしまった。あたしが隣に腰を下ろしても、白黒の猫は毛ずくろいをしている。
かなり人に慣れているみたいだ。手を伸ばしたら触れられる距離なのにまるで警戒されていない。
お日様に照らされて、気持ち良さそうに目を細めている白黒ちゃん。ふさふさしてそう、触りたい。かわいい。
黒い毛並みで太陽の光を集めて、温かそうに見えた。
「今日、いい天気だよねぇ」
おそるおそる手を伸ばして、白黒ちゃんの首元に触れる。すごく温かくて、毛並みが気持ちいい。嫌がっている様子が見られなかったので、そのまま、あごの下を優しく撫でてみた。
白黒ちゃんはちらっとあたしを見てから、合格とでも言うように指先にすり寄ってきた。喉をゴロゴロと鳴らす。
うわ、最高にかわいい。かわいさに悶つつ、もう片方の手で背中も撫でる。毛並みの感触と温もりをはっきりと感じられて、涙が出そうだった。
触れたくてもすり抜けていたことを思い出すと、胸が痛む。
といっても、昨日見た夢の中でのできごと。
先輩を追いかけている途中で先輩に見つかり、一緒に先輩の幼なじみの様子を見に行く夢。
生きているみたいに振る舞っていても、心臓は動いていないし呼吸はしていない状態。何となく感覚はあったけど痛みや苦しさはなくて、不思議だった。
物に触れないのが何より慣れなかった。建物もすり抜けるし、人はすり抜けていく。本当にそうなんだと驚いて楽しんだのは最初だけ。
椅子に座ったときは何だか浮遊感があった。夢だから物に触れないのではなく、自分が死んでいるという自覚を葉月は持っていた。葉月としての記憶もあった。
けれども物語を見ているような感覚で行く末を見守っていた。先輩の幼なじみふたりの関係を知ることができてよかった。先輩が安堵したような表情を見せたときは、あたしまで嬉しかったなあ。もう幼なじみふたりの名前は思い出せないけど、目が覚めてなお、嬉しかった。
最後に約束をして、戻った場所で誰かに何か言われたような気がする。生まれ変わりがどうとか言われたような。曖昧でよくわからない。その後はどうなったんだろう。
あたしが葉月だったりするんだろうか。先輩って可能性もないわけじゃないけど、葉月よりピンとこない。例え葉月の生まれ変わりだとしても、今のあたしは葉月ではない。まったく別の人間で、中身もきっと葉月とは全然違う。
葉月が先輩とした約束は叶えてあげたいと思った。あのくらいのことであれば、あたしにもできそうだもの。
あたしとして叶えてほしいと、葉月が望んだんだから。ただの夢だと片付けることは到底できなかった。問題は先輩がどこにいるかはまだ知らない、わからないけど。
今はまだ先輩を見つけられていなくても、せめて誰かとお花見をしたら楽しいかと思ったのに。これは今のあたしが思ったことだ。週末、雨の予報を知って慌てて予定を取り付けようとしたら失敗してしまった。
副部長からの急な呼び出しってどうかなと思ったけど、圧は全く感じられていないらしい。そこは良かったということにしよう。
何とか雨にならないで、来週にはみんなで来れたらいいな。いつかあのときみたいな公園で、葉月の先輩とお花見をできる日が来るといい。
会ってみたいなあ、今の先輩。どんな人になっているんだろう。相変わらず金髪だったら面白いし、わかりやすいかもしれない。再会がいつになるのかは皆目見当もつかないけど、そのときは気合を入れて美味しいご飯を準備しなくちゃ。いっそ、桜が見えるお店に行くのもありだ。
白黒ちゃんが伸びをして、ベンチから下りた。たくさん撫でられて満足したんだろうか。
あたしも帰ろうと立ち上がると、風が吹いて一層桜を散らせた。白黒ちゃんが、にゃっにゃっとかわいらしく鳴きながら歩いていく。白黒ちゃんはどこか帰るところがあるのかな。
