私の海賊さん。~異世界で海賊を拾ったら私のものになりました~

「――――……」

 波の音が聞こえる。潮の香りがする。
 薄暗い中で、意識が浮上する。また気を失っていたのだと、奏澄はこめかみを押さえながら体を起こした。パラパラと砂が落ちて、どうやら砂浜に倒れていたらしい、ということに気づく。
 立ち上がって服の砂を叩くと、すぐ近くに船があることに気づく。コバルト号だ、と奏澄はほっとした。海に浮かべられているのではなく、傾船修理の時と同じように、浜に傾けて置かれていた。直後、違和感に眉を顰めた。
 古びた臭いがする。長期間、帆が張られた様子が無い。奏澄はぐるりと歩いて船を見て回った。細部を見れば、全く人の手が入らずに放置されている、というわけでもないようだ。しかし思った通り、この船は暫く航海に出た形跡が無い。
 マストを見上げれば、いつもそこに掲げられていた海賊旗は無かった。だが、これは奏澄と一緒に航海をしてきた、コバルト号だ。それは間違いない。奏澄は、不安に襲われた。
 使われていない船。仲間たちがいる様子もない。もうこれは、奏澄の船ではないのではないか。奏澄がいなくなったことで、団は解散し、船を手放したのではないか。
 奏澄にとっては、仲間たちと別れてから、それほど長い時間は経っていない。しかし、あの窓のあった不思議な空間に、どれほどいたのかわからない。この船の状態を見れば、あれから幾ばくかの時間が流れているのではないだろうか。
 もうここに、仲間がいないのだとしたら。誰も奏澄を、待ってなどいないのだとしたら。
 過ぎった考えを頭を振って追い払った。深呼吸をして、言葉に出す。

「メイズが、待ってる」

 待っている。メイズは。彼だけは、必ず。
 他の誰がいなくなったとしても、メイズとは、絶対の約束がある。 彼はその約束を、決して違えない。奏澄が、ちゃんと元の世界に帰ったのだと。その確信が持てていなければ、きっと。彼が待ってさえいてくれるのなら、奏澄はどこへだって会いに行く。

 奏澄は船に背を向けて、島に足を踏み入れた。しかし、霧の漂うその島は見通しも悪く、奏澄の恐怖心を煽った。ここがどこだかわからない。誰がいるかもわからない。どちらに行けば、人のいる場所へ辿り着けるのか。
 初めてこの世界へ来た時と同じだ。それでも、あの時より恐怖は無い。
 会いたい人が。帰りたい場所が。居場所があると、知っているから。
 奏澄は大きく息を吸って、歌い出した。この世界で初めて歌う、愛の歌を。

 暖炉の火だと、言ってくれた。それなら、どうか。明かりを、灯して。私を見つけて。

 歌なら、ただ呼びかけるよりも遠くまで声が届く。不思議に思った島民が、見に来るかもしれない。そうしたら、案内してもらえばいい。二、三曲歌って誰も来なかったら、とりあえず中心部を目指して歩いてみよう。
 そう考えながらも、奏澄はどこかで期待していた。この歌を聞いて、メイズが自分を見つけてくれることを。
 さすがにそれは都合が良すぎるだろうか、と歌いながら表情だけで苦笑して。草むらが揺れる音に、目を向ける。霧の向こうに、人影がある。思惑通りにいったことにほっとして、歌を止め人影の方に足を向けた。

「すみません、ここ……って……」

 声をかけながら、はっきりと見えてきた姿に、足を止めた。

「……メイズ?」

 見慣れた姿に、息が止まる。メイズは幽霊でも見るような顔で、呆然と立ち尽くしていた。
 じわじわと、嬉しさと、愛しさと、色々なものが込み上げて。涙で霞む視界のまま、奏澄は勢いよく駆け出した。

「……ッメイズ!!」

 なりふり構わず思い切り叫んで、走った勢いのまま飛び込んだ。固まっていたメイズは、その勢いを受け止めきれず、そのまま後ろへ倒れ込んだ。

「メイズ! メイズ!」
「……カ、スミ……?」

 泣きながら名前を呼び続ける奏澄に、メイズは信じられないような声を漏らした。震える彼の手は、奏澄を抱き締めようとする形のまま、宙に浮いている。

「本当、に、本物か?」

 幻覚の類だと思っているのかもしれない。触れたら、消えてしまうのではないかと。その不安を払拭するように、奏澄は泣きじゃくりながらも、メイズの首に腕を回して、ぎゅうとしがみついた。

「私だよ、カスミだよ! メイズ、ただいま!」

 奏澄の言葉にメイズは息を呑み、そして奏澄を抱え込むような形で、強く抱き締めた。

「……ッ、カスミ……!」

 奏澄と同じように、何度も何度も、名前を呼んで。その存在を確かめるように、きつく抱き締めた。その声色から、メイズも泣いていることが窺えて。苦しさは心地良くすらあった。奏澄は泣きながら笑った。
 暫くそうして、メイズが名残惜しそうにしながらも少しだけ体を離し、額を合わせた。その目に涙は無かったが、目元が少しだけ赤くなっているのを見て、奏澄は微笑んだ。

「おかえり、カスミ」
「うん。ただいま、メイズ」

 その言葉に、ここが、この腕の中が、帰る場所なのだと。メイズも同じように、思ってくれていたのだと。そう感じられて、胸が温かくなった。

「そうだ、メイズ。他のみんなは? どうなったのか、聞いてもいい?」
「ああ……。お前がいなくなって、もう一年以上経つからな。順に話す」

 一年以上。頭の中で繰り返して、奏澄は目を見開いた。

「一年!?」
「そうだ。お前の方では違うのか?」

 言われて、奏澄は目を逸らした。奏澄にとっては、つい先ほどのことだ。だが、そうとは言いづらい。
 一年。であれば、メイズの反応は納得だ。しかし、あれだけの再会劇をかましておいて、自分の方は今さっき別れたばかりです、と言ってしまうのはあまりに恥ずかしい。奏澄の方でも、大きな決断をしたり、心境の変化があったりと、言い訳はしたいところなのだが、メイズの耐えた時間と比べてしまうと。

「時間の流れが、ちょっと、違うみたい?」
「そうか。まぁ、いい。歩きながら話そう」

 ごまかした奏澄をさして気にすることもなく、メイズは立ち上がって、奏澄に手を差し伸べた。奏澄がその手を取って立ち上がると、逆の手を繋ぎ直し、手を引いて歩き出す。メイズの方から手を繋がれたことに驚いたが、しっかりと握られた手に、奏澄は申し訳なさを感じた。これはきっと、奏澄が急に姿を消したせいだ。また消えてしまうのではと、怯えているのかもしれない。
 奏澄は繋がれた手をもぞもぞと動かして、指を五本全て絡めた。そして、ぎゅっと握り返す。決して離れないと、伝わるように。

