ふわふわとした夢現の状態で、無意識に温かいものにすり寄る。ぬくい。気持ちがいい。そのまままた夢の世界に落ちそうになった奏澄の意識を、低い声が引っ張り上げた。
「起きたのか」
ぱち、と勢いよく瞼が開く。自分がすり寄っていたものが人間だと理解して、それが誰かを確認して、心臓が跳ねた。
「おはよう、ございます」
「ああ」
奏澄のしどろもどろの挨拶に、メイズは至って平然と返した。
奏澄は前後の出来事を思い出そうと記憶を辿り、話の途中で寝入ってしまったことに思い当たる。
しかし、それならメイズは何故一緒に寝ているのだろう。奏澄だけベッドに寝かせても良かっただろうに。それに、以前は先に支度を済ませていたのに、今回は先に起きていたにも関わらず、奏澄が目覚めるのを待っていたようだった。
じりじりとした奇妙な緊張を感じ、手に汗握る奏澄は、実際に自分が何かを握りしめていることに気がついた。
「あ……! す、すみません!」
メイズの服だった。これで合点がいった。奏澄がメイズの服を握りしめて放さず、無理やり引き剥がすこともためらわれたのだろう。だから仕方なくそのまま一緒にベッドに入ったし、目が覚めてからも奏澄が手を放さなかったから身動きが取れなかったのだ。
「気にするな。疲れていたんだろう」
「でも、動けなかったでしょう。メイズは眠れました?」
「俺はたいていの状況では眠れる」
「器用ですね」
違う、そうじゃない、と思いながら、妙な返答をしてしまった。
「俺はいいが、他であまりやるなよ」
「他?」
「今後、船に乗組員が増えるだろう。ライアーとか」
「しませんよ。私のこと何だと思ってるんですか」
奏澄は軽く笑って答えたが、メイズが黙ってしまいはっとする。しまった。自分こそメイズのことを何だと思っているのか。
「メイズは、あれです、安心毛布みたいな」
「安心毛布?」
聞き慣れない単語だったのか、メイズが訝しげに問い返した。
「えーっと……それがあると安心して眠れる、みたいな。替えのきかない、お気に入りの毛布のことです」
何となく言葉の意味は察したのか、納得はしている様子だった。
「私、もともとあんまり眠れる方じゃなくて……。でも、メイズと一緒だと、ぐっすり眠れるんです」
これは本当だった。元の世界にいた時から、あまり夜眠れる方ではなかった。今の方が気苦労は多いと思われるのに、メイズがいてくれれば、穏やかな気持ちで眠ることができた。
「そうか。毛布でも何でも、役に立っているならいい」
そう言ってメイズは奏澄の頭をくしゃりと撫でた。拒絶されなかったことに、奏澄はほっとした。
*~*~*
それから出航までの七日間、奏澄とメイズは船の準備に追われた。金目の物を運び出すついでに、アルメイシャまで同行した商船の乗組員たちが中を整理してくれてはいたが、船の清掃、補修、内装、暫くの航海に必要な物の買い出しなど、やることは多かった。二人ではとても終わらなかっただろうが、ドロール商会の面々が多分に協力してくれた。
七日後。出航を控え、奏澄の前にはマリーと、十人ほどの男女が並んでいた。
「こいつらはあたしが選んだうちの精鋭たちだ。あんたたち、船長に挨拶!」
『よろしくお願いします!』
声を揃えて挨拶をされ、奏澄が思わずたじろぐ。船長と呼ばれたことで、やはり自分が責任者になるのだな、とぐっと腹に力を入れた。
「こちらこそ、未熟者なのでご迷惑をおかけすると思いますが、皆さんどうか力を貸してください。これからよろしくお願いします!」
しっかりと頭を下げた。まだ、対等な関係にはなれない。彼らの方がよほどのベテランなのだから。顔には出さないが、奏澄が船長であることに不満や不安がある者もいるだろう。それは、これからの働きで信頼を得るしかない。
ずんと重く胸に圧しかかるものがある。だが、潰れない。今は、一人ではないのだから。
「それじゃ、出航準備!」
『はい!』
マリーの号令で、乗組員たちがてきぱきと動き出す。それを見届けて、マリーがメイズに小包を渡した。包みを開けば、リボルバーが二丁と、ホルスターやカートリッジなど必要な物が入っていた。
「よく用意できたな」
自分で頼んでおきながら感心した態度のメイズに、マリーは自慢げに胸を張った。
「なめてもらっちゃ困るよ。これでも商会長だからね」
「助かった」
中身を確かめ、リボルバーにカートリッジを装填すると、メイズは手近な鳥に狙いを定めて発砲した。
大きな破裂音に、奏澄の体が硬直する。落ちる鳥に、火薬の匂いに、あれが本物であるということを思い知らされる。
「問題無さそうだな」
奏澄の様子に気づかないメイズは、心なしか機嫌が良さそうに呟いた。
「そりゃ良かった。んじゃ、あたしは先に船の方に行ってるよ」
「ああ」
リボルバーを身につけるメイズから視線を逸らして、奏澄はマリーを目で追った。彼女は、全く怖気づく様子はなかった。これが当たり前なのだ。銃が日常の世界なのだ。
手に力を込めた奏澄の耳に、呑気な声が届く。
「やっぱマリーがいると引き締まるなぁ」
「ライアー」
ひょこりと顔を出したのは、航海士のライアーだった。姿が見えないと思っていたが、きちんと港には来ていたようだ。
「これから尻に敷かれると思うと、気が重いぜ」
「そんな大げさな」
「頼むぜ船長。カスミだけがこの船の良心だ!」
「荷が重いなぁ」
乗組員に指示を飛ばすマリーを見ながら軽口を叩くライアーに、少し気が軽くなる。ほっとした様子の奏澄に、ライアーは目を細めた。
「メイズさん、やっと『二丁拳銃のメイズ』って感じになりましたね」
ライアーが声をかけると、準備が整ったのだろうメイズが向き直って返事をした。
「そう名乗った覚えはないがな」
その腰元にはもうマスケットは無く、赤いサッシュベルトの上から皮のホルスターをつけ、両側に無骨なリボルバーを下げていた。
ライアーが呼んだのは、おそらく異名というものだろう。これが本来のメイズのスタイルなのか、と奏澄は興味深く見た。ライアーの存在のおかげか、先ほどまでの恐怖心は薄らいでいた。
「二丁持ちって珍しいんだ?」
異名になるということは、それが個人の特徴として認識されているということだ。他に何人もいるなら呼ばれないだろう。
「マスケットは複数持ち多いけどね。リボルバーはそうはいないなぁ。一丁でもかなり貴重だから」
「そうなんだ」
ライアーの言葉に、メイズとマリーのやり取りを思い出して納得した。つまり、これが手配できたということは、マリーは相当優秀な商人だということだ。
「まぁメイズさんの場合はそれだけじゃないけど」
含みを持たせた言い方に奏澄が首を傾げると、ライアーがぱっと笑顔を作った。
「噂になるくらい強いから安心ってこと!」
奏澄はその言葉を素直に受け取って、笑顔を返した。
大丈夫、きっとやっていける。そう信じて、ライアーとメイズと共に船に乗り込んだ。
*~*~*
動き出した船の上。会議室にて、ライアーが海図を広げる。それをメイズと奏澄、マリーが覗き込んだ。
「次の目的地はセントラルってことだから、なるべく最短距離で、このルートを通って白の海域に入ろうと思う。途中でどこか寄りたい島があれば考慮するけど」
「いいんじゃないか」
ライアーが指でなぞって示した航路に、メイズは同意を示した。奏澄も異論はないが、念のためマリーの意見を伺う。
「マリーさんは、どこか寄りたい島とかは無いですか?」
「あたしはあくまで『はぐれものの島』に行くために乗ってるからね。他のことに関しちゃ、船長の意向に従うよ。というか」
ぎろ、とマリーに睨まれて、奏澄は一瞬怯んだ。
「乗組員の顔色を窺うんじゃないの! あんたの船なんだから、舵取りはあんたがびしっとしなさい!」
「す、すみません」
「あとそれも! あたしにびくびく話してるようじゃ、あたしの部下たちだってついてこないよ。堅苦しくなくていいって言ったろ? ライアーと同じようにしてくれればいいさ」
厳しい言葉に思えたが、マリーは確かに仲良くしよう、と言ってくれていた。部下たちに指示を飛ばす姿を見て、奏澄が勝手に委縮してしまっていただけだ。
「うん、ありがとう、マリー」
ぎこちなく笑う奏澄に、マリーも仕方ないというような笑みで返した。
「ちょっと聞きたいんだけど……やっぱり、船長が敬語で話してたら、威厳ない?」
言葉はマリーに問いかけたが、視線はちらりとメイズを窺った。奏澄は、メイズに対してずっと敬語を使っている。
「威厳で言えば、全体的に無いから気にしなくていいと思うけど」
ばっさりと切られて、ガン、と頭にたらいが落ちた気分になった。
「別に好きに話せばいいだろ」
「えー、でもこのメンツでメイズさんだけ敬語使われてるってのも、なんか寂しくないすか?」
メイズのフォローに口を挟んだライアーは、メイズに睨まれて肩を跳ねさせた。
「オ、オレは一応尊敬を込めて敬語使ってますよぉ!」
マリーはそんなライアーを無視して、考えるように腕を組んだ。
「敬語で威圧的に喋れるような奴もいるけど、あんたの場合は下手に出て聞こえるからねぇ。特別理由が無いんだったら、普通に喋ったらどうだい? あのメイズと対等に話してるってだけで、他の奴らには牽制になるだろ」
「なるほど」
