「さて。黒弦、ってことは、まずは黒の海域に向かわないとな」
言いながらライアーが机に海図を広げる。
会議室にて、奏澄たちは今後の航路の確認をしていた。面子は昔と同じように、奏澄、メイズ、マリー、ライアーの四人だ。
やることは決まっているので、大人数で相談することもない。残りの乗組員たちは、長く空けていた船内を各々整えている。
「しかし、黒……黒かぁ……」
ライアーが長い溜息を吐いた。その様子に、奏澄はメイズを気にしつつも、ライアーに尋ねた。
「行くのが難しいところなの?」
「や、航路は問題ないけどね。黒の海域に寄るほど、治安が悪くなるから」
そう言うと、ライアーは一番大雑把な海図を広げて、まずその図面の上の方をぐるりと指で示した。
「オレたちが以前回ってたのって、この上半分、つまりセントラル寄りだったわけ。だから、治安もそこまで悪くはなかったんだよ」
海域は緯度で区切られている。つまり、以前は白の海域を中心に据えて、赤、緑、青、金と南半球にあたる部分をぐるりと一周していた。
「それが今度はこっち」
ライアーの指が、海図の下の方をぐるりと示す。黒の海域を中心に、北半球にあたる部分だ。
「セントラルから離れるほど、影響は弱くなる。兵の派遣も手間だしね。もちろん支部もギルドもあるんだけど、ちょっとした事件くらいだと面倒だからもみ消したりとか」
警察署の近くの方が治安が良いのと同じ理屈だろう。取り締まる者がいなければ、好き放題にする輩は出てくる。黒の海域には自治組織も無い。悪事を好む者には、さぞ居心地が良いだろう。
「治安の面で言えば、あたしらだって海賊なんだから、人のこと言えた義理じゃないけどね」
マリーの言葉に、確かに、と奏澄は頷いた。どんな人間が乗っていようが、何をしていようが、結局のところ海賊は無法者だ。島から出ることの無い一般市民からしたら、誰であれ海賊は脅威だろう。
「まぁカスミは、絶対一人にならないこと。それだけは約束ね」
「うん、わかった」
以前の航海も一人になるようなことはほぼ無かったが、改めて奏澄は気を引き締めた。
「で、黒の海域まで、どこの海域に沿って行くか。補給を考えれば、赤の海域沿いに進むのがいいかな。ドロール商会のツテが一番利くから」
「いや、できれば青の海域沿いに進もう」
「え、青?」
メイズからの意外な提案に、ライアーが目を丸くした。
「どこかで玄武と合流したい」
「玄武と!?」
これにはライアーだけでなく、奏澄とマリーも驚いた。玄武とメイズとは因縁がある。以前、たんぽぽ海賊団とも一悶着あった。最終的に、玄武の船長であるキッドは奏澄に対して好意的だったが、わざわざ再会するほどだろうか。
「玄武は黒弦を目の敵にしている。黒弦を潰すための協力なら喜んでするだろ」
「そりゃそうかもしれないけど……メイズさん、それでいいんすか?」
「戦力は多いに越したことはない。数さえあれば勝てる相手じゃないが、玄武は黒弦との戦闘経験もある」
「メイズさんがいいなら……」
メイズの提案により、たんぽぽ海賊団はまず赤の海域で可能な限り装備等を揃えた後、青の海域に沿って進み、玄武との合流を目指すことにした。
「よし。マジメな話はこれでおしまい、かな。あと何かある?」
「今は大丈夫だと思う」
「そっか。んじゃさ、オレ、ずっと気になってたんだけど」
前置きするライアーに、奏澄が首を傾げる。
「メイズさん、ヒゲェ!!」
「え、そこ?」
大声でつっこみを入れたライアーに、奏澄は思わず拍子抜けした。何を言い出すのかと思えば。
「いやだってずっと無精ヒゲだったじゃん! 急に小ギレイにしてたら気になるでしょ!? 聞ける空気じゃなかったからずっと我慢してたけど!」
メイズは心底どうでも良さそうな顔をしている。それを見て奏澄は苦笑した。
そう、メイズは今髭が無い。以前の航海の時は適当に伸ばして、邪魔なタイミングでこれまた適当に剃っていた。それが今は、まめに綺麗に剃り落としている。
「えぇ~なんで剃っちゃったんすか~! あった方が海賊っぽかったのに!」
「どっちでもいいだろ……」
「見た目は大事でしょ! なぁ、カスミはどっちがいい!?」
「え!?」
思いもよらないところで話を振られて、奏澄はうろたえた。これは結構重要な質問なのではないだろうか。
「えー……と、まぁ、見た目だけなら、あった方が良かった、かなぁ……?」
出会った時からそうだったし、見慣れていたから。という程度の理由だったのだが、それを聞いたメイズがやや目を瞠った後、苦々しい顔をした。
「えっやだごめん、私何かした?」
メイズの反応にも慣れてきた。これは自分が何かした可能性が高い、と奏澄は焦った。
不安そうに見上げる奏澄に、メイズは渋々、目を逸らしながら、唸るように小さな声で零した。
「お前が当たると痛いって言ったんだろ……」
「……言ったっけ」
「お前本当そういうところあるよな」
指摘されて、奏澄はごまかすように愛想笑いをした。確かに、言ったかもしれない。
それにしても、相変わらず妙なところで律儀だ。黙って実行しているところも。
「もうやめる」
「ごめん、ごめんって! 無い方がいいなー、助かるなー」
これも本音だ。髭が当たるのは肌荒れの原因にもなるし、無い方がありがたい。
手を合わせてお願いする奏澄に、メイズは数秒だけ拗ねたようにしていたが、ややあって息を吐いた。これは許してもらえた合図だ、と奏澄はほっとして微笑んだ。
メイズばかりを気にしていた奏澄の耳に、「ふぐぅ」という奇妙な音が聞こえ視線を向けると、ライアーが顔を覆って膝をついていた。
「えっなに、何事!?」
ライアーに何があったのかとマリーにも目を向けるが、マリーはにやにやとした顔で奏澄とメイズを見るばかりだった。
「ライアー大丈夫?」
「オレは今ものすごく感動している……」
「え? なんで?」
「いつの間にそんなヒゲが当たるような行為を当然のように……おめでとう……」
「え……あっ!?」
ライアーの言葉が意味するところに、奏澄は顔を真っ赤にした。
メイズと恋人になったことはきちんと伝えるつもりでいたが、それより先にこんな形で知られたことが何だか気恥ずかしかった。
「良かったじゃん。やっとくっついたんだ、おめでと」
「う……ありがとう」
マリーからも祝いの言葉を貰い、奏澄は赤い顔のまま答えた。
「夜は部屋の方近づかないようにするからさ。あたしらのことは気にしなくていいよ」
「いやそこは」
「そうしてもらえると助かる」
「メイズ!!」
わいわいと賑やかな空気に、奏澄は心が解れていくのを感じていた。
アルメイシャに着いてから、ずっと緊張していたのだろう。レオナルドのことは気がかりではあるが、やっと仲間たちと再会し、こうして気心の知れた会話ができている。奏澄の世界が、戻ってきた。
「ああ、そうだ。まだちゃんと言ってなかったね」
「え?」
ライアーとマリーが顔を見合わせてから、笑顔で声を揃えた。
『おかえり、カスミ』
それを聞いて、奏澄は目がじんと熱くなった。
間違っていなかった。ここが、帰る場所だ。奏澄の居場所だ。帰ってきていい、場所なのだ。
「ただいま!」
再会してから一番の笑顔を、二人に返した。
久々の再会を祝して、その晩は宴を開くこととなった。
一人欠けてはいるものの、それをいつまでも気にして暗い顔で過ごすことは、レオナルドも望まないだろう。焦ったところで船の速度は上がらないし、いきなり黒弦を捕まえられるわけでもない。ずっと不安に囚われていては精神ももたない。奏澄が暗い顔をしていたら、乗組員たちも責任を感じてしまうだろう。自分たちが捕まったりしなければ、と。
なるべく明るく過ごそう。目的が何であれ、あれほど望んだ仲間たちとの航海なのだから。
「アントーニオさん、こっち皮むき終わりました」
「うん、ありがとう」
奏澄はアントーニオと、厨房で食事の用意をしていた。慣れた感覚が蘇り、嬉しくなって笑みを零す。