 歩きながら、奏澄はこの一年のことをメイズから聞いていた。
 ここが、はぐれものの島であること。奏澄は元の世界に帰ったと、皆が判断したこと。そのため、一部を除いて自分たちの居場所に帰ったこと。いつか再び海へ出る時のため、コバルト号は置いていったこと。メイズは村に間借りしていて、船では生活していないこと。
 レオナルドは三ヶ月ほど島にいて、島民の話を聞いたり、島の物を分解したり修理したりと研究していたようだが、その後ヴェネリーアに戻ったそうだ。
 ハリソンは、今も村で診療所を開いている。だが、一人ではなく助手を雇い、自分に何かあっても島の人間を治療できるように、医学を教えているらしい。

 まずはハリソンに顔を見せに行こう、と二人は診療所の戸を叩いた。
 奏澄の姿を見たハリソンは大きく驚いて、次に二人の繋がれた手を見て、表情を緩めた。

「おかえりなさい、カスミさん」
「ただいま、ハリソン先生」

 深く聞かずにそれだけ言ったハリソンに、奏澄は紳士ぶりは健在だと思いながら微笑んだ。

「カスミさん。あのコンパスは、どうなりましたか?」
「え? あ、あれは、まだ持ってます」

 奏澄は首から下げたコンパスを、襟元から取り出した。

「ただ、針の色は戻ってしまったんですけど」

 奏澄の血で赤く染まっていた磁針は、元通りの鉄の色に戻っていた。
 それを眺めて、ハリソンは何かを考える目をした。

「それは、もうあなたの物です。元の世界に戻るつもりがなくても、今後も持っていると良いでしょう」
「……はい、そうします」

 正直、このコンパスはトラブルの元になるのではないかと思っているのだが。こっそりセントラルに返すわけにもいかないし、オリヴィアの言葉を思い返せば、返したいとも思わない。ハリソンが持っていた方が良いと言うのであれば、何か意味があるのだろう。そう考えた奏澄は、今後もこれを肌身離さず首から下げていようと決めた。

 診療所を出て、今度は一軒の家を訪れた。中から出てきたのは、アルフレッドだ。奏澄は彼のことを知らないので、一歩下がった位置で頭を下げた。

「彼女は」
「彼女が、以前話したカスミだ」
「……戻ってきたのか」

 アルフレッドは、心底驚いた様子だった。複雑な表情で自分を見つめるアルフレッドに、奏澄は居心地の悪さを感じ、身じろぎした。

「待ち人が戻ってきたということは、お前はこの島を出ていくんだな」
「そうなる。長い間、世話になった」
「お前たちには、俺たちも随分刺激を貰った。今夜は、祝いの席を設けよう。大したことはできないが、送別だ」
「感謝する」

 短いやり取りではあるが、関係は悪くなさそうだ。メイズはこの村で、それなりにうまくやっていたのだろう。そのことに、奏澄は少しだけ寂しさを覚えていた。自分がいなくても、メイズは普通の人たちと普通に暮らしていける。それは、良いことだ。寂しいと思うのは、あまりに自分勝手だろう。その気持ちには、蓋をした。

 夜までの時間、奏澄たちは船の準備をすることにした。予想通り、たまに手は入れていたようだった。島の人間も手伝ってくれていたらしい。最低限航海をするのに問題は無いということで、荷物の積み込みや簡単な点検を行えば出航できる。
 コバルト号に乗り込んだ奏澄に、メイズは一枚の布を手渡した。

「これ……」

 広げると、それは見慣れた海賊旗だった。

「ライアーから、お前が戻ったら渡すように頼まれた」
「ライアーが……」

 彼の描いたたんぽぽを眺め、奏澄はそれを大切に抱き締めた。
 自分が戻ることを。メイズ以外にも、望んでくれていた。

「お前が戻ったら会いに行くと、あいつらと約束している」

 その言葉に、奏澄は驚いてメイズを見た。メイズが、仲間と、約束を。

「一緒に会いに行くだろ?」
「――もちろん!」

 たんぽぽが咲くような笑顔で、奏澄は答えた。
 夜になると、寄合所でささやかな送別会が行われた。島の人間たちは控えめな性格が多く、大騒ぎになるようなことはなかったが、それでも穏やかに食事や酒を楽しんだ。奏澄と同じ日本出身の島民にも会うことができ、奏澄は久方ぶりに故郷の話に花を咲かせた。
 夜も更けてきたところで会はお開きになり、二人は島民たちに礼を告げ、退席した。

 メイズは自分が間借りしている部屋に奏澄を案内すると、ベッドに座らせた。

「それ使え。俺は別の場所で寝る」
「え、なんで? 一緒に寝ようよ」

 当然のように言って、奏澄はメイズの服を引いた。今までも、何度も一緒に寝ていたことはあった。特に今日は、離れたくない。そう思っての行動だったが、メイズの方は非常に複雑そうな顔をした後、目を逸らした。

「……今日は、駄目だ」
「なんで? こういうの、嫌になった?」

 拒絶されたことに、泣きそうな声が出てしまった。再会してからのメイズの態度を思えば、嫌われたとは思わない。思わないが、以前ほど近い距離にいるのは、嫌だということだろうか。離れている間に、彼の方は、何か心境が変化してしまったのだろうか。

 訴えかけるような奏澄の視線に、メイズは苦虫を噛み潰したような顔をした後、片手で顔を覆った。

「今日は、何もしない、自信が無い」

 言われた内容が予想外すぎて、奏澄は口を開けた。

「明日からは、ちゃんとする。以前の俺と同じに戻る。だから、今日だけは勘弁してくれ」

 言い逃げるように部屋を出ていこうとするメイズに、奏澄は全力で服を引っ張った。

「待って待って待って!」
「放せ」
「なんで!? 今まで一回だってそんなの言ったことないじゃない!」
「そりゃ今までは……」

 言いかけて、メイズが口を噤んだ。そして、おそらく言おうとしていたこととは別のことを口に出した。

「人のこと毛布扱いする奴に言われたくない」

 確かに。メイズのことを、先に安心毛布などと言い出したのは奏澄だ。しかし、メイズの方だって、一度として奏澄を女性として意識しているような発言をしたことはなかった。女として扱われなかったわけではないが、彼自身が、そういう対象として見たことがある、などと。
 聞きたい。自分のことを、どう思っているのか。少しでも、異性として意識してくれているのか。喉まで出かかった言葉を、奏澄はぐっと堪えた。それを先に聞き出すのは卑怯だ。奏澄は、もう一度メイズに会えたら、今度こそ素直に気持ちを伝えると決めていた。そのタイミングは、今なのではないだろうか。

