私の海賊さん。~異世界で海賊を拾ったら私のものになりました~

 地鳴りがした。大地が揺れて、マリアがバランスを崩す。木々が大きくたわんだ。

『え、なに!? 地震!?』

 おろおろするマリアに、フランツは落ちついた様子だった。

『ねぇ、ここじゃ木が倒れてくるかも。どこかに避難しなきゃ』
「もう遅い」
『遅くないわよ! フランツの弦を使えば、森を抜けるくらい』
「もう遅いんだ、マリア」

 歪んだ笑みに、マリアは息を呑んだ。

「俺は、ずっとマリアに裏切られたんだと思っていた。何もかもを信じたくなかった。自分のことも、どうでも良かった。二度と目覚めなくったって、構わなかったんだ。だから適当に気の向くように振る舞って、惰性で過ごしてきた。その内セントラルに消されても、それでもいいと思ってた。それを、今更」

 嘲る様に乾いた笑いを零して、フランツは立ち上がり空を仰いだ。

「マリアが操られていたと知ったところで、神はもうこの地にいない。どうしろってンだ。俺は、この怒りを、どこにぶつけたらいいんだよ。なァ。もう何を恨めばいいのか、憎めばいいのか、わっかんねェよ。考えるのも、面倒くさい。だからもう……全部、壊す」

 でろりと、腐った油のようなものが、地面に滲みだした。
 遠くで、獣の咆哮と、人の悲鳴が上がった。



*~*~*



「ひいいいいっ! ば、ばけもの……っ!」
「落ち着け! 獣の一種だ、殺せば死ぬ!」
「ロ、ロッサ船長ぉ……っ!」
「とにかくぶっ殺せ! 全部殺せばいなくなる! 民間人は軍がなんとかしてる!」
「うえええ、頑張ります……!」



「市民の非難が最優先だ! ギルドに誘導して、周りを固めろ!」
「しかし、ギルドは……ッ」
「この非常事態に、役人だ海賊だと言ってられるか! 向こうにもそう伝えろ!」
「りょ、了解です、アンリ船長!」



「長く生きてきたが、こんな事態は初めてだな」
「エドアルド船長、ひとまず女子供は地下に隠しました」
「そうか。伝令は」
「傘下は各地で対処に当たっています」
「セントラルとも連携を取れ。こういうのは、統率の取れた軍の方が得意なもんだ」
「はい!」



「み、水が全部泥みたいに……っ」
「今はそれより、化け物の駆除が先だ!」
「くっそ、こんな時にキッド船長がいないなんて……」
「馬鹿野郎、弱音吐くな! オレたちだって、玄武の傘下だぞ! こういう時こそ、腕の見せ所じゃねぇか!」
「そう……そうだよな。キッド船長がいなくても、俺たちで青の海域は守る!」



「オリヴィア総督! 大変です、各地で魔物が出現しています!」
「見えているわ。悪魔の仕業ね。いったい何があったのかしら」
「各地で対処に当たっていますが、セントラル軍だけでは手が回らず、その……」
「必要なことは簡潔に手早く」
「はっ! 各海域にて、四大海賊とその傘下が、民間人の保護に協力しています」
「……なんですって?」
「彼らは民衆の信頼も厚く、正直なところ大変助かっており」
「もういいわ」

 部下の報告を切り捨てて、オリヴィアは司令本部の窓から外を見下ろした。
 地面は一面、腐った油のようなどろりとしたものが波打っている。そこから、無尽蔵に奇妙な獣の形をした生物が這い出していた。血と肉を求めて牙を剥く魔物を、衛兵が辛うじて押し留めている。夜間の出来事だったため、表を出歩いている人間が少なかったことが不幸中の幸いか。しかし時間が経ち、()()が見当たらなくなれば、あれらは家の中にも押し入るだろう。
 これほどの力があったとは。何故今まで何もしなかったのか。遊ばれていたのだろうか。
 オリヴィアは思考を払うように首を振った。今はそれより、この混乱を収める方が先だ。

「城も開けなさい。市民の避難場所に」
「はっ!」

 軍靴を鳴らして、オリヴィアは部屋を出た。



*~*~*



「おいおいおいおい、なんっだこりゃ。聞いてねぇぞ!」
「これ、あっちも知らないんじゃないっすかね。うわ、喰われてる」

 子どもを全員海へ落とした玄武たちは、火の回った船を捨て、戦場を陸地へと移していた。
 隠れていた黒弦の人間は、思った以上だった。フランツが連れて行った二十ほどの手下を除き、他の黒弦の乗組員は全員船や周辺に潜伏していた。それ故、メイズは未だに奏澄の元へ行けずにいた。
 突然湧いた黒い油のようなものは、海中までは届かないらしい。子どもたちが引き上げられた小型船が無事なことだけが救いだった。

 この異常事態は、どう考えても悪魔によるものとしか思えない。フランツの正体を知らなかった頃なら、何の冗談だと思っただろう。しかし、今はあれが本物の悪魔だということを知っている。であれば、こんなことをできるのはフランツしかあり得ない。
 何があったのか。奏澄は無事なのか。焦れて駆け出したメイズに、キッドが声を上げる。

「おい! 一人で行くな、死ぬぞ!」

 魔物に襲われる恐怖に、黒弦の方も完全に混乱している。今ならば、コバルト号の元へ行くこともできるだろう。しかし、一人でこの魔物の群れを相手にしていくのは無理がある。万全の状態でも難しいのに、メイズは足を刺されている。

「邪魔だ!」

 進路を塞ぐ魔物を、銃で撃ち抜いて蹴り飛ばす。腕に噛みついてきた獣の眉間に銃口を当て、そのまま頭を吹き飛ばす。メイズの形相も、獣と変わらなかった。冷静ではいられない。こんな時に、傍にいられないのなら。何のための自分なのか。

「……ったく、仕方ねぇなアイツは。おい! フォローしてやれ!」

 アイコンタクトを交わし、五班のメンバーがメイズの後を追う。
 襲いくる魔物を蹴散らしながら、メイズたちはコバルト号へ急いだ。
『フランツ! ねぇ、止めて!』

 マリアは切実な声でフランツに縋った。ここには魔物の主であるフランツがいる。だからマリアも襲われることは無いが、周囲がどうなっているかは容易に想像がつく。
 理不尽に奪われる命。壊れる日常。こんなことが、許されるわけがない。

「止めたいなら、俺を殺すんだな」

 青い顔をするマリアを、冷たい表情でフランツが見下ろした。
 そして、腰元にある剣に視線を向ける。

「神器なんて下げて来たんだ。その女も、俺を殺す気で来たんだろ」
『それは……』
「しょうがねェよな。なんせ悪魔だ。いるだけで、災厄を撒き散らす。誰からも望まれない、世界中の嫌われ者だ」
『違う!』
「違わねェよ! そういうモンだ。そうでなくちゃいけなかったんだ。なのに、お前が……ッお前の、せい、で……」

 込み上げた感情が何なのかわからず、フランツは膝をついた。

「知りたくなかった。恨んだままでいたかった。死んだんだろ。もう、俺のものには、ならないんだろ。いないってことだけ思い知って、こんな世界に何の価値がある。その女の体で、一緒に生きてくれんのかよ」
『それは、できないわ。カスミにはカスミの愛する人がいるもの』
「っは、だよな。他人の体を乗っ取ってまで生きようってガラじゃねェもんな、マリアは。……ならやっぱり、全部壊してやる。神の野郎が作り上げた世界なんか、マリアを殺したこんな世界なんか、全部、粉々に」
『わたしは、この世界を愛しているわ』

 言い切ったマリアを、フランツは信じられないものを見るような目で見た。

『だって、ここはわたしとフランツが出会った世界だもの。この場所がなければ、わたしはフランツと出会うことも、フランツを愛することもなかった。大切な場所を、失くしてしまわないで』
「マリア……」
『それに、もう一度、わたしたちは会えるわ』

 微笑むマリアに、フランツは怪訝そうな顔をする。

『わたしは輪廻へ還る。最後の心残りを……フランツに、愛してるって、言えたから。再びこの世界に生まれ落ちる。その時、わたしはもうマリアではないけれど……それでも、魂は同じよ。だから、約束して。もう一度、わたしを見つけるって』

