目を閉じて、波の音を聞く。
潮の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
海風を肌で感じる。
そうしてやっと目を開いて、眼前に広がる一面の青を見つめる。
それが、奏澄の落ち込んだ時のリフレッシュ方法だった。
大学から電車と徒歩で三十分かからずに来られるこの高台が、奏澄のお気に入りのスポットだ。上まで登る方法が階段しかなく、そこそこの体力が必要。海が見えるだけで他には何もなく、観光地でもないこの場所は、夏のシーズン中はともかく肌寒くなる季節にはそれほど人も来ない。一人で考えごとをするにはちょうど良い場所だった。
海にいると落ちつく。山も嫌いではないけれど、やはり海が好き。幼い頃から海の近くで育ったこともあるだろう。
手摺に乗りかかるようにして腕を置き、その腕に顎を乗せた。そのままぼーっと海を眺める。
――なんだか今日も、うまくいかなかった。
勉強も、部活も、バイトも、それなりにはこなしている。それなりに。家があって、両親がいて、学校に通えて。きっと人から見たら、何の問題も無いのだろう。どこにでもいる、ありふれた、一人の女の子。
けれど奏澄は、満たされない何かを感じていた。言いようのない不安が胸を占めて、ざわつく。みぞおちの辺りがずくりとして、どうしようもなく泣きたくなる時がある。
誰と喋っていても、なんだか存在があやふやで、まるで自分がそこにいないように感じる。笑っているのに、心が冷えている。自分の居場所はそこには無いのだと、思ってしまう。
映画や小説のようなドラマチックな出来事は、現実には起こらないのだということはとうに知っている。本音を曝け出して心を預けられるような友情も、全てを投げ打ってお互いを求めるような恋愛も、そうそう有りはしないのだ。
そんな中で、皆うまくやっている。うまくやっていく術を身につけて、それなりに自分の人生を楽しんでいる。
それが奏澄には、うまくできない。自分と他人のバランスを取ることが、奏澄にとってはひどく難しかった。近づこうとすれば境界線が曖昧になり、距離を取ると遮断してしまう。
ただ、誰かに必要とされたい。それだけのことなのに、いつも空回りしてしまう。
うまくいかなくて、その度に落ち込んで。自分など、要らないのではないかと。答えの出ない問いかけを何度も繰り返し、息が詰まる。
だから息をするために、この場所に来るのだ。ここだと、呼吸ができるから。
――このまま海に溶けてしまえたら、悩みなんてなくなるのにな。
頭を過ぎった馬鹿な考えを吐き出そうと、奏澄は深く息を吸った。
ドン!!
吐き出そうとした息が衝撃で詰まる。ぐらりと体が傾ぐ。自分の体が手摺を越えて、青がどんどん近づいてくる。
誰かに突き落とされた、と認識した頃には、冷たい海に沈んでいた。
薄れていく意識の中で、人の体は海には溶けないんだな、などと、当たり前のことを思った。
「――――……」
波の音が聞こえる。潮の香りがする。
慣れた感覚に、意識が浮上する。ざらりとした感触が不快で、手をついて体を起こすと、パラパラと砂が落ちた。そこで、どうやら砂浜に倒れていたらしい、ということに気づく。
ぼうっとする頭のまま、奏澄はその場に座り込んだ。体に異常がないか確かめるために少し動かしてみて、多少の打撲はあるものの、折れたりはしていないことに安堵する。あの高さから落ちて無事なのは奇跡に近い。荷物は全て無くなってしまったが、仕方がないだろう。
高台から落ちて、そのまま下の浜に打ち上げられたのだろうか。沖に流されなくて良かった、と思いながら周囲を見回して、奏澄は愕然とした。
「どこ、ここ……?」
見慣れた景色とは全く違う風景が、そこには広がっていた。
古びた倉庫が並び、波止場には木造の小船が泊められている。空気はからりと乾燥して埃っぽく、日差しは強いのに立ち並ぶ倉庫のせいか影が多く、どことなく薄暗い雰囲気を感じさせる。
開けていて明るかったいつもの海岸とはまるで違う。何より、肌寒い季節だったはずなのに、この熱気はなんだろう。
じわりと、暑さのせいだけではない汗が頬を伝った。
「と、とにかく、人のいそうな所に行こう」
怖くなって、わざと声に出して言いながら奏澄は歩き出した。
倉庫の間を歩きながら、扉が開いている所は人がいないかと覗いていく。木箱が詰まれていることが多く、コンテナのようなものは見当たらない。端の方の倉庫は使われていないようで、ぼろ布が放られていたり、空の木箱が散乱していて、埃が舞っていた。
いくつかの倉庫を覗いたが人はおらず、使用中と思われる倉庫には鍵がかかっていた。不安な気持ちを振り払うように、海とは反対へ早足で歩を進める。と、奏澄の耳にかすかにざわめきが聞こえた。
人がいる、とほっとして、奏澄は思わず走り出した。そのまま声のする方へ飛び出したが、目に映ったのは、またしても奏澄を戸惑わせる光景だった。
おそらく商店街のような場所、なのだと思う。色とりどりの布で覆われた露店が立ち並び、地面に直接品物を広げている人もいる。そしてその人々は、浅黒い肌に彫りの深い顔立ちをしていて、とても日本人には見えなかった。
まさか、海に流されて異国まで来てしまったのだろうか、と馬鹿な考えが頭を過ぎる。きょろきょろと周囲を見渡すが、ヒントになりそうな物は何も無い。せめて英語だったら聞き取れるだろうか、とよくよく耳を澄ますと、何故だか話している言葉はすんなりと耳に入った。
――日本語?
そんな馬鹿な、という気持ちと、やはりここは日本なのだ、という気持ちがない交ぜになる。
少なくとも、コミュニケーションは取れることがわかった。勇気を出して、奏澄は露店の女店主に話しかけた。
「あの、すみません」
「……いらっしゃい」
女店主は見慣れぬ顔つきの客人を訝しげに眺めて、無愛想に返した。その視線で、奏澄は自分がずぶ濡れのままだったことに気づいて、急に恥ずかしくなる。意識しだすと、水を含んだままのブーツが気持ち悪かった。
「ごめんなさい。買い物じゃなくて……道に、迷ってしまって。交番の場所を教えていただけませんか?」
「コウバン? 悪いが、心当たりはないねぇ」
「え? あ……えっと、警察がいる場所を、教えていただければ」
「ケイサツ? って人を探してるのかい? 生憎と聞き覚えはないね。人の出入りの激しい島だから、いるかもわからんが」
――島?
