レオナルドが船に戻り、コバルト号は喜びに包まれた。白虎の仲間の釈放も伝えられ、ハリソンは眼鏡を外し、暫く目元を押さえていた。
目的は達成された。今後のことも考えなければならないが、今はこの祝福に水を差すこともないだろう。宴は三日三晩続いた。恩赦の影響でたんぽぽ海賊団の手配書は取り下げられており、セントラルに船を泊め、街を闊歩していても、何を言われることも無かった。
「カスミーィ! こっちで飲もうぜ!」
「もう、私はまだお酒飲めませんってば」
「なんだよ、いいじゃねぇか。すっかり顔色も戻ったろ」
昼間から上甲板で酒盛りをしているラコットに声をかけられて、奏澄は軽い調子で躱した。すっかり元気になったように見えるが、食事を取らない期間も随分続いた。胃腸が弱っているから、と奏澄は宴の間も一度も酒を口にしなかった。実際、時折具合が悪そうにしている姿も見られた。
「カスミ、ちょっといいかな」
「はーい! アントーニオさんが呼んでるので、もう行きますね」
「つれねぇなぁ」
夕食の仕込みを手伝ってほしい、と言われ、奏澄はアントーニオと厨房で作業をすることにした。
黙々と皮を剥く奏澄は、ちらりとアントーニオの顔を窺う。体調を理由に、奏澄は乗組員たちとは別のメニューを口にしていた。それはだいぶ回復したと思われる今もまだ続いている。
「どうかした?」
視線に気づかれたのか、アントーニオの方から声をかけられて、奏澄はどきりとした。
「え……っと、その。ちょっと、気になって」
「うん?」
「アントーニオさん、もしかして、ハリソン先生から……何か、聞いてます?」
「うーん……まぁ、コックだからね、ぼく」
「ですよねぇー……!」
自分の予想が当たっていたことに、気恥ずかしさと気まずさがあって、奏澄は視線を逸らした。
考えてみれば当然のことだ。これについては、ハリソンを責められない。食事の管理は絶対に必要なことだし、あの時の奏澄に、誰に伝えて誰に隠して、などという判断はつかなかった。最低限の根回しをしてくれたのだろう。
「メイズさんには?」
「一応、これから、タイミングを見て」
「早い方がいいよ。仕方ないとはいえ、自分より先に仲間が知ってるって、面白くないでしょ」
「ぐぅ……!」
正論すぎて返す言葉が無い。呻いた奏澄に、アントーニオが笑った。
その日の夜、奏澄はメイズを自室に呼んだ。どことなく緊張した面持ちのメイズに、奏澄は申し訳なく思った。色々と、気をつかわせているのだろう。
あの日のことを話すと思っているのかもしれない。それができないことにもまた、申し訳なさが募った。
メイズに椅子を勧めて、奏澄はベッドに座った。
「やっと落ちついてきたね」
「そうだな」
「たんぽぽ海賊団の仲間も、みんな揃ったし。これからどうしよっか。四大海賊の人たちにあいさつ回りとか、した方がいいかな? 色々協力してもらったもんね」
「ああ……それもいいかもしれないな」
「みんな、付いてきてくれるかな」
「お前が言えば、来るだろう」
「そうだといいなぁ」
軽く笑った奏澄に、メイズも僅かに微笑んだ。空気が緩んだことにほっとして、奏澄は本題を切り出す。
「あのね。メイズに、ちょっとした報告があって」
「報告?」
珍しい言い方に首を傾げるメイズに、奏澄は悟られないように軽く深呼吸した。なんだかんだで、自分も緊張しているのだ。
大丈夫。この人は、拒絶したりしない。大丈夫。
言い聞かせて、口を開く。
「子どもができたの」
言って、じっと目を見る。メイズの返答を待つが、何も言わない。
「あの……大丈夫? 意味飲み込めてる? えと、妊娠した、って報告なんだけど」
駄目だ。石像のように固まっている。そこまで衝撃を受けるようなことだろうか。
手放しで喜んでくれるとまでは期待していなかったが、こうも想定外でした、という態度を取られると、それはそれで複雑である。
セックスをすれば子どもができる。そんな当たり前のことを、何故考えずにいられるのだろう。
奏澄の時代の技術を用いても、百パーセント避妊する方法は無い。パイプカットなど体に手を加えれば別だが、一般的に普及しているコンドームやピルでは確実に防げないことなど、女性の間では既に常識として浸透している。
だから女性はいつもその可能性を頭に置いている。どんなに気をつけていても、妊娠するときはする。万が一の時の対処法を考えている。だというのに、何故か男性は妊娠を『突然』だと受け止める。そしてまるで自分が被害者であるかのように宣うことすらある。
父親に『されてしまった』。『失敗』した。本当に『自分の子』か。
特に最後は、自分は避妊していたのだから妊娠などするはずがない、という思い込みが隠れている。だから、避妊しない他の男としたのだろうと。無知ゆえの言葉で相手を傷つけることよりも、自分の保身を優先している、最低の発言といえよう。
メイズの場合は、無知は仕方ない。教育の場も、教えてくれる人も、自ら学べる機会すらも無かったのだから。それでも、以前からセックスはしていたのだから、まさか子どもの作り方を知らないということは無いだろう。避妊することを教えなかったのは奏澄の責任だが、教えなければその可能性に全く思い至らないというのも不思議な話である。彼は娼婦の子どもだったのだから、尚更。
確率で言えば、誰にとっても妊娠はその時期を正確に予期できるものではない。そういった意味では、誰にでも等しく『突然』の出来事だ。
だからこそ。それに直面した時、その回答がどうあるかは、彼自身の本質が出るだろう。
自身の罪にも自覚がある奏澄は、満点の回答は望まないから、せめて最悪の回答だけは避けてくれ、と祈っていた。
メイズが、固まっていた口を開く。心臓が、うるさく音を立てていた。
「……いつ」
ガツン、と殴られた気分だった。これは、かなり、最低寄りの発言じゃないだろうか。
時期を気にするということは、自分以外の可能性を疑っているということだ。
「結構、前だよ。ミラノルド島くらいかな」
「そう、か」
メイズはほっとしたように息を吐いた。
――それ、どういう意味なの。
聞けない。その安堵は、何の。
「少し、時間をくれ」
それだけ言って、メイズは部屋を出ていった。残された奏澄は暫く呆然として、じわじわと込み上げてきた嗚咽を嚙み殺した。
「うえっメイズさん!? なんでこんなとこに!?」
波止場に座って酒瓶を呷っているメイズを見つけて、ライアーはぎょっとした声を上げた。
「……ライアーか」
「……ん、あれ、酔ってます? それ何本目、うわ」
夜の暗さと体に隠れて見えなかったが、既に何本か瓶が転がっているのを見て、ライアーは顔を顰めた。
「せっかく手配書取り下げられたのに、そんな飲み方してたら下手すると捕まりますよ。酒場行けばいいじゃないすか」
