「……あ、そろそろ帰り始めたみたいです」

 ぞろぞろと歩いてくる生徒たちの顔を見ながら言った。

「お昼までだったみたいで良かったですよね。結構な人数いますから、ちゃんと見ててくださいよ」

 先輩が前を通りすぎる人の顔をちらりと確認して「違った」と呟く。ばったり遭遇してしまっては良くないため、向かいの歩道に渡った。帰っていく人を凝視している先輩は怪しくて、悲鳴を上げられないことを願った。

「あ、い、た。……いた。ふたりで出てきた!」
「ちょっと、先輩。落ち着いてください。そんな声出して万が一にも聞こえちゃったらどうするんですか。かわいそうですよ」
「あ、わり。まあ、ここまで気づかれないし大丈夫だろ。あのふたりだよ」
「短髪の人と、何かふわっとした感じの人……で合ってます?」

 そうそう、とうなずく先輩を横目に、噂のふたりを観察する。短髪でスポーツをやっていそうな、太陽の光をたくさん浴びているであろう小麦肌の颯斗さんと、ふわふわな柔らかい雰囲気を纏った吉乃さん。

 楽しそうに話している上にあの距離感、仲が良さそうなのは間違いない。残念ながら確定材料とするにはまだ足りなさそうだ。

 手でも繋いでいてくれたら、わかりやすかった。学校から離れた場所のほうがチャンスがあるかな。

「全然変わってねーんだなあ」
「感傷に浸ってる間に行っちゃいますよ!」

 しみじみと過去に浸かる先輩の腕を引いて、後を追いかける。

「あんな警戒してたくせに近づいて平気なのか」
「何かもう、大丈夫な気がしてきました。こんだけ人通りもあったら、紛れてますよ」

 金髪の先輩は、先輩の中身を知らなければ近寄りがたくすら見える。振り向かれたところで、顔さえ見えなかったらおそらくバレない。

 思いきってしまえば、案外何とでもなりそうだ。徐々にふたりとの距離を詰めていく。けれども気は抜かずに、横断歩道をゆっくりと渡ったり、後ろから来た人に追い抜かされるように、あえてゆっくりと歩いたりもした。

「お昼食べたいから、どっか寄ろ~」
「何食う?」
「ドリア食べたい」
「んー、了解」

 颯斗さんと吉乃さんの会話が聞こえる距離まで近づけた。なかなか危険ではあるものの、どんなことを話すのか聞いておきたかった。

 どうやら、まっすぐ家に帰るわけではないらしい。これがデートと断定するには難しくても、ついていけば、きっと確証が得られる。そんな気がした。

「お昼ご飯食べに行くみたいですね」

 目線はしっかりと前に向けつつ、こそっと先輩に声をかける。

「そうだな。昼飯まだだったし、俺らも――」

 自分の口元に手を当てて「ごめん」と苦々しく笑った。

「パフェ10個くらいおごらせますけど、いいですか?」
「うっかりしたんだって、許してくれよ。それより、どこまでついてってもいいと思う?」
「さあ。内緒で後をつけてるこの状況が良くはないんだから、先輩の気が済むまでいいんじゃないですか。今のままじゃ、どうせふたりの関係性はよくわかんないと思ってるんでしょう?」

 先輩と付き合うと決めたからには、先輩が行くところまであたしはついて行く。

「ありがとう。葉月がいてくれて心強い」
「先輩、今日はちょっと気持ち悪いですね」

 いつもはそんなに素直じゃないのに。そう付け足すと、頭をぐしゃぐしゃに撫でられて、返答はなかった。

 どことなくぎこちなさを感じるふたりは春休みの予定を話したり、学校の課題が面倒だと話したり。これといって収穫がない。

 せめてふたりきりでデートスポットへ行く話でもしてくれたら。なかなか願った通りには会話か進まないまま、たどり着いた先もファミレス。幼なじみなのも手伝って、ふたりでご飯くらいはあり得るのかもって域を出なかった。