マリーが奏澄に対して砕けて話すよう促したのも、そういうことだろう。乗組員全員に対して無理に強く振る舞えとは言わないが、少なくともその集団の上に立つ者と対等に接していれば、その下についている者は同等の立ち位置として見てくれる、ということだ。
奏澄にとっての『普通』とは、年上の者、目上の者、あるいは初対面の者には敬語を使う。それが普通だった。だから別に苦だったわけではないし、敬語のままでも親しく話すことはできる。
けれど、話し方一つで変わるものがあるのなら。
「メイズが、気にしなければ……これから変えても、いい?」
駄目とは言わないだろうと確信がありながらも、気分良く受け入れられるかどうかは別だ。奏澄は窺うように、小さく首を傾げた。
「好きに話せばいいと、言っただろ」
ため息混じりに返されたが、それが呆れではないことは、もうわかっていた。
「ありがとう」
満面の笑みで返す奏澄に、メイズも軽く微笑んだ。それをライアーがニヤニヤと見ている。
「そりゃー可愛く小首傾げておねだりされちゃ、断るわけが痛った!?」
台詞が終わらない内に、メイズに頭を殴られていた。眼前で行われた暴力行為に、奏澄の肩が跳ねる。
「メ、メイズ、暴力は」
「いーからいーから。あの程度じゃれあいの範疇だから」
「結構いい音したと思うんだけど」
「あのくらいならあたしもするよ。船乗りなんてみんな手荒いんだから、慣れときな」
いくら元海賊でも仲間内は、と止めようとした奏澄だったが、逆にマリーに引き止められ、そういうものかと思い直した。
奏澄がマリーの同行に安心したように、メイズにとっても、ライアーの存在は気安いのかもしれない。奏澄とはああはいかないだろう。そう考えれば、なるほどじゃれあいに思えなくもない。
女が口を挟むものではないな、と、奏澄はライアーがメイズに文句を言うのを、微笑ましく見守った。
「食事の支度、できました~……!」
出航から暫くの時間が経過した頃。へろへろになって、奏澄は乗組員たちに声をかけた。
奏澄が船でできることは少ない。特殊技能は何も無いのだから、せめて家事にあたる仕事はやろうと買って出たのだが、十人以上の食事の用意はなかなかに大変だった。自炊をしていたので料理は人並みにできるつもりだったが、これは料理が上手い下手という話ではない。全く別のスキルと体力、加えて腕力が要る。
おそらくそれが最初からわかっていたのだろう、マリーの部下も手伝ってくれた。設備の使い方に慣れないこともあり、奏澄はありがたく申し出を受けたのだが、断らなくて良かったと心底思った。もし一人でやろうとしていたら、とてつもない時間がかかっていただろう。
「大丈夫か?」
「メイズ」
食堂の隅でへばっていた奏澄に、食事を終えたメイズが声をかけてきた。
「大丈夫。食べられた? ちゃんと味見はしたけど」
「ああ、うまかった」
「良かった。自分の食事を作るのとは随分勝手が違ったや」
「力になれなくて悪いな」
「メイズは他にできることたくさんあるんだから、このくらいは任せて。慣れないとね」
何もできないままそれを良しとしていたら、自分はただのお飾りの船長になってしまう。料理が船長の仕事かと言えばそうではないが、船に貢献する姿勢を見せていかないといけない。
「船のことも、少しずつ覚えないとなぁ」
「あまり一気にやろうとするな。パンクするぞ」
「うん……。わかってるんだけど、ダメだね。なんか焦っちゃって」
どことなく落ち込んだ表情の奏澄に、メイズは何と声をかけるか一瞬ためらうように口を動かした。
「さて、そろそろ片付けしないと! それじゃ、あとでね」
「ああ。無理するなよ」
「うん。ありがと」
笑顔を見せて、奏澄は仕事にとりかかった。
*~*~*
「これでよし、と」
夜。冊子を閉じて、奏澄は自室で伸びをした。机の上には、二つの冊子がある。一つは航海日誌、もう一つは奏澄の個人的な日記だ。
あまり物覚えの良い方ではないから、色々なことを忘れないように書き記しておこうと、島でペンとノートを購入した。その時に、どうせなら航海日誌もつけた方が良いとメイズにアドバイスされ、用意したものだった。航路に関わる航海日誌はライアーが別途記録している。そう気負わなくても良いと言われ、奏澄は内心ほっとした。
しかし書こうとしたところで思い出した。確か、この世界とは文字が違っていた気がする。航海日誌とは、誰でも読める形の方が良いのではないだろうか。
そう考え、ひとまず一日目は自分の日記だけつけた。航海日誌は日記の内容を元に、後日メイズと相談して書こうと決めた。
明かりを落としてベッドに潜り込む。しんとした部屋に、自分の息づかいと波の音だけが聞こえる。
奏澄は船長だからということで、一室使用することにした。少々気が引けたが、船長なのだから問題無いという後押しと、奏澄自身も一人の時間は欲しいと思っていたので、ありがたく個室をもらった。
隣はメイズの部屋だ。副船長ということで、こちらも個室である。乗組員もメイズと同室では萎縮するだろう、特に異論はなかった。
少し離れた場所に、ライアーが一室。これはライアーの主張で決まった。航海士なので、寝室というだけでなく作業スペースや海図、書籍の収納場所が必要だからという理由だった。確かにライアーの仕事は重要なものであるし、集中力も必要だろう。
マリーとその部下たちは、男部屋、女部屋で分かれた。マリーは個室でなくて良いか聞いたが、女性は人数が少ないので充分だという話だった。
それぞれの部屋で、それぞれが眠りにつく。見張り台には、男性陣が交代でついてくれることになっている。
暗い部屋の中、奏澄はごろりと寝返りを打った。
――眠れない。
急に人が増えたことが、奏澄にとって予想以上にストレスになっていた。今まではメイズと二人きりで、メイズはいつも奏澄を尊重してくれていた。
しかし、この船では違う。増えた人員は、形式的には奏澄の部下であり、常に奏澄は見られている。量られている、と言ってもいい。
他人に評価されることは苦手だ。どうしても、こうあらねば、こうするべき、といった思考に囚われがちになる。理想の自分と現実の自分がかけ離れすぎていて、埋めようにも何からどうしたら良いのかわからずに途方に暮れる。
これは仕事ではない。失敗したからといってクビになることはないし、幻滅されても最悪新しい人員を雇えばいい。しかし、失望の目に晒され続けることに、奏澄は耐えられないだろう。
嫌な思考ばかりがぐるぐると頭を巡る。じっとしていると叫びだしそうになり、奏澄は部屋を出た。外の空気でも吸えば、多少はましになるだろう。
奏澄は上甲板に出ると、大きく息を吸って空を見上げた。
「わぁ……」
その美しい星空に、感嘆の声を漏らす。
明かりのない海の上では、星の瞬きがよく見えた。この美しい景色は、間違いなく海に出て良かったことの一つだろう。
船端に寄りかかり、海を見る。輝く空とは違い、夜の海は飲み込まれそうなほどに暗かった。落ちたら助からないだろう。きっと、誰にも気づかれずに沈んでいく。
暗い気持ちになりそうで、再度顔を上げる。いっそこのまま甲板に寝ころんでしまおうか、と仰け反りそうなほどに上を見上げていると、大きな手で頭を支えられた。
「転ぶぞ」
「メイズ」
間抜けな格好を見られたことに恥ずかしさを感じつつ、真っすぐに姿勢を戻す。
「こんな時間に、どうしたの?」
「こっちの台詞だ」
「あー……」
返されて、思い至る。メイズの部屋は奏澄の隣だ。おそらく、部屋を出る音を聞いて、様子を見に来たのだろう。
「ごめんね。起こしちゃったかな」
「いや。……眠れないのか」
「んー……そう、かな。ちょっと」
ごまかすように笑う奏澄に、メイズは眉根を寄せた。
心配してくれているのだろう。それはわかる。しかし、こんな早々に弱音を吐きたくない。それに、この不安を、落ちるような、混ざるような不快な感覚を、うまく言語化できない。これは吐き出しても解決しないだろう。しようのない愚痴を聞かせたくはなかった。
「……一緒に寝るか?」
奏澄は思わず驚いた顔でメイズを見た。何だかんだで一緒に寝てはいたが、メイズの方から提案してきたのは初めてだった。どういう心境の変化だろうか。
「安心毛布だと、お前が言ったんだろう」
少し不貞腐れたように見えるのは、おそらく照れ隠しだ。言葉にしない奏澄を慮った結果、何か言葉をかけるより、その方がいいと判断したんだろう。
「……お願いします」
奏澄は、はにかむように笑った。
『それ』が奏澄のためになると判断してくれたことが、少し気恥ずかしくて、でも嬉しかった。
吐き出しても軽くならない気持ちもあるけれど、吐き出さなくても軽くなる気持ちがあると知った。
「文字が読めない?」
「すみません……」
忘れない内にと、手が空いたタイミングで奏澄は航海日誌のことをメイズに相談していた。あまり読み書きをするシーンが無かったので、メイズも奏澄が読み書きできないことを失念していたらしい。
「やっぱり航海日誌は、誰でも読める方がいいと思って。いい機会だし、文字を勉強したいなと」
「そうだな……。練習にもなるし、それがいいだろう」
「メイズ、教えてくれる?」
当然のように教えを乞うと、メイズが少しうろたえた。
「俺でいいのか?」
「え?」
「俺は、人にものを教えるのに向いていない。マリーに頼んだ方がいいんじゃないか」
その言葉に、奏澄は少なからずショックを受けた。メイズを頼ったのに、別の人を薦められるとは思わなかった。
