私の海賊さん。~異世界で海賊を拾ったら私のものになりました~

 オリヴィアに言われるがままについて行くと、建物から出てしまった。メイズたちは城内に残したままだ。不安を覚えながらも、奏澄は怖々後ろを歩いた。
 人気(ひとけ)の無い方へと進み、黙ったまま暫く歩き続け、広い場所へ出る。そのまま更に歩を進めていくと、目の前に古い建物が見えた。近づけば、それはギリシャ様式の神殿のようだった。太い円柱が整然と並び、四角い箱のような形をしている。
 オリヴィアは歩調を緩めることもなく、その中に入っていった。奏澄も慌てて後を追う。
 中に入ると、白を基調とした荘厳な造りに、状況も忘れて奏澄は思わず見惚れた。歴史を感じるが、現在は使われている様子が無い。神殿なのに、祭礼などは行わないのだろうか。
 オリヴィアはためらいなく祭壇に上がり、壁にかけてあった剣を手に取った。そして奏澄の目の前に来ると、その剣を差し出した。

「受け取りなさい」

 有無を言わせぬ言葉に、奏澄が戸惑いながらも両手で剣を受け取る。
 見慣れぬそれは、儀式用の剣のようだった。鞘も柄も真っ白で、繊細な金の装飾が施されている。実用目的には見えないが。

「これが、唯一悪魔を殺せる武器よ」

 奏澄が息を呑む。それはつまり、この剣には神の力が宿っているということ。急に剣の重さが増した気がして、奏澄は落とさないように必死だった。

「これで悪魔の心臓を貫くか、首を切断すれば、あれを殺すことができるわ」
「それを、私が?」
「あなたにしか使えないもの。できないのなら、条件を戻すだけよ」

 はぐれものの島へセントラルの人間を案内するか、奏澄の手で悪魔を殺すか。
 どちらかしか、選べないのなら。

「わかりました。お受けします」

 できるかどうかはわからない。悪魔とやらが、どんなものなのかもわからない。けれど、災害だと言うのなら。存在してはならぬものなのだと言うのなら。まだ、心に言い訳ができる。
 仲間を取り戻すためならば。

「けれど、私一人で悪魔と戦うのは無理があります。先に、仲間を解放していただけませんか。彼らがいなければ、私は海へ出ることもままなりません」
「メイズがいれば充分ではないの?」
「いいえ。船は二人では動かせません。旅も二人ではできません。悪魔を殺してこいと言うのなら、仲間は絶対に必要です」

 オリヴィアは、少しだけ考えるように口を閉ざした。そして結論が出たのか、再度口を開く。

「わかったわ。仲間は解放しましょう」

 要求が呑まれたことに、奏澄が安堵しかけると。

「ただし、全員というわけにはいかないわ。最低でも一人、残してちょうだい」
「そんな……!」
「当然でしょう。この場で全員解放するなら、取引をする意味がないもの。あなたが約束を果たす保証がどこにあるの?」

 奏澄は歯噛みした。オリヴィアの言うことはもっともだ。しかし、それでは、誰か一人を犠牲にすることになる。
 けれど、これ以上の提案はできない。人質を取られているのに、それ以上の担保になるものが、奏澄には無い。

「……わかり、ました」

 逡巡した結果、絞り出すようにそう答えた。下手にごねて、全員を返さないと言われても困る。その一人には、誠心誠意謝罪し、帰還を約束するしかない。

「私の仲間を一人残せば、あとは解放していただけるんですよね」
「ええ」
「その範囲に、白虎の仲間も含んでいただけませんか」
「それは別の話でしょう」

 奏澄の要求に、オリヴィアは棘のある声で返した。やはり無茶だっただろうか。

「では、今すぐでなくて構いません。悪魔の首を持ち帰ることができたら、考慮してください」
「存外厚かましいのね。いいわ、約束通り首を持って帰ってきたなら、考えるだけはしてあげる」

 今はこれが精一杯だ。奏澄は震える息を長く吐いた。
 神殿を出ようとするオリヴィアに、奏澄は慌てて声をかけた。

「あの、肝心の悪魔について聞いていないのですが」
「悪魔がいる方角は、コンパスが指していたでしょう」
「方角だけじゃ……。特徴とかは」
「何を言っているの? そんなもの、メイズが誰より知っているでしょう」

 オリヴィアは、怪訝そうに眉を寄せた。

「悪魔は、黒弦海賊団の船長、フランツよ」
「カスミ!」
「みんな!」

 わあ、と歓声が上がり、カスミがもみくちゃにされる。久しぶりの再会に、状況も相まって、奏澄はうっすらと涙を浮かべていた。

 条件を呑んだことで、オリヴィアはそのまま地下牢へと向かい、奏澄の仲間たちを解放した。アンリが現役だと言っていた通り、城の地下牢は罪人の一時拘留場所として使われていた。一度ここに入れられた後、裁判などを終えると、重罪人は監獄島へ、それ以外は別所にある刑務所へ送られる。

 地下牢には、たんぽぽ海賊団の仲間たちが揃っていた。
 赤の海域からは、マリーたちドロール商会のメンバー、ライアー。緑の海域からは、予想通りアントーニオとラコット一味が。そして、青の海域から、レオナルドも連れて来られていた。玄武は事情があって来られなかったか、あるいはレオナルドの工房は一人で営業しているため、大きな騒ぎとならず、耳に入らなかったのかもしれない。

「カスミ、一人か? メイズさんは?」

 ライアーが真っ先にメイズの存在を気にかけた。一人でオリヴィアと行動していたことに、驚いているようだった。

「大丈夫、一緒に来てるよ。ハリソン先生も。ただ、今はちょっと別の場所で待機してるけど」

 苦笑した奏澄に、ライアーが心配そうに眉を寄せた。きちんと説明したいが、この場でそれをする時間は無い。オリヴィアから、早くしろというプレッシャーを感じる。
 そう。仲間たち全員を、このまま外へ連れ出すわけにはいかないのだ。だからメイズと合流せず、奏澄一人を案内したのだろう。

 奏澄は仲間たちに向き直って、一人一人の顔を見た。

「ごめんなさい。みんなのこと、迎えにきたよって言いたかったんですけど……まだ、そういうわけにはいかないんです」

 そう前置きして、奏澄は簡潔にオリヴィアとの取引内容を告げた。

「だから、誰か一人はここに残ってもらわないといけない。本当に申し訳ないけど……必ず、もう一度迎えにくるから……!」

 頭を下げた奏澄に皆は顔を見合わせ、誰ともなく手を上げた。

「俺残ります」
「いや、オレ残りますよ、一番年下だし」
「俺残るって。頑丈だし」
「バカ、戦力は減らせねぇだろ。オレが」

 自分が自分が、と言い出す仲間たちに、奏澄は少しの間呆けた後、場違いにも某コントを思い出して笑った。たった一人、敵陣に置き去りなんて。なんて酷い行いだろう、と思うのに。こんな風に、奏澄が気にしなくていいように振る舞ってくれる。その心づかいが、泣きたいほどに嬉しかった。