「先輩から見て、あのふたりってどうなんですか? 付き合って見えますか?」

 空いている近くの席に座って、中腰で後ろを覗こうとしている先輩を見つめる。どっからどう見ても怪しいのに、自覚ないのかな。

 ここまでポンコツの先輩を見れるなんてレアかもしれないから、もう何も言わないことにした。

「わかる自信がないからここにいる……って、葉月その顔やめろ。今日ずっとそんな感じだな」
「えっ。どの顔ですか」

 自分で自分の表情がわからない。ガラスに映らないか近づいても太陽の光で何も見えない。

 あたし、今おかしな顔してる? 今日ずっと、普段と変わらないつもりなのに。

「口元が微妙に笑ってる」
「別にずっとじゃないです。まあ、これは仕方ないですよ」

 これでも堪えたほうだ。「先輩のせいですからね」と正直に打ち明ける。

「何で俺のせい?」

 怪訝そうな顔をする先輩は、あたしがどうして笑っているのかまるでわかっていない様子。あたしとしては、このままいても良いけど。

「どう見たって不審者ですよ。逃げられます」
「あっ、そっか。怖いか、これ。何だよ、それで笑ってたのか。もっと早く言ってくれよ」

 先輩は気まずそうにはにかんで、きちんと座り直した。逆にその体勢で怪しくないとでも思ってたのか。

 よろしい、とえらそうにうなずいてみせる。その後もそれらしい会話はなく、あたしと先輩はひたすら盗み聞きを続けていた。

 飲み物を取りに行っていた颯斗さんが戻るなり、吉乃さんが「あっ」と何か思いついたように声をあげた。

「今ね、友達とやり取りしてんだけど、あたしが遊ぼうって誘った日、友達が彼氏と旅行の予定なんだってさぁ。そんで、思ったんだけど、あたしたちも旅行とか良くない? 颯斗はどう?」

 パッと先輩の表情が変わった。

 これってカップルっぽい会話なんじゃない?

 すくに先輩に声をかけようとして、慌ててつぐむ。優先すべきは、会話の続きを聞くことだ。先輩と目が合うと、何も話さなくてもお互いにもうわかっていた。

 あたしも先輩をならって背もたれに耳がつきそうなくらい近づいてみる。これって、ひょっとすると、ひょっとするよね?

 ようやく、出口がすぐそこに見えた。

「――そうだな、日帰りで行けるとこなら良いか」
「それなら、温泉どう? 日帰りできる温泉旅館とかさっ。あたし温泉入りたーい」
「……ふはっ。いいよ。どこにするか。吉乃が行きたいとこ行こう。そんな、真っ赤になってまで俺と行きたいんだもんな」

 からかい口調で、でもいとおしさがだだ漏れの颯斗さん。これは友達じゃないと、はっきり思えた。

 確認するまでもなく先輩の微笑む横顔が、そのまま答えで良さそうだ。

「真っ赤になんかなってません。颯斗のが赤いんじゃないの? いい加減慣れなよね」
「そっちこそ」

 普通の会話を聞いていたときとは違って、目があちこち泳いでしまう。今日はずっと悪いことをしているのに一際悪いことをしたような罪の意識がのしかかってきた。

 カップルの会話を盗み聞きするなんて、やっちゃダメなことだ。

 先輩はどうかな、とちらりと目をやる。会話の内容そのものは気にしていないようで満ち足りた顔をしていた。

「……良かった」

 独り言のような呟きが漏れる。拾ってもらおうと思っていなかった言葉なのに、先輩は「うん」と力強くうなずいた。

「仲良しカップルですね」

 先輩はまだ会話を聞きたいかもしれないから、なるべく声を落とした。

「うん。安心した。心配するまでもなかったな」

 それを聞いてあたしも一安心だ。傷ついた先輩を見ることがなくて良かった。

 先輩は幼なじみとして、ふたりのことを本当に大切に思っているんだ。

「何たって旅行するくらいの仲ですからね。あー、旅行いいなあ。先輩、今から京都とか行きません?」
「また、思いつきで何でも言うなよ。どうしても行きたいなら、もう俺の用は済んだし今から行ってみるか? 今からだと、俺は行ったら終わりかもしんないけど葉月は大丈夫ならひとりで観光するのも良いし」

 ハッとして「大丈夫です」と断った。行って終わってしまうのであれば意味がない。ふたりで巡ってみたいと思っただけだ。

「また、いつかにとっておきます。それよりも、もういいんですか? まだ何か話して――あれ、話してない?」

 声が聞こえなくなったことに気づいて、後ろをそっと振り返る。ついさっきまで話してたはずが、どうしたんだろう。立ち上がって、横目で確認しつつ通り過ぎて、また席へ戻った。