その言葉に、嫌な予感がした。震える声で問う。
「ここは、日本、ですよね。どこの島ですか?」
どこかの県名で答えてくれるだろう、という期待で訊いたが、返ってきたのは無情な答えだった。
「ニホン? ここはブエルシナ島だよ。間違った船にでも乗ったのかい?」
ガツン、と殴られたような衝撃が走る。ブエルシナ島。日本の島名の響きには思えない。それより、日本、という地名が通じない。有り得ない。女店主が話しているのは日本語だというのに。
衝撃から立ち直れず、言葉が出ない奏澄の後ろから、高い声がかかる。
「あのぉ、お話終わった? 私それ買いたいんだけど」
「ああ、いらっしゃい! 勿論、大丈夫ですよ」
買い物に来た女性客に、女店主が愛想良く返す。その声にはっとして、奏澄は慌てて体を退けて、頭を下げながら女店主に礼を告げ、その場を離れた。
営業妨害をしてしまった。申し訳ない。落ち込んだ気持ちでとぼとぼと歩き出す。
とにかく、家に帰る手段を見つけなければならない。奏澄は暫く辺りを見て回ることにした。
コンビニは無いだろうか。本当に交番は無いのだろうか。どこかに住所表示は。最寄り駅は。アミューズメント施設のような場所だとしたら、インフォメーションセンターは?
比較的優しそうな女性を選んで「ここはどこか」と尋ねても、最初の女店主と同じ返答があるだけだった。警察も知らない、大使館も知らない、電話も知らない。せめてどこかに連絡できれば、と考えていた奏澄は衝撃を受けた。誰に訊いても答えは同じで、怪訝な顔をされるばかりだった。
必死で『自分の見知ったもの』がないかどうか探すも、舗装されていない土の地面。石造りの建物。異国の人々の顔立ちに、古めかしい服装。言葉は通じるのに意味の通じない会話。読めない文字らしきもの。何もかもが異質で、自分だけがそこに取り残された気分になる。
震える手で、無意識に首から下げたネックレスを握りしめた。それほど強い思い入れがあるわけじゃない。両親から、大学の入学祝いにプレゼントされたもの。でも、唯一、奏澄が持っている自分のもの。悪い夢でも見ているような状況で、それだけが、奏澄を現実に繋ぎとめていた。
――喉が、渇いた。
暑い中を歩き通しで、ひりつくほどに喉が渇いていた。乾燥した気候のせいか、海水に濡れていた服も乾き始めていた。ただ、塩のべたつきは肌に残ったままで、それが不快だった。
冷たい真水を浴びたい、と思ったが、最初の商店街で水を売っていたことを思い出す。つまり、ここでは水が無料ではないのだ。もしかしたら有料なのは飲料水だけで、生活用水は別にあるのかもしれないが、ぐらぐらと揺れる頭では、どうしたらそれを分けてもらえるのか考えつかなかった。
そろそろ日も暮れてきた。一度休もう、と奏澄は最初の倉庫があった場所に戻ることにする。あそこなら目立たないし、使っていない倉庫の中なら横になることもできるだろう。今は、波の音を聞いて、目を閉じていたい。
重い足取りで倉庫が立ち並ぶ辺りまで戻ると、何やら人の声がする。来た時には誰もいなかったのに、と思いながら声の方に近づいて行って、奏澄はすぐにそれを後悔した。
「――!」
反射的に体が恐怖に竦む。怒声だ。何かがぶつかるような音や嘲笑も聞こえ、喧嘩でもしているかのようだった。関わらない方が良い。すぐにでもその場から逃げ出そうとするが、足が震えて動かない。気づかれないことを祈って、奏澄はせめて悲鳴が漏れないようにと、自分の口を両手で塞いだ。
暫くして、音が止んだ。こちらに来やしないかとひやひやしたが、声は遠ざかっていくようだった。それでも数分間その場でじっと息を殺し、さすがにいなくなっただろう、と確認のためそっと顔を出す。
「え……」
そこには、一人の男が倒れていた。声は、どう聞いても複数人だった。乱闘のような激しさは無かった。状況から察するに、この男が一人で暴行を受けていた可能性が高いのではないか。
それに思い至った時、奏澄の体から血の気が引いた。例えすぐに気がついていたとしても、助けに入れたわけでも、助けを呼びに行けたわけでもない。それでも、見殺しにしてしまったような、妙な罪悪感があった。
男は動かない。生きているのか、死んでいるのかもわからない。ごくりと、生唾を呑む。
関わらないのが、賢い選択だ。一方的に暴行を受けていたとしても、あの男がただの被害者だとは限らない。まして、今の奏澄は警察を呼ぶことも救急車を呼ぶこともできないのだ。ここで駆け寄ったとて、自分に何ができるというのか。
しかし理性とは裏腹に、奏澄の足は動き出していた。
たった一人で倒れている男が。誰の助けも来ない、打ち捨てられたような男の姿が。
自分と、重なった。
「大丈夫ですか!」
震えながらも、なるべく大きな声で呼びかける。ぴくりと、相手が反応した。生きてはいるらしい、とほっとする。
額に巻かれたターバンも、破かれた白いシャツも、血に染まっている。混乱した頭で、今できる最善を考える。とりあえず、大きな傷だけでも止血した方がいいだろう。聞きかじったような知識しか無いが、何もしないよりはましなはずだ。
圧迫止血は助けが来るまでの対処だから、この場では縛るしかない。手頃なものが何もないので、服の袖を歯で無理やり裂いて、紐状にした。あまり清潔ではないが、致し方ない。
「少し、触りますね」
なるべく動かさないように注意しながら、刃物で切られたような足の傷に、止血帯を通そうとする。
「……俺に、構うな」
低く掠れた声で脅すように言われ、肩が跳ね上がる。反射的に顔を見ると、男は鋭い目で奏澄を睨みつけていた。目の下には隈が色濃く、それが余計に堅気ではない雰囲気を醸し出していた。
「ご、ごめんなさい。これだけ巻いたら、医者を呼んできますね」
ぱっと目を逸らして早口でそう告げ、奏澄は一番出血がひどいと思われる足の傷だけ縛った。どの道、自分にできることはそう無い。
「なるべく急いで呼んできますから、動かないでくださいね!」
あの怪我で動けるとは思えないが、念のためそう言い残し、奏澄は街へと駆け出した。
何かに急き立てられるように、奏澄は走った。乾いた喉がひりひりと痛むが、それどころではなかった。どうしても、男を助けたかった。それはきっと、男のためではない。ただ、できることが欲しかった。
「すみません、医者は、どこにいますか!」
必死の形相で問い詰める奏澄に、島民は診療所の場所を教えた。礼を告げ、すぐさま駆け出す奏澄を、島民は呆気にとられた顔で見送った。