「俺が残る」

 やいやい言い合う中、凛と声を発したのはレオナルドだった。

「お前はダメだろ」
「むしろ、俺が一番適任だろ。セントラルに残るのは、誰でもいいってわけじゃない」

 首を傾げる仲間たちを無視して、レオナルドはオリヴィアに視線を向けた。

「セントラルにいる間、どう扱われるかわからない。カスミが戻っても、セントラルが約束を守る保証もない。その点俺なら、少なくとも殺される心配はない。なんせ、半分はぐれ者の血が流れてるからな」

 不敵に笑うレオナルドに、オリヴィアは黙ったまま視線を鋭くした。

「利用価値があるのに、雑に扱ったりはしないよな?」
「そうね。人質は人道的に扱うわ。多少は研究に協力してもらうかもしれないけど」
「研究って……!」

 奏澄はハリソンの言葉を思い出していた。セントラルでは、はぐれ者を人間扱いしていない、と。いくらなんでも、そんな環境に置いていくわけにはいかない。

「大丈夫だって」

 安心させるように笑ってみせるレオナルドに、奏澄は唇を噛みしめた。
 誰も置いていきたくはない。でも、そういうわけにはいかない。だから。

「オリヴィア総督」

 奏澄は真っすぐオリヴィアと向き合った。

「レオナルドを、丁重に扱うと約束してください。もし彼に何かあった場合、私たちだけでなく、四大海賊を全員敵に回すことを覚悟してください」
「随分大きく出たものね」
「ご存じでしょう。私は、今日共に来た朱雀、青龍。そして白虎、玄武。全ての船長と繋がりがあります。私が呼びかければ、全員動いてくれるでしょう」

 半分程度は、はったりだ。けれど、確信もあった。元々レオナルドと面識のある玄武は、動くだろう。セントラルの非道に批判的な白虎も、黙っていないはずだ。そして奏澄を『いい奴』と言ってくれた朱雀も、協力してくれるだろう。青龍はバランスを見るタイプだ。三つの海賊団が全て動くとなれば、青龍も加わるはず。
 今のセントラルはまだ、四大海賊全てを敵に回すことは避けたいはずだ。

 睨むような気迫の奏澄に怯むこともなく、オリヴィアは軽く息を漏らした。

「人道的に扱うと言ったでしょう。彼の同意が得られないことは、何もしないわ。王家の血に誓って、約束しましょう」

 不安は残るが、少なくとも言質はとった。これ以上は疑ってかかるとキリがない。

「レオ」

 奏澄はレオナルドに声をかけると、その体をぎゅっと抱き締めた。

「ありがとう。絶対、迎えにくるから。待っててね」
「ああ。待ってる」

 信頼のハグを交わして、レオナルドは兵に連れられて行った。
 拳を握りしめてその背中を見送り、奏澄は仲間の顔を見渡した。

「行こう」
 レオナルドを除いた、たんぽぽ海賊団の仲間たちと共に、奏澄はメイズの待つ部屋へと向かった。オリヴィアは、話は終わったと既に城を出ている。
 兵士の案内で部屋に入ると、部屋にはメイズ、ハリソン、アンリ、ロッサが待機していた。
 メイズはまず最初に顔を見せた奏澄に安堵し、それから後ろにいる仲間たちを見て、そっと息を吐いた。態度には出さずとも、メイズも仲間の安否は心配だったのだろう。
 しかし奏澄の腰元に目をやると、眉根を寄せた。
 奏澄は今、悪魔殺しの神器を帯剣している。辛うじて短剣に分類される長さではあるものの、手に持っているわけにもいかないため、剣と一緒に白の剣帯を貸与されていた。
 それが何かをメイズが問う前に、ロッサが大声でマリーに声をかけた。

「おう、マリー! 良かった、元気そうだな!」

 言いながら、がばっとマリーにハグをする。

「ちょっと、暑苦しい」

 マリーは迷惑そうな顔をしているが、嫌悪は見えない。慣れているのだろうか。

「離れろ筋肉ダルマ!」

 代わりに、毛を逆立てるようにして怒ったのはライアーだった。ロッサを掴んで、マリーから無理やり引き剝がす。
 ライアーの筋力ではロッサは動かないだろうが、その動作に従ったのだろう、ロッサは大人しくマリーから離れた。

「なんだなんだ、嫉妬か」
「バ……ッカ、そうじゃ」
「安心しろ、お前にもしてやる!」

 ぎゅう、と力強くハグされて、ライアーは潰れた蛙のような悲鳴を上げた。

「マジで勘弁しろよ脳筋族めぇぇぇ!」

 ここはまだ敵地とも言える場所であり、一応緊迫した状況のはずなのだが、コントにも等しいやりとりに、奏澄は思わず破顔した。
 奏澄にとっては微笑ましいが、アンリにとっては頭の痛い光景のようだった。疲れたように目元を押さえて、奏澄に声をかける。

「あの馬鹿は放っておいていい。どうなったのか、説明をしてくれないか」
「す、すみません。ご説明しますね」

 奏澄は居住まいを正して、その場の全員に状況を説明した。
 セントラルが仲間たちをさらったのは奏澄をおびき出すためだったこと。仲間を解放する代わりに、悪魔を倒すという条件で取引をしたこと。奏澄が持つ剣は唯一悪魔を殺せる武器であり、奏澄にしか使えないこと。人質としてレオナルドが残ったこと。条件を達成すれば、白虎の仲間も助けられるかもしれないこと。
 悪魔が、黒弦海賊団の船長、フランツであること。

「悪魔……悪魔か。血を引いているという噂はあったが、まさか悪魔そのものだったとは。にわかには信じがたいな」

 眼鏡を押し上げたアンリが、メイズへと視線を向ける。

「お前は知っていたのか。自分のところの船長が、人間ではないと」
「いや。俺たちも他と変わらない。悪魔の所業などと言われちゃいたが、まさか本物が実在するなんて夢にも思わないからな」
「だろうな」

 嘆息したアンリは、頭痛をこらえるように顔を顰めた。

「しかも、倒せるのが君だけというのがまた……なんとも、物語じみている」
「頼りなくてすみません……」
「責めているわけじゃない。不甲斐ないだけだ。大の男がこれだけ雁首揃えて、年端もいかない……失礼、若い女性一人に任せなければならないということが」

 悔しそうなアンリに、奏澄は思わず笑みが零れた。
 この人は、責任感の強い人なのだろう。あまり海賊らしくないと感じていたが、白虎がレジスタンスから海賊となったように、彼もまた、何かを守るために海賊となったのかもしれない。

「一人ではありませんよ。私には、心強い味方がついていますから」

 仲間をふりかえると、皆が力強い笑みで応えてくれた。それに奏澄も更に笑みを深める。
 その様子を見て、アンリも表情を緩めるのだった。

「私は緑の海域を長く空けるわけにはいかない。君に同行することはできないが、何かあれば手を貸そう。青龍の者たちには、伝わるようにしておく」
「ありがとうございます、助かります」
「オレも! 朱雀もいつでも力になるからな。遠慮すんなよ」