「どうしたの?」
「いえ、なんか楽しいなって」
「あはは、わかるよ。ぼくも店でずっと料理はしてたけど、やっぱりこの船で仲間のために作るのは、特別なことだから」
アントーニオの穏やかな横顔に、奏澄も微笑む。この時間を、同じように特別だと感じていてくれることが嬉しかった。
「そういえば、お店は……元のお店、ですか?」
「ああ、うん。ラコットさんたちと一緒にね」
「大丈夫だったんですか?」
「一応、ね。お互い時間を置いて、頭が冷えたのかな。改めて和解、とかっていうんじゃないけど、ぎくしゃくしながらも、少しずつ……他の同僚と同じようには、ね」
「そうですか。良かった……で、いいんですよね?」
「うん。ありがとう」
奏澄には深いところはわからないが、アントーニオが納得しているのなら、何も言うことは無い。彼なりに、心の整理がついたのだろう。
「その、ラコットさんたちが一緒だった、というのは」
「ああ、お店を手伝ってくれてたんだよ」
「え。ラコットさんたち、が?」
「うん」
「それは……なんというか……色々と、大丈夫だったんですか?」
「うちはそこまで格式ばったところじゃないから。困ったお客さんの対応とか、頼もしかったよ」
笑いながら言っているところを見るに、大きな問題は無かったのだろう。ただアントーニオは大らかなところがあるから、他の従業員たちも同じように思っていたかは定かではないが。
「カスミの方は、変わりない?」
「あ……えっと」
促されて、奏澄は口ごもった。伝えようとは思っていたが、いざはっきり口に出すとなると、なんだか気恥ずかしい。もごもごとしながらも、なんとか言葉にする。
「メイズと、ちゃんと、恋人になりました」
赤い顔で俯く奏澄に、アントーニオはぱあっと顔を明るくした。
「そっかぁ、良かったね。おめでとう」
「あ、ありがとう、ございます」
こうも純粋に祝福されると、それはそれで照れくさい。
「結婚式するなら、ぼくがケーキ作りたいな。お菓子は専門外だけど、ちゃんと練習するから」
「け、結婚、とかは、まだ」
「そうなの? まぁ、今はそうだよね。先にセントラルとのことが片づかないと」
「そう……ですね」
奏澄が気にしたのはそこではないのだが。もしかして、この世界の基準でいくと、奏澄の年齢では既に行き遅れだったりするのだろうか。適齢期はどのくらいなのだろう、と思いつつ、それを聞くのもなんだか怖い。
そもそも、結婚という形式的なものを、果たしてメイズが意識しているかどうか。どうでもいいと思っているなら、むしろ奏澄に合わせてほしいところだが。
「こっちの結婚式って、どんなことするんですか?」
「そんなに決まった形はないよ。教会で、神様の前で誓うだけ。別に船の上でやってもいいしね。あとは身内とかその場にいた人たちで、ごちそう囲んでお祝い」
「その場に……大雑把ですね」
言いながら、奏澄は以前図書館で読んだ本を思い返していた。
この世界では、『神』と呼ばれる存在は一つだけ。この世界の創造主。王家の始祖。女神マリアは、神の眷属にあたる。
しかしそれはセントラルが定めた宗教によるもので、実際には島によって土着の信仰があったりもする。かつては宗教国家であったため、宗教弾圧などもあった。セントラル王家こそが唯一絶対の正統なる神の血筋である、と思わせなければならなかったからだ。
ところが軍事化するにあたり、宗教での圧力は余計な軋轢を生むため、信仰の自由が許容されるようになった。だから今は昔ほど神に対する服従心は無いらしい。それよりも、単純にセントラルの武力に脅威を感じて従っている。
奏澄はこの世界の神を信仰しているわけではない。メイズも信仰心があるようには見えないし、船の上で簡易な結婚式もいいかもしれない。
奏澄の思う結婚式を想像して、ふと手元の指輪に目を落とす。
「指輪は、何か特別な意味があるんでしょうか」
「あれ? 知っててつけてるんじゃないの?」
「なんか、今更聞けなくて」
レオナルドに薦められたペアリング。薦められた、ということは、こちらでも何らかの意味があるはずだ。ただ、はっきり聞くのは憚られて、結局ちゃんとした意味は知らずにいる。
「共に生きる約束の証、みたいな感じかな。互いの体の一部を拘束する、っていうんでね。夫婦とか、恋人とか、すごく仲が良ければ親友同士でもつけたりするよ」
「そういう意味だったんですね」
納得しながら、奏澄は指輪を見つめた。しかし今の言い方だと、指による差異はなさそうだ。薬指に嵌めることに気後れする必要は無かったかもしれない。
――いや。逆かな?
左手に嵌めるのが憚られて右手の薬指に嵌めたのだが、どの指に嵌めても同じなのだとしたら、そもそも揃いの指輪を欲しがったことが結構な要求だったと思われる。あの時のメイズの戸惑いは、もしかしてそういうことだったのだろうか。
――まぁ、いっか。
今となっては結果オーライだ。新しく買い直す必要も無いし、結婚指輪に流用できるならあの価格はむしろ安い。
奏澄の世界で持つ意味は、いずれ結婚することになったら伝えよう、と考えながら、奏澄は調理の手を動かすのだった。
『乾杯!』
コバルト号の上甲板にて。ジョッキのぶつかる音が響く。
たんぽぽ海賊団の面々は、思い思いに騒いでいた。それは再会を祝してであり、解放を喜んでであり、そしてこれからの困難に立ち向かうための景気付けでもあった。
「カスミ! なんだおめぇ、ちっとも成長してないな!」
「そりゃ一年ちょっとじゃそう変わりませんよ!」
ラコットに頭をぐしゃぐしゃとやられて、奏澄は笑いながら文句を言った。
実際のところ、奏澄の方では一年経過していない。見た目は全く変わらないだろう。
ラコットの方も相変わらず、デリカシーは無いながらも豪快で快活だ。舎弟たちも元気そうである。
「そうだ、メイズとやっとくっついたんだってな」
「はい。おかげさまで」
「そうかそうか、おめでとさん!」
「あ、ありがとう、ございます」
「これからはあんまし雑に扱ったら、メイズに怒られちまうな」
「そう思うなら、とりあえず放した方がいいですよ」
ぐわんぐわんと頭が揺れるほどに撫でまわされて、奏澄は揺れる視界でメイズを見やった。遠目に顔が見えるが、あれは多分我慢している顔だ。久々の再会だから、大目に見ているのだろう。
舎弟たちともそれぞれ言葉を交わして、奏澄は女子会メンバーの方へ向かった。
「カスミ~! 待ってたよ!」
「おかえりなさい、船長」
「エマ、ローズ!」
女子特有の高い声ではしゃいで、二人とハグを交わす奏澄。
「ちょっとカスミ、髪ぐしゃぐしゃじゃないか」
手櫛で軽く直したのだが、まだ乱れていたらしい。ラコットに撫でくり回された髪を、苦笑しながらマリーが整えた。
「ありがと、マリー」
「いいさ。それより、あんたからの報告を今か今かと待ってたんだよ、二人とも」
きらきらとした目で見つめてくるエマに、穏やかに微笑みながらも心なしかそわそわしているローズ。二人ともメイズとのことは既に知っているのだろうが、改めて奏澄の口から聞くのを待っていたのだろう。
照れくさく思いながらも、奏澄は一つ咳払いをした。
「えぇっと。メイズと、正式に、恋人になりました」
「おめでと~カスミ~!」
「おめでとう」
言いながら奏澄に飛びつくエマに、軽く拍手を送るローズ。ありがとう、と言いながら、奏澄は顔が緩むのを止められなかった。こんなに全力で祝ってもらえるなんて。
「もうね! 聞きたいことがね! 山ほどあるからね! 飲んで飲んで!」
「いやそれはちょっと」
「今日ばかりは諦めて」
「えっ今日はローズもそっち側なの?」
「諦めな、カスミ。あたしも気になる」
「わぁ味方がいない!」
やはり女子にとっては、恋愛話は燃料だ。きゃいきゃいと姦しい様子に、男性陣は苦笑しながらやや距離を取って眺めていた。
騒ぎが一段落したタイミングで、ライアーが割って入った。