 マリアは小指を差し出した。戸惑うフランツの手を取って、同じように小指を絡ませる。

『カスミの故郷では、こうやって約束するんだって。なんだか素敵よね。だから真似っこ。ね、約束の証』

 少女のような微笑みに、あの島でのマリアの面影を見た。フランツは何かを堪えるように歯を食いしばって、そっと額を重ねた。

「悪魔と約束なんかすんの、マリアくらいだぜ」
『そうかもね』

 くすくすと笑った吐息が、かかるほどの距離。困ったように笑ったマリアは、

『カスミ、ごめんね。人生最後のお願い、許して』

 果たして奏澄の返答を聞いたのか聞かなかったのか、そのままフランツに口づけた。

『それじゃ、フランツ。()()()!』

 涙を浮かべながらも、満面の笑みで別れを告げたマリアは、そのまま意識を失った。崩れた体を、フランツが支える。

「マリア!」

 呼びかけに応じて瞼が震える。薄く開いた瞳は、もう金色ではなく、元の奏澄の瞳だった。

「……戻ったのか」

 虚ろな視線がフランツを捉える。徐々に光を取り戻した瞳からは、はたはたと涙が零れ落ちていた。

「なんでてめェが泣くんだよ」
「わ……かりま、せん。マリア、さんと、同調して。まだ……抜けきらないみたいで……」

 フランツが顔を顰める。マリアの気持ちはマリアのものだ。それはわかるが、奏澄にも止められなかった。マリアはもうここにはいないのに、彼女の感情だけが、未だ激しく胸を打つ。

「腑抜けた奴だな。そんなんで俺を殺せンのかよ」
「……え?」
「俺を、殺しに来たんだろ」

 奏澄を射抜く瞳に、殺意は無い。奏澄はただ戸惑うしかなかった。

「だ……って。マリアさんを、探すんじゃ」
「聞いてたんだろ。なら、わかるな。俺は了承してない」
「そんな……!」

 愕然とした奏澄に、フランツは溜息を吐いた。

「生まれ直してまで、悪魔に会いたい女なんかいるかよ。魂は同じでも、転生したら別人だ。好き好んで悪党に関わりたいわけねェだろ」
「……マリアさんの、ためですか」

 奏澄の言葉に、フランツは図星をつかれたかのように顔を歪めた。
 この人の言葉が、素直であるはずがない。彼女が、新しい人生を健やかに歩めるように。清らかで、明るいものであるように。自分などが関わらなければいいと、思っているのだ。

「それは、見過ごせません。私は、確かにお二人の約束を見ていました。だから、あなたには、約束を守ってもらわないと」
「物事の優先順位がわからないほど馬鹿なのか? お前は何をしにここに来た」
「それ、は」
「俺を殺さないと、世界はこのまま滅びるぜ。地は腐り、魔物が跋扈(ばっこ)して、人間は全部喰われる」
「っやめてください!」
「だから、止めてみせろよ」

 フランツは奏澄の手を掴んで、自らの胸に当てた。

「ここだ。ここをその忌々しい神の剣で貫けば、俺は消滅する」
「しょう……めつ……って、魂、は」
「壊れるだろうな。そもそも、神器はそのためにある。マリアが刺した時に残ったのは、失敗したんだとばかり思ってたが……今思えば、マリアが守ったんだろ」
「それは、私にも」
「お前にそんな力があるかよ。マリアは神の眷属になってたからできたんだ」
「でも、だって、そうだ、マリアさんと同じように、輪廻に還ることは」
「無理だ。いい加減腹括れ」

 鋭く言葉を切られて、奏澄は震えた。その瞳の奥に、見えるものがある。

「……あなたは。死にたいんですか」
「……かもな」

 吐き捨てるように言って、フランツはぐしゃりと髪をかき混ぜた。

「もう、終わりにしたい。疲れた。マリアは俺を愛してくれた。もう、それだけでいい。それだけ抱えて、眠りたい」

 奏澄は、フランツのことをほとんど知らない。この人に、かける言葉が見当たらない。マリアの意志には背くことになる。けれど、それがフランツの望みなら。
 討たなければならない。そのために来た。仲間の自由がかかっている。フランツの望みと奏澄の望みは合致する。
 悪だと思っていた。絶対的な悪だと。だから、討伐は正義の行いだと。
 行いは返る。誰に対しても悪逆非道を貫いてきたのなら、報復されるのは道理だ。
 けれど。彼の行いが、誰かを救っていたのなら。誰かに愛されるほどの何かが、あったのなら。
 フランツという存在は。

「迷うな」

 固めた決意がぐらぐらと揺らぐ奏澄を、フランツが一喝した。

「ここで起きたことは全て忘れろ。一切口外するな。俺は悪魔だ。かつて世界を恐怖に陥れ、今また滅ぼそうとしている。世界の敵だ。それ以外に、何も知る必要はない」
「で、も」
「これ以上ぐだぐだ抜かすなら、無理やり弦で操るぜ。神器は俺には使えない。お前がやるしかない。迷ってる間に、どんどん人が死んでくぜ」

 止められないのか。この地獄は。フランツを、殺すことでしか。
 問答している暇は無い。マリアですら止められなかったのに、奏澄の言葉が響くとは思えない。これしか。これしか、ないのか。

 震える手で剣を鞘から抜く。煌めく刃に、目が潰れそうだ。

「外すなよ」

 口角を上げたフランツを、涙で歪む視界で見る。ぎゅっと目を閉じて、涙を払った。歪んだままでは、狙いが逸れる。無駄に苦しませるわけにはいかない。

()()、会いましょう」

 そう言って、奏澄は切っ先を思い切りフランツの胸へ突き立てた。
 神の剣は不思議なほどに易々と刺さり、悪魔の胸を貫いた。
 生温かい血が流れ出して、悪魔でも血は赤いのか、などと場違いなことを思った。
 即死だった。苦しまずに、逝けたと思う。
 殺して、わかった。彼はおそらく、元々弱っていた。一度死んでいるからなのか、核とやらが傷ついていたからなのか。詳しいことはわからないが、世界に起こした大混乱は、彼の最後の魔力だったのだろう。推測でしかないが、あのままでも、長引かせることはできなかったのではないだろうか。
 体が形を失って、さらさらと灰になっていく。指先から抜け落ちた黒い指輪が、ぶつかってカラカラと音を立てた。

 そうだ、首を。持って帰らなくては。

 ぼんやりした頭で、そう思った。肉体が全て消滅してしまうのでは、殺した証明が無くなってしまう。切り離したら、残らないだろうか。
 首に刃を切りこませると、まるで果物でも切るかのようにストン、と首が落ちた。切り離された首は灰になることはなく、切り口から流れた血もすぐに止まった。

 その首を抱いて、呆然と肉体が灰になっていくのを見ていた。いつの間に夜が明けたのか、周囲が薄ぼんやりと明るくなっている。木々の間から淡い光が漏れ、巻き上がる灰に反射した。
 細かな粒が風で流されていく中、小さな光が浮き上がるのが見えた。それはふわりと舞って、そのままでは空へと飛ばされてしまいそうだった。

 ――いけない。

 何故、そう思ったのか。衝動的な行動だった。その光を捕まえて、口に含んで、飲み込んだ。

「――――……!」

 全身に痛みが走った。それでも、吐き出す気にはなれなかった。
 これが、なんなのか。わからない。わからないけれど、出てくるな、と口を押さえて、体を丸めた。
 暫くすると痛みも落ちついてきた。息を切らせて、脂汗を浮かべながらも、奏澄は立ち上がった。

 帰らなければ。船へ。待つ人のいる場所へ。

 僅かに痕跡は残しながらも、油のようなものはすっかり引いていた。地面は土で、見える範囲には魔物の姿も無い。一人でも、進める。
 ちかりと光った指輪を目にして、迷った末、奏澄はフランツの指輪を拾って、ポケットに押し込んだ。
 そして震える足を引きずるようにして、森の中を歩き続けた。



*~*~*



 歩き続けて、どれだけたったか。時間の感覚は無かったが、ひたすらに足を動かした。そうしていると開けた場所に出て、遠目に船が見えた。ああ、コバルト号だ、と思った瞬間、体から力が抜けた。
 駄目だ。歩かなくては。見えているのに。あと少しなのに。

「カスミ!!」

 首を抱えて座り込む奏澄の耳に、切羽詰まったような声が聞こえた。
 緩慢に頭を持ち上げれば、こちらに駆け寄ってくる人影が見えた。

「――ぁ……」

 小さく、喉の奥から引き攣った音が出た。
 愛しい人が、駆けてくる。叫んで、縋ってしまいたいのに、声が出ない。足が動かない。ただ、涙だけが溢れた。

「どうした!?」

 息を切らせたメイズが、膝をついて、奏澄の体に触れる。怪我が無いかどうかを確かめているようだった。
 そして、奏澄が大切そうに抱えている首を見て、一瞬沈黙した。これを見れば、悪魔を討ち取ったことはわかっただろう。
 奏澄の頭を引き寄せて、宥めるように背中を叩く。

