夜のドライブは騒がしかった。決して暴走族がいたり、工事をやっていたりしたわけではない。
車のBGMも助手席から聞こえる他愛もない君の話も何も僕には聞こえなかった。
このドライブでやっと2人になれた。だから、伝えなければならない。そんな使命感を抱えていたせいか、高速道路を降りて、君の家へと向かう海沿いの国道に出た瞬間から、心臓の鼓動が一気に激しくなった。
この日で出会ってから4年近く月日が流れていた。ある日、横浜にあるカラオケバーで同い年だからと意気投合した。そのカラオケバーは少し変わった店だった。当時の中高年層が好む昭和歌謡好きにアピールをしている店で、当時20歳になったばかりの若い人物がそこにいるのはイレギュラーだった。
話し相手は基本的に私より年上。近い歳の人なんているはずもないと勝手に思っていた中での出会いは驚きが大きかった。それは彼女も同じだったらしい。だから、同い年というだけでも心の障壁を取り払うには十分過ぎる口実だった。
私は少し捻くれていた。同世代の人たちと流行を楽しむ行為を放棄して、自分だけの世界に閉じこもろうと必死になって時代を遠ざけた結果、色気と哀愁が漂う音曲たち――昭和歌謡の世界に魅了されていた。
周りと距離を置きたかったからこそ好きになった音楽だった。なのに、同じ趣味を持っている君が私しかいなかったはずの世界に入りこんできた。冷静に考えてみれば緊急事態だ。だけど、警戒心は不思議となくて、私は侵入を容易く許してしまった。
「どうして昭和歌謡なんて好きになったの?」
「同級生からバカにされる機会が多かったからさ。そいつらと同じものを好きになりたくなかったんだよ。そういう恵子さんはどうなの?」
「うまく言葉に出来ないけど、私もそんな感じ。あんまり人と群れたくなかったし」
なぜ私が昔の音楽を好きになったのか。自分自身のアイデンティティを他の誰かの創作物に託すような情けない理由ともとれる。あまり自慢して良いものではないはずのワケですら、君に聞かれるとつい答えてしまっていた。
キーが高くて、リズミカル。それでもって嫌味がない可愛らしいしゃべり方をしていた。変わった趣味を持っている同い年。なおかつ快適な会話をしてくれるのだから、私はつい恵子のペースに乗せられてしまった。
帰る頃にはまだまだ話の続きがしたくなっていた。できることならもっと君の話を聞いてみたい。無理強いはしないけど、話したい何かがあるならもっと話して教えて欲しいと願うようになっていた。
君も私に興味をもってくれていたのだろうか。連絡先の交換もスムーズにできたし、次に会う予定も簡単に決まったものだった。
こうして私と恵子はめぐり逢った。この時、お互い大学生。学校は別々だったけど、時間があれば、様々な場所にある歌謡曲が流れるバーへ立ち寄って音楽を語り合った。ただ、同い年で同じ感性を持っている者同士で信頼感が高まるにつれて、話し内容も変わってくる。
「うちのモラハラパパのこと何だけどさ……」
「俺は人の親父さんのことどうこう言える立場にないんだけどな」
「聞いてもらえるだけで良いんだよ。他に話せる人もいないし」
日頃の生活で湧き上がってくる不満や疑問。アルバイトの出来事。恵子の日常が垣間見える話をするときのほうが趣味の話をする時間より多くなってきた。そうなってくると、段々と恵子がどんな学生で、どんな生活を送っていているのかが、完全な赤の他人よりもわかってくるようになってきた。
「ちょっと昨日バイト先であった話なんだけど聞いてくれない?」
「もう話したいだけ話せよ」
「やっぱり持つべきものは友だよ~」
関わる時間とともに恵子の口数も多くなってくる。彼女はとてもおしゃべりで、隠し事をする気がないのかと思った。なんだか、恵子の生活ばっかり私が見ているのも悪い気がしてきて、あまりおしゃべりが得意じゃない私も少しずつではあるけど、明かすように努めた。
お互いが人となりや生活を語るようになってくると私はどこかで勘違いを生じさせてしまった。
それはある日、何度か通っている歌謡曲バーに現れた男性によって引き起こされた。いつもなら年上ばかりで同世代といえば恵子しかいない空間に、若々しい茶髪の男性が居た。彼は両親の影響で歌謡曲に知見があり、たまたまSNSでの口コミを見てバーに訪れていた。歳は私と恵子の1つ上。精悍な顔立ちで、可愛げのある笑顔が魅力的な明るい髪色の大学生の男だった。