「メイズ、ちょっと、話させて」

 渋るメイズを無理やりベッドに座らせ、奏澄はメイズと向き合った。

「えっと……メイズが一年どうしてたかは、聞いたけど。私が消えた後何があったか、ちゃんと話してなかったよね」

 どう説明したものか。奏澄は一度目を閉じて、あの空間を思い出した。

「船が落ちた後、私はみんなとは違うところに飛ばされて……そこから、多分、帰れたの。元の世界に」

 メイズは黙って話を聞いている。何を考えているのか、表情からは読み取れない。

「でも、帰らなかった。私は、私の意志で、この世界に残ることを選んだの」

 怖い。指先が震える。それでも、伝えなければ、何も変わらない。
 奏澄は自分の手をメイズの手に重ねて、まっすぐ視線を合わせた。

「メイズのことが、好きだから」

 海の瞳が、揺れる。メイズの瞳に、奏澄が映っている。そのことが、泣きそうなほどに嬉しい。

「今までずっと、私を帰すために頑張ってくれたのに、ごめんなさい。自分勝手なことしたってわかってる。それでも、どうしても、もう一度メイズに会いたかった。メイズじゃないと、ダメなの。あなたと一緒に生きたいの」

 メイズの口元が、何かを言おうと、僅かに動く。ぎゅっと眉が寄って、その表情は苦しげにすら見えた。

「お前のそれは、親愛の情だろ。俺が一番近くにいたから、勘違いしてるだけだ」
「勘違いなんかじゃない!」

 奏澄は思わず声を荒げた。自分の気持ちが迷惑なら、それでも構わない。けれど、奏澄の気持ちを、否定しないでほしい。その気持ちだけで、この世界に戻ってきたというのに。

「お前、それがどういうことか、わかってるのか」
「馬鹿にしないでよ。子どもじゃないんだから」
「――本当に?」

 言って、メイズは重ねていた奏澄の手を取った。支えをなくした上体を押されて、奏澄の体がベッドに沈む。ふっと影が差して、見上げた視界に映るメイズの表情に、奏澄は息を呑んだ。その瞳にちらつくものに、うなじがちりりとした。途端、心臓が早鐘を打つ。本能的に、体が硬直した。

「ほら。わかってなかっただろ」

 覆いかぶさった体勢のまま、メイズが言った。その声は、何故だか泣きそうに聞こえた。

「び、っくり、くらいは、するでしょ」
「無理するな。怯えてるくせに」

 怯えている、わけではない。ただ、メイズの視線はさすが海賊というか、独特の威圧感があって、完全に捕食者にしか見えなかった。蛇に睨まれた蛙の気分になる。
 けれど、何故だろう。今、圧倒的に優位なのはメイズの方なのに。何故彼は。

「メイズは、何に怯えてるの」

 奏澄の言葉に、メイズは目を瞠った。奏澄は手を伸ばして、メイズの頬を包んだ。

「何が怖いの。私が、怖いの?」

 メイズの表情が崩れる。当たりだ。しかし、何故。

「私、何があっても、メイズのこと嫌ったりしないよ」
「……そうじゃない」
「なら、どうして。私の気持ちが、怖い? 嫌?」

 人からの愛情そのものが、怖いのかもしれない。今まで彼には、向けられたことがなかったのかもしれない。一夜限りの情欲ではなく、人生を預けるような愛情は。
 心変わりを恐れているわけではないのなら。この気持ちそのものが、彼の望む好意の形とは、違うのかもしれない。奏澄はメイズに必要とされている自負があったが、決してそれは異性として想われているということではない。

「迷惑なら、私のこと、そういう風に見れないなら、はっきりそう言って」

 それで諦められるのか、と言われれば、また別の話なのだが。そういうことなら、意識してもらえるように、これから頑張ればいい。もしどうしてもメイズの負担になるようなら、諦める努力もする。だから、気持ちを口に出して欲しい。このままでは、お互いに理解できないまま中途半端に終わってしまう。
 メイズはひどく言いにくそうに、何度か口を開いたり閉じたりしながらも、やっと言葉にした。

「見れない……というか、見たく、ない」
「どうして」
「お前が、穢れる」

 ここで声を上げなかったことを褒めてほしい。奏澄は誰にともなく思った。

「……ちょっと、言ってる意味が」
「俺みたいなのがお前に触れたら、汚れる。お前には、もっとお前を大切にしてくれる、真っ当な人間が似合いだ」

 奏澄をこの世で一番大切に扱ってくれるのは、メイズだ。だというのに、今更何を言い出すのだろうか。寄ってくる男を追い払っていたのも、メイズなのに。
 奏澄は、ふつふつと怒りの感情が沸き上がってくるのを感じていた。

「真っ当な人間って、何? 誰ならいいの? 私これから、メイズがいいと思う相手しか、好きになっちゃいけないの?」
「そういうことじゃ」
「そういうことでしょ。私が自分で選んだ相手は、信じられないんだ。私が好きになった人を、信じられないんだ」

 涙ぐんだ奏澄に、メイズははっとしたようだった。メイズの言い分は、奏澄の目が節穴だと言っているのと同義だ。

 ――私の好きな人を、悪く言わないで。

 奏澄はメイズの首に腕を回してぐっと引き寄せると、軽く唇を重ねた。
 触れるだけですぐに離したが、急な出来事にメイズは呆然としていた。

「こういうことも、それ以上も、他の人としていいの。メイズは、それで何とも思わないの」

 気づいてほしい。さすがに、ここまでくれば奏澄にもわかる。だから、諦めたくない。望むものを手に入れることを、ためらわないで。

「私がキスしたいと思うのは、メイズだけだよ。愛してるのも、メイズだけだよ。汚そうが何しようが構わないから、もっと欲しがってよ」

 愛情も、幸福も、もっと求めて、欲しがって。それらを手にすることを、抱えることを、持ち続けていくことを、怖がらないでほしい。そのための支えに、私がなるから。

 メイズは瞳に戸惑いを宿しながらも、震える手で奏澄の頬を撫でた。その手に奏澄が手を重ねれば、泣きそうに顔が歪んだ。仕方のない人、と思いながら、奏澄は微笑んだ。

「お前を、壊すかもしれない」
「そんなに柔じゃないよ」
「束縛、するかも」
「やりすぎたら、ちゃんと怒るから」
「お前が思うような、男じゃないかもしれない」
「むしろもっと見せてほしい。私が知らないメイズを」

 何を言っても微笑むばかりの奏澄に、メイズは続く言葉が思い当たらないらしい。
 けれど、一番大切な言葉をまだ聞いていない。奏澄は、優しい声で促した。

「他に言いたいことは?」

 メイズはぐっと言葉を詰まらせて、何度か息を吐き出した後、その一言を大切に、大切に音にした。

「――愛してる」

 耳元で、掠れた声で囁かれた言葉に、奏澄は目が熱くなるのを感じていた。この言葉だけで、全ての過去に意味があったと思える。どんな未来にも立ち向かえる気がする。
 交わした口づけは、今度は長く離れることはなかった。
「さて、天気良好、とはいかないけど、海に出るには問題なしかな」