「よく、頑張ったな」

 違う。その言葉は、口にできなかった。
 メイズは多分、奏澄が人を殺した重責に耐え切れずに泣いているのだと思っているのだ。
 違う。そうじゃない。けれど、あの場でのことを口にするのは、フランツとマリアの約束を汚すことになる。
 何も言えない。あの二人のことは。生涯、奏澄だけが抱えるしかない。

 遅れてやってきた仲間たちにも宥められながら、それでも奏澄は一言も発さずに、ひたすら泣いた。

 太陽の光は眩いほどで。夜は完全に、その姿を消していた。



*~*~*



 フランツの首を手放そうとしない奏澄から仲間たちが何とか取り上げて、輸送のための箱にしまった。腐敗を少しでも遅らせるため、黒の海域の奥深くで取れる大きな氷も用意されていたが、その首は何故か生きているかのように瑞々しいままだった。

 奏澄はすっかり憔悴しており、事情が聞ける状態ではなかった。共闘した玄武は詳細を気にしていたが、魔物発生の混乱で各地はまだ後処理に慌ただしい。青の海域に戻らねばならないと、説明は後日に回された。

 首を届けるため、コバルト号はセントラルへ向かって航海を進めた。奏澄は部屋に籠って、ベッドで寝たきりだった。食事もほとんど取らず、ろくに眠れていなかった。メイズのことも拒絶しており、あの日から一度も、メイズは奏澄と共に寝ていない。
 それでも何とか様子を見るに留めているのは、船医であるハリソンが、毎日奏澄の体調を見ているからだった。最低限健康が大きく損なわれていなければ、心の方は時間をかけるしかない。

「カスミさん。入りますよ」

 丁寧なノックの後、静かに扉を開けてハリソンが入室する。机に置かれたままの食事を見て、彼は顔を顰めた。

「また、食べてないんですか。少しずつでも、食べる量を増やさないと」
「……ごめんなさい」

 消沈した様子の奏澄に、ハリソンは溜息を吐いた。これでも少しは口にするようになったが、全然足りない。何がそれほど彼女を追い詰めているのか。それを、彼女は決して口にしないだろう。恋人にすら何も言わないのだ。聞けるとは思わないが、少しでも気力を取り戻してもらわなければ。

「……これを今のあなたに言うのは、負担を増やすだろうと黙っていたのですが」

 重々しい口ぶりに、奏澄は緩慢に首を傾げた。

「あなたは――……」

 続けて告げられた言葉に、大きく目を見開いた。
 セントラルに着くと、奏澄たちはすぐにオリヴィアに会うための手続きをした。セントラルもまだ随分と慌ただしいようだったが、奏澄たちの件は話が通っていたのか、すぐに処理された。
 前回と同じく、オリヴィアとは城で謁見することになった。レオナルドが、そこにいるからだろう。

 奏澄はすっかり気力を取り戻していた。それでも、あの日何があったのかは、頑として口を割らなかった。ただ、悪魔は討ち取ったのだと。奏澄がそれほどまでに言いたくないのならと、仲間たちもそれ以上の追及はしなかった。

 奏澄、メイズ、マリー、ライアー。フランツの首が入った箱を持ち、四人は円卓の間で待機していた。
 通されてからそれほど待たずして、部屋の扉が開いた。

「……! レオ……!」

 最初に入ってきたのは、レオナルドだった。特に拘束もされておらず、顔色も悪くない。

「よ。久しぶり、カスミ」

 軽い調子で手を上げた彼に、感極まった奏澄は、涙を滲ませてレオナルドを抱き締めた。

「約束通り、迎えに来たよ……!」
「ああ。ありがとうな」

 優しい声で言って、頭を撫でる。変わらない彼の様子に、奏澄は安心して、力が抜けた。

「もういいかしら」
「あっは、はい!」

 唐突にかけられた声に驚いて、奏澄は肩を跳ねさせた。
 唐突だと感じたのは奏澄がすっかりレオナルドに意識を集中していたからで、オリヴィアは最初からいたのだが。

「見ての通り、人質は無事よ。これで、信用してもらえたかしら」
「はい、ありがとうございます。では、こちらからも」

 席に着いたオリヴィアに、フランツの首が入った箱を差し出す。同時に、借りていた神器も剣帯と共に返却した。それをちらりと見たオリヴィアが、

「コンパスはどうしたの?」
「あれは、悪魔に壊されてしまって」
「……そう。それは残念ね」

 その言葉を信じたのかどうかはわからないが、それ以上追及されることは無かった。オリヴィアは箱の中身を検めて、納得したように頷いた。

「確かに、受け取ったわ」
「あの。その首は、どうするんですか」
「そうね。悪魔の首だもの。あれだけの騒ぎがあったし、暫く晒し首かしら」

 奏澄が卓の下で、拳を握りしめた。

「お願いがあります。その首は、はぐれものの島に通ずるあの洞窟に……女神マリアのレリーフがあったあの場所に、沈めていただけませんか」
「どうして?」
「それは、悪魔の首です。確かに切断しましたが、女神の加護下に置いておいた方が、今後も安全だと思います」
「……それは、女神と同じはぐれ者の勘か何か?」
「そう思っていただいて構いません」

 こんなものは、口から出まかせだ。それでも、なんとか、フランツをマリアの傍に置きたかった。例えそれが偶像でも。どちらの魂も、そこには無いのだとしても。
 彼の首が晒されて。民衆の憎悪の対象になることは、奏澄には耐えられなかった。

「それは最初の取引とは別のお願いね。なら、こちらからも条件をいいかしら」
「どうぞ」
「あなた、英雄になる気はない?」

 問われた言葉が突飛すぎて、奏澄は目を丸くした。仲間たちも、驚きに言葉が出ないようだった。

「それは、どういう」
「セントラルの建国神話は、読んだことがあるかしら」
「え、ええ、一応」
「あなたは今、女神マリアと同じ立場にあるわ」
「え……?」

 ついていけない奏澄に、噛み砕くようにして説明を続けるオリヴィア。

「かつて世界を蹂躙した悪魔は、神の(しもべ)である女神マリアの手によって打ち倒された。そして今、再び蘇った悪魔をセントラルの指示によって、女神と同じはぐれ者であるあなたが、打ち取った。世界の平和を勝ち取ったのはあなたよ。国から恩賞を与えて、然るべき地位に据えてもいいわ」
「そうやってこいつを生贄に仕立て上げて、セントラル(おまえたち)を信仰させるための道具にするわけか。ろくでもないな」

 怒気を孕んだメイズに少しも怯むことなく、オリヴィアは微笑んだ。

「あら、いけない? 女神の再臨なんて、民衆は喜ぶわよ。いいじゃない。人のためになるし、海賊なんかやらなくても、この先一生贅沢ができるわ。悪い話じゃないはずよ」
「お断りします」

 きっぱりと言い切った奏澄に、オリヴィアは笑みを消した。

「私は女神ではありません。今回のことは……必要があったから、したまでです。それに、首を落としたのは私でも、その前に多くの人の力を借りています。私の功績ではありません」
「欲が無いのね」
「欲はありますよ。最初の取引の時に出したお願いは、叶えてもらいます」
「ああ……白虎のことね」

 どことなく苦々しい顔で、オリヴィアはその名を口にした。
 そのことに、奏澄は内心首を傾げた。

「白虎の仲間は解放されるわ。王家から恩赦が与えられることになったから」
「恩赦……?」
「どうせわかることだから言っておくけれど。今回悪魔が起こした騒動は、想定を遥かに越えていて、セントラルだけでは対処しきれなかった。各地での鎮圧には、四大海賊とその傘下が多大に貢献したそうよ。民衆からの声も大きくて、無視するわけにもいかず、王家は現在監獄島にいる四大海賊の関係者には恩赦を与えて、釈放することになったの」
「釈放……!」

 奏澄は思わず歓喜の声を上げた。それでは。奏澄をはぐれものの島へ送るために捕らえられた白虎の仲間たちは、皆解放されるのだ。
 ハリソンに良い報告ができる、と奏澄は笑みを浮かべた。

「それだけじゃないわ。大規模災害が起こった時には、セントラルだけでは目が届かないんじゃないか、という話が出て、四大海賊との同盟関係を口にする者までいるそうよ。冗談じゃないけれど、あなたにとってはいい話なのかもしれないわね。そういう力関係を、望んでいたんでしょう?」