 アンリとロッサから頼もしい言葉を貰い、奏澄はほっとして礼を述べた。



 説明が終わると全員で城を出て、預けていた武器を受け取り、アンリとロッサとはそこで別れた。アントーニオたちが働いていた食堂『ソリッソ』にはアンリが、マリーたちの『ドロール商会』にはロッサが、それぞれ業務の再開と仲間の無事を伝えてくれるとのことだった。
 その申し出をありがたく受け、たんぽぽ海賊団の仲間たちは、再びコバルト号へと乗り込み、航海へ乗り出すこととなった。

「みんな、ごめんなさい。やっと会えたばっかりなのに、なんか、また大変なことになっちゃったんですけど……。レオを取り戻すためにも、力を貸してほしい。よろしくお願いします!」

 かつてのように深く頭を下げた船長に、乗組員たちは苦笑した。

「なーに言ってんすか、船長」
「今更水臭いでしょ」
「俺ら『たんぽぽ海賊団』の仲間なんだから、遠慮なんかいらねぇよ!」

 これからの航海が困難であることは間違いない。それでも、こうして明るく笑ってくれる。
 彼らがいれば、大丈夫。

「たんぽぽ海賊団、出航!」
『応!』
「さて。黒弦、ってことは、まずは黒の海域に向かわないとな」

 言いながらライアーが机に海図を広げる。
 会議室にて、奏澄たちは今後の航路の確認をしていた。面子は昔と同じように、奏澄、メイズ、マリー、ライアーの四人だ。
 やることは決まっているので、大人数で相談することもない。残りの乗組員たちは、長く空けていた船内を各々整えている。

「しかし、黒……黒かぁ……」

 ライアーが長い溜息を吐いた。その様子に、奏澄はメイズを気にしつつも、ライアーに尋ねた。

「行くのが難しいところなの?」
「や、航路は問題ないけどね。黒の海域に寄るほど、治安が悪くなるから」

 そう言うと、ライアーは一番大雑把な海図を広げて、まずその図面の上の方をぐるりと指で示した。

「オレたちが以前回ってたのって、この上半分、つまりセントラル寄りだったわけ。だから、治安もそこまで悪くはなかったんだよ」

 海域は緯度で区切られている。つまり、以前は白の海域を中心に据えて、赤、緑、青、金と南半球にあたる部分をぐるりと一周していた。

「それが今度はこっち」

 ライアーの指が、海図の下の方をぐるりと示す。黒の海域を中心に、北半球にあたる部分だ。

「セントラルから離れるほど、影響は弱くなる。兵の派遣も手間だしね。もちろん支部もギルドもあるんだけど、ちょっとした事件くらいだと面倒だからもみ消したりとか」

 警察署の近くの方が治安が良いのと同じ理屈だろう。取り締まる者がいなければ、好き放題にする輩は出てくる。黒の海域には自治組織も無い。悪事を好む者には、さぞ居心地が良いだろう。

「治安の面で言えば、あたしらだって海賊なんだから、人のこと言えた義理じゃないけどね」

 マリーの言葉に、確かに、と奏澄は頷いた。どんな人間が乗っていようが、何をしていようが、結局のところ海賊は無法者だ。島から出ることの無い一般市民からしたら、誰であれ海賊は脅威だろう。

「まぁカスミは、絶対一人にならないこと。それだけは約束ね」
「うん、わかった」

 以前の航海も一人になるようなことはほぼ無かったが、改めて奏澄は気を引き締めた。

「で、黒の海域まで、どこの海域に沿って行くか。補給を考えれば、赤の海域沿いに進むのがいいかな。ドロール商会のツテが一番利くから」
「いや、できれば青の海域沿いに進もう」
「え、青?」

 メイズからの意外な提案に、ライアーが目を丸くした。

「どこかで玄武と合流したい」
「玄武と!?」

 これにはライアーだけでなく、奏澄とマリーも驚いた。玄武とメイズとは因縁がある。以前、たんぽぽ海賊団とも一悶着あった。最終的に、玄武の船長であるキッドは奏澄に対して好意的だったが、わざわざ再会するほどだろうか。

「玄武は黒弦を目の敵にしている。黒弦を潰すための協力なら喜んでするだろ」
「そりゃそうかもしれないけど……メイズさん、それでいいんすか?」
「戦力は多いに越したことはない。数さえあれば勝てる相手じゃないが、玄武は黒弦との戦闘経験もある」
「メイズさんがいいなら……」

 メイズの提案により、たんぽぽ海賊団はまず赤の海域で可能な限り装備等を揃えた後、青の海域に沿って進み、玄武との合流を目指すことにした。

「よし。マジメな話はこれでおしまい、かな。あと何かある?」
「今は大丈夫だと思う」
「そっか。んじゃさ、オレ、ずっと気になってたんだけど」

 前置きするライアーに、奏澄が首を傾げる。

「メイズさん、ヒゲェ!!」
「え、そこ?」

 大声でつっこみを入れたライアーに、奏澄は思わず拍子抜けした。何を言い出すのかと思えば。

「いやだってずっと無精ヒゲだったじゃん! 急に小ギレイにしてたら気になるでしょ!? 聞ける空気じゃなかったからずっと我慢してたけど!」

 メイズは心底どうでも良さそうな顔をしている。それを見て奏澄は苦笑した。
 そう、メイズは今髭が無い。以前の航海の時は適当に伸ばして、邪魔なタイミングでこれまた適当に剃っていた。それが今は、まめに綺麗に剃り落としている。

「えぇ~なんで剃っちゃったんすか~! あった方が海賊っぽかったのに!」
「どっちでもいいだろ……」
「見た目は大事でしょ! なぁ、カスミはどっちがいい!?」
「え!?」

 思いもよらないところで話を振られて、奏澄はうろたえた。これは結構重要な質問なのではないだろうか。

「えー……と、まぁ、見た目だけなら、あった方が良かった、かなぁ……?」

 出会った時からそうだったし、見慣れていたから。という程度の理由だったのだが、それを聞いたメイズがやや目を瞠った後、苦々しい顔をした。

「えっやだごめん、私何かした?」

 メイズの反応にも慣れてきた。これは自分が何かした可能性が高い、と奏澄は焦った。
 不安そうに見上げる奏澄に、メイズは渋々、目を逸らしながら、唸るように小さな声で零した。

「お前が当たると痛いって言ったんだろ……」
「……言ったっけ」
「お前本当そういうところあるよな」

 指摘されて、奏澄はごまかすように愛想笑いをした。確かに、言ったかもしれない。
 それにしても、相変わらず妙なところで律儀だ。黙って実行しているところも。

「もうやめる」
「ごめん、ごめんって! 無い方がいいなー、助かるなー」

 これも本音だ。髭が当たるのは肌荒れの原因にもなるし、無い方がありがたい。
 手を合わせてお願いする奏澄に、メイズは数秒だけ拗ねたようにしていたが、ややあって息を吐いた。これは許してもらえた合図だ、と奏澄はほっとして微笑んだ。