息を切らせたまま、奏澄は診療所の戸を強く叩いた。日は落ちて、辺りはすでに暗くなっていた。
「すみません、誰かいませんか! 急患なんです!」
ややあって扉が開き、初老の男が姿を見せた。
「……どうしたのかね、お嬢さん」
おそらく医者であろうその男は、奏澄の姿を見て顔を顰めた。厄介ごとだと思ったのか、或いは昼間歩き回っていた奏澄を見かけたのかもしれない。
「倉庫の方で、ひどい怪我をした人が倒れているんです。動けないほどで、連れては来られなくて……。お願いです、一緒に来てはいただけませんか!?」
「倉庫? ……怪我の原因は?」
「はっきりとは、わからないんですけど……おそらく、暴行を。打撲や裂傷がひどくて」
それを聞いた医者は、溜息を吐いて頭をかいた。
「お嬢さん、そいつはおそらく海賊だ」
「かい……ぞ、く?」
「人目につかない場所で乱闘なんぞしている奴らはだいたいそうさ。まぁ珍しくもない、自業自得だよ。危ない目に遭いたくなかったら、お嬢さんも関わらない方がいい」
海賊。耳慣れない言葉に、すぐには飲み込めなかった。だが、医者が扉を閉じようとしたのを見て、反射的に扉を掴む。
「っならせめて! 薬をいただけませんか!」
「……どうしてそこまで」
「助けたいんです……お願いします……!」
悲痛な奏澄の声に、医者は暫く沈黙した後、深く溜息を吐いた。
「……金は持っているのか?」
「え? ……あ、えっと」
問われて、奏澄はざっと血の気が引いた。自分が無一文なことを忘れていた。だから水一つ買えなかったのに。無意味にぱたぱたと服を触って、首から下げているものに気づく。
両親からのプレゼント。海が好きな奏澄のために、深い青のサファイアをあしらったネックレス。
イミテーションではない、本物の宝石だ。日本でもそれなりの値段がつく。
それを手に取って、一度強く握りしめた後、奏澄は医者にネックレスを差し出した。
「これで、お願いできないでしょうか……!」
医者はネックレスを受け取って、家の明かりにかざし、じっと眺めた。
「……薬代にしちゃ、釣りがくるな」
「! それじゃ」
「他に、入り用なものは」
「あ、では、水と……清潔な布を、いただけると」
「少し待っていなさい」
一度扉を閉じて、医者は家の中へと戻っていった。奏澄は、落ちつかない気持ちで待っていた。
ほどなくして、医者がランタンと、袋に荷物をまとめて用意してくれた。
「これが傷薬。こっちが化膿止め。熱が出ているようなら、この解熱剤を飲ませなさい。水は多めに用意したから、重いぞ」
ランタンを手に提げ、慎重に袋を受け取って、奏澄は深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます!」
「私は、忠告はしたぞ。どうなっても責任は持たないからな」
「わかってます。ありがとうございます!」
再度頭を下げて、奏澄は大事そうに袋を抱えたまま走り出した。
はやく。はやく。逸る心につられて、足がもつれないように必死だった。
倉庫の場所まで戻ってきて、奏澄はまず目をつけていた使われていない倉庫に荷を下ろした。袋を抱えたままでは、手を貸すことができない。この場所なら、人に見つからずに夜を明かすこともできるだろう。念のため、倉庫内にあったボロ布の埃を払い、荷物の上に被せた。
急いで男が倒れていた場所まで戻ると、変わらず男はそこにいた。
「い、生きてますか!」
慌ててランタンの明かりをかざしながら、手足を投げだして仰向けに転がる男を上から覗き込んで、奏澄は泣きそうな顔で声をかけた。
「……本当に戻ってきたのか」
「あの、医者は連れてこられなかったんですけど、薬を貰ってきました。使ってなさそうな倉庫に置いてきたので、少しだけ歩けますか?」
「必要ない。放っておけ」
突き放すような物言いに、思わずたじろぐ。けれど奏澄はぐっと堪えて、ランタンを足元に置き、全身で無理やり男の体を背負おうとした。
「っおい!?」
驚いたような男の声と共に、奏澄の体がべしゃりと潰れた。さすがに成人男性を担ぐのは無理だったようだ。
「馬鹿なのか……考えればわかるだろ」
「……考えません」
「何?」
「余計なことは、考えません」
ぐ、と体に力を込める。
「あなたを生かすことだけ、考えます」
助けるとは言わない。この行為が、男にとって助けになるかどうかはわからないから。
これは奏澄のエゴだ。男の命を救うことで、自分の何かを満たそうとしている。
考えたくないことが、多すぎる。だから、目の前のことだけ考える。
この男を、生かす。
「…………」
男が、足に力を入れ、自力で立とうとした。だが、やはり痛むのか小さく呻き声を上げてふらついた。
「だ、大丈夫ですか」
「肩だけ、貸せ」
「え……あ、はい!」
男はランタンを拾った後、もう片方の腕を奏澄の肩に回し、凭れるようにして歩き出した。身長差があるため歩きにくそうだったが、せめて倒れないようにと、奏澄は懸命に体を支えた。
倉庫に辿り着くと、男は崩れるように座り込んだ。
奏澄は医者から受け取った薬を飲ませ、できる限りの手当てを施す。熱が高くふらつく男の頭を膝に乗せ、無いよりはましと荷物を隠すのに使っていたボロ布を男の体にかけた。
解熱剤が効くまでには暫くかかるだろう。汗が伝う額を、水で濡らした布でそっと押さえる。
「あんた、なんでここまでする」
熱でぼんやりしたままの男に問われ、奏澄は口ごもった。一言では、説明できない。
「俺が海賊だって、気づいてるんだろ。動けるようになったら、襲われるとは考えないのか」
「……海賊かもしれない、とは、医者から聞きました。あまり、現実感はないですけど」
奏澄の返答に、男は怪訝な反応をした。それを見て、ここでは海賊は一般的な存在なのかもしれないと認識を改める。
少し考えて、奏澄はぽつりと呟いた。
「……あなたも、私と同じ、ひとりぼっちなのかなって……」
ひとりぼっち。言葉にすると、その事実が重くのしかかる。
そのまま、奏澄はぽつりぽつりと語りだした。
「私、迷子みたいなんです。凄く……凄く、遠い所から来てしまったみたいで。ここには、知っているものが何もなくて、知っている人も誰もいなくて。帰り方も……わからなくて。なんだか、リアルな夢でも見ているような、気分で」
誰かに、聞いてほしかったのかもしれない。話すことで、頭の中を整理したかったのかもしれない。熱にうかされた相手なら、深く考えないと思ったのかもしれない。
男は奏澄の独白を、黙って聞いていた。
