尾行は失敗だ。見失った。おまけに迷子になってしまった。どこだ、ここは。
 あたしにはさっぱりわからない。普段乗る電車で学校の最寄りを過ぎた先にある駅だということが、わかる程度。

「……学校か病院に行くんだと思ってたのになあ」

 初めて足を踏み入れた駅の改札を通り抜けて、あたしは小さく呟く。駅員さんの元気なアナウンスでかき消された。今年でこの辺りの路線が150周年らしい。自分も長い歴史の一部にいたんだなあとぼんやり思った。

 先輩はどっちへ行ったんだろう。金髪で背が高い先輩は見つけやすいはずなのに。辺りを見回しても近くにはいないようだった。

 右と左に出口がある。2つだけで良かったと思うべきか。間違えたら道もよくわからないあたしは駅に戻ってくるのも難しいかもしれない。とはいえ、ここで待っていては日が暮れて終わってしまう。何もせずに帰るのだけはごめんだ。

 こういうときは、前の人についていこう。パッと目に入った人の後に続いたら北口だった。先輩もそうであることを願う。

 しばらくついていこうと思ったものの、残念ながら商店街の途中でラーメン屋さんの中へ吸い込まれていった。

 仕方なく道なりに歩みを進める。先輩とは1回だけ行ったなあ。高校の近くにあるラーメン屋さん。食欲がないけどラーメンが食べたいと言う先輩のために、ラーメンと餃子を頼んで取り皿に分けた。少ない注文だったのにまた来てとトッピングおまけのチケットをくれた。あのチケット、使っておけばよかった。

 商店街を抜けて、公園を通る。ここまで来ても見つからない。ため息をつきながら、ベンチに腰を下ろした。

 南口だったのかな。人は見かけるのに、金色の髪はいなかった。

 こんなことなら、どこへ向かうのか正直に訊いてしまえば良かったかな。でも、会ったら怒られそうで面と向かって訊くなんてできなかった。

 先輩と最後に会ったのは、病院の一室で『もう来なくていい』と言われたきり。先輩の強がりだとわかっていたけど、どうすることが正解かわからずに、あたしから会いに行くのをやめてしまった。

 そんな先輩に今更どの面下げて会えるというんだろう、というのもある。とても顔を合わせられなかった。だから黙ってついてきた。

 ただ、どこに行くのか知りたかった。知ることができたら、あたしが満足する気がしただけ。

 見つけられなければ、それまでだと思うことにしよう。知らない場所だけど、何だか落ち着けそうな場所だ。桜だって綺麗に咲いている。今年はもう見れないと思ってたからラッキーだ。

 温かそうな太陽の光を見つめて、伸びをしてみる。のんびりして帰るだけでも、きっと悪くない。

「こんにちは」

 近づいてきた猫に声をかけてみたものの、スルーされてしまった。隣のベンチに飛び乗って、毛繕いを始める茶トラの猫。

 公園にいるのは、茶トラちゃんとあたしだけ。本来なら学校に行っている時間に何もしていないのは、ちょっぴり罪悪感がある。

「あたし、今まで授業サボったことなかったんだよ。優等生だったの」

 人がいないのをいいことに話しかけ続けると、茶トラちゃんはあたしの声に反応したかのように、じっとこちらを見つめてきた。丸くてかわいい瞳と目が合ったように思える。

 茶トラちゃんはあたしに対する興味を一瞬で失ったらしい。大きなあくびしたかと思えば、体勢を変えて眠ってしまった。

 さすが猫って感じだ。ふっと口元が緩む。

 目を閉じる猫を眺めて瞬きを繰り返すこと、いったいどれくらいの時間が経ったのか。公園の時計に目を向ければ、数分しか進んでいなかった。人通りもあまりない時間らしく、風で桜の木が揺れる音がするくらいでとても静かだった。

「触ってもいい?」

 茶トラちゃん、近づいたら怒るかな。そろそろと手を伸ばしつつ立ち上がると、勘づかれたのかシャーと鳴いた。猫には好かれるタイプだったんだけどなあ。

「怖がらせちゃったか。ごめんね……って、」

 いた! と、口の中で呟く。視界の端に写りこんだ人に焦点を合わせて、じっと見つめた。

 薄桃色の花吹雪にも映える、金色。

 あの後ろ姿は間違いないだろう。何やら首を傾げているのは、道にでも迷ったのか。まさか、もう用が済んだなんてことはないだろう。この短時間で人と会っていたなら、残念ながらあたしの知りたいことはわからないままになりそうだ。

「じゃあね」と、茶トラちゃんに別れの挨拶を囁く。頭に桜の花びらが乗っているのを見て小さく笑った。

 どうか先輩が振り向きませんように!