「ここの酒場は俺一人だと浮く」
「うーん、否定できない」
いかにもしかつめらしい顔をして腕を組む。
セントラルは最も治安の良い国だ。本来なら、海賊がひょいひょい出入りする場所ではない。
見るからに何かあったメイズに、ライアーは溜息を吐いて横に腰を下ろした。
「今度は何したんですか」
「なんで俺が何かした前提なんだ」
「んじゃカスミが何かしたんですか?」
そう尋ねると、仏頂面で顔を背けた。
「何か、したわけじゃない。ただ……見ないようにしてきた現実を、急に突きつけられた気がした」
「はぁ?」
わけがわからない、というように眉を寄せるライアーに、メイズは渋々、といった様子で口にした。
「……ガキができた」
「えっおめでとうございます!?」
疑問形ながらも即座に祝いの言葉を述べたライアーに、メイズは目を瞬いた。そして、しげしげとライアーを眺める。
「え、な、なんすか」
「いや……そうか。普通は、そういう反応をするのか」
「うわ、オレなんか嫌な予感してきた。メイズさんどういう反応したんですか」
「……反応できなかった」
目を伏せ、うわごとを言うように訥々と零す。
「俺自身、父親はどっかの海賊ってことくらいしか知らないしな。そういうものだと思っていた。今まで俺が抱いた女も、もしガキができてたとしても、どっかで適当に生んでるだろうとしか」
「割と最低な発言ですね」
「今更だな。……けど、今度は、放り出すわけにはいかない。だからといって、俺が……親に、なれるわけがない。でもそれをカスミに言うわけにも、いかないだろ」
「それで、逃げ出してきたと」
「……時間をくれと言った」
「逃げたんでしょーよ」
ジト目で追及するライアーに、メイズは苦虫を噛み潰したような顔をした。
そんなメイズの様子に、ライアーはやれやれと言いたげに肩を竦めた。
「あのですね、メイズさん。どんなにクズでも、親は親です。血が繋がってりゃ生みの親だし、面倒見てりゃ育ての親です。そんなもんは呼び方でしかないし、世の中の親がみんな立派な親かって、そんなわきゃないんですよ。それでも子どもは育つ。心配するだけ無駄です。なれるかどうかなんて、そもそもそんなことを悩んでるのがおかしいんですよ。カスミのお腹に子どもがいるなら、既にメイズさんは父親で、カスミは母親です。なっちゃったんだから、腹括ってください。んで、悩む時は、カスミと悩んでください。一人じゃないんだから」
でしょう、と指をさすライアーに、メイズはたじろいだ。
「……お前は、いい親になるんだろうな」
「どうですかねー。オレも親の顔とか知らないですし。院長はいい人でしたけど、孤児院育ちなもんで」
突然明かされたライアーの出自に、メイズが目を丸くする。
「言ったでしょ? 親なんかいなくたって子どもは育つって」
にっと悪戯が成功した少年のように笑ったライアーに、メイズは表情を緩めた。
「まーメイズさんがそういうのに縁遠いってのはカスミもわかってるだろうし、下手なこと言う前に頭冷やす時間を取ったのは正解だったかもですね。酒飲んでるのはだいぶアウトですけど」
「……悪かったな」
言って、ふと思い返したことがあり、メイズは口元に手を当てた。
「どうしたんですか?」
「……言ったかもしれない」
「は?」
首を傾げるライアーの前で、メイズは顔色を悪くしていく。
「下手なことを、言ったかもしれない」
「……時間くれって、言っただけなんじゃ」
「その前に。……いつ、と」
ライアーが、目を瞠った。
「……それは、いつ妊娠したのか、って意味で?」
「……ああ」
メイズの返答を聞いたライアーは、立ち上がって拳を握りしめた。
「歯ぁ食いしばれ」
メイズの返答を聞かずに、ライアーはメイズの頬を思い切り殴りつけた。
酒が入っていたこともあり、メイズの体は簡単に倒れた。
「ってぇ~!」
人を殴り慣れていないライアーは拳を痛めたのか、赤くなった手を振っていた。
しかしすぐにきっと眦を吊り上げて、メイズを睨みつけた。
「アンタ何やってんだ! それは絶対言ったらいけないだろ!」
緩慢に体を起こすメイズに、ライアーは怒鳴りつける。
「アンタ、それ、カスミが他の男と関係したんじゃないかって言ってんのと同じだからな!?」
「そういう、つもりじゃ」
「ならどういうつもりだよ!」
「……カスミは、フランツと何があったかを、言わなかっただろ。あの後の事だったから、もしかしたら、と」
ライアーは息を呑んだ。そんなことを、考えていたのか。
奏澄が、フランツに襲われたのではないかと。そんな、最悪を。それで、何も語らないのではないかと。
「仮に、もし、そんな可能性があったら、カスミはメイズさんに言わないだろ。自分でどうするか、結論を出したはずだ。真正面からメイズさんに伝えたんだから、アンタの子以外にあり得ないだろ」
「……そうか。そう、だな……」
悔いるような、安堵するような表情を浮かべるメイズに、ライアーも大きく息を吐いて怒りを収めた。
「とにかく、メイズさんは今すぐカスミんとこ行って謝ってきてください」
「だが」
「時間置いてる場合じゃねー失言なんですよ! 今頃絶対泣いてるから、早く行け!」
ライアーに急かされて、メイズはたたらを踏んだ。
「ライアー」
「まだ何か」
「助かった。礼を言う」
目を瞬かせるライアーを置いて、メイズは駆けて行った。
残されたライアーは、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱しながら、その場にしゃがみ込んだ。
その顔は、僅かに赤みが差していた。
遠慮がちなノックの音を聞いて、奏澄は枕に埋めていた顔を上げた。こんな時間に尋ねてくる人物に、心当たりは一人しかいない。
重い気持ちで細くドアを開けると、やはりそこにはメイズがいた。
「……なに」
「少し、いいか」
「明日じゃ、ダメ?」
「頼む。少しでいい」
僅かに沈黙して、奏澄は渋々といった様子で扉を開けた。そしてぎょっとした。
「えっなにその顔!?」
「ああ……ちょっとな」
「ちょっとってレベルじゃないじゃん!? やだ、すぐ冷やさなきゃ」
「いいから」
手を掴まれて、奏澄は戸惑った。すぐにでも手当てをしたい。けれど、話が済むまでは大人しく手当されてくれそうにない。これは、先に話を済ませてしまった方がいいだろう。
「わかった。聞くから。終わったら、ちゃんと手当てさせてね」
「ああ」
部屋に招き入れるや否や、メイズは深く頭を下げた。
「さっきは悪かった」
謝りに来たのだろう、とは思ったが、奏澄は複雑な心境でその頭を見下ろした。
「それは、何に対して?」
「……いつ、と聞いただろう。あれは、決して、お前のことを疑ったつもりはなかった」