 皮肉めいた言い回しに、奏澄は思わず怯んだ。確かに、そのような話はした。一強よりも、バランスを取った方がいいと。それでも、こんな急激な変化を望んだわけではなかったのだが。

「なんだかあなたの思い通りに事が進んでいるようで癪だから、悪魔討伐の手柄は私が貰って構わないかしら。英雄になる気はないんでしょう?」
「はい。それは、構いませんが」
「なら、悪魔を討伐したのはあくまでセントラルということにさせてもらうわ。神の国の権威を失うわけにはいかないのよ」

 首の入った箱を持って席を立ったオリヴィアに、奏澄も思わず立ち上がった。

「あ、あの!」
「この首は、ちゃんとあの洞窟に沈めておくわ」
「……っ、ありがとう、ございます……!」

 深く頭を下げた奏澄を一瞥して、オリヴィアは部屋を出ていった。



 レオナルドを加えて五人になった奏澄たちは、報告のためコバルト号へと戻る道を歩いていた。

「なんか凄いことになってたみたいだな。後で話ゆっくり聞かせてくれよ」
「うん。話したいこと、たくさんあるよ」
「悪魔かぁ。ちょっと、見てみたかった気もするな」
「うーん。会わなくて、良かったんじゃないかな?」

 何も知らないレオナルドを、ライアーとマリーははらはらと見ていた。奏澄はフランツのことを全く語らない。しかし、うっかりレオナルドが聞き出せたりしないだろうか、という期待もあるのだろう。

「けど、その悪魔ってメイズの上司だったんだろ。やっぱちょっと似てたりすんの」

 その言葉に、奏澄は立ち止まった。

「カスミ?」

 レオナルドはきょとんとしていたが、マリーとライアーは地雷を踏み抜いたのでは、と戦々恐々としていた。

「似てない。全然、全く、ちっとも似てない」
「え、あ、ああ。悪かったって」

 涙声になった奏澄に、レオナルドは焦ったように謝った。何が地雷だったのか、とメイズを窺うように視線をやったが、メイズは首を振るだけだった。

 似ていた。フランツとメイズは。そして、マリアと奏澄は。二人の関係性は、よく似ていた。
 違う世界の人を愛したこと。愛した人が、悪党と呼ばれる人だったこと。互いが、互いの半身であったこと。
 運命を分けたのは、そこに神の手が入ったかどうかだ。神が、マリアを操らなければ。マリアがあのまま、フランツの心を解いていたなら。二人で生きられる未来は、あったんじゃないだろうか。フランツが悪魔と呼ばれずに、ひっそりと生きられるような未来が。
 考えても仕方ない、もしもの話。けれど、思ってしまう。絶対的な悪など、果たして存在するのかと。誰もが恐れた大悪党でさえ、誰かの愛しい人だったのだ。それを、手にかけた。
 メイズと生きたいがために、言葉を尽くした。自分を正当化するような言葉を使った。けれど、結局は。自分の願いを叶えるために、他人を踏みつけにして生きている。
 そうでなければ生きられない。そうでなければ守れない。その覚悟を。

 顔を上げた奏澄の瞳に、涙はなかった。
 レオナルドが船に戻り、コバルト号は喜びに包まれた。白虎の仲間の釈放も伝えられ、ハリソンは眼鏡を外し、暫く目元を押さえていた。
 目的は達成された。今後のことも考えなければならないが、今はこの祝福に水を差すこともないだろう。宴は三日三晩続いた。恩赦の影響でたんぽぽ海賊団の手配書は取り下げられており、セントラルに船を泊め、街を闊歩していても、何を言われることも無かった。

「カスミーィ! こっちで飲もうぜ!」
「もう、私はまだお酒飲めませんってば」
「なんだよ、いいじゃねぇか。すっかり顔色も戻ったろ」

 昼間から上甲板で酒盛りをしているラコットに声をかけられて、奏澄は軽い調子で躱した。すっかり元気になったように見えるが、食事を取らない期間も随分続いた。胃腸が弱っているから、と奏澄は宴の間も一度も酒を口にしなかった。実際、時折具合が悪そうにしている姿も見られた。

「カスミ、ちょっといいかな」
「はーい! アントーニオさんが呼んでるので、もう行きますね」
「つれねぇなぁ」

 夕食の仕込みを手伝ってほしい、と言われ、奏澄はアントーニオと厨房で作業をすることにした。
 黙々と皮を剥く奏澄は、ちらりとアントーニオの顔を窺う。体調を理由に、奏澄は乗組員たちとは別のメニューを口にしていた。それはだいぶ回復したと思われる今もまだ続いている。

「どうかした?」

 視線に気づかれたのか、アントーニオの方から声をかけられて、奏澄はどきりとした。

「え……っと、その。ちょっと、気になって」
「うん?」
「アントーニオさん、もしかして、ハリソン先生から……何か、聞いてます?」
「うーん……まぁ、コックだからね、ぼく」
「ですよねぇー……!」

 自分の予想が当たっていたことに、気恥ずかしさと気まずさがあって、奏澄は視線を逸らした。
 考えてみれば当然のことだ。これについては、ハリソンを責められない。食事の管理は絶対に必要なことだし、あの時の奏澄に、誰に伝えて誰に隠して、などという判断はつかなかった。最低限の根回しをしてくれたのだろう。

「メイズさんには?」
「一応、これから、タイミングを見て」
「早い方がいいよ。仕方ないとはいえ、自分より先に仲間が知ってるって、面白くないでしょ」
「ぐぅ……!」

 正論すぎて返す言葉が無い。呻いた奏澄に、アントーニオが笑った。



 その日の夜、奏澄はメイズを自室に呼んだ。どことなく緊張した面持ちのメイズに、奏澄は申し訳なく思った。色々と、気をつかわせているのだろう。
 あの日のことを話すと思っているのかもしれない。それができないことにもまた、申し訳なさが募った。
 メイズに椅子を勧めて、奏澄はベッドに座った。

「やっと落ちついてきたね」
「そうだな」
「たんぽぽ海賊団の仲間も、みんな揃ったし。これからどうしよっか。四大海賊の人たちにあいさつ回りとか、した方がいいかな? 色々協力してもらったもんね」
「ああ……それもいいかもしれないな」
「みんな、付いてきてくれるかな」
「お前が言えば、来るだろう」
「そうだといいなぁ」

 軽く笑った奏澄に、メイズも僅かに微笑んだ。空気が緩んだことにほっとして、奏澄は本題を切り出す。

「あのね。メイズに、ちょっとした報告があって」
「報告?」

 珍しい言い方に首を傾げるメイズに、奏澄は悟られないように軽く深呼吸した。なんだかんだで、自分も緊張しているのだ。
 大丈夫。この人は、拒絶したりしない。大丈夫。
 言い聞かせて、口を開く。

「子どもができたの」

 言って、じっと目を見る。メイズの返答を待つが、何も言わない。

「あの……大丈夫? 意味飲み込めてる? えと、妊娠した、って報告なんだけど」

 駄目だ。石像のように固まっている。そこまで衝撃を受けるようなことだろうか。
 手放しで喜んでくれるとまでは期待していなかったが、こうも想定外でした、という態度を取られると、それはそれで複雑である。

 セックスをすれば子どもができる。そんな当たり前のことを、何故考えずにいられるのだろう。
 奏澄の時代の技術を用いても、百パーセント避妊する方法は無い。パイプカットなど体に手を加えれば別だが、一般的に普及しているコンドームやピルでは確実に防げないことなど、女性の間では既に常識として浸透している。
 だから女性はいつもその可能性を頭に置いている。どんなに気をつけていても、妊娠するときはする。万が一の時の対処法を考えている。だというのに、何故か男性は妊娠を『突然』だと受け止める。そしてまるで自分が被害者であるかのように宣うことすらある。
 父親に『されてしまった』。『失敗』した。本当に『自分の子』か。
 特に最後は、自分は避妊していたのだから妊娠などするはずがない、という思い込みが隠れている。だから、避妊しない他の男としたのだろうと。無知ゆえの言葉で相手を傷つけることよりも、自分の保身を優先している、最低の発言といえよう。

 メイズの場合は、無知は仕方ない。教育の場も、教えてくれる人も、自ら学べる機会すらも無かったのだから。それでも、以前からセックスはしていたのだから、まさか子どもの作り方を知らないということは無いだろう。避妊することを教えなかったのは奏澄の責任だが、教えなければその可能性に全く思い至らないというのも不思議な話である。彼は娼婦の子どもだったのだから、尚更。
 確率で言えば、誰にとっても妊娠はその時期を正確に予期できるものではない。そういった意味では、誰にでも等しく『突然』の出来事だ。
 だからこそ。それに直面した時、その回答がどうあるかは、彼自身の本質が出るだろう。