進んでいる方向は帰り道と同じなので、ついていってみようとベンチから腰を上げた。ザッザッと、公園の砂を踏む音が響く。白黒ちゃんはこちらを一瞥してから、急に駆け足になった。
足音が良くなかったかな。ついてくるなんて怪しいやつだと警戒心を持たれちゃったのかもしれない。せっかく撫でさせてくれたのに怖がらせたらかわいそうだ。また今度触らせてもらいたいから、ついていくのはやめにしよう。
「またね」
小さく呟いて、歩くスピードを落として立ち止まる。白黒ちゃんが公園から出て、見えなくなってからあたしも公園を後にした。
信号待ちをしている間に、スマホで週末の天気予報を改めてチェックする。画面を見つめて、深いため息が漏れた。週末なら、もっと有名な場所にみんなで集まれそうな人だったのに。今週末は降水確率60%で、やっぱり雨の予報。
降らない可能性があるとしても、 微妙な確率だ。誘いやすい数字ではない。あとはもう、週明けまで桜が耐えてくれるのを願うばかり。
「ん?」
どうしたんだろう。手元のスマホが震えて、表示された名前に首を傾げる。今日断られた相手から電話がかかってきていた。
「もしもし、どした?」
電話に出ると、「もう家帰った!?」と勢いのある声で言われた。
「まだ家ではないよ」
「今どこにいる? 先生は――あ、よっしー先生! と、ハヤさん。こんにちは」
どうやら岩永先生とその旦那さんがいたらしい。電話の向こうの相手は、いったいどこにいるんだろう。
訪ねようにも会話が始まってしまったのが、うっすら聞こえてくる。まだ電話が繋がったままなのに。
聞こえてないだろうと思いつつ「もしもーし」と声をかけてみるも、案の定届いていないようだった。駅に歩いてる間は繋いでおくか。イヤホンを挿して、スマホを手に持っておく。
信号が青に変わっても、あたしはきちんと左右を見て安全を確認する。誰かに教えられるまでもなく、ずっとそうしてきていた。もしかするとこれは、葉月が事故にあっていたからだったのかもしれない。
ちゃんと、信号に気をつける人になれている。そうして今日も、息をしている。
「おーい。見えてる? 先生たち、お願いします」
横断歩道を渡ったところで声が聞こえて、立ち止まった。見えてるって何? 先生たち?
「梅野さん、見えてますか?」
「えっ、あ、岩永先生!? 見えて、ますっ!」
いきなり岩永ご夫妻の姿。スマホが滑り落ちそうになったのを何とか持ち直して、自分のカメラもオンにした。何なんだ、いったい。
「突然ごめんなさいね。こちら、わたしの夫です」
遠慮がちにはにかみながら手を振る先生の旦那さんにあたしも画面に向かって手を振り返した。
「どうも。いつも妻がお世話になっております」
落ち着いた声。帽子を外すと、白髪混じりの黒髪が見えた。恭しく頭を下げた彼にこちらも「こちらこそです」と会釈をする。状況がいまだに飲み込めない。
額がうっすら汗ばむのを感じて、手の甲で拭った。そよそよと優しい風が吹き抜ける。
「さっきの桜についてなんだけど、今は大丈夫? まださっきの公園かしら」
「公園は出ちゃったんですけど、大丈夫です。桜の種類ですよね」
さっき岩永先生が一生懸命撮ってくれていた桜。すぐに確認してくれたんだ。
「ですって。どうぞ、教えてあげて」
「うん。あの木は、染井吉野でした。正確には、漢字のほうの染井吉野。カタカナのソメイヨシノの場合、いくつか種類があるみたいで、それの1つが漢字の染井吉野なんです」
「違いがあるなんて知らなかったです」
「あんまり知る機会もないでしょう。ただ僕もね、詳しいと言っても庭の草花をいじるのが好きなだけだから、基本は桜については詳しくないんです。染井吉野だけ覚えました」
他は検索でお願いします、のところで画面が傾いた。スマホを持っている人が「へぇ~」と声を出して画面の端に映っても、無視をしてうなずく。あとで調べてみよう。