 久方ぶりに帆を張って、奏澄はコバルト号の上甲板から『窓』を眺めていた。

「でも、いいんですか? ハリソン先生。この島を出てしまうと、もうはぐれ者を治療する機会はなくなると思いますけど」

 くるりと振り返った先には、ハリソンの姿があった。ハリソンは、この島には残らずに、奏澄とメイズの出航に合わせて、また船医として船に乗ってくれることになったのだ。

「構いませんよ。かなりのデータは取れましたし、助手も一年で随分と育ちました。もう私がいなくても、困らないでしょう。それなら、外の世界であなたの傍についていた方が安心です」
「正直、助かります。ありがとうございます」

 奏澄が眉を下げて微笑むと、ハリソンも心得たように微笑んだ。

「最初は、どこに行くんだ」

 メイズの言葉に、奏澄は決めていたとばかりに答えた。

「アルメイシャ! メイズと回った順に、回ろうかなって」

 アルメイシャには、ライアーとマリーたちが待っている。最初に、奏澄の仲間になってくれた者たちだ。せっかくだから、仲間たちと会った順番に、もう一度世界を巡っていこう。
 今度は、義務じゃない。会いたい人に会いに行くための、楽しい船旅だ。そして。

 奏澄がメイズをじっと見ていると、視線に気づいたメイズが首を傾げた。それに何を答えることもなく、奏澄は照れくさそうに笑った。

 愛しい人が隣にいる。それだけで、何も不安はない。大丈夫だ。

「出航!」

 海面を波立たせ、船は進み、窓を潜って大海原を往く。
 たんぽぽの旗を、風にはためかせて。





==================
これにて第一部・完結となります。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
少し間を空けて、第二部を毎日更新予定です。
もし気に入っていただけましたら、是非評価・感想等いただけますと大変嬉しいです。
よろしくお願いいたします。
 かつて世界は地続きだった。
 まっさらな大地を息吹かせるため、天は地上に神と天使を遣わされた。
 神は生命を生み出し、天使はそれらを育んだ。
 地上には善なるもののみが息づいていた。
 営みが広がっていくと、天使たちの管理だけでは追いつかなくなった。
 神は自ら思考し豊かさを作り上げる存在を求め、自分に似せた命を、人間を作った。
 神や天使に叛くことのないように、翼は与えず、神通力も使えないようにした。
 己の手足と、知恵のみを使う存在。しかしそれは、急速に成長し、繁殖した。
 個体数が増えると、同種の間で差異が出るようになった。その差はいつしか争いの種となり、人間は『悪意』を持つようになった。
 善なるもののみで保たれていた平和は崩れ、悪意は凝り固まり、地の底から『悪魔』を生み出した。
 悪魔は人の悪意から更に『魔物』を生んだ。
 『悪』が形を得たそれらは、何もかもに害をなし、世界に恐怖をもたらした。
 手に負えなくなった神は、大地を粉々に割った。
 集まってしまえば争うのなら。そこに悪意が生まれるのなら。多くが集まらないように、大地を小さくしてしまおう。
 悪なるものたちは、世界の一番遠い所へ追いやってしまおう。
 そして自分たち、善なるものが住まう大陸を一つ残して、人々は交流できないように海で分断され、悪なるものたちは暗くて寒い地の果てに追いやられた。
 それでも人は知恵をつける。分断された海を渡る手段を生み出し、割れた大地と大地の間を行き交うようになった。
 悪意は止まず、悪魔に力を与え続けた。
 苦悩の末、神は一人の女神を悪魔の元へ送り込む。
 女神の計略により、悪魔は神の剣で胸を貫かれ、打ち倒された。
 『悪』の象徴を失った人々は、再び『善』なるものに救いを求め、導かれ、従った。
 かくして、世界は再び平穏を取り戻した。
 かの女神はその栄誉を称えられ、善なるものたちが住まう国の紋章に刻まれることとなった。
 現在のセントラルの国章、女神マリアである。



 ――セントラル建国書より抜粋。
 大地が燃えている。人が燃えている。全てを焼き尽くす業火の中、耳をつんざくような悲鳴に混じって、楽しげな高笑いが響いた。

「あっはっはっは!」

 ()()は高い岩の上に胡坐(あぐら)をかいて、愉快そうに地獄絵図を見下ろしていた。
 夜の闇を溶かしたような長い黒髪に、血の色の瞳。(わら)う口元からは、牙と言えるほど尖った犬歯が覗いていた。
 それは若い男の姿をしていたが、人間ではない。彼は、悪魔と呼ばれていた。

「た、たすけ、て」

 炎に体の半分を焼かれながらも、枯れた声で助けを求める女が、悪魔のいる方へ手を伸ばした。ほとんど目が見えていないのだろう。届くはずもない距離に、人の形をした何かがいる、という認識のみで、ただただ縋った。
 それを耳にした悪魔は、ついと指を動かした。その指に従うように、炎の中から黒い塊が飛び出した。

「ぎゃあああ!!」

 黒い塊は、獣の形をしていた。狼によく似た姿をしているが、毛並みは針鼠のように硬く尖っている。それは魔物と呼ばれる生物だった。
 鋭い牙で女に噛みつき、切り裂いた。あっという間に女だったものは、ただの肉片となった。
 悪魔は、虫を潰す子どものような無邪気さで、更に指を振った。それに応えるようにあちこちで黒い塊が動く。僅かに残っていた息のある人間たちが、次々と悲鳴を上げて食い殺されていく。
 断末魔の音楽を目を細めて聞いていた悪魔だったが、近づく気配に眉を顰め、舌打ちを零した。

「目障りなのが来やがった」

 炎が、遠い箇所から順に消されていく。粉雪のようなものがちらちらと舞って、徐々に勢いを失っていった。地を這う赤が落ちつくと、散乱する死体が目立って見えた。
 悪魔がぎろりと睨み上げた先には、白い翼を持つものたちが浮かんでいた。純白の髪と瞳を持ち、人の形ではあるが、女性とも男性ともつかない体をしていた。天使と呼ばれる存在である。
 天使は悪魔に向かって光の球体を次々に飛ばした。しかし悪魔が手を払うと、指先から黒い弦がしゅるしゅると伸び、絡み合い、悪魔の身を守るように半球状に広がった。黒い盾に光の球体がぶつかり、周囲を照らして弾け飛ぶ。
 光が収まるよりも早く、黒い弦が素早く天使たちに伸び、その首に絡みついた。ぎり、と弦が締まり、刃物のような鋭利さで首を落とす。切断面からは血が流れることもなく、落とされた首と、分断された体は、さらさらと灰になっていった。
 それを悪魔は、つまらなそうな目で見つめていた。



 神殿にて。一連の様子を映した大鏡を、天使たちが囲んでいた。

「このままでは、人間の数は減少する一方です」
「天使の力では、悪魔には敵いません」
「神よ、ご決断を」

 神、と呼ばれた存在は、天使たちよりも高い位置にある壇上の椅子に腰かけていた。
 白銀の髪は美しく、金の瞳は光を集めたように煌めいている。体は男性体のようだった。
 神は大鏡を見つめ、暫く沈黙していた。やがて重い腰を上げると、立てかけてあった杖を手に取った。
 自身の身長よりも長いそれを、神は一度掲げた後、地面へと突き立てるように振り下ろした。
 コォン、という音が波状に広がっていく。その音は、世界の隅々まで響いた。