「もーここはね、すぐカスミのこと占領するから! オレらにもちょっとは話させて!」
「えぇ~、まだ足りない!」
「エマ、またいつでも話せるだろ。船長が寝落ちする前に、俺らにも時間くれ」
「ポール、私そんなすぐ寝落ちないから!」
ドロール商会のメンバーとも、改めてそれぞれ挨拶を交わす。少しだけ逞しくなったように見える男性陣は、商会に戻ってからも訓練を続けていたのだろう。
お酒が入り、次第に声量も上がっていく騒ぎをにこやかに眺める老人の元へ、奏澄は歩み寄った。
「ハリソン先生。大丈夫ですか? 疲れてませんか?」
「ええ、大丈夫です。こうして賑やかな宴を見ていると、白虎を思い出します」
「白虎も、やっぱり宴は騒がしいんですか?」
「それはもう。無礼講ですからね」
「そうなんですね」
目を細めるハリソンに、奏澄は胸が痛んだ。ハリソンには、負担をかけている。
そんな奏澄の様子に気づいたのか、ハリソンが穏やかな声で願い出た。
「カスミさん。良ければ、歌っていただけませんか?」
「え?」
「私は、まだあなたの歌をちゃんと聴いたことがないので」
奏澄は目を瞬かせた。そういえば、ハリソンが加入した時には既に緊迫した状況だったので、のんびり歌を聴かせるようなことは無かったかもしれない。
はぐれものの島でも、メイズを探したあの一度きりしか歌っていないし、島を出てからは雇った水夫たちと一緒だったので、やはり口ずさむ程度にしか歌っていない。
「上手くはない、らしいですよ?」
「構いませんよ」
わざと冗談めかして言う奏澄に、ハリソンも笑って答えた。
「では、喜んで」
前に進み出て、息を吸う。
今の私たちには、そう。勇気の歌を。
奏澄の歌声が響き出すと、皆が会話を止めて、奏澄の歌に耳を傾けた。
それに多少の気恥ずかしさを感じつつも、奏澄は歌った。仲間たちが、好きだと言ってくれた声で。
この航海の成功を――悪魔の討伐を、願って。
*~*~*
歌って、騒いで、笑って、飲んで。
どれだけの時間そうしていたか。奏澄がうつらうつらとし始めたタイミングで、メイズが回収した。
「ここまでだ」
「ちょっと、まだ、だいじょうぶ」
「わかったわかった」
問答無用で抱え上げて、部屋へと連れていく。後ろから冷やかすような声が聞こえた気がするが、祝福の一種だと思って無視した。
「メイズ、下ろして」
部屋に入る前に、奏澄はメイズの肩を叩いてそう主張した。
それを聞いたメイズが、大人しく奏澄を下ろして、立たせる。
「あのね、しばらく別々に寝よっか」
奏澄からの提案に、メイズは目を丸くした。
「今更、同じ部屋で寝るくらい、あいつらは気にしないだろ」
「うーんと、そういうことじゃなくて」
これは別に酒に酔って、勢いで言っているわけじゃない。仲間と合流するとなってから考えていたことだった。
「船でのルール、決めたでしょ。あれがね、その、守りにくいようだったら。物理的に距離取った方が、いいかなって」
元々一緒に寝ていたし、問題は無いと思っていた。けれど、もし。一緒に寝ていることで、我慢がきかなくなることがあるのなら。わざわざ『待て』をさせるのも、どうかと思ったのだ。
奏澄にはわからない感覚だし、過去の恋人ともそんなことはなかった。けれど、今向き合っているのはメイズなのだ。彼に合わせたやり方で付き合っていきたい。
そもそもメイズと共に寝るようになったのは、奏澄の寂しさが原因だ。彼にばかり無理をさせるわけにはいかない。だったら、奏澄の方も一人寝くらい我慢できる。
「お前は、それで、いいのか」
「うん。大丈夫。もう寂しくないし」
メイズを安心させるように微笑んでみせる。大丈夫だ。メイズは隣にいるのだし、仲間たちも一緒だ。
「あ、でも」
つい、と奏澄はメイズのシャツの裾を引いた。
「これ、貸して欲しい」
「これ……?」
「今着てるやつ。メイズの匂いがないと、眠れないから」
ずっと傍にいすぎて、すっかりあることに慣れてしまった。本人はいなくても、匂いがあれば安心できる。
「ダメ? しばらくしたら、ちゃんと洗って返すから」
まさか替えがないわけでもないし、一枚くらい貸してくれないだろうか。
そう思って尋ねると、メイズが片手で顔を押さえていた。
「それどういう感情? 呆れてるの? 怒ってるの?」
「どっちでもない」
「なに……ダメならダメって言ってよ……」
急に不安になる。引かれたのだろうか。別に変なことに使うつもりはないのだけれど、気持ち悪かっただろうか。
気まずい思いで次の言葉を待っていると、メイズが深く長い溜息を吐いた。
「服なんかじゃなくて、本人がいるんだから、隣で寝ればいいだろ」
「だって……」
「何もしない」
「……一応、言っておくけど、二度目はないからね?」
「…………大丈夫だ」
だからその間が不安なのだが。
言った手前、本当に二度目を許す気は無い。今は仲間たちが共に乗船している。
けれどそれ以上に。
「メイズは、それでしんどくない?」
気づかうように見上げる奏澄に、メイズはくしゃりと頭を撫でた。
「問題無い」
強がりにも聞こえるが、本人が大丈夫だと言っているのにこれ以上食い下がるのも、プライドを傷つける気がした。
「うん。じゃぁ……お言葉に甘えて」
結局、今まで通り変わらずに、二人は一緒に寝ることにしたのだった。
赤の海域で物資を補給する間、停泊した島にて。
「行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」
船を降りるメイズを見送って、彼の姿が見えなくなったところで、奏澄は笑顔を崩した。
「カスミ、あれいいのぉ?」
「エマ」
後ろから奏澄の背中にのしかかるようにくっついたエマに、奏澄は苦笑した。
「いいも何も、前からあったことだし」
「そうだけどさぁ。今は、違うじゃん?」
「酒場に行っただけだもん。息抜きは必要でしょ」
「んー、まぁ、カスミがそう言うなら、あたしが口出すことじゃないけど」
不満そうなエマに、奏澄も目を伏せた。エマが背中側にいて良かった。落ち込んだ顔を、見せたくない。
エマと別れて、奏澄は自室へ戻り、ベッドへダイブした。
時刻は夜。奏澄は今晩、船番のため島の宿には泊まらず、コバルト号で留守番だ。
夜間の見張り台での不寝番は、男性陣が持ち回りで行っている。しかし、島に停泊している間の船番については、女性陣も当番に入っている。勿論、当番には男性も含まれ、女性だけが船に残ることは無い。
奏澄はだいたいメイズとセットで動いている。けれど、奏澄が船番をする時は、メイズは一人で島に降りることが多かった。船にいる間は、仲間に奏澄を任せておけるからだ。
一人で降りる理由は、奏澄を連れては行けない、海賊が出入りするような酒場で情報収集を行うから、と聞かされていた。それも嘘ではないと思う。
ただ、奏澄は知っている。戻ったメイズから香ったそれに、ぴんときた。奏澄とて、そこまで鈍くはない。
女性と、寝ているのだ。
以前の航海では、奏澄とメイズは恋人関係に無かった。その状態で、相手の女性関係を縛れるはずがない。
目の前で知らない女性と仲良くされていればヤキモチもあろうが、知らないところで女性と関係を持つ分には、文句の言いようもない。
性欲を発散するのは、必要なことだ。メイズ以外の男性陣は、隠すこともなく娼婦を買っている。長く人と触れ合えない船乗りにとって、島にいる間の娼婦とのひと時は憩いの時間なのだ。こちらではごく当たり前のことで、誰に咎められるようなことでもない。
奏澄自身が夜の相手をできるわけでもないのだからと、そのことは黙認していた。以前の航海では。
しかし今は、奏澄はメイズと恋人関係にある。特定の相手がいるのに、別の女性と寝るのは、不貞行為ではないのだろうか。ちなみに一夫多妻の地域はごく僅か存在するらしいが、メイズが該当しないのは確認済みである。