 メイズばかりを気にしていた奏澄の耳に、「ふぐぅ」という奇妙な音が聞こえ視線を向けると、ライアーが顔を覆って膝をついていた。

「えっなに、何事!?」

 ライアーに何があったのかとマリーにも目を向けるが、マリーはにやにやとした顔で奏澄とメイズを見るばかりだった。

「ライアー大丈夫?」
「オレは今ものすごく感動している……」
「え? なんで?」
「いつの間にそんなヒゲが当たるような行為を当然のように……おめでとう……」
「え……あっ!?」

 ライアーの言葉が意味するところに、奏澄は顔を真っ赤にした。
 メイズと恋人になったことはきちんと伝えるつもりでいたが、それより先にこんな形で知られたことが何だか気恥ずかしかった。

「良かったじゃん。やっとくっついたんだ、おめでと」
「う……ありがとう」

 マリーからも祝いの言葉を貰い、奏澄は赤い顔のまま答えた。

「夜は部屋の方近づかないようにするからさ。あたしらのことは気にしなくていいよ」
「いやそこは」
「そうしてもらえると助かる」
「メイズ!!」

 わいわいと賑やかな空気に、奏澄は心が解れていくのを感じていた。
 アルメイシャに着いてから、ずっと緊張していたのだろう。レオナルドのことは気がかりではあるが、やっと仲間たちと再会し、こうして気心の知れた会話ができている。奏澄の世界が、戻ってきた。

「ああ、そうだ。まだちゃんと言ってなかったね」
「え?」

 ライアーとマリーが顔を見合わせてから、笑顔で声を揃えた。

『おかえり、カスミ』

 それを聞いて、奏澄は目がじんと熱くなった。
 間違っていなかった。ここが、帰る場所だ。奏澄の居場所だ。帰ってきていい、場所なのだ。

「ただいま!」

 再会してから一番の笑顔を、二人に返した。
 久々の再会を祝して、その晩は宴を開くこととなった。
 一人欠けてはいるものの、それをいつまでも気にして暗い顔で過ごすことは、レオナルドも望まないだろう。焦ったところで船の速度は上がらないし、いきなり黒弦を捕まえられるわけでもない。ずっと不安に囚われていては精神ももたない。奏澄が暗い顔をしていたら、乗組員たちも責任を感じてしまうだろう。自分たちが捕まったりしなければ、と。
 なるべく明るく過ごそう。目的が何であれ、あれほど望んだ仲間たちとの航海なのだから。

「アントーニオさん、こっち皮むき終わりました」
「うん、ありがとう」

 奏澄はアントーニオと、厨房で食事の用意をしていた。慣れた感覚が蘇り、嬉しくなって笑みを零す。

「どうしたの?」
「いえ、なんか楽しいなって」
「あはは、わかるよ。ぼくも店でずっと料理はしてたけど、やっぱりこの船で仲間のために作るのは、特別なことだから」

 アントーニオの穏やかな横顔に、奏澄も微笑む。この時間を、同じように特別だと感じていてくれることが嬉しかった。

「そういえば、お店は……元のお店、ですか?」
「ああ、うん。ラコットさんたちと一緒にね」
「大丈夫だったんですか?」
「一応、ね。お互い時間を置いて、頭が冷えたのかな。改めて和解、とかっていうんじゃないけど、ぎくしゃくしながらも、少しずつ……他の同僚と同じようには、ね」
「そうですか。良かった……で、いいんですよね?」
「うん。ありがとう」

 奏澄には深いところはわからないが、アントーニオが納得しているのなら、何も言うことは無い。彼なりに、心の整理がついたのだろう。

「その、ラコットさんたちが一緒だった、というのは」
「ああ、お店を手伝ってくれてたんだよ」
「え。ラコットさんたち、が?」
「うん」
「それは……なんというか……色々と、大丈夫だったんですか?」
「うちはそこまで格式ばったところじゃないから。困ったお客さんの対応とか、頼もしかったよ」

 笑いながら言っているところを見るに、大きな問題は無かったのだろう。ただアントーニオは大らかなところがあるから、他の従業員たちも同じように思っていたかは定かではないが。

「カスミの方は、変わりない?」
「あ……えっと」

 促されて、奏澄は口ごもった。伝えようとは思っていたが、いざはっきり口に出すとなると、なんだか気恥ずかしい。もごもごとしながらも、なんとか言葉にする。

「メイズと、ちゃんと、恋人になりました」

 赤い顔で俯く奏澄に、アントーニオはぱあっと顔を明るくした。

「そっかぁ、良かったね。おめでとう」
「あ、ありがとう、ございます」

 こうも純粋に祝福されると、それはそれで照れくさい。

「結婚式するなら、ぼくがケーキ作りたいな。お菓子は専門外だけど、ちゃんと練習するから」
「け、結婚、とかは、まだ」
「そうなの? まぁ、今はそうだよね。先にセントラルとのことが片づかないと」
「そう……ですね」

 奏澄が気にしたのはそこではないのだが。もしかして、この世界の基準でいくと、奏澄の年齢では既に行き遅れだったりするのだろうか。適齢期はどのくらいなのだろう、と思いつつ、それを聞くのもなんだか怖い。
 そもそも、結婚という形式的なものを、果たしてメイズが意識しているかどうか。どうでもいいと思っているなら、むしろ奏澄に合わせてほしいところだが。

「こっちの結婚式って、どんなことするんですか?」
「そんなに決まった形はないよ。教会で、神様の前で誓うだけ。別に船の上でやってもいいしね。あとは身内とかその場にいた人たちで、ごちそう囲んでお祝い」
「その場に……大雑把ですね」

 言いながら、奏澄は以前図書館で読んだ本を思い返していた。
 この世界では、『神』と呼ばれる存在は一つだけ。この世界の創造主。王家の始祖。女神マリアは、神の眷属にあたる。
 しかしそれはセントラルが定めた宗教によるもので、実際には島によって土着の信仰があったりもする。かつては宗教国家であったため、宗教弾圧などもあった。セントラル王家こそが唯一絶対の正統なる神の血筋である、と思わせなければならなかったからだ。
 ところが軍事化するにあたり、宗教での圧力は余計な軋轢を生むため、信仰の自由が許容されるようになった。だから今は昔ほど神に対する服従心は無いらしい。それよりも、単純にセントラルの武力に脅威を感じて従っている。

 奏澄はこの世界の神を信仰しているわけではない。メイズも信仰心があるようには見えないし、船の上で簡易な結婚式もいいかもしれない。
 奏澄の思う結婚式を想像して、ふと手元の指輪に目を落とす。

「指輪は、何か特別な意味があるんでしょうか」
「あれ? 知っててつけてるんじゃないの?」
「なんか、今更聞けなくて」

 レオナルドに薦められたペアリング。薦められた、ということは、こちらでも何らかの意味があるはずだ。ただ、はっきり聞くのは(はばか)られて、結局ちゃんとした意味は知らずにいる。

「共に生きる約束の証、みたいな感じかな。互いの体の一部を拘束する、っていうんでね。夫婦とか、恋人とか、すごく仲が良ければ親友同士でもつけたりするよ」
「そういう意味だったんですね」

 納得しながら、奏澄は指輪を見つめた。しかし今の言い方だと、指による差異はなさそうだ。薬指に嵌めることに気後れする必要は無かったかもしれない。

 ――いや。逆かな?