 音を立てないように、先輩の視界に入らないように、そっと近づいていく。

 太陽に照らされて、透明感のある肌と髪がきらきらして見えた。最後に見かけたときとは違う、染めたばかりのような根元まで綺麗な金色。

 あたしは、あの髪色が好きだ。

 サラサラの黒髪だった先輩がある日突然、髪を金色に変えてきたときはみんなが驚いていた。

 ずっと染めてみたかったから、思いきった色にしたんだって。何色にしたらいいかわからなくて、金髪を選んじゃうところが先輩らしい。

 あたしが『似合ってます』と言ったとき、先輩は嬉しそうに笑っていた。

「……なあ、葉月(はづき)

 前を向いたままの先輩。ギクッとあたしの肩が強張る。

 えっ、と喉元まで出かかった言葉を何とか押し込めた。呼ばれた名前は他でもない。あたしのものだ。

 見つかった? っていうか、いつからバレてた?
 先輩からは確かに見えてなかったはずなのに。

「葉月、聞こえるか」

 振り返った先輩は、眉を下げて悲しげに笑っていた。ぎゅっとスカートを握りしめる。

「……聞こえてますよ。久しぶり、ですね」

 先輩と対面する予定はなかったのに。うまくいかないものだ。このまま逃げてしまおうかと頭の片隅で考えていると、先輩の手が伸びてきてあたしの頬に触れた。

「こんなに早く、会いたくなかった」

 まつ毛を伏せる先輩に「すみません」と言った。逃げる気力はするすると消え去って、先輩の指先に自分の手を重ねる。こんなふうに触れ合えることは、もうないと思ってた。

「でも、あたしは、会いたかったですよ。偶然ですけど、会えて良かったです」
「俺も、会えたのは嬉しい」

 先輩が微笑んだのを見て、安心する。同時に我に返って手を引っ込めた。

 手汗、大丈夫かな。緊張で……って、大丈夫だ。くだらない心配をしたバカな自分に涙が滲みそうになって、おどけてみせる。

「あたしがいなくて、さみしかったですか?」
「それはない。てか、ついて来てるなら声かけてくれれば良かったのに。気づいたら葉月がいないから、探しに来たんだよ」
「えっ、いつから気づいてました?」

 まさかの探されてた。迷子になってたの気づかれてたのかな。

「最初から。俺について来てるか、学校行くのか微妙だったけど、学校の最寄り通り過ぎたあたりで俺なんだろうなって」 
「先輩こそ声かけてくださいよ。ひどいですよ」
「勝手につけてきた葉月が言うのか」
「それは……謝ります、けど……」

 どう考えてもこちらに否がある。言い返せる材料は何も見つからなくて、あたしは唇を噛んだ。

 先輩は子どもをあやすように優しい声で「俺も悪かった」と言ったけど、たぶん悪いとは思ってない。そもそも悪くないのだから当然だ。

「ひとりで行くには、ちょっと勇気がねーから、葉月がいるならちょうど良かったんだよ」
「どこですか? お化け屋敷? 前、行ってみたいって言ってましたよね」
「よく覚えてんな、そんなの」
「覚えてますよ。全然行きたくなさそうに言ってたから」

 文化祭のお化け屋敷ですら怖がるくせに、本格的なお化け屋敷に行きたいなんて言われたら忘れられない。とくに先輩が言ったやりたいことは鮮明に記憶している。

 一緒に叶えられたら、なんて大それたことを望んだことはないけど。先輩がやりたいと願うことは、叶えば良いと思っていた。

「で、お化け屋敷なんですか? だったら、あたしがいても無理なんじゃないですかね……」

 申し訳ないことに、あたしもお化け屋敷には行きたくない。言われたときにも断ったけど、ホラー全般が無理だもん。逆に今の先輩ならお化け屋敷くらい余裕でひとりで行けるかもしれない。