 頼んだメニューはまだ運ばれてきていない様子だから、お会計じゃないだろう。颯斗さんも吉乃さんも席にいて、無言でスマホを触っていた。

「……なあ、吉乃」
「んー? どこがいいか迷ってきた。日帰りって結構あるんだねぇ」

 ピンときた。旅行先をどこにしようか調べているところなんだ。付き合っていることがわかったから、先輩はともかく、あたしはもう続きを聞く必要はない。先輩に向き直って「もう少しいますか?」と訊ねる。

「ふたりの関係性がわかったから、もう十分。一緒にいるのを見れて、心残りはない。葉月はやりたいこと決まった?」
「特には。適当に時間までいれたら満足です」

 じゃあ、どっか行くか。それにうなずいて、あたしも席を立った。

「そういやさ、大輝(だいき)の家行ったんだよ。昨日」
「え、大輝の家?」
「言おうか迷ってたんだけど、やっぱ言っとくわ。おばさん元気そうだったよ。吉乃にもよろしくってさ」
「え、何それ。あたし聞いてないんだけど。行けたの?」

 ピタッと、まるで魔法でもかけられたかのように先輩の動きが止まった。理由は明白だ。

「先輩の話、みたいですね?」

 そのまま帰ろうとする先輩の腕をつかんで、「座りましょう」と先輩に促した。あたしは気になって、とても帰ることなんてできない。先輩だって本当はそうだろう。黙ったまま、先輩は腰を下ろしてうつむいた。

「――何となく行ってみようって思えたんだよ」
「そっかぁ。行けたんだ。良かったね」
「おばさんが、大輝がずっと俺らのこと気にしてたんだって教えてくれた。何度も会いに行こうとしてたみたいだけど、できなかったんだって」
「うん」
「落ち着いたら話そうと思ってくれてたらしいんだけど、俺ら全然、大輝の家行かなかったじゃん」

 だんだんと震えていく声を、ただじっと聞いていた。横にいる先輩をうかがうと、あたしから顔を背けるように店内を眺めている。

「何で、もっと早く会いに行かなかった……んだろうな……って、すげぇ思って。つまんねー意地、いつまでも……っ、はってるんじゃなかった」
「……ちょっとぉ。何でそれ、ここで言うのよ。そんなの聞いて……泣かないわけないじゃん」

 鼻を啜る音が聞こえて、あたしは目を伏せる。

「会いたかった。ちゃんと、生きてるときに。会って……話したかったのに、バカだよな」
「そんなの、あたしだって……そうだよぉ……っ」

 掠れて、涙ながらのその願いを、できることなら叶えてあげたかった。生きているうちに、先輩と一緒に会いに来たかった。先輩に紹介してもらって、面と向かって挨拶をしてみたかった。

 穏やかなBGMとあちこちから笑い声が聞こえてきて、楽しいランチタイムの時間。なのに、ここだけ切り取られた別の空間のようだった。

「……先輩、もっと早く仲直りできてたら良かったですね。言ってくれてたら、あたし、いくらでも付き合いましたよ?」
「生きてるうちに行こうって思ってたんだ。ほんとに。でも、思ってたより病状が進行するのが早くて……行きたいって思ったときには遅かった」
「病気のこと、話したらふたりが会いに来てくれてたと思いますよ。誰にも教えないなんて、意地張らなくて良かったんです」

 項垂れる先輩の頭をそっと叩いた。あたしにしか見えない、ガラス窓にすら映らない先輩の姿。あのふたりに先輩はここにいて、話ができるよと教えてあげたい。でも、それさえもできない。

 もっと早く会いたい人がいると知ることができていたら。先輩の病気のことを伝えられていたら。なんて、今だから思えることばっかり。あたしたちに今できることは、何もないんだ。