 左手に嵌めるのが憚られて右手の薬指に嵌めたのだが、どの指に嵌めても同じなのだとしたら、そもそも揃いの指輪を欲しがったことが結構な要求だったと思われる。あの時のメイズの戸惑いは、もしかしてそういうことだったのだろうか。

 ――まぁ、いっか。

 今となっては結果オーライだ。新しく買い直す必要も無いし、結婚指輪に流用できるならあの価格はむしろ安い。
 奏澄の世界で持つ意味は、いずれ結婚することになったら伝えよう、と考えながら、奏澄は調理の手を動かすのだった。
『乾杯!』

 コバルト号の上甲板にて。ジョッキのぶつかる音が響く。
 たんぽぽ海賊団の面々は、思い思いに騒いでいた。それは再会を祝してであり、解放を喜んでであり、そしてこれからの困難に立ち向かうための景気付けでもあった。

「カスミ! なんだおめぇ、ちっとも成長してないな!」
「そりゃ一年ちょっとじゃそう変わりませんよ!」

 ラコットに頭をぐしゃぐしゃとやられて、奏澄は笑いながら文句を言った。
 実際のところ、奏澄の方では一年経過していない。見た目は全く変わらないだろう。
 ラコットの方も相変わらず、デリカシーは無いながらも豪快で快活だ。舎弟たちも元気そうである。

「そうだ、メイズとやっとくっついたんだってな」
「はい。おかげさまで」
「そうかそうか、おめでとさん!」
「あ、ありがとう、ございます」
「これからはあんまし雑に扱ったら、メイズに怒られちまうな」
「そう思うなら、とりあえず放した方がいいですよ」

 ぐわんぐわんと頭が揺れるほどに撫でまわされて、奏澄は揺れる視界でメイズを見やった。遠目に顔が見えるが、あれは多分我慢している顔だ。久々の再会だから、大目に見ているのだろう。
 舎弟たちともそれぞれ言葉を交わして、奏澄は女子会メンバーの方へ向かった。

「カスミ~! 待ってたよ!」
「おかえりなさい、船長」
「エマ、ローズ!」

 女子特有の高い声ではしゃいで、二人とハグを交わす奏澄。

「ちょっとカスミ、髪ぐしゃぐしゃじゃないか」

 手櫛で軽く直したのだが、まだ乱れていたらしい。ラコットに撫でくり回された髪を、苦笑しながらマリーが整えた。

「ありがと、マリー」
「いいさ。それより、あんたからの報告を今か今かと待ってたんだよ、二人とも」

 きらきらとした目で見つめてくるエマに、穏やかに微笑みながらも心なしかそわそわしているローズ。二人ともメイズとのことは既に知っているのだろうが、改めて奏澄の口から聞くのを待っていたのだろう。
 照れくさく思いながらも、奏澄は一つ咳払いをした。

「えぇっと。メイズと、正式に、恋人になりました」
「おめでと~カスミ~!」
「おめでとう」

 言いながら奏澄に飛びつくエマに、軽く拍手を送るローズ。ありがとう、と言いながら、奏澄は顔が緩むのを止められなかった。こんなに全力で祝ってもらえるなんて。

「もうね! 聞きたいことがね! 山ほどあるからね! 飲んで飲んで!」
「いやそれはちょっと」
「今日ばかりは諦めて」
「えっ今日はローズもそっち側なの?」
「諦めな、カスミ。あたしも気になる」
「わぁ味方がいない!」

 やはり女子にとっては、恋愛話は燃料だ。きゃいきゃいと姦しい様子に、男性陣は苦笑しながらやや距離を取って眺めていた。

 騒ぎが一段落したタイミングで、ライアーが割って入った。

「もーここはね、すぐカスミのこと占領するから! オレらにもちょっとは話させて!」
「えぇ~、まだ足りない!」
「エマ、またいつでも話せるだろ。船長が寝落ちする前に、俺らにも時間くれ」
「ポール、私そんなすぐ寝落ちないから!」

 ドロール商会のメンバーとも、改めてそれぞれ挨拶を交わす。少しだけ逞しくなったように見える男性陣は、商会に戻ってからも訓練を続けていたのだろう。

 お酒が入り、次第に声量も上がっていく騒ぎをにこやかに眺める老人の元へ、奏澄は歩み寄った。

「ハリソン先生。大丈夫ですか? 疲れてませんか?」
「ええ、大丈夫です。こうして賑やかな宴を見ていると、白虎を思い出します」
「白虎も、やっぱり宴は騒がしいんですか?」
「それはもう。無礼講ですからね」
「そうなんですね」

 目を細めるハリソンに、奏澄は胸が痛んだ。ハリソンには、負担をかけている。
 そんな奏澄の様子に気づいたのか、ハリソンが穏やかな声で願い出た。

「カスミさん。良ければ、歌っていただけませんか?」
「え?」
「私は、まだあなたの歌をちゃんと聴いたことがないので」

 奏澄は目を瞬かせた。そういえば、ハリソンが加入した時には既に緊迫した状況だったので、のんびり歌を聴かせるようなことは無かったかもしれない。
 はぐれものの島でも、メイズを探したあの一度きりしか歌っていないし、島を出てからは雇った水夫たちと一緒だったので、やはり口ずさむ程度にしか歌っていない。

「上手くはない、らしいですよ?」
「構いませんよ」

 わざと冗談めかして言う奏澄に、ハリソンも笑って答えた。

「では、喜んで」

 前に進み出て、息を吸う。
 今の私たちには、そう。勇気の歌を。

 奏澄の歌声が響き出すと、皆が会話を止めて、奏澄の歌に耳を傾けた。
 それに多少の気恥ずかしさを感じつつも、奏澄は歌った。仲間たちが、好きだと言ってくれた声で。

 この航海の成功を――悪魔の討伐を、願って。



*~*~*



 歌って、騒いで、笑って、飲んで。
 どれだけの時間そうしていたか。奏澄がうつらうつらとし始めたタイミングで、メイズが回収した。

「ここまでだ」
「ちょっと、まだ、だいじょうぶ」
「わかったわかった」

 問答無用で抱え上げて、部屋へと連れていく。後ろから冷やかすような声が聞こえた気がするが、祝福の一種だと思って無視した。

「メイズ、下ろして」

 部屋に入る前に、奏澄はメイズの肩を叩いてそう主張した。
 それを聞いたメイズが、大人しく奏澄を下ろして、立たせる。

「あのね、しばらく別々に寝よっか」

 奏澄からの提案に、メイズは目を丸くした。

「今更、同じ部屋で寝るくらい、あいつらは気にしないだろ」
「うーんと、そういうことじゃなくて」

 これは別に酒に酔って、勢いで言っているわけじゃない。仲間と合流するとなってから考えていたことだった。

「船でのルール、決めたでしょ。あれがね、その、守りにくいようだったら。物理的に距離取った方が、いいかなって」

 元々一緒に寝ていたし、問題は無いと思っていた。けれど、もし。一緒に寝ていることで、我慢がきかなくなることがあるのなら。わざわざ『待て』をさせるのも、どうかと思ったのだ。
 奏澄にはわからない感覚だし、過去の恋人ともそんなことはなかった。けれど、今向き合っているのはメイズなのだ。彼に合わせたやり方で付き合っていきたい。
 そもそもメイズと共に寝るようになったのは、奏澄の寂しさが原因だ。彼にばかり無理をさせるわけにはいかない。だったら、奏澄の方も一人寝くらい我慢できる。