「お化け屋敷よりもっと、苦手っつーか、怖いっつーか……とにかく気が進まない場所」

 一体どんな場所なんだろう。想像がつかない。行ったことのある場所かな。

「……頼む。一緒に来てほしい」

 先輩が頭を下げる。そこまでされても、即答はできなかった。

「そんなに深刻な場所って、逆に怖いです」
「場所言ったら、来てくれんの?」
「そりゃあ……言ってくれたら、行くかも、しれないです。かもですからね!」

 今のままだと、中途半端に怖そうなイメージしかない。何が待ち受けるのかっていう恐怖も上乗せされて、怖さ倍増だ。先輩の頼みとは言っても無理なことは、ちゃんと断る。

 一生のお願いと言われようと……迷うけど、それでもできないことはある。

「話しながら行こう。つっても、まだ授業中だろうけど。喧嘩したまま会わなくなったから、直接は会いたくねーの」

 授業中。それって、もうほとんど答えを言われたような気もする。

 この近くにあるんだろう。通い慣れたあたしたちの学校とは別の学校。そこに先輩が会いたい誰かがいるらしい。

 先輩が最後にどうしても会いたい人なんだろうと思うと、ちょっと嫌だなあ。そんなことを考えてしまったのを後ろめたく感じつつ、歩き始めた先輩の隣にあたしも並んだ。

 歩くこと、既に数分。待ってるあたしを誰か褒めてほしい。

 話しながら行こうと自分から言ってたくせに、先輩はなかなか話そうとしない。あたしとしては、もう十分待った。こちらから話題を持ちかけてみる。

「行先って、学校ですか?」
「……そう、高校。駅前で地図で見た限りじゃ、あともう少し歩けば着く」

 歯切れの悪い先輩は、あたしがやんわり訊ねただけでは一度で話を終わらせようとしてくれないらしい。

「誰に、会いに行くんですか? え、ちょっと、」

 何も言わずにいきなり左に曲がるものだから、慌ててあたしも爪先の向きを変えた。どんだけ苦手な人に会いに行くつもりなんだ。

 喧嘩したままだから、会うのが怖いのもあるのかな。

「あ、曲がるの言わなくてごめん。まあ、その、ふつーに幼なじみ2人。いつだっけ。何かで話したとき、葉月もいただろ」

 うわあ、複雑そう。長く一緒にいたとしても、相手と毎日顔を合わせる環境にいなければ、仲直りのきっかけは少ないだろう。

「ふたりいて、確か……先輩と同い年でしたよね」

 あたしが知っているのはそれだけ。話を聞いたときは気になったものの、先輩が話したくなさそうな空気を察して訊かなかった。『最近会ってない』と言っていたけれど、今思えばあれは喧嘩してそれきりだったのか。

「小さい頃から仲良くて……中3のときは、行きたい高校が同じだったから、一緒に頑張ろうって約束してた」

 でも、実際は別の学校。向かう先がどれほどの進学校かは知らないが、先輩が落ちて仕方なく分かれてしまったわけではなさそうだ。唇を結んで、先輩の続きを待つ。

「けど、ふたりともお互いのこと好きなの丸わかりでさ。俺いたら邪魔でしかねーじゃん。実際、俺に気ぃ遣って付き合えてなかったのはあるみたいだし」

 あたしは、ああ、と一言うなずいた。仲の良い幼なじみ3人がそのままでいられなくなるときが来たけど、きっとまだ3人でいたかったんだ。

「高校は別のとこにしようって、決めた」

 色んなとこ見学行ったなあ、と先輩は懐かしそうに目を伏せる。

「願書とか受験の日とか、どこまでごまかせてたかわかんねーけど、ごまかせるだけごまかして……受験終わってから俺は別のとこ受けたって話したら、すげー色々言われた。俺も俺で、言い分はあったから好き放題ぶちまけて、その後は会わず終い」
「……今どうしてるか、知りたいんですね」
「それもあるけど、何つーか……俺の一方的な思い込みじゃなかったかどうか知りたい」

 情けねーだろ。先輩が自嘲するように笑うから、言葉に詰まった。笑ったりもできなかった。

 ずっと気になってたのに、今まで来れなかったのか。

「もっと早く行けば良かったのに、バカですよ先輩」
「だよな。まあ葉月がいなかったら、あと5年は来れてなかったかも。てか、葉月もひとつくらい、こういうのあんだろ?」
「それが、あたしには意外となかったんですよ。あるとしたら……」

 うーんと唸る。あるとしたら、何だろう。

 あたしには大事にしている幼なじみはいない。会いたくても会えていない人は思い浮かばなかった。もっと考えれば、会いたい人がいないわけじゃないと思う。きっと会ったら、やりたいこともたくさん出てくる。だからこそ、会わないままでいい。

