「なるほど。君の性質は、無垢に近い。穢れがなければ天使にもなれただろうに……惜しいな」
マリアは眉を寄せた。突然、なんだと言うのか。一方的に話すだけで、会話をする気が見えない。
聞きたいことは山ほどあるのに、口が開けない。喉が張りついて、声が出ない。
男の姿をした何かが、虚空に手を翳す。光が寄り集まって、真白な剣の形となる。宙に浮くそれを、マリアは緊張しながら見つめた。
「取りなさい」
体が勝手に言葉に従うように動き、マリアはその剣の下に両手を差し出した。
ふっと光が消えて、重力に従って剣がマリアの手に収まる。
全長五〇センチほどのそれは、確かな重みがありながらも、女性でも扱えるようなサイズだった。
一点の染みも無い純白に、繊細すぎる金の装飾は、儀式用の剣を彷彿させる。
何故こんなものを。
うろたえていると、マリアはじわりと手が熱を帯びていくのを感じた。
何かが、この剣から流れ込んできている。
まずいと思うのに、手が放せない。自分の体が得体の知れないものに浸食されていく恐怖に、マリアは怯えた。抗いたいのに、指の一本も動かすことができない。
嫌だ。怖い。助けて。誰か。
――フランツ!
「これは神器だ。君は人を捨てて、神の眷属となる」
その言葉は、もうマリアには届いていなかった。正確には、マリアの心には。
「悪魔を殺しなさい、マリア」
鞘から引き抜かれた白刃に、金色の目が映った。
*~*~*
浜辺に現れたフランツは、人の気配に視線を向けた。この島に人間は一人しかいない。また浜辺にいたのか。
「マリア」
慣れたように声をかける。こちらに背を向けた彼女は、きっといつものようにぱっと顔を輝かせて、犬のように走ってくることだろう。
しかし、その日はいつもと違った。
振り返った彼女は、いつもの無邪気な笑顔とは違う、妖艶な笑みを湛えていた。
違和感にフランツが顔を顰めると、彼女が駆け寄ってきて、フランツの胸元に飛び込む。気のせいか、と思っていると、すいと顔を上げた彼女の唇がフランツの唇を奪う。
至近距離で目が合って、気づいた。マリアの瞳が、金色に輝いていることに。
「――――!」
咄嗟に突き飛ばそうと肩を掴む。しかしその手に力は篭らず、フランツの体は崩れ落ちた。
「て、めェ……!」
フランツの胸には、煌めく白刃が深々と突き刺さっていた。
膝をつくフランツを、冷たい金色が見下ろす。
「神に、下ったのか……」
金の瞳は神の眷属の証だ。突き刺さる剣は神器。人間の剣ごときではフランツは殺せないが、神の剣はフランツの核を破壊する。マリアの気配に隠されて、気づくのが遅れた。
何故。いつから。最初から? いや、出会った時から通じていたのなら、今まで生かしておいたことに筋が通らない。どこかしらのタイミングで、寝返ったのだろう。
「裏切ったのか、マリア……!」
憎悪に燃える赤で、フランツがマリアを睨み上げる。マリアは一言も発さない。言い訳の一つも無いのか。
裏切った。そう思った自分に、フランツは乾いた笑いを零した。
裏切り、などと。それでは、まるで今までは信頼関係があったかのようだ。
所詮は人間。悪魔など、愛するはずがなかった。奴らの大半は神に従って、口を開けて与えられる幸福を待っているだけの生物だ。
信じた自分が、愚かだった。あの笑顔を。眩しく思ったことが、間違いだったのだ。
砂浜に、フランツの血が染みていく。濡れた赤い砂の上に、フランツの体が倒れ込んだ。意識が保てずに、視界が閉じていく。
もう二度と。人間など。誰かを、愛そうなどと。
――マ リ ア。
フランツの唇が、マリアの名前をかたどった。マリアの瞳から、一筋の水が流れ出す。
それを見ることなく、フランツの体は生命活動を止めた。
「終わったか」
海の上に、突如として六角形の窓が出現した。
その枠の内側から、神と天使たちが次々と姿を現す。
神が一度島へ道を繋いだことで、天使たちも道を通れるようになっていた。後片付けに来たのだ。
「まだ肉体が形を残しているとは」
フランツの死体に目を向け、手を翳そうとした神に対し、マリアが金切声を上げた。
「触らないで!」
役目を終えたことで呪縛の解けたマリアは、フランツに駆け寄った。
「フランツ、フランツ!」
動かないその体を揺するも、応答は無い。目の前の事態が信じられず、マリアは悲鳴を上げた。
「いやああああああ!!」
半狂乱になって叫ぶマリアに、神も天使も無感情な目を向ける。
「あなたは役目を遂げました」
「あなたは神の眷属です」
「我らの国へ迎え入れましょう」
天使たちが口々に告げる。これはマリアを憐れんでのことではない。ただの事務的な連絡に過ぎなかった。
マリアは神の眷属となった。神の力を持つ者を、人の世に置いてはおけない。神の手元に置いておかなくては。
「寄らないで!!」
フランツから引き離そうとする天使たちを振り切って、マリアはフランツの体から剣を引き抜いた。
抵抗するかと身構える天使たちに目もくれず、マリアは剣を自分の胸に深く突き立てる。
マリアの血が体から流れ出し、フランツのものと混ざって、砂に染みていく。
色を失っていく体で、フランツの体を抱きしめるように覆いかぶさった。
「ごめん……ごめん、ね。せめて、フランツと、同じ場所に……」
――フランツと一緒なら。地獄の底だって、怖くない。
「もし、生まれ、変わった……ら。今度こそ、愛……して、るって」
――愛してるって、言って。愛してるって、言うから。普通の、恋人みたいに。
――幸せにしてとは、言わないの。だって、できないって言うでしょう。だから、わたしが。
事切れたマリアを見下ろして、天使が口を開く。
「これはどのように処理しますか」
「共に在りたいというのなら、共に葬ってやろう」
神は浄化の炎を灯した。二人の肉体が瞬時に炎に包まれる。肉は燃えて灰になり、骨すら残らない。そのまま、何もかもが焼き尽くされるかに思われたが。
「…………」
神が、ごく僅かに眉を動かした。それは神が初めて見せた、感情らしいものだった。
「いかがなさいましたか」
「……驚いたな。これは、異界の者の力なのか」
浄化の炎は全てを焼き尽くす。肉も、骨も、魂すらも。
しかしどうしたことか。二人の肉体は燃え尽きても、その魂が壊せない。
マリアの力が、フランツを守っている。
ただの人間であるマリアに、元々そんな力は無い。しかし、神の眷属となったことで、マリアは神の力を取り込んだ。
本来、普通の人間を眷属にした場合、神の意志に反するような使い方はできない。神の力に抗うほどの強さも無い。
これは、マリアという特異な存在が起こした、奇跡とも言える現象だった。
「……悪魔の魂は、果ての地に封じる」
「眷属の方は」
「この島に放っておけ。元はただの人間だ。長くはもつまい」
悪魔を殺せるのは神だけ。ここで完全に消滅させるつもりだったが、それが叶わぬのなら仕方ない。力の核は破壊している。復活したところで、今までと同じように力を振るうことはできないだろう。ここまで弱っていれば、復活まで数百年はかかる。暫くの間は、神の領域を脅かすものは何も無い。その間に、世界の形をなるべく固定させておかなければ。