ああ、と奏澄は納得した。やはり、あれはそういう意味合いの発言だったのだろうと。そして今、顔を腫らしている理由も、なんとなく察せられた。自分で気づいてくれたわけではないのだ。
「どういうつもりだったのか、聞いても?」
メイズはやや逡巡したが、ごまかすと余計に疑心を煽ると判断したのだろう。正直に告げた。
「もしかしたら。フランツと、何かあったんじゃないかと」
何か。何かって、今は妊娠の話をしているのだから、つまり。
「はぁ!?」
時刻も問わず、奏澄は思わず大きな声を上げた。すぐには結びつかなかった。それくらい、奏澄にとっては明後日の答えだった。
「なん、なにそれ。あの状況下で、私が、敵の悪魔と? そういうことをしてたんじゃないかって? どういう思考回路で」
「待て、多分勘違いしている。そういう意味じゃなくてだな」
「は? じゃどういう意味」
「あれは、人の嫌がることを好んでする。俺への嫌がらせで、お前が……言えないような酷い目に、遭わされたんじゃないかって」
奏澄は息を呑んだ。奏澄はマリアを通してフランツを見ていたから、すっかりその印象で上書きされてしまっていた。マリアを愛していたフランツなら、決してそんなことはしない。
けれど、事前にメイズから聞いていた話では。母親に焼いた子どもを喰わせようとするような男だ。団を抜けたかつての副船長への報復に、相手の恋人を犯してみせるくらいのことは平気でやるだろう。そう、思ったはずだ。
あの日、メイズがコバルト号に駆けつけた時、奏澄は既に船にいなかった。姿を探しても見つからず、やっと戻ってきた時にはフランツの首を抱えていた。奏澄は泣くばかりで、何も語らなかった。メイズが最悪を想像するのも、無理からぬことだ。
自分のことに手いっぱいで。彼のケアを怠った。これは奏澄の落ち度だ。
「……ごめん。私が何も言わないから、余計な心配、させたよね。それは、本当に、ごめんなさい。私が悪かった」
落ち込んだ表情で謝る奏澄に、メイズは戸惑っていた。
「言わないって、約束なの。でも、メイズが心配してるようなことは何もないよ。大丈夫」
「……その約束ってのは、フランツとしたのか」
「うん」
「お前が納得してした、約束なのか」
「……うん」
一方的に交わされたけれど。言うわけにはいかない、ということは、奏澄も納得している。
最初の反応、そして奏澄に悲壮感が無いことから、メイズも特別の被害が無かったことだけは納得した様子だった。それでも、複雑な感情は隠せない。
「……いつか。言える時がきたら、話してくれ」
「うん。その時は、必ず」
もし。マリアとフランツの約束が果たされる時がくれば。その時は、話してもいいだろう。そんな日が訪れるようにとの期待を込めて、奏澄は笑顔で答えた。
「それじゃ、私冷やすもの持ってくるね。座ってて」
「あ……ああ」
まだ何か言いたかったようだが、ひとまず一番の懸念は解消されただろうと、奏澄は部屋を出た。濡らしたタオルと、手当ての道具を持って部屋に戻る。
大人しく椅子に座っていたメイズの顔にタオルを当て、そのまましばらく押さえているように伝える。
「カスミ」
「うん?」
「子どもの、ことだが」
奏澄は目を瞬かせた。謝罪を受けたことで、すっかり気が済んでしまっていた。そうだ、そもそも子どもをどうするか、の答えがまだだった。時間をくれ、と言われていたから、その答えはまだ待っても良かったのだが。メイズの中では、答えが出たのだろう。奏澄はメイズを向き合った。
「俺は、家族というものが、よくわからない。多分、いい父親には、なれないと思う」
「……うん」
「それでも、努力は、してみる。お前が一緒なら。だから、俺が父親でいられるように、ずっと傍で支えてほしい」
「……それは、プロポーズと、受け取っても……?」
メイズは目を丸くした。そういうつもりはなかったようで、言葉を探して口を開閉させている。
その様子がおかしくて、奏澄は笑った。
「私も、母親になれる自信はないよ。でも、メイズと一緒なら、頑張れるから。私と、結婚してください」
「…………待て。やり直させろ」
「えぇ、勇気出して言ったんだから返事ちょうだいよ」
「今のはさすがに情けない」
「意外とそういうの気にするんだ?」
くすくすと笑って、赤い顔を手で隠すメイズをからかう。
この先ずっと、この人と生きていく。その幸せを、噛みしめて。
時が止まればいいと、思った。
妊娠のことは、メイズ以外には安定期まで隠しておこうかと思っていた。しかし、既に悪祖の症状が出ていることもあり、暫く共に航海するならと、仲間たちにも伝えられた。そしてついでとばかりに、結婚することも伝えた。
二重の報告に、仲間たちの驚きようは凄かった。コバルト号は一気に拍手喝采に包まれた。
「ええええ!? おめ、おめでとう!!」
「なんだいなんでそんな大事なことさっさと言わないのさ!」
「マジで俺全然気づかなかった、え、あ、歩いて大丈夫なんですか?」
「船長が……ついに人妻に……」
「おめでとうございます船長おおお!!」
わあわあと祝福されて、奏澄は顔が緩むのを止められなかった。こんな風に手放しで祝福されることは、とても嬉しい。
ああ、この子は、これだけの人に祝福されて生まれてくるのだ。なんて幸せな子だろう。
「なぁ、結婚式はいつすんの?」
レオナルドの一言に、喧騒がぴたりと止んだ。
「絶対しない」
それに答えたのはメイズだった。
「は!? メイズさん何言ってんの!?」
「甲斐性無し」
「見損ないました」
エマ、マリー、ローズと女性陣に立て続けに罵倒されて、メイズがたじろぐ。それを奏澄は苦笑しながら見ていた。そういうことは苦手だろうと思っていたから、元々期待はしていない。
「セントラルならいくらでも教会あるし、今のうちに済ませた方が早いんじゃねぇか?」
「いやぁ……オレらがセントラルで結婚式ってのも、なかなかシュールだと思うけどね」
ラコットの疑問に、ライアーが半眼で答える。
確かに、セントラルは神の国だ。教会には困らない。しかし、今までのセントラルとの関係を考えれば、祝い事をこの国でするというのも、なかなかに度胸の要る話だ。
「提案はありがたいんだけど、今すぐはいいかな」
「えー! だってこういうの後回しにすると、絶対なぁなぁで流されるよ!」
エマの剣幕に、奏澄もやや引き気味になる。なんだろうかこのパワーは。
「うーん、でも、結婚式にはアントーニオさんがケーキ作ってくれるって約束だから。どうせなら、お腹いっぱい食べたいし? 生まれてからの方がいいかなって」
「あぁー……そうかぁー」
妊娠中であることを理由にすれば、エマの勢いも引いた。今の状態で、ご馳走はちょっと食べられない。