いやでも、奏澄では満足できないというのなら。風俗は浮気ではなく自慰に近いという人もいる。心が伴わないのなら、肉体の満足を求めて別の女性を利用するのは、仕方のないこと――なのだろうか。
「あーーーー」
ベッドの上に座り直し、無意味に声をあげながら後頭部を軽く壁に打ち付けた。
考えたところで、奏澄にはわからない。そもそも、メイズが今回も女性と寝てくるかどうかはわからない。
仲間と合流するまでは、臨時の水夫と非戦闘員のハリソンしかいなかったから、メイズは決して奏澄と離れなかった。恋人になってから、メイズが一人で島に降りるのは今回が初めてだ。もしかしたら、酒場で酒だけ飲んで、船に戻ってくるかもしれない。
かもしれない、けれども。
「――――……」
ためらうような素振りで、奏澄は足の間に手を伸ばした。そうっとそこを撫でて、顔を顰めて、大きく溜息を吐きながら手を離した。
――そこまでする必要、ある?
男女平等がうたわれるようになり、性に関するタブー視も薄れてきた現代。ネットの情報にも、雑誌でも、女性のリアルな声というのは見られるようになった。フィクションを鵜呑みにするような人は、まだまだいるだろうが、それでも現実を知る人も増えた。
これは男性への注意だけでなく、女性への安心材料ともなっただろう。セックスの最中に演技をする女性の割合は、ほとんどのアンケートで半数以上、中には八割を超えるものもある。それを見た時、奏澄はほっとした。相手への気づかいで嘘をついてしまうのは、自分だけではないのだと。そもそも日本人女性はセックスで満足に快楽を得ていない割合の方が多い。
もしセックスを楽しめるような体になりたいのなら、トレーニングをする必要がある。しかしそれは、必須事項ではない。
お互いが、セックスを充分に楽しみたいと思っているのなら。片方だけに要求をするのは不条理だと思う。男性側の技術やムード作りだけでなく、女性側も努力をすべきだ。二人で行うことなのだから。双方が、快楽を求めているのなら。
けれど、『しなくていい』と思っている側が、何故自分の内臓をいじってまでトレーニングしなくてはならないのか。
誰かを全く興味のなさそうな趣味に誘う時、好きになってもらえるようにプレゼンすることはあっても、相手に『興味を持つ努力をしろ』などと普通は言わない。
奏澄は快楽が欲しいとは思っていない。今のメイズのやり方に不満も無い。彼が良ければそれでいい。何なら奉仕に徹しても構わない。ただメイズはどうも、奏澄の反応がほしいようなので厄介だ。
ルールさえ守ってくれるなら、行為それ自体に不満は一切もらしていないのに、メイズはそれでは不満なのだろうか。
それは乗り気で付き合ってくれる女性の方が楽しいだろうが、そこまで要求されるのは荷が重い。だって本音を言えば別にしなくてもいいのだから。
欲求の程度に差がある以上、どちらかが『付き合う』形になるのは仕方のないことだ。でもそれは義務感ではなく、『相手に喜んでほしい』という愛情が根底にあるのだから、悪いことだとは思わない。最中に演技をする理由と同じだ。楽しいと思ってほしい。楽しんでいると思ってほしい。相手に満足してほしい。
それでは、駄目なのだろうか。想い合っていることに、変わりはないのに。
じわりと浮かんだ涙を枕に押しつけて、奏澄はふて寝した。
果たしてメイズは戻ってきた。翌朝に。香水の香りをまとって。
奏澄はそれに怒るべきか、不満げにするべきか、傷ついてみせるべきか迷って、結局。
「おはよ、メイズ」
「ああ」
素知らぬふりをした。いっそもう面倒だった。
女性といたということは、つまり奏澄だけでは満足できないということだ。そこを問い詰めたところで、結局奏澄では解消できないのだし、やめろと言えばやめるかもしれないが、無理を強いることになる。言うだけ自分が傷つく気がした。
知らないところで、知らない内に、勝手にやっているなら別にいい。そうでも思わないと、やってられない。
結局その日は何でもない風を装って、一日船の仕事をして、夜になると船番の当番と交代した。
交代した、ということは、今夜は奏澄が島の宿に泊まれる。そして、宿に泊まる時は一人では許可が下りない。必然メイズと泊まることになる。
――今日は船に泊まるって言おうかなぁ……。
昨晩別の女性を抱いたとわかっている相手と泊まるのは、なんとなく不愉快だ。しかも、ずっと船ではお預けだったのだから、宿に泊まるのならできると思っているだろう。
けれど、ここで船に残るというと、あからさまに避けて見える。それもよろしくない、と奏澄はメイズと共に島へ降りた。
宿をとって、体を清め、同じベッドに入って。
今日はめちゃくちゃ眠いことにして寝たら駄目かな、と奏澄がぼんやり考えていると。
「カスミ。頼みがあるんだが」
「……なに?」
メイズがやけに真剣な顔で奏澄と向き合った。その表情に嫌な予感がして、奏澄は尻込みした。
「今日は、俺の好きにさせてくれないか」
奏澄は目を瞬いた。何を言い出すかと思えば。
「今日はも何も、いつも結構好きにしてない?」
「いや、まぁそうなんだが」
普段から自分本位である自覚はあったらしい。言いにくそうに目を逸らした後、頭をかいて、再び向き直った。
「今日は、ちょっと、違ったやり方を試したい。だから途中で嫌だとか無理だとか言わずに、とりあえず最後まで付き合ってくれないか」
「え……なにそれ怖……。嫌だとか無理だとか言いそうなことするの……?」
元々、奏澄はその類の言葉を行為の最中に言わないように気をつけている。
聞いたところによると、『いや』とか『やめて』といった抵抗する姿に興奮を覚えるのは、日本人男性くらいなのだそうだ。支配欲を満たしたり、恥じらう様を美徳としている。
性的同意の意識が根付いている国では、それは当然拒絶の言葉であるから、例えふりでも言われると傷つくらしい。
セックスへの積極性から、おそらく日本よりは欧米の感覚に近いと踏んでいた奏澄は、恥じらいから形ばかりの拒絶を口にしないように注意していた。メイズにとって、奏澄の拒絶は堪えるだろうと思ったからだ。
しかし奏澄の本質は生粋の日本人であるので、脊髄反射でうっかりその言葉が出ることが絶対に無いわけではないし、自身の感情ではなく様々な外的要因を考慮した上での拒絶はある。それを指しているのだろう、とは思うものの、やはり体を引いてしまう。
「本気で嫌がることはしない。ただ、前に約束しただろう。同意を得られないことはしないと。だから、お前も約束してくれないか。本当に、本気で嫌だと思わない限り、それを口にしないって」
覚えていた。いや、メイズはいつもそうだ。奏澄が口にしたことを、忘れない。
価値観は違っても、決してそれを無下にしない。奏澄の考えを、大事にしてくれる。そのことに、先ほどまで抱いていた不愉快さはすっかり消えていた。
「駄目か?」
駄目押しの一言に、奏澄はぐぅと声をあげそうになった。これはずるい。甘えた声を出すな。捨てられた犬のような目をしおってからに。絶対に奏澄がこの目に弱いとわかってやっている。甘え方まで学習しているとは。滅多にやらないだけに破壊力がすごい。三十も半ばを過ぎた男が可愛いとは何事か。ずるい。
奏澄は喉の奥で唸った。力押しで頷かせようとするようなら怒れたが、メイズは奏澄との約束を守って、同意が得られるまでじっと待っている。
メイズがこれほど心を尽くしてくれているのに、奏澄の方が意地を張るわけにはいかないだろう。
「わかった。いいよ、好きにして」
一つ息を吐いて了承した奏澄に、メイズは嬉しそうに笑った。
*~*~*
どれだけ時間が経ったか。奏澄は、安易に許可を出した過去の自分を呪った。
「――……ッ」
大きく体を跳ねさせた奏澄に、メイズが唇を吊り上げた。それを涙目で睨みつけるも、両手で口を塞いでいるので文句も言えない。代わりに心中で大声で叫ぶ。
――た、楽しそうにしやがってぇ~!