「お前は、それで、いいのか」
「うん。大丈夫。もう寂しくないし」

 メイズを安心させるように微笑んでみせる。大丈夫だ。メイズは隣にいるのだし、仲間たちも一緒だ。

「あ、でも」

 つい、と奏澄はメイズのシャツの裾を引いた。

「これ、貸して欲しい」
「これ……?」
「今着てるやつ。メイズの匂いがないと、眠れないから」

 ずっと傍にいすぎて、すっかりあることに慣れてしまった。本人はいなくても、匂いがあれば安心できる。

「ダメ? しばらくしたら、ちゃんと洗って返すから」

 まさか替えがないわけでもないし、一枚くらい貸してくれないだろうか。
 そう思って尋ねると、メイズが片手で顔を押さえていた。

「それどういう感情? 呆れてるの? 怒ってるの?」
「どっちでもない」
「なに……ダメならダメって言ってよ……」

 急に不安になる。引かれたのだろうか。別に変なことに使うつもりはないのだけれど、気持ち悪かっただろうか。
 気まずい思いで次の言葉を待っていると、メイズが深く長い溜息を吐いた。

「服なんかじゃなくて、本人がいるんだから、隣で寝ればいいだろ」
「だって……」
「何もしない」
「……一応、言っておくけど、二度目はないからね?」
「…………大丈夫だ」

 だからその間が不安なのだが。
 言った手前、本当に二度目を許す気は無い。今は仲間たちが共に乗船している。
 けれどそれ以上に。

「メイズは、それでしんどくない?」

 気づかうように見上げる奏澄に、メイズはくしゃりと頭を撫でた。

「問題無い」

 強がりにも聞こえるが、本人が大丈夫だと言っているのにこれ以上食い下がるのも、プライドを傷つける気がした。

「うん。じゃぁ……お言葉に甘えて」

 結局、今まで通り変わらずに、二人は一緒に寝ることにしたのだった。
 赤の海域で物資を補給する間、停泊した島にて。

「行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」

 船を降りるメイズを見送って、彼の姿が見えなくなったところで、奏澄は笑顔を崩した。

「カスミ、あれいいのぉ?」
「エマ」

 後ろから奏澄の背中にのしかかるようにくっついたエマに、奏澄は苦笑した。

「いいも何も、前からあったことだし」
「そうだけどさぁ。今は、違うじゃん?」
「酒場に行っただけだもん。息抜きは必要でしょ」
「んー、まぁ、カスミがそう言うなら、あたしが口出すことじゃないけど」

 不満そうなエマに、奏澄も目を伏せた。エマが背中側にいて良かった。落ち込んだ顔を、見せたくない。
 エマと別れて、奏澄は自室へ戻り、ベッドへダイブした。

 時刻は夜。奏澄は今晩、船番のため島の宿には泊まらず、コバルト号で留守番だ。
 夜間の見張り台での不寝番は、男性陣が持ち回りで行っている。しかし、島に停泊している間の船番については、女性陣も当番に入っている。勿論、当番には男性も含まれ、女性だけが船に残ることは無い。
 奏澄はだいたいメイズとセットで動いている。けれど、奏澄が船番をする時は、メイズは一人で島に降りることが多かった。船にいる間は、仲間に奏澄を任せておけるからだ。
 一人で降りる理由は、奏澄を連れては行けない、海賊が出入りするような酒場で情報収集を行うから、と聞かされていた。それも嘘ではないと思う。
 ただ、奏澄は知っている。戻ったメイズから香ったそれに、ぴんときた。奏澄とて、そこまで鈍くはない。

 女性と、寝ているのだ。

 以前の航海では、奏澄とメイズは恋人関係に無かった。その状態で、相手の女性関係を縛れるはずがない。
 目の前で知らない女性と仲良くされていればヤキモチもあろうが、知らないところで女性と関係を持つ分には、文句の言いようもない。
 性欲を発散するのは、必要なことだ。メイズ以外の男性陣は、隠すこともなく娼婦を買っている。長く人と触れ合えない船乗りにとって、島にいる間の娼婦とのひと時は憩いの時間なのだ。こちらではごく当たり前のことで、誰に咎められるようなことでもない。
 奏澄自身が夜の相手をできるわけでもないのだからと、そのことは黙認していた。以前の航海では。
 しかし今は、奏澄はメイズと恋人関係にある。特定の相手がいるのに、別の女性と寝るのは、不貞行為ではないのだろうか。ちなみに一夫多妻の地域はごく僅か存在するらしいが、メイズが該当しないのは確認済みである。
 いやでも、奏澄では満足できないというのなら。風俗は浮気ではなく自慰に近いという人もいる。心が伴わないのなら、肉体の満足を求めて別の女性を利用するのは、仕方のないこと――なのだろうか。

「あーーーー」

 ベッドの上に座り直し、無意味に声をあげながら後頭部を軽く壁に打ち付けた。
 考えたところで、奏澄にはわからない。そもそも、メイズが今回も女性と寝てくるかどうかはわからない。
 仲間と合流するまでは、臨時の水夫と非戦闘員のハリソンしかいなかったから、メイズは決して奏澄と離れなかった。恋人になってから、メイズが一人で島に降りるのは今回が初めてだ。もしかしたら、酒場で酒だけ飲んで、船に戻ってくるかもしれない。
 かもしれない、けれども。

「――――……」

 ためらうような素振りで、奏澄は足の間に手を伸ばした。そうっとそこを撫でて、顔を顰めて、大きく溜息を吐きながら手を離した。

 ――そこまでする必要、ある?