 先輩に会いたかったし、先輩がどこへ行くのか知りたかった。それなら、もう叶った。

「あるとしたら、って考え込むほどねーの?」
「ないですね」
「そしたら、考えてみろよ。できることなら、葉月に付き合ってやるから」

 そう来たか。偉そうな先輩に、にこりと笑いかける。

「そうですね……じゃあ、スカイダイビングにします。一緒に落ちてみませんか?」
「却下」
「付き合ってくれないじゃないですか!」
「本気じゃねーだろ。できるかも微妙だし。俺ができる範囲で」

 それだと、あたしのやりたいことって言うよりも先輩ができることだ。あたしは先輩のやりたいことに付き合うのに、公平じゃない。

 ……まあ、いっか。どうせ、あたしがやりたいことなんて、すぐには出てきそうにない。

 今日中に、先輩でも叶えられそうなことを適当に考えてあげよう。

「学校の屋上で主張するの、楽しみにしてますね」
「やってもいいけど、葉月のリアクション薄そうだから却下。もうちょっと真面目に考えとけよ」

 ほんとに見てみたくて言ったのに。ちょっとだけど、見てみたかった。

 はあい、と気の抜けた返事をすると、先輩は呆れたようにあたしを横目で見た。そんな無理にやりたいことを探させないでほしい。

 道路を渡って、門の前で先輩が立ち止まった。

「ここですか?」
「うん、合ってる」

 門にある学校名を確認した先輩がうなずく。ようやく到着だ。

 立派な門は片側だけ開いていた。入ろうと思えば入ることはできる。ただし、閉まっている方に貼り紙がある。当然のことながら、部外者は立ち入り禁止らしい。

 あたしたちは、どこからどう見たって完全なる部外者だ。

「これって防犯カメラに映ったりしないですかね?」

 あたしがどうしたもんかと考えているうちに、先輩はさっさと入ってしまった。

 何も気にしないって素晴らしい。あたしも見習うべきなのかもしれない。防犯カメラには映ってないことを願った。

「大丈夫だろ。映ってたとして、制服だし部外者なのバレなきゃ人も来ねーだろ。第一、来たところで大丈夫だって。早く来いよ」
「それならいいですけど……」

 いや、良くはないけど。ここで立ち止まっていても埒が明かない。あたしも急ぎ足で門を通り抜ける。

 どうか大丈夫でありますように。万が一映っても、遅刻した学生だと思われたらいい。制服が大きく違っていなければ、そう見える可能性もある。

 小走りで先輩に駆け寄ると「ビビりだな」と笑われた。ひとりでここまで来る勇気のなかった先輩には言われたくない。

「こっからの問題は、あいつらがすぐ見つかるかだな」
「何組とか、そういうのはわかってるんですか?」
「それ知ってたら良かったんだけどな。母親情報で聞いてたかもしんねーけど……全く覚えてねーな。ごめん」

 申し訳なさそうにうつむく先輩の肩を叩く。何となく、そうだろうと予想はついていた。

 しばらく会ってなかったことに加えて別の学校とくれば、知らなくても当然だ。幼なじみだからって何でもわかるわけじゃないだろう。

「先輩と同い年ってことは、2年生ですよね」
「あー、じゃあ2年の教室を順番に見てけばいいのか」

 簡単なことのように言うけど、どこに何の教室があるのかもわからない。学校中を無闇に探し回る余裕はなさそうだ。

 先輩だけで来ていたら、今頃は誰かに見つかって大変だったかもしれない。

「2年生の教室ってどこなのか、わかるんですか?」
「そっか。まずそこから調べてかねーと……って、おい。笑うなよ」
「先輩が緊張してるんだなあって思ったら、ちょっと可笑しくて。幼なじみさんのこと、大切なんですよね」

 うん。先輩からすぐさま返ってきたうなずきに、あたしはもうひとつの質問を押し込める。

 幼なじみのために、同じ学校には行かなかった先輩。自分のことをふたりの邪魔だと言っていたけど、好きになってはいなかったのだろうか。

 先輩が勘違いしていただけで、向こうが先輩を好きだった可能性もある。なんて、そんなことはとても口にできなかった。

「まずは校舎入ってみて、それから考えよう」
「そうですね。校内マップとかあれば早いと思うんですけど」
「なるほど。探そう」

 人の気配に注意しつつ、校舎の中へ入っていく。授業中なのか、人気がなくて好都合だった。

 万が一にも声をかけられるようなことがあれば、見学に来た中学生のふりをして乗り切れるかな。勝手に入っている時点で印象は最悪でも、ある程度ごまかしれ逃げられればいい。