恥ずかしいやら怒りやら混乱やらで頭はパニックなのだが、対するメイズはまるで子どもが新しいオモチャで遊ぶような無邪気さで、怒るに怒れない。惚れた弱味とはこういうことか。可愛い顔しやがって。
奏澄の想像だが、多分メイズは遊んでいるわけではない。嗜虐趣味というわけでもないだろう。単純に、メイズの手によって奏澄が悦んでいるのが嬉しいのだ。
そうだった。メイズは元々、尽くすタイプだった。
奏澄の口にした言葉や、何気ない仕草を逐一覚えていて。言われなくても、望むことを考えて。
そういう男が、奏澄がセックスを楽しめていない、と思ったのなら。その対策が、セックスを控えることになるはずがない。
つまり、楽しめるようにと技術を磨いてきたのだ。
過去の相手は、性欲処理の相手でしかなかっただろう。だから相手を悦ばせる必要など無かったし、自分本位で良かった。
けれど、相手のためを思ったのなら。どうすれば良いのか、と考え。その結果が、これなのだ。おそらく、昨晩の相手は娼婦で、彼女から教わったのだろう。いきなりこれほどやり方が変わるなど、一人で考えつくことではない。
他の女から教わったことを試すな、という気持ちはあるが、そんなことをまともに思考できるほど奏澄の頭は正常に回っていなかった。
もう、どうにでもなれ。
「――……」
朝の光が眩しい。
結局昨夜は途中で疲れ果ててしまい、何かを聞かれていた気もするが適当に返事をしながら寝落ちてしまった。
体に不快感は無い。おそらく、終わった後の処理はメイズがしてくれたのだろう。
「起きたか。体は大丈夫か?」
しれっと声をかけてくるメイズに、奏澄は無言でばしばしと体を叩いた。
「なんだ」
「こっちの台詞。なにあれ」
「良かっただろ?」
悪びれもせず聞いてくるメイズに、奏澄は口を噤んだ後、絞り出すように小さな声で答えた。
「よ、かった、けど」
耳まで真っ赤にした奏澄に、メイズは満足そうに笑って髪を梳いた。
言いたいことは無いではないが、ここで意地を張ってもメイズの努力を無駄にする。
知らなかった。自分の体は快楽を拾いづらいのだとばかり思っていたが、相手の技術が高ければ達することもできるのか。
しかしやられっぱなしなのは悔しい。いつかやり返してやりたい。
問題なのは、奏澄は男娼に教わるわけにもいかない、というところか。女が娼館に行っても娼婦に相手をしてもらえるだろうか。技を教えてほしい。
「ほら」
「ありがと」
水を渡されて、奏澄は体を起こしてカップに口をつけた。
全身がだるい。毎回これでは身がもたない。
「メイズ。セーフティワード決めよっか」
せっかくの甘い空気を壊す響きの単語に、メイズが露骨に嫌な顔をした。
「なんだそれは」
「本気で無理な時に言う言葉を決めておくの。今回は、本当に、ぎりぎり言わないように気をつけたけど。無理とかって言葉咄嗟に出がちだし、相手も本気に取らないことがあるから。なるべくセックスの時に出ないような単語で、それを言ったら絶対止めるってルール作っておくの」
「却下」
「なんで!?」
予想外の反応に奏澄は驚いた。嫌な顔をしつつも、こういうルールは呑んでくれると思っていた。
「説明から察するに、それは命や身体の危機に関わるような特殊なやり方をする時に用いるものなんじゃないか」
奏澄は目を逸らした。当たりだ。例えば緊縛を行う場合は、縛り方によっては神経麻痺の危険性があるし、首絞めなどはフリに留めないと脳に後遺症が残る危険がある。そういう危険行為を、やっている側がエスカレートして力加減を誤ってしまわないよう、やられている側が自分の体の具合に合わせて申告するものだ。
けれど別に普通のセックスにだって用いないことはない。片方が夢中になって我を忘れるようなら、止めるための手段は必要だ。
「途中で止める手段は必要だと思うんだけど」
「本当に無理かどうかは見てればわかる。お前の場合は、そういうものを用意するとぎりぎりよりだいぶ手前で使うから嫌だ」
「そっ……んなことはない……よ?」
いやあるな、と奏澄は自分のことながら思った。
提案するのに、わざわざ『ぎりぎり』と強調したのは、今回だけ特例ということにしたかったからだ。嫌だとは思わなかったが、もう無理だと思う場面は何度かあった。今回耐えられたのだから次回も耐えられるだろうが、なるべく手前で止めたいと思った気持ちがうっかり出てしまっている。
奏澄の元来の特性として、安全な道を選びがちだから、多分ギブアップ札が手元にあると、無理と判断したら即上げてしまう。
マラソンであと一周だけ、と言われた時。その一周に単位がかかっていれば、ぎりぎりまで頑張れるだろう。しかし、特にデメリットがなければ、しんどいから脱落を選ぶ。現代っ子だから根性論には慣れていない。達成感とか別にいい。限界のその先とか無いし、限界は限界だ。誰に迷惑をかけるわけでもないのなら、そのあたりのジャッジは割と甘い。
「加減はできる。今だって、声も出てるし、体も自力で起こせてるだろう」
「それは当たり前のラインだと思うよ」
「それに俺がお前の様子に気を配れないところまでいってたら、多分そのセーフティワードとやらを言ったところで聞こえない」
「こっわ! ちょっと、唐突に恐怖発言しないで!」
「無いと思うが、万が一そうなったら刺してでも止めろ」
「無茶苦茶言う……」
「剣の方使うなよ。ナイフ使え」
「ねぇ現実味が増すアドバイスやめて」
剣のくだりはもしかして冗談だろうか。本気で言っているようにしか見えないメイズに、奏澄は体を震わせた。そんなことがこの先起こらないことを祈るのみだ。
「なんていうか、さ。メイズは……そんな、したい?」
ここに切り込むのは避けてきたが、こんな物騒な話題を出されたら聞いておきたい。メイズにとって、体の関係はそこまで重要なことなのだろうか。
聞かれたメイズは、言いにくそうに口を動かした。答えはあるが、言い淀んでいる様子だった。ややあって、観念したように吐き出した。
「俺だけが、お前の特別だと思えるから」
どういうことか、と奏澄が首を傾げる。
「お前は、内側の人間に対する許容範囲が広いだろう。色々なことを、許すから。俺だけが、許されている行為が、これしかない」
メイズからこぼされた本音に、奏澄はあんぐりと口を開けた。まさかそんなことを考えていたとは。
「他にもいっぱいあるでしょ! 一緒に寝てるのだってメイズだけだし、キスだってメイズとしかしないでしょ!」
「そのくらいなら恋人じゃなくてもするだろ」
「しないけど!?」
どうも謎の劣等感を抱えていたらしい。特別感が欲しかったとは。
元々メイズは特別だ。しかし、それが逆に彼の疑心を呼んだのかもしれない。
恋人になる前から、メイズは特別だった。つまり、恋人関係になる前に彼に許してきたことを、メイズは自分でなくても許容される行いだと思っている。