 男女平等がうたわれるようになり、性に関するタブー視も薄れてきた現代。ネットの情報にも、雑誌でも、女性のリアルな声というのは見られるようになった。フィクションを鵜呑みにするような人は、まだまだいるだろうが、それでも現実を知る人も増えた。
 これは男性への注意だけでなく、女性への安心材料ともなっただろう。セックスの最中に演技をする女性の割合は、ほとんどのアンケートで半数以上、中には八割を超えるものもある。それを見た時、奏澄はほっとした。相手への気づかいで嘘をついてしまうのは、自分だけではないのだと。そもそも日本人女性はセックスで満足に快楽を得ていない割合の方が多い。

 もしセックスを楽しめるような体になりたいのなら、トレーニングをする必要がある。しかしそれは、必須事項ではない。
 お互いが、セックスを充分に楽しみたいと思っているのなら。片方だけに要求をするのは不条理だと思う。男性側の技術やムード作りだけでなく、女性側も努力をすべきだ。二人で行うことなのだから。双方が、快楽を求めているのなら。
 けれど、『しなくていい』と思っている側が、何故自分の内臓をいじってまでトレーニングしなくてはならないのか。

 誰かを全く興味のなさそうな趣味に誘う時、好きになってもらえるようにプレゼンすることはあっても、相手に『興味を持つ努力をしろ』などと普通は言わない。
 奏澄は快楽が欲しいとは思っていない。今のメイズのやり方に不満も無い。彼が良ければそれでいい。何なら奉仕に徹しても構わない。ただメイズはどうも、奏澄の反応がほしいようなので厄介だ。
 ルールさえ守ってくれるなら、行為それ自体に不満は一切もらしていないのに、メイズはそれでは不満なのだろうか。
 それは乗り気で付き合ってくれる女性の方が楽しいだろうが、そこまで要求されるのは荷が重い。だって本音を言えば別にしなくてもいいのだから。
 欲求の程度に差がある以上、どちらかが『付き合う』形になるのは仕方のないことだ。でもそれは義務感ではなく、『相手に喜んでほしい』という愛情が根底にあるのだから、悪いことだとは思わない。最中に演技をする理由と同じだ。楽しいと思ってほしい。楽しんでいると思ってほしい。相手に満足してほしい。
 それでは、駄目なのだろうか。想い合っていることに、変わりはないのに。

 じわりと浮かんだ涙を枕に押しつけて、奏澄はふて寝した。
 果たしてメイズは戻ってきた。翌朝に。香水の香りをまとって。
 奏澄はそれに怒るべきか、不満げにするべきか、傷ついてみせるべきか迷って、結局。

「おはよ、メイズ」
「ああ」

 素知らぬふりをした。いっそもう面倒だった。
 女性といたということは、つまり奏澄だけでは満足できないということだ。そこを問い詰めたところで、結局奏澄では解消できないのだし、やめろと言えばやめるかもしれないが、無理を強いることになる。言うだけ自分が傷つく気がした。
 知らないところで、知らない内に、勝手にやっているなら別にいい。そうでも思わないと、やってられない。

 結局その日は何でもない風を装って、一日船の仕事をして、夜になると船番の当番と交代した。
 交代した、ということは、今夜は奏澄が島の宿に泊まれる。そして、宿に泊まる時は一人では許可が下りない。必然メイズと泊まることになる。

 ――今日は船に泊まるって言おうかなぁ……。

 昨晩別の女性を抱いたとわかっている相手と泊まるのは、なんとなく不愉快だ。しかも、ずっと船ではお預けだったのだから、宿に泊まるのならできると思っているだろう。
 けれど、ここで船に残るというと、あからさまに避けて見える。それもよろしくない、と奏澄はメイズと共に島へ降りた。

 宿をとって、体を清め、同じベッドに入って。
 今日はめちゃくちゃ眠いことにして寝たら駄目かな、と奏澄がぼんやり考えていると。

「カスミ。頼みがあるんだが」
「……なに?」

 メイズがやけに真剣な顔で奏澄と向き合った。その表情に嫌な予感がして、奏澄は尻込みした。

「今日は、俺の好きにさせてくれないか」

 奏澄は目を瞬いた。何を言い出すかと思えば。

「今日はも何も、いつも結構好きにしてない?」
「いや、まぁそうなんだが」

 普段から自分本位である自覚はあったらしい。言いにくそうに目を逸らした後、頭をかいて、再び向き直った。

「今日は、ちょっと、違ったやり方を試したい。だから途中で嫌だとか無理だとか言わずに、とりあえず最後まで付き合ってくれないか」
「え……なにそれ怖……。嫌だとか無理だとか言いそうなことするの……?」

 元々、奏澄はその類の言葉を行為の最中に言わないように気をつけている。
 聞いたところによると、『いや』とか『やめて』といった抵抗する姿に興奮を覚えるのは、日本人男性くらいなのだそうだ。支配欲を満たしたり、恥じらう様を美徳としている。
 性的同意の意識が根付いている国では、それは当然拒絶の言葉であるから、例えふりでも言われると傷つくらしい。
 セックスへの積極性から、おそらく日本よりは欧米の感覚に近いと踏んでいた奏澄は、恥じらいから形ばかりの拒絶を口にしないように注意していた。メイズにとって、奏澄の拒絶は堪えるだろうと思ったからだ。
 しかし奏澄の本質は生粋の日本人であるので、脊髄反射でうっかりその言葉が出ることが絶対に無いわけではないし、自身の感情ではなく様々な外的要因を考慮した上での拒絶はある。それを指しているのだろう、とは思うものの、やはり体を引いてしまう。

「本気で嫌がることはしない。ただ、前に約束しただろう。同意を得られないことはしないと。だから、お前も約束してくれないか。本当に、本気で嫌だと思わない限り、それを口にしないって」

 覚えていた。いや、メイズはいつもそうだ。奏澄が口にしたことを、忘れない。
 価値観は違っても、決してそれを無下にしない。奏澄の考えを、大事にしてくれる。そのことに、先ほどまで抱いていた不愉快さはすっかり消えていた。

「駄目か?」

 駄目押しの一言に、奏澄はぐぅと声をあげそうになった。これはずるい。甘えた声を出すな。捨てられた犬のような目をしおってからに。絶対に奏澄がこの目に弱いとわかってやっている。甘え方まで学習しているとは。滅多にやらないだけに破壊力がすごい。三十も半ばを過ぎた男が可愛いとは何事か。ずるい。

 奏澄は喉の奥で唸った。力押しで頷かせようとするようなら怒れたが、メイズは奏澄との約束を守って、同意が得られるまでじっと待っている。
 メイズがこれほど心を尽くしてくれているのに、奏澄の方が意地を張るわけにはいかないだろう。

「わかった。いいよ、好きにして」

 一つ息を吐いて了承した奏澄に、メイズは嬉しそうに笑った。



*~*~*



 どれだけ時間が経ったか。奏澄は、安易に許可を出した過去の自分を呪った。

「――……ッ」

 大きく体を跳ねさせた奏澄に、メイズが唇を吊り上げた。それを涙目で睨みつけるも、両手で口を塞いでいるので文句も言えない。代わりに心中で大声で叫ぶ。

 ――た、楽しそうにしやがってぇ~!