「……なんだ?」

 奇妙な感覚に、悪魔が周囲を見渡す。途端、地面が揺れ出した。ゴゴゴゴ、という地響きが鳴り、次々に亀裂が走っていく。
 大地が、割れていく。
 地上にあったものが、亀裂に呑まれていく。死体が滑り落ちて、奈落の底へと消えていく。
 悪魔の座っていた岩もたちまちひび割れ、彼は体勢を崩した。

「ッちィ!」

 悪魔は舌打ちをして、黒い弦を伸ばした。別の岩に巻きつけたものの、その岩もすぐに崩れてしまう。
 悪魔は()()()()()()。地の底から生まれた彼は、空で活動することができない。それは彼が使役する魔物たちも同様だった。魔物には様々な種類がいるが、翼を持つものは一つもない。

「クソ野郎が……!」

 恨み言を吐きながら、悪魔は亀裂の間へと落ちていくのだった。
「×××! ××××?」
「……あァ?」

 目を覚ました悪魔は、不機嫌そうに顰め面で声を漏らした。
 見知らぬ少女が、自分を覗き込んでいる。
 いらいらしながら身を起こせば、そこはどこかの砂浜だった。周囲を見回すも、少女以外の生物の気配は無い。霧の濃い島に、悪魔は目を眇めた。

 ――()()じゃねェな。

 ここは、先ほどまで自分がいた場所とは切り離された空間だ。次元の狭間にでも落とされたか、と悪魔は舌打ちした。
 思考を巡らせていると、ぐいぐいと何かに服を引っ張られ、悪魔は怒鳴った。

「ッンだよ、うぜェな!」

 殺気立った悪魔に怯むこともなく、少女はきらきらとした目で悪魔に話しかけた。

「××××?」
「だァら……何言ってんのか、わっかんねンだっつの!」

 がっと音がしそうな勢いで、悪魔は少女の頭を鷲掴み、力を込めた。少女から悲鳴が上がる。

「いったぁーい! なにするの!?」
「ぴーぴーうるせェ。ここはどこで、お前は何だ」
「ここがどこかは知らない。わたしは……って、あれ?」

 答えて、少女はただでさえ丸い目を更に丸くした。

「すごい! 言葉わかる! なんで!?」
「騒ぐな」

 魔物は獣の形をしているので、人の言葉が発音できない。声帯はあるので、意思疎通を図るため、悪魔は互いが発する言葉を翻訳する魔術を使っていた。同じ種族であれば、別個体でも効果は同様に発揮する。少女はどうやら、今まで悪魔が出会ったどの種族とも違うらしかった。そのため、新たに術をかけたのだ。

「わたし、マリアっていうの。あなたの名前は?」
「名前なんかねェよ」
「うそ! だって名前がなかったら呼べないじゃない。他の人からはなんて呼ばれてるの?」
「悪魔」

 そう言うと、少女――マリアは、息を呑んだ。

「名前なんて、個体識別のためのモンだろ。悪魔は俺しかいねェから、必要ねンだよ」
「……だったら、わたしがつけてあげる」
「はァ?」
「そうね……あなたの名前は、フランツ。フランツよ!」

 呆れ顔の悪魔をよそに、マリアは棒きれを手にして、砂浜に文字を書いた。

「綴りはこうね。覚えた?」
「……なんだこりゃ」
「え? アルファベットよ。言葉が通じたんだから、文字も読めるんでしょ?」
「文字なんか使わねェ」
「えぇ!? なにそれ、そうなの!? 不便!」
「いらねェよンなまだるっこしいモン」

 文字を書き記すようなことなどない。それを読む者もいない。そもそも、こうして会話をすることがほとんどない。
 悪魔と、敵意も恐怖も持たずに、会話をする者など。

「うぅん……。まぁ、わたしもここに来てから文字なんて全然使ってないもの。わからなくても、困らないわね」

 腕組みをして、うんうんと勝手に頷いている。ころころと表情の変わるマリアに、悪魔は奇妙な生物を見る目を向けていた。

「フランツは、どうやってここに来たの?」
「…………」
「フランツ?」

 了承した覚えは無いが、マリアの中では悪魔の呼び名はフランツで決定済みらしい。言い返すのも馬鹿らしくて、悪魔――フランツは、溜息を吐いた。

「俺は、地上から落とされてここに来た。お前は」
「お前じゃなくて、マリアよ」

 諭すような言い方にいらっとして、悪魔は指先から黒い弦を伸ばした。それはマリアの首に絡みついて、軽く締めあげる。

「俺に意見すんな。俺はいつでも()()を殺せんだぜ」

 赤い瞳に睨まれて、マリアは初めて恐怖を見せた。
 ああ、そうだ。人間は、どいつもこいつも。これが、普通だ。
 まだここの情報は得られていないが、面倒だし殺してしまおうか、とフランツが指先を動かそうとすると。

「マリア、だって、言ってるでしょ」
「……あァ?」
「名前で、呼んで。大事なことよ」

 自分を睨み返してくる碧眼を見て、フランツはマリアに多少の興味が湧いた。
 細い首は薄皮が切れて、僅かに赤い血が流れ出していた。それでも、彼女は自分の意志を曲げない。
 ふん、と鼻を鳴らして、フランツは弦を解いた。
 膝をついて咳き込むマリアに近づき、フランツはべろりと首筋の血を舐めとった。

「どうでもいい。けどまァ、殺すのはいつでもできるからな。俺が飽きるまでは生かしといてやるよ、マリア」

 舌なめずりをして酷薄な笑みを浮かべたフランツを、マリアは威嚇するように睨んだ。
 彼女はわかっていない。悪魔相手に、生きていられるということがどれほどのことか。
 しかし同時に、それはフランツにも同じことが言えた。悪魔が、人間を生かそうとしたことが。会話しようと思ったことが、どういうことなのか。
 今まで悪魔と会話を試みる者などいなかった。だから、彼自身も気づくはずがなかった。

 悪魔とは。出会う生物を片っ端から殺して回る、殺戮兵器ではない。
 悪魔は人間の悪意から生まれた。悪意は、残酷な感情のみに限らない。愛憎、嫉妬、執着、人の悪意は愛情と裏表なことがある。人から生まれた悪魔は、神や天使よりもよほど人に近い感情を有している。

「で? マリアはなんでこんなとこにいんだよ」

 どかりと砂浜に座ったフランツに、マリアも座り直した。
 ひとまず要求は呑まれたので、渋々といった風に口を開く。

「わたしは、海神様に捧げられたの。海に沈んで、死んだと思ってたんだけど、気づいたらここにいて」
「生贄か」

 鼻で笑うと、マリアがむっとした。

「わたしはお役目を果たしたの。きっと村は海神様の加護で、豊漁を迎えているはずよ」
「人間てのはほんとめでてェ頭してんな。神が生贄なんていちいち受け取ってるわけねェだろ。無駄死にだな、マリア」