そこまで考えて、神は砂浜に光る物を見た。悪魔の魔力を感じる。魔具の類か、とそれを拾い上げる。
「……これは」
神が手にしたものは、フランツの用意したコンパスだった。じっと見ていると、それは二人の血が染みた場所に反応しているようだ。
壊すのは容易い。だが。
「これは後の世に任せよう」
「良いのですか」
「元より、この島は私の管轄外だ。悪魔が迷い込んだのも偶然に過ぎぬ。他の管轄に影響を与える可能性のあるものに、うかつに手は出せない。これより後は、人間が決めること」
神はコンパスを天使に手渡すと、厳重に管理するように伝えた。
そして、人の世が安定し、神たちが姿を消した後。道が完全に閉ざされてしまわぬように、自分たちの領域に入口を一つ、固定した。
悪魔の魂は世界の果ての地、後に黒の海域と呼ばれる区域に封印された。
マリアの魂は、次元の狭間にある島――はぐれものの島に置き去りにされた。
かくして、神と悪魔の対立は、神の勝利として終結した。悪魔の存在は、まるで完全に消失したかのように語られた。
悪魔の恐怖から解放された人類に、神は心の拠り所を示した。
信仰だ。世界を統治するには、統一された思想が要る。
人々が信じやすく、都合の良い物語が要る。それでいて、真実を含むものを。
人の罪悪感を刺激する物語が良い。英雄となる象徴がいるのが良い。
そうして作られたのが、セントラルに伝わる創世神話である。
以降数百年の間、平穏は保たれた。
人々は神を信仰し、神の住まう国は世界の頂点に君臨し続ける。
悪魔が復活する、その日までは。
たすけて。
あのひとを、たすけて。
だれか。
「カスミ。カスミ」
自分を呼ぶ声に、奏澄はゆっくりと瞼を開けた。目元が濡れて冷たい。それを温かい指が拭った。
「どうした。怖い夢でも見たか?」
夢。長い夢を、見ていた気がする。とても悲しい夢を。
最後に聞いた女性の声が、耳から離れない。
たすけて。
夢の中では何もできないのに。何をしてほしかったのだろう。何を望んでいたのだろう。自分に、何かができたのだろうか。
寂しい。悲しい。どうしようもない辛さで胸が埋め尽くされていた。
ぼんやりとしたまま、頬を撫でる手の主に視線を向ける。メイズが、心配そうな顔で奏澄を見ていた。
愛しい人がそこにいる。甘えるようにすり寄って、キスを求める仕草をした。相手はためらいもなく、それに応じてくれる。
ほっとする体温に、胸に詰まった氷が溶けていく。安心して、体の力が抜けた。そのまま身を委ねていれば、優しい手が触れてくれる。
「ん……」
キスが深くなって、服の裾から手が入ってくる。指が背中を撫でて、そこでやっと奏澄の意識が覚醒した。
「待った!」
自分で思ったよりも大きな声が出て、奏澄は一瞬息を呑んだ。今の時刻はわからないが、寝ていたのだから夜だろう。騒ぐわけにはいかない。
「なんだ」
見るからに不満です、と書かれた顔だが、一応聞く気はあるらしい。
「ごめん、間違えた」
「あ?」
言った瞬間、濁点がついていそうな低い声で返された。しまった、これは言葉を間違えた。
「いや、ちが、ごめん。間違えたって、誰かとってことじゃなくて、行動の選択を間違えたなって」
「俺は構わない」
「いやいやいや」
言いながら行為を続行しようとするメイズを、手で押して抵抗する。
「しない、しないから」
「そっちから誘ってきたんだろう」
「だからごめんって。そういうつもりは無かったの。最初に決めたでしょ、船ではしないって」
はぐれものの島にて想いを通わせ、無事恋人となった奏澄とメイズ。
二人は島に残っていた船医のハリソンと共に、たんぽぽ海賊団の船、コバルト号で再び航海に出ていた。
今は最初の仲間、マリーたちドロール商会のメンバーと、航海士ライアーに会うため、アルメイシャ島を目指している。
窓を潜って赤の海域に出たコバルト号だったが、アルメイシャまでは距離のある場所だった。そのため、最も近い島で水夫を雇い、今は彼らが一時乗組員として同乗している。
恋人として航海に出るにあたり、奏澄はメイズと一つルールを決めた。それは『船でセックスはしない』ということだ。
船の上では共同生活だ。期限付きだった最初の航海とは違って、今後はほとんどの時間を船の上で過ごすことになる。こうなってくると、公私を明確に線引きするのは難しい。船長だから、副船長だからと言って、プライベートを排除してしまうと、二人で過ごす時間が限られてしまうからだ。
商船ならそれも仕方ないかもしれないが、ここは海賊船だ。仕事というわけでもない。しかし、越えてはならない一線はある。そこで決めたのが、船上でのセックス禁止。木造船でそれほど防音性があるわけでもないし、もし誰かが気づいてしまったら、気まずいことこの上ないだろう。ただでさえ、二人が恋人だというだけで気をつかわせるのだ。
だから奏澄としては、これは最低限の条件のつもりだった。恋人としての振る舞いを制限するわけではないのだから、むしろ言わなくてもわかるだろうくらいに思っていた。しかし、メイズにルールを告げた時、その考えが間違っていると思い知った。
「ちょっと、メイズ!」
抗う手を片手でまとめられて、奏澄が抗議の声を上げる。しかしメイズは止まる気配を見せない。
「今回はお前が悪い」
「だから、謝った、でしょ」
「謝って済まない場合もある。良かったな、一つ学べて」
どの口が! と言い返す前に、口を塞がれる。反論の術を封じられて、奏澄は唸った。
この人、なし崩し的に持ち込もうとしてる……!
結局それ以上の文句も言えずに、事はなし崩し的に進んだ。
*~*~*
「………………」
「……謝っただろ」
「その言葉、そっくりそのまま、お返しします」
ベッドの上。怒気を全く隠そうともしない奏澄に、さすがにこれはまずいと悟ったらしい。気づくのが遅い。照れ隠しだとでも思ったのか。やめろと言ったら、やめろ以上の意味は無い。
メイズは不満そうに後ろ頭をがりがりとかいた。
「恋人なんだから、別にいいだろ。なんでそんなに怒られなきゃならない」
「あのねぇ! ふ――」
普通は。言いかけて、奏澄は口を噤んだ。
二人のことを話すのに、『普通』という言葉は使いたくない。奏澄はこの世界の人間ではない。ここの価値基準に合わせて普通だとは思えないし、メイズも普通の生活は送ってきていない。普通は関係無い。二人のことだ、二人で話し合って決めたい。
「……恋人っていうのは、好きな時に好きにできる存在じゃないでしょう。するのが嫌なんじゃなくて、私の意志を尊重してほしいって言ってるの。ちゃんと同意取って」
「する前にいちいち聞けってか」
「そう」
答えると、メイズは心底嫌そうな顔をした。ムードを重視するタイプではないから、単に面倒なのだろう。
「意志を尊重しろって言うなら、俺の意志だって尊重されるべきだろう」
「え?」
「お前のしたくないって意志が尊重されるなら、俺のしたいって意志も尊重されていいんじゃないか」
「それは……」
そう、か?
