恵とは大学生の時に出会った。たまたま寮の部屋が隣同士で、出身地が近かったこともありすぐに仲良くなった。気が強い私とは対照的に、恵はおっとりとした性格の家庭的な女だった。それが羨ましくもあり、同時に少し妬ましかった。性格は違えど、私たちの好みはよく似ていた。好きな食べ物、好きな映画、好きな本、そして好きな男も。
高校生の頃から付き合っている人がいるの、と恵に紹介されたのが、祥ちゃん――中島祥太だった。
別に一目惚れとか、そういうわけではない。祥ちゃんの女癖が悪かっただけの話だ。そして恵はそのことに気づいていなかった、それだけだ。
初めて会ったその日に口説かれた。恵の部屋で、恵が電話に出るために部屋の外に出た時のことだ。
机に向かい合って座っていたのに、気づくとするりと猫のように私の隣に来ていた。肩と肩が触れそうな距離に座られ、驚いて心臓が跳ねる。
「瑠璃子さん、だっけ。恵から美人だとは聞いてたけど、本当に綺麗だね」
人懐っこい笑顔で私に笑いかける。曖昧に頷き、私はさりげなく彼から距離を取った。なんとなくわかる、この男はかなり女慣れしている。そしてそういう男と関わるとろくなことがない。女の勘がそう告げていた。
しかし彼はごく自然に私の肩に手を回し、そっと自分の方へ私を引き寄せた。やめて、とも言えないくらいの力で。そして私の耳元で囁いた。
「恵と別れるから、俺と付き合ってって言ったら……付き合ってくれる?」
顔も、耳も、かっと熱を帯びるのがわかった。バカなこと言わないでください、と彼の肩をぐいと押す。その手を握られて、指を絡められた。逃げられない、と直感的に思う。今すぐここから逃げることもできるのに、逃げようとしない自分がいることにも気づいていた。
細い指が、私の指の間をなぞる。ぞくりと感じたことのない快感が背中を這い、私はぎゅっと目を瞑った。
「やめてください」
私の拒絶の言葉など、何の意味も持たない。唇を唇で塞がれた途端、甘美な味に腰が砕けた。微かにタバコの匂いがした。だめだ、この人と関わってはいけない。
「だって、一目惚れしちゃったんだもん」
子供が駄々をこねるような、無理矢理拒否すればこちらが逆に傷つくような、そんな目で彼は私を見つめる。
ダメだよ、恵の彼氏なのに。でもこんな甘美な味、忘れられない。恵、早く戻ってきて。いや、まだ戻ってこないで。
ぐらぐら揺れる私の心を見透かしたように、彼はもう一度私にキスをした。もう、拒否なんて出来なかった。
恵と別れると言ったくせに、彼は平然と二股を続けていた。もしかしたら、他にも女がいたのかもしれない。別れるって言ったじゃん、とどれだけ責め立てようと、のらりくらりとかわすばかり。毎回キスで言葉を封じられて、曖昧なままの関係が続いた。ピリオドを打ったのは、恵の言葉だった。
「赤ちゃんができたみたい」
幸せを顔中に溢れさせたような笑顔で、恵はそう言った。瑠璃子は親友だから、一番に伝えたくて。恵はまだぺたんこのお腹をさすりながら微笑む。
大学を卒業した次の年のことだった。
おめでとう、と言った私はうまく笑えていただろうか。頭を鈍器で殴られたような衝撃、というのは多分こんな感じを言うのだろう。
コーヒーが自慢の喫茶店に来ているのに、目の前の黒い液体は何の味もしない。
祥くんもね、すごく喜んでて。すぐ籍を入れようって言ってるんだ。年内に式も挙げる予定なんだけど、瑠璃子にスピーチ頼んでもいい?
恵の言葉の一つ一つが、ぐさぐさと容赦なく体に突き刺さる。あまりにも残酷で、もしかしたら恵はとっくの昔に私達の関係に気づいていたのではないかと思うほどだった。私のことが許せないから、そんなことを頼むのではないか?