「私、何もないんです。ここには、私を証明するものが、何もなくて。だから、実感が欲しかったのかもしれません。私がした、何かが。結果の残る何かが欲しくて、あなたを利用しました」
或いは、見返りを期待したのかもしれない。誰も手を差し伸べない孤独な男に自分を重ねて。男が救われるのなら、自分も、誰かに救ってもらえるのではないかと。孤独のまま打ち捨てられ野垂れ死ぬ人生など、存在しないのだと。そんな優しい世界を、期待した。
助けたかったのは、男ではなく自分だ。
それはひどく浅ましいことのように思えて、口にはできなかった。
――ああ、だから私は。
――世界に、捨てられたのかもしれない。
違う、違うと嘆くばかりで。出来損ないの自分を、それでも必要としてくれる誰かを欲した。何もできない自分が、それでもできることを欲しがった。
本当に必要とされたいのなら、なりふり構わずに、手を差し伸べれば良かったのだ。何もできなくとも。何を失っても。例え自分が、傷ついても。
自分が可愛い臆病者が、何も手放さないまま何かを欲しがるから。きっと、全部取り上げられた。
「もう、失くすものなんて何もありませんから。きっと、怖いものもないんです。例えあなたに殺されたとして、それは、私の見る目がなかったってだけの話です」
本心だった。全部失って、やっと気づいた。『うまくやろう』なんて、傲慢だったということに。
きっとうまくはいかないだろう。見返りは無いだろう。相手は感謝なんかしないだろう。
それでも、と思えなければ。最初から、求めるべきではないのだ。
ふと奏澄が視線を落とすと、男は目を閉じていた。眠っているのだろう。奏澄の話を最後まで聞いていたかどうかもわからない。
ひとり言のようになってしまったが、口にしたことで、奏澄は幾分かすっきりとした気分になっていた。
熱は少し下がったように思うが、まだ汗ばむ男の額を、奏澄は再度濡らした布で押さえる。
一晩中、そうして過ごした。
その間、奏澄はこの地へ来てから、一番穏やかな心持ちだった。
*~*~*
「……ん……」
瞼に光が差して、慌てて身を起こす。それに合わせて、奏澄の肩から布がずり落ちた。見ると、それは男の体にかけていたボロ布だった。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。既に日が昇っているようで、倉庫の窓から日が差していた。
男はどうしたのだろうと周囲を見回してみるが、人の気配は無かった。
いなくなってしまったのか、と奏澄は多少気落ちした。だが、相手が海賊だということを考えれば、無事でいることだけでも御の字だろう。水や薬が入った袋もそのままだった。
ろくに話もできず、また一人に戻ってしまったことへの寂しさはあったが、おそらく奏澄にボロ布をかけたのは男だろう。あの強面な男の不器用な優しさを目にしたようで、奏澄はくすりと微笑んだ。
その瞬間、倉庫の扉ががらりと音を立てて開いた。
文字通り飛び上がって驚いた奏澄は、座り込んだまま入口へと勢いよく顔を向けた。
「あ……」
そこには、眠るまで共にいた男が立っていた。身なりは昨日とは変わっていて、血染めだったターバンやシャツは新しいものになっていた。
だが、何より奏澄が注目したのは、男の腰元だった。赤いサッシュベルトに差し込まれた、フリントロック式のマスケット。平成の世では博物館などでしか実物を目にする機会のない骨董品だが、それが銃であるということくらいは奏澄にもわかった。飾りではないだろう。武器を携帯しているという事実に、奏澄は戦慄した。
「起きたのか」
「え……あ、はい。あの、体調の方は」
「問題無い」
短くそう答え歩いてくる男に、奏澄は驚いた。僅かに庇うような仕草はあるが、自力で歩いている。あの怪我では暫くまともに動けないとばかり思っていたが、回復力が高いのだろうか。
「お前に渡すものがある」
「え? ……っわ!」
何かの袋を投げ渡されて、反射的に受け取る。中身を見ると、貨幣のような物が詰め込まれていた。ぎょっとして袋と男の顔を交互に眺める。
「それを渡す代わりに頼みがある」
戸惑う奏澄の目の前に、男が膝をついた。
「俺はメイズ。俺を、お前の傍に置いてほしい」
メイズと名乗った男の、真っすぐに射抜いてくる瞳に、奏澄は目を奪われた。
――海が、ある。
メイズの瞳は、深い海の色だった。それは、奏澄が持っていたサファイアの色によく似ていた。
色だけではなく。海賊だから、なのだろうか。メイズの瞳は、本当に海を湛えているように、奏澄の目には映った。
「これでも、それなりに名のある海賊だった。用心棒くらいなら務まる。お前に救われた命だ。お前の好きに使ってほしい」
喉が、震えた。孤独感に苛まれている奏澄にとって、一も二もなく頷きたいほどの言葉だった。
でも、救われたと、言ってくれた。自分の行いで、救えたものがあるのだと。それだけで、奏澄には充分だった。
だから、尋ねなくてはならない。
「あなたには、帰る場所は、ないんですか」
「無い」
「行きたい場所は。会いたい人は」
「何も無い。俺にはもう、何も無いんだ。だからあの時、死んでもいいと思った」
もう、何も無い。それはつまり、元々は持っていたということ。奏澄と同じように、メイズも、全てを失うほどの何かがあったのだろうか。
「だが、お前が助けた。俺が生きていることが、お前の成した結果だ。目の届く所に置いておけ」
「私は、あなたを、利用しただけです」
「それでいい。好きなだけ利用しろ。……少なくとも、お互い、独りではなくなる」
お互い、とメイズは言ったが、それが奏澄のためであることはわかりきっていた。
メイズは引かない。きっと奏澄が何を言っても、覆すことはしないだろう。
答えの代わりに、零れ落ちたのは涙だった。後から後から溢れ出して、止まらない。
この地に来てから、奏澄は一度も泣かなかった。無意識に、泣いてしまったら、そのまま崩れ落ちてしまいそうな気がして、歯止めをかけていたのだろう。それが今、メイズの言葉で決壊した。
泣きじゃくる奏澄を前にメイズはうろたえて、迷うように手を伸ばした後、ひどく不器用に頭を撫でた。
「すみません、もう大丈夫です」
「落ちついたか」
「はい。ありがとうございます。ええと……メイズ、さん」
「メイズでいい」
生粋の日本人である奏澄には、出会ったばかりの年上男性を呼び捨てることに抵抗があった。しかし、海賊ということは堅苦しいことは嫌いかもしれない。わざわざ断るのもどうだろう、と悩んだ結果、メイズ、と遠慮がちに小さく呟いた。