奏澄は一瞬言葉に詰まった。しかしすぐにはっとする。
「いや、したい側としたくない側でつり合いが取れてないでしょ。負担のかかる行為なんだから」
奏澄の返答にメイズは舌打ちした。さてはわかってて言ったな。危うく言い包められるところだった。
したくない行為を無理にするのは削られる行為だ。有限の物を所持していて、欲しい意志とあげたくない意志は同等ではない。そもそも所持している側に権利があるのだから。
「あのね、メイズだって、したくない時あるでしょう。すごく疲れ切ってて、全然そんな気分じゃない時に、私が一方的にやる気になって上に乗ったらどう思う?」
「別に」
即答されて、奏澄は項垂れた。駄目だ。これは根本的にわかりあえない。
逆の立場で、望まない時に押しつけられたら嫌だろう、という例え話で出したのだが。むしろ、まんざらでもないという反応をされてしまった。それは奏澄から乗ったことなどないが。
どうしたものか、と唸っていると、メイズが不満そうに口を開いた。
「そもそもお前、そんなにセックス好きじゃないよな」
「……そんなことないけど」
「間」
指摘されて、奏澄はぐぅと唸った。
嘘ではない。嫌いというほどではない。肌を合わせる心地良さはある。心が通う幸福感もある。セックスはコミュニケーションの一種だ。相手が求める対話をすることに、異存はない。
それはそれとして、肉体的な快楽はさほどない。だから、溺れるように求めようとは思わないのだ。恋人としての触れ合いは、キスやハグで充分満ち足りる。必要だと言うならするけれど、積極的に求めたいということもない。正直無いなら無いでいい。ということを真正面から言うと多分まずいので、なんとかマイルドに伝えようとする。
「私は、メイズが触れてくれるだけで嬉しいから。船の上では、抱き締めたりしてくれるだけで充分。メイズが足りない分は、たまに島に降りた時に補充するんじゃダメ?」
マイルドにしたものの、結局言っていることはルールを守ってくれ、という話に戻ってしまった。元々そのための話し合いなのだから、間違ってはいないのだが。
なるべく笑顔で伝えると、メイズは何かを考え込むようにして。
「……わかった」
その「わかった」に何やら不穏な響きを感じて、奏澄は肩を震わせた。
午後の日差しを浴びながら、奏澄は上甲板の隅で大きく溜息を吐いた。その表情は、天候に似つかわしくない顰め面だ。
晴れてメイズと恋人になれたとはいえ、問題はまだまだ山積みだ。気持ちを伝えて、受け入れてもらって、それでハッピーエンドではない。人生は続く。この先彼の手を離さないためには、お互いの価値観をすり合わせていく必要がある。
恋人になる前は、メイズは奏澄の意見を優先することがほとんどだった。身の危険に繋がらない限りは、文句を言われることもなかった。それを思えば、今こうしてわがままを言ってくれているのは、実のところ嬉しい。わがままを言ってもいい相手だと、思われているのだ。それは彼にとって成長とも言えよう。
だからと言って、それをそのまま丸ごと受け入れるわけにはいかない。このままではダメンズメーカーになってしまう。言い方は悪いが、多少は教育をしていかなければ。やりすぎたらちゃんと怒ると、本人とも約束をしているのだ。絆されてはいけない。
「何かお悩みですか?」
「ハリソン先生」
浮かない顔をしている奏澄に、ハリソンが声をかけた。柔和な笑みを浮かべる老人には、何もかも吐き出してしまいたくなる雰囲気がある。しかし、仲間内の恋愛事情など、聞かせるものでもないだろう。
「ちょっと、個人的なことで」
「そうですか。私で良ければ、いつでも話を聞きますよ」
「ありがとうございます。今のところは大丈夫です」
この人は、あまり人の事情に深入りをしてこない。ここで話は終わりかと思われたが、ハリソンは珍しくためらう様子を見せつつ、周囲に人がいないことを確認して、言葉を続けた。
「私から言うのも不躾な話なのですが……大切なことなので、確認させてくださいね」
「……? はい」
なんだろうか。船医である彼が大切な話、などと。奏澄は知らず身構えた。
「メイズさんは、ちゃんと避妊してくれていますか?」
奏澄は思わず咽た。まさか、そんな話題が出るとは。というか、今その話をするということは、まさか、昨夜の。
「や、あの」
呼吸を整えながらも、行為を連想してしまい、顔に熱が集まる。動揺した気持ちのまま、正直に答えてしまった。
「……して、ない、ですね」
奏澄の回答に、ハリソンは眉を下げた。医者としては、見過ごせない問題だろう。
「メイズさんの場合は、カスミさんから伝えた方が効果的かと思いますが……。言いづらければ、私から注意しますよ」
「ああいえ、いいんです。わざとなので」
ハリソンが目を丸くした。その反応に、奏澄は苦笑する。妙な誤解を与えないためにも、ハリソンには、伝えておいた方が良いだろう。
「私、メイズとの子どもが欲しいんです」
穏やかに微笑んだ奏澄に、ハリソンは探るように問いかける。
「それは、メイズさんの了承を得て?」
「いえ、メイズには言ってません。言ったらきっと、要らないって言うから」
メイズが避妊をしなかったのは、最初からだ。最初の一回こそ、勢いで忘れたのかもしれないと思ったが、その後一度もしなかった。ということは、おそらくそもそも避妊するという発想が無い。今のままだと子どもができるかもしれない、と気づかせてしまったら、やめてしまうだろう。だから黙っている。
「メイズは、自分が人の親になれると思っていません。だからこそ私は、彼に家族を与えてあげたい」
奏澄とて、自分が人の親になれるかと問われれば、自信が無い。けれど、この世界に残ると決めたからには。自分とメイズの二人だけで、完結させたくない。残して、繋いでいきたい。かつて自分と同じようにこの世界に流れ着き、家族を持ったサクラのように。
あまり考えたくはないが、万が一の可能性もある。サクラ亡き後、ダビデにはレオナルドが残った。もしも、奏澄に何かがあったなら。メイズを支える存在が、残ってほしい。彼をこの世に繋ぎとめる楔が。
「メイズは、こういうことには臆病ですから。事前に確認したら、ダメなんです。きっと踏み出せない。でも、出来てしまった後なら、覚悟を決めてくれると思うんですよね。卑怯かもしれないけど」
褒められた手段ではない、という自覚はある。だから奏澄は、きまりが悪そうに笑った。医者であるハリソンからしたら気分が悪いだろうか、と不安になったが、ハリソンは苦笑しつつも、気分を害した様子は無かった。
「メイズさんのことは、カスミさんが一番わかっていますから。荒療治だとは思いますが、あなたが判断したことなら、私は協力しますよ。体調に変化があれば、すぐに言ってくださいね」
「ありがとうございます」
ほっとして、奏澄は微笑んだ。
とはいえ、今すぐにどうしても欲しい、ということでもない。奏澄とメイズの関係は、変わったばかりだからだ。子どもは授かりものだから、自然にできればそのタイミングで受け入れたいとは思っているが、積極的に子作りに励みたいわけではない。
だから今はまだ、お互いの欲求をすり合わせることの方が先だろう。
自分の決めたルールを思い返し、二度目がありませんように、と内心で祈りつつ、今後を想像して頭を悩ませるのだった。
そろそろアルメイシャに着く、という報告を聞いて、奏澄は逸る心を抑えきれずにそわそわとしていた。早く会いたい、という気持ちと、戻ってきた自分をどう思うだろうか、という少しの不安と。けれど、きっと仲間たちは。残る選択をした奏澄を責めたりはしない。それより、メイズとのことを何と言おうか。ずっと一緒だった仲間に恋愛面の話をするのは、何やら気恥ずかしい。