「こうやって好きに動き回れたところで、生きてるうちにしか会えねーもんな」
「そうですね。会って話すのは、生きてるときにやっておかないと」

 自分自身への戒めでもある。先輩に言いたいことを伝えるのは、生きているうちじゃないといけなかった。後悔したところで、どうあがいても戻せない。戻れない。

「ごめん……ごめん……っ」

 届けたい相手に届かない先輩の言葉は、むなしく響いた。先輩から流れる涙がテーブルに落ちる前に消えていく。先輩の存在は、まだ確かにここにいる。

「見えなくても、聞こえなくても、伝えたいことを言ってみるのはどうですか」

 一方的に話すだけで、会話をすることもできない。いい提案とは言えないものだった。それでも、気持ちだけでも何かできないかと思ってしまった。

 潤んだ目でこちらを見た先輩がうなずいて、一緒に席を立った。同時に他のお客さんが席に座る。

 先輩がすぐそばに立っても、ふたりとも何も変わらなかった。見えてないのだから当然だ。

 先輩の表情は変わらなかったものの、眉毛がわずかに動いた。もう涙は止まっていた。

「……颯斗、吉乃、久しぶり。生きてるうちに会えなくてごめん。会いたかったって言ってくれてありがとう……俺も、ずっとふたりに会いたかった」

 あたしが隣に並んでいるのはおかしな気がして、そっと距離をとる。申し訳ないと思いながら、ぎりぎり声が聞こえる位置を選んだ。

「もう……こんなとこ、大輝が見たら心配するよ。大輝のことだから、絶対そうだよ。そしたら、颯斗のせいにするからねっ」
「大輝は、たぶん『吉乃が何かしたんだろ』って言うだろうな」
「そんなにいつも何かしたりしないっつーの! 失礼しちゃう。颯斗も大輝も」

 ハンカチを目に当てて、吉乃さんがふふっと笑った。

「えー、俺も失礼? 大輝じゃなくて?」
「何でいきなり俺が失礼になるんだよ」

 つられたように颯斗さんと先輩が笑う。先輩がここにいるとは知らないはずなのに、3人で会話をしているみたいだった。幼なじみの3人が、あたしには確かに見えていた。

「今日ふたりに会えてよかった」

 先輩がそう言ったときに吉乃さんが顔を上げた。

 まさか見えてる? と、思ったのも束の間、注文していたものが運ばれてきただけだった。「そうだよな」と呟いた先輩が頬をさする。

「行こう。これ以上いると、今度はこのふたりが死ぬまで見届けたくなりそう」
「それは困ります。たぶん泣きついたら許してもらえる気もしますけど、ちょっと長すぎますね」

 からかうように笑うと、先輩の瞳がまた濡れた。こんなに泣き虫だったなんて生きているときは知らなかった。もしかすると、ほんとはずっとそうだったのかな。

 病院にお見舞いに行ったときも先輩は、普段通りのままだった。普段通り過ぎて焦って、あたしが先輩を怒らせてしまった。

 生きているうちにもっと弱さを見せてくれたらよかったのに。あたしにできることは少なくても、きっと今みたいにその手を握りしめることはできた。

「葉月……っ」
「肩、貸しましょうか? ……あ、ここは離れてからにしないとですね」

 この場にいるだけで、先輩の新しい未練が生まれてしまう。

 先輩の手を引いて足早にファミレスを出て、できる限り店から離れた。後ろで泣きじゃくる先輩は小さな子供みたいだった。

「泣けるときにたくさん泣いたらいいですよ」

 立ち止まって振り向けば、赤い目をしている先輩。ぎゅっと握られたままの手を離せなかった。温かさも冷たさも感じないけど、生きているみたいに思えた。

「一緒にいてくれてありがとう」

 いとおしい人だなあ。両手をひろげようとすると、その前に抱き着かれてフリーズした。

 状況を理解してから背中に手を回す。心臓の鼓動は重ならない。生きているようで、やっぱり死んでいるんだと実感する。

「最後に会えてよかったですね。あのふたりなら、きっとこれからも大丈夫ですよ」

 この先も生きていくふたりをずっと見ていることはできないから、断言はできない。

「うん。そうだよな。大丈夫だって信じる」
「そうです。先輩がそれを一番信じなきゃ。ふたりは会えなかった後悔を抱えて、これからも生きていくんですから」
「だな。葉月がいてくれて、本当によかった……」