 受付の人の様子をうかがうと、奥に引っ込んでいてこちらに目は向いていなかった。難なくクリアして、先へ進む。

 後はもう、今の時間なら見つかる心配も少ないはずだ。
 受付の横で校内マップも発見した。卒業生が作ったものらしい。下の方に卒業生一同と書かれている。見やすくてありがたい。

 うちの学校よりもずっと広い学校で教室の数も多そうだった。先輩も「テニスコートもあるのか」と感心している。

「2年生の教室は、このあたりみたいですね。このくらいの数なら、片っ端から覗いて探せば見つかりそうですけど、せっかくなんで予想してください。何組だと思います?」

 あたしは、と続ける。先輩だけに予想させたら、相手にしてくれなさそうだから。

「4組と6組で予想してます」
「せっかくって……何でせっかくなんだよ。エスパーじゃねーんだから、わかるか」
「そこ気にしないでください。先輩の予想は何組か聞いてるだけです。透視しろとか言ってません」

 緊張を減らすための遊びであって、特に意味はない。

「そうだな。俺は同じクラスで3組にする。何となく、あいつらは同じクラスにいそう」

 乗ってくれた先輩は思いの外悩むことなく答えてくれた。不思議とあたしも先輩が言うとおりに思えてきた。

 これで先輩が当たったら、たぶん第六感が働いたというやつだろう。

「強気ですね。じゃあ、予想したクラスから先に見ていきましょう」
「楽しそうだな、葉月は」
「そうですね、楽しいですよ。こういうの、なんか久しぶりで」

 先輩も面白いので、と付け加えて笑って見せると「そうだな」と先輩も穏やかに笑った。少しでも向かう先への緊張感が和らいでくれていることを願った。

 この先どうあっても、願わくは先輩の安心した顔を見て、あたしも安心したい。

 長い廊下を進んでいく。最初は校内を見ながら会話をしていたのに、だんだんと返ってくる言葉数が減って途切れてしまった。自分で気づいてるのかな。さっきから先輩の歩幅がどんどん狭くなってきている。長い脚なんだから、もっと早く進めるだろうに。あたしよりも遅い。先輩の後ろにいたはずが、追い越してしまった。

 残念ながら、もうこの空気をどうにかする方法が何も思いつかない。手でもつないだら驚きが勝つかなあと一瞬考えたものの、実行に移せる度胸はなかった。

 2年も連絡を取らずにいたとはいえ、長年一緒に過ごしてきた幼なじみ。あたしに勝てる要素があるわけないんだ。強張る先輩の顔を見ても、かける言葉が見つからない。

 2組を通りすぎて、先輩の予想する3組の前までやって来た。これまで誰ともすれ違わなかったのは幸いだ。なかなか見ようとしない先輩に痺れを切らせて、そっと背中を叩く。

 観念したように覗いた先輩に続いて、あたしもクラスの中を見る。先生らしき人が黒板に向かって何か書いているのが見えた。これは現代文の授業かな。みんなしっかり前を向いて授業を受けていて、こちらに気づく人はいなかった。

 わあ、真面目。優秀なクラスだなあ。うちのクラスだったら今頃もっと先生に話しかけたり、周りとしゃべったりしている。それはそれで楽しかった。

「先輩、後ろからですけど、幼なじみさんがいるかわかりますかね」

 後ろ姿だと、さすがにわかりづらいかな。声を落として横を向く。おい、と思わずツッコミたくなった。先輩の「どうだろうな」という呟きが下に落ちる。

「床に何かあるんですか?」
「とくにねーけど」

 でしょうね。しゃがみ込んで、先輩の顔を下から覗き込んだ。

 心の準備ができるまで待ってあげたい気持ちはあっても、時間の余裕がない。授業が終わって人が出てきたら、移動しなくちゃいけなくなる。

「いるかどうか確認したらいいんですよ。それだけです、早くしてください」

 ほら、と先輩の腕をつかむ。2年ぶりくらいじゃ、顔がわからなくなるなんてことはないでしょう。

 先輩みたいに金髪になっていたら、驚きはするかもしれないけど。見た感じでは派手な髪色の人はいなさそうだった。

「葉月がそうやっててくれると、助かる」
「そうやってって、どうですか?」
「いつも通り生意気でいてくれて」
「どういたしまして。早く見てください。あたしじゃ、どんな人かもわからないんですから、代わりに探すのは無理です。スマホもないし」