 自身の罪にも自覚がある奏澄は、満点の回答は望まないから、せめて最悪の回答だけは避けてくれ、と祈っていた。
 メイズが、固まっていた口を開く。心臓が、うるさく音を立てていた。

「……いつ」

 ガツン、と殴られた気分だった。これは、かなり、最低寄りの発言じゃないだろうか。
 時期を気にするということは、自分以外の可能性を疑っているということだ。

「結構、前だよ。ミラノルド島くらいかな」
「そう、か」

 メイズはほっとしたように息を吐いた。

 ――それ、どういう意味なの。

 聞けない。その安堵は、何の。

「少し、時間をくれ」

 それだけ言って、メイズは部屋を出ていった。残された奏澄は暫く呆然として、じわじわと込み上げてきた嗚咽を嚙み殺した。
「うえっメイズさん!? なんでこんなとこに!?」 

 波止場に座って酒瓶を呷っているメイズを見つけて、ライアーはぎょっとした声を上げた。

「……ライアーか」
「……ん、あれ、酔ってます? それ何本目、うわ」

 夜の暗さと体に隠れて見えなかったが、既に何本か瓶が転がっているのを見て、ライアーは顔を顰めた。

「せっかく手配書取り下げられたのに、そんな飲み方してたら下手すると捕まりますよ。酒場行けばいいじゃないすか」
「ここの酒場は俺一人だと浮く」
「うーん、否定できない」

 いかにもしかつめらしい顔をして腕を組む。
 セントラルは最も治安の良い国だ。本来なら、海賊がひょいひょい出入りする場所ではない。
 見るからに何かあったメイズに、ライアーは溜息を吐いて横に腰を下ろした。

「今度は何したんですか」
「なんで俺が何かした前提なんだ」
「んじゃカスミが何かしたんですか?」

 そう尋ねると、仏頂面で顔を背けた。

「何か、したわけじゃない。ただ……見ないようにしてきた現実を、急に突きつけられた気がした」
「はぁ?」

 わけがわからない、というように眉を寄せるライアーに、メイズは渋々、といった様子で口にした。

「……ガキができた」
「えっおめでとうございます!?」

 疑問形ながらも即座に祝いの言葉を述べたライアーに、メイズは目を瞬いた。そして、しげしげとライアーを眺める。

「え、な、なんすか」
「いや……そうか。普通は、そういう反応をするのか」
「うわ、オレなんか嫌な予感してきた。メイズさんどういう反応したんですか」
「……反応できなかった」

 目を伏せ、うわごとを言うように訥々と零す。

「俺自身、父親はどっかの海賊ってことくらいしか知らないしな。そういうものだと思っていた。今まで俺が抱いた女も、もしガキができてたとしても、どっかで適当に生んでるだろうとしか」
「割と最低な発言ですね」
「今更だな。……けど、今度は、放り出すわけにはいかない。だからといって、俺が……親に、なれるわけがない。でもそれをカスミに言うわけにも、いかないだろ」
「それで、逃げ出してきたと」
「……時間をくれと言った」
「逃げたんでしょーよ」

 ジト目で追及するライアーに、メイズは苦虫を噛み潰したような顔をした。
 そんなメイズの様子に、ライアーはやれやれと言いたげに肩を竦めた。

「あのですね、メイズさん。どんなにクズでも、親は親です。血が繋がってりゃ生みの親だし、面倒見てりゃ育ての親です。そんなもんは呼び方でしかないし、世の中の親がみんな立派な親かって、そんなわきゃないんですよ。それでも子どもは育つ。心配するだけ無駄です。なれるかどうかなんて、そもそもそんなことを悩んでるのがおかしいんですよ。カスミのお腹に子どもがいるなら、既にメイズさんは父親で、カスミは母親です。なっちゃったんだから、腹括ってください。んで、悩む時は、カスミと悩んでください。一人じゃないんだから」

 でしょう、と指をさすライアーに、メイズはたじろいだ。

「……お前は、いい親になるんだろうな」
「どうですかねー。オレも親の顔とか知らないですし。院長はいい人でしたけど、孤児院育ちなもんで」

 突然明かされたライアーの出自に、メイズが目を丸くする。

「言ったでしょ? 親なんかいなくたって子どもは育つって」

 にっと悪戯が成功した少年のように笑ったライアーに、メイズは表情を緩めた。

「まーメイズさんがそういうのに縁遠いってのはカスミもわかってるだろうし、下手なこと言う前に頭冷やす時間を取ったのは正解だったかもですね。酒飲んでるのはだいぶアウトですけど」
「……悪かったな」

 言って、ふと思い返したことがあり、メイズは口元に手を当てた。

「どうしたんですか?」
「……言ったかもしれない」
「は?」

 首を傾げるライアーの前で、メイズは顔色を悪くしていく。

「下手なことを、言ったかもしれない」
「……時間くれって、言っただけなんじゃ」
「その前に。……いつ、と」

 ライアーが、目を瞠った。

「……それは、いつ妊娠したのか、って意味で?」
「……ああ」

 メイズの返答を聞いたライアーは、立ち上がって拳を握りしめた。

「歯ぁ食いしばれ」

 メイズの返答を聞かずに、ライアーはメイズの頬を思い切り殴りつけた。
 酒が入っていたこともあり、メイズの体は簡単に倒れた。

「ってぇ~!」

 人を殴り慣れていないライアーは拳を痛めたのか、赤くなった手を振っていた。
 しかしすぐにきっと眦を吊り上げて、メイズを睨みつけた。

「アンタ何やってんだ! それは絶対言ったらいけないだろ!」

 緩慢に体を起こすメイズに、ライアーは怒鳴りつける。

「アンタ、それ、カスミが他の男と関係したんじゃないかって言ってんのと同じだからな!?」
「そういう、つもりじゃ」
「ならどういうつもりだよ!」
「……カスミは、フランツと何があったかを、言わなかっただろ。あの後の事だったから、もしかしたら、と」

 ライアーは息を呑んだ。そんなことを、考えていたのか。
 奏澄が、フランツに襲われたのではないかと。そんな、最悪を。それで、何も語らないのではないかと。

「仮に、もし、そんな可能性があったら、カスミはメイズさんに言わないだろ。自分でどうするか、結論を出したはずだ。真正面からメイズさんに伝えたんだから、アンタの子以外にあり得ないだろ」
「……そうか。そう、だな……」

 悔いるような、安堵するような表情を浮かべるメイズに、ライアーも大きく息を吐いて怒りを収めた。

「とにかく、メイズさんは今すぐカスミんとこ行って謝ってきてください」
「だが」
「時間置いてる場合じゃねー失言なんですよ! 今頃絶対泣いてるから、早く行け!」

 ライアーに急かされて、メイズはたたらを踏んだ。

「ライアー」
「まだ何か」
「助かった。礼を言う」

 目を瞬かせるライアーを置いて、メイズは駆けて行った。
 残されたライアーは、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱しながら、その場にしゃがみ込んだ。
 その顔は、僅かに赤みが差していた。
 遠慮がちなノックの音を聞いて、奏澄は枕に埋めていた顔を上げた。こんな時間に尋ねてくる人物に、心当たりは一人しかいない。
 重い気持ちで細くドアを開けると、やはりそこにはメイズがいた。

「……なに」
「少し、いいか」
「明日じゃ、ダメ?」
「頼む。少しでいい」

 僅かに沈黙して、奏澄は渋々といった様子で扉を開けた。そしてぎょっとした。

「えっなにその顔!?」
「ああ……ちょっとな」
「ちょっとってレベルじゃないじゃん!? やだ、すぐ冷やさなきゃ」
「いいから」

 手を掴まれて、奏澄は戸惑った。すぐにでも手当てをしたい。けれど、話が済むまでは大人しく手当されてくれそうにない。これは、先に話を済ませてしまった方がいいだろう。

「わかった。聞くから。終わったら、ちゃんと手当てさせてね」
「ああ」

 部屋に招き入れるや否や、メイズは深く頭を下げた。

「さっきは悪かった」

 謝りに来たのだろう、とは思ったが、奏澄は複雑な心境でその頭を見下ろした。

「それは、何に対して?」
「……いつ、と聞いただろう。あれは、決して、お前のことを疑ったつもりはなかった」

 ああ、と奏澄は納得した。やはり、あれはそういう意味合いの発言だったのだろうと。そして今、顔を腫らしている理由も、なんとなく察せられた。自分で気づいてくれたわけではないのだ。