くるくると百面相をする奏澄を、メイズは面白そうに眺めていた。
アルメイシャの港にコバルト号を泊めると、まず雇っていた水夫たちに賃金を渡す。彼らとはここまでの契約だ。ドロール商会に行けば、かつての仲間が再び船に乗ってくれるかもしれない。それが叶わなくとも、別の人員を貸してもらえるかもしれない。もし無理だったとしても、アルメイシャには人が集まっている。改めて水夫を雇うことは可能だろう。
ハリソンに船の留守を任せ、奏澄とメイズの二人でドロール商会の建物へと訪れる。しかしそこで二人は、予想だにしない事態に直面する。
「閉鎖……!?」
ドロール商会の建物にはロープが張られ、出入口は厳重に封鎖されていた。事業をたたんだ風ではない。明らかに、無理やり閉められている。
これはいったいどういうことなのか。ギルドにでも問い合わせればわかるだろうか。しかし、ドロール商会はギルドには加盟していない。
呆然と立ち尽くす奏澄に、離れた所から声がかかった。
「なぁ、おい! あんた、もしかしてカスミか!?」
名前を呼ばれて振り返ると、奏澄は動きを止めた。
そこにいたのは、燃えるような赤い髪を逆立てた男だった。印象的な三白眼に、開いた口からは八重歯が見える。彼自身の容姿も充分に特徴的だが、奏澄が固まった理由は別にある。
何故、半裸。
男はだぼっとした赤のサルエルパンツを身につけていたが、上半身には何も着ていなかった。筋骨隆々、という言葉が相応しい肉体が惜しげもなく晒されている。いくら温暖な気候のアルメイシャとはいえ、街中でこれは無い。
警戒心を露わにする奏澄を背に隠すように、メイズが立ちはだかった。
「朱雀の、ロッサか」
「おう、そっちはメイズか」
ロッサ。その名には聞き覚えがある。赤の海域を拠点に活動している、四大海賊の一角。朱雀海賊団の船長だ。四大海賊の中では、一番年若い。とは言ってもメイズより上のはずなのだが、溌剌とした印象から若々しく見える。
そんな人物が、何故奏澄を知っているのか。
「あー、そう警戒すんな。お前ら、マリーに会いに来たんだろ?」
「マリーの居場所をご存じなんですか!?」
メイズの背から顔を出して、奏澄が問いかける。マリーと面識があるのなら、信頼できる人物かもしれない。
「ご存じっつーか、そのために来たっつーか」
がりがりと頭をかいて、ロッサは顔を歪めた。
「ドロール商会は、セントラルから業務停止命令を受けた。それが不当なものだっていうんで、オレたちが交渉するはずだったんだが……一歩遅かったな。抵抗したって名目で、マリーたちはセントラルに連れていかれた」
「そんな……」
奏澄は言葉を失った。それはつまり、セントラルに捕まったということ。
青い顔をする奏澄の代わりに、メイズが質問を続けた。
「何があった。セントラルから直々に業務停止命令となれば、その前に何かしら問題があったんだろ」
「それがわっかんねーんだよ。突然、言いがかりに近い形でな。正式な手続きも踏まずに、無理やりだ。オレたちも黙ってはいられないから、セントラルに抗議をしに行くつもりだ」
「私も行きます!」
間髪入れずに、奏澄は言い募った。自分を見上げる小さな船長に、ロッサは目を細めて笑った。
「あんた、マリーから聞いてた通りの奴だな」
「え?」
「んにゃ、いいと思うぜーそういうの」
奏澄の頭に手を伸ばしたロッサだったが、メイズが奏澄の体を引いたので空振った。
「……そっちも、聞いてた通りだ」
半眼で零すロッサを、メイズは無言で睨んだ。
「こっちはすぐ動ける。出発はそっちに合わせるぜ」
「こちらも、補給が済み次第すぐ……あ」
言って、思い出す。ついセットで考えていたが、よく考えたらライアーはドロール商会のメンバーではない。彼は、まだこの島にいるのではないだろうか。
「えっと、航海士のライアーがどうしているか、ご存じですか?」
「ああ、あいつは自主的にマリーにくっついてったらしい」
その言葉に、奏澄はほっとした。セントラルに捕まっているという状況は決して楽観視できるものではないが、マリーとライアーが一緒にいるのなら、少しは安心だ。
「では、すぐに準備します」
「おう。船の方は、朱雀からも人を貸すぜ」
「助かります、よろしくお願いします」
水夫の手配はしなくて済みそうだ。不安を掻き消すように、奏澄はしなければならないことを頭に浮かべた。
朱雀の船、レッド・フィアンマ号と並び、コバルト号はセントラルへ向けて出航した。
セントラルまでの航海中、詳しい事情を聞くため、奏澄はロッサをコバルト号へ招いた。
応接室に案内する際、供の者を連れてくるかと思ったが、ロッサは一人で来た。よその海賊船で、船長が一人で行動して良いのかと一応確認したところ。
「なんでだ?」
と逆に首を傾げられた。ロッサにとっては、奏澄たちは敵でないと認識されているのか、敵だったとしても取るに足らない相手だと思われているのか。
ロッサが気にしないのなら、それ以上言うことも無い。コバルト号には、朱雀の乗組員も作業員として同乗している。付いてこないということは、乗組員たちもロッサを一人にして構わないと思っているのだろう。そういえば、ドロール商会の前で会った時もロッサは一人だった。心配する素振りもないので、彼の強さへの信頼があると見える。
応接室には、ロッサ、奏澄、メイズ、ハリソンの四人が揃っていた。
「どうぞ」
奏澄が淹れた紅茶を出すと、ロッサはまじまじとそれを見つめた。
「あの、何か?」
「いや、随分シャレたもんが出てくるなーと」
普通こういうことはしないのだろうか、と奏澄は焦った。招いた側であるので、もてなすのは当然と思っていたが。これから話し合いをするというのに、酒を出すわけにもいかない。
ロッサはカップに手をかけると、一気にそれを呷った。
「うん、うまいな!」
にかっと笑ったロッサに、奏澄はほっとして、自分も一口紅茶を口に含んだ。
この人の笑顔は太陽の気配がする。側にいると暖かい。少々暑すぎる気もするが。キッドともエドアルドとも違った魅力のある船長だ。
「改めて話……つっても、本当に詳しいことはよくわからん。島に残っていた商会の連中に聞いたが、あいつらもちゃんとした説明は受けてないみたいだ。一部が連れていかれて、残りは謹慎状態」
顔を顰めたロッサに、奏澄は視線を落とした。何も情報が無い状態でセントラルと対峙するのは不安だが、わからないことを考えても仕方ない。
「ただまぁ、気になることはある」
確証の無い言い方だが、少しでも情報が欲しい。奏澄は視線で先を促した。
「どうもな、他の海域でも、突然人がセントラルに連れてかれたっつー話があるらしい」
「他の、海域?」
「別に情報共有とかしてねーんだけどよ。アンリもそれで動いてる、って小耳に挟んだんだよなぁ」
アンリ。それは緑の海域を拠点にしている、青龍海賊団の船長の名だ。
緑の海域から、誰が。嫌な予感とともに、アントーニオやラコットたちの顔が浮かぶ。
「まー、頭使うようなことはアンリが考えてるだろ。オレはとりあえず正面から乗り込むつもりだけどよ」
それはそれで大丈夫なのだろうか。奏澄が不安げな顔をしていると、ハリソンが口を開いた。
「セントラルは表向き、四大海賊を敵に回すようなことはしてきませんでした。ドロール商会はギルド非加盟ですから、朱雀の庇護下にあることはわかっているはずです。青龍の方も、目に余る行動があったから動いているのでしょう。それを押してでも、強硬手段を取った。これは、呼び出そうとしていると考えるのが自然かもしれません」
「四大海賊をか?」
「いえ」