彼のコミュニケーションの取り方は実に押しが強かった。それでもって女好きだったのだろう。歳の近い女性、恵子を見た瞬間に私を押しのけて彼女の隣を陣取った。自己紹介を急ぎ足で済ませると時間をたっぷりかけて彼は恵子を褒め倒した。1時間も褒め倒しまくっておだてられたのだから、恵子もすっかり気を良くしてしまったのだろう。彼が腕を回して肩を抱かれても文句の一つも言わない。むしろ喜びすら感じられた。
私派もただの友達でしかない。何か文句をいう必要もない。それなのに、この光景に対して嫌悪感を持ってしまった。さらに、感情を持つだけでなく、恵子と店をあとにするときにこんな話までしてしまったのである。
「馴れ馴れしいやつだったな。俺が無理やり恵子を引っ張らなかったら、あのまま持ち帰られてたな」
「そうだったかもね」
「他人事みたいに言うけど、嫌じゃないのかよあんなやつに……」
中途半端に口出しをしたところでどうして説教のような話を恵子にしているのだろうかと自分自身に疑問を抱いた。バーから最寄り駅まで徒歩20分までかかったが、店を出てすぐにおかしな会話をしてからほとんどの時間を2人とも無言で歩いた。
肌がチクチクするような恥ずかしさと後悔から生じる緊張感から開放されて、帰宅する電車の車内で私は気付いた。いつの間にか恵子が好きになっていたのかもしれないと。
恵子は背が低くて、丸っこい体をしていた。長いサラサラとした髪をなびかせて、大きな笑顔を見せる。嘘のない表情と何をするにも全力な姿は、美しいというより、かわいいという言葉が世界中の誰よりも似合っている。「私なんか一生結婚できない」なんてモテないことを嘆いていたけど、世の中の男たちが放っておくはずがない。
私が恵子への好意、そして独占欲のような身勝手な気持ちがあると自覚を持った時点でそれだけの魅力に気づいていた。だったら、すぐにでも私の気持ちを伝えれば良いのだけど、すぐに行動に移せなかった。私の中に何か巨大なストッパーがかかっていたのである。
恵子と私の関係性を楽観視すれば、2人の間で身の上話を何度もしてきて、日々の状況を共有していて信頼関係ができている。お互いが予定を立てて、会うことにもためらいがない。それどころか楽しみにすらしている。2人が会う予定の優先順位はどちらの生活の中でも高いはずだ。恋愛への発展を望んだとしても決して、無謀なものではないと思える。
希望はあると私は考えていた。ただ、万が一にも恵子に「好き」と言ってしまったら、例え望んだ返答があったとしても、満足できないのではないかとも思っていた。そんな懸念がある以上は、いわゆる告白というやつはしないほうが良いような気がしたのだ。
その後も私と恵子の関係性は変わらず、時間だけが過ぎていった。私も時間が過ぎるとともに恵子との関係性の変化への意識が薄れてきた。
だが、改めて恵子への好意を考えざるを得ないタイミングがやってきた。22歳の時、私は就職活動で新聞社の内定を得て、お世話になる覚悟を決めた。研修や飲み会で新聞社とコミュニケーションを取る中で、ある話を持ちかけられた。大阪支社への転勤だ。
私の将来性を期待しているからこそ、東京ではなくて大阪でキャリアをスタートさせてほしいとの要望に戸惑いも感じたが、結果的には了承した。
恵子にも卒業をしたら大阪に移ることを伝えた。恵子は東京での就職が決まっていたので、春から離れた土地で生活する。大学1年生の頃から4年近く頻繁に交流を重ねていた仲だったが、恵子の反応は「そうなんだ。頑張ってね」だけだった。
大阪行きを伝えてから卒業までの期間はまたそれまでと同じようにバーへ行っていつもと同じ会話をするだけだった。
卒業式の翌日。私と恵子は横浜のカラオケバーで会った。19時に待ち合わせをして、23時まで遊んだ私達は帰路についた。この日、私は酒を我慢した。最後にどうしても恵子と2人の時間が欲しくて、車で来ていた。
「最後だから、家まで送らせてよ」
「助かる! ありがとう!」
恵子は男の私と2人きりのドライブとなるのはわかっていたが、ちっとも嫌がる様子は見せなかった。私が2人の時間欲しさに車で来たのは、何もいかがわしい何かをしたいわけではなかった。ここのところ封じ込めていた恵子への好意をやっぱり伝えたかったのだ。
この日は会ってすぐの時から恵子の話は何一つ頭に入ってこなかった。どのようにして、思いを伝えれば良いのか。この際、かっこ悪くてもいいから思いの丈を全部出せれば良いとかそんなことばかり考えていた。