 一瞬目をそらしたものの、気を取り直して教室内を見回す先輩。ここにいなければ、次のクラスに進まないと。

「全然見えなくて、わかんねーなあ」
「ほとんど頭しか見えないですもんね」

 ここからだと顔を見るのは難しい。

 自信がなさそうな先輩に「じゃあ前からにしましょう」と、先に前のドアの方まで歩いた。防犯カメラよりは大丈夫な自信がある。

 前のドアから、ぎりぎりを狙って教室の中へ目を凝らす。これなら見えそう。とはいえ、誰かに気づかれる可能性がないとも言えない。

「勇気あるのな、葉月は」
「先輩こそ、さっき門を通ったときの勇気どうしたんですか。あれよりこっちのが安全ですよ」
「そうか? 防犯カメラのが問題ねーだろ。人のが危ねーって」

 あれ、そう言われてみるとそうかも? 納得しかけて、ハッとする。別にそんなことはどうでもいいんだ。

「とにかく、ここからどうぞ」
「わかったって。なるべく早く済ませる」

 あたしは横にずれて、先輩の反応をうかがう。先輩の予想が外れていたら、次だ。

「……いた」

 先輩の声がわずかに上擦ったのがわかった。

「大正解じゃないですか。答え知ってました?」
「そんなわけねーだろ」

 どのあたりに座ってる人がそうなんだろう。ふたりともいたのかな。教えてもらおうと思っていると、先輩は困ったように首の後ろに手を当てた。

「いたんですよね?」
「うん。ふたりともいたんだけどさ……」

 教室の中を見つめたまま、先輩が苦笑する。

「授業中に見てたところで、席が近いってわけでもねーし、付き合ってるかどうかわかるわけなかった」

 言われて、あたしもはたと気づいた。そうだった。先輩の目的は、ふたりが付き合ったかどうか知ることだ。授業参観じゃない。

 考えが足りてなかった。見つけられたら、それでいいって思い込んでた。みんな静かに集中して授業を受けているんだから仲良く話しているところすら見ることができない。

「放課後を待って、後をつけたら良いですかね?」
「さっきの葉月みたいな、バレバレじゃダメだけどな」
「え、バレそうな感じの人たちなんですか?」
「さあ。そんな話、したことあったか。もう覚えてねーわ」

 さみしそうに笑ってうつむく先輩に「行きましょう」と促した。

 ひとまず教室を離れることにして、足音を立てずに廊下を歩いた。教室を見守ったところで先輩の目的が果たせるかわからない上に、休み時間になって誰かにあたしたちがいると気づかれたら騒ぎになるかもしれない。

「どこで待ちますか? 校舎内で誰かを驚かせたくはないですよね」
「どうかな。葉月がいきなり現れたら、校庭でもびっくりするだろ」

 そういう意味で言ってない。クツクツと笑う先輩を追い抜く。絶対からかわれてるよね、これ。

「先輩のその金髪のが見つかる可能性高いんですからね」
「大丈夫だって。昼間だし、日差しで同化してわかんねーだろ」
「そんなことないです。身長だって高いし、目立ちます。もう、緊張感持ってくださいよ」
「……あ、ほんとだ。もう緊張してなかった」

 先輩はきょとんとして、突然思い出したように胸のあたりをポンポン叩いて見せた。

「いや、どきどきはさっきもしてなかったですよ」
「まあいいだろ、そこは。残りの緊張感は放課後までとっとくことにする。ってか、放課後までに葉月は何かしたいことねーのかよ。どうせ暇なんだし、付き合うよ。花見とか。さっき見たけど、ここも満開かもな」

 ほら、と先輩が窓の外を指差す。その先にあるのは、この学校の桜だった。見頃を迎えたと言わんばかりに咲いている。

 先輩は花見なんて興味がないと思ってたから、偶然目についたとはいえ、そんなことを言い出すのは意外だ。

「お花見するなら、あたしは美味しいご飯もないと嫌なのでダメです。桜の見えるお店でご飯っていう、お花見の仕方も憧れがありますよね」
「葉月は完全に花より団子派か。今は花見てたらとりあえず花見になるんじゃねーの?」

 怪訝そうな顔をする先輩。あたしのこと、全然わかってないなあ。綺麗な桜を見ながらご飯を食べて、楽しくわいわいするのが花見ってもんでしょう。

 そういうの、一度も経験はないけど。たぶん、それで認識は合ってるはず。先輩と気まずくなることがなければ、今年はお花見どうですかって誘ってただろう。

「桜見てるだけなんて、一瞬で終わるじゃないですか。綺麗だなあって思って終わりですよ。風情はあるのかもしれないですけど、それだと物足りません。それとも、桜の木の下でお昼寝してみます?」
「学校の敷地内で昼寝とか恐ろしいこと言うなよ。見つかったら語り継がれるだろ」
「絶対七不思議のひとつにされますね。やめましょう」

 ホラーとして語り継がれたくはない。クスクス笑っていると、ガラッと扉の開く音が響いた。

「……あ、」

 ふたりの声が重なる。うっかり普通にしゃべってしまっていた。って、そこじゃない!