 ああ、今先輩にあたしの顔が見えていなくて本当によかった。あたしも泣いていることを悟られたくない。

 今日、先輩と一緒に過ごせてよかった。生きて一緒にいられなかったのは残念だけど、会いたくてたまらなかった人とまた一緒に過ごすことができた。十分だ。

「……っ、あたしも、先輩がいてくれて本当によかったと思ってます」

 人が通り抜けても気にすることなく、先輩が落ち着くまでずっとそのままでいた。

「もう、落ち着いた。何つーか……ごめん、葉月。たくさん迷惑かけて」

 先輩が気まずそうに静かに離れていく。

「えー、今更ですよ。気にしてません」
「や、許可なく抱きしめるとか。その……嫌なことしてたらごめん」

 急にしおらしくなるものだから、思わず吹き出してしまった。

「肩貸しましょうかって言ったのはあたしです。嫌だったらそもそも今日付き合ってないですよ。何言ってるんですか」
「そっか。ありがとう。適当にって言ってたけど、どこ行く?」
「そうですねぇ……」

 どうしようかな。行き先は決めてなかった。時間になるまで、先輩と一緒にいられたらそれで。

 何でもいいなあ。そんなことを言えば、困らせてしまいそうだから胸の内に秘めておく。

「意外と時間ありそうだもんな。そもそも、黄昏時っていつなんだろう。黄昏時には戻らなきゃいけないって聞いたけど、結構微妙な時間だよな」
「黄昏時って、夕方のことですよね。日没直後……とか、そんな感じだった気がします」
「門限みたいなもんだって聞いた。別にどうしてもってわけじゃなくて、夜に出回ってもいい場合もあるらしい」
「夜しか未練解消できない人もいますもんね」

 あたしの言葉になるほど、とひとり納得している先輩。顔を上げると、空はまだ明るかった。日没までには時間がありそうだ。

「せっかくだし、先輩は行きたいところないんですか。行ってみたかったところとか」
「あったような気もするけど、まったく思いつかねーわ。この辺知らねーし、ふらふらして気になったとこ入ってみるのは?」
「いいですね。賛成です」

 先輩の横に並んで、歩いていく。こうして目的もなく一緒に歩けるなんて、ちょっとデートしてるみたい。ゆるむ口元を手で覆い隠しつつ、横目で先輩を見た。

 気づいた先輩が「どうした?」と不思議そうな顔をするので手を下ろす。

「なんかあった?」
「全然、何でもないですよ。行きましょう!」
「そっか。葉月は元気だな」

 そんなわけはないですよ、と答えて下唇を噛んだ。あたしの後悔は何だろう。

 知らない場所を行き当たりばったりで進むのは存外悪くない。歩いて街並みを見ているだけでも新鮮だった。

 たまに行き止まりがあっても、こっそり塀を乗り越えたり、戻って遠回りしたり。こんなに先輩と長い時間一緒にいるのは、初めてのことかもしれなかった。

「先輩、離れがたいのはわかりますけど……」

 声をかけるのは申し訳ないと思いつつ、先輩の腕を引っ張る。ビー玉みたいな、大きな瞳がふたつ。先輩を捉えて逃してくれない。

「もふもふのふわふわですね」

 あたしも、できるなら抱っこしたい。小さなアメリカンショートヘアが、先輩をじっと見つめている。

 ガラスにぴったりくっついた肉球は、ガラスさえなければ先輩のところまでいきたいと示しているみたいだった。先輩は完全に夢中だ。

 偶然たどり着いたショッピングモールの一角にあるペットショップで、もう結構な時間を消費していた。

「あとちょっとだけだから……長いこと猫の近くに来たことなんてなかったんだよ。ほんとは連れて帰りたい」

 うっ。それを言われてしまっては敵わない。でも、ここには時計がないし、空も見えない。

 気づいたら時間になるのは怖いから、あたしだけで時計を確認しに行ってこようかな。「時間を見てきます」と伝えると「もう出るからいいよ」と断られた。

「あ、そういえば、最初に通った公園にも猫いましたよ。大きかったけど、その子もかわいかったし、ここより近くに来てくれると思います」
「……よし。そっちの公園行こう。じゃあな。いい家族が見つかるように願ってる」