花嫁からもそう言われれば、周囲が推し進めるわけにもいかないと、結婚式はとりあえず後回しになった。
「それで、これからなんだけど。お世話になった四大海賊の人たちに、挨拶回りをしようかなって」
「船旅なんかして、体調は大丈夫なのかい?」
「うん、今のところは。具合悪くすることもあると思うけど、陸にいるからって治まるものじゃないし。もちろん、予定日近くなったら降りるけどね。子どもが生まれたら旅をするのは難しいから、むしろこれが最後のタイミングかなって」
「……そっか。そうだね」
心配そうにしていたマリーも、奏澄の笑みに頷いた。
そう。これが、最後の旅になるだろう。だから。
「もう少しだけ、私に付き合ってくれますか?」
大声で問いかけた奏澄に、仲間たちは笑顔で応、と答えた。
*~*~*
特にセントラルに長居する用も無いし、休息も補給も充分ということで、たんぽぽ海賊団はまずアルメイシャ島に向かった。ドロール商会が再開されてから一度も寄っていないので、様子を見ておきたいとのことだった。
ドロール商会はすっかり元通り再開しており、島は元の活気を取り戻していた。久しぶりの商会長の帰還に、商会員たちも総出で迎えた。
内部の整理に数日だけ欲しいというマリーに、奏澄は快く了承した。久しぶりのアルメイシャだ。ゆっくり見て回ろう、と思っていた奏澄だったが。
「カスミはちょっと見てほしい物とかあるから! 一緒に商会来て!」
エマとローズに引きずられ、カスミは何故かドロール商会へ向かった。
そして更に謎なことに、品物の目利きを頼まれた。そんなものはカスミにはさっぱりわかるわけがないので、疑問符を浮かべながらも、何となく好みを答えることしかできなかった。
夕方に疲弊しながらメイズと合流すれば、何故かメイズも疲弊していた。理由を聞いたが、はぐらかされるだけだった。
うっすらと予感するものはあるが、そうでなかったら大恥だし、それを考えたところで奏澄にできることは無い。なるようになる、と無理やり納得した。
翌日はゆっくりと過ごして、迎えた翌々日。
「カースミ。ちょっといい?」
楽しそうなライアーに、奏澄は内心苦笑しながら頷いた。
「こうやってメイクしてもらうの久しぶり」
「まぁ、そんなに機会もなかったしね」
船内で、カスミはライアーにメイクを施されていた。理由は訊かなかった。
「でも、ちょっと意外。エマかローズがやると思ってた」
「ああ、オレがやりたいって言ったの」
「そうなの?」
「そりゃ、これが最後かもしれないしね。今までで一番可愛くしたいから」
「……ありがと」
照れたように笑った奏澄に、ライアーも微笑み返した。
「なんかほんと、ライアーには、ずっとお世話になりっぱなしで。感謝してもし足りないよ」
「はは、そんなに頼りにしてくれて、航海士冥利に尽きるよ」
「本当だよ。ライアーがいなかったら、今の私はいなかったし……この団だって、なかったんだから。メイズとは違う、すごく、すごく大事な人。大好きだよ」
「…………やめてカスミ、オレ泣いちゃう」
「ええ~立場逆でしょ~」
軽い調子で笑い飛ばしながら、奏澄の方も泣きそうだった。本当に、家族みたいに大切な人。そんな仲間が得られたことを、誇りに思う。
「おし、上出来!」
メイクを終え、髪も整えると、ライアーは満足そうに頷いた。
「こっから先はエマたちにバトンタッチ。オレはメイズさんの方行くから」
「大変そうだ。よろしくね」
「任された」
ウインクしたライアーが出ていくのと入れ替わりに、エマとマリーが入ってきた。
「はーい、ここからはお着替えの時間です!」
「体調には気をつけながらやるけど、何かあったらすぐ言いなよ」
その手には、淡い桜色のドレスが用意されていた。
*~*~*
上甲板に出れば、普段より小奇麗にした仲間たちが揃っていた。
商会の男性陣も協力したと見えるが、細かいところはローズがやったようだ。奏澄の方に来なかったのは、他の面々の準備を手伝っていたのだろう。
「カスミ!」
気づいたローズが駆けてくる。それに軽く手を上げて答えた。
「すごく、すごく綺麗。良かった」
「うん。ありがとう、ローズ」
涙ぐむローズに、奏澄もつられて泣いてしまいそうだった。メイクが崩れるから、と気合で我慢した。
「勝手にごめんね。カスミは、後でもいいって言ったけど……やっぱり、先のことはわからないから。私たちは、ずっとそうだったから。今、できる内に、小さくてもお祝いしたかったの」
「うん、ありがとう。すごく嬉しい。私も、今できて良かったって思うよ」
「そうそう、ケーキとかご馳走とかはさ、またもう一回やればいいじゃん!」
「そうさ。何も二度と会えないわけじゃないんだから。奏澄が子どもから手が放せなければ、あたしらが動けばいいだけだしね」
「エマ、マリーも。ありがとう」
ローズの言葉は、もっともだった。奏澄は、一度仲間たちの前から突然姿を消している。その後、仲間が捕らえられたり、レオナルドが残されたり、黒弦との闘いでも、奏澄たちは二度と会えないかもしれない状況で別れている。これまでは幸運にも無事に再会できているが、これからもそうだとは限らない。
今、この瞬間を。皆が揃っているこの時を。大切に思うなら、今こそ最善だといえよう。
「カスミさん」
「ハリソン先生」
老紳士は、さすがの着こなしだった。フォーマルな服に着られている様子が全く無い。
「おめでとうございます。祝いの場だからといって無理せず、体調が悪くなったらすぐに言ってくださいね」
「ありがとうございます。今日は調子がいいので、大丈夫そうです」
屈託なく笑う奏澄に、ハリソンは眼鏡の奥の目を眩しそうに細めた。
「あなたが、幸せに生きることを。この世界で、望んだ家庭を持つことを。本当に、心から嬉しく思います」
「……そうなれたのは、ハリソン先生のおかげです。本当に、ありがとうございます」
この人がいなければ。奏澄は、生きていたのかどうかもわからない。感謝してもしきれない、大恩人だ。
この人に、恥じない人生を送りたいと、強く思う。
「お、新郎様のお出ましだぜ!」
ラコットの台詞を皮切りに、囃し立てるような口笛や野次が飛ぶ。視線を向けると、ライアーとアントーニオに背中を押されるようにして、メイズが出てきた。
黒のフォーマルなジャケット姿で、初めて見るその格好に、奏澄は目を奪われた。
「……何故カメラがないのか」
いつぞやと同じ感想を漏らしてしまう。タキシードやウェディングドレス、といった決まった服装は無いようだが、それなりにフォーマルな格好をするという概念はあるらしい。ライアー、グッジョブ。奏澄は内心でガッツポーズを取った。
嫌そうに歩きながらも、奏澄の姿を目に留めたメイズは、息を呑んで立ち止まった。
「どう?」