「どういうつもりだったのか、聞いても?」

 メイズはやや逡巡したが、ごまかすと余計に疑心を煽ると判断したのだろう。正直に告げた。

「もしかしたら。フランツと、何かあったんじゃないかと」

 何か。何かって、今は妊娠の話をしているのだから、つまり。

「はぁ!?」

 時刻も問わず、奏澄は思わず大きな声を上げた。すぐには結びつかなかった。それくらい、奏澄にとっては明後日の答えだった。

「なん、なにそれ。あの状況下で、私が、敵の悪魔と? そういうことをしてたんじゃないかって? どういう思考回路で」
「待て、多分勘違いしている。そういう意味じゃなくてだな」
「は? じゃどういう意味」
「あれは、人の嫌がることを好んでする。俺への嫌がらせで、お前が……言えないような酷い目に、遭わされたんじゃないかって」

 奏澄は息を呑んだ。奏澄はマリアを通してフランツを見ていたから、すっかりその印象で上書きされてしまっていた。マリアを愛していたフランツなら、決してそんなことはしない。
 けれど、事前にメイズから聞いていた話では。母親に焼いた子どもを喰わせようとするような男だ。団を抜けたかつての副船長への報復に、相手の恋人を犯してみせるくらいのことは平気でやるだろう。そう、思ったはずだ。

 あの日、メイズがコバルト号に駆けつけた時、奏澄は既に船にいなかった。姿を探しても見つからず、やっと戻ってきた時にはフランツの首を抱えていた。奏澄は泣くばかりで、何も語らなかった。メイズが最悪を想像するのも、無理からぬことだ。
 自分のことに手いっぱいで。彼のケアを怠った。これは奏澄の落ち度だ。

「……ごめん。私が何も言わないから、余計な心配、させたよね。それは、本当に、ごめんなさい。私が悪かった」

 落ち込んだ表情で謝る奏澄に、メイズは戸惑っていた。

「言わないって、約束なの。でも、メイズが心配してるようなことは何もないよ。大丈夫」
「……その約束ってのは、フランツとしたのか」
「うん」
「お前が納得してした、約束なのか」
「……うん」

 一方的に交わされたけれど。言うわけにはいかない、ということは、奏澄も納得している。
 最初の反応、そして奏澄に悲壮感が無いことから、メイズも特別の被害が無かったことだけは納得した様子だった。それでも、複雑な感情は隠せない。

「……いつか。言える時がきたら、話してくれ」
「うん。その時は、必ず」

 もし。マリアとフランツの約束が果たされる時がくれば。その時は、話してもいいだろう。そんな日が訪れるようにとの期待を込めて、奏澄は笑顔で答えた。

「それじゃ、私冷やすもの持ってくるね。座ってて」
「あ……ああ」

 まだ何か言いたかったようだが、ひとまず一番の懸念は解消されただろうと、奏澄は部屋を出た。濡らしたタオルと、手当ての道具を持って部屋に戻る。
 大人しく椅子に座っていたメイズの顔にタオルを当て、そのまましばらく押さえているように伝える。

「カスミ」
「うん?」
「子どもの、ことだが」

 奏澄は目を瞬かせた。謝罪を受けたことで、すっかり気が済んでしまっていた。そうだ、そもそも子どもをどうするか、の答えがまだだった。時間をくれ、と言われていたから、その答えはまだ待っても良かったのだが。メイズの中では、答えが出たのだろう。奏澄はメイズを向き合った。

「俺は、家族というものが、よくわからない。多分、いい父親には、なれないと思う」
「……うん」
「それでも、努力は、してみる。お前が一緒なら。だから、俺が父親でいられるように、ずっと傍で支えてほしい」
「……それは、プロポーズと、受け取っても……?」

 メイズは目を丸くした。そういうつもりはなかったようで、言葉を探して口を開閉させている。
 その様子がおかしくて、奏澄は笑った。

「私も、母親になれる自信はないよ。でも、メイズと一緒なら、頑張れるから。私と、結婚してください」
「…………待て。やり直させろ」
「えぇ、勇気出して言ったんだから返事ちょうだいよ」
「今のはさすがに情けない」
「意外とそういうの気にするんだ?」

 くすくすと笑って、赤い顔を手で隠すメイズをからかう。
 この先ずっと、この人と生きていく。その幸せを、噛みしめて。

 時が止まればいいと、思った。
 妊娠のことは、メイズ以外には安定期まで隠しておこうかと思っていた。しかし、既に悪祖の症状が出ていることもあり、暫く共に航海するならと、仲間たちにも伝えられた。そしてついでとばかりに、結婚することも伝えた。
 二重の報告に、仲間たちの驚きようは凄かった。コバルト号は一気に拍手喝采に包まれた。

「ええええ!? おめ、おめでとう!!」
「なんだいなんでそんな大事なことさっさと言わないのさ!」
「マジで俺全然気づかなかった、え、あ、歩いて大丈夫なんですか?」
「船長が……ついに人妻に……」
「おめでとうございます船長おおお!!」

 わあわあと祝福されて、奏澄は顔が緩むのを止められなかった。こんな風に手放しで祝福されることは、とても嬉しい。
 ああ、この子は、これだけの人に祝福されて生まれてくるのだ。なんて幸せな子だろう。

「なぁ、結婚式はいつすんの?」

 レオナルドの一言に、喧騒がぴたりと止んだ。

「絶対しない」

 それに答えたのはメイズだった。

「は!? メイズさん何言ってんの!?」
「甲斐性無し」
「見損ないました」

 エマ、マリー、ローズと女性陣に立て続けに罵倒されて、メイズがたじろぐ。それを奏澄は苦笑しながら見ていた。そういうことは苦手だろうと思っていたから、元々期待はしていない。

セントラル(ここ)ならいくらでも教会あるし、今のうちに済ませた方が早いんじゃねぇか?」
「いやぁ……オレらがセントラルで結婚式ってのも、なかなかシュールだと思うけどね」

 ラコットの疑問に、ライアーが半眼で答える。
 確かに、セントラルは神の国だ。教会には困らない。しかし、今までのセントラルとの関係を考えれば、祝い事をこの国でするというのも、なかなかに度胸の要る話だ。

「提案はありがたいんだけど、今すぐはいいかな」
「えー! だってこういうの後回しにすると、絶対なぁなぁで流されるよ!」

 エマの剣幕に、奏澄もやや引き気味になる。なんだろうかこのパワーは。

「うーん、でも、結婚式にはアントーニオさんがケーキ作ってくれるって約束だから。どうせなら、お腹いっぱい食べたいし? 生まれてからの方がいいかなって」
「あぁー……そうかぁー」

 妊娠中であることを理由にすれば、エマの勢いも引いた。今の状態で、ご馳走はちょっと食べられない。
 花嫁からもそう言われれば、周囲が推し進めるわけにもいかないと、結婚式はとりあえず後回しになった。

「それで、これからなんだけど。お世話になった四大海賊の人たちに、挨拶回りをしようかなって」
「船旅なんかして、体調は大丈夫なのかい?」
「うん、今のところは。具合悪くすることもあると思うけど、陸にいるからって治まるものじゃないし。もちろん、予定日近くなったら降りるけどね。子どもが生まれたら旅をするのは難しいから、むしろこれが最後のタイミングかなって」
「……そっか。そうだね」

 心配そうにしていたマリーも、奏澄の笑みに頷いた。
 そう。これが、最後の旅になるだろう。だから。

「もう少しだけ、私に付き合ってくれますか?」

 大声で問いかけた奏澄に、仲間たちは笑顔で応、と答えた。



*~*~*



 特にセントラルに長居する用も無いし、休息も補給も充分ということで、たんぽぽ海賊団はまずアルメイシャ島に向かった。ドロール商会が再開されてから一度も寄っていないので、様子を見ておきたいとのことだった。

 ドロール商会はすっかり元通り再開しており、島は元の活気を取り戻していた。久しぶりの商会長の帰還に、商会員たちも総出で迎えた。
 内部の整理に数日だけ欲しいというマリーに、奏澄は快く了承した。久しぶりのアルメイシャだ。ゆっくり見て回ろう、と思っていた奏澄だったが。

