仕事から帰宅した夫のマサヨシ(仮名、三十八歳)に妻のエム美(仮名、三十九歳)は言った。
「今度も駄目だった……」
 ネクタイを解きながらマサヨシは言った。
「え、なに、なんだって?」
 うつむき気味のエム美は、もう一度言った。
「生理が来たの。それで、今回も……」
 苛立たし気にマサヨシが言う。
「なんのことだよ、はっきり言えよ」
「だから、生理が来たの。だから、今度も赤ちゃんが……」
 妻の呟く言葉を耳にして、マサヨシが拍子抜けした表情で口を開いた。
「なんだ、そんなことか」
 夫の漏らした言葉を聞いて、エム美は耳を疑った。
「ねえ、今、なんて言ったの?」
「別に、なんでもない」
「なんだ、そんなことかって、言った」
「そうだったかな」
 すっとぼけるマサヨシを顔を凝視してエム美は言った。
「言ったの、そう言ったの」
「忘れた」
「言ったよ、確かに言ったよ」
「それなら、そうかもしれないな」
 ワイシャツのボタンを外しながらマサヨシは答えた。エム美は夫の指の結婚指輪をチラッと見てから再びマサヨシの顔を見つめた。
「この前の話だけど」
「え」
「だから、この前、あなたにお話ししたこと」
「なんだよ」
「だから――」
「お前の話、ずっと聞いているとイライラしてくる。要点を先に言えよ」
 マサヨシは不機嫌を露わにしてエム美から顔を背けた。エム美は謝りたくもなかったが小声で「ごめんなさい」と言って話を始めた。
「不妊治療の件だけど……この前あなたにお話ししたこと、覚えている?」
「ああ」
「産婦人科の先生がおっしゃるにはね、不妊の原因として、男性側に問題がある場合も」
 エム美の話を遮り、マサヨシが言った。
「俺に問題があるって言うのかよ」
 その口調に秘められた棘がエム美の心に突き刺さる。
「検査の結果、わたしの方には問題がなかったの。わたしの卵子にも子宮にも。それで、先生が」
 口唇の端を歪めてマサヨシは言った。
「俺が悪いって言ったんだな、その医者は」
「悪いなんて、そんな、悪いなんて先生は、一言も」
「悪いのは俺じゃない、俺の精子が悪いって言ったんだ」
「そうじゃないの。御主人も一緒に受診なさったらいかがですって」
 マサヨシはむくれた。夫を怒らせたくなかったけれど、エム美は頭を下げてマサヨシにお願いした。
「お願い、一緒にクリニックへ行ってちょうだい」
 不妊治療のためエム美が受診した産婦人科クリニックの主治医は、夫マサヨシの来院が必要だと言ったのだった。それは不妊の原因が男性側にある場合が少なくないからで、クリニックでは夫婦での受診を勧めていた。それでエム美は、夫に自分と一緒にクリニックを受診して欲しいとお願いしたのである。
 マサヨシは断った。
「忙しいから無理だ」
「そんな……たった一日のお休みもいただけないの?」
「今、忙しいんだよ。お前だって、オレが今、凄く大変なの、分かっているだろ?」
 エム美は頷いた。マサヨシは転職したばかりで、何かと忙しい。仕事が増えた上に、精神的なストレスも勿論あるのだ。
 それでもエム美はお願いした。
「どうか、お願い。一緒に来て」
 マサヨシは首を振った。
「できないものはできない。無理なものは無理」
 エム美の瞳に光るものが湧いた。
「あなたは、子供が欲しくないの?」
「欲しいよ、欲しいさ、普通にね」
「それなら一緒に来て」
「だから無理だって」
「子供が要らないの?」
「要らないとは言ってないだろ。忙しいから駄目だって言っているだけだ」
「わたしたちの子供よ、それが仕事より大切なの?」
「今が大切な時期なの、分かるだろ。収入が増えたとはいえ、生活は大変だ。不妊治療にだって金はかかるんだからさ」
 それは、その通りだ。しかしエム美は食い下がった。
「わたし、今、三十九歳なの。もうすぐ四十歳になるの。高齢になればなるほど、自然に妊娠する確率は減るの。急がないといけないの、早くしないといけないの」
 妻の焦りを夫は理解しようとしなかった。