ドレスの裾を持って、小首を傾げてみる。
女性陣が選んでくれた、淡い桜色のドレス。妊婦なのでウエスト周りを締め付けないデザインで、少しゆったりと生地が流れるようになっている。胸元は露出せず、胸から上、そして背中部分がレースに切り替わっている。ノースリーブで肩は出ているが、グローブは無かった。ベールも無いが、髪には白と薄紅色を中心にたくさんの花が飾りつけられていた。
「…………似合ってる」
いつぞやと同じ台詞ではあるが、眩いものを見るように目を細めて、感嘆の息と共にそう告げたメイズに、奏澄はちょっとだけ目を瞬いて、淡く微笑んだ。
「さて、そんなお二人さんに式の前にプレゼントです」
「わ、レオ!?」
ふわふわとした空気に割って入るように、レオナルドがずいと手のひらを差し出した。そこには、指輪のケースがあった。
受け取ったメイズが蓋を開けると、そこには海のように青く揺らめく宝石をあしらったペアリングが入っていた。奏澄がそれを覗き込んで、レオナルドに視線を向ける。
「これ……」
「さすがに、前のやつそのままはカッコつかないだろ。結婚するなら、このくらいはね」
「いい、の?」
「むしろ貰ってもらわないと困る。二人のために作ったんだから」
「……ありがとう」
瞳を潤ませた奏澄に、レオナルドは切なそうに微笑んだ。
「幸せになれよ。泣かされたら、いつでも俺のとこ来ていいから」
「それは無い」
レオナルドの軽口を、ばっさりとメイズが切り捨てる。
「冗談だって」
笑い飛ばすレオナルドを睨んでから、一つ息を吐いて。
「……ありがたく、受け取らせてもらう。大切にする」
真剣なメイズの言葉に、レオナルドは目を丸くした後、ゆっくりと細めた。
「……そりゃ、どーも」
指輪を持って、二人は船首近くに立つ。
「……何すりゃいいんだ」
「私もよくわかんない。前にアントーニオさんに聞いた時は、なんか誓えばいいって言ってたかな。あ、せっかく指輪貰ったし、指輪交換やりたい」
決まった形は無い、とのことだったので、それっぽい流れになればいいだろう、と簡単な流れをメイズに伝えて、奏澄は仲間たちを見渡した。
「今日は、私たちのために準備してくれてありがとう。すごく嬉しいです。一生の思い出になりました。みんなに見守られて誓いを立てられることを、こんな風に祝福してもらえることを、心から幸せに思います。本当に、ありがとう」
ああ、もう既に泣きそうだ。まさか自分が、こんな日を迎えられるなんて。
涙を堪えて、奏澄はメイズに向き直る。
「私、奏澄は。どんな時でも互いを尊重し、敬い、支え合って、命のある限り夫メイズを愛し続けることを誓います」
真正面から告げられて、メイズがうろたえた。どうぞ、と奏澄が視線で促す。眉間に皺が寄っているが、これは多分困っているのだろう。あんまり黙るようなら助け船を出さないとな、などと考えていると。
「私、メイズは。どんな時でも互いを尊重し、敬い、支え合って……命のある限り、妻カスミと子を愛し、守り、決して傷つけないと、誓います」
奏澄は大きく目を瞠った。唇が、震える。
何かを言う前に、メイズが気まずそうに指輪の箱を取り出す。
「ほら、指輪交換、するんだろ」
「……うん……っ」
メイズが、奏澄の左手の薬指に指輪を嵌める。奏澄も同じように、メイズの左手の薬指に、指輪を嵌めた。
サイズは、二人ともぴったりだった。
互いの左手を絡ませて微笑んだ奏澄に、メイズがそっとキスをする。
驚きに目を見開く奏澄。伝えたのは、誓いの言葉を交わして、指輪を左手の薬指に嵌める。それだけだ。誓いのキスの話は、していない。
そうしたいと、思ってくれたのだろうか。だとしたら、嬉しい。
わあっと歓声が聞こえる。それを聞きながら、奏澄は幸せな気持ちで目を閉じた。
温かい涙が一筋、頬を伝った。
結婚したといっても、定住するまでは事実婚のようなものである。特に何が変わることもなく、以前と同じように、たんぽぽ海賊団は旅を続けていた。
しいて言うならば、奏澄の指輪が変わった。以前のシルバーリングは首から下げ、指には青の結婚指輪のみをつけている。コンパスは、もう下げてはいない。メイズは以前のシルバーリングと青の結婚指輪の両方を首から下げている。
最初の頃は意外に悪祖が軽いのでは、と楽観視していた奏澄だったが、それは徐々に酷くなった。というより、思っていた悪祖とは、やや異なる。吐き気がある。食べ物の匂いが気になる。それも全く無いわけではないが、それよりも。体の内側から刺されるような痛みや、ひどい頭痛が襲ったりした。それは、誰かといる時には無く、奏澄が一人の時にだけ、訴えるように起こるのだった。
「……生まれてきたく、ないの……?」
胎を撫でながら、青い顔で呟く。育つことを、拒んでいるようだった。この子には、既に意思がある。
この子には。――フランツには。
確証は無い。ただの希望なのかもしれない。それでも、マリアと同調していた奏澄は、ほんの微かにフランツの気配というものを感じ取っていた。
あの時、奏澄が逃すまいとしたものは。飲み込んで、腹に収めたものは。フランツの、魂と呼ばれるものだったのではないだろうか。あるいは、その欠片。
「大丈夫。大丈夫だよ……」
生まれておいで。怖くないよ。あなたは、誰からも祝福されている。
今度こそ。愛の中で、生きて。
奏澄の願いも虚しく、体調は悪化の一途を辿った。時期的には安定期を迎えたというのに、四六時中顔色が悪く、遂に倒れてしまった。
さすがに航海は中断せざるを得ず、コバルト号は緑の海域にあるバハジャマ島に船を寄せた。
妊娠が原因であるならば、回復がいつになるかわからない。奏澄は仲間たちに、一時解散しても構わないと告げたが、ここまで来たらいっそ生まれるのを見届けると、仲間たちも島への滞在を望んだ。
長期滞在用の宿屋にて。奏澄の体調を見てきたハリソンは、厳しい顔をしていた。途中から航海は厳しいのでは、と忠告を受けていたのに、別れを惜しんで大丈夫だと強がったのは奏澄だ。体調不良の原因がフランツであるならば、それを追求されたくもなかった。申し訳なさから俯いてしまう。
「カスミさん。メイズさんを呼んでも良いですか。お話があります」
「え、メイズも……ですか?」
「はい。お二人、一緒に」
不安を覚えながらも、頷くしかない。ハリソンがメイズを連れて戻るまで、奏澄はずっと落ちつかない気持ちだった。
ノックの後、部屋に入ってきたメイズは、やはり不安そうな顔をしていた。奏澄はベッドに身を起こして、メイズは椅子に腰かけて、ハリソンの話を聞く。
「カスミさん、メイズさん。非常に残念なことですが……このまま子どもを産むのは、難しいと思います」
告げられた言葉が、すぐには脳に届かなかった。二人で黙ってしまい、ややあって、奏澄が震える声で問う。