「そんなこと、ない。私にこの世界のこととか、教えてくれたの、わかりやすかったし」
これはお世辞ではなく、本当にそう感じていた。奏澄の推測だが、おそらくメイズは学のある人種だ。海賊というのはもっと粗野なイメージがあったが、メイズと会話していると、思考しているのがわかる。奏澄のようなタイプと接するのに慣れていないのは時々感じるが、それをカバーできている。地頭がいいのだろう。
「メイズが面倒じゃなかったら、メイズに教えてほしい」
マリーに頼んだとしても、多分快く引き受けてくれるだろう。異なる世界から来たことも明かしてある、文字が読めないことを馬鹿にしたりはしないだろう。商人だから、説明も得意なはずだ。
だが、奏澄はあまり頭の回転が早い方じゃない。飲み込みが悪くても根気よく付き合ってくれる相手を選ぶなら、メイズの方が気が楽だ。
それを抜きにしても。何かを『教わる』ならメイズがいい、という気持ちがあった。
「……わかった。解りにくくても文句言うなよ」
「大丈夫!」
笑顔で返した奏澄に、メイズは息を吐いた。
*~*~*
「……………………」
「……大丈夫か」
「なんとか……」
書庫から比較的簡単な文章の本をテキストとして用意し、メイズから教えを受ける奏澄。自ら望んだことだが、その表情は暗い。
語学の習得がとても難しいことは覚悟していたが、何となく言葉は通じているからいけそうな気がしていた。なんなら五十音の文字を覚えれば読める感じなのでは、くらいに思っていた。全然違った、と奏澄は項垂れた。
基本的な構造は英語に似ている。文字はアルファベットに近い。だというのに、発音されるのは日本語の音。話す語順と文法が合わない。混乱する。
日本人が英文を考える時の悪い癖として、まず日本語を考えてから英語の構文に組み立て直してしまうと言う。それよりは、最初から英語の構文で考えられた方が良いそうだ。
しかし、それは当然話すのも書くのも同じ構文の場合だ。奏澄の場合、今書いているこの構文を最初から頭の中に作ると、今度は話す言葉が合わなくなる。
最悪単語ぐらいなら丸暗記していけば何とかなるかもしれないが、それではまともな文章にはならないだろう。
何故こんなにもややこしい言語なのか。意図せず顔が険しくなる。
「そんなに難しいか」
「私の世界にも似た文法の言語はあったけど、私の国のものとは全く違うし。それに、問題はそこじゃなくて、なんか気持ち悪いというか」
「気持ち悪い?」
そう。一番しっくりくる表現は、気持ち悪い。この奇妙にずれた感覚は、いったいどこから来るのか。
考えるように口元に手をやり、文章を呟くメイズの口元を見つめる奏澄。そういえばヘレン・ケラーは言葉を話すために唇に触れて学んだんだったか。いや、言葉は話せるのだからそこじゃない、と考えを振り払ったところで、急に違和感に気づいた。そして再度メイズの口元を注視する。
「メイズ。ちょっと、ここの一文を、私の方を見てゆっくり発音してみてくれない?」
「何? お前、発音は別に」
「いいから、お願い」
怪訝な顔をしながらも、言われた通りにするメイズ。それを見て、違和感の正体に気づいた奏澄は額を机に打ちつけた。
「ああああ、やっぱり。そういうことか」
「なんだ、いったい」
「見てもらった方が早いかな。私も同じ一文を読むから、口元を見ててくれる?」
またしても怪訝な顔のまま、ゆっくりと発音する奏澄の口元を注視するメイズ。奏澄が話すのを聞いて、その眉間の皺が深くなった。
「なんで、そうなる」
「ですよね。私も、そう思った」
まるで奇妙なものを見たかのような顔をして、メイズは考え込んだ。
「……喋っている言語が、違う?」
「多分、そういうことなんじゃないかと」
奏澄がメイズの口元を見て気づいたこと。明らかに『聞こえる言葉』と口の形が合っていない。つまり、耳に聞こえる音と、メイズが発している音が違う。ということは。
「言葉が通じたのは、同じ言語を喋っていたわけじゃなくて……どういう理屈かわからないけど、お互いの言語に翻訳された状態で聞こえてるみたい」
言葉は通じる。だから、同じ言語を話しているのだと、ずっと思っていた。
前提が、そこから違っていたのだ。
人の口元を凝視することなどそうはないし、誰かと会話をする時はいつもいっぱいいっぱいだったため気づかなかった。だが、意識してみると、全く読唇ができない。
「となると、俺が文字を指しながら読み上げても、その音通りには聞こえていないわけか。それは……確かに、混乱するかもな」
「うー……。でも、原因がわかっただけ、多少マシ、だと、思う。そのつもりで聞けば多分理解できるから」
要は吹替と同じようなものだろう。吹替で聞きながら英語字幕を見ている。若干違う気もするが、そう考えればやってやれないことはない。と思うしかない。
「覚えが悪くて申し訳ないけど、引き続きよろしくお願いします」
「別に覚えは悪くない。学ぶ土台ができてるからな。セントラルに着くまで時間はある。ゆっくりやればいい」
優しい言葉に甘えたくなるが、あまりゆっくりもしていられない。セントラルに着くまでにある程度習得できなければ、セントラルでの情報収集は口頭に限られてしまう。それは避けたい。
しかし焦っても身にならないのはその通りなので、まずはテキスト代わりの本をまともに読めるようになろう、とページに視線を向けた。
「そういえば、書庫の中身残ってたんだね。本は全部商人の人たちが持って行ったかと思ってた」
「それは……」
奏澄としてはただの雑談のつもりだったが、珍しくメイズが言い淀んだ。
「何かメイズが読みたいものがあったの?」
本は売り物になるはずだ。何も言わなければ、商人たちが回収しただろう。しかし、メイズが希望したなら残っていてもおかしくはない。
「俺じゃない」
「え?」
あの時点では、メイズと奏澄の二人しかいなかった。不思議に思って首を傾げる奏澄に、メイズは視線を逸らして答えた。
「……お前が、そういうものは、好きかと思って」
目を見開く奏澄。何が好きだとか、嫌いだとか、そういう話はあまりしていない。その中で、メイズが自分のために。好きそうなものを、喜びそうなことを、考えてくれた。
海賊船の中に元々何があったのか、奏澄は知らない。奏澄が内部を見たのは、商人たちが引き上げた後だからだ。それでも、想像することはできる。海賊船にありそうなもの。金銀財宝、アンティーク。そういったものの中で、宝石でもレースでもなく、本を残すという選択をしたメイズ。
何故だか無性に気恥ずかしくて、嬉しくて、むずむずした。
「うん。好き。ありがとう」
はにかむように笑った奏澄に、メイズはぶっきらぼうに返事をした。
そうして暫くの間、奏澄は船の雑用をこなしながら、メイズから文字を教わった。
船旅は比較的順調だった。マリーの部下たちは海に慣れていたし、ライアーの航海術も確かなものだった。海が荒れてもてきぱきと動き、船室に篭って何もできない奏澄が申し訳ないくらいだった。ゆくゆくは役に立てるようになりたいが、一気に何もかもできるようにはならない。焦らない、焦らない、と自分に言い聞かせた。
赤の海域を越え、白の海域へ入り、そして。
「セントラルが見えてきたぞー!」
ついに目的の国が見えてきた。世界随一の大国。期待に胸が高鳴り、奏澄は船から身を乗り出した。心なしか眩しく見え、目を細める。
出入りの多い国なのだろう、港まではまだ距離があるが、既に周辺に他の船が見えている。流れに沿って、他の船と同じように港につけると思っていたが、奏澄の船は別の方へと向かっていた。
「ライアー、この船ってどこから入るの?」
「あー、大丈夫だとは思うんだけど、念のためね。正面口じゃなくて、目立たない所に泊めるよ」
メイズがいるからだ。ぴんときて、奏澄は気を引き締める。
ライアーは言わなかったが、おそらくそういうことだろう。この船は海賊から奪ったものだが、海賊旗は外してあるし、外装も多少変えている。海賊だと思われることはまずないだろう。乗っているのも商人がほとんど。それでも、指名手配されているメイズがいる。何が起こるかわからない。そのつもりで、いなければ。
人気の無い入り江近くに船を隠し、大陸へ上陸する奏澄たち。いざセントラルへ入国すると、奏澄はその光景に目を奪われた。
「白……っ!」
白、白、白。建物も、舗装された道路も、そのほとんどが白い。船上から見た時、眩しい、と感じたのは気のせいではなかったのだ。
「初めて来るとそうなるよなー。ちなみに、汚すと罰金取られるから気をつけて」
「えっ」
「故意に落書きしたり、ゴミ散らかしたりしなきゃ大丈夫だよ。脅かすんじゃないよ、まったく」
「痛てッ」
奏澄をからかうライアーに、マリーが鉄拳を下した。わざと汚すようなことはしないから、多分大丈夫だろうと思いながらも、罰金と言われると慎重になってしまうのが人の心理だろう。この白さには、そういった意味もあるのかもしれない。
「んじゃ打合せ通りに動きますか。あたしら商会チームは、商人たちに情報収集、ついでに良さげなものがあれば仕入れ」
「オレは海図の売却と入手」
「私とメイズは大図書館で資料探し……だよね」
言いながら、奏澄はちらりとメイズを見た。顔を布で隠してはいるが、一番の要注意人物が一番危険な公的施設に赴くのは本当に良いのだろうか。
