隙間を埋めるように抱き合って、その余韻を残しながら、微睡む意識で触れ合った。このまま眠ってしまっても良かったが、メイズはもう少し話したそうだ。今を逃したら、もう過去の話が聞ける機会は無いかもしれない。彼の満足がいくまで話が聞きたいと、奏澄は目を見つめた。
「カスミの話も、聞いてもいいか」
予想外の言葉が出てきて、奏澄は目を瞬いた。
「どうしたの、急に」
「気にはなっていたんだ。故郷に帰りたがっていた頃から、お前は家族の話や向こうの人間の話を、ほとんどしなかっただろう」
指摘されて、どきりと心臓が跳ねる。それをごまかしたくて、奏澄は空笑いした。
「ピロートークにしては重い話選ぶなぁ」
「茶化すな」
真剣な声色に、奏澄の顔から笑みが消える。
「ごく普通の、家族だよ。普通に友達がいて、普通に暮らしてた」
「俺は普通は知らない。カスミの話が聞きたい」
聞かれて、奏澄は眉を下げた。
メイズは、奏澄がこの話題を避けていることに気づいている。今も、濁した言葉を追及した。
今までのメイズなら。言いたくないなら言わなくていい、と言っただろう。
けれど、今この人は。奏澄の深くに踏み込む覚悟を、決めたのだ。
それは嬉しいことのはずなのに。やめてほしい、と奏澄は俯いた。
自分は相手の嫌な記憶を引きずり出しておきながら。こっちは見ないで、なんて。
だってメイズとは比べ物にならない。自分のは、甘えだ。生まれが既に、相当恵まれている。生きるに困った彼に対して、いったいどんな弱音を吐けると言うのだろう。
「幸せ、だったよ」
ごとり。
「清潔な服を着て、十分な栄養の食事が取れて」
ごとり、ごとり。
「立派な家があって、温かな布団で眠れる。両親が健在で、きちんとした教育も受けて。満たされた、生活だった」
ごとりと、胸の内から重い音がする。自分の台詞一つごとに、石が積まれていく気分だった。胸がどんどん重くなる。
言葉を聞いたメイズは、眉を顰めた。
「それはただの条件であって、お前の主観は入ってないだろ」
「生活環境は、幸せに生きるための条件だよ」
「そうかもしれないが、俺が聞いてるのは、お前がどういうことを感じながら、何を思って、どんな風に暮らしてたのかってことだ」
わかっている。奏澄は目を伏せた。
奏澄は最初に普通だ、と口にしたのだから、これらの条件は奏澄が特別恵まれていたわけではなく、一般的には備わっているものだと推察しているだろう。
それでも。最低限がきちんと揃っている、ということは、俯瞰で見れば幸福なことだ。
マズローの欲求五段階説、という有名な心理学の理論がある。
一段階目は、生理的欲求。生きていくための、最低限の欲求。
二段階目は、安全欲求。安心な暮らしへの欲求。
三段階目は、社会的欲求。人や組織に受け入れられたいと言う欲求。
四段階目は、承認欲求。人から認められたい、という欲求。
五段階目は、自己実現欲求。何者かになりたい、と願う欲求。
現代日本において、餓死するほど食に困っており尚且つ何の保障も受けられない人というのは、そう多くは無い。むしろこの一段階目が満たせない人間ばかりの国は大問題である。
安全面でもそうだ。日本人は安全への意識が高いが、ここでの安心は生命に直結するものと考えて良いだろう。程度の差はあれど、最低限屋根のある家で暮らしている人が大半のはずだ。寒さで凍死する危険も、武器を持って襲われる危険も、確率で言えば決して身近ではない。