「カスミはちょっと見てほしい物とかあるから! 一緒に商会来て!」

 エマとローズに引きずられ、カスミは何故かドロール商会へ向かった。
 そして更に謎なことに、品物の目利きを頼まれた。そんなものはカスミにはさっぱりわかるわけがないので、疑問符を浮かべながらも、何となく好みを答えることしかできなかった。

 夕方に疲弊しながらメイズと合流すれば、何故かメイズも疲弊していた。理由を聞いたが、はぐらかされるだけだった。
 うっすらと予感するものはあるが、そうでなかったら大恥だし、それを考えたところで奏澄にできることは無い。なるようになる、と無理やり納得した。

 翌日はゆっくりと過ごして、迎えた翌々日。

「カースミ。ちょっといい?」

 楽しそうなライアーに、奏澄は内心苦笑しながら頷いた。

「こうやってメイクしてもらうの久しぶり」
「まぁ、そんなに機会もなかったしね」

 船内で、カスミはライアーにメイクを施されていた。理由は訊かなかった。

「でも、ちょっと意外。エマかローズがやると思ってた」
「ああ、オレがやりたいって言ったの」
「そうなの?」
「そりゃ、これが最後かもしれないしね。今までで一番可愛くしたいから」
「……ありがと」

 照れたように笑った奏澄に、ライアーも微笑み返した。

「なんかほんと、ライアーには、ずっとお世話になりっぱなしで。感謝してもし足りないよ」
「はは、そんなに頼りにしてくれて、航海士冥利に尽きるよ」
「本当だよ。ライアーがいなかったら、今の私はいなかったし……この団だって、なかったんだから。メイズとは違う、すごく、すごく大事な人。大好きだよ」
「…………やめてカスミ、オレ泣いちゃう」
「ええ~立場逆でしょ~」

 軽い調子で笑い飛ばしながら、奏澄の方も泣きそうだった。本当に、家族みたいに大切な人。そんな仲間が得られたことを、誇りに思う。

「おし、上出来!」

 メイクを終え、髪も整えると、ライアーは満足そうに頷いた。

「こっから先はエマたちにバトンタッチ。オレはメイズさんの方行くから」
「大変そうだ。よろしくね」
「任された」

 ウインクしたライアーが出ていくのと入れ替わりに、エマとマリーが入ってきた。

「はーい、ここからはお着替えの時間です!」
「体調には気をつけながらやるけど、何かあったらすぐ言いなよ」

 その手には、淡い桜色のドレスが用意されていた。



*~*~*



 上甲板に出れば、普段より小奇麗にした仲間たちが揃っていた。
 商会の男性陣も協力したと見えるが、細かいところはローズがやったようだ。奏澄の方に来なかったのは、他の面々の準備を手伝っていたのだろう。

「カスミ!」

 気づいたローズが駆けてくる。それに軽く手を上げて答えた。

「すごく、すごく綺麗。良かった」
「うん。ありがとう、ローズ」

 涙ぐむローズに、奏澄もつられて泣いてしまいそうだった。メイクが崩れるから、と気合で我慢した。

「勝手にごめんね。カスミは、後でもいいって言ったけど……やっぱり、先のことはわからないから。私たちは、ずっとそうだったから。今、できる内に、小さくてもお祝いしたかったの」
「うん、ありがとう。すごく嬉しい。私も、今できて良かったって思うよ」
「そうそう、ケーキとかご馳走とかはさ、またもう一回やればいいじゃん!」
「そうさ。何も二度と会えないわけじゃないんだから。奏澄が子どもから手が放せなければ、あたしらが動けばいいだけだしね」
「エマ、マリーも。ありがとう」

 ローズの言葉は、もっともだった。奏澄は、一度仲間たちの前から突然姿を消している。その後、仲間が捕らえられたり、レオナルドが残されたり、黒弦との闘いでも、奏澄たちは二度と会えないかもしれない状況で別れている。これまでは幸運にも無事に再会できているが、これからもそうだとは限らない。
 今、この瞬間を。皆が揃っているこの時を。大切に思うなら、今こそ最善だといえよう。

「カスミさん」
「ハリソン先生」

 老紳士は、さすがの着こなしだった。フォーマルな服に着られている様子が全く無い。

「おめでとうございます。祝いの場だからといって無理せず、体調が悪くなったらすぐに言ってくださいね」
「ありがとうございます。今日は調子がいいので、大丈夫そうです」

 屈託なく笑う奏澄に、ハリソンは眼鏡の奥の目を眩しそうに細めた。

「あなたが、幸せに生きることを。この世界で、望んだ家庭を持つことを。本当に、心から嬉しく思います」
「……そうなれたのは、ハリソン先生のおかげです。本当に、ありがとうございます」

 この人がいなければ。奏澄は、生きていたのかどうかもわからない。感謝してもしきれない、大恩人だ。
 この人に、恥じない人生を送りたいと、強く思う。

「お、新郎様のお出ましだぜ!」

 ラコットの台詞を皮切りに、囃し立てるような口笛や野次が飛ぶ。視線を向けると、ライアーとアントーニオに背中を押されるようにして、メイズが出てきた。
 黒のフォーマルなジャケット姿で、初めて見るその格好に、奏澄は目を奪われた。

「……何故カメラがないのか」

 いつぞやと同じ感想を漏らしてしまう。タキシードやウェディングドレス、といった決まった服装は無いようだが、それなりにフォーマルな格好をするという概念はあるらしい。ライアー、グッジョブ。奏澄は内心でガッツポーズを取った。
 嫌そうに歩きながらも、奏澄の姿を目に留めたメイズは、息を呑んで立ち止まった。

「どう?」

 ドレスの裾を持って、小首を傾げてみる。
 女性陣が選んでくれた、淡い桜色のドレス。妊婦なのでウエスト周りを締め付けないデザインで、少しゆったりと生地が流れるようになっている。胸元は露出せず、胸から上、そして背中部分がレースに切り替わっている。ノースリーブで肩は出ているが、グローブは無かった。ベールも無いが、髪には白と薄紅色を中心にたくさんの花が飾りつけられていた。

「…………似合ってる」

 いつぞやと同じ台詞ではあるが、眩いものを見るように目を細めて、感嘆の息と共にそう告げたメイズに、奏澄はちょっとだけ目を瞬いて、淡く微笑んだ。

「さて、そんなお二人さんに式の前にプレゼントです」
「わ、レオ!?」

 ふわふわとした空気に割って入るように、レオナルドがずいと手のひらを差し出した。そこには、指輪のケースがあった。
 受け取ったメイズが蓋を開けると、そこには海のように青く揺らめく宝石をあしらったペアリングが入っていた。奏澄がそれを覗き込んで、レオナルドに視線を向ける。

「これ……」
「さすがに、前のやつそのままはカッコつかないだろ。結婚するなら、このくらいはね」
「いい、の?」
「むしろ貰ってもらわないと困る。二人のために作ったんだから」
「……ありがとう」

 瞳を潤ませた奏澄に、レオナルドは切なそうに微笑んだ。

「幸せになれよ。泣かされたら、いつでも俺のとこ来ていいから」
「それは無い」

 レオナルドの軽口を、ばっさりとメイズが切り捨てる。

「冗談だって」

 笑い飛ばすレオナルドを睨んでから、一つ息を吐いて。

「……ありがたく、受け取らせてもらう。大切にする」

 真剣なメイズの言葉に、レオナルドは目を丸くした後、ゆっくりと細めた。

「……そりゃ、どーも」



 指輪を持って、二人は船首近くに立つ。

「……何すりゃいいんだ」
「私もよくわかんない。前にアントーニオさんに聞いた時は、なんか誓えばいいって言ってたかな。あ、せっかく指輪貰ったし、指輪交換やりたい」

 決まった形は無い、とのことだったので、それっぽい流れになればいいだろう、と簡単な流れをメイズに伝えて、奏澄は仲間たちを見渡した。

「今日は、私たちのために準備してくれてありがとう。すごく嬉しいです。一生の思い出になりました。みんなに見守られて誓いを立てられることを、こんな風に祝福してもらえることを、心から幸せに思います。本当に、ありがとう」

 ああ、もう既に泣きそうだ。まさか自分が、こんな日を迎えられるなんて。
 涙を堪えて、奏澄はメイズに向き直る。

「私、奏澄は。どんな時でも互いを尊重し、敬い、支え合って、命のある限り夫メイズを愛し続けることを誓います」

 真正面から告げられて、メイズがうろたえた。どうぞ、と奏澄が視線で促す。眉間に皺が寄っているが、これは多分困っているのだろう。あんまり黙るようなら助け船を出さないとな、などと考えていると。