打合せの時にも意見したが、適材適所を考えるとマリーとライアーを奏澄に付き添わせるわけにはいかず、奏澄が一人で行動するのはメイズが渋った。結果、入口のセキュリティで引っかかる可能性があるから、近辺で待機している分には良いのでは、ということになった。
民間人を無下にする所ではない、と言ったのはメイズだ。なら、奏澄が一人で行動することに危険は無いはずだ。それでも一人にしないようにしているのは、信用が無いのか、それとも。
好意的に解釈するなら、なるべく傍にいるようにしてくれているのかもしれない。
奏澄としては、それはあくまで離れ離れになるようなことは許さないということであって、少しの間別行動するくらいなら別に構わないのだが。アルメイシャ島で勝手に離れて心配をかけた身としては、あまり強くは言えない。この島も、決して安全とは言い切れないのだから。
「万が一やばい状況になったら、発煙筒を使うこと。何も無くても、夕刻までには一度船に戻る。OK?」
「うん。それじゃあみんな、よろしくお願いします!」
仕切りはてきぱきとマリーが行ったが、最後は奏澄の一言で、全員散った。
奏澄とメイズも、大図書館へと向かう。
中心街を歩きながら、奏澄は美しい街並みに心を躍らせていた。あちこちに目移りしてしまう。
「気に入ったのか」
「えっ。えと、うん。綺麗な所だな、と思って」
最初こそその白さに驚いたが、海の青さとのコントラストが際立っており、至る所に鮮やかな花も飾られている。建物のデザインも洗練されており、華美さは無いが優雅に見える。非常に景観に気を配っている街だと思われる。
だが、メイズの手前、手放しで褒めることが少々ためらわれた。別に因縁があるわけではなさそうだが、追う者と追われる者だと思うと、どうしても気をつかってしまう。
「メイズは、こういう街並みは苦手?」
「そうだな。どうにも、潔癖に思えて」
「そ、っか」
育った環境が違うのだから、好みが違うのは当たり前だ。けれど、綺麗だと感じたものを、綺麗だと感じてくれたら、嬉しい。それもまた、当たり前の感情だった。
しゅんとした奏澄を見兼ねたのか、メイズが言葉を選ぶようにして口を開いた。
「俺は、こことは正反対の場所にいたんだ。だから、綺麗なものってのに馴染みが無くてな」
正反対の場所。セントラルと正反対の場所。――白の海域の、正反対?
「別に嫌いなわけじゃない。だから、お前は好きなものを好きなように見て回ればいい」
「そんなの……私だけが、楽しくたって」
一緒だから、楽しい。共有できると、嬉しい。この感覚も、メイズには無いものなのだろうか。
「なら、お前が教えてくれ」
「え?」
「どんなものが好きで、どんなものを綺麗だと感じるのか。カスミの目を通すと、世界がどう見えるのか。お前が教えてくれるなら、俺にもいつかわかるかもしれない」
優しい目をしたメイズに、奏澄は胸が締めつけられた。自分だって、世界を肯定的に見られているわけじゃない。汚い部分ばかり目についたりもする。都合のいい部分だけを切り取って、好きだと言うこともある。
だけど、そんな風に言われたら。美しいものだけを、たくさん、たくさん、与えたくなる。
この人の目に、悲しいものが映らないように。
「わかった。なら、メイズも教えてね」
「俺が?」
「メイズが好きなもの、嫌いなもの。そういうのも、私知りたいから」
同じじゃなくていい。違う分だけ、与え合うことができる。そうして、同じが増えたら、もっと嬉しい。
奏澄とメイズは、まだ出会ったばかりだ。この先、もっと時間を共有して、お互いのことを知っていくだろう。
例え知りたくないことがあったとしても。それまでにたくさん知っておけば、きっと怖くない。
「すご……大きい……」
見上げれば首が痛くなるほどの巨大な図書館。ここに無い本はない、と言われるほどの蔵書を誇る。もっとも、閲覧禁止の書物も多く、一般人が立ち入れる区域は限られている。
しかし閲覧自由区域だけを見ても、並みの図書館よりは遥かに広く、セントラル市民は自由に利用ができる。国外からの訪問者も、来館時に誓約書にサインすれば、貸し出しは行えないが閲覧は自由だ。
「これだけ大きいと、階段上るの大変そうだなぁ」
「確か、大きな建物には滑車の仕掛けがあるんじゃなかったか」
「えっそれって、自動で上がるやつ!?」
「実際に見たことは無いから、詳しい仕掛けはわからないが。必要なら、中で聞いてみるといい。上層階は立ち入れなかった気もするが」
「それもそうだね」
まさかエレベーターのようなものがあるとは。近代的だとは感じていたが、他の島との差に奏澄は素直に驚いた。
セントラルは技術力も優れていて、他の島には無いものが山ほどある。技術の流出を防ぐため、持ち出し禁止になっているものや単純に価格が非常に高いものが多く、国外にはあまり普及していない。
「じゃぁ、私は中に入るから。メイズも、近くで時間潰してて」
「ああ。無理はするなよ」
「うん、わかってる」
奏澄はメイズと別れ、緊張しながらも大図書館への階段を上った。入口の両脇には警備員が、バレルの長いマスケットを立て銃の姿勢で持っている。
それを横目でちらりと見た奏澄は、なんだかちぐはぐな印象を受けた。近代的な国だというから、てっきりピストルやライフルも最新の物が揃っているとばかり思っていたが、そうでもないらしい。
館内へ進み、受付を済ませる。何分蔵書が多すぎるので自力で目的のものに辿り着くのは困難で、レファレンスサービスを利用した。無の海域や、はぐれものの島に関すること。噂話でしかないそれらはオカルトに分類されるらしく、係の人は少し笑って、関係のありそうな蔵書の場所を示した。
書かれたメモを頼りに館内を歩き、目当ての棚に辿り着く。
「よし……頑張りますか」
複数の本を抱えて、席に着く。結局文字は完璧に読めるほどにはならなかったが、ある程度どんなことが書かれているのかくらいは理解できるようになった。関係がありそうだ、と思う記述があれば、念のためメモを取って、後で仲間に見せる。そういう段取りになっている。
元々、図書館での成果にはそこまで期待していない。誰でも閲覧できる本に確かなことが書かれているくらいなら、とっくに誰もが見つけているだろう。どちらかと言えば、マリーやライアーが行う情報収集の方がメインだった。
それでも、異世界出身の奏澄が見ることで、何か気づくことがあるかもしれない。それ故の配置だった。
例え大した成果が上がらなくても、自分にできることをする。そう決めた奏澄は、気合を入れて本を開いた。
数時間。ひたすら本と睨めっこをした奏澄は、眉間に皺を寄せた。わかってはいたが、そう簡単に答えには辿り着けないようだ。
『無の海域はセントラルが隠している』『無の海域は数百年に一度しか現れない』『無の海域の入口は黒の海域と白の海域の境目にある』『無の海域へは悪魔が誘う』等々。レファレンスの人がオカルトだと言ったのも道理で、陰謀論からスピリチュアルまで様々だ。
しかし、読み物としては興味深かった。以前にメイズからも少しだけ聞いていたが、白の海域には神や天使が存在したという伝承が残されている。それと対を成すように、黒の海域には悪魔や魔物が存在していた。そして二つの勢力は、創世の頃から戦争をしていたという。
争いは神々の勝利で終結した、とするものが多いが、曖昧な記載のものもある。真実は不明だが、現在は白の海域と黒の海域が争っているという話は聞いていない。世界の支配をセントラルが行っているということは、今は黒の海域もセントラルに従っているということだろう。
わかったことは、白の海域と黒の海域は、他四つの海域と比べて、特別視されているということだ。少なくとも、どちらかが無の海域に関係しているのでは、と奏澄は予想している。
――少し、休憩するか。
ぐっと体を伸ばしてから、本を元の棚へ戻す。それから体を動かすために、奏澄は館内を歩いて回ることにした。ついでに、トイレの場所を確認しておこうと思い立つ。これだけ広いのだから、行きたくなってから探し回るのは辛いだろう。
ああいうのはだいたいフロアの端か、奥まったところにあるものだ。そう考えて壁沿いを歩き、奥の方を覗くようにしながら進んでいく。だが、一向に端と思われる場所につかない。
どこから来たのかもあやふやになって、人の姿も見えなくなり、戻れなかったらどうしようと不安に駆られる奏澄。すると、通路の奥の方に箱のような、籠のようなものが見えた。
「あ、これもしかして」
エレベーター、にあたるものだろうか。近くで見ると、冷たい金属の棒で組まれたそれは、牢のようにも見えた。どういう仕組みなのか外見からは全くわからないが、それらしく見える。しかし、階を指定するようなボタンやダイヤルも見当たらないし、ドアの開閉すらできない。
「手で開いたりして」
さすがにそれは不用心だろうか。そう思いながら押してみると、いきなりドアがガシャンと音を立ててスライドした。
「え」
まさかそう動くとは思わなかったので、押した体勢のまま中へ倒れこむ。
「えっ嘘、ちょっと待って」
急いで出なくては。立ち上がろうとした瞬間、がくん、とその箱は急降下した。
「きゃああああああああああああ!!」
恐怖に絶叫する奏澄。
何で、何で、何で!