ハリソンが、気づかうようにして奏澄を見た。
「カスミさん。あなたを、です」
奏澄はがつんと殴られたような衝撃を受けた。手足が震えて、目の前が暗くなる。
「私、の、せい……?」
自分のせいで。かつての仲間たちが、捕らえられているのか。
たんぽぽ海賊団は、実質解散している。その後奏澄は姿を消した。今も繋がっているとは、思っていないはずだ。
だというのに。かつて共にあったというだけで。このように、利用されてしまうのか。
「せいとか言うな!」
怒ったような声に、はっとする。ロッサが、真剣な目で奏澄を見ている。
「仲間なんだろ。そりゃ、迷惑かけたり、かけられたりするだろ。いちいち誰かのせいなんてことあるか。船長のあんたが、そういうこと言うんじゃねぇ!」
大きな声に、メイズが注意しようと口を開きかける。それを奏澄が手で制した。
大丈夫だ、というように微笑んでみせる。
以前怒鳴り声が怖いと言ったから、奏澄が怯えていると思ったのだろう。実際驚いたが、この人の怒り方は怖くない。なんというか、竹を割ったような清々しさがある。
「すみません。ロッサさんの言う通りですね。どんな理由だったとしても、私がすることは変わりません。仲間のことは、必ず助けます。だから大丈夫です」
ハリソンはあくまで可能性を提示しただけで、まだセントラルの狙いが奏澄だと決まったわけじゃない。既にたんぽぽの海賊旗を掲げて航海してはいるが、奏澄がこの世界に戻ったことを把握しているのかどうかすらわからない。
一度出た手配書は、死亡が確認されるまで回収されることはない。奏澄が手配され続けていることは、セントラルが生存を確信していることとイコールではない。
何が目的だったとしても。仲間のことは、絶対に助ける。今回は最初から、朱雀海賊団という心強い味方もいる。きっと、うまくいく。大丈夫だ。
奏澄は自分に言い聞かせるように、ロッサに告げた。それを受けたロッサは、力強く笑ってみせるのだった。
眩しいほどの白。またここに戻ってきたのだと、奏澄の心臓が大きな音を立てる。
大丈夫。大丈夫。意識的に、深呼吸をする。
険しい顔でセントラルを見つめる奏澄の頭を、メイズが軽く撫でた。
「今からそれだともたないぞ」
「……うん」
そうだ。まだ、何も始まっていない。これは武者震いだ、と奏澄は手を握りしめた。
「おし、んじゃ乗り込むかぁ!」
「待て」
正規の港にそのまま入ろうとしたロッサを、メイズが止めた。
「本気で正面から乗り込む気か」
「そう言っただろ?」
きょとん、としているロッサに、こちらがおかしいのかと錯覚してしまう。
「そんな目立つことをしたら」
「けどよぉ」
ロッサが親指で港を示す。その先を見て、メイズは目を瞠った。
「アンリはもう来てるぜ」
ロッサが示した先には、竜の海賊旗を掲げた、グリーン・ルミエール号があった。
「ここに来んのも久しぶりだなぁ」
船から降りて、周囲の視線をものともせず、ロッサは大きく伸びをした。
セントラル市民の視線は、何もロッサが半裸だからではないだろう。いやそれもあるかもしれないが。
彼の顔は、広く知れ渡っているはずだ。朱雀の頭が、何故セントラルに。そういう視線だろう。
彼らは自分たちの影響力を知っている。だから不用意に他の海域に踏み入るようなことはしない。
こんなに目立ってしまっていいのだろうか、と奏澄は身を縮こませた。
「おーし、んじゃ司令本部に」
「行くな馬鹿!」
突然、ロッサが後ろから殴りつけられた。乱入してきた人物に驚いて奏澄が視線を向けると、緑色の髪をした男が眉を吊り上げて拳を握りしめていた。
「アンリ!」
大してダメージを受けた様子もないロッサに大声で名前を呼ばれて、その人物――アンリは、顔を顰めて眼鏡を押し上げた。
センターで分けられた、ストレートのセミロング。白いシャツに、シンプルなモスグリーンのロングコート。腰には細身の剣を差していた。歳は四十を超えたくらいだろう。全体的にスマートで、理知的な空気が漂う。
「なんだ、もしかして待ってたのか?」
「そんなわけあるか。騒ぎを聞いて来たんだ。お前に暴れられたら、全部台無しになる」
「台無し?」
「何のために真正面に船をつけたと思っている」
「喧嘩売るため!」
「売らないためだ!」
一見口論しているように見えるが、テンポの良い会話には慣れが見える。もしかしてこの二人は仲が良いのだろうか、と奏澄は蚊帳の外からやり取りを眺めていた。
「私たちはセントラルの行いに対して、正式に抗議しに来たんだ。きちんと手続きを踏んで面会することで、民間人にも争うために来たのではないとアピールする必要がある。いたずらに怯えさせる気か」
アンリの説明に、ロッサはいまいちピンときていない様子だった。それを見たアンリが、更に青筋を立てる。
「だいたい、非公式に会いに行けば、こっちが消されても文句は言えないんだぞ。あの白虎ですら、喧嘩を売った結果、痛み分けだったのは記憶に新しいだろう」
「エドアルドさんに何かあったんですか!?」
突然割り込んだ女の声に、アンリは視線を下げた。長身のアンリからは、奏澄は見下ろす形になる。
ロッサに向けるのとは違う瞳の温度に、奏澄は一瞬怯んだ。しかし、先ほどの言葉は聞き捨てならない。
「申し遅れました。私はたんぽぽ海賊団の船長、奏澄といいます。白虎海賊団の方々には、以前お世話になったことがあるんです。彼らに何かあったのなら、教えていただけませんか」
アンリは値踏みするような目で奏澄を見ていた。手が出るタイプではないからか、武器に手をかけてこそいないものの、メイズは鋭い目をアンリに向けている。
「これは、ご丁寧にどうも。私は青龍海賊団で船長を務めます、アンリと申します。白虎の件は、当時そこそこ話題になったんですが。ご存じありませんでしたか?」
奏澄は言葉に詰まった。奏澄は、暫くの間この世界にいなかった。その間の話題は、あまり細かく把握していない。赤の海域に出てから耳にした話では、白虎は今も金の海域で変わらず活動しているようだった。そのため、そう大きな被害は無かったのだと解釈していたが。
「おいアンリ、その嫌味ったらしい喋り方やめろよな! カスミはいい奴だ。それはオレが保証する」
「ロッサさん……」
奏澄を庇うロッサに、アンリは眉を寄せた。そして、長い溜息を吐く。
「お前の野生の勘は動物並みだからな……。まぁ、何か企んでいるとは最初から思っていない。それと、役に立つかどうかは別の話だ」
役に立つ。その言葉に、奏澄の心臓がどきりと跳ねた。
それを気に留めた様子もなく、アンリは奏澄を見据えた。
「ロッサが連れてきたということは、今回の件の関係者なんだろう。しかし、足手まといになるようならいるだけ邪魔だ。白虎の件すら知らないような世間知らずではな。事が済むまで、大人しくしていてくれないか。お嬢さん」
アンリの視線に、奏澄は震えそうになる足に力を込めて、きっと彼を睨み上げた。
「嫌です。捕まっているのは、私の仲間です。この場の誰より、私にはセントラルに文句を言う権利があります。黙ってはいられません」
睨み上げる奏澄を、アンリは黙って見下ろしていた。
やがて、一つ息を吐く。
「……少々意地が悪かった。あなたが、彼らの船長だということは把握している。なんというか、予想以上に……幼かったもので、驚いた。覚悟があるのなら、これ以上は止めない」
「…………あなたの、幼いの定義は、わかりかねますが。一応お知らせしておくと、私は二十代です」
言った途端、アンリが目を丸くした。もはや慣れた反応だが、だからといって何も思わないわけではない。やや不機嫌になった奏澄に、メイズが笑いを堪える素振りをした。