 恥ずかしいやら怒りやら混乱やらで頭はパニックなのだが、対するメイズはまるで子どもが新しいオモチャで遊ぶような無邪気さで、怒るに怒れない。惚れた弱味とはこういうことか。可愛い顔しやがって。
 奏澄の想像だが、多分メイズは遊んでいるわけではない。嗜虐趣味というわけでもないだろう。単純に、メイズの手によって奏澄が悦んでいるのが嬉しいのだ。

 そうだった。メイズは元々、尽くすタイプだった。
 奏澄の口にした言葉や、何気ない仕草を逐一覚えていて。言われなくても、望むことを考えて。
 そういう男が、奏澄がセックスを楽しめていない、と思ったのなら。その対策が、セックスを控えることになるはずがない。
 つまり、楽しめるようにと技術を磨いてきたのだ。

 過去の相手は、性欲処理の相手でしかなかっただろう。だから相手を悦ばせる必要など無かったし、自分本位で良かった。
 けれど、相手のためを思ったのなら。どうすれば良いのか、と考え。その結果が、これなのだ。おそらく、昨晩の相手は娼婦で、彼女から教わったのだろう。いきなりこれほどやり方が変わるなど、一人で考えつくことではない。
 他の女から教わったことを試すな、という気持ちはあるが、そんなことをまともに思考できるほど奏澄の頭は正常に回っていなかった。

 もう、どうにでもなれ。
「――……」

 朝の光が眩しい。
 結局昨夜は途中で疲れ果ててしまい、何かを聞かれていた気もするが適当に返事をしながら寝落ちてしまった。
 体に不快感は無い。おそらく、終わった後の処理はメイズがしてくれたのだろう。

「起きたか。体は大丈夫か?」

 しれっと声をかけてくるメイズに、奏澄は無言でばしばしと体を叩いた。

「なんだ」
「こっちの台詞。なにあれ」
「良かっただろ?」

 悪びれもせず聞いてくるメイズに、奏澄は口を噤んだ後、絞り出すように小さな声で答えた。

「よ、かった、けど」

 耳まで真っ赤にした奏澄に、メイズは満足そうに笑って髪を梳いた。
 言いたいことは無いではないが、ここで意地を張ってもメイズの努力を無駄にする。
 知らなかった。自分の体は快楽を拾いづらいのだとばかり思っていたが、相手の技術が高ければ達することもできるのか。
 しかしやられっぱなしなのは悔しい。いつかやり返してやりたい。
 問題なのは、奏澄は男娼に教わるわけにもいかない、というところか。女が娼館に行っても娼婦に相手をしてもらえるだろうか。技を教えてほしい。

「ほら」
「ありがと」

 水を渡されて、奏澄は体を起こしてカップに口をつけた。
 全身がだるい。毎回これでは身がもたない。

「メイズ。セーフティワード決めよっか」

 せっかくの甘い空気を壊す響きの単語に、メイズが露骨に嫌な顔をした。

「なんだそれは」
「本気で無理な時に言う言葉を決めておくの。今回は、本当に、ぎりぎり言わないように気をつけたけど。無理とかって言葉咄嗟に出がちだし、相手も本気に取らないことがあるから。なるべくセックスの時に出ないような単語で、それを言ったら絶対止めるってルール作っておくの」
「却下」
「なんで!?」

 予想外の反応に奏澄は驚いた。嫌な顔をしつつも、こういうルールは呑んでくれると思っていた。

「説明から察するに、それは命や身体の危機に関わるような特殊なやり方をする時に用いるものなんじゃないか」

 奏澄は目を逸らした。当たりだ。例えば緊縛を行う場合は、縛り方によっては神経麻痺の危険性があるし、首絞めなどはフリに留めないと脳に後遺症が残る危険がある。そういう危険行為を、やっている側がエスカレートして力加減を誤ってしまわないよう、やられている側が自分の体の具合に合わせて申告するものだ。
 けれど別に普通のセックスにだって用いないことはない。片方が夢中になって我を忘れるようなら、止めるための手段は必要だ。

「途中で止める手段は必要だと思うんだけど」
「本当に無理かどうかは見てればわかる。お前の場合は、そういうものを用意するとぎりぎりよりだいぶ手前で使うから嫌だ」
「そっ……んなことはない……よ?」

 いやあるな、と奏澄は自分のことながら思った。
 提案するのに、わざわざ『ぎりぎり』と強調したのは、今回だけ特例ということにしたかったからだ。嫌だとは思わなかったが、もう無理だと思う場面は何度かあった。今回耐えられたのだから次回も耐えられるだろうが、なるべく手前で止めたいと思った気持ちがうっかり出てしまっている。
 奏澄の元来の特性として、安全な道を選びがちだから、多分ギブアップ札が手元にあると、無理と判断したら即上げてしまう。
 マラソンであと一周だけ、と言われた時。その一周に単位がかかっていれば、ぎりぎりまで頑張れるだろう。しかし、特にデメリットがなければ、しんどいから脱落を選ぶ。現代っ子だから根性論には慣れていない。達成感とか別にいい。限界のその先とか無いし、限界は限界だ。誰に迷惑をかけるわけでもないのなら、そのあたりのジャッジは割と甘い。

「加減はできる。今だって、声も出てるし、体も自力で起こせてるだろう」
「それは当たり前のラインだと思うよ」
「それに俺がお前の様子に気を配れないところまでいってたら、多分そのセーフティワードとやらを言ったところで聞こえない」
「こっわ! ちょっと、唐突に恐怖発言しないで!」
「無いと思うが、万が一そうなったら刺してでも止めろ」
「無茶苦茶言う……」
「剣の方使うなよ。ナイフ使え」
「ねぇ現実味が増すアドバイスやめて」

 剣のくだりはもしかして冗談だろうか。本気で言っているようにしか見えないメイズに、奏澄は体を震わせた。そんなことがこの先起こらないことを祈るのみだ。

「なんていうか、さ。メイズは……そんな、したい?」

 ここに切り込むのは避けてきたが、こんな物騒な話題を出されたら聞いておきたい。メイズにとって、体の関係はそこまで重要なことなのだろうか。
 聞かれたメイズは、言いにくそうに口を動かした。答えはあるが、言い淀んでいる様子だった。ややあって、観念したように吐き出した。

「俺だけが、お前の特別だと思えるから」

 どういうことか、と奏澄が首を傾げる。

「お前は、内側の人間に対する許容範囲が広いだろう。色々なことを、許すから。俺だけが、許されている行為が、これしかない」

 メイズからこぼされた本音に、奏澄はあんぐりと口を開けた。まさかそんなことを考えていたとは。

「他にもいっぱいあるでしょ! 一緒に寝てるのだってメイズだけだし、キスだってメイズとしかしないでしょ!」
「そのくらいなら恋人じゃなくてもするだろ」
「しないけど!?」

 どうも謎の劣等感を抱えていたらしい。特別感が欲しかったとは。
 元々メイズは特別だ。しかし、それが逆に彼の疑心を呼んだのかもしれない。
 恋人になる前から、メイズは特別だった。つまり、恋人関係になる前に彼に許してきたことを、メイズは自分でなくても許容される行いだと思っている。
 それは間違いではない。間違いではないのだが、そうではなく。なんとももどかしい。

「いいだろ別に。今後も無理強いはしない。ちゃんと同意は取る」
「ああうん、それはありがたいけど」
「要はお前がしたくなれば同意は取れる」
「うん……?」
「その気にさせるのはいいんだろ?」

 にぃ、と笑ったメイズに、奏澄は背筋が寒くなった。

私の海賊さん。~異世界で海賊を拾ったら私のものになりました~

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