それは間違いではない。間違いではないのだが、そうではなく。なんとももどかしい。
「いいだろ別に。今後も無理強いはしない。ちゃんと同意は取る」
「ああうん、それはありがたいけど」
「要はお前がしたくなれば同意は取れる」
「うん……?」
「その気にさせるのはいいんだろ?」
にぃ、と笑ったメイズに、奏澄は背筋が寒くなった。
赤の海域で一通りの準備を済ませ、緑の海域を過ぎ、コバルト号は順調に青の海域に進行していた。
奏澄とメイズの仲も、順調だった。奏澄の性に対する苦手意識が拭われてきたので、島ではそれなりに楽しんでいる。
しかし、奏澄の方では、メイズには言えない問題が発生していた。
――おかしい。
最近の自分は、おかしい。どこがおかしいのかと言えば、全部おかしい。頭もおかしいし、体もおかしい。
「どうした?」
メイズに声をかけられて、心臓が跳ねる。ぼうっとした奏澄を気にしたのだろう。しかし、顔が見られずに、奏澄は焦ったように答えた。
「な、なんでもない。私、やることあるから」
あからさまな言い訳をして、奏澄はその場を立ち去った。
残されたメイズは、怪訝な顔をして首を傾げた。
「メイズ。しばらく一緒に寝るのやめよう」
自室の前。いつぞやと同じ提案をされて、メイズは固まった。
「何かしたか」
「ううん、メイズは何もしてない。大丈夫。私の問題だから」
目を逸らしたままもごもごと言う奏澄に、メイズは眉を寄せた。
「最近避けてないか」
「き、気のせいじゃない?」
「ならこっち見ろ」
少し苛立ったように、自分の方を向かせようとメイズが奏澄の顔に手をかけた。
手が触れた瞬間、奏澄はびくりと肩を跳ねさせて、反射的にその手を払った。
ぱしん、という音が響いて、双方が目を丸くする。
手を払った奏澄の方が、明らかに『やってしまった』という顔をしていた。
「ご、ごめん! ごめんね! 大丈夫!?」
奏澄はすぐに払ったメイズの手を両手で包んだ。内心はこの場を逃げ去ってしまいたい気持ちでいっぱいだったが、この状態でメイズを置いていくのは非常にまずい。辛うじてその判断だけはできた。
呆然と黙っていたメイズは、奏澄の手を引いて、自室へ引き込んだ。
驚いた奏澄は為す術なく連れ込まれ、そのままメイズに強く抱きすくめられた。
「メ、メイズ、ちょっと」
明かりを灯す前の暗い部屋。扉を閉めてしまえば、廊下の明かりもろくに入らない。
ぼやける視界で、奏澄は自分を包む体温と、メイズの香りだけを感じていた。
どっと心拍数が上がって、訴えるようにメイズの体を叩く。
「メイズ、離して」
メイズは答えずに、奏澄の頭を片手で胸元に押さえつけた。これ以上、言葉を聞きたくないということだろうか。顔が密着して、先ほどよりも強い香りに、頭がくらくらする。ああ、まずい。おかしくなる。
「は、な、し、て!」
渾身の力を込めて体を押せば、腕が緩んだ。ほっとして距離を取り見上げると、暗さに慣れてきた目に映ったメイズの顔は、傷ついているように見えた。
「そんなに嫌か」
「い、嫌じゃないよ。そうじゃなくて」
「じゃぁなんだ」
どうしよう。なんて返せば。だって、正直に言うには、あまりにもみっともない理由だ。けれどそれは、今目の前で傷つけたメイズよりも優先することだろうか。
そんなはずはない。なら言ってしまえばいい。けれどそれを口にすることは、恥ずかしい、だけで済む問題でもなく。
色々な考えが頭を巡って、何かを言わなくちゃという気持ちが溢れ出して、どうにもならなくて、奏澄のキャパを超えた。
「うー……」
急にぼろぼろと泣き出した奏澄に焦ったのはメイズだ。この状況で泣きたいのはメイズの方だろうに、何故か奏澄の方が泣き出した。困惑したメイズを置き去りに、奏澄はしゃがみこみ、しゃくり上げたまま口を開いた。
「メイズのせいだぁー……」
「……何がだ」
これは責任転嫁だ。この状況で奏澄が先に泣くのは卑怯だし、メイズは何も悪くない。それなのに、理由を聞こうとしてくれている。甘い男め。怒ればいいのに。
「メイズの、せいで、私、いんらんになったぁ……!」
「は……?」
淫乱。思いも寄らない単語に、メイズは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
完全に理解が及んでおらず、困惑して二の句が継げない様子だった。
「い、今まで、したいとか思ったこと、なかったのに。なんか、メイズに触られたりとか、近くで、匂いとかすると、なんか、し、したくなっちゃって、からだ、おかしくて、メイズのせいで変になったぁ! ばぁか!」
もうこれ傍から見たらギャグだろう。
冷静な自分が俯瞰してつっこみを入れる。しかし当人は至って真面目に悩んでいて、制御がきかない状態だった。
おかしい。今まで一度もこんなことはなかったのに。自分の体が、作り変えられていくようだった。快楽を重ねて、体がそれを覚えていく内に、ちょっとしたきっかけでその感覚が蘇ってしまうのだ。肌の感触であるとか、汗の匂いであるとか、そういったものにひどく過敏になってしまった。
ろくに性欲など感じたことがなかっただけに、急に訪れた変化に戸惑い、一人で処理できる容量を超えていた。船ではしない、というルールを決めたのは奏澄の方だ。あれだけ厳重に言い含めていたのだ。メイズに言えるはずもない。
しかし、船での時間が長くなればなるほど、ごまかしもきかず、疼きを抑えるには距離を取るしかなかった。ちょっと離れればすぐ収まると思ったのに。なんなのかいったい。バイオリズム的なやつだろうか。脳内ピンクになってしまったのだろうか。中学生じゃないのだから。
泣きじゃくる奏澄を前に、メイズは力が抜けたようにへたりこみ、そのまま肩を震わせた。
「わ、笑うな!」
「っふ、いや、わる……ははっ」
やっぱりギャグだった。あのメイズが声を上げて笑っている。
メイズはしゃがみこんだ奏澄を抱き上げて、ベッドに座らせた。自身も横に座り、宥めるように緩く抱き締めて、頭を撫でた。
「よしよし」
「何で機嫌いいんだコノヤロウ」
不貞腐れた奏澄とは対照的に、メイズはすっかり機嫌を直していた。
「なぁ、お前がルールを作ったのって、何のためだ?」
「何のため……って、船で共同生活するにあたって、必要なことを」
「聞き方を変える。誰のためだ?」
「……仲間の、ため?」
仲間たちに、気をつかわせなくていいように。変な空気にならないように。
隣人の性事情は、アパートでのトラブルに発展することもあるくらいポピュラーな問題だ。だから奏澄の認識では、これは『注意すべき問題』なのだ。
「そうだな。で、俺はあいつらと合流してから、割と目立ってお前にべたべたしていたわけだが」
「えっあれわざとだったんだ」
「まぁな」
仲間の目がある時に限って、スキンシップが過多な気がしていた。奏澄としてはあれは恥ずかしいからやめてほしかったのだが、何か牽制でもしたいのかと思っていた。