 馬鹿にしたようなフランツに、マリアは真っすぐな目で言い切った。

「無駄なんかじゃないわ。仮にそれが神様にとって意味の無い行いだったとしても、村人たちにとっては大切な儀式だもの。ならそれは、意味のあることよ」

 フランツは目を眇めた。悪魔は、人の悪意に敏感だ。彼女が自分を殺した村人たちを恨んでいれば、わかる。
 この言葉は嘘ではない。彼女は誰も恨んでいない。だから解せない。何故、自分を死に追いやった者たちを許せるのか。

「ああでも、今こうしてるってことは、わたし死んでないのね。それとも、ここはあの世なの?」
「まァ現世じゃねェから、似たようなモンっちゃそうだが。少なくともその体は生きてんぜ」
「やっぱり? そうよね、お腹も空くし、眠くもなるから。変だと思った」

 言って、マリアは腹を押さえた。どうにも会話がずれている。

「どうやって暮らしてんだ」
「えーとね、島を散策したんだけど、果物は()ってるし、水場もあるの。だからとりあえず生きるだけなら困らないかな。寝る場所は草の上よ。今のところ雨が降ってないからなんとかなってるけど、お天気が崩れたらどうしようかなーって」
「へェ、案外図太いんだな。人間ってのは群れからはぐれたら生きられないとばかり思ってたぜ」
「そんなことないわよ。人間って、結構強いんだから」

 にひ、と歯を見せて笑った彼女は、この状況に絶望など微塵もしていないようだった。

「フランツも、仲間とはぐれちゃったの?」
「仲間なんかいねェよ」
「でも、一人じゃない」
「群れを作るのは弱いからだろ。俺は強いから、必要ねェ」
「必要よ」

 ずい、とマリアはフランツの方へ身を乗り出した。

「だってこうして、会話ができるじゃない。なら、話す相手は必要だわ。生きるだけなら一人でもできるけど、生きてるとは言えないのよ」
「意味わかんねェ。矛盾だらけじゃねェか」
「もう! わかるでしょ!」

 伝わらないもどかしさから、マリアは両手でフランツの手を取った。

「ほら!」

 フランツは、呼吸が止まった。どうして、こんなことで。
 他の生物の体温。他人の手の柔らかさ。自分以外の、命。
 奪う時にしか感じたことの無かったそれが、今、目の前で息づいている。

 ――そうか。マリアは、生きているのか。

 そんな当たり前のことを、今更ながらに思った。生きている。殺していないから。生きて、会話をして、そして。
 今、手を取っている。

「わたしたち、二人とも群れからはぐれて一人ぼっちになっちゃったけど。今こうして二人でいるから、新しい群れが作れるわ。二人しかいないんだもの。仲良くしましょ!」

 花が咲くように笑ってみせたマリアが、ちかりと光った気がした。

「あれ? 二人しかいない場合は群れって言わないのかしら。つがい? でもそれちょっと意味違うわよねぇ」

 能天気に首を傾げるマリアに、フランツは苛立たしげに舌打ちをした。
 いらいらする。いったい何に、こんなに、感情を乱されているのか。
 そもそも。感情というものが、あったのか。
 わからない。何もかも。わからないから。
 まだ、殺さなくていい。
 落とされた島で、フランツは暫くの滞在を余儀なくされた。この空間から出るには次元を越える必要があり、今のフランツにはそのための魔力が不足していた。無理やりこの島に落とされた時に、かなりの魔力を消耗してしまったのだ。魔力が回復するまでは、ここに留まるしかない。
 使役するための魔物を生み出すには、人間の悪意が要る。しかしこの島には、悪意を持つ人間が存在しない。手足となって動く存在を失った彼はどうしたか。
 何も、しなかった。

「ちょっと、フランツ!」

 怒ったようなマリアの声に、フランツは一度瞼を開くと、うっとおしそうに視線をやってそのまま閉じた。

「もう! この島に来てから、ごろごろしてばっかりで何もしないじゃない! ちょっとは手伝ってよ!」
「知るか」
「そんなこと言うなら、ごはんあげないんだからね!」
「頼んでねェ」

 口ではそう言いながらも、マリアはフランツの横に、採ってきた果物を置いた。
 フランツは転がったままそれを手にして、口に運んだ。
 別に、食事をとらなくても死にはしない。悪魔の体は不老不死である。この身を滅ぼせるものは、神だけだ。それと同時に、神を殺せるのも悪魔であるフランツだけ。だから神は不用意にフランツに接触してこない。
 食事も睡眠も必須ではないが、マリアはそのことを知らない。食物を摂取すれば多少なりとも魔力は回復する。睡眠も然り。都合が良いので、フランツは黙ってマリアに貢がせていた。

「フランツは、この先どうするつもりなの?」
「回復したら出ていく」
「えっ!? ここ出られるの!?」
「俺はな」

 フランツは、魔力さえ回復すれば次元の壁を破って元いた地上へ帰れる。しかし、マリアは違う。彼女は世界の(ことわり)から外れている。仮にフランツが連れて行こうとしても、マリアはここを出られない。

「そう……そうなの。フランツは、いなくなっちゃうのね」

 マリアは寂しげに呟いた。彼女にとっては、生贄として殺されるより、無人島での生活を強いられるより、孤独が何より辛いようだった。だから、自分を殺しかけた男にも、こうして尽くそうとする。

「わたしね、今家を作ろうとしてるの。フランツにも手伝ってほしかったけど……ずっと生活するわけじゃないなら、フランツには要らないわよね。でも、気が向いた時にでも、ちょっと手を貸してくれたら嬉しいな」

 明るく取り繕ったマリアに、フランツは黙って果物を齧った。
 人間は脆いから、生活基盤が必要なのだろう。しかしフランツにはどうでもよかった。自分がいなくなった後のことになど興味は無い。今だって生きてはいるのだから、家など無くても死にはしないだろう。
 そう思って、彼女が毎日あくせく働くのを横目に見ていた。



 水の気配に、フランツは顔を上げた。この島は霧に覆われている。いつでも湿度が高いため気づきにくいが、目を凝らせば雨雲が見えた。間もなく、強い雨が降り出す。この島の天候は固定されているとばかり思っていた。想定外のことに、フランツは舌打ちした。フランツにも、雨に濡れれば不快だと思う感覚はある。別段体に支障はきたさないので、このまま雨に打たれていてもどうということはないが。
 あの女は。
 気にかけてやる義理など無いが、あれが死ぬと自分の世話をする者がいなくなる。
 様子を見に行くだけだ、とフランツはマリアの元へ足を向けた。