改めてメイズの姿を眺めて、我ながらよく声をかけたものだ、と奏澄は驚いた。
肌は日に焼けて浅黒く、目つきは鋭い。目の下の隈は色濃いままで、どうやら怪我の不調によるものではなく元々らしいことが見て取れた。年の頃は顔つきから三十代に思えるが、無精髭のせいか四十近くにも見える。短い黒髪をターバンでぞんざいにまとめ、服装は黒のパンツにブーツ、白のシャツとシンプルだ。それ故、唯一明るい色をした赤のサッシュベルトが目を引く。そこにあるマスケットは、依然強い存在感を放っていた。身長は一八〇に届かないくらいだが、奏澄よりはずっと高い。威圧感があり、一言で言ってしまえばガラが悪く、普段の奏澄なら絶対に関わらない種類の人間だった。
「名乗るのが遅くなってすみません。私は奏澄といいます。」
「カスミ、だな。詳しい事情を聞く前に、腹は減ってるか?」
「え?」
「軽くだが、食べ物を買ってきた」
メイズが取り出したパンの匂いで、奏澄は急に空腹を思い出した。緊張で忘れていたが、そういえば昨日から何も食べていなかった。ありがたく受け取って、それを口にする。
――おいしい。
何てことはない食べ物だが、空腹に沁みた。食べ物が買えないなど、今まででは有り得なかった。有難みと共に噛みしめていると、メイズも隣に座り込み、同じように無言でパンを齧りだした。
水で喉を潤し、ようやく人心地がついた。脳に栄養が回った気がする。やはり人間、食を疎かにしてはいけない。
とっくに食べ終わっていたメイズは、黙って奏澄の様子を窺っていた。奏澄が切り出すのを待っているのだろう。何からどう話せばいいのか悩みながらも、奏澄は口を開いた。
「私、知らない世界に来てしまったのかもしれません」
それを聞いて、メイズは眉を寄せた。何と返したものか、迷っている風情だった。言葉選びを間違えてしまったかもしれない、と慌てて奏澄は取り繕う。
「あ、えと、変なこと言ってますよね! 自分でもおかしいとは思うんですけど」
「遠い所から来たとか言ってたな。どこから来たんだ?」
「え? あ……日本、という島国なんですけど」
「ニホン……聞いたことがないな。どこの海域にある」
「その、海域……というのは、太平洋とか、大西洋とか、そういう……?」
「どんな僻地の島でも、どこかしらの海域には属しているだろう。今いるのは赤の海域、ブエルシナ島だ」
「あかの……海域……」
「……わからないのか」
このやり取りで、メイズは奏澄が『海域』という概念そのものが理解できていないことに気づいたらしい。最初の女店主と同じだ。きっと、ここでは常識なのだろう。何となく恥ずかしい気持ちになって、奏澄は俯いた。それをメイズは笑うでもなく、木片を手にすると地面に簡単な図を描きながら、淡々と説明を始めた。
「把握されていない島も含めて、ほぼ全ての島が六つの海域のどこかに属している。赤の海域、緑の海域、青の海域、金の海域、白の海域、黒の海域。この海域を分けているのは白の海域にある『セントラル』という大国だ。実質世界を取り仕切っている。唯一大陸を持っているからな」
「唯一……じゃぁ、他に大陸はないんですか?」
「ああ。全部島だ。その数も位置も全ては判明していないが」
図によると、大雑把に地球で言うところの南極に白の海域、北極に黒の海域があり、残りを緯度で四分割して赤、緑、青、金に分けているらしかった。
改めて説明されて、いよいよ奏澄はここが別の世界なのだと確信した。何もわからないから、ぼんやりそうなのではないか、という思いはあったが、信じ難かった。しかし、世界に大陸が一つしかない、などと言われて、自分のいた世界だと思えるだろうか。過去にタイムスリップしたにしても、そんな歴史はなかったはずだ。『セントラル』なんて国も聞き覚えがない。世界を統治するほどの国名ならば、忘れるはずがない。
「私の……いた世界には、大陸は複数あって。一つの国だけが世界を治めているなんてことも、なくて。そもそも、私の国……日本だって、それなりに有名な国なんです。名前を出せば、政府が助けを手配してくれる程度には。だから、ここは……この世界は、多分、私のいた世界とは……」
「違う世界だ、って?」
言葉に詰まった奏澄の台詞を拾うメイズに、奏澄は頷きだけで返した。別の世界から来たなんて、頭がおかしいと取られても仕方ない。実際、気が狂ってしまったのかもしれない。あるいは、やはり夢でも見ているのか。
「それで、お前はどうしたい」
驚いて、奏澄は勢いよくメイズの顔を見た。
「なんだ」
「え……あ、その、信じるんですか……?」
「嘘なのか?」
「違います! 本当です……けど、でも」
「何が起きても不思議じゃない。そういう場所だ、海ってのは」
「そ、そうなんですか」
「それに、例え騙されていたとしても、それは俺の見る目が無かったってだけの話だ。――だろう?」
自分の言った言葉を冗談混じりに返されて、奏澄は驚きに目を丸くした後、込み上げてくるものを堪えながら微笑んだ。
「自分を信じてくれる人がいるのって、こんなに、嬉しいんですね」
寄せた信頼が、そのまま自分に返ってくる。メイズが、奏澄の鏡となってくれている。姿を映して、自分の存在が、自分にもわかる。それが、とても心強かった。
「私……私は、元いた世界に、帰りたいです」
突然放り出されてしまった世界。けれど、自分が生まれ育った世界だ。自分を作ったもの全てがそこにある。ならば、帰るのが道理だろう。
「わかった。なら、方法を考えないとな。何か心当たりはあるか?」
「心当たり……と言われても」
「何でもいい。そもそも、お前はどうやってここに来たんだ?」
「どうやって……。ええと、高台から、海を、眺めていました。そうしたら、突然、誰かに突き落とされて……気がついたら、この島の海辺にいたんです」
「突き落とされた? 相手は?」
「見ていません。押された、と感じただけで、本当に人がいたかどうかも定かではなくて」
「そうか……。他に何か気づいたことは?」
「すみません、特には……」
あまりの情報の少なさに思わず俯いてしまう。思い返しても、何の手掛かりも浮かばない。本当に突然のことだった。人為的なのか、事故なのかすら判別できない。
奏澄の知識で考えるなら、神隠しといったところだろうか。ファンタジーな発想だが、現状が充分ファンタジーだ。鳥居、トンネル、森。現世との境目と呼ばれる場所は数多くある。それが今回は海だったのかもしれない。