あれ、今あたし惚気られた気がする。気づいたら、にやけてしまいそうになって口元を手で押さえた。うっかり流してしまうところだった。
わざわざ訊くのは野暮かと思いつつ、訊かずにはいられない。答えてほしいんだもの。
「教えてくださって、ありがとうございます。染井吉野は岩永先生の花だから覚えたってことで、いいですか?」
「……その通りです」
少し間を空けて、いたずらっぽく微笑んだ岩永先生の旦那さん。「そうなんですか⁉」と余計な声が聞こえて「静かにして」と映っていない彼に伝えた。画面が大きく揺れて、次に映ったのは見知った顔だった。
「先生たち、もう行かなきゃみたいだから梅野からも何か。どうもありがとうございました!」
「すいません、水嶋に付き合っていただいて。ありがとうございました。染井吉野がわかって良かったです」
再び映った2人に会釈する。挨拶をして画面越しに遠ざかる岩永夫妻を見送って、こちらのカメラを切った。水嶋のカメラも切れて、スマホを持つ手を少し下げる。
ほんとに良かったなあ。
静かに息を吐いて、肩の力を抜く。じわりじわりと心を占める温かさが全身をめぐって、目の奥が熱くなった。
画面越しでも短い時間でも、並ぶ2人をまた見られて良かった。奥歯をかみしめてまぶたを閉じる。
「梅野、今どこにいる?」
「えー」
すぐに声が出ず、適当に間をつなぐ。もう一度息を吐いて、目を開けてから「どこだろう」と返した。高校の近くではあるものの、普段は通らない道だ。
「お花見誘った公園を出て、右に歩いて……その先の信号渡ったところ」
「わかった。俺は駅出て公園向かうから、梅野戻れる?」
「うん、戻れるよ。水嶋来れたんだね」
てっきり来れないと思っていた。
「ダッシュで来た。他の人は?」
「今はあたしひとり」
「りょーかい。俺は途中ちょっと寄るところあるから待ってて」
「はーい。わざわざ付き合ってもらってごめんね」
「大事だろ、花見」
何が、と訊ねる前に切れてしまった。茶道部をお花見に誘ったのは初めてだし、恒例行事でもない。そんなに大事なイベントだったかな。
とりあえず公園を目指して踵を返す。戻る途中で塀の上を歩く白黒ちゃんに遭遇した。今度はそっちで日向ぼっこなのかな。
ベンチは相変わらず人気がなく、桜の花びらがいくつか上に乗っているだけだった。いい場所だけど、春休みにわざわざ来るには物足りないのかもしれない。
茶道部のみんなは、人がいないほうがちょうどいいって言ってくれそうだ。
「……えっ、」
ようやくやって来たその人の横顔が視界に入って、目を見張る。瞬きを繰り返せば、当然ながら別人で何もかもが違っていた。それなのに、気持ちが完全に遥か遠い過去に引き戻されたような感覚になった。すっかり今のつもりだったけど、まだ戻り切れていなかったらしい。
そうだよね。そんなはずがない。
一瞬、本当に一瞬だけ、先輩がそこにいるのかと思ってしまった。似ているところなんて何一つとしてないのに。まったく、おかしな話だ。
あれはクラスメイトであり、同じ茶道部に所属する水嶋だ。先輩じゃない。
「梅野おまたせ」
「そんなに待ってないよ。髪、変わったね」
「え、うん。似合ってないとか!?」
水嶋は不安げに片手で髪をつかんだ。いくつものビニール袋やら紙袋やらを腕に提げている。
見当違いをしている水嶋に「似合ってるから安心して」と笑った。似合っていて、見間違えた自分に心が揺らいだだけだ。
この前会ったときは真っ黒だった髪の毛が、アッシュブラウンに変わっている。金色ではないけど、きれいな色だ。
「良かった。髪染めるか迷って、結局染めたから」
「何で急に染めたの? 水嶋、染めたら後がめんどいって言ってたじゃん」
「んー、春だから気分で。伸びてもあんまり目立たない色にした」