その二つが満たされて初めて、社会的欲求について悩み始める。つまり、三段階目以上の事柄について悩むのは、贅沢なことなのだ。満たされているから。最低限暮らしが保障されているから、それ以上のことで悩めるのだ。
悩みとは、同じステージにあるもの同士でないと共有できない。
今日食べる物にも困っている相手に、「夕食を魚にしたいのに肉しか手に入らない」などと相談する者はいないだろう。それは共感を得られないだけでなく、相手を馬鹿にする行為だからだ。
奏澄は当然、メイズを馬鹿にするつもりはない。メイズの方も、奏澄を馬鹿にしたりはしないだろう。
それでも、思うのだ。この程度のことでと、呆れられやしないかと。必死に生きてきた相手に、小さな世界で小さな悩み事を抱えていただけの自分が、辛いという顔をしてみせるのは。とても恥ずかしいことのように思えた。
「ただのわがままで、愚痴みたいなものなんだけど」
たっぷり間を置いた後で、それでも保険をかけるようにして、そう前置きした。
頷いたメイズに、そのまま言葉を続ける。
「私が最初にしてたネックレス、あるでしょ? あれ、両親からのプレゼントだったの」
それを聞いたメイズは、顔を曇らせた。あのネックレスは、出会った時のメイズの治療代として消えた。取り戻せない、思い出の品。しかし、あれは。
「でも、あれ。本当は、そんな大した思い出はないの。私が唯一向こうから持ってきた物だったから、そういう意味での執着心はあったんだけど。思い入れ、とかは別に。なんていうか、物を与えておけば、みたいなところがあって。あれは、その一環っていうか」
宝石を貰っておいて、と思うだろうか。価値で言えば、そうだ。高価なものだ。けれど。
「両親は、あまり仲が良くなくて。それは、私のせいかもしれなくて」
言い訳をするように、言葉が早くなる。
思い出す。かつての世界を。国を。家族を。
私を。
メイズの話を聞いて。それでやはり、彼に対する感情がどう変わったわけでもない。強いて言うなら、より強固に彼を手放さないと誓ったくらいだ。
とにもかくにも、約束は果たした。奏澄は再び、メイズを伴い昨日と同じ酒場に向かった。僅か一日で現れた二人に不審な顔をすることもなく、キッドは二人と向き合った。
「メイズから、過去の事情は聞きました。その上で、あなた方との共闘は問題ないと判断しました。もしメイズが玄武を裏切るような行動を取った時は、私を好きにしていただいて構いません」
「まーた嬢ちゃんはそういうやり方を……いやまぁ、そこはそう簡単に直らねぇか」
呆れたように言って、キッドは頭をかいた。そしてメイズに視線を移す。
「メイズ。嬢ちゃんは、大丈夫なんだな?」
その問いに、メイズは僅かに目を瞠った。奏澄の方は、首を傾げるばかりだ。メイズのことを信頼できるかどうかという話じゃなかったのか。何故奏澄のことを、メイズに訊くのか。
「大丈夫だ。ついている」
「そうか」
短いそのやり取りが、奏澄にはさっぱりわからなかった。仲間外れにされた気がして、眉を寄せる。
「拗ねるな拗ねるな」
からからと笑うキッドは、相変わらず奏澄を子ども扱いしているようだ。それに、奏澄はますます脹れて見せた。
子どもっぽいその仕草に目を細めた後、キッドは一度俯いて、次に顔を上げた時には、玄武の船長の顔をしていた。
「わかった。黒弦を討つための共闘、玄武が請け負う。よろしく頼む、カスミ」
力強く呼ばれた名前に、奏澄は身が引き締まる思いだった。
「こちらこそ。よろしくお願いします」
固く握手を交わして。たんぽぽ海賊団と玄武海賊団の同盟は成った。