「メイズ、には、何か心当たりはありますか? 例えば、別の世界から人を呼べる魔法があるとか、そういう場所や道具が存在するとか」
名前をスムーズに呼ぶには、まだ幾分か慣れが必要そうだ。ほんの僅かつっかえてしまったことに恥ずかしさを感じながらも、奏澄は平静を装った。
聞かれたメイズは、少し考え込むようにしながら言葉を発した。
「魔法を使えるって話は聞いたことが無いな。セントラルの奴らなら、そういう研究をしている可能性も無くはないが、少なくとも表立っては無い」
「セントラルでは、そういう超常現象的なことは『有り』なんですか?」
「『有り』かどうか聞かれれば、基本的には『無し』だ。ただ、白の海域は大昔、神や天使が存在していたと言われている。まぁ、神話レベルの話だが、あそこは秘密主義でもあるから、絶対に無いとは言い切れない、というところだな」
「神話レベル……。伝承や、御伽噺のレベルなら、別世界から人が迷い込んだ話はありますか?」
記憶を辿るように目を伏せ、暫く沈黙した後、思い当たることがあったのか、メイズは口を開いた。
「御伽噺というか、噂話なら聞いたことがある。酒場で海賊に聞いた、眉唾ものの話だが」
「! どんな話ですか」
「この世界は、さっき言った六つの海域に分かれている。だが、それとは別に世界のどこかに『無の海域』が存在し、その海域には『はぐれものの島』と呼ばれる場所がある、という話だ」
「はぐれものの……島……」
「無の海域に入った船は突然姿を消してしまうとか、逆に奇妙なものや人が現れるとかで、異界に繋がっている場所なんじゃないかという噂らしい。そして、消えたり現れたりした、文字通り『はぐれた』ものたちが集まって暮らしている島が『はぐれものの島』だそうだ」
異界と繋がる場所。近づくと船が消える海域。バミューダトライアングルのような場所だろうか、と奏澄は解釈した。
「未知のものが大量にある島が手に入れば、一攫千金が狙えるとかいう夢物語だったからな。すっかり忘れていたが……。今のお前の状況を考えれば、全くの無関係でもないかもしれない」
「他に、手掛かりは何もないんです。なら、行きたいです。その場所へ」
力強く訴えた奏澄に、メイズは渋い顔をした。てっきり即答してくれると思っていた奏澄は、内心焦った。やはり、あるかどうかもわからない場所へ行きたい、というのは無謀が過ぎたのだろうか。
「無の海域を探す、ということは、海に出るということだ。海には危険も多い。お前には……似合わない」
ゆらり、とメイズの瞳の青が揺らめくのを見た。奏澄は、その瞳に、海を見た。
「そうだ、どこか腰を落ちつける場所を見つけて、そこで情報を集めてもいいんじゃないか。場所がはっきりしたら向かえばいい」
「いえ、行きましょう。海へ」
メイズの言葉を遮るようにして、奏澄は言い切った。驚いたメイズの視線を、真正面から受け止める。
「……お前が思っているほど、海は優しいところじゃない」
「わかっています。でも、海賊でなければ海に出られない、というわけでもないでしょう。危険はあるかもしれませんが……メイズが、守ってくれるんでしょう?」
全幅の信頼を寄せた笑顔に、メイズの目が釘付けになる。
「私、海が好きなんです。陸でも海でも足手まといなことには変わりないんですから、どうせなら好きな方が頑張れると思うんです」
「……わかった。用心棒をやるって約束だしな。命に代えても守ってやる」
「命には代えないでください。それは約束違反です」
「あぁ?」
「傍にいる、という約束でしょう。それが最優先です」
「――……。わかった」
その返答に、奏澄はほっとしたように笑みを浮かべた。この人はきっと、口にした言葉を違えない。そう思えたからだ。
メイズの表情を窺えば、心なしか嬉しそうに見えた。奏澄は、自分の選択が間違っていなかったことに安堵した。
メイズは海賊だ。長い間、海で暮らしてきたのだろう。ならば海に焦がれるのは当然だ。奏澄の傍にいるとは言ってくれたが、できることなら海に出たいはずだ。
だが、奏澄は見るからに平凡な一般人でしかない。海での長旅に耐えられないと判断したのだろう。奏澄のために、メイズは海を諦めようとした。
奏澄は、メイズから海を奪いたくはなかった。海の瞳を持つ人を、どうして海から引き離すことができよう。
だから、自分から海へ出たいと告げた。わがままだと思われても、それだけは通したかった。海が好きだというのも嘘ではない。
未体験の船旅に不安も緊張もあったが、恐怖は無かった。メイズが共にいてくれるのなら。
「となると、旅の準備をしないといけないな。資金は、それで足りるだろう」
「あ、そうだ……お金、あの、ありがとうございます。いつになるかわかりませんが、ちゃんと返しますので」
「気にするな。それはお前の金だ。それに、稼ぐあてもないだろう」
「それは……そうですけど……」
金銭面を全面的に頼るというのは人としてどうなのか、と思わなくもないが、現状奏澄に金を稼ぐ手段は無い。約束もできないので、そのまま黙ってしまう。
「まずは服をなんとかしないとな」
言われて、奏澄は自分の姿を見下ろした。メイズの手当てをするために破ってしまったので、確かにこのまま出歩くのは躊躇われる。それに海水を吸ったせいで塩が付いている。
ついでに髪を触って、ぱらぱらと落ちてくる塩に顔を歪めた。顔や目立つ部分は濡らした布で軽く拭ったが、できれば髪も洗いたい。
「あの……できれば、なんですけど。お風呂に入れるような場所は、ありますか……?」
おずおずと遠慮がちに声をかける。わがままになってしまわないか心配だったが、日本人として衛生面はやはり気になる。聞くだけ聞いておきたい。もしかしたら、銭湯のような場所があるかもしれない。
「この島には、風呂屋は無かった気がするな。宿屋でなら湯を貰えると思うが」
「そうですか……」
宿屋、ということは宿泊施設だ。泊まらないのに風呂だけ借りるのは無理だろう。
奏澄はしゅんとしたが、メイズは少し考えて口を開いた。
「泊まるか」
「えっ、いいんですか」
「船を手配する必要もある。昨晩は倉庫だったし、一晩ベッドで体を休めてから出発した方がいいだろう」
願ってもない提案に、奏澄は内心両手を上げて喜んだ。宿泊費用というのは結構かかるイメージがあったので、ちゃんとした宿屋に泊まるとなると資金が足りないのではないかと不安だった。もしかしたらこの先野宿かもしれないとすら覚悟していた。意外にあっさりと泊まる選択肢が出てきたことで、罪悪感も僅かに薄らいだ。