 マリアは、木の根元に座り込んでいた。しかしこれだけの強い雨だ。枝も葉もそれほど雨避けの役割は果たしてくれずに、彼女はずぶ濡れになっていた。

「いい格好だな」
「フランツ」

 嘲笑うようなフランツに、マリアが顔を向ける。その顔を見て、フランツは口を噤んだ。
 マリアの顔は真っ青だった。唇は色を無くし、体は小刻みに震えている。
 悪魔の肉体の強度は、人間とは比にならない。暑さや寒さにやられることはまずない。
 けれど、彼女は。弱くて脆くて、ただの人間であるマリアは。
 この程度で、死んでしまう。
 マリアが死んでも困らない。下僕がいなくなれば多少の不便はあるかもしれないが、大したことではない。
 ただ。ここには、他に人間がいない。彼女がいなくなれば、遊べるおもちゃが無くなる。それは退屈だ。
 退屈は嫌いだ。永久の時を生きるフランツにとって、刺激は必要なことだった。

 フランツは、黙ったまま指先から黒い弦を出した。それにマリアが目を瞠る。首を絞められた時を思い出したのかもしれない。
 しかしその弦は絡み合い、マリアを囲うようにドーム状で固まった。鋼鉄のようなそれは水をしっかりと弾き、水滴の一つも入ってこない。

「あ、ありがと」

 感情の読めないフランツに、マリアは戸惑いながらも礼を告げた。フランツは、答えなかった。
 雨に濡れ続ける彼に、マリアはドームの中から声をかけた。

「ねぇ、フランツも入ったら? 濡れるよ」

 と言っても、フランツもマリア同様、既にずぶ濡れである。今更、と思いながらも、フランツはマリアの言葉に従った。
 ドームの中で、マリアはまだ震えていた。濡れた体が乾いたわけじゃない。寒さは続いているのだろう。

「……ねぇ。くっついても、いい?」

 遠慮がちに、マリアはフランツに尋ねた。寒さに耐えかねたのだろう。火の無いこの場では、人肌くらいしか暖を取れるものがない。
 魔術を使えば火を起こすこと自体はできるが、燃やし続けるには魔力を消耗する。今のフランツの状態で、ドームを維持したままそれを行うのは厳しい。自然に燃焼させ続けるには、乾いた薪を用意しなければならない。この雨の中、それを探しに行ってもすぐには見つからないだろう。

「服脱げよ」
「えっ!?」

 慌てるマリアをよそに、フランツは着ているものを脱いで水を絞った。フランツは単に不快だからだが、マリアは違う。水は吸熱する。蒸発する時に熱を多く使うので、濡れた服は着ているだけでどんどん体温を奪われる。
 フランツの調子から、(よこしま)な感情は無いことを悟ったのだろう。マリアもおそるおそる服を脱ぎ、それを絞った。絞った服で髪や体を軽く拭って、更に絞る。
 それから遠慮がちにフランツにくっついたマリアを、フランツが抱え込んだ。

「ひょわぁ!?」
「うるせェ」

 珍妙な悲鳴を上げたマリアは、フランツの一声で黙った。
 そのまま、沈黙が続く。
 雨の音が、葉を弾く音が、水が流れる音が、響く。
 フランツは、視界を遮るように目を閉じた。そうすると、余計に感じ取ってしまう。自分以外の命を。
 マリアの体は冷え切っているはずなのに、熱い。いや、熱いのは、自分の方なのかもしれない。

 この腕の中に。呼吸が。鼓動が。体温が。

 喚き散らしたい気分だった。今すぐ壊してしまいたい衝動に駆られた。
 不快だった。理解のできない何かが、自分の中にあるということが。
 跡形もなく粉々にしてしまえば。全て、無かったことになるんじゃないか。

「あったかいね」

 沈黙に耐えかねたのか、マリアが照れくさそうにそう零した。

「フランツがいてくれて、良かった」

 そう言って、マリアは微笑んだ。

 ――良かった。俺がいて。悪魔の、俺がいて。

 悪魔の自分の存在を、望んだ者などいない。望まれて生まれた存在ではない。
 それをどう思ったこともない。そういうものだった。そういう生き物だった。悪意から生まれた悪魔は、ただ悪意をばらまくだけの災害。だというのに。

 ――俺は、いて、良かったのか。

 震えた息は、雨音に混ざって溶けて消えた。
 黒い弦が踊り、あっという間に木が木材の形になる。その光景を目の当たりにして、マリアはあんぐりと口を開けた。

「これでいいのか」
「す……っごーい! 便利! わたしの努力はいったい……」

 むしろ今まで何をやっていたのか。一向に進んでいなかった家づくりに、フランツは呆れ顔だった。

「次どうすんだ」
「あ、えーっとね」

 記憶を頼りに覚束ない指示を出すマリアに、フランツは疑わしげにしながらも弦を操った。人間の住居のことなど知らない。正解がわからないのだから、とりあえず言う通りにするしかない。
 なるべくなら魔力は温存しておきたかったが、黒い弦はフランツの手足の延長にあるほど慣れた力だった。それほど大掛かりなことをしなければ、消耗は最小限に抑えられる。

「それにしても、急に家づくりを手伝ってくれるなんて、どういう風の吹き回し?」
「家が無いと死ぬんだろ、人間は」
「そのくらいじゃ死なないけど」

 死にそうだったくせに。思ったけれど、言わなかった。彼女を心配しての行動だと思われたら(しゃく)だ。

「でも嬉しい。ありがと」

 にひ、と子どもっぽく笑うマリアが、ちかりと光った。

 それからフランツは、気まぐれにマリアを手伝うようになった。いつも共にいるわけではないが、食事は一緒にとるようになった。会話が増えて。接触が増えて。マリアには、笑顔が増えた。
 二人で過ごすことが自然になった頃。ついに、家が完成した。

「や……った~! 長かった!」

 感激した目で家を見つめるマリア。簡易なログハウスなので、快適さはさほどない。まだ内部は改良の余地があるだろうが、最低限の機能は果たすだろう。

「ありがとう! フランツ! ほんっとうにありがと~!」
「大げさなんだよ」

 両手をとってぶんぶんと振ってみせるマリアに、フランツは体を引いた。

「これで一緒に住めるわね!」
「住まねェよ」
「えっ!? なんで!?」
「そろそろ出てく」

 マリアは、先ほどまでの興奮が嘘のように、一瞬で表情を変えた。
 何かを言おうと口を開いて、空気だけを吐き出して、俯いて唇を噛んだ。
 再び顔を上げた時には、眉を下げながらも、笑顔をかたどっていた。

「そっか。元々、出てくって言ってたものね。家ができるまで居てくれて、ありがとう」

 フランツは顔を逸らした。その通りだ。本当は、もっと早くに出ていけた。けれど、家が完成するまでは、と。ここに残ったのは、フランツの意志だ。それを見透かされたことが、なんだかきまりが悪かった。