場所が広いため、ブルー・ノーツ号の上甲板に両船の乗組員は集まっていた。
「黒弦の居場所は検討がついている」
キッドが地図を広げて、それをライアーが覗き込む。
「今の時期なら、ニューラマード島に停泊しているはずだ。すぐ近くの島にギルドがあって、そこへの定期便を襲うために張っている。ニューラマードの役人は黒弦と癒着していて、島に逃げ込まれるとギルドは追及できない」
「そりゃまたこすい手を」
「なかなかどうして、悪知恵が働くんだよなぁ。船長はどちらかと言うと、面倒くさがって力押しするタイプだったんだが。ブレインに仕込まれたのか、余計なことを覚えてくれやがった」
棘のある言い方に、メイズが視線を逸らした。明言はしていないが、要するに副船長だったメイズがその余計な知恵とやらを付けた、と言いたいのだろう。
「ま、余計な柵があんのは役人連中だけだ。オレたちはいざとなればどうとでも動けるが……できるだけぎりぎりまで黒弦には気づかれたくないな」
考えるように宙を見て、よし、とキッドは頷いた。
「二手に分かれよう。本隊はオレたちの船、ブルー・ノーツ号。なるべく隠密に近づいて、黒弦の船に奇襲をかける。分隊は、コバルト号。オレたちが黒弦を叩いた後で、カスミにとどめだけ頼む。いざとなったらそっちの方が小回りもきくし、自由に動けるようにしておいてもらいたい。あとは玄武の傘下にも声をかけて、周辺に控えておいてもらう。どう動くにせよ、数はいた方がいいからな」
キッドの提案に、特に異は無いと奏澄は頷いた。
「わかりました。では、ニューラマード島までは、玄武と私たちは別々に行動するということですね」
「んにゃ、違う違う」
「え?」
手を振るキッドに、奏澄はきょとん、とした。
「本隊の方に主戦力を集める。だから、メイズはこっちに貰う。代わりに、そっちに玄武の乗組員をいくらかやるから」
「え!?」
これにはメイズも、いや、たんぽぽ海賊団の面々は全員驚愕した。メイズ一人を向こうにやるとは。
「そ、それって、人質」
「人聞きの悪ぃこと言うな! ただの戦力の問題だ! 元黒弦の人間がいた方が奇襲はしやすいだろ」
「でも、一人だけなんてそんな、いじめたりとか」
「だったら他の戦闘員も寄越すか? そっちはそんなにいないだろ。あんまり手薄にしない方がいいんじゃねぇか」
キッドの言う通りだ。玄武の乗組員を貸すと言っても、たんぽぽ海賊団の戦闘員を渡すのではただの交換だ。それに、自船の戦闘員が減るということは、慣れた仲間が減るということ。コバルト号に戦闘員を残すのは、奏澄の護衛が主たる目的だろう。側に付くなら、慣れた人間の方が良い。
とどめを刺せるのは奏澄だけ。女王が倒されたらチェックだ。
「俺が了承してないんだが」
不機嫌を隠しもしないメイズに、キッドは不満そうに眉を上げた。
「お前に決定権無いだろ」
「ある。だいたい、あんた話聞いてたのか」
「なんのだ?」
「ついている、と言っただろう」
「言ったなぁ。でも聞いただけで、別にオレがそれを気にしてやる道理はねぇなぁ」
メイズは険のある視線をキッドに投げた。受けたキッドは飄々とした態度を崩さない。
「たまにはちょっと離れてみるのもいいもんだぜ」
その言葉の意味を図りかねたのか、メイズは眉間の皺を深くしただけだった。
奏澄は二人の顔を見比べながらも、おそるおそるメイズに声をかける。
「一人にするのは心配だけど、確かにキッドさんの言う通りだと思う。悪いんだけど、向こうに協力してあげてくれないかな?」
「だが、お前は」
「私は大丈夫。ラコットさんたちだっているんだし」