色味はまるで似つかない。同じところなんて1つもないのに。既視感が胸の底をざわつかせた。
「へー。どこか具合悪いとかじゃないんだよね?」
「有り余るほど元気。もしかして髪色的に顔色悪く見えるとかある?」
ううん、と首を横に振る。水嶋は水嶋でしかない。過去に引っ張られて余計な不安をするのは不毛なことだ。
もう長くないと知って、やってみたいことをやろうと手始めに金髪になった先輩と、それを見ていた葉月はここにいない。夢は夢で、現実がそうなのかもまだわからない。
「頭皮は何ともないのかなあって気になっただけ」
へらへらと笑ってごまかす。水嶋なら夢の話をしても笑わずに聞いてくれるとはわかっているけど、さすがに勝手に重ねられてると知ったら困惑するだろう。
あたしだって、そんな話を急に聞かされたらどう反応していいものかわからない。
「頭皮は無事。大丈夫だよ。心配しなくても、今の俺は生命線長いから」
ほら、と手のひらを見せてくれた。ふっと笑ってしまうと「梅野も長い?」と訊ねられた。気にしたことがなかった。
自分の手のひらを確認して答える。
「まあまあかな」
「まあまあはダメだろ。長生きしろよ」
「するよ、たぶん」
「たぶんかよ」
苦笑した水島はあたしの横にビニール袋と紙袋を置いて、トートバッグを探る水嶋。見ているとレジャーシートを広げ始めた。
なるほど、ベンチに座って眺めるよりもお花見感が出る気がする。
「わざわざ用意してくれたの?」
「まあ、これは梅野用」
「え?」
訊き返しても水島は聞こえていないようで、あたしはレジャーシートを敷くのを手伝いつつ「何であたし用なの?」と訊き方を変えた。
「花見するなら、大事なんだろ。レジャーシート必要かは知らねぇけど」
「だから、それが何でなの!」
「さあ。わかんね。梅野が花見がしたいって言ったときのために買っといた」
水嶋は肩をすくめて「ついこの前売ってるの見かけたから」と付け加えた。ちょっと待って。あたしは今朝、突然思い立って誘った。今日買ったならまだしも、事前に準備なんてできるわけがない。
「え、あたしそんなにお花見しようって誘いそうだと思われてたってこと?」
「そんなとこ。それより、買ってきたの見る? 近くの商店街で良さそうだと思ったの全部買ってみた」
ベンチに置いていたものをまとめて取ってきて、レジャーシートの上に並べていく水嶋。とても2人では食べきれなさそうなほどの量だ。
「飲み物はお茶だけだけど、食べ物はコロッケに団子、総菜系があって……パンもあるし、あとケーキも買った。どういうのがいいかわかんなくて、余ったら持って帰ればいっかなって。これなら梅野も連れてけば良かったか」
ん、と差し出された紙コップを受け取ると緑茶を注いでくれた。
「ありがとう。あたしが行ってたら全然決められなさそう」
「梅野だったら、今頃コロッケ完食してここに来たときには食べるものないとか言いそう。連れてかないほうが正解だな」
「失礼な!」
小突いてやろうとしたものの、水嶋の髪の毛に桜の花びらが乗っているのに気づいて手を伸ばして取ってあげた。つまんだ花びらを「あげる」と水嶋に差し出す。
仲が良いと思ってはいるけど、こうして2人になるのは意外と初めてかもしれないと思った。一緒に帰ることはあったし、部活で話すこともあったけど、どこかに出かけるほど仲が良いかというと微妙なところだ。誘ったら来てくれただろうし、誘われたら行ったけど。そんな機会はなかった。
「花びらって意外と薄いんだ。あたりまえだけど、すり抜けずに触れるのっていいな」
「わかる。触れるって、いいよね」
触れなくて、しんどかったもんね。うんうんとうなずいて、はたと気づいた。水嶋は、あえて言っていることなんだろうか。あたし、夢のことはまだ誰にも話していない。
さっきから何だか言うことが引っかかるのは、もしかしてわざと?