 そーっと後ろを確認する。まだ授業中だと言うのにどうしてか、先生らしき人が教室から出てきた。丁寧な先生で、向き合って扉を閉めてくれているおかげで間一髪。見つかってはない。……まだ、今は。

「走れ、葉月」

 先輩の声を合図に、慌てて駆け出した。

 階段を下りるのも、出せる力を出しきって急いだ。1階までたどり着いて、止めてしまいそうな足を動かして校舎を抜ける。

 門を飛び出して、ようやく胸をなで下ろす。さすがに危なかった、けど。

「先輩ってば、何で走ってんですか!?」
「葉月こそ、別に走んなくてもいいのに」
「先輩が走れとか言うから、つい走っちゃいましたよ」

 あははと声を出して笑ってしまった。今までで一番焦った。息切れはしていないけど、たぶん、そうだと思う。

 ちょっと楽しかったなあ。学校の中をあんなに走ったのは初めてだ。走らざるを得ない状況になったのも、もちろん初めてだった。

「久しぶりに走った。いいな、こういうのも」
「悪いことしたーっていう、満足感があります」
「葉月も優等生だったもんな」
「先輩はいきなり髪色を派手に変えてきた元、がつく優等生ですけどね」

 あたしも先輩を真似して、好きな色にしておけば良かったかな。赤とかピンクとか。意外と似合ったりして。

「うらやましいだろ」
「いやあ、金髪はないですよ。痛そうですもん」
「ブリーチはそれなりに痛かった。葉月なら何色にしてた?」
「今ちょうど考えてて、赤かピンクかなあって」

 大して変わんねーだろ、と笑われた。全然違う色なのに何で!

「赤でもピンクでも、色抜かねーと。まあ、ブラウン寄りならいけんのかも」
「あー、ブリーチしない色がいいです」

 自分の髪の毛を触る。元からブラウンの髪が太陽の光で赤みを帯びて見えた。

「まあ、葉月の髪ってもとが染めてるみたいなきれいな色してるしな」
「確かひいじいちゃんが、ヨーロッパ系の人なんですよ。その血のおかげじゃないかと思います」
「えっ、そうなの!?」

 先輩の目が丸くなる。かわいいな。思わず口元が緩む。

「髪と瞳の色くらいしか、わかるとこないんですけどね。それもそんなにはっきりしてないし」
「あー、言われてみれば、目もちょっと色素薄いんだな。今はわかりづらい部分もあるけど。きれいなのは何となくわかる。いい色だな」

 瞳を確認するためとは言え、屈んで顔を覗き込まれると先輩の鼻先がすぐそこだった。先輩は今だからこそ、この距離を何とも思ってなさそうだ。

 どきどきするところなんだろうな、と頭の隅で冷静に思った。

 先輩の顔が遠退いても、相変わらず近いところにいるので、あたしのほうから一歩後ろに下がった。

 褒められたのは髪であり、瞳であり、あたし自身じゃない。緩みきった口元を自覚しつつ、下唇を噛む。

 胸の奥がちくちく痛むような感覚はないけれど、それでも何だか胸が苦しい気がしてしまう。

「……ありがとうございます。そんなことより、ここで待ちますか? 場所変えますか?」

 話を畳んで、話題を切り換えた。今の話が長くなったところで、あたしの心が跳ねるだけ。

 今日の目的はまだ達成されていない。浮かれ気分のままいるわけにいかない。先輩のために来たんだから、成し遂げなければ意味がなくなってしまう。

 あたしはまだふたりの顔を見ていないし、このまま見ずに帰るのもごめんだ。例え今日諦めることになっても、どんな人かだけは見ないと気が済まない。

「葉月が良かったら、ここで待とう。春休み前だろうし、授業早く終わるとかあるかもしれねーから」
「あー、それはあるかもです。別のとこ行って、戻って来たときにいなかったら嫌ですもんね」