バーで複数の人たちがいる状況を抜けて、2人きりになった。やっと言える。もうあとは私が切り出してしまえば良い。なのに、どうしても肝心の言葉が出てこない。
「関東の方でやり残したことはない?」
「別にないよ。本当は最後に言いたいことがあるんだけど」
「言い残してるって何を?」
「何って言われても……」
あまりにも情けない始末だった。自分で話の舵を都合の良い方向に持っていきながら、踏み込めない。気がつけば、運転をしながら、言いたいと思っていたはずの好意を言わない言い訳を考え始めていた。
そしてついに私は恵子に思いを伝えられなかった。彼女の自宅についてしまったのだ。
「じゃあまたね。東京に来るときは連絡してね。すっ飛んでいくから」
「ありがとう。そっちも元気でね」
無難な会話をして2人は別れた。私は恵子の自宅を離れてしばらくしたところで、高速道路のパーキングエリアに車を停めて、運転席のシートを倒した。「どうして最後まで言えなかったのだろう」――私は自分を責めてばかりいた。
情けない自分をどうにか許す術がないか。考えているうちに、仮に恵子に好きだといったところでどうなったのだろうかと思い始めた。
今日を最後に恵子とは頻繁に会えない。好意を伝えられたところで恵子も困ってしまうであろう。私が一方的に達成感を覚えるだけでどうなると言うのだろうか。
時間が経つにつれて、私は好意を伝えられなかったのはむしろ褒めるべきだとすら思い始めていた。お互いが楽しい時間を過ごした思い出を残せるし、余計な出来事が記憶に残らないのは悪い話ではない。
ただ私が決意を固められなかった情けない男として見られるかもしれない。しかし、今までさんざん時間があったのに表立って好意が自分の中に浮かび上がってくる時間は少なかった。最も好意が昂っていたのは、最後のチャンスだと意識していた今夜くらいかもしれない。たかだか一晩だけしか訪れない特殊な状況に惑わされて男を全面に出して恵子と対峙してしまったら、どうなっていたのだろうか。
おそらくお互い、失うものが多かったのではないだろうか。情けないと思っていた私だが、意外に正解を知らずに導き出していたのかもしれない。
車のBGMも助手席から聞こえる他愛もない君の話も何も僕には聞こえなかった。
このドライブでやっと2人になれた。だから、伝えなければならない。そんな使命感を抱えていたせいか、高速道路を降りて、君の家へと向かう海沿いの国道に出た瞬間から、心臓の鼓動が一気に激しくなった。
この日で出会ってから4年近く月日が流れていた。ある日、横浜にあるカラオケバーで同い年だからと意気投合した。そのカラオケバーは少し変わった店だった。当時の中高年層が好む昭和歌謡好きにアピールをしている店で、当時20歳になったばかりの若い人物がそこにいるのはイレギュラーだった。
話し相手は基本的に私より年上。近い歳の人なんているはずもないと勝手に思っていた中での出会いは驚きが大きかった。それは彼女も同じだったらしい。だから、同い年というだけでも心の障壁を取り払うには十分過ぎる口実だった。
私は少し捻くれていた。同世代の人たちと流行を楽しむ行為を放棄して、自分だけの世界に閉じこもろうと必死になって時代を遠ざけた結果、色気と哀愁が漂う音曲たち――昭和歌謡の世界に魅了されていた。
周りと距離を置きたかったからこそ好きになった音楽だった。なのに、同じ趣味を持っている君が私しかいなかったはずの世界に入りこんできた。冷静に考えてみれば緊急事態だ。だけど、警戒心は不思議となくて、私は侵入を容易く許してしまった。
「どうして昭和歌謡なんて好きになったの?」
「同級生からバカにされる機会が多かったからさ。そいつらと同じものを好きになりたくなかったんだよ。そういう恵子さんはどうなの?」
「うまく言葉に出来ないけど、私もそんな感じ。あんまり人と群れたくなかったし」
なぜ私が昔の音楽を好きになったのか。自分自身のアイデンティティを他の誰かの創作物に託すような情けない理由ともとれる。あまり自慢して良いものではないはずのワケですら、君に聞かれるとつい答えてしまっていた。
キーが高くて、リズミカル。それでもって嫌味がない可愛らしいしゃべり方をしていた。変わった趣味を持っている同い年。なおかつ快適な会話をしてくれるのだから、私はつい恵子のペースに乗せられてしまった。