「俺がどれだけお前に触れても、あいつらが嫌な顔をしたことは一度もなかった」
「うん、まぁ、そうだろうね」
「だろ? つまり、俺とお前が仲良くしている分には、誰も文句はないってことだ。むしろ喧嘩した方が心配をかける」
奏澄は目を瞬かせた。まさかメイズがそんなところに気を配っていたとは。一応、メイズも気にして試してくれたのだ。仲間たちが、果たしてメイズと奏澄の関係性をどう見ているのかを。祝福に偽りがなかったとしても、他人がべたべたしているのを好まないタイプもいるだろう。
何にせよ、言いたいことはわかった。仲間たちは、奏澄とメイズが船で行為に及ぼうが何をしようが、仲が良い分には見守ってくれるだろうと。それよりも、原因が何であれ、ぎくしゃくされた方が気になるし支障が出るだろうと。だから今、こうしてすれ違いが起きていることの方が問題だろうと。
「ルールは、俺とお前で決めたもので、他の連中は知らない。だから、お前さえ納得すれば、いつでも撤回できる」
「一度決めたことを、そう簡単に覆すのは」
「頭固いよな……。まぁ、俺の方から何かすることはない。約束したからな。してほしければ、いつでも言え」
にやりと笑ったメイズに、奏澄は口を開閉させた。主導権を握っているのは、奏澄だ。ルールの決定権も奏澄にある。しかしそれ故に、誘う時は奏澄からしかあり得ない。
「原因はわかったし、今後は触るのに遠慮はしない。セックス以外は、禁止されてないもんな?」
この状況を作り出したのは奏澄だ。しかし恨みがましい目をしてしまうのは、仕方のないことだろう。
そして近い内に、この『ルール』は撤廃されることになる。
青の海域を北へ北へと進んでいくと、だんだんと寒さを感じるようになってきた。今まで訪れた場所は温暖な地が多かったので、薄着でいた奏澄は肩を震わせた。
「次の島で服を買うか」
「メイズ」
奏澄の肩を抱いたメイズも、上はシャツしか着ていない。彼はまだ寒さを感じるほどではないようだが、この先もっと寒くなるなら上着が必要だろう。
「北の方ってどのくらい寒くなるの?」
「黒の海域まで行けば、雪が降る程度には」
「えっ!? 雪降るんだ!?」
奏澄は驚きの声を上げた。なんとなく、雪という気象が存在しない気がしていたのだ。
土地で言えば、セントラルがある場所も南極にあたる。気象条件を考えれば極寒のはずなのだが、あそこはかつての神の領地なので気候が安定しているらしい。セントラルが世界の中心であるため、そこから一番離れた果ての地、黒の海域は人には厳しい寒さが待っている。そして黒の海域に近づくと、その寒波の影響を受けるようだ。
「あーでも、それでか。なんか納得」
「何がだ?」
「メイズの格好。寒い土地出身だからなのかなって」
言われて、メイズは首を傾げた。特にそういう意識は無かったらしい。
湿地帯もある緑の海域はともかく、赤の海域ではサンダルの男性も多かった。しかしメイズは、最初からしっかりした皮のブーツだった。シャツも大きく前をはだけることなく、割と上まで留めている。あまり露出する習慣が無いのだろう。
ターバンは日射を遮ったり発汗を抑える役割のため、暑い地方での印象が強いが、実は寒さを防ぐ目的でも使用する。彼の服装は、現在の気候に合わせてはあるものの、元々寒冷地にいたと言われれば頷けるものだった。
「黒の海域に行くまでには、防寒具を揃えないとな」
「かさばるなぁ」
冬物は分厚い。化学繊維がまだ未発達なこの世界では、薄くて軽くて暖かい素材はなかなか存在しない。場所を取るが、必要なものだから仕方ない。
具体的に必要なものを考え出すと、実感する。黒の海域に、近づいているのだと。
メイズはまだ、多くを語らない。黒弦と戦うまでには、聞けるのだろうか。それとも。
青の海域、ミラノルド島。
たんぽぽ海賊団は、この島で寒冷地用の備品を買い揃えることにした。南から北へ向かう航路の途中で、黒の海域に近くなり、寒さを感じ始める位置にあるこの島は、似たような船団が多く訪れるため商店も多く賑わっている。
島へ降りるために身支度を整えた奏澄は、上甲板で待つメイズの元へ向かった。
「お待たせ。行こっか」
声をかけられたメイズは、奏澄の格好を眺めて眉を寄せた。
「置いていった方が良くないか、それ」
「え、気になる? 一応貴重品だし、いつ遭遇するかわからないし、身につけておいた方がいいかと思って」
奏澄は剣帯に下げた神器を見下ろした。剣を身につけて行動することにも慣れておきたい。鞘に入っているのだし、怪我をするようなことはないかと思うのだが。
疑問を示す奏澄に、メイズは暫く渋い顔をしていたが、やがて何か納得したのか、息を吐いた。
「まぁ、いい。持っていればわかる」
「? うん」
結局奏澄は剣を下げたまま、メイズと二人島へ降りた。
全体的な雰囲気はヴェネリーアに似ているようにも見えるが、友好的なヴェネリーアの空気とは違い、ミラノルドの方が都会的な印象だ。十分に賑わってはいるが、それは楽しんでいるというより、繁盛している、という言葉が似合う。
人や物がごみごみしており、気をつけて目をやると、建物と建物の隙間、裏路地などに、堅気ではなさそうな人が立っていたりもする。
これは気づかない方がいいやつだ、と奏澄はきょろきょろするのを止めた。
服屋で適当に冬服や小物を見繕い、それから分厚い黒のオーバーコートを探した。試しに羽織った奏澄を見たメイズは、まじまじと眺めて。
「お前黒似合わないな」
「知ってる。もうちょっと明るい色がいいなぁ」
「夜に紛れるから黒の方がいい。雪に紛れるなら白があってもいいが……積もる場所で行動することはあまりないだろ」
「白は白で汚れが目立つから嫌だなぁ」
注文が多い、とメイズは溜息を吐いた。ただの軽口だということはわかっているので、注意をしたりはしないが。
「メイズは黒似合うよね」
「そうか?」
同じようにコートを羽織ったメイズを、奏澄はじっと見た。
惚れた欲目かもしれないが、黒の面積が多いと凛々しさが増す気がする。
「カメラほしい……」
「くだらないことを考えているのはわかった」
呆れたように言って、メイズはコートを脱いだ。
同じように奏澄も脱ごうとして、かつりと剣に手が当たる。
「これ剣はコートの内側? 外側?」
「使う状況になったら外側だが……お前は、暫く内側で隠しておいた方がいいんじゃないか」
「島に降りる時も言ってたね。まぁ、ちょっと目立つよねこれ」
島に降りてから、ちらちらと視線は感じていた。真っ白な剣などそうそうないから、物珍しいのかもしれない。人から注目されるくらいなら、確かに隠した方がいいだろう。
もっと寒くなったらそうしよう、と思いつつ、この島はコートを着るほどの寒さではない。購入したコートは抱えて、荷物を置きに船に戻ろうと雑踏を歩き出す。
暫く歩いたところで、メイズが急に視線を鋭くした。