同意を求めるように、少し離れた位置にいるラコットに視線をやると、話はなんとなく聞こえていたのか、任せろというように腕を上げた。
「ね」
安心させるように微笑んだ奏澄に、メイズはむっつりと黙った後、長く息を吐いた。
「わかった」
「ありがとう」
「ただ今夜は覚えておけよ」
「そういうのはヤダ」
離れがたいのは奏澄も同じだが、交換条件のように言われるのは嫌だ。そもそも昨日あれだけしたのだから、もうそれで充分じゃないだろうか。
笑顔で切り捨てた奏澄に、キッドが堪えきれなかったのか吹き出した。
「いや、なるほどな。案外うまいこと手綱を握ってんだな」
くつくつと笑いを零すキッドを、メイズが苛立たし気に睨んだ。
「んじゃ、出発は明日の朝にしよう。こっちも用意を済ませておく。メイズ、別れを惜しむのはいいが、カスミが起きられる程度にしておけよ」
キッドの軽口にメイズは答えず、代わりに今度は照れたような顔で奏澄が睨んだ。
翌朝。パラ―ルト島の港は騒がしかった。
たんぽぽ海賊団、玄武海賊団の両船が出航のために準備をしており、慌ただしく人が行き交っていた。
「んじゃ、メイズは預かるぜ」
「はい。くれぐれも、よろしくお願いします」
「わかってるって」
頭を下げた奏澄に、キッドは苦笑した。メイズは不貞腐れたような顔をしている。
「おいメイズ、いいのか」
「どうせすぐ会うだろ。そう遠い場所じゃない」
目を瞬かせたキッドは、奏澄を見ながらメイズを指さした。奏澄はごまかすように空笑いするしかない。
奏澄は今後玄武の乗組員と暫く同乗することになる。事情のわかっているたんぽぽ海賊団の面々とは異なり、玄武の男衆は奏澄の存在に浮足立つ可能性がある。そのため、メイズは『牽制』しておきたかったようなのだが、その手段に奏澄が異を唱えた。
――だって、痕とか残されたらみんなにも見えるし。
そんな独占欲丸出しみたいな。いい大人のやることじゃない。指輪をしているのだから、それでいいじゃないか。
しかし拗ねてしまったメイズを見ていると、なんだか可哀そうなことをしてしまったようにも思える。それに、誰も態度には出さないが、万が一奇襲に失敗した場合には、誰かが欠ける――つまり、これが今生の別れになる可能性が、無いとは言えない。そういう旅立ちだ。勿論、そんなことは起こらないと信じてはいるが。
少し考えて、奏澄はメイズに近寄った。
「何だ」
むすりと見下ろしてくる彼の服を引っ張って、首に手を回すようにすると、意図を察したメイズが少し屈む。目一杯背伸びをして、奏澄は触れるだけのキスをした。
「行ってらっしゃい」
小さく言って、はにかんだ。
人前でキスしてみせるだけでも、奏澄にとっては大ごとだ。けれど、これでも多少はメイズの望む『牽制』にはなるだろう、と思っていると。
後ろ頭に手が回って、腰を引き寄せられて。
「~~~~っ!?」
ばしばしと背中を叩くのを意にも介さず、深く口づけられる。囃し立てるような指笛の音が聞こえて、奏澄の顔が羞恥で染まる。
「……行ってくる」
さんざん好きにしたメイズは機嫌を直したようで、笑みを一つ零すと奏澄を解放した。
唖然とする奏澄を置き去りに、そのままブルー・ノーツ号へと向かう。
「苦労するよなぁ、カスミも」
労うように肩を叩いて、キッドも自分の船へと乗り込んだ。
釈然としない思いを抱えながらも、奏澄もコバルト号へと乗り込む。
言いたいことは、次会った時だ。
*~*~*