何で、落ちるのか。
奏澄がいたのは二階のフロアだ。それより上はあるが、下はエントランスのある一階しかない。落ちるほど、下がるはずがないのだ。
最悪二階から一階に落ちるくらいなら無事で済んだかもしれないが、体感でこれはかなり落ちている。このまま打ちつけられ、死んでしまうのではと嫌な想像が頭を過ぎり、涙が浮かんでくる。外を見る勇気は無くて、落ちている間、奏澄はぎゅっと目を瞑っていた。
がたん、という大きな音がして、動きが止まる。しんとした空気の中、奏澄は震える息を吐いた。
――生きて、いる。
どうやら地面に打ちつけられるより前に止まったらしい。這うようにして箱の外へ出ると、薄暗い通路があった。湿ったような臭いがして、気味が悪い。しかし地面は土ではなく、きちんと整備されている。図書館と繋がった施設ではあるのだろう。
箱の中へ戻っても、その箱は上には上がらない。進むしかないようだ。震える足を叱咤しながら、奏澄は通路を歩き出した。
歩けども歩けどもどこに辿り着くこともなく、半泣きで壁にもたれかかる。すると、急に壁が回転扉のように裏返った。
「ひゃあ!?」
その勢いで、奏澄はまたしても中へと倒れこむ。何故こうも何もかもが急なのか。あまりの出来事に、奏澄は憤りすら感じていた。
中を見ると、狭い書庫のようだった。見るからに閲覧禁止区域、という気しかしない。
しかし、館内図で表示されていた閲覧禁止区域は上層階だけのはずだ。地下があるなんて話は、受付でも聞いていない。
ということは、よほどまずい機密の場所なのではないだろうか。さあ、と血の気が引き、すぐにその部屋を出ようとする。
出ようとする、のに。後ろ髪を引かれるような感覚がある。何かが、ある気がする。虫の知らせと呼ばれるような、第六感と言われるような、そんな何の根拠も無い奇妙な感覚が。
導かれるようにして、奏澄は一冊の本を手に取った。その本を開くと、真ん中の辺りでページがくり抜かれており、そこにはペンダントが嵌っていた。
「これ…コンパス?」
そのペンダントには、羅針盤のようなものが嵌め込まれている。だが、北や南といった方角を示す印がどこにもない。どう使うものなのだろうか。
使い方が書かれていないか本の内容に目を通すが、読めない。これは奏澄が文字を習得しきっていないこととは関係が無く、文字の羅列に意味が見出せなかった。しかし、一つだけはっきり読み取れた記載があった。
「これ……無の海域に関する本だ」
わかったのは関係がある、ただそれだけ。しかし、これはおそらく奏澄が喉から手が出るほど欲した情報だ。知りたい。欲しい。
――これが、欲しい。
この本は、おそらく機密にあたる。絶対に持ち出してはいけないし、多分見てもいけないものだ。だが、ここに来られたのは全くの偶然だ。この機を逃せば、二度と見ることができなくなるかもしれない。
決まりを破るのはいけないことだ。勝手に持っていくのは泥棒だ。犯罪だ。謝って済むことじゃない。この先一生背負うことになるかもしれない。
祖国で培われた道徳心が、奏澄の良心を苛む。手が震える。鼓動が早くなる。それでも。
これは、絶対に必要なものだ。
確信があった。ここでこれを諦めたら、二度と手に入らない。ここまで付き合ってくれた皆の行動も無駄になる。奏澄は意を決して、それを服の中に隠して、部屋を出た。
出たところで、どうやって地上に戻れば良いのかと悩む。さきほど落ちた箱は動かなかった。通路の先へ進むしかないだろうか、と歩を進めると、後ろから声がかかった。
「あなた、何をしているの」
よく通る、女性の声だった。柔らかいのに冷たく、色気があるのに恐ろしい。
おそるおそる振り向くと、そこには怖いほどに美しい女性が立っていた。背はすらりと高く、この薄暗い中でも分かる白銀の長い髪。涼しげな目元からは、感情が全く読み取れない。着ている服は白を基調とした制服で、頭には制帽を被っている。
図書館員の制服とは違う。軍か、政府の関係者か。奏澄は唾を呑んだ。
「すみません、迷ってしまって……一般のフロアには、どうしたら戻れますか?」
「そう」
一言、それだけ発すると、女性はひどく自然に銃を取り出し、流れるように発砲した。それはメイズが持つのと同じような、無骨なリボルバーだった。
弾が奏澄の頬を掠め、傷口が熱を持つ。
ひゅ、と呼吸が浅くなる。全身が震える。あまりにも、自然だった。何の躊躇も無かった。予告も警告もない突然の発砲に、奏澄の頭はついていかない。
「ど、して」
「どうやってここに入ったの」
まるで会話になっていない。話をする気があるとは思えない。
カチリと、コッキングの音がした。まずい。あれはマスケットと違って連射できる。銃口は奏澄を捉えたままだ。答えなければ、またすぐ発砲する。相手が望む答えが出なければ、きっとそのまま。
――殺される。
怖いと思う出来事は、何度かあった。それでも、こうして銃を向けられて、明確に殺意を意識することなんて無かった。そして初めてそれを体験している今、奏澄は一人だ。
「あの、私、さっきエレベーターを見つけて」
会話をする気があるように見せるため、話しながら、そっと閃光弾に指をかける。相手がその動きを察知して発砲するより僅かに早く、奏澄は閃光弾を炸裂させ、身を屈めた。
発砲音と、頭上で風を切る音がした。視界が奪われて尚、相手は姿勢を崩さずにこちらに向けて発砲したのかと、ぞっとする。念のために屈んで良かった。
当てずっぽうで乱射されたらどうしようかと思ったが、その後発砲音はしなかった。跳弾を気にしているのかもしれない。
なるべく身を低くして壁に寄りながら、全速力で走る。目を瞑ったとはいえ、奏澄自身も目がちかちかしていたが、通路は一本道だ。見えなくとも、方角さえわかればとにかく先へは進める。しかし、その後は。
ややあって、追いかけてくる靴音がする。当然だ。どうしたら、どうしたら。
もはや声を上げて泣き出す寸前の奏澄の前に、あの箱が現れた。しかし、来た時とは逆の方向へ走っているのだから、同じものではないはずだ。もしかしたら。
僅かな希望をかけてそれに飛び乗ると、すぐさまその箱は上へと急上昇した。下から発砲音がしたが、箱には当たらなかった。
がこん、と音がしてどこかについたかと思うと、奏澄はすぐさま転び出た。もつれる足で走り、一番近くに見つけた窓から身を乗り出す。高さからして、来た時と同じ二階だ。思い切り飛び出すには躊躇する高さだが、幸いにも足場になりそうな場所がある。伝って下りれば、ぎりぎり怪我をしない高さで下りられるかもしれない。
迷っている暇は無い。先ほどの彼女がすぐに同じ箱で追ってくるかもしれないし、どこかに連絡を取って囲まれるかもしれない。
震える手足に力を入れ、どうにか壁を伝ったが、途中で足が滑り地面に落ちる。打ちつけた所が痛むが、折れるほどの高さではなかったのが救いだ。
もたついている暇は無い。身を起こし、駆け出しながら奏澄は発煙筒を使った。大きな音と共に、色のついた煙が上がる。そして、大きく息を吸って、ありったけの声量で叫んだ。
「メイズ――――!!!!」
しかしその声に反応したのは、望んだ人ではなかった。
「そこの君、待ちなさい!」
奏澄の心臓が大きく跳ねる。図書館の警備員が二人、追いかけてくる。
勿論止まるはずもなくそのまま駆けるが、あっという間に追いつかれ、腕を掴まれてしまう。
「放して!!」
「図書館から不審者の連絡を受けている。やましいことがないなら……がッ!?」
言葉の途中で警備員が手を放し、膝をついた。奏澄を掴んでいた腕と、さらに足からも血が流れている。
「き、貴様、ぐあッ!!」
奏澄が目を白黒させている間に、もう一人が銃を構えようとしたが間に合わず膝をついた。どうやら足を撃ち抜かれたようだった。
唖然とそれを眺めていると、聞き慣れた声がかかった。
「カスミ! 無事か!?」
「メイズ!」
警備員を撃ったのはメイズだったようだ。ひどく焦った様子で、両手に一丁ずつリボルバーを持っている。
メイズは奏澄の姿を見ると、顔を顰めた。奏澄は自分の状態に思い当たり気まずくなるが、そんなことを気にしている場合ではない。
「ごめん、あとで話すけど、今すぐここを出なきゃ」
「わかった。船へ向かうぞ。走れるか」
「うん!」