「私、メイズは。どんな時でも互いを尊重し、敬い、支え合って……命のある限り、妻カスミと子を愛し、守り、決して傷つけないと、誓います」

 奏澄は大きく目を瞠った。唇が、震える。
 何かを言う前に、メイズが気まずそうに指輪の箱を取り出す。

「ほら、指輪交換、するんだろ」
「……うん……っ」

 メイズが、奏澄の左手の薬指に指輪を嵌める。奏澄も同じように、メイズの左手の薬指に、指輪を嵌めた。
 サイズは、二人ともぴったりだった。
 互いの左手を絡ませて微笑んだ奏澄に、メイズがそっとキスをする。

 驚きに目を見開く奏澄。伝えたのは、誓いの言葉を交わして、指輪を左手の薬指に嵌める。それだけだ。誓いのキスの話は、していない。
 そうしたいと、思ってくれたのだろうか。だとしたら、嬉しい。
 わあっと歓声が聞こえる。それを聞きながら、奏澄は幸せな気持ちで目を閉じた。
 温かい涙が一筋、頬を伝った。
 結婚したといっても、定住するまでは事実婚のようなものである。特に何が変わることもなく、以前と同じように、たんぽぽ海賊団は旅を続けていた。
 しいて言うならば、奏澄の指輪が変わった。以前のシルバーリングは首から下げ、指には青の結婚指輪のみをつけている。コンパスは、もう下げてはいない。メイズは以前のシルバーリングと青の結婚指輪の両方を首から下げている。

 最初の頃は意外に悪祖が軽いのでは、と楽観視していた奏澄だったが、それは徐々に酷くなった。というより、思っていた悪祖とは、やや異なる。吐き気がある。食べ物の匂いが気になる。それも全く無いわけではないが、それよりも。体の内側から刺されるような痛みや、ひどい頭痛が襲ったりした。それは、誰かといる時には無く、奏澄が一人の時にだけ、訴えるように起こるのだった。

「……生まれてきたく、ないの……?」

 (はら)を撫でながら、青い顔で呟く。育つことを、拒んでいるようだった。この子には、既に意思がある。
 この子には。――フランツには。

 確証は無い。ただの希望なのかもしれない。それでも、マリアと同調していた奏澄は、ほんの微かにフランツの気配というものを感じ取っていた。
 あの時、奏澄が逃すまいとしたものは。飲み込んで、腹に収めたものは。フランツの、魂と呼ばれるものだったのではないだろうか。あるいは、その欠片。

「大丈夫。大丈夫だよ……」

 生まれておいで。怖くないよ。あなたは、誰からも祝福されている。
 今度こそ。愛の中で、生きて。



 奏澄の願いも虚しく、体調は悪化の一途を辿った。時期的には安定期を迎えたというのに、四六時中顔色が悪く、遂に倒れてしまった。
 さすがに航海は中断せざるを得ず、コバルト号は緑の海域にあるバハジャマ島に船を寄せた。
 妊娠が原因であるならば、回復がいつになるかわからない。奏澄は仲間たちに、一時解散しても構わないと告げたが、ここまで来たらいっそ生まれるのを見届けると、仲間たちも島への滞在を望んだ。

 長期滞在用の宿屋にて。奏澄の体調を見てきたハリソンは、厳しい顔をしていた。途中から航海は厳しいのでは、と忠告を受けていたのに、別れを惜しんで大丈夫だと強がったのは奏澄だ。体調不良の原因がフランツであるならば、それを追求されたくもなかった。申し訳なさから俯いてしまう。

「カスミさん。メイズさんを呼んでも良いですか。お話があります」
「え、メイズも……ですか?」
「はい。お二人、一緒に」

 不安を覚えながらも、頷くしかない。ハリソンがメイズを連れて戻るまで、奏澄はずっと落ちつかない気持ちだった。
 ノックの後、部屋に入ってきたメイズは、やはり不安そうな顔をしていた。奏澄はベッドに身を起こして、メイズは椅子に腰かけて、ハリソンの話を聞く。

「カスミさん、メイズさん。非常に残念なことですが……このまま子どもを産むのは、難しいと思います」

 告げられた言葉が、すぐには脳に届かなかった。二人で黙ってしまい、ややあって、奏澄が震える声で問う。

「難しい……というのは、具体的に」
「今のカスミさんは、そうですね……体の中に、毒を抱えているような状態です。このままだと、母体の方が危険です。ですから、もし子どもを諦めるなら……今が、時期的にぎりぎりです」

 それは、つまり。

「子どもを……堕ろす、という、ことですか?」
「母体の安全を優先するなら、そうなります」

 真面目な顔で頷くハリソンに、奏澄は縋るようにして言葉を吐く。

「子どもを優先すれば、生むことはできますか」
「カスミ!」
「だって!」

 これにはメイズが声を荒げた。けれど、譲れない。ハリソンは、母体の安全を優先するなら、と言った。安全のために子どもを失うなどごめんだ。生み落とせずに死産、という話でもない。自分のために、大事を取って、今子どもを殺してしまう、という話だ。

「諦めません、ぎりぎりまで。子どもを優先してください」
「ふざけるな!」
「ふざけてるのはどっち!?」
「落ちついてください」

 珍しく声を張ったハリソンに、二人が視線を向ける。

「カスミさんの言う通り、子どもを優先するなら。出産まで、何が起こるかわかりません。既にカスミさんの体には悪影響が出ています。このまま命に関わる事態になるかもしれないし、そうなった時、それでも子どもを優先するなら、取れる対処法が限られてきます。ですから、決めていただきたいのです。母体を優先するか、子どもを優先するか」
「そんなの子どもに決まって」
「落ちついて。今、あなたは動揺して、感情的になっています。大切なことですから、お二人でよく話し合って決めてください。いいですね」

 奏澄は黙りこんだ。ハリソンは厳しい顔のままで、メイズにも言い含めた。

「メイズさんも。威圧して、怒鳴ったりしないように。従わせるのではなく、きちんと納得する形になるように努めてください。……それで、納得できなかったとしても。後で、させられた、と思わなくていいように」

 メイズは返事をせずに、固く拳を握りしめた。

 ハリソンが部屋を出ていくと、部屋には思い沈黙が流れた。
 メイズは背を丸め組んだ手で頭を支え、なんとか奏澄が納得できそうな言葉を探しているように見えた。

「私、生むから」
「……カスミ」

 駄々をこねる子どもを嗜めるように言われ、涙が滲んでくる。感情的になっている自覚はある。けれど、どれだけ落ちついたところで、この決意は変わらない。それだけは、あり得ない。

「子どもなら、また作ればいいだろ」

 息が、止まった。

「……また、って、なに。次があれば、この子は、殺してもいいの?」
「まだ生まれてもいないんだ、それはまだ人間じゃない。殺したことにはならないだろ。お前の方が、よっぽど大事だ」
「命、だよ」

 声が、震える。

「もう、ここにある、命だよ。私と、メイズを、繋ぐ子だよ。父親なんだよ! 愛するって、言ったじゃない! 守ってよ!」

 一人でも勝手に生む、とは言えない。だって奏澄が死んだら、この子の肉親はメイズだけだ。父親に憎まれて、健やかに育つわけがない。
 ちゃんと愛してほしい。その確信をもって、生みたい。
 私が死んでも、この子を愛してよ。

「それはお前が生きてる前提の話だ! お前が一緒なら、できるかもしれないと思った。お前がいないなら、なんの意味も無い。お前を失うくらいなら、子どもなんか要らない!」

 目の前が真っ暗になった。
 要らない。メイズにとっては、必要無い。あんなに、望んでいたのに。でもそれは、奏澄だけで。
 わかっていた。メイズは、一度だって、子どもが欲しいなんて言ったことは無い。
 最初から、奏澄の一人相撲だ。子どもが欲しいと思っていたのは、奏澄だけ。子どもができれば。家族が持てれば。きっと全てが、うまくいく。メイズのためにも。
 今は、違う。メイズのためだけではない。だって、もう母親なのだ。ここに、いるのに。どうしてそれを無視することができるのだろう。
 望まれて、生まれてくると思った。この子は、多くの祝福を受けて、この世に生まれ落ちるのだと。
 でも、もう。父親にすら、望まれていないのなら。

 絶句して涙を流す奏澄を見て、さすがに言い過ぎたと思ったのか、メイズが気まずそうに視線を逸らした。それでも、撤回する気は無いらしい。

「……頭冷やしてくる」

 それだけ言って、メイズは部屋を出ていった。
 残された奏澄は、ひたすらに泣きじゃくった。