「それは、失礼を。レディ」
今更呼称を変えられたところで、機嫌は直らないが。アンリが冷たい人ではないということは、わかった。あの態度は、子どもを大人の交渉事に巻き込まないようにしたかったのだろう。それが善意なのか、本当に足手まといだと思ってのことかはわからないが。
「無礼の詫びに、先ほどの質問に答えよう。白虎だが、一年と少し前、監獄島でセントラル軍に戦闘をしかけた。両者に被害が出て、白虎の側は数名の乗組員と、幹部を一人捕らえられた。船長のエドアルドは無事だが、目的である仲間を奪還することもできず、更に仲間を失うことになった。これが、白虎の規模でも真正面からいけばセントラルに勝つのは難しいと知らしめる事件になった」
奏澄は唇を噛みしめた。エドアルドの無事は確認できたものの、やはり白虎も無傷とはいかなかったのだ。奏澄のために、乗組員が犠牲になった。幹部というのは、もしかして、オリヴィアとやりあうことになったアニクだろうか。
「ただこの話には疑問が残る。仲間を取り返すための戦闘だったとのことだが、それにしてはやり口が派手だ。セントラルの側にしても、何故か白虎が襲撃した日には普段以上の戦力が揃えられていた。噂以上の何かがあったと推察しているが、今のところ私には関係が無いので探る気も無い」
四大海賊は別段協力関係にあるわけではない、と聞いてはいたが、なかなかドライだ。たんぽぽ海賊団のことが噂に含まれていないのは、白虎が黙っているからだ。セントラルは自分たちの失態に繋がることなので、話したがるはずはない。ならば、奏澄が口を割るわけにはいかない。それでは白虎の気づかいを無駄にする。
「……教えていただいて、ありがとうございます」
できることなら助けたいが、今は目の前のことに集中しなければ。何もかもを一度に解決することはできない。
「んで、結局どうすんだよ? その手続きってのは済んでんのか?」
「それは私の方でしてある。これから城で謁見予定だ」
「なんだ。ならさっさと行こうぜ」
「だからお前が行くと話がこじれるから……待て、先行するな、止まれ!」
さっさと歩き出したロッサを、アンリが追う。
それを目で追いながら、奏澄はハリソンの側へ寄った。
「ハリソン先生、あの」
「焦らないでください。私なら、大丈夫ですよ」
穏やかに微笑むハリソンに、一つの推測が浮かぶ。もしかして、ハリソンは既に。
「……今すぐは無理でも、この問題が解決したら、助ける方法を考えましょう」
「ええ、ありがとうございます」
白い外壁の城を見上げて、奏澄は生唾を呑んだ。
城、と言われた時には、テーマパークによくあるような、てっぺんの尖った豪奢な作りを想像した。しかしセントラルの城は円柱と四角柱で構成されており、とげとげした印象は無く、外観からは華美さよりも堅実さを重視しているように見えた。
「お城だ……」
「城を見るのは初めてか?」
「私の世界にもあったけど、ほとんど観光地だから。本当に王様がいるお城とか……緊張する……」
メイズに言いながら、奏澄は自分の姿を見下ろした。王に謁見するのに、こんな普段着で良いのだろうか。しかし、アンリとロッサについても、正装とは思えない。特にロッサは。
「アンリさん、今更ですが、私たちこの格好で良かったんでしょうか」
「構わない。私たちが謁見するのは王ではなく、総督だからな」
「えっ?」
わざわざ城まで来るのだから、てっきり王に会うのだとばかり思っていた奏澄は拍子抜けした。そもそもオリヴィアは、城にいるのだろうか。ロッサは最初、司令本部に行こうとしていた。つまり、軍事の中心はそちらなのだ。
「セントラルが軍事強化しだしたのは、歴史から見れば最近のことだ。軍事を切り分けるまでは、城が全ての中心だった。まだ儀礼的なことは城で行う決まりになっている。防衛設備も機能しているし、地下牢も現役だ」
奏澄の疑問を見透かしたように、アンリが答えた。なるほど、と奏澄は納得した。城と宮殿の違いは、その役割にある。ここは正しく城なのだ。単なる王族の居住地ではない。そして今も尚、その機能を果たしている。
アンリは部下を城の外へ待機させ、衛兵に声をかけた。ロッサは元々部下を連れていない。奏澄はさすがに一人で乗り込むわけにはいかない。メイズとハリソンを伴って、アンリに付いていく。武器の携帯は許されなかったので、それぞれに自分の武器を預けた。
通された部屋は、大きな円卓の置かれた会議室のような場所だった。相手が王ではないから、謁見の間とは違うのだろう。
そしてその円卓には、既にオリヴィアが着座していた。背後には、銃を携帯した兵士が二人立っている。
視線が合った瞬間に、奏澄の体が強張る。平然と、なんて無理だ。あの人は、自分に武器を向け、仲間を危険に晒し、今も尚自分たちを脅かしている。
握りしめた奏澄の手を、メイズが包んだ。視線を交わさずとも、わかる。大丈夫、と伝えてくれている。奏澄は意識して息を吐いた。
「座りなさい」
最初に言葉を発したのはオリヴィアだった。
「私は形式的なことに興味はないの。回りくどいことは無しでいきましょう」
「……それでは、失礼して」
率先して、アンリが席についた。その隣にロッサが。続いて、奏澄、メイズ、ハリソンと腰かける。
「カラルタン島にある食堂『ソリッソ』が、不当に業務停止命令を受けたと聞いている。そして、抵抗した従業員が捕らえられたとも。あの店は、かつてセントラルにも招かれたことのある、伝統ある店だ。急なことに周辺の島々も動揺している。納得のいく説明を求めたい」
「同じく、アルメイシャ島にある『ドロール商会』もだ。あの商会はギルドにこそ加盟していないが、繋がりが広く、影響が大きい。赤の海域にとって損害となる」
「そのためにわざわざ? 存外暇なのね、四大海賊とやらも」
煽るような言い方ではなく、さも自然な疑問のように口にしてみせる。そのことが、余計にアンリの神経を逆なでしたようだった。眉間の皺が深くなる。
「罪状は、セントラルへの反逆者を匿っていたこと。以上よ」
「反逆? 彼らが何をした」
「それを説明する義務はないわ」
「……彼女に、関係することか」
アンリが奏澄へ視線を向けた。オリヴィアの考えは読めないが、焦っている様子は微塵もない。揺さぶりを、かけてみるべきか。慎重に、奏澄が口を開く。
「捕らえられているのは、私の仲間でしょう。正当な理由が無いのなら、解放してもらいます。監獄島での一件が原因なら、その理由は、セントラルとしても公表されたくないのではないですか」
「別に困ることは何もないわ。監獄島でのことは、白虎が無謀にも戦いをしかけて、負けたというだけのこと」
「負けていません!」
奏澄は声を荒げた。驚いたような視線が集まるが、ここは譲れない。
「私たちは、白虎のおかげで目的を達成しました。あれは、白虎の勝利です」
負けてなどいない。白虎は、きちんと目的を果たしてくれた。奏澄たちは知っている。彼らは、確かに勝ったのだ。
奏澄の言葉に、オリヴィアは僅かに不快を示した。
「……いいわ。なら、あなたと私、二人で話をつけましょう」
「え……」
「平和的に、対話をしてあげると言っているの。あなたが私を納得させることができたら、今回の業務停止命令は撤回するし、捕らえた者たちも解放するわ。これ以上ない譲歩でしょう」
オリヴィアの提案に、メイズが顔色を変えた。
「それは呑めない」
「メイズ」
「問答無用で人を罪人扱いする奴を、信用できると思うか。二人きりなんかにしたら、何をするかわかったものじゃない」
「私は武器を持たないわ。後ろの兵も下げる」