足は痛むが、泣き言を言っている場合ではない。メイズが後ろを警戒する形で駆け出す。
「大通りで人に紛れるぞ。奴らは市民を傷つけない。人通りのある場所なら、まず発砲は」
「止まれ!!」
横から出てきた兵たちが、武器を持つメイズに向けて発砲してきた。すぐさま応戦する形で、メイズも発砲する。
「撃ってこないんじゃなかったの!?」
「普通ならな。よっぽどなりふり構っていられないらしい」
「さっきの人と、制服も、違う」
「今のはセントラル軍だ。こんなにすぐ軍が動くなんて……何やったんだ」
「あ、あと、で……っ」
奏澄の方は既に息も絶え絶えだが、メイズは全く息を切らせていない。日頃の運動不足が悔やまれる。今後は体力作りを日課にしよう、と奏澄は心に決めた。
「カスミ! メイズさん!」
「ライアー!」
こっちこっち、と手招きをするライアーに従い、メイズが後ろを威嚇射撃しながら、横道へ入る。
「マリーたちはもう出航の準備をしてる。オレが道案内するから、ついてきて」
「わかるの?」
「オレを誰だと思ってんの? 地理の把握なら大得意だっての!」
自信満々なライアーに、頼もしさを感じる。彼が仲間で良かった、と奏澄は心底感謝した。
そのままライアーに案内され、裏道や、時には建物を抜けたりして、できるだけ追手を撒くように移動する。軍が市民がいても発砲するとわかった以上、無関係の人を巻き込みたくなかった奏澄は、人が少ない場所を移動できるのがありがたかった。それでも運悪く追手に見つかった場合は、メイズが牽制する。
決まって足や腕を撃ち抜くメイズに、ライアーは何故か感心したような目を向けていた。射撃の精度に驚いているのかもしれない。奏澄も、銃のことはよくわからないが、両手に構えてよく狙いをつけられるものだと思った。二丁持つと言っても、二丁使うのは乱射する時で、精度が必要な場合は一丁しか使わないのではと思っていたのだ。
しかしライアーは『二丁拳銃のメイズ』を知っていたのではなかったか。一瞬首を傾げたものの、噂を聞くのと実際に見るのでは違うものだろう、とすぐに納得した。
「もうすぐ着くぜ! この先の崖から飛び乗る!」
「と、え!? なんて!?」
全力マラソンに一生懸命だった奏澄は、突然の難題に珍しく声を荒らげた。それは失敗したら海に落ちるやつなのではなかろうか。
どうしようと思う間もなく船が見え、見えるということはそれほど高くも離れてもいないのでは? と安堵しかけたその時、後ろから突然腰のあたりを抱えられた。
「え」
抗議する間もなく、奏澄を抱えたままのメイズとライアーが跳ぶ。
「~~~~!!」
色々な感情が篭った声にならない声を上げて、奏澄は無事に乗船した。
「全員乗ったね! 全速力で白の海域を出るよ!」
『了解!』
統制の取れた乗組員たちのおかげで、船はぐんぐんと陸から離れていく。
岬からそれを見送る人影に、セントラルの兵が敬礼をして声をかけた。
「総督! 申し訳ありません、すぐに軍艦で追尾します」
「いいえ、もういいわ。放っておきなさい」
「は? しかし」
「彼女がもしそうなら、どうせここに戻ってくるもの」
「は、はぁ……?」
首を傾げる兵をおきざりに、総督と呼ばれた女性は金の瞳をついと細めて、遠ざかる船を見つめていた。
安堵の空気が広がる船の上では、荷物のように抱えられたままだった奏澄が、力なく声を発した。
「メイズ……ありがとう……でも下ろして欲しい」
「ああ、悪い」
まるで忘れていたかのような気軽さで返し、メイズは奏澄をそっと立たせた。
「私も、自分で跳べたのに」
「いやぁ、カスミはギリギリ無理だったんじゃない?」
多分、きっと、という願望込みで口にしたが、ライアーに否定されてショックを受ける。それをフォローするように、メイズが口を開いた。
「普段ならわからないが、お前怪我してるだろう」
「あ……えっと」
気づいていたのか、それはそうか、と思いながら、何故か言い訳を探していた。すると、メイズの手が、奏澄の頬のあたりを撫ぜた。
「え、な、なに」
「……早いとこ手当てしろ。跡が残る」
ああ、そういえば銃弾が掠めたのだっけ、と撃たれた時のことを思い出し、身震いする。問答無用で発砲されるというのは、なかなかに恐怖体験だった。
その様子を見たメイズは、ますます険しい顔をした。
「メイズさんメイズさん、ストップ。相手殺しそうな顔してるから」
ライアーが待ったをかけ、メイズがばつの悪そうな顔をする。
「ほら、早く手当てしてあげましょうよ」
「いや、俺は」
「あ、だ、大丈夫。自分でできるから」
「何遠慮してんのさ。今更気にする仲でもないでしょ」
「気にするけど!」
傷は肌が露出している部分だけではない。いくらメイズに甘えきっている奏澄とはいえ、さすがに躊躇なく肌を晒せるかと言えば、そこは羞恥が勝る。
だがライアーは驚いたように声を上げた。
「うっそ!?」
「嘘つく理由ないでしょ。なんでよ」
「じゃぁアレなんなの!? たまに一緒の部屋で寝てるじゃん!?」
見られていた、と奏澄が赤くなる。一人で眠れないなんて、子どものようで恥ずかしいから黙っていたのに。
奏澄は言い訳を探し、メイズは黙ってライアーを殴った。
「痛った!?」
「妙な勘繰りをするな。そういうんじゃない」
「え? 何それ。逆に不健全じゃない?」
コントのようなやり取りに、くすくすと可愛らしい笑い声が混ざった。
「あ、すみません。マリーさんから、船長の手当てを頼まれまして」
「ローズ」
そこに立っていたのは、マリーの部下の一人、ローズだった。
ミルクティー色のストレートボブをさらりと揺らして、優し気な目元を細めて微笑んでいる。
体型は小柄だが、背筋がすっと伸びて姿勢が良く、実際の身長よりも高く見える。
「マリーさんはまだ手が離せないんです。私で良ければ、お手伝いします」
「わ、助かります。お願いしてもいいですか?」
「勿論」
ありがたい申し出を受け、奏澄は船室でローズの手当てを受けることにした。
「わ~、打ったとこ腫れちゃってますね。これ暫く痛いですよ」
「うぅ……なるべく触らないようにします」
「その方がいいですよ。船の仕事も、暫くお休みしたらどうですか」
「や、それはちゃんとやります。そんな大怪我したわけじゃないし、手は使えるし」
むしろこの程度で休ませてもらうなど申し訳ない、と奏澄が手を振って答えると、ローズはおかしそうに笑った。
「そこはうまいことサボっちゃえばいいのに。船長って真面目ですよね」
「あー……よく言われます」
あまり良い意味ではない方で、とは口に出さなかった。生真面目とか、融通がきかないとか、頭が固いとか。やりにくい、と思われがちだ。実際は小心者なだけで、自分の中にある基準に反してしまうと、気になって気になって仕方ないのだ。
「でもそんな船長が、あの大国を敵に回すほどのことをしでかすなんて、思いもしませんでした」
「そ、それは」
「成果はあったんですか?」
謝らなければと焦った奏澄に、ローズはすぱっと問いかけた。
その言葉に、彼女もやはり商人なのだ、と感じた。
「はい」
「なら良かった。行った甲斐がありましたね」
怒っては、いないのか。そう聞こうとした言葉を、飲み込んだ。それは無粋だ。
代わりに、奏澄はいたずらっ子のような顔で笑って見せた。
「成果、見ますか?」
「とっても気になりますけど、私はマリーさんの後で。先に見たって知ったら、拗ねちゃうから」
「ふふ、マリーも可愛いところがあるんですね」
「私が言ったって内緒ですよ?」
「勿論」
くすくすと笑いあって、それから二人で少しの間、たわいもない話をした。
「お待たせしました」
奏澄から話を聞くために、メイズ、ライアー、マリーの三人は既に会議室に集まっていた。
何からどう説明すれば良いのか。悩みながらも、奏澄はなるべく事実だけを詳細に伝えた。何が必要な情報となるかわからないからだ。
話を聞き終えた三人の様子は、三者三様だった。メイズは考え込むようにし、ライアーは青ざめ、マリーは感心した風情だった。
震えながら、ライアーが口を開く。
「なぁ、まさかとは思うけどさ。その地下で撃ってきたのって……オリヴィア総督?」
「どなた?」
「セントラルのトップだよトップ! って、ああ、そうか、カスミは知らないよな」
「トップって……え、でも、若い女性だったけど」