 名残惜しそうな先輩はゆっくりと立ち上がって、子猫から目をそらした。

 誰かがこの子を見つけて、幸せにしてくれますようにとあたしも願った。

「最初の公園に戻ったら、たぶんそこで最後ですね」
「ここどこだかわかんねーけど、さっきあった地図見れば戻れるか。駅の近くのはずだから」

 危ないところだった。ショッピングモールを出ると、空はすっかり茜色に染まっていた。

 地図を見るのは先輩に任せて、先陣切って進んでもらう。

「今日、楽しかったですねぇ」
「うん。もう色んなことができなくなって諦めてたから……最後にこんな風に自由に動き回れてよかった」
「すごい走ってましたよね」
「うん、大満足」

 頭の後ろで手を組んだ先輩が、あたしを見て眉を寄せる。

 どう見たって大満足の顔じゃない。やっぱり、まだやりたいことでもあったかな。

「葉月は、ほんとは他にやりたいこととか、あったんじゃねーの? 俺に付き合うだけでよかったのか?」
「あ、あたしですか? よかったですよ」
「そっか。まあ、葉月がまだ大丈夫なら全然いいんだけど。俺に付き合うだけで終わりはもったいねーじゃん」

 あー、と長々伸ばして苦笑する。あたしのことを気にしてくれてたのか。

 あごに手を当てて「そうですね」と考えるふりをしたところで、相変わらず何もない。もう叶って満足しているから、これ以上を望まなくていい。

「じゃあ、来世でいいんで叶えてくださいよ」

 冗談めかして言うと、先輩は真面目な顔つきでうなずいた。笑うところのつもりだったのに。

「いいよ。何を叶えてほしい? ほんとにこれが最後だからな」

 歩幅をあたしに合わせつつ先導してくれていた先輩が隣に並んだ。優しい声のせいで涙が滲んできてしまった。

 慌てて目元を拭ってごまかす。今やりたいことはない。それはもう確かだ。

 ただ、離れたくない願いがこぼれそうだった。

「冗談です。叶えたいことなんて、もうないですよ」
「……そうか。ぎりぎりでも浮かんだら言ってくれれば頑張る」
「はい。こう見えてもかなり満足してるので、大丈夫です」

 こぼれないように、ふたをする。閉じきれなかったところから、じわじわと浮かんでくるのはどうにもできないことだけ。

 先輩が生きてるうちに好きだと言いたかった。言えばよかった。いくらだってチャンスはあったんだ。

 お見舞いに通っているとき、今日こそはと思って病室の扉を開けた。帰り道には明日こそと意気込んだ。そうして――好きと言えないまま、先輩はいなくなってしまった。

 再会できても好きだとは言えない、言わない。一方的に告白して終わって、あたしだけが満足するなんて嫌だ。言わずに終わりで構わない。

 口を閉じたあたしに、先輩は何も言わなかった。

 会話がないまま、前へ前へと進んでいく。終わりに向かって歩んでいく。

 叶えたいことはないけど、このままさよならでいいんだろうか。

 きっと、先輩といられる最後のチャンスなんだ。先輩に何か、伝えられるとしたら。言えるとしたら……何がある?

 別れの言葉だけじゃなく、何かあたしが言ったことが先輩の心に残ってほしい。これ以上を望まないはずが出てきてしまった。

 まだ欲があるなあ。目を伏せて、何にするかを考える。

 桜の雨が、ひらひらと舞い落ちた。さっきの公園の桜が風に乗って流れ着いたらしい。公園は、もうすぐそこ。


 静寂な公園は、誰もいなかった。

 こちらから黙ってしまった手前、先輩に声をかけるのを躊躇ってしまう。

「猫、見当たらねーな……」

 沈黙を破って、先輩が独りごちる。どうしていいかわからずにいた空気を一瞬で壊してくれた。先輩は感じていなかったのかもしれない。

 ふっと頬が緩んでしまう。最後になるんだから、ちゃんと笑顔でいよう。

「さっきはベンチで寝てました。あっちの」

 指を差す先に、さっきの茶トラちゃんと思われる猫の姿があった。耳がピンと立っていて、聞こえているかのようにこちらを見ている。

「ほんとだ! かわいいなー。丸っこい」
「ご飯たくさんもらえてる感じがしますよね。おーい!」

 茶トラちゃんに手を振れば、反応してくれた。顔が左右に揺れて、手の動きを追いかけている。その仕草がかわいくて、近くにたどり着くまで手を振った。

 ベンチの前に先輩としゃがみこむ。鼻先に手を近づけると、素早く避けられた。さっきはあんなに見つめてくれていたのに!