「悪いが、私もそれには反対だ。そもそも私とロッサが抗議をするためにここに来たのであって、彼女に会ったのは偶然だ。まずこちらと話をつけてくれないか」
メイズに続けて、アンリも異議を唱えた。海域を代表して来たのに、こんな小娘に命運を握られるのでは堪ったものではないだろう。或いは、奏澄を庇おうとしているのかもしれない。
「何か勘違いをしているようだけれど。この場で、決定権を持つのは私だけなのよ。提案を呑めないのなら、このまま帰ってもらうだけのこと」
オリヴィアの言葉に、全員が悔しげに顔を歪めた。何を言ったところで、オリヴィアが優位であることは事実だ。
「……わかりました」
「カスミ!」
メイズが咎めるように名を呼んだ。それに笑って答える。
「大丈夫。話をするだけなら、私でもできるから」
「話だけで済むかどうか」
「アンリさんとロッサさんが、証人だよ。ここで私に何かをしたら、青龍と朱雀が黙ってない。ですよね?」
奏澄が二人に声をかけると、アンリは溜息を吐き、ロッサは胸を張った。
「ああ。確かに、請け負った」
「任せろ!」
頼もしい二人に笑みを返して、奏澄はメイズに向き直った。
「ね。大丈夫だから」
「……お前の、大丈夫は、信用できないと言っただろう」
「ひどいなぁ」
笑いを零せば、メイズが増々眉を寄せる。笑い事じゃない、というところだろう。
「メイズさん。こうなったカスミさんは、梃子でも動きませんよ」
ハリソンの助け舟に、奏澄は頷いてみせる。
「自分の船長を信じてよ」
数秒見つめ合って、やがて根負けしたようにメイズが溜息を吐いた。
「怪我の一つでもしたら、二度と無茶できないようにするからな」
「えっ怖っ!」
不穏な言葉を残して、メイズはアンリとロッサと共に、兵に連れられ部屋を出ていった。
「ハリソン先生。メイズのこと、よろしくお願いします」
「ええ。こちらは任せてください」
最後にハリソンが出ていき、部屋には奏澄とオリヴィアの二人だけが残った。
「さて。話し合いを、しましょうか」
この国のトップに。即ち、世界のトップとの対話に。奏澄は、表情を引き締めた。
話し合い。と言っても、奏澄はほとんど勝ち目は無いと感じていた。
監獄島の洞窟で感じたこと。オリヴィアとは、言葉を用いてわかりあうことができない。
それでも、国のトップに立つ人間だ。全く他人の意見に聞く耳を持たないわけではないだろう。
とにかく、彼女に呑まれないこと。できるだけ不利な条件を避けること。相手の利になる提案をすること。
意識して、深く、深く呼吸をした。
「私の要求はあの時と変わらないわ。私たちセントラルの軍人と研究者を、はぐれものの島へ案内すること」
「できません。それは、あの時お断りしたはずです」
「断れる立場かしら?」
「あなたは、あの島のことをわかっていません。はぐれものの島は、無尽蔵に武器が集まる場所じゃない」
「そうかもしれないわ。でも、あの島のことが解明できれば、あなたの世界へ行く道も開けるんじゃないかしら」
「……今、なんて?」
「あの島は、異界へ繋がっているのでしょう。あなたの世界へ直接行くことができれば、武器の調達は容易いわ」
「それは――できません」
オリヴィアは、何かを誤解している。そもそも彼女は、はぐれものの島のことをどれだけ把握しているのか。オリヴィアの口ぶりから察するに、彼女自身はおそらく島に訪れたことが無い。なら何故ここまで拘るのか。
「何故? あの島の流れが、不可逆だから?」
「知っているなら」
「でもあなたは、戻ってきたじゃない」
奏澄は息を呑んだ。オリヴィアの視線が奏澄を射抜く。
「はぐれ者が島を出てこちら来ることはほとんどない。数はごく僅かだけれど、過去にはぐれ者を使って島に訪れた記録はある。でもあの島の流れは不可逆。はぐれ者を使って訪れれば、そのはぐれ者は島を通過して異界へ渡ってしまう。同じはぐれ者を二度使うことはできない。そして、はぐれ者を使ったとしても、必ず全員が島に辿り着けるわけでもない。中にはコンパスを使えない者もいた。あの島は、私たちにとってまだ未知数なの」
滔々と語るオリヴィアだったが、その指先が軽く卓を叩いている。
「だから、あなたの存在は貴重なのよ。コンパスの使用資格を持ち、記録にある中では唯一あの島からこちらへ戻ってきた。あなたは、世界と世界を繋ぐ鍵となる可能性がある」
オリヴィアの目は、『物』を見る目だ。奏澄を、人として見ていない。感情に訴えても、意味が無い。それならば。
「残念ながら、それは的外れです」
オリヴィアの眉が動く。
奏澄の命だけを考えるならば、この誤解は解かない方が良い。利用価値があると思わせておけば、奏澄の命は保障される。けれど、それではずっと仲間を人質に取られたまま、利用されることになる。
「私がこちらへ戻ってきたのは、この世界を選んだからです。元の世界を捨てて、二度と戻らないと道を閉ざした。私にはもう、向こうの世界へ行く資格がない。コンパスだって、使えるかどうか」
「試してみればいいじゃない」
オリヴィアの言葉に、奏澄は動揺した。試してみる。何を?
あのコンパスは、洞窟で使うことに意味があるのでは。
「まだ、持っているのでしょう。使ってみればいいわ」
どうぞ、と視線で促されて、奏澄は首から下げたコンパスを取り出した。
意味は無い、はずだ。何も、起こるはずはない。このコンパスは、既に役目を終えている。
それなのに、何故だろう。コンパスが、熱を持っている気がする。
心臓の音が耳まで響くのを聞きながら、奏澄は針を指に刺した。
「えっ!?」
磁針が血を吸って、赤く染まる。くるくると回ったそれは、やがて一方を示し、赤い光を伸ばした。
「嘘……」
奏澄は愕然とした。もう使えないとばかり思っていた。これでは、奏澄はまだセントラルにとって価値のある存在だということの裏付けになってしまう。
しかし、おかしい。光が示す方角は、監獄塔の方角ではない。いったい、何を指しているのか。
考えるようにして光を見つめていたオリヴィアが、口を開いた。
「悪魔を指しているのかしら」
「悪、魔?」
「そのコンパスは、元々私たちセントラルのものではないわ。悪魔が作ったものなの」
「悪魔、って、大昔の……伝承、ですよね」
「いいえ。悪魔は今も存在する」
奏澄が息を呑む。オリヴィアが、冗談など言うわけがない。では、本当に。
「セントラルが軍事化を急いだのは、そのためよ。悪魔の復活を観測して、襲撃に備える必要があった。今のところ、それなりに大人しくしているようだけれど……いつ猛威を振るうか、わかったものではないわ」
急に現実感の無い話をされて、眩暈がする。悪魔が、今もこの世界にいる。それに対抗するために、セントラルは軍事国家となった。ならば。
「なら、セントラルの目的は、最強の軍事国家になることではなく、悪魔を打ち倒すことなのではないですか?」
「同じことよ。何者も逆らえない強さを手に入れれば、悪魔を含めた全ての脅威に怯える必要はなくなる」
「それは違うでしょう」
オリヴィアの意見を真っ向から否定してみせた奏澄に、オリヴィアの視線が刺さる。
「セントラルが、唯一絶対の力を手に入れても。抵抗する人々は、いなくなりませんよ。その結果が、今の四大海賊なんじゃないんですか」
「あれらはただの無法者よ」
「その無法者を、必要としている人たちがいるんです。四大海賊を潰せば、彼らを慕っていた人たちが敵になります。武力で押さえつけて、無理やり全てを取り込んだとしても、今度は争いの形が内乱に変わるだけです」
「完璧な統治を行えば、反乱なんて起こらないわ。異分子を許すから軋轢が生じるの」
「いいえ。軋轢は、必ず起こるものです。争いはなくなりません」