「若いって言っても、メイズさんと同じくらいだよな、確か」
ライアーがマリーに話を振ると、マリーも思い出すようにしながら答えた。
「さぁ、正確な年齢は知らないけど。でもま、総督やるには若いでしょ」
「よっぽど凄い人なの?」
奏澄からすれば、軍人は皆怖い。しかし自分が相対した人物がそれほどの権力者ならば、奏澄が感じた底知れぬ恐怖は真っ当なものなのかもしれない。
セントラルの事情に疎い奏澄に、ライアーが説明を加えた。
「超がつくほど有能な人だよ。今のセントラルが軍事国家なのは、あの人の功績だしね。元は宗教国家だったけど、先代国王から様変わりして、軍事方向に舵を切りだしてさ。今の形に落ちついたのは、現国王がオリヴィアを総督に就けてからだな。今じゃ国王より総督の方が実権を持ってるくらいだ。武器もここ十年でかなり変わった」
「本当に凄い人だったんだ……。あれ、でも追ってきた人たちが持ってた銃って、メイズのより古いよね?」
「一般兵はね。軍の制式装備にしちゃうと、払い下げとかであっという間に民間にも流通するから。制限してるんじゃなかったかな? 今は戦争もしてないし、クーデターの方が怖いんだろ。佐官以上はライフルも使えた気がするけど」
「そうだったんだ」
ということは、あの追手の中に佐官以上がいた場合、ライフルで狙撃された可能性があったということだ。階級が下だったのか、使用許可が間に合わなかったのか、事情は定かではないが、対抗できないような装備で来られなくて良かったと、今更ながらに肝を冷やす。
「能力を差し引いても、あの人は特別なんだよ。さっき宗教国家だったって言ったろ。えーと、カスミは白の海域の成り立ちって知ってる?」
「図書館の本でちょっとだけ。神様や天使が住んでたんでしょ」
「そうそう。んで、オリヴィア総督はその『神の血』を引いてるってわけ」
「え!?」
素直に目を丸くする奏澄に、マリーが苦笑混じりで付け足した。
「そういう『言い伝え』って話ね。セントラル王家は元は神の一族で、代々受け継がれる白銀の髪と金の瞳がその証なんだって。で、オリヴィア総督は元々王家の人間なのさ」
「なんだかすごい話だね」
「あの見た目は目立つからなー。軍服に白い長髪なんて、他にそうはいないだろ」
「瞳の色は見た?」
「暗かったから、そこまでは」
はっきりと見たわけではないが、言われてみればそうだったような気もしてくる。
王家が神の子孫である、というのは珍しくない。日本の天皇とて、今でこそ象徴とされているが、元は天照大御神の末裔という根拠のもと崇められていたのだ。
それ故奏澄の感覚としても珍しくはないが、それよりも気になることがあった。
「神の血を引く一族がいるなら、悪魔の血を引く一族っていうのもいるの?」
それは単純な興味だった。白の海域の話を読んだ時に、黒の海域の話も読んだので、話ついでの雑談のようなものだった。
しかし、奏澄がそう聞いた途端、何故かその場は静まり返り、ライアーとマリーが窺うようにメイズに視線をやった。
聞いてはいけないことだったのだろうか、と奏澄が焦りだした頃、メイズが重たそうに口を開いた。
「いるには、いる」
「そ、そうなん、だ」
「だがお前には縁の無い話だ。気にするな」
「うん……わかった」
何故か、深くは聞けなかった。
「それにしても、あのオリヴィア総督相手に、一人で逃げ切ったんでしょ? なかなかやるじゃん! 見直したよ」
場の空気を変えるように明るく言って、マリーが奏澄の肩を抱いた。ほっとして、それに乗る。
「マリーのくれた閃光弾のおかげだよ、ありがとう」
「正直ただの気休めにしかならないと思ってたけど、役に立ったなら何より」
奏澄が一人で行動するにあたり、マリーが殺傷能力の無いトリッキーなアイテムをいくつか授けていた。使うことになるとは思わなかったが、備えておいて良かったと心から安堵した。
「その場にいたのが本当にオリヴィアなら、カスミの見たものはかなり機密性の高いものなんだろう」
「問答無用で撃ってくるくらいだしねぇ」
「で、そのやばい本ってのが、これか」
机に置かれた一冊の本を、その場の皆が眺める。
「まさか持ってきちゃうとは」
「ご、ごめんなさい」
「責めてないよ、驚いてるだけ」
「でも……そのせいで、セントラルと敵対することになっちゃったし。みんなにも、迷惑かけることになる」
本を持ち出したことを、後悔はしていない。例え止められたとしても、同じようにしただろう。
それでも、旅の危険度が増したことは否めない。だから、これはけじめだ。
「思ってたより、大変なことになっちゃったかもしれないけど。みんなのおかげで、無事でいられたの。本当にありがとう。できればこれからも、力を貸してほしい。お願いします」
自分の事情に巻き込むことになると、最初からわかっていた。だから今更、そこに遠慮はしない。でも、ちゃんとお願いをしたい。人を頼ることを、当たり前だと思いたくはないから。
頭を下げる奏澄に、マリーはからからと笑った。
「何言ってんの! 危険なんて最初から承知の上さ。あたしらだって、得があるからここにいるんだしね。セントラルに睨まれるのが怖くて、商人なんかやってらんないよ」
「そうそう。コイツだって持ち出し禁止品持ってきてるからな。人のこと言えないぜ」
「ライアー! それは黙っときな!」
ライアーを小突いたマリーは、奏澄に向き直った。
「それに、あたしあんたのこと結構好きだよ。びびりなお嬢ちゃんかと思ってたけど、なかなか度胸も根性もあるし、何より人を大事にするからね。あんたの船なら、暫く付き合うのも悪くないと思ってる」
「マリー……」
思わず目が潤む。こんな風に、正面から好きだと言ってもらえるなど、思ってもみなかった。
「オレも元々カスミに惚れて付いてきたんだしね。このくらいで抜けたりなんかしないさ」
「ライアー……あんた」
「ち、違う違う! そういう意味じゃなくて! あれだ、人として!?」
「うん、わかってる。ありがとう、ライアー」
「そうすぐ納得されちゃうのもなんだかな~」
彼らが仲間で、良かった。そして、何よりも。
奏澄がメイズに目を向けると、目だけで返してくる。良かったな、と言っている気がした。
それに、奏澄は満面の笑みで返した。
「話がまとまったところで。船長、この先どうする?」
「あ、えっと……このコンパスが指してる先に、行ってみようかなって思うんだけど」
「無の海域を指してるかもって? そう単純なもんかねぇ」
「だが、現状手掛かりはそれしかないな。この本の中身を解読する必要がありそうだが、俺の知識ではどうにも」
「オレも暗号は専門外~」
この場の面子では、誰も本の中身を理解できなかった。読み解くためには、必要な知識があるのだろう。
「今指してる方角は……緑の海域の方か」
「特に危険のある海域でもないしね。とりあえず行ってみる分にはいいんじゃない?」
「そうだな。カスミ」
メイズに呼ばれ、コンパスが嵌められたペンダントを手渡される。
「これはお前が持っていろ」
「うん……わかった」
唯一の手掛かり。絶対に、失くすわけにも壊すわけにもいかない。肌身離さず持っていよう、と奏澄はその場でペンダントを首から下げ、人から見えないようにコンパスの部分を服の中に入れた。
かつて、そこには違うものがあった。それを懐かしく思いながら、ペンダントを指でそっと撫でた。今日からはこれが、奏澄を導くものだ。
ひとまずの方針も決まり、マリーの部下たちにもきちんと話をしておきたい、と乗組員全員を上甲板に集め、奏澄は改めて事情を簡潔に説明した後に頭を下げた。
「未熟な私を、これからも助けてほしいです。どうか、よろしくお願いします」
マリーは受け入れてくれたが、皆が同じかどうかはわからない。渋られたらどうしよう、と内心震えていたが、乗組員たちの反応は実にあっけらかんとしていた。
「何を今更。『はぐれものの島』に行こうなんて時点で、普通の航海になるとは思ってないっすよ」
「そもそもマリーさんと一緒にいて、何も問題が起きなかったことの方が少ないし」
「それな」
「今どさくさ紛れにあたしの文句言ったやつ誰だい?」
マリーが拳を握りしめるが、当人たちは空笑いでごまかした。
「俺たちもついにおたずね者かぁ」
「それは気が早くないか?」