あたしに何か気づかせようとしてるのかな。
ぐいっと緑茶を飲んで息を吐く。ただの偶然の一致で、水嶋が何となく言っていることがすべて当てはまるような気がしてしまっているだけなのかもしれない。思い込んで失敗するのは良くない。
いきなり前世がどうとか言って、ドン引きされるのだけはごめんだ。今の距離感が壊れたら、遡って自分でない過去まで恨んでしまいそう。
「おっ、にゃーすけ。いると思ったからご飯あるよ。おいで」
今度は花壇の向こうから「にゃー」と返事をするように鳴きながらやって来た白黒ちゃん。にゃーすけという名前があったのか。
近づいてきてゴロゴロと水嶋に甘えている。あたしに対する態度と違うところを見ると、水嶋とにゃーすけは顔見知りらしい。水嶋が「めっちゃ温い」とひっくり返ってお腹を見せるにゃーすけをわしゃわしゃと撫でた。
「今日こそは一緒に帰るか?」
穏やかな微笑みをこぼして、にゃーすけに声をかける水嶋。あたしの気も知らずに「そうか、帰るか」と、すっかりにゃーすけと意思疎通を図れている様子。その勢いであたしの心も察知してほしい。
あたしの心臓の鼓動が速くなっているのを感じる。指先が微かに震えてきて、きゅっと握りしめた。生きているからこその、感覚。
もし、水嶋が先輩だったら。同級生なのがややこしいけど、でも、そうだったら。
確かめるにはどうしたらいいだろう。約束を覚えてるか訊ねるのも直球すぎる。違う雰囲気を察したら逃げられるようなほうがいい。何か、何かないか。一か八か。
「――猫と桜と、おいしいご飯って完璧じゃない?」
うわ、声が上擦った。脳内を探って出てきた言葉。何の気なしに言ったように装いたかったのが、緊張感に溢れてしまった。
不審に思われたかなと横目で水島をうかがうも、水嶋はさして気にしていなさそうだった。
「そうだな。ザ・花見って感じ」
あっさりとした回答。あたしのふり絞った質問は伝わっていないらしい。暑さとは別の汗が額ににじんで、パタパタと手で扇いだ。
「お花見といえば、そうだよね。そんなもんだよね」
先輩なら、さすがに今のでわかりやすく明確な返事をくれただろう。水嶋は、あくまで水嶋か。大きく息を吐いてから、一口お茶を飲む。
よし、せっかく買ってきてくれたんだし、何食べようかな。今日はひとまずおいしいご飯を食べて、お腹いっぱいになれたら良しとしよう。
「あ、お金あとで払うからね」
「いーよ」
「そんなのだめだよ。こんだけたくさん買ってくれたんだもの、ちゃんと払わせて」
にゃーすけを足の間に乗せて撫でながら、水嶋はふっと柔らかく口元を緩ませる。
「いいんだよ。美味しく食べてくれたら、それで梅野からはもらったようなもんだから」
「まーたそれ。ちょいちょい意味わかんないこと言うのやめてもらっていい? 紛らわしいったらないんだからね」
って、言ったところで水嶋には伝わるわけもない。あたしが勝手に期待をしたくせに、八つ当たりみたいなことをしてしまった。
ムッとした顔をする水嶋を見て、慌てて「ごめん」と言った。
「あの、ちょっと変な夢見て、それで何か水嶋が言うことが気になっ――」
「俺だって、意味もなく言わねぇよ」
あたふたするあたしの声に、水嶋の声が重なった。
「え?」
水嶋の腕の中にいるにゃーすけのふてぶてしい顔つきが、あの日の茶トラを思い起こさせた。
爽やかな風が水嶋の前髪を揺らす。きれいな金色、じゃない色。まぶしくて、やっぱり太陽みたいだと思った。先輩でなくても、今のあたしにとって水嶋がそうなんだ。
水嶋は髪を払った指先で目頭をなでて、ゆっくりとこちらを向く。視線がぶつかると、その瞳がきらめいて見えた。
「わざと言ってた。今は梅野がどんな反応するか、わかればそれで良いなって思ってたから」
「……何で?」
「だってあのとき、」
息をのんで、続きを待つ。淡い期待があっという間に世界を塗り替えていく。瞬きを繰り返しているうちに目の前が潤んできた。
遥か遠い過去、遥か遠い未来に望んだことが、今ようやくここにある。きっと、ずっと、ずっと、待っていた。いつか、叶うことがあればと願っていた。
「約束しただろ?」
桜の花びらが、まるで祝福してくれているみたいに優しく降り注いでいた。
END