帰る頃にはまだまだ話の続きがしたくなっていた。できることならもっと君の話を聞いてみたい。無理強いはしないけど、話したい何かがあるならもっと話して教えて欲しいと願うようになっていた。
君も私に興味をもってくれていたのだろうか。連絡先の交換もスムーズにできたし、次に会う予定も簡単に決まったものだった。
こうして私と恵子はめぐり逢った。この時、お互い大学生。学校は別々だったけど、時間があれば、様々な場所にある歌謡曲が流れるバーへ立ち寄って音楽を語り合った。ただ、同い年で同じ感性を持っている者同士で信頼感が高まるにつれて、話し内容も変わってくる。
「うちのモラハラパパのこと何だけどさ……」
「俺は人の親父さんのことどうこう言える立場にないんだけどな」
「聞いてもらえるだけで良いんだよ。他に話せる人もいないし」
日頃の生活で湧き上がってくる不満や疑問。アルバイトの出来事。恵子の日常が垣間見える話をするときのほうが趣味の話をする時間より多くなってきた。そうなってくると、段々と恵子がどんな学生で、どんな生活を送っていているのかが、完全な赤の他人よりもわかってくるようになってきた。
「ちょっと昨日バイト先であった話なんだけど聞いてくれない?」
「もう話したいだけ話せよ」
「やっぱり持つべきものは友だよ~」
関わる時間とともに恵子の口数も多くなってくる。彼女はとてもおしゃべりで、隠し事をする気がないのかと思った。なんだか、恵子の生活ばっかり私が見ているのも悪い気がしてきて、あまりおしゃべりが得意じゃない私も少しずつではあるけど、明かすように努めた。
お互いが人となりや生活を語るようになってくると私はどこかで勘違いを生じさせてしまった。
それはある日、何度か通っている歌謡曲バーに現れた男性によって引き起こされた。いつもなら年上ばかりで同世代といえば恵子しかいない空間に、若々しい茶髪の男性が居た。彼は両親の影響で歌謡曲に知見があり、たまたまSNSでの口コミを見てバーに訪れていた。歳は私と恵子の1つ上。精悍な顔立ちで、可愛げのある笑顔が魅力的な明るい髪色の大学生の男だった。
彼のコミュニケーションの取り方は実に押しが強かった。それでもって女好きだったのだろう。歳の近い女性、恵子を見た瞬間に私を押しのけて彼女の隣を陣取った。自己紹介を急ぎ足で済ませると時間をたっぷりかけて彼は恵子を褒め倒した。1時間も褒め倒しまくっておだてられたのだから、恵子もすっかり気を良くしてしまったのだろう。彼が腕を回して肩を抱かれても文句の一つも言わない。むしろ喜びすら感じられた。
私派もただの友達でしかない。何か文句をいう必要もない。それなのに、この光景に対して嫌悪感を持ってしまった。さらに、感情を持つだけでなく、恵子と店をあとにするときにこんな話までしてしまったのである。
「馴れ馴れしいやつだったな。俺が無理やり恵子を引っ張らなかったら、あのまま持ち帰られてたな」
「そうだったかもね」
「他人事みたいに言うけど、嫌じゃないのかよあんなやつに……」
中途半端に口出しをしたところでどうして説教のような話を恵子にしているのだろうかと自分自身に疑問を抱いた。バーから最寄り駅まで徒歩20分までかかったが、店を出てすぐにおかしな会話をしてからほとんどの時間を2人とも無言で歩いた。
肌がチクチクするような恥ずかしさと後悔から生じる緊張感から開放されて、帰宅する電車の車内で私は気付いた。いつの間にか恵子が好きになっていたのかもしれないと。
恵子は背が低くて、丸っこい体をしていた。長いサラサラとした髪をなびかせて、大きな笑顔を見せる。嘘のない表情と何をするにも全力な姿は、美しいというより、かわいいという言葉が世界中の誰よりも似合っている。「私なんか一生結婚できない」なんてモテないことを嘆いていたけど、世の中の男たちが放っておくはずがない。
私が恵子への好意、そして独占欲のような身勝手な気持ちがあると自覚を持った時点でそれだけの魅力に気づいていた。だったら、すぐにでも私の気持ちを伝えれば良いのだけど、すぐに行動に移せなかった。私の中に何か巨大なストッパーがかかっていたのである。
恵子と私の関係性を楽観視すれば、2人の間で身の上話を何度もしてきて、日々の状況を共有していて信頼関係ができている。お互いが予定を立てて、会うことにもためらいがない。それどころか楽しみにすらしている。2人が会う予定の優先順位はどちらの生活の中でも高いはずだ。恋愛への発展を望んだとしても決して、無謀なものではないと思える。