ブルー・ノーツ号とコバルト号は、別々の航路を進んだ。玄武は途中の島で、更に人員を入れ替えたり、連絡を飛ばしたりしながら進むらしい。
コバルト号はメイズがいないものの、玄武から借りた乗組員は戦力として申し分なく、時折ある襲撃にも何ら苦戦することは無かった。島に降りる時は、奏澄の側には必ずラコットか舎弟たちが付いた。彼らは肉弾戦を最も得意としているので、遠慮なく投げ飛ばしはするが相手を殺すことはなく、却って奏澄を安心させた。
船はどんどん北へと進み、寒さが厳しくなり。そして。
「……あ、雪」
ちらりと舞ったものに手を伸ばして、奏澄はコバルト号の船首近くで白い息を吐いた。
――本当に、雪が降るんだ。
半信半疑だったが、この寒さとなれば、雪も降るか。手のひらの上であっという間に溶けたそれに、奏澄は目を細めた。
――できれば、メイズと見たかったな。
観光ではないのだから、そんなことを言っている場合ではないのだけれど。初めての感覚を、メイズと共有したかった。
空を見上げれば、灰色の雲が覆っている。まだ昼間だというのに、なんだか気分も沈んで、奏澄は顔を曇らせた。
「カスミ。そんなとこいると風邪ひくぜ。中入ったら?」
「ライアー」
後ろから声をかけられ、振り返ると見慣れた航海士の姿があった。
「雪が降ってるってことは、もう黒の海域?」
「うん、もう入ったね」
「この船、雪平気かな」
「んー、積もるほど降ってきたら危ないけど、このくらいならまだ」
「そっか」
目線を落とした奏澄に、ライアーが遠慮がちに声をかけた。
「メイズさんが心配?」
「……ん、ちょっとね」
メイズが強いことは知っている。玄武も信頼できる。けれど。
奏澄は、悪魔と会ったことが無い。悪魔の強さを知らない。そして、彼らでは悪魔にとどめを刺せないのだという。それで、勝機はあるのだろうか。
だからといって、奏澄が向こうにいたとしても、足手まといにしかならないだろうが。
「だーいじょうぶだって!」
安心させるように、ライアーが軽く奏澄の背中を叩いた。
「今までメイズさん、一回も負けたことないだろ。玄武もついてるんだし。信じててやんなって」
「……うん、そうだね」
奏澄は努めて明るく笑った。馬鹿だ。ここで暗い顔をしたところで、事態は何一つ変わらない。奏澄が落ち込めば、仲間たちも引きずられる。せめて、明るく。
奏澄は意識して背筋を伸ばし、ライアーと共に船内へと戻った。
次にメイズに会う時は。悪魔に、とどめを刺す時だ。
「……雪か」
黒の海域に入り、暗く淀んだ空をメイズは厳しい目で見上げた。積もれば戦闘の妨げになるが、まだそれほどの降り方ではない。それでも足場は気にしなければ、とメイズはブーツで甲板をこするようにした。
「このクソ寒いのによく外に出る気になるなオマエ」
「慣れてる」
「あっそ」
一蹴したメイズに、キッドはつまらなそうに鼻を鳴らした。
彼自身は寒さが苦手なのか、薪ストーブの前で猫のように丸まっている姿がしばしば見られた。燃料は限られているので、たまにロバートに文句を言われている。
「オレは無理だね。できることならずっとストーブの前を離れたくねぇ」
「……燃やすなよ」
「燃やさねぇよ! オレのこと何だと思ってんだ」
「さすが、パイプで船を燃やしかけた奴は言うことが違うな」
「てめええええ」
青筋を浮かべたキッドは、握りしめた拳をぶるぶると震わせた。
「用があって来たんじゃないのか」
「ああ、そうだった。この船を変えようと思うんだが。外装だけ変えるか、それともいくつかの船に分散するか」
