「わかった」


 雨上がりのアスファルトのように、瑞穂(みずほ)の声は湿っていた。
 二人で何千何百時間と過ごした借り物の箱の中に空しく漂ったその声は、夜の闇に、そっと溶けてゆく。完全に消えてしまう前に、手をのばしてそれを掴めない、もとい自分にはその資格がないと悟った郁雄(いくお)は、だまって瑞穂の俯いた姿を見つめていた。

 その日、夕映えが世界を照らす時合いになって「別れたい」と切り出したのは郁雄からだった。ずっと考えていたことを唇にのせた直後、茜色のはずの空が、なぜか悲しいくらいに青く見えたのを思い出す。

 少しの間、考える時間がほしい……という瑞穂をひとり残して、波に揺られるように街をふらついて、月が不気味なほど白く輝きはじめた夜に帰宅した。瑞穂は、カーテンを開け放って、月明かりの差し込む部屋の窓際にもたれるように座っていた。


 これでいい。


 瑞穂の目元が月明かりを反射してきらきらと光っていて、郁雄は自分が下した決断を信じ込ませるように、もう一度胸の中で呟いたのだった。