「難しい……というのは、具体的に」
「今のカスミさんは、そうですね……体の中に、毒を抱えているような状態です。このままだと、母体の方が危険です。ですから、もし子どもを諦めるなら……今が、時期的にぎりぎりです」
それは、つまり。
「子どもを……堕ろす、という、ことですか?」
「母体の安全を優先するなら、そうなります」
真面目な顔で頷くハリソンに、奏澄は縋るようにして言葉を吐く。
「子どもを優先すれば、生むことはできますか」
「カスミ!」
「だって!」
これにはメイズが声を荒げた。けれど、譲れない。ハリソンは、母体の安全を優先するなら、と言った。安全のために子どもを失うなどごめんだ。生み落とせずに死産、という話でもない。自分のために、大事を取って、今子どもを殺してしまう、という話だ。
「諦めません、ぎりぎりまで。子どもを優先してください」
「ふざけるな!」
「ふざけてるのはどっち!?」
「落ちついてください」
珍しく声を張ったハリソンに、二人が視線を向ける。
「カスミさんの言う通り、子どもを優先するなら。出産まで、何が起こるかわかりません。既にカスミさんの体には悪影響が出ています。このまま命に関わる事態になるかもしれないし、そうなった時、それでも子どもを優先するなら、取れる対処法が限られてきます。ですから、決めていただきたいのです。母体を優先するか、子どもを優先するか」
「そんなの子どもに決まって」
「落ちついて。今、あなたは動揺して、感情的になっています。大切なことですから、お二人でよく話し合って決めてください。いいですね」
奏澄は黙りこんだ。ハリソンは厳しい顔のままで、メイズにも言い含めた。
「メイズさんも。威圧して、怒鳴ったりしないように。従わせるのではなく、きちんと納得する形になるように努めてください。……それで、納得できなかったとしても。後で、させられた、と思わなくていいように」
メイズは返事をせずに、固く拳を握りしめた。
ハリソンが部屋を出ていくと、部屋には思い沈黙が流れた。
メイズは背を丸め組んだ手で頭を支え、なんとか奏澄が納得できそうな言葉を探しているように見えた。
「私、生むから」
「……カスミ」
駄々をこねる子どもを嗜めるように言われ、涙が滲んでくる。感情的になっている自覚はある。けれど、どれだけ落ちついたところで、この決意は変わらない。それだけは、あり得ない。
「子どもなら、また作ればいいだろ」
息が、止まった。
「……また、って、なに。次があれば、この子は、殺してもいいの?」
「まだ生まれてもいないんだ、それはまだ人間じゃない。殺したことにはならないだろ。お前の方が、よっぽど大事だ」
「命、だよ」
声が、震える。
「もう、ここにある、命だよ。私と、メイズを、繋ぐ子だよ。父親なんだよ! 愛するって、言ったじゃない! 守ってよ!」
一人でも勝手に生む、とは言えない。だって奏澄が死んだら、この子の肉親はメイズだけだ。父親に憎まれて、健やかに育つわけがない。
ちゃんと愛してほしい。その確信をもって、生みたい。
私が死んでも、この子を愛してよ。
「それはお前が生きてる前提の話だ! お前が一緒なら、できるかもしれないと思った。お前がいないなら、なんの意味も無い。お前を失うくらいなら、子どもなんか要らない!」
目の前が真っ暗になった。
要らない。メイズにとっては、必要無い。あんなに、望んでいたのに。でもそれは、奏澄だけで。
わかっていた。メイズは、一度だって、子どもが欲しいなんて言ったことは無い。
最初から、奏澄の一人相撲だ。子どもが欲しいと思っていたのは、奏澄だけ。子どもができれば。家族が持てれば。きっと全てが、うまくいく。メイズのためにも。
今は、違う。メイズのためだけではない。だって、もう母親なのだ。ここに、いるのに。どうしてそれを無視することができるのだろう。
望まれて、生まれてくると思った。この子は、多くの祝福を受けて、この世に生まれ落ちるのだと。
でも、もう。父親にすら、望まれていないのなら。
絶句して涙を流す奏澄を見て、さすがに言い過ぎたと思ったのか、メイズが気まずそうに視線を逸らした。それでも、撤回する気は無いらしい。
「……頭冷やしてくる」
それだけ言って、メイズは部屋を出ていった。
残された奏澄は、ひたすらに泣きじゃくった。
街中のベンチに座って。メイズは、ぼんやりと行き交う人々を眺めていた。
その視線は、どうしても親子の姿を捉えてしまう。母親と手を繋いで、無邪気に笑う子どもの笑顔に、思わず目が険しくなる。
そうしていると、どかりと隣に腰かける者があった。視線だけを、そちらに向ける。
「……ライアー」
ライアーは、無言で正面を見据えていた。彼にしては珍しく、話を聞きにきた、という風ではない。メイズと同じくらい、険しい顔をしている。
むっつりと黙ったまま前を睨みつけるようにしていたが、やがて大きく溜息を吐いて屈み込んだ。
「も~……無理……俺にもできることとできないことがある……」
唐突な弱音に、メイズは怪訝な反応をするしかない。
「いやね、カスミから、メイズさんの説得を頼まれまして」
「……聞いたのか」
「ええ、まぁ」
「悪いが、説教なら今は聞きたくない」
「まー……そうですよね……」
困り果てたように、彼は髪をかき乱した。
「オレ、基本的にはいつもカスミの味方ですけど。今回ばかりは、メイズさんに賛成です」
メイズは、驚いたようにライアーの顔を見つめた。
「子どもが命だってのは、わかるんですよ。カスミは自分の中にいるから、余計にそう思うんでしょう。カスミが大事にしていることなら、大事にしてあげたい。でも今回は、さすがに無理だ。だってカスミは、大事な仲間だから。ずっと一緒に過ごしてきたから。そのカスミより見知らぬ子どもを愛せなんて、オレだって無理だ」
苦しそうなライアーの様子に、それがメイズへの気づかいではなく、彼の本音だということが見て取れた。
同じだ。メイズだけではない。仲間が、彼女の身を案じないものか。
生きていてほしい。健やかであってほしい。何よりも大切な人だから。
それが、そんなにおかしいことなのか。
結局二人は、並んで難しい顔をすることしかできなかった。
そして話は平行線を辿った。女性陣は概ね奏澄に寄り添ってくれたが、強くメイズを批判するほどでは無かった。何とか同性から説得してもらえないかと考えた奏澄だったが、頼りのライアーがメイズに賛同し、アントーニオでさえ「子どもがいなくても幸せに暮らすことはできる」などと言い出す。
絶望的な気分になった奏澄だったが、助け船は意外なところから出た。
「産めばいいじゃねぇか」
あっけらかんと言い放ったのは、ラコットだった。仲間たちの空気が尋常でなく重いことに、遅れながら彼も事情を知った。