「そうだな……。この規模の船で乗り付けるのはまずいだろう。外装を変えた上で、手前のシシドナ島に置いていった方がいい。そこからは小型船に分散して、時間差でニューラマード島に潜伏し、合流する」
「けどそうすると、途中で向こうに気づかれたら揃わない内に戦闘になる。イチかバチか、一気に乗り込んだ方が良くないか」
ふむ、とメイズは頷いて。
「それもそうだな」
「おい」
あまりに早い納得の仕方に、キッドは思わずつっこんだ。
「もうちょっと何かないのか」
「実のところどちらでもいい。あれの思考回路はトんでいるから、策を講じたところで、結局出たとこ勝負になる可能性が高い」
「あのな、何のためにオマエをこっちに乗せたと思ってんだ」
「俺にわかるのは、あれの性根が腐っているということくらいだ」
「そこは同感だ」
キッドが真面目くさって頷く。
「腐っているから、来ているとわかればまず罠を張る。一斉にぶつかると、そもそもまともな戦闘にならないかもしれない。だから可能な限り隠れて、分散した方がいいと思った」
「……なるほど」
「ただ、お前の言うことも間違いじゃない。罠はあるという前提で、いっそ一斉に飛び込んで、罠ごと力技で押し切るのも手だ。本隊は全部ぶつけても、周囲に玄武の傘下は置いておくんだろう。カバーができないわけじゃない」
キッドは考え込むように俯いた。今彼の頭の中では、自分の手持ちの札をどのように動かすかをシミュレートしている。軽い調子で人を欺いてはいるが、この男も四大海賊の一角だ。頭は回るだろう。
「最初にオマエが言った方でいこう。今日中に本隊を複数の班に分けておく。シシドナ島からはその班で動く」
「いいのか」
「力押しは一回試してるからな。今回はオマエの案に乗ってみることにしよう。頼りにしてるぜ、メイズ」
人が悪い笑みを浮かべたキッドに、メイズは嫌そうに顔を歪めた。
*~*~*
外装を変えたブルー・ノーツ号で航海をし、シシドナ島へ到着すると、用心のため船は隠した。そこから玄武海賊団は十の班に分かれ、順に小型船でニューラマード島へと向かった。黒弦がいるはずの港とは反対側の入り江に船を隠し、島へと上陸する。次に来る船はまた別の場所に船を隠し、船がまとまらないようにした。
襲撃は陸から行う。一から五班が船へ乗り込む。六、七班は陸にて待機。八、九班は小型船で海に待機。十班は状況に応じて周辺の島に控えている玄武の傘下への伝令。
黒弦の船――ブラック・トイフェル号は、静かに港に停泊していた。
静かだ、と思った。そのことに眉を顰める。情報では、船長を含めた船員のほとんどは、夜間は船にいるとのことだった。だが見張りの姿が見えない。
結局分散して乗り込んだ玄武が揃うまで、不気味なほどに動きは無かった。気づかれなかった、と思いたいところだが。
やはり、罠だろうか。船内には、誰もいないかもしれない。しかし、人の気配はあるように思う。
――やってみるしかない。
手で合図をし、船に火を投げ込む。爆薬が仕掛けられていればこれで反応がある。中の人間を炙り出すため、明かり代わりにもなる。それと同時に、襲撃班が突入する。火が回り切る前に、決着をつけなければ。玄武の人間も丸焼けになる。
「――!? 誰もいない……!?」
乗り込んだ甲板には、人の姿が無かった。しかし、耳を澄ませば息づかいが聞こえる。荒い息だ。火に誘き出されず、隠れているのか。
「やあああーーーーッ!」
大きな掛け声と共に飛び出してきた影に、メイズは反射的に銃を向けた。向けて、その姿勢のまま固まった。
――ガキ?