「たまには、会いに来てくれる?」
「アホか。そうひょいひょい来れる場所じゃねェよ、ここは」
「あはは、だよねぇ。だって、フランツ以外、誰も……来ないものね」

 寂しそうに笑ったマリアに、フランツはじりじりとした居心地の悪さを感じていた。
 もう用は無い。義理も無い。地上に戻れば、人間は山ほどいる。マリア一人を気にかける必要など、ありはしないのに。
 自身の中に渦巻く感情を追い払うように、大きく舌打ちした。

「おい。『がらくた箱』漁んぞ」
「え、え?」

 『がらくた箱』とは。マリアが、砂浜から拾い集めた物を詰め込んだ箱のことだ。この島には、人間はマリアしかいない。しかし、時折どこからか流れ着いた物が砂浜に打ち上げられていた。この島の周囲の海は、直接外界とは繋がっていない。つまり、この島への漂着物は、どこか異界から紛れ込んだものだということになる。明らかに文明の違う物、理解のできない物、壊れて直せない物。それらを、何かに使えるかもしれないと、マリアは見つけては保管していた。

「これでいいか」

 フランツは一つの壊れたコンパスを手に取った。文字は擦り切れて、何の印もない。けれど、媒体は何でも良かった。(しるべ)となりさえすれば。
 ぐっと握り込み、それに魔力を込める。

「手出せ」

 疑問符を浮かべるマリアの手をとって、フランツはマリアの指先にコンパスの磁針を刺した。

「いったぁ!」
「うるせェ」

 じわじわと、磁針がマリアの血を吸って赤く染まる。マリアの手を離すと、今度は磁針の反対側にフランツが指を刺した。同じように、磁針がフランツの血を吸っていく。
 さっぱりわけのわからないマリアに、フランツはコンパスを手のひらに乗せて見せた。

「これが、俺とマリアを繋ぐ。マリアの血を辿って、居場所がわかる」
「……くれるの?」
「なんでだよ」

 物わかりが悪い、とフランツは顔を顰めた。マリアはこの島から動けないのだから、道標は必要無い。

「俺が。これを辿って、会いに来る」

 絶対の保証は無いが、一度通った道だ。標と、フランツの魔力があれば。再びこの島へ訪れることは、できるはずだ。

「会いに、きて、くれるの?」
「だからそう言ってんだろ」

 照れ隠しからか、苛立ったようにそう告げたフランツに。
 マリアは、涙を浮かべて、満開の笑顔を見せた。
 島を出たフランツは、地上のありさまに顔を顰めた。
 大地が、砕けている。
 かつて果てが見えぬほどに広がっていた地面は、分断され、時間の経過によって移動し、大量の水に浮かぶ島となっていた。
 それぞれの島はある程度の広さがあり、散らばった人間は小さなコミュニティを形成しているようだった。
 フランツは舌打ちした。翼を持たない悪魔は、空を飛んで移動することができない。だが、この大量の水は、底が見えない。歩いて渡ることは不可能だろう。沈んでも溺れ死ぬことはないが、上がってこられなくなる。何らかの手段を講じなければ、別の島へ移動することはできない。

 ――寒いな。

 吐いた息が白い。この場所は、どうやらとても寒いようだ。
 寒さで凍ることは無いが、温度はわかる。だが、それだけではない。
 今まであった温度が無いから、寒いのだ。
 そのことに気づいて、フランツは苛立たしげに眉を寄せた。
 大量の水を睨みつければ、遠目に何かが浮かんでいるのが見えた。目を凝らすと、何やら木の皮を丸めたものに、人間が乗っている。
 目視できる距離ならば。
 フランツは指先から黒い弦を伸ばし、見えた物体に引っかけた。そしてそのまま引き寄せる。

「よォ」

 にぃと口の端を吊り上げると、それに乗っていた男は青ざめた顔をした。

「いいモン持ってんな。なんだこれ」
「ふ、ふね、です」
「フネ?」
「う、海を渡るための、乗り物です。島と島を、行き来するには、これが、必要で」
「へェー……」

 海。そうだ、海だ。マリアも言っていた。
 あの島は、それだけで独立した空間だった。どこへも繋がっていないから、あの水の先へ行こうなどとは露ほども思わなかった。
 しかし、ここでは、この水を渡るための移動手段が要る。

「これ貰うぜ」

 一方的に告げて、フランツは男を船の外へ放り出した。

「えっ!? こ、困ります! わ、私も、船がないと、自分の島へ帰れません……!」
「知るかよ。海に突き落とさねェだけマシだと思え」

 積んであった櫂を手に取って、しげしげとそれを眺める。

「これで動かすのか?」
「か、返して、ください」

 縋る男を冷たい目で見下ろして、フランツは男を踏みつけた。

「使い方を、訊いてんだよ。訊かれたことだけ答えろ」
「う……っ、そ、そうで、す。それで、水を、かいて……っ」
「はァ、なるほどな」

 なんとなく、どういう装置かは把握した。
 フランツは船に乗り込むと、一匹の小さな魔物を生み出した。それは猿に似た形で、全身毛むくじゃらだったが、手だけは人間のようにつるりとした五本の指を持っていた。
 ぎょろりとした目でフランツを見上げたそれに、櫂を持たせる。

「じゃァな」

 軽い声で告げて、フランツは男を置き去りに、船を出した。毛むくじゃらの魔物は、器用に小さな手で櫂を動かしている。
 島に残された男は、恨めしげな目で、離れていくフランツを見送った。

 恨め。憎め。それが、悪魔の力となる。

 あの男の悪意程度では、こんな小さな魔物にしかならないが。人の集まる場所へ行けば、いくらでも生み出せる。
 人間はいつでも悪意に満ちている。できるなら、血の臭いのする場所へ行きたい。
 気分が高揚する。ようやく調子を取り戻せたと、フランツは楽しげな笑みを浮かべた。

 ひとまず人の気配がする島へ船を寄せると、フランツは慣れた臭いを嗅ぎ取った。
 
「――ははっ」

 乾いた笑いが零れる。ああ、やはり、人間は変わらない。土地が変わっても。悪魔の自分が姿を消しても。争いを、やめない。
 心地良い悪意の気配を感じ取りながら、フランツは魔力を放出する。
 地面に黒い油のような液体が滲みだし、どろりどろりと形を変えながら、獣の姿になっていく。

「さァ。狩りの時間だ」

 魔物たちが一斉に駆け出す。血と肉の焼ける臭いを目指して。



 悪魔の再臨に、人間は再び恐怖に震えることとなった。
 極寒の地へ取り残されたかと思われた悪魔だったが、人間の生み出した海を渡る技術を用い、近くの島々へ移動していた。まだ長距離航海できるような船が存在しないため、神の住まう地へ来るまでには相当な時間がかかるだろう。しかし、放置していればそれも時間の問題だ。天使たちはざわついた。

「あれは奈落へ落ちたのではなかったか」
「いったいどうやって戻った」
「力を失って弱っていたはず」

 大鏡に映る悪魔の姿を、神は無感情な目で見つめていた。