そして、療養中の部屋で、奏澄とメイズを前にして、いとも簡単にその言葉を言った。
これには、メイズが瞬時に怒気を放つ。
「カスミが死んでもいいって言うのか」
「なんで死ぬって決めんだよ。カスミは、戦うっつってんだろうが!」
顔を顰めたラコットの言葉に、奏澄は目を瞠った。
「メイズだって、今まで何度も命張ってきただろ。戦いどころが違うだけだ。今度は、カスミが命張ろうっつってんだろ。だったら、応援すんのが筋じゃねぇのか!」
死ぬかもしれない、と言われただけで。絶対に死ぬと決まったわけじゃない。
奏澄は、戦うのだと。そして勝つのだと。だから、それを信じろと。
ラコットの揺るぎない信念に、メイズの瞳が揺らいだ。
「自分はさんざん信じてもらっといて、カスミはダメなんてそりゃムシが良すぎだろ。なぁに、カスミは一回死にかけたけど治ったもんな。今度も大丈夫だろ! な!」
気楽に笑いかけるラコットに、奏澄は涙の浮かぶ笑みで答えた。
「はい。大丈夫です。私、強いので。負けません」
言われて、気づいた。奏澄自身も、自分を諦めていたことに。
子どもか、自分か。そう問われて、その二択しかないのだと、思い込んでいた。視野が狭まっていた。
危険かもしれない。それでも、可能性はある。子どもも、奏澄も無事でいられる可能性は。その勝負に、奏澄が勝てばいいだけ。
勝てる。だって、この人を一人にはできない。
「メイズ。私を、信じてくれる?」
「……そういう聞き方は、ずるいだろ」
「ごめんね。でも、絶対、勝つから。メイズだって、今までそう言ってきたじゃない」
手を取られたメイズは、とても納得はできない様子だったが、それでもさんざん葛藤して、やがて強く目を閉じた。
「絶対、勝てよ」
「――うん」
子どもは生む。
万が一危険な事態になった時は、子どもを優先する。後回しになったとしても、自分は決して生きることを諦めない。
その決意を、奏澄はメイズと共に、ハリソンに伝えた。
それを受けたハリソンは、静かに頷いた。
それからは、奏澄はバハジャマ島で療養に専念した。驚いたことに、なんと青龍海賊団の船長、アンリが見舞いに来た。
赤の海域にいた時に、ロッサには挨拶を済ませてある。緑の海域に入った後、アンリに会う前に療養に入ったため、アンリにはまだ会えていなかった。どうも偶然傘下の海賊がバハジャマ島に来ていて、黒弦討伐の件でたんぽぽ海賊団のことを知っていたものだから、一応とアンリに報告を入れたらしかった。
「ご挨拶に伺えずに、すみませんでした」
「気にすることは無い。むしろその状態で来られても困る」
変わらず冷静なアンリに、奏澄は苦笑を零した。
「キッドさんとエドアルドさんにも、まだ暫く会えそうになくて。お手紙でも出した方がいいですかね」
「やめておけ。手紙なんか出したら飛んでくるぞ。無事に子どもが生まれたら、君が直接会いに行くといい」
奏澄は目を瞬いた。遅くなるようなら、先に報告だけでも、と思ったのだが。そこに潜んだ弱気に、気づいたのかもしれない。手紙で伝えてしまえば、用は済んでしまうから。奏澄が、直接会うようにと。
アンリの不器用な気づかいに、奏澄は微笑んだ。
腹が大きくなってくると、奏澄はよく子守唄を歌うようになった。宥めるように。安心させるように。生まれてくるのを拒むように腹を蹴る子どもを、よしよしと撫でながら。
子どもは腹の中でなんとか育っているようだったが、奏澄の体調はずっと悪いままだった。いつ、何があるかわからない。誰もが不安に思っていたが、誰も口には出さなかった。
そして迎えた、九ヶ月目。奏澄が破水した。
予定よりも早いそれに、部屋は一斉に慌ただしくなった。
ハリソンは早い内から島の助産師と連携を取っていたため、すぐに助産師を呼び、メイズを含めた仲間たちは全員邪魔になるので外へ追い出された。
「カスミさん、頑張ってください。ここまで来れたんですから、あと一息ですよ」
ハリソンの励ましに、奏澄は脂汗を浮かべながらも微笑んだ。
本当に、やっとだ。生むと決めたあの日から。目が覚める度に、ほっとした。まだ、生きていられると。この子と、一緒にいられると。日に日に大きくなっていく腹が、愛おしかった。まるで奏澄の生気を吸い取るように育つ子を、それでも元気であってほしいと、祈り続けた。
助産師の指示に従って、何とかいきむ。痛み以外の感覚が全て消えてしまったようだった。喉が裂けるほどに叫んで、舌を噛まないようにと布を噛まされた。
目の前が暗くなって、闇の中に光が明滅した。駄目だ。気絶するわけには。
頭の中で、何かがばちばちと爆ぜる。全身にひどい痛みが走る。ハリソンの声が遠い。自分が今、何をしているのかもわからなくなってきた。
まずい。意識だけじゃない、生が遠のく感覚がある。せめて、せめてこの子だけは。
「駄目ですカスミさん、意識をしっかり保って!」
負けない。そう決めた。自分のことも、諦めたくない。
けれど、自分の状態もわかっていた。だからせめて。
――少しだけ、手を貸そう。
ふっと、響く声があった。色も温度も無いような声だった。なのに、何故か怖いとは思わなかった。
――君には、後始末を押し付ける形になった。異界の者にそれをさせたのは、本意ではない。綻びを、ここで正そう。
だれ。そう問うことはできなかった。それはただ一方的に、奏澄に力を与えてくれた。そうだと、感じた。
意識がはっきりしてきて、力が戻って。何度もいきんで、そして。
産声が、上がった。
*~*~*
諸々の片づけが済んで、母子の健康状態を確認して。それからやっと、メイズは面会を許された。
母子共に無事であることは仲間たちにはすぐに伝えられ、皆が安堵した。中には泣き崩れる者もいた。しかし皆が一斉に面会に押しかけるには、まだ奏澄の体調が万全でない。ひとまず、メイズだけが先に会うことになった。
緊張した面持ちでノックをすると、中から返事があった。ゆっくりと、ドアを開ける。
「メイズ」
柔らかく微笑んだ奏澄は、ついでブイサインをした。
「勝ったでしょ」
弱々しいながらも強がってみせる彼女に、メイズは全身から力が抜けるのを感じた。生きている。無事を聞いてはいたが、自分の目で確かめて、やっと実感が湧いた。
続いて、彼女の上に乗っているものに目を向ける。小さな小さなそれは、人間の形をしていた。
「早めに生まれたから、ちょっとちっちゃいんだよね。でも、何とか元気だって。暫く注意が必要だけど」
「……そう、か」
それは、呼吸をしているようだった。眠っているせいで、瞳は見えない。髪の色は、薄い黒のように見えた。
人間、だ。
「抱っこする?」
奏澄に問われて、メイズはぎょっとした。抱っこ。これを、持ち上げる?
