「一人で考えてたときにね。……本当は最後の最後で、郁雄にものすごい嫌われてやろうと思ったんだ。『わたしのことを好きじゃないあんたなんかいらない』って言ってやろうって思ってた。そうじゃなきゃ、わたしはずっと郁雄のこと好きなままで、わたしだけがずっと郁雄のことを忘れられない。そんなの不公平だもん」
「……」
「でも、結局、口ではぜんぜん違うセリフを言ってた」
「それが」
「最後は一緒の布団で眠りたい、だって。笑っちゃうよ。めちゃくちゃに嫌われようと思ってたのに。あーイヤな女だった、別れて正解だった……って、郁雄にも思ってほしかったのに」


 へへ、と笑ってみせた瑞穂の声は少し、ぐす、と濡れそぼっている。
 先程まで凪いでいたはずの感情の水面に、少しずつ白波が立ちはじめるのを感じた。


「……でも、やっぱり嫌なんだ、そんなの。そんなの本当のわたしじゃない。そんなわたしなら、いないのと同じ。いない方がいい」
「……」
「だから、ごめんね。どうせわがまま言うのなら、とことんわがまま言おうと思う」
「は?」


 郁雄の腕の中におさまっていた瑞穂は、ぐい、と力を込めて、すっかり油断していた郁雄の身体をあっけないほど簡単に仰向けにさせた。
 そのまま掛け布団をはねのけて、瑞穂はするりと郁雄の身体の上に覆いかぶさるように姿勢を変える。さっき帰ってきた時と同じように、その瞳はまた、涙に濡れていた。


「郁雄はわたしのこと、幸せにできるかどうかわかんないって言ってたよね。中途半端な気持ちじゃ一緒にいられないって。そう思わせちゃったことは、わたしも悪かったと思う。もっと可愛らしいところとか、やらしいところとかたくさん見せればよかったって、すっごく後悔した。……でも、知ってる? どっちも泣かない優しいお別れの方が、傷つけあった結果の別れよりもよっぽど残酷なんだよ」


 普段は、規則的に寄せて返す細波のように落ち着きのある瑞穂の声は、いまはまるで低い海鳴りのごとく、郁雄の身体を揺さぶってくる。結局突き詰めれば、自分が辛いか辛くないか……という身勝手な理屈が、恋人の心に深い傷をつけていた。そんな熱く溶けた鉄のような現実を喉に流し込まれ、郁雄は叫び声を殺しながらゆっくりとそれを呑み込むことしかできなかった。
 また一台、外の道路を自動車が横切ってゆく。一瞬だけ部屋の中に差し込んだ光が、郁雄の上にまたがる瑞穂のことを照らし出す。
 いま、その瞳に宿るのは悲しみではなく、はっきりとした、渇望の色だ。
 郁雄がそれを感じ取ったのと、瑞穂がふたたび唇を開いたのは、同時だった。


「だからさ。今から、もう絶対にわたしのこと、忘れられなくしてあげる。……もう”別れたい”なんてセリフ、演劇でもなきゃ、二度と口にできなくしてやる」


 言い切るや否や、瑞穂は、噛みつくように郁雄の唇をふさいだ。すぐに細い亀裂を割って、舌を差し入れてくる。
 その身体を引き剥がすどころか、自分の舌に絡みついてくる瑞穂に抗うことすらできないまま、郁雄の全身から力が抜けてゆく。甘っちょろい「思いやり」の皮を被ったエゴも何もかも、波に浚われるように消えていく。


「大好きなまま別れたい」ということ自体が一番中途半端で、好きな相手を想い続けることこそが、何よりも大切なことだった。
 唇がついたり離れたりする音に混じる、微かな声を聴きながら、郁雄はやっと波打ち際に泳ぎ着いた。


 刹那、追いかけるように、瑞穂の声が届いてくる。


「もう一度だけ。……また、わたしを、好きになってくれませんか」


 もう聞くことはできないと思っていた声が、真っすぐに胸に刺さり込んできた。



 喉につかえて、声が出ない。
 代わりに一度、ゆっくりと頷いた。


 波が再び身体をさらってゆくのを待つわずかな間、郁雄は自分の両の目から零れる、あたたかな水の軌跡を感じていた。