 今って何時くらいなんだろう。さっき教室の時計を確認しておけば良かった。公園では見たけど、あれからどのくらい経っているのか。時間の流れる感覚がつかめない。

 放課後までここにいるのは構わないとして、放課後はいつ来るのか。

 何か言葉のやり取りのみで時間をつぶす方法を考えないと。思い出を振り返ると気まずい時期の話もすることになる。無難にしりとりでもして待っていようかと考えが浮かんだとき、

「放課後までの間、暇だよな」

 先輩がぼやいた。あたしも同感だ。

「しりとりでもしますか?」
「すげー、すぐ終わりそう」
「え、続けてくださいよ。試しにやってみます?」

 乗り気じゃない先輩を半ば強引に参加させようと「しりとり」と始めてみた。

 なかなか次を答えてくれない先輩に、あたしは同じ言葉を繰り返す。

「あ、リン酸」
「よく思いつきましたね」
「うん。もう終わった」
「いやいや、終わらせないでくださいよ」
「やだよ」

 そう言って、先輩は子供みたいに笑った。

「終わらせたんだから、先輩が暇つぶす案出してくださいね」
「しりとりは嫌だけど、特にすることもねーな」

 わがままだなあ。やれやれと、わざとらしく先輩を睨みつける。先輩のしれっとした顔が憎らしい。

「それなら、時計でも見てきてください」

 ふたりでここから動いてしまうわけにいかない。先輩が無理やりしりとり終わらせたんだもの、このくらいはしてもらわないと。

 あと、どのくらい待てばいいのか純粋に知りたいのもある。このままだと時間が無限に感じられて気持ちがしんどくなりそう。

「わかった。いいよ。俺が戻る前にふたりが来たら、呼んで」
「先輩、あたしは顔を知らないんでそれは無理です。帰る人が来たら、呼べますけど」

 すっかりあたしが先輩の幼なじみを知っていることになっていて、苦笑した。

 先輩も、しまったという表情になる。仕方なしに「あたしが行きましょうか」と提案した。顔がわかる先輩が残ったほうが間違いない。

「いいよ。俺が行ってくる。たぶんチャイム鳴ってわかるだろ」
「あ、そうですね。じゃあ、遠慮なくお願いします。行ってらっしゃい」

 しりとりを終わらせたことへの仕返しとして雑にあしらって手を振ると、先輩は拗ねた様子で足早に校内へ入ってしまった。

 何の躊躇いも持たずに侵入する様は見事なものだ。今日の先輩はちょっと心配だけど、何とかやってくれるだろう。

 振り向いた先輩のご機嫌は早くも直っているようで、いたずらが成功した子どもみたいに無邪気な笑みを見せた。おまけにピースまで。

 うん、とうなずいて見せるとその姿は校舎の陰に隠れて見えなくなった。

「……ただ一緒にいたかった」

 って、言えば良かった。なんて、ね。いまさらだ。聞こえない状況なら、こんなにも簡単に言える。再会したところで、言いたかったことは言えない。あのとき言わなければ意味がない。

 叶うなら、あたしにも、もう一度チャンスが欲しかった。

「12時過ぎたところだった。もうすぐ授業終わって昼休みか、そのまま終わるか」
「何にしても、わかるまであとちょっとですね」

 戻って来た先輩は「疲れた」と言ってその場にしゃがみこんだ。絶対に疲れてるはずないのに。気持ちの問題かな。

「葉月、その目は何だ」
「お疲れさまだなあって目ですよ。ふたりが早く来るといいですね」
「うん。そうだと嬉しい」

 あたしも先輩の隣に腰を下ろす。

「ふたりって、どんな人なんですか?」

 先輩から見たふたりを知りたくなった。先輩は「えー」と渋ったわりに「気になります」ともう一押しただけで、あっさり話し始めてくれた。訊かれなくても話す気だったかな。

「幼稚園でみんな同じ松組になって、自然と仲良くなった」

 遠くを見つめて、そこにあたしの知らない思い出が広がっているようだった。

 出会いから始まり、小学生ではクラスが離れてしまい、先輩が大泣きしたこと。ふたりもさみしいとたくさん会いに来てくれたこと。中学生のときに花火大会に行ったら大雨に降られて、台無しになったこと。それから、ふたりが想い合っているのに、常に自分がふたりの間にいると気づいてしまったこと。

 最後は自分勝手に怒りをぶつけて、それきりだったこと。

「ただ、颯斗(はやと)吉乃(よしの)に幸せでいてほしかっただけなのに。やり方を間違えた」

 桜がはらはらと舞って、涙のしずくのように落ちていく。いとおしそうに呼ばれる名前をうらやましく思ってしまった。