「無理だ」
「無理って。しっかりしてよ。この先私一人で面倒見るんじゃないんだから」
呆れたように言われて、メイズは尻込みした。そう言われても、こんなぐにゃぐにゃとした小さなものを持ったりしたら、殺しそうな気がする。
「じゃぁ、せめて触ってあげて。パパですよーって」
パパ。馴染みの無い単語に、動揺が隠せない。
どこなら触って良いのだろうか。手でも握ろうかと思ったが、小さすぎて指すらよくわからない。
比較的面積の大きい頬を、軽く指で突いてみる。ふにゃふにゃと声を上げて、赤子が顔を動かした。
唐突に、涙が落ちた。
何故かはわからない。ただ、ひどく胸が苦しかった。息が吸いづらかったが、嫌な感覚ではなかった。
「あらら。パパは泣き虫ですねー」
からかうように言って、奏澄が赤子に笑いかける。
そして赤子に気をつけながらも手を伸ばして、メイズの頭を撫でた。
この感情を。何と言おう。
「……カスミ」
「うん?」
「ありがとう」
陳腐な言葉しか、出なかった。それでも、彼女には充分だったようで。
「こちらこそ。ありがとう」
女神のように、笑った。
ずっと、誰かに会いたかった。
名前はフラン。母さんはカスミ、父さんはメイズ。俺の名前は、母さんがつけた。
本当は別の名前を持っているのだそうだけれど、それはいつか教えてくれるらしい。
生まれは緑の海域。けど、育ちは赤の海域。母さんの友達がいて、俺を育てるのに協力してくれた。いつも誰かがいたから、俺はあまり寂しいと思ったことが無い。四大海賊とかいう偉い人たちが遊びに来たこともあって、母さんの交友関係は謎だった。
父さんはあまり家にいなかった。父さんは、黒の海域をまとめる仕事をしているのだそうだ。セントラルとの橋渡しをして、ゴミ溜めのようだった地区を、少しずつ整備しているらしい。立派な仕事だ、と母さんは言うけれど、俺は黒の海域に行ったことが無いので、よくわからない。
俺は、生まれた時は、母さんと同じ黒い髪と黒い瞳をしていた。それが十になる頃、突然目が赤くなった。そのことで、母さんと父さんは一時もめたらしい。母さんは未だに根に持っている。
母さんとも父さんとも違う色だから、俺は不安になって、二人の子どもではないのではないか、と聞いてしまったことがある。母さんは俺を宥めて、それは魂の色なのだと教えてくれた。理屈はわからなかったが、時が来たら教えてくれるとのことだった。
十五になる頃、俺は旅に出ることにした。
誰かを、探しに行きたかった。
誰かはわからない。何故かもわからない。ただ、ずっと誰かを探している気がした。己の半身が欠けているような感覚が、常にあった。
それを両親に告げると、母さんは泣いて喜んだ。父さんは、死なない程度で帰ってこい、と言った。
母さんは、俺に黒い指輪と、コンパスを渡した。その誰かを探すのに、きっと役に立つと。指輪なんて初めてつけたのに、それはなんだかひどく指に馴染んだ。
それから五年ほど旅をした。誰かには、まだ会えていない。
顔も名前もわからない。それで探しようがあるわけがない。それでも何故か、諦められなかった。
新しい島に着いて、コンパスを眺めた。こちらを指していたが、さてどうか。
針路は、母さんに聞いた通り、たまにコンパスを指に刺しては、それが示す方へ向かっている。
何も無さそうな島だ。広大な畑が広がっている。農業が主体の島なのだろうか。
作物が豊かなら、食べる物には困らなそうだ。食料が行き渡っているのなら、争いは少ないだろうと目を細めた。
軽い足音がした。誰かが駆けてくる、と思っていると。
「きゃっ!」
突然、女がぶつかってきた。
女の持っていた果物が散らばる。抱えすぎて、前が見えていなかったらしい。
「ご、ごめんなさい。だいじょうぶで……」
その女の姿を認めた途端、俺は女を抱き締めた。
「え、ええっ!? ちょっと、何ですか!?」
慌てた女は俺を引き剥がそうとしたが、
「……泣いて、るんですか?」
答えられなかった。涙が止まらなかった。
会いたかった。会いたかった。それ以外に、何も浮かばない。
女は暫く戸惑ったようにしていたが、迷った末、ためらいがちに俺の背に手を回した。
「なんでかな。わたし、あなたのこと知ってる気がする。ね、わたしマリアっていうの。あなたは?」
「…………フラン。今は」
「今は? 昔は違ったの?」
「フランツ、と呼んでくれないか」
「え……でも、その名前って」
「頼む」
フランツは悪魔として有名な名前だ。子どもにつける親はまずいない。
けれど。彼女には、そう呼んでほしい。ああ、これが魂の名前なのかもしれない、と母さんの言葉を思い出していた。
「……わかったわ。フランツ」
「――……マリア」
もう二度と。離れない。
今生こそ、君と共に。
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