「ごめん。いつも、俺がわがままばかり」
「いいよ。郁雄が嘘つけない人なの、わたしも知ってるし」


 他の女の影がないこともね、と瑞穂は微笑みながら付け加えた。


「だから安心してるよ。変な話だけどさ」


 やわらかな曲線を描く瑞穂の頬には、そのアウトラインをなぞるような涙の跡が残っている。
 たった今までそこにあたたかな水がこぼれていたのか、分かっていてあえて拭わなかったのかは訊かなかった。

 瑞穂は、あまり泣かない女だった。笑う時も「あははは」とは笑わない。怒る時はむしろ不気味なほど静かになる。けれど、郁雄の前でだけ、ほんの少しその唇が多く開かれる。そのことを郁雄はずっと嬉しく思っていた。誰であれ、恋人から自分に対してしか見せない特別な一面を見せられるというときの感情は、そんなものだと思う。

 郁雄は、普段からスマートフォンにロックをかけなかった。瑞穂と二人でいて、仮に郁雄だけその場を離れるときも、あえてそれを置いていったりしていた。そうすることが瑞穂の心の安寧につながるならそれでいいと思っていたし、そもそも女どころか、友人がいた痕跡すらも、最近は窺うことができなかった。LINEが来るとすれば瑞穂か、キャンペーンや新商品を告知する公式アカウントが関の山だ。そもそも瑞穂がそばにいるのなら、郁雄にとってスマートフォンなど、ただの薄い板状の時計でしかなかった。
 信頼は地道な積み重ね……という言葉がじわりと身に染みる。できるなら、こんな形で再認識したくはなかった。


 瑞穂が、指先でそっとドミノを倒すように、唇を開いた。


「ねえ。わたしも最後に、わがまま言っていいかな」
「どんな?」
「今日が最後の夜になるなら、一緒の布団で眠りたいの」


 瑞穂が自分の希望を通そうとすることは少なかった。たいていのことは郁雄に決めさせていたからだ。
 一緒に住んでいながら、別々の布団で眠ることを提案したのも郁雄からだった。加湿器をつけたまま寝ても、朝起きてやけに喉が痛むのを感じたことがはじまりだ。スマートフォンのアプリを回して寝てみたら、地鳴りのような自分のいびきがしっかり録音されていた。瑞穂はよく今までなんの文句も言ってこなかったものだ……と思いつつ、その次の休みのデートはもうワンセットの布団を探すショッピングに決めたのだった。

 とはいえ、まあ最後の夜ならば、なにを言われても叶えてやりたい。むしろ叶えなければなるまい。
 その気持ちをもって、郁雄はうなずきながら返事をする。


「俺はいいけど。……いいのか?」
「うん。今日が最後だと思えば、郁雄の大いびきだって子守唄になると思う」
「それに対してはなにも反論できないな。俺、今日は眠れないかも」
「かもね」


 瑞穂の返答に、胸の中に別の空白が生まれた心地をしながら、郁雄は瑞穂に手を引かれて、いまは瑞穂がひとりで眠っているベッドに向かった。