しかし彼女の顔には、恨みも何も浮かんでいない。親友だから、と私を心から信頼した笑顔を向けている。その純粋さが、醜い浮気を続けていた自分に追い討ちをかける。
何をどう喋ったか覚えていないが、気づけば自分の家に帰り、彼に電話をかけていた。
コール1回で彼が出る。下腹部で熱いものがふつふつと湧き上がっているのがわかる。
「子供ができたんだってね」
「……恵から聞いたの?」
「恵とは避妊しなかったんだ」
「そういうわけじゃ」
「もういい、何も聞きたくない」
「瑠璃子が一番なんだよ」
「じゃあなんで」
私とする時は避妊してたのよ。なんでいつまでも恵と別れなかったのよ。そんな醜い言葉が飛び出しそうになり、ぐっと唇を噛んだ。今更何を言ったって彼には届かない。恵に赤ちゃんができた。それが事実だ。彼の一番は、恵だったのだ。
「……もういい、二度と連絡してこないで。私からももう連絡しない」
「瑠璃子」
携帯を耳から引き剥がすようにして、電話を切った。情けない言い訳ばかりされるのはわかっていたのに、それでもあの声を聴いていたいと思う自分が情けなかった。
股の間から熱いものがどろりと流れ出る。怒りでふらつく足でトイレに行くと、下着は鮮血で赤く染まっていた。私の怒りをそのまま絞り出したような赤。私には赤ちゃんができていないと証明する赤、
許さない。許さない許さない許さない。
私は壁を拳で叩き、嗚咽と共に何度も何度も呟いた。
絶対に許さない。二度と、何があっても。
***
高校生の頃から付き合っている人がいるの、と恵に紹介されたのが、祥ちゃん――中島祥太だった。
別に一目惚れとか、そういうわけではない。祥ちゃんの女癖が悪かっただけの話だ。そして恵はそのことに気づいていなかった、それだけだ。
初めて会ったその日に口説かれた。恵の部屋で、恵が電話に出るために部屋の外に出た時のことだ。
机に向かい合って座っていたのに、気づくとするりと猫のように私の隣に来ていた。肩と肩が触れそうな距離に座られ、驚いて心臓が跳ねる。
「瑠璃子さん、だっけ。恵から美人だとは聞いてたけど、本当に綺麗だね」
人懐っこい笑顔で私に笑いかける。曖昧に頷き、私はさりげなく彼から距離を取った。なんとなくわかる、この男はかなり女慣れしている。そしてそういう男と関わるとろくなことがない。女の勘がそう告げていた。
しかし彼はごく自然に私の肩に手を回し、そっと自分の方へ私を引き寄せた。やめて、とも言えないくらいの力で。そして私の耳元で囁いた。
「恵と別れるから、俺と付き合ってって言ったら……付き合ってくれる?」
顔も、耳も、かっと熱を帯びるのがわかった。バカなこと言わないでください、と彼の肩をぐいと押す。その手を握られて、指を絡められた。逃げられない、と直感的に思う。今すぐここから逃げることもできるのに、逃げようとしない自分がいることにも気づいていた。
細い指が、私の指の間をなぞる。ぞくりと感じたことのない快感が背中を這い、私はぎゅっと目を瞑った。
「やめてください」
私の拒絶の言葉など、何の意味も持たない。唇を唇で塞がれた途端、甘美な味に腰が砕けた。微かにタバコの匂いがした。だめだ、この人と関わってはいけない。
「だって、一目惚れしちゃったんだもん」
子供が駄々をこねるような、無理矢理拒否すればこちらが逆に傷つくような、そんな目で彼は私を見つめる。
ダメだよ、恵の彼氏なのに。でもこんな甘美な味、忘れられない。恵、早く戻ってきて。いや、まだ戻ってこないで。
ぐらぐら揺れる私の心を見透かしたように、彼はもう一度私にキスをした。もう、拒否なんて出来なかった。
恵と別れると言ったくせに、彼は平然と二股を続けていた。もしかしたら、他にも女がいたのかもしれない。別れるって言ったじゃん、とどれだけ責め立てようと、のらりくらりとかわすばかり。毎回キスで言葉を封じられて、曖昧なままの関係が続いた。ピリオドを打ったのは、恵の言葉だった。
「赤ちゃんができたみたい」
幸せを顔中に溢れさせたような笑顔で、恵はそう言った。瑠璃子は親友だから、一番に伝えたくて。恵はまだぺたんこのお腹をさすりながら微笑む。
大学を卒業した次の年のことだった。
おめでとう、と言った私はうまく笑えていただろうか。頭を鈍器で殴られたような衝撃、というのは多分こんな感じを言うのだろう。
コーヒーが自慢の喫茶店に来ているのに、目の前の黒い液体は何の味もしない。
祥くんもね、すごく喜んでて。すぐ籍を入れようって言ってるんだ。年内に式も挙げる予定なんだけど、瑠璃子にスピーチ頼んでもいい?
恵の言葉の一つ一つが、ぐさぐさと容赦なく体に突き刺さる。あまりにも残酷で、もしかしたら恵はとっくの昔に私達の関係に気づいていたのではないかと思うほどだった。私のことが許せないから、そんなことを頼むのではないか?
しかし彼女の顔には、恨みも何も浮かんでいない。親友だから、と私を心から信頼した笑顔を向けている。その純粋さが、醜い浮気を続けていた自分に追い討ちをかける。
何をどう喋ったか覚えていないが、気づけば自分の家に帰り、彼に電話をかけていた。
コール1回で彼が出る。下腹部で熱いものがふつふつと湧き上がっているのがわかる。
「子供ができたんだってね」
「……恵から聞いたの?」
「恵とは避妊しなかったんだ」
「そういうわけじゃ」
「もういい、何も聞きたくない」
「瑠璃子が一番なんだよ」
「じゃあなんで」
私とする時は避妊してたのよ。なんでいつまでも恵と別れなかったのよ。そんな醜い言葉が飛び出しそうになり、ぐっと唇を噛んだ。今更何を言ったって彼には届かない。恵に赤ちゃんができた。それが事実だ。彼の一番は、恵だったのだ。
「……もういい、二度と連絡してこないで。私からももう連絡しない」
「瑠璃子」
携帯を耳から引き剥がすようにして、電話を切った。情けない言い訳ばかりされるのはわかっていたのに、それでもあの声を聴いていたいと思う自分が情けなかった。
股の間から熱いものがどろりと流れ出る。怒りでふらつく足でトイレに行くと、下着は鮮血で赤く染まっていた。私の怒りをそのまま絞り出したような赤。私には赤ちゃんができていないと証明する赤、
許さない。許さない許さない許さない。
私は壁を拳で叩き、嗚咽と共に何度も何度も呟いた。
絶対に許さない。二度と、何があっても。
***