「メイズ? どうし――」
最後まで言い切らない内に発砲音が響き、呻き声がした。
驚いて奏澄が振り返ると、一人の男が血の流れる手を押さえていた。にわかに周囲がどよめく。
「え……え?」
何が起こったのかさっぱりわからない奏澄は、間の抜けた声を漏らすしかなかった。
「行くぞ」
すたすたと歩き出すメイズに、動揺したまま慌てて付いていく。
「ねぇ、今……なに? メイズ、撃った?」
「あいつはスリだ」
「スリ……?」
「お前のそれ」
メイズが視線で示したのは、奏澄が下げている剣だった。財布でも荷物でもなく、剣? と奏澄は戸惑った。
「見るからに高そうだろ。そりゃこうなる」
言われて、奏澄は息を呑んだ。剣は武器である、という意識が強すぎた。
この神器は、見た目は儀礼用の剣だ。純白の鞘、細かな金の装飾。それは値打ちものに見えるだろう。この剣の真の価値など知らなくとも、売り払ったらそれなりに高値がつく。そんなものを、腑抜けた顔の女が呑気に腰に下げて歩いているのだ。簡単に盗めると思うだろう。
今更ながら、メイズが気にしていた理由がわかって、奏澄は青ざめた。
「でも、物取りくらいで何も撃つこと」
「手でも掴んで、優しく諭してやれば良かったか? そうすれば次は全部持っていかれるぞ。この島には数日滞在するし、見せしめにちょうどいい」
「ちょうど、いい……って……」
奏澄は口を噤んだ。メイズの言う全部とは、おそらく所持品だけを指しているのではない。なめられたら終わりだ。むしろ手を撃ったのは、奏澄に気づかったのかもしれない。
「治安、悪くなるって聞いてたけど、こんなの」
「こんなもんじゃないぞ。確率が上がっただけで、スリくらいならどこにでもいる。この先は、もっとやばいのがごろごろいる。近づいてくる人間は全員警戒しろ。口にするものもな」
奏澄は暗い顔で唇を引き結んだ。しかし、ぎゅっと強く目を閉じて、開くと同時に顔を上げた。この程度で、俯くわけにはいかない。
奏澄がこれから相手にするのは、こんなちんけなチンピラごときではない。悪と呼ばれる存在を、奏澄の手で、葬らないといけないのだ。
その覚悟は、事前に固めておかなければ。
奏澄は剣の柄を、強く握り込んだ。
玄武との再会は、思ったよりも早かった。
ミラノルド島から更に北へと進み、オーバーコートも必要な気温になってきた頃。玄武が滞在しているという噂を聞き、たんぽぽ海賊団はパラ―ルト島に船を寄せた。
「キッドさん!」
島の酒場で、見覚えのある水色を見つけて奏澄は声をかけた。
「おお! なんだ、嬢ちゃんじゃねぇか」
玄武海賊団の船長、キッドは以前会った時よりも厚着だったが、以前と変わらぬ少年のような顔で笑った。同じテーブルにはロバートが座っていたが、彼は目線で挨拶をしただけだった。
島にブルー・ノーツ号が泊まっているのを確認し、まずは船長に挨拶をとキッドを探して、奏澄はメイズと二人で酒場に来ていた。
玄武は人数が多いせいか、酒場はほとんど貸し切り状態で、中にいるのは玄武の乗組員だけのようだった。奏澄たちが入れたのだから他の客を追い出すようなことはしていないのだろうが、あえてこの中に入ろうという者もいないのだろう。
「久しぶりだなぁ。元気してたか?」
「ええ、おかげさまで」
「なんだ社交辞令が言えるようになったか。ツンケンしてたのも面白かったのに」
「……忘れてくださいよ」
奏澄はきまりが悪そうに視線を逸らした。あの時の態度を後悔しているわけではないが、今回は頼み事に来ているのだ。失礼な振る舞いをするわけにはいかない。
その様子を見て、キッドは笑いを零した。
「オマエも変わりない……いや、変わったか」
キッドはメイズに視線をやると、まじまじと眺めてからそう呟いた。
キッドからそう言われる覚えはないのか、メイズは怪訝そうに片眉を上げた。
「なんだオマエらくっついたのか。おめでとさん」
からっと笑って、キッドは酒の入ったジョッキを掲げた。
驚いたのは言われたメイズより、奏澄の方だった。いったいどこを見てその判断を下したのだろうか。キッドに挨拶に来たのだから、当然場を弁えない振る舞いはしていないはずなのだが。
「なんでそう思ったんですか?」
別に悪いということも無いが、見るからにそれとわかるようなら恥ずかしいので知っておきたい。場合によっては直したい。どことなく苦い顔で訊く奏澄に、キッドは目を瞬かせた後、にやーっと意地の悪い笑みを浮かべた。
「教えねー」
その態度に、思わず奏澄はいらっとした。四大海賊の船長はどの人物も尊敬に足る人物で、貫禄もある。だというのに、何故だかキッドに対してだけは、こういう気安い感情が湧く。普通なら立場のある人物にからかわれたからといって、困惑はするかもしれないが、いらっとする、なんてことはないだろう。
まるで同等の立場にあるような錯覚を覚える。だからこそ、奏澄は前回キッドに対してツンケンした態度が取れたのかもしれない。無意識に、それが許されると思ったのだ。
面子が大事な海賊にとって、嘗められるというのは大変な侮辱行為だ。それだけで、首を飛ばされる可能性もある。それをしない、と思ったから、奏澄は不機嫌を隠すことなく拗ねてみせた。凄めばとても恐い人物だと知っているのに、話すとそれを忘れてしまう。それは彼の人柄なのかもしれないし、もしかすると意図的な振る舞いなのかもしれない。
「まぁ座れよ」
椅子を勧められて、奏澄とメイズはキッド同じテーブルに着いた。
「嬢ちゃんも飲むか?」
「いえ、今日は真面目な話をしに来たので。お酒は」
「ほう」
言って、キッドは目を眇めた。わざわざ玄武を尋ねて来たのだから、それなりの用事だということは予想しているだろう。
キッドにじっと見据えられて、奏澄は小さく深呼吸をして話を切り出した。
「黒弦海賊団を討つための、共闘をお願いしに参りました」
その名を出した途端、空気が張り詰めた。玄武の乗組員たちが騒めく。ロバートは黙ったままだが、真意を測るように奏澄から視線を逸らさなかった。
「そりゃまた、急な話だな。わざわざ自分の古巣を潰そうだなんて、どういう腹積もりだ? 過去の汚点を無かったことにでもしたくなったか」
からかうような口調で投げかけるキッドに、メイズは黙した。今話しているのは自分だ、と主張するように、奏澄は先ほどより大きな声を張った。
「セントラルにレオが捕らえられています。彼を解放するのに、黒弦の船長――フランツを殺さなくてはなりません」
キッドも面識のあるレオナルドの名が出たこと。彼が囚われの身であること。そして何より、およそ奏澄の口からは出そうにない『殺す』という強い言葉に、キッドは目を丸くした。しかし奏澄の様子から、冗談の類でないことは察したのだろう。真剣な顔つきで口を開いた。
「――どういうことだ?」
話を聞く体勢と見て、奏澄はセントラルでの出来事を説明するのだった。