彼と再会したのはつい最近のことだった。
別れてからは連絡先も消して、彼との思い出も決して思い出さないように、心の奥底に鍵をかけて沈めていた。運命、なんてものがあるとは思い難いけれど、取引先の会社の社長の葬儀で再会するなんて、誰が予想できただろうか。
特別知り合いが多いわけでもない葬儀だった。焼香をあげて、営業担当に挨拶してさっさと帰るつもりだった。
天気予報では晴れだったのに、会場を出た時には雨が降っていて、私は途方に暮れた。遠くで雷鳴が轟く。いつもは傘を持ち歩いているが、喪服に合わせた鞄には入らずに置いてきてしまっていた。
しばらく雨宿りしても、雨脚は強まるばかり。コンビニまで歩こうにも、それまでにずぶ濡れになりそうだ。周りに傘を貸してくれそうな人もいない。もう駅まで走るしかない、と思って一歩踏み出した時。
「瑠璃子?」
名前を呼ばれて、手首を握られた。振り向くとそこには、懐かしい男の顔があった。
「瑠璃子、だよね」
甘い声が私の名前を呼ぶ。何度も私に触れた長い指で、私の手首をそっと握り直した。
その手の優しさに喜びが胸に広がり、しかし同時に彼の過去の仕打ちを思い出し、慌てて手を振り払った。
雨が地面を叩く音が、ノイズのように脳内に入り込んで、正常な思考を阻害する。
「……祥、ちゃん」
その名前をおずおずと口にすると、彼はぱっと顔を綻ばせた。
「よかった、やっぱり瑠璃子だ」
そこにいると濡れるよ、と一歩彼から離れた私を慣れた手つきで引き寄せる。固い胸板に顔がぶつかり、心拍数が跳ね上がる。微かに懐かしいタバコの匂いがした。そのままぎゅっと抱きしめられて、もがいても逃げられない。離れないと。ゆるさない。許さないんだから。
腕の中で身をよじらせる私の耳元に、
「会いたかった」
と彼は囁いた。私はいとも簡単に溶かされて、全身の力が抜けてしまう。ダメ、なのに。許さないのに。
ぐっと力を入れて腕を伸ばし、彼から距離を取る。一瞬寂しそうな顔をした彼は、すぐに何事もなかったかのように微笑んだ。
「傘、ないの? 駅まで送るよ」
素早く鞄から折り畳み傘を取り出して開く。立ちすくむ私の腕を引いて歩き出した。決して強い力ではないのに、有無を言わせない手の感触に唇を噛み締める。
「瑠璃子も社長と知り合いだったんだね」
「うちの会社の取引先だったから」
「俺、瑠璃子がどこで働いてるかも知らなかったよ」
「知らなくて良いでしょう。だって私たち」
とっくの昔に終わったんだから。そう言いかけたところで、彼が力強く自分の方へ私を引き寄せる。
なに、と身構えた途端、車道を走る車が水たまりの水を盛大に跳ね上げた。
「水、かからなかった?」
「……ええ」
よかった、と彼は口髭を撫でて微笑む。きざな男。だいっきらい、と悪態をつきながらも、心が彼に引き戻されているのがわかる。
許さない。許してはいけない。関わっちゃいけない。だってこんなにも簡単に、気持ちが揺り動かされるから。
なるべく距離をとって歩こうとする私の肩を、何もかも見透かしたように彼は引き寄せる。頬を引っ叩いてやりたい気分だが、いい大人が路上でそんなことをしたらどんな目で見られるか想像したくもない。
駅までの辛抱だから。
傘に入れてもらっている立場ではあるものの、自分にそう言い聞かせて私は足を速めた。
別れてからは連絡先も消して、彼との思い出も決して思い出さないように、心の奥底に鍵をかけて沈めていた。運命、なんてものがあるとは思い難いけれど、取引先の会社の社長の葬儀で再会するなんて、誰が予想できただろうか。
特別知り合いが多いわけでもない葬儀だった。焼香をあげて、営業担当に挨拶してさっさと帰るつもりだった。
天気予報では晴れだったのに、会場を出た時には雨が降っていて、私は途方に暮れた。遠くで雷鳴が轟く。いつもは傘を持ち歩いているが、喪服に合わせた鞄には入らずに置いてきてしまっていた。
しばらく雨宿りしても、雨脚は強まるばかり。コンビニまで歩こうにも、それまでにずぶ濡れになりそうだ。周りに傘を貸してくれそうな人もいない。もう駅まで走るしかない、と思って一歩踏み出した時。
「瑠璃子?」
名前を呼ばれて、手首を握られた。振り向くとそこには、懐かしい男の顔があった。
「瑠璃子、だよね」
甘い声が私の名前を呼ぶ。何度も私に触れた長い指で、私の手首をそっと握り直した。
その手の優しさに喜びが胸に広がり、しかし同時に彼の過去の仕打ちを思い出し、慌てて手を振り払った。
雨が地面を叩く音が、ノイズのように脳内に入り込んで、正常な思考を阻害する。
「……祥、ちゃん」
その名前をおずおずと口にすると、彼はぱっと顔を綻ばせた。
「よかった、やっぱり瑠璃子だ」
そこにいると濡れるよ、と一歩彼から離れた私を慣れた手つきで引き寄せる。固い胸板に顔がぶつかり、心拍数が跳ね上がる。微かに懐かしいタバコの匂いがした。そのままぎゅっと抱きしめられて、もがいても逃げられない。離れないと。ゆるさない。許さないんだから。
腕の中で身をよじらせる私の耳元に、
「会いたかった」
と彼は囁いた。私はいとも簡単に溶かされて、全身の力が抜けてしまう。ダメ、なのに。許さないのに。
ぐっと力を入れて腕を伸ばし、彼から距離を取る。一瞬寂しそうな顔をした彼は、すぐに何事もなかったかのように微笑んだ。
「傘、ないの? 駅まで送るよ」
素早く鞄から折り畳み傘を取り出して開く。立ちすくむ私の腕を引いて歩き出した。決して強い力ではないのに、有無を言わせない手の感触に唇を噛み締める。
「瑠璃子も社長と知り合いだったんだね」
「うちの会社の取引先だったから」
「俺、瑠璃子がどこで働いてるかも知らなかったよ」
「知らなくて良いでしょう。だって私たち」
とっくの昔に終わったんだから。そう言いかけたところで、彼が力強く自分の方へ私を引き寄せる。
なに、と身構えた途端、車道を走る車が水たまりの水を盛大に跳ね上げた。
「水、かからなかった?」
「……ええ」
よかった、と彼は口髭を撫でて微笑む。きざな男。だいっきらい、と悪態をつきながらも、心が彼に引き戻されているのがわかる。
許さない。許してはいけない。関わっちゃいけない。だってこんなにも簡単に、気持ちが揺り動かされるから。
なるべく距離をとって歩こうとする私の肩を、何もかも見透かしたように彼は引き寄せる。頬を引っ叩いてやりたい気分だが、いい大人が路上でそんなことをしたらどんな目で見られるか想像したくもない。
駅までの辛抱だから。
傘に入れてもらっている立場ではあるものの、自分にそう言い聞かせて私は足を速めた。