希望はあると私は考えていた。ただ、万が一にも恵子に「好き」と言ってしまったら、例え望んだ返答があったとしても、満足できないのではないかとも思っていた。そんな懸念がある以上は、いわゆる告白というやつはしないほうが良いような気がしたのだ。
その後も私と恵子の関係性は変わらず、時間だけが過ぎていった。私も時間が過ぎるとともに恵子との関係性の変化への意識が薄れてきた。
だが、改めて恵子への好意を考えざるを得ないタイミングがやってきた。22歳の時、私は就職活動で新聞社の内定を得て、お世話になる覚悟を決めた。研修や飲み会で新聞社とコミュニケーションを取る中で、ある話を持ちかけられた。大阪支社への転勤だ。
私の将来性を期待しているからこそ、東京ではなくて大阪でキャリアをスタートさせてほしいとの要望に戸惑いも感じたが、結果的には了承した。
恵子にも卒業をしたら大阪に移ることを伝えた。恵子は東京での就職が決まっていたので、春から離れた土地で生活する。大学1年生の頃から4年近く頻繁に交流を重ねていた仲だったが、恵子の反応は「そうなんだ。頑張ってね」だけだった。
大阪行きを伝えてから卒業までの期間はまたそれまでと同じようにバーへ行っていつもと同じ会話をするだけだった。
卒業式の翌日。私と恵子は横浜のカラオケバーで会った。19時に待ち合わせをして、23時まで遊んだ私達は帰路についた。この日、私は酒を我慢した。最後にどうしても恵子と2人の時間が欲しくて、車で来ていた。
「最後だから、家まで送らせてよ」
「助かる! ありがとう!」
恵子は男の私と2人きりのドライブとなるのはわかっていたが、ちっとも嫌がる様子は見せなかった。私が2人の時間欲しさに車で来たのは、何もいかがわしい何かをしたいわけではなかった。ここのところ封じ込めていた恵子への好意をやっぱり伝えたかったのだ。
この日は会ってすぐの時から恵子の話は何一つ頭に入ってこなかった。どのようにして、思いを伝えれば良いのか。この際、かっこ悪くてもいいから思いの丈を全部出せれば良いとかそんなことばかり考えていた。
バーで複数の人たちがいる状況を抜けて、2人きりになった。やっと言える。もうあとは私が切り出してしまえば良い。なのに、どうしても肝心の言葉が出てこない。
「関東の方でやり残したことはない?」
「別にないよ。本当は最後に言いたいことがあるんだけど」
「言い残してるって何を?」
「何って言われても……」
あまりにも情けない始末だった。自分で話の舵を都合の良い方向に持っていきながら、踏み込めない。気がつけば、運転をしながら、言いたいと思っていたはずの好意を言わない言い訳を考え始めていた。
そしてついに私は恵子に思いを伝えられなかった。彼女の自宅についてしまったのだ。
「じゃあまたね。東京に来るときは連絡してね。すっ飛んでいくから」
「ありがとう。そっちも元気でね」
無難な会話をして2人は別れた。私は恵子の自宅を離れてしばらくしたところで、高速道路のパーキングエリアに車を停めて、運転席のシートを倒した。「どうして最後まで言えなかったのだろう」――私は自分を責めてばかりいた。
情けない自分をどうにか許す術がないか。考えているうちに、仮に恵子に好きだといったところでどうなったのだろうかと思い始めた。
今日を最後に恵子とは頻繁に会えない。好意を伝えられたところで恵子も困ってしまうであろう。私が一方的に達成感を覚えるだけでどうなると言うのだろうか。
時間が経つにつれて、私は好意を伝えられなかったのはむしろ褒めるべきだとすら思い始めていた。お互いが楽しい時間を過ごした思い出を残せるし、余計な出来事が記憶に残らないのは悪い話ではない。
ただ私が決意を固められなかった情けない男として見られるかもしれない。しかし、今までさんざん時間があったのに表立って好意が自分の中に浮かび上がってくる時間は少なかった。最も好意が昂っていたのは、最後のチャンスだと意識していた今夜くらいかもしれない。たかだか一晩だけしか訪れない特殊な状況に惑わされて男を全面に出して恵子と対峙してしまったら、どうなっていたのだろうか。
おそらくお互い、失うものが多かったのではないだろうか。情けないと思っていた私だが、意外に正解を知らずに導き出していたのかもしれない。