「そのときは人工授精とかあるんだろ。その金を稼がないといけないんだ。よく考えてものを言えよな。それと、しばらくレスでいくから。お前との時間を減らして、体力を温存したいんで」
 蒼白のエム美の頬を涙が流れ落ちた時刻と、ちょうど同じ頃――エヌ本アイウエ男(仮名、二十八歳)は、涙を流しながら婚約している恋人のエス子に自分が精巣ガンであることを伝えていた。
「悪性腫瘍なんだって。転移があるかもしれないって、先生が言っていた」
 顔を強張らせてエス子は言った。
「精巣ガン……悪性腫瘍……転移があるかもしれないって、それって」
 エヌ本アイウエ男は涙を拭いながら頷いた。
「死ぬかもしれない。僕、もう死ぬかもしれないんだ」
 そう言いながら全身をガタガタ震わせる恋人を、エス子は凝視した。
「ねえ、その病気って、うつるの?」
「ええ?」
「感染するのかってこと! エイズとか梅毒とか、新型コロナみたいにうつる病気なのかって聞いているの!」
 しどろもどろになりながらエヌ本アイウエ男は答えた。
「性病じゃないから、平気だよ。それに、君には精巣がないから、大丈夫だと思うよ」
 それを聞いてエス子は安心したようだった。
「良かった、うつらないのね。それで、あなたはどうなるの?」
「死ぬかもしれない。先生ははっきり言わなかったけどね」
 エス子は頷いた。
「そうねえ。若い人だと、ガンの進行が速いって聞くし」
「嫌な事を言うなよ。それで、話があるんだ」
「なに?」
「結婚のことだよ。予定を早められないかなと思って」
「え」
「僕の夢、話したよね。自分の子供と遊びたいって、言ったよね」
「そうだっけ?」
「言ったよ。それでね、死ぬ前に、自分の子供を抱っこしたいんだ」
 エス子は目を丸くした。
「抱っこする前に死んじゃうかもよ」
「その夢をかなえたいんだ」
 切実な表情で語るエヌ本アイウエ男に恋人のエス子から憐れみの言葉が投げ掛けられる。
「そうなんだ……残念だったね。可哀想にね」
「待って、まだ分からないよ。夢がかなえられるかもしれないんだ。君と結婚しさえすれば、きっと」
「待って、無理。アイウエ男くん、死んじゃうんでしょ。そんな人の子供、産みたくない。だって、育てられないもの」
 言われてみれば、その通りだ。それでもエヌ本アイウエ男は諦めきれなかった。土下座しかねない勢いで頭を下げる。
「お願いだ、この通りだから結婚してちょうだい! そして、僕の子供を産んでよ!」
 エス子は頭を下げた。
「ごめん、無理。それと婚約破棄をお願いします。こういうの、死ぬ人に言いたくないんだけど、自分の人生も大切なので、次の人へ行かせて下さい」
 婚約していた恋人から別れを告げられたエヌ本アイウエ男は絶望のあまり自殺を考えた。だが、死ねなかった。精巣ガンでもうすぐ死ぬから、わざわざ自殺してなくていい……と考えたのではない。死ぬ前に、子作りをしたかったのだ。自分の遺伝子を残したかったのだ。彼は出会い系サイトのアプリをダウンロードし、行為の相手を探した。事情を伝えると、ほとんどの人間が引いてしまい、誰も話に乗って来なかった。それも当然のことだ、と諦めかけた、そのときである。
 エム美からエヌ本アイウエ男に連絡が来た。彼女は夫の代わりの遺伝子が必要だった。自分の卵子に到達してくれる精子を求め、出会い系アプリに登録したのである。二人は待ち合わせた。お互い、時間がなかった。妊娠と生存の問題を抱えた二人は顔を合わせると、すぐさま行為を始めた。時間は限られている。急がねばならないのだ。事が終わると、二人は別れた。ワンナイトだけのラブのない行為は、それで終わった……はずだった。
 そう、ワンナイトだけのラブのない行為のはずだった。それがラブストーリーに発展しそうで、二人は恐れおののいている。相性が、抜群に良かったのだ。女の方は妊娠とは無関係に会いたくなった。男の方は死の恐怖を忘れるため、そして愛と命の迸りを感じたくて、女を求めた。だが、それは許されないことだった。ワンナイト・ラブストーリーは一夜だけの夢物語で終わらせないといけないのだ。