奏澄の言葉に、オリヴィアは意外そうに息を漏らした。
「あなたは平和主義者なのだと思っていたわ。人間は皆善良である、とでも思っているのかと」
「平和主義者ですよ。人の善性も信じています。だから、争いはなくならないんです。人の正義は、価値観は、必ずぶつかるものだから」
「正義は勝者にあるものよ」
「そうです。だから敗者が淘汰される。けれど、いつも負けた側を排除し続けていけば、最終的には何も残りません。人には必ず差異があるからです。国で分けて、種族で分けて、性別で分けて、知能で分けて、貧富で分けて。どれだけ分け続けても、終わりはありません。全く同一の個体は存在しないからです。二人以上が存在すれば、絶対に差は生まれます。だからどこかで許容するしかないんです。その差を」
「それがどうしても許せなかったら?」
「言葉で争って、落としどころを探します」
奏澄の発言に、オリヴィアは子どもの戯言を聞いたかのように嗤った。
「できるかしら?」
「そのために、バランスが必要なんです。突出した武力があれば、潰せば済んでしまうから。独裁は強いけれど危うい。あなたが誤った時、誰があなたを止めるんですか。あなたは機械じゃない。人は絶対に間違う。あなたがこの国のトップだとしても、あなたと同等の力を持つものが、外部に必要なんです」
「私に逆らうために?」
「そうですよ。神の血を引いていても、あなたは神じゃない。人間です。人々から思考を奪って支配したいわけでないのなら、あなたも民と同様に、言葉で争う必要がある」
オリヴィアは、洞窟で「平和のため」だと口にした。やり方に問題はあれど、あれが嘘だったとは、奏澄には思えなかった。彼女は、世界を支配したいわけではないはずだ。
奏澄の言葉は、おそらく彼女の心には何一つ響かない。それでも、何かしら有用だと思えば、それを感情で排除することもしないだろう。
「理想論ね」
「リーダーは理想を語るものですよ」
それを実現させるのは、サポートの役目だ。理想を掲げる者が誰もいなければ、標もなく彷徨うのと同じこと。リーダーの役割は、誰より明るい光を灯して、先導すること。
「あなたのそれには、絶対的な悪の存在が抜けているわ。言葉など用いる暇もなく、武力で潰すしかない害悪が」
奏澄は眉を顰めた。絶対悪など無いと、信じたい。しかし、覆せない悪が存在することも知っている。ねじの外れた人間というのは、どこにでも存在するものだ。それはねじを締め直せば解決する問題ではない。そもそもの構造において、ねじが存在しない。これは人の手では直せない。神の采配なのだから。
「それが、悪魔ですか」
「あれはただの災害よ。私たちの常識では計れない。放っておけば確実に大きな被害が出るわ」
「そこまで言うのなら、何故まだ自由にさせているんですか。今の軍事力では、捕らえられないほどに強いんですか」
「強い弱いではないわ。悪魔は狡猾な上に、不老不死なのよ」
不老不死。唐突な単語に、一瞬思考が止まる。そんな人類の夢のような生き物が、現実に存在するとは。
「あれは神の力でしか殺せない。神の血を引く王族か、女神と同類のはぐれ者か――」
そこまで口にして、オリヴィアは真っすぐに奏澄を見据えた。
「な、なんですか」
「条件を、変えてあげてもいいわ」
「え?」
「悪魔の首を取ってきてちょうだい。そうすれば、仲間は返してあげる」
奏澄は絶句した。首を取ってくるなどと。
「無理です。セントラルが勝てない相手に、どうしろと言うんですか」
「あなたにだけ使える手段があるのよ。ついてきなさい」
オリヴィアに言われるがままについて行くと、建物から出てしまった。メイズたちは城内に残したままだ。不安を覚えながらも、奏澄は怖々後ろを歩いた。
人気の無い方へと進み、黙ったまま暫く歩き続け、広い場所へ出る。そのまま更に歩を進めていくと、目の前に古い建物が見えた。近づけば、それはギリシャ様式の神殿のようだった。太い円柱が整然と並び、四角い箱のような形をしている。
オリヴィアは歩調を緩めることもなく、その中に入っていった。奏澄も慌てて後を追う。
中に入ると、白を基調とした荘厳な造りに、状況も忘れて奏澄は思わず見惚れた。歴史を感じるが、現在は使われている様子が無い。神殿なのに、祭礼などは行わないのだろうか。
オリヴィアはためらいなく祭壇に上がり、壁にかけてあった剣を手に取った。そして奏澄の目の前に来ると、その剣を差し出した。
「受け取りなさい」
有無を言わせぬ言葉に、奏澄が戸惑いながらも両手で剣を受け取る。
見慣れぬそれは、儀式用の剣のようだった。鞘も柄も真っ白で、繊細な金の装飾が施されている。実用目的には見えないが。
「これが、唯一悪魔を殺せる武器よ」
奏澄が息を呑む。それはつまり、この剣には神の力が宿っているということ。急に剣の重さが増した気がして、奏澄は落とさないように必死だった。
「これで悪魔の心臓を貫くか、首を切断すれば、あれを殺すことができるわ」
「それを、私が?」
「あなたにしか使えないもの。できないのなら、条件を戻すだけよ」
はぐれものの島へセントラルの人間を案内するか、奏澄の手で悪魔を殺すか。
どちらかしか、選べないのなら。
「わかりました。お受けします」
できるかどうかはわからない。悪魔とやらが、どんなものなのかもわからない。けれど、災害だと言うのなら。存在してはならぬものなのだと言うのなら。まだ、心に言い訳ができる。
仲間を取り戻すためならば。
「けれど、私一人で悪魔と戦うのは無理があります。先に、仲間を解放していただけませんか。彼らがいなければ、私は海へ出ることもままなりません」
「メイズがいれば充分ではないの?」
「いいえ。船は二人では動かせません。旅も二人ではできません。悪魔を殺してこいと言うのなら、仲間は絶対に必要です」
オリヴィアは、少しだけ考えるように口を閉ざした。そして結論が出たのか、再度口を開く。
「わかったわ。仲間は解放しましょう」
要求が呑まれたことに、奏澄が安堵しかけると。
「ただし、全員というわけにはいかないわ。最低でも一人、残してちょうだい」
「そんな……!」
「当然でしょう。この場で全員解放するなら、取引をする意味がないもの。あなたが約束を果たす保証がどこにあるの?」
奏澄は歯噛みした。オリヴィアの言うことはもっともだ。しかし、それでは、誰か一人を犠牲にすることになる。
けれど、これ以上の提案はできない。人質を取られているのに、それ以上の担保になるものが、奏澄には無い。
「……わかり、ました」
逡巡した結果、絞り出すようにそう答えた。下手にごねて、全員を返さないと言われても困る。その一人には、誠心誠意謝罪し、帰還を約束するしかない。
「私の仲間を一人残せば、あとは解放していただけるんですよね」
「ええ」
「その範囲に、白虎の仲間も含んでいただけませんか」
「それは別の話でしょう」
奏澄の要求に、オリヴィアは棘のある声で返した。やはり無茶だっただろうか。
「では、今すぐでなくて構いません。悪魔の首を持ち帰ることができたら、考慮してください」
「存外厚かましいのね。いいわ、約束通り首を持って帰ってきたなら、考えるだけはしてあげる」
今はこれが精一杯だ。奏澄は震える息を長く吐いた。
神殿を出ようとするオリヴィアに、奏澄は慌てて声をかけた。
「あの、肝心の悪魔について聞いていないのですが」
「悪魔がいる方角は、コンパスが指していたでしょう」
「方角だけじゃ……。特徴とかは」
「何を言っているの? そんなもの、メイズが誰より知っているでしょう」
オリヴィアは、怪訝そうに眉を寄せた。
「悪魔は、黒弦海賊団の船長、フランツよ」