とにもかくにも、まずは着替えが必要ということで、二人は服屋に向かった。
奏澄は並べられた服を手に取り、シンプルなものを数枚ピックアップしていく。
「すみません、決まったので、これでお会計で」
奏澄はこちらの貨幣がわからないので、財布はメイズが持っている。ものの数分で服を選び終えた奏澄に、メイズは驚いたようだった。
「早いな」
「機能性だけなら大差ないですし、おかしくない程度であればいいので」
「女の買い物ってのは、もっと時間がかかるもんだと思ってたが」
メイズの台詞に、奏澄は苦笑を返した。勿論、自分も普段ならもっと時間をかけて、あれこれ試してみたくもなっただろうけれど。
船旅におしゃれも何もないだろう。そのあたりは最初から捨てた。それに、正直こちらのファッションセンスはよくわからないので、自分の価値観で決めても良いものが選べる気がしない。無難が一番、という結論になっただけのことだった。
金銭のやりとりを見て学んでおこう、とメイズの隣で顔を覗かせていると、店員の女性が朗らかに笑いながら声をかけた。
「親子で買い物ですか? 仲がよろしいんですね」
「親……? ち、違います、兄です!」
「あら、ご兄妹でしたか。失礼しました」
言われた言葉に驚いて、咄嗟に嘘をついてしまった。ちらりとメイズの顔を窺うが、平然としている。別に関係性を答える必要も無いのだから、適当に笑って流しておけば良かったのに。もしかしたらメイズがショックを受けるのでは、などと余計な気を回して変なフォローをしてしまった。自分が空回ったようで恥ずかしくなる。
品物を受け取って宿屋へ向かう道中、こっそりとメイズの顔を眺める。二人で歩いていたら、どんな関係に見えるのだろう。全然似ていないのだから、親子というのはやはり無理がありそうな気がする。それでいくと、兄妹も無理がある。いやでも、家族だからといって血縁関係があるとは限らない、などと思考していると、メイズが視線に気づいた。
「どうした」
「えっ。あ、いえその。私たち、傍から見ると、どういう関係に見えるのかと」
「ああ、さっきのか。聞かれたら、適当に親子でも兄妹でも言っとけばいいんじゃないか」
「親子というほど、離れてないでしょう」
「そうでもないぞ。お前くらいの娘ならいてもおかしくはない」
「……失礼でなければ、メイズはいくつなんですか?」
「正確に数えちゃいないが……多分、三十五かそこらだな」
三十五。年齢を差し引きして、こちらではいくつくらいから家庭を持つのだろうなぁと考えながら、やはり奏澄の常識では不可だ。
「うーん……やっぱりちょっと無理があるような」
「お前はいくつなんだ?」
「女性に年齢を尋ねるものではありませんよ。まぁ、一応成人はしてます」
「成人……?」
「ああ、成人年齢が違うかもですね。私のところはニ十歳で成人なんですけど」
そう答えると、メイズが目に見えて驚いた。その反応に、嫌な予感がする。
「あの……いくつだと思ってたんですか?」
「てっきり十五、六のガキかと」
アジア人は幼く見えると言うが、ショックではある。まさか子どもだと思われていたとは。恩人だから優しくしてくれているものと思っていたが、もしかしたら子ども扱いが含まれていたのかもしれない。
そんなに子どもっぽく見えるだろうか、とむくれる奏澄に、メイズは気まずそうに頬をかいた。
「女ってのは、若く見られたいもんだろ。いいじゃねぇか」
「若く見られるのと、幼く見られるのは違います」
「大差ないだろ……」
言いながらも、困ったように見えるのは、悪かったと思っているのかもしれない。奏澄も別に怒っているわけではないのだが、内心の不満が顔に出てしまったことは、大人げなかったと反省した。
そうこうしている内に宿屋に着き、メイズが主人に声をかける。
「二部屋、空いてるか」
「二部屋、ですか? 二人部屋ではなく?」
「いや、二部屋で」
それを聞いて、奏澄は部屋の相談をしていなかったことに気づいた。メイズは当然のように二部屋、と言ったが、普通に考えて二部屋取る方が費用がかかるに決まっている。最初からそのつもりだったのかもしれないが、もしかしたら、先ほど成人していると伝えたことで、気をつかわせたのかもしれない。
常であれば奏澄とて成人した異性と同室に泊まろうなどとは思わないが、状況が状況である。可能な限り節約した方が良い。
この世界に来て、金が無いために水も食料も手に入れられなかった奏澄は、金銭に敏感になっていた。
「メイズ、もし嫌でなければ、同室にしましょう」
奏澄の提案に、メイズは驚いたようだった。意図が間違って伝わったかもしれない、と慌てて続ける。
「これからたくさんお金がかかるんですから、できる限り節約しましょう。それに、護衛と言うなら、見えるところにいてくれた方が安心です」
「……お前がそれでいいなら」
メイズは主人に声をかけ、二人部屋を用意してもらうようだった。それを見届けて、奏澄はほっと胸を撫で下ろす。
実は内心どきどきしていた。今まで、奏澄はあまり自分の意見を通すということをしてこなかった。主義主張が無いわけではないが、特別必要な場面でなければ、周りに合わせるタイプだった。
でも、これからはそうはいかない。メイズはあくまで、奏澄に随伴している。旅の主導は奏澄だ。目的、指針、規律。そういったことは、奏澄が自ら考えて主張していかなければ何も進まない。
――変わらなければ。
口には出さずに、奏澄はそっと決意した。
部屋に荷物を下ろすと、メイズは再び買い物へ出かけた。ある程度必要な物は一人で揃えられるから、その間に奏澄はゆっくり湯浴みすれば良いという配慮だった。
仮にも怪我人であるため、荷物を持たせることを奏澄は渋ったが、本人が全く問題無いと言い張った。それ以上意固地になっても堂々巡りになりそうだったので、奏澄が折れた。
気づかいに甘えて、奏澄は温かな湯を被った。ほっとする温度に僅かに心が解れる。しかし、すぐに肩に涼しさを感じて苦笑した。
風呂屋が無い時点でそんな気はしていたが、やはりシャワーは無かった。そもそも浴室があるわけではなく、深めの木桶に沸かした湯を入れて、差し水で温度を調整する形だった。深めと言っても当然肩まで浸かれるはずもなく、またバスタブのような保温性も無いため、湯の温度はどんどんぬるくなっていく。
気温が高いから風邪をひくことはないだろうが、あまりのんびりするものでもなさそうだ、と溜息を吐き、奏澄は手早く体を清めた。