「でもメイズさんは元々指名手配されてるし、今回の件で船長も確定だろ」
「もはや海賊だな」
笑いながら言った乗組員の言葉に、ライアーが反応した。
「それだ!!」
「えっ!?」
妙にきらきらとした目で、ライアーが奏澄にずいと近寄った。
「海賊! 海賊やろうぜ!」
「え……えぇ?」
「オレやってみたかったんだよ~!」
何故ライアーはこんなに楽しそうなのだろうか。男のロマン的なものがあるのだろうか、と奏澄は戸惑った。そもそも海賊とは、名乗ったり、やろうと思ってやり始めるものなのだろうか。
「この船だって元々海賊船だったんだし、海賊旗掲げれば、それっぽくなるって!」
「いやでも、海賊を自称するなんて、面倒ごとが増えるんじゃない?」
止めてくれ、の意でメイズの方に視線をやると、メイズは溜息を吐きつつライアーを奏澄から引き剥がした。
「止めておけ。海賊なんてロクなもんじゃない」
「えぇ~! でもほら、なんか『一つの団』って感じがするじゃないすか! まとまりって言うか!」
「まとまり……」
その言葉は、少しだけ奏澄を揺らがせた。現状は人数の関係もあるが、奏澄が自分で仲間に引き入れた面々とドロール商会の面々では、一線あるような気がしている。
最初こそ『マリーの部下』でしかなかったため、その隔たりははっきりと感じられたが、航海を続ける中で、自惚れでなければそれなりに距離は近づいたと感じている。
彼らが『マリーの部下』ではなく、『奏澄の仲間』として船に乗ってくれるのであれば。一つの船団として、名前くらいはあってもいいのではないだろうか。
そこまで考えて、首を振った。さすがにそれは自惚れが過ぎる。協力してくれることに同意しただけで、彼らは奏澄を長として認めたわけではない。あくまでマリーがいるから、一緒にいてくれるだけに過ぎないのだ。
「じゃぁ団の名前考えます? 何がいいすかね」
「あれ!?」
考え込む奏澄をよそに、意外なところから意外な提案が出てきた。商会メンバーのポールだ。
垂れ目でいつも気だるげな雰囲気なので一見やる気が無さそうに見えるが、年長者だからか仕事はでき、他の商会メンバーからも頼られている。だからこそ、商会寄りの立場だと思っていたのだが。
「え、あの、名前とかって……いいんですか?」
「何かダメです?」
「いえ、その。ドロール商会の名前に、拘りとか、そういう……」
「別に、ここの団員になったからって、商会辞めるわけじゃないし」
奏澄は面食らった。それはそうだ。当たり前だ。別の名前を持ったとしても、彼らはドロール商会の人間だ。ドロール商会の人間であって、奏澄の船団の仲間。それでいい。複数の団体に所属するのはおかしなことじゃない。そもそも商会長のマリーが乗っているのだ。
何故かそんな簡単なことに気がつかなかった。視野が狭いというか、ゼロイチ思考というか。奏澄は自分の頭の固さを反省した。
「でも海賊というのは……」
「俺らマリーさんと一緒で、面白ければ大体オッケーなんで。別に気にしないっすよ」
ノリが、軽い。
思ったが、口にしなかった。さすがはドロール商会の人間だ。フットワークが軽い所以を見た気がする。
「メイズ……」
「……好きにしろ」
海賊というのは置いておくにしても、船団としての名前はあってもいいと思った。止めてほしいと頼んだ手前気が引けたが、メイズにそれを視線で訴えかけると、溜息と共に許可が下りた。
「ライアー!」
「お、カスミなんかいい案ある?」
「あのね、船団の名前はライアーが決めてほしいの」
「オレ?」
びっくりしたように、ライアーは自分を指さした。
「一つの団って言ってくれたの、嬉しかったし。それに、ライアーは最初に仲間になってくれたから」
メイズも仲間と言えば仲間だが、ライアーのそれとは違う。メイズと奏澄は、一蓮托生だ。
ライアーは、何の特別な事情もなく、ただ真っすぐに奏澄を見て、力を貸してくれると言った。いつだって離れられるが、離れずにいてくれた。ライアーがいなければ、この船団は存在しなかった。だからこそ、この集団に名前をつけるとしたら。彼以上にふさわしい人間はいない。
「そりゃ、責任重大だな」
ライアーは照れたように笑って、目を瞑って考えた。
「んー……よし、『たんぽぽ海賊団』で!」
出てきたのは、およそ海賊団の名前としては緩すぎる名前だった。養護施設か何かだろうか。
「……ちなみに、理由を聞いても?」
「なんか、カスミのイメージっぽいじゃん?」
「どのへんが?」
「こー……なんつーか、ふわふわしてる感じ?」
ライアーがそう言うと、数名の乗組員が「あー」と同意を示した。
「えっ待って私そんなに地に足ついてないイメージなの。っていうか、それ花の方じゃなくて綿毛だよね?」
「まぁほら、細かいことはいいじゃん!」
笑顔でごまかして、ばしばしと肩を叩かれた。全然細かくないのだが。
「団名は決まったとして、船の名前は奏澄がつけなよ」
「船の名前?」
奏澄は首を傾げた。船団の名前があるのに、船に名前が必要なのだろうか。
「あ、それあたしも思ってた。この船名前ないよね?」
「えぇと……奪った船だから、元の名前もわからないし」
「元の名前はどうでもいいさ。海賊船なんてだいたい略奪品だし」
「えっ」
「まぁ便宜上あった方がいいってのもあるんだけどね。この船だって、この先一緒に航海をする仲間だろう? つけてやってもいいんじゃない」
マリーの言葉に、奏澄はなるほどと頷いた。自転車や車に名前をつけるのは一部の人なので、船も特別愛着のある人だけがつけるものだと思っていた。けれど、ライアーもマリーも気にしていたということは、おそらく名前を付ける方が一般的なのだ。であれば、特に拒否する理由も無い。
「船の名前ってルールとかあるの?」
日本の船では『丸』をつけるのが習わしになっていたなぁと思いながら尋ねる。できれば奇抜と思われることは避けたい。
「特にないけど、出身海域の色を頭につけることが多いね。わかりやすいし。けどあんたはここの出身じゃないから、いらないんじゃない?」
確かに、そのルールでいくと奏澄はどこの海域出身でもない。自由につけていいことはわかったが、名づけセンスに自信は無い、どうしよう、とちらりとメイズを窺う。目が合って、ふっと浮かんだ。
「……コバルト号」
「お、いいじゃん」
にんまりと笑ったマリーは何かを察したようで、奏澄は照れて俯いた。
「よし! 無事に団名も船名も決まったな! オレ海賊旗描こっと」
うきうきした様子のライアーに、思わずつっこみを入れる。
「待って、船団の名前を決めてほしいとは言ったけど、海賊やるとは言ってない。海賊旗は待って」
「たんぽぽの海賊旗とか可愛いっすね」
「ポール!?」
「じゃぁ今夜は海賊団発足ってことで、宴やりましょうよ宴! 海賊はやっぱ宴でしょ!」
わあ、と声が上がった。これはもう、止められないのでは。
そういうつもりではなかったのに、とおろおろする奏澄の肩に、ぽんとマリーの手が乗った。
「諦めな」
「マリーまで……」
「なんだかんだ、騒ぐ理由が欲しいんでしょ。ここまではあいつらにしちゃ、割と真面目にやってきたしね」
「あ……気をつかわせてた?」
「そんなこともないけど。セントラルで結構酒や食料も仕入れられたし、ぱーっとやるにはちょうどいいタイミングかな。あんたも一回、ガス抜きしたらいいよ」
「……うん。そうする」
心身が削られるような出来事で疲弊しきっていたが、皆の楽しそうな姿に、どこか心が浮き立つのを感じた。
さて、宴の準備には何が必要だろうかと指折りやることを確認していると、メイズが腕を引いた。
「夜まで少し休んでろ。もたないだろ」
「大丈夫だよ。大変だったのはみんな同じなんだし。私調理担当だから、準備しなくちゃ」
笑顔で告げたが、渋い顔をしている。顔に似合わず心配性だ。
それ以上言い募ることはしないが、黙っていても目が心配の二文字で埋まっている気がして、奏澄はくすぐったい気持ちで思わず笑った。
「……なんだ」
突然笑われて、怪訝そうにメイズの眉が寄る。
「ううん、なんでもない」
奏澄は、自分を映すその目を、真っすぐに見返した。
メイズの瞳は、光の加減で青の深さが変わる。明るい陽の下で見ると、青の鮮やかさが増す。
どうかこの人の瞳に、いつも光があるように。
コバルトブルーの瞳を持つ人よ。