「葉月、猫に遊ばれてね?」
「えー、そんなこと……そんな……ちょっと遊ばないで」

 鼻先に手を伸ばすと避けるのに、手を引っ込めようとすると近づいてくる。そんなことあった。猫に遊ばれている。

「かわいらしい小悪魔だ」と言うと、フンッと鼻息を吐いた茶トラちゃんの顔が勝ち誇っているように見えた。

「猫も葉月がいいやつだってわかってるんだな」

 先輩が目を細めて笑っている。ここにいるみんながかわいいから、すべて許すとしよう。


 時計の針の音なんて聞こえてないはずなのに、聞こえてくるような錯覚を起こしそうだ。たぶん、どんな終わりを迎えてもさみしさは感じる。

 笑っても泣いても、ここからいなくなってしまう。今この場で先輩が覚えていてくれる何か――何か、

「やっぱり……叶えたいこと、いいですか?」

 あたしと遊ぶのに飽きてしまった茶トラちゃんは、もはや反応すらくれず遠い目をしている。膝の上に手を戻して、先輩の方へ頭を動かした。

 最後に、ひとつだけ。

「おー、何? 今からでもできっかな。俺は未練解消したけど、葉月に付き合いたいって言えばまだいられるかどうか」
「今からでもできますよ、大丈夫です。先輩をとどまらせたりしません」

 嘘でもうなずいてくれたら、もうそれだけで叶ったと思える。あたしの未練も解消されて、ぜんぶ終わる。

 先輩にしかできない、叶えてほしいこと。

「またいつか、こうやって桜の綺麗な公園で猫と遊びましょう。そのときは、あたしと一緒にお花見してください」
「……ああ、ちゃんと食べ物とかも用意するんだよな」
「そうですね。大事です」

 こくこくうなずいた。涙が頬を滑り落ちる。涙が流れ落ちる感覚がまだあるのが変な感じだ。

 生まれ変わりなんて、あるかわからない。あたしが先輩を、先輩があたしを覚えていられる保証もない。

 それでも遥か遠い先の未来、あたしではない、別のあたし。どうか、がんばってほしい。

 ほんの少しでも先輩の心に残っていられるように、これが今のあたしの精一杯だ。

「いいよ。約束しよう。指切りでもしとくか」

 ん、と小指を出された。あたしにはすっかり興味を失っていた茶トラちゃんが、片方の前足を出して先輩の小指に触れようとする。軽やかにちょいちょいと前足を出す。

 もう最後なのに、しまらないなあ。

 小指と小指を絡める。お互いに果たせるか、わからないとわかっている。

「……約束ですよ」
「楽しみにしてる。忘れんなよ、葉月。俺は絶対に覚えておくから」

 だんだんと先輩の輪郭がぼやけてきた。

 うつむいた先輩は、茶トラちゃんを撫でるように手を動かす。残念ながら形だけで、その手はすり抜けでしまう。茶トラちゃんは悲しげに「にゃあ」と鳴いて「元気でな」と、先輩が答えた。

「次こそ、ちゃんと長生きしてくださいよ。健康でいられるように願ってますからね」

 どうか、願わくは、あたしもその人生に一緒にいられますように。ああ、また望みが出てきた。最後まで願うばかりだ。

「そうだな。葉月も、次は長生きしろよ。特に事故は気をつけろ。死んでから会えたって嬉しくねーんだからな」
「ちゃんと気をつけます」

 来世では、信号をよく確認する人に生まれ変わろう。信号をうっかり見逃したのは先輩が先にいなくなっちゃって沈んでいたせいもあるけど、それは人のせいにしすぎか。

 あたしも茶トラちゃんの目を見て、頭を撫でる。実際に撫でられたら、きっと温かいんだろう。

 バイバイ、茶トラちゃん。最後に会えて嬉しかったよ。

 未練が消えて、黄昏時は終わりを迎える。世界が夜を連れてやって来る。

「──またいつか、どこかで」

 まぶたを上げたときにはもう、先輩はいなかった。