買ったばかりの服を身につけ、姿見の前で確認する。麻で出来た生成りのシャツに、ゆったりとした紺のパンツ。温暖なブエルシナ島らしい、涼し気な着心地だった。襟元は開いており、そこに見慣れたネックレスが無いことに寂しさを覚える。首を振って、その気持ちを払った。あれは必要だった。その選択を、後悔などしていない。
ベッドに倒れこんで思い切り息を吐く。メイズが戻ってくるまでもう少し時間があるだろう。久しぶりの柔らかい感触に、泥のように沈んでしまいそうだった。すぐに出かけなければならないのだから、あまり深く眠らないように、と自分に言い聞かせて、奏澄は目を閉じた。
*~*~*
何かを叩く音に、奏澄の意識が引き戻される。ああ、これはドアをノックする音だ。メイズが戻ってきたのだろう。重たい瞼をむりやり動かそうとして、眉間に皺が寄る。
少し間を開けて、再度ノックの音がした。慎重な男だ。鍵は持っているのだから、このノックは奏澄に気をつかってのことだろう。返事にならない呻き声を上げつつ、のっそりと身を起こす。それと同時に、メイズがドアを開けた。
「寝てたのか?」
「すこし」
微妙に呂律が回っていない。意識をはっきりさせようと、こめかみをぐりぐりと押した。
「眠いならもう少し寝てるか?」
「いえ、明日発つんですから、今日中に買い物を済ませないと。出ます」
メイズも中途半端に待たされても困るだろう。気合を入れるため、勢いをつけてベッドから立ち上がる。
「行きましょうか」
「ああ」
メイズには聞きにくい、女性に必要な諸々については、湯を用意する時に宿屋の女将に聞いておいた。それらを思い出しながら、スムーズに買い物が済むことを願って、奏澄はメイズと共に宿屋を出た。
*~*~*
「だいたい揃ったか?」
「そうですね、概ね」
身なりも整え、金銭を持っていれば、買い物は何事もなく済んだ。最初こそ身構えたが、何てことはない。元の世界と同じように、人の営みがあるだけ。地域性はあるだろうが、この世界の人間が特別冷たいわけでも優しいわけでもない。むしろ言葉が通じる分、元の世界の外国より難易度は低かったかもしれない。そう考えることで、奏澄は異様とも思えたこの世界を、少しだけ身近なものに感じることができた。
買い物のシステムも、特に困惑することはない。通貨の概念があるので、基本的な計算さえできれば問題なかった。貨幣は世界共通で、金貨・銀貨・銅貨の三種類。島によっては物々交換でないと応じない場所もあるそうだが、ほとんどの島では貨幣が使用できる。しいて言えば、レジスターが無いので、おつりを誤魔化されたりしないか、物の値段が正しいかを注意しなくてはならない。
「宿に戻りますか?」
「いや、最後に寄る所がある」
「寄る所?」
「武器屋だ」
「武器……」
日用品を買い揃えて、すっかり気が抜けていた奏澄の心が急激に張り詰める。
武器。そうだ。この世界は、武器の必要な世界なのだ。メイズが腰に下げているものは、飾りではない。海に出ようと言うのなら、奏澄にも覚悟が必要だ。
重い扉を開けると、中には銃器や刃物の類が平然と並んでいた。思わず生唾を呑む。
メイズは慣れたように店員に話しかけ、何かを探してもらうようだった。
「その銃以外にも、武器がいるんですか?」
「使えなくはないんだが、これは使いにくい。できれば慣れた銃が欲しくてな」
「あれ? この銃、メイズのじゃないんですか?」
「これは俺のじゃ――……」
言葉を途中で詰まらせ、メイズは目を逸らした。まずいことを聞いただろうか、と奏澄が不安に思い始めたところで、店員がメイズを呼んだ。
「悪い、何か使えそうなの見ててくれ」
「はい」
メイズが店員とやり取りしている間、奏澄は店内を見て回った。使えそうな物、と言っても、奏澄は武器を扱ったことなどない。触れることもためらわれて、文字通り眺めているだけだ。
銃なら引き金を引くだけだから、扱いやすいだろうか。でも、手入れができる気がしない。
剣なら持っているだけで見栄えするだろうか。でも、まともに使えるまでには相当訓練が必要だろう。
他にも種類はあるようだが、何に使うのかよくわからないような物まである。スタンガンでもあればわかりやすかったのに、と思ったが、無いものは仕方ない。
「良さそうな物はあったか」
「さっぱりです……」
目に見えて眉を下げる奏澄に、だろうなという表情のメイズ。腰元には、変わらないマスケットが差し込まれていた。
「メイズのお目当てはなかったんですか?」
「ああ、交易はあるようだからもしやと思ったんだが、もっと大きい島じゃないと駄目だな」
残念そうに溜息を吐くメイズに、奏澄も同調する。武器のことはわからないが、馴染みの物が無いというのは不安だろう。それが命に直結するものなら、尚更。
せめて奏澄は何かちゃんとした物を買わなければ、と気を取り直して武器と向かい合った。
「初心者が扱いやすい武器って何かあります?」
「そうだな……どんな武器でも扱うには心得が必要だが、護身用ならナイフで充分じゃないか」
そう言って店内を見回すと、メイズは小型なナイフを一つ手に取った。
「このくらいは持っておいた方がいい。武器として使わなくても、あれば役に立つ」
「なるほど」
確かに、島々を渡り歩くのなら、サバイバルという観点からもナイフはあった方がいい。刃物を身につけることに抵抗はあるが、丸腰というのも嘗められる要因になる。
とはいえ。とはいえ、だ。
「私に、使えますかね」
じっとナイフを見つめる。これは人を傷つける道具だ。今まで生きてきて、奏澄は人を殴ったことすらない。いざという時が来たとして。自分に、これを扱えるだろうか。その覚悟は、持てるだろうか。
思わず口にした後で、これではただの弱音だと気づき慌てて取り繕おうとする。だが奏澄がそうするより早く、メイズが口を開いた。
「お前がそれを使わなくていいようにするのが、俺の役目だ」
息を呑む奏澄に、メイズは言葉を続けた。
「だが、絶対は無い。万が一の事態は常に考えておけ。他の誰を害しても、お前は、自分を一番に考えろ」
その『他の誰か』には、メイズも含まれるのだろう。それに気がついて、奏澄は唇を引き結んだ。
メイズは、何を犠牲にしてでも、奏澄を守ってくれるだろう。奏澄が自分自身を守れなければ、失うのは奏澄の命だけではない。自分を守るということは、メイズを守るということだ。
「わかりました」
その返事に、メイズは僅かに目を眇めた。