「メイズ!!」
怒鳴られて、メイズは咄嗟に足を動かした。可能な限り加減をして、向かってきた子どもを蹴り飛ばす。
それでも大きく吹っ飛ばされた子どもは、手にしたナイフを取り落として、激しく咳き込んだ。
メイズは動揺した。はっとして、周囲を見渡す。甲板は、どこも同じような状況だった。どこに隠れていたのか、わらわらと出てきた子どもたちは、メイズの腰にも届かないような背丈の者すらいる。皆一様に武器を持ち、玄武の者たちを攻撃していた。
「これだから、黒弦が嫌いなんだオレは!」
大きく舌打ちして、キッドが零す。向かってきた子どもを躱すと、腕を引っ掴んで海へ放り投げた。
「ガキは全員海へ投げろ! すぐに拾えば、この時期なら死なん!」
船上で丁寧に拘束している暇は無い。子どもとはいえ、武器を持っている。そして火からも逃がさなければならない。極寒の海ではあるが、まだ雪は薄い。海へ投げ込み無力化できれば、あとは小型船で海に待機していた八、九班が保護するだろう。この状況では、それが最善に思えた。
キッドの指示に従って、玄武の乗組員は子どもたちを海へ放り投げていく。メイズも銃は片手持ちにし、空いた手はなるべく子どもを抑えるために使った。間違って陸の方へ投げてしまえば大怪我では済まないし、海へ投げるのも絶対に安全とは言えない。祈るような思いで放るしかなかった。
掴んだ腕は細かった。子どもたちは、皆枯れ枝のようだった。それでも気力を振り絞って向かってくる。目に光がある。生きようとする必死さがある。脅されてのことではない。何かの希望をちらつかせている。
おそらく、褒美に食糧でも約束しているのだろう。そういうやり方をする。あの男は。フランツという悪魔は。
見上げてくる瞳が責めているように思えて、メイズは思わず目を閉じた。
「――ッ」
大腿部に焼けるような痛みが走った。ほんの一瞬の隙に、刺されたのだ。
その痛みに意識がはっきりとして、メイズは刺した子どもを掴んで投げた。ぼうっとはしていられない。
ここに、フランツがいないということは。
「キッド! 俺はコバルト号に戻る!」
「なに!?」
「向こうは俺たちの動きに気づいている! ここに船長がいないということは、あっちに向かっている可能性が高い!」
「わかった! 伝令は既に動かしている、四・五班を連れて行け! オレたちもここが片付いたらすぐに向かう!」
頷いて、メイズが船を降りようとすると。
「させねぇよ」
低い声と殺気に、咄嗟にメイズが体を逸らす。その脇を、銃弾が掠めた。
「船長のお楽しみを邪魔させたとあっちゃ、叱られちまうからなぁ」
「お前は……」
「よぉ、久しぶり。メイズ」
銃を振った男の顔には、ぼんやりだが見覚えがあった。メイズがいた頃からの、黒弦の乗組員だ。
さすがに、子どもだけを残しているということはなかった。さんざん子どもに振り回させた後、疲弊しているところを狙う心積もりだったのだろう。だとしたら、まだいる。
メイズは視線を走らせた。まだ、黒弦の乗組員が潜んでいる。
子どもだけなら無理やりにでも振り切って行けたが、黒弦の乗組員がいるなら話は別だ。勢いで降りようとすれば、背後から狙い撃ちされるだけ。
そうでなくとも。降りようとすれば、子どもを殺してみせることくらいはやる。平気で盾にもするだろう。全てを無視すれば、突破できるかもしれない。けれど、子どもを殺してしまったら、自分はもう奏澄の元へは戻れない。そんな気がした。
メイズは、逸る気持ちを抑えながら、両手に銃を構えた。この場を片付けるのが先だ。どの道、船には火がついている。長引かせることはできない。
――カスミ……!
無事を祈りながら、引き金を引いた。
言葉が出なかった。あまりにも、突然のことだった。あまりにも、圧倒的だった。
奏澄は起こったことが受け入れられず、ただ赤い瞳から目が逸らせずにいた。
玄武が黒弦を捕らえた後で合流するはずだった、ニューラマード島近くの島にて。ひっそりと隠れるように泊めてあったコバルト号は、突然の襲撃を受けた。
それがただの賊であるならば、コバルト号に残った戦力でも充分対処できた。しかし、最初の攻撃が黒い弦により行われたことで、船には一気に緊張が走った。
「黒弦だ!!」
見張りの叫び声を聞いた瞬間、奏澄は剣に手をかけた。それで戦おうと思ったわけではない。ただ、反射的に、それが必要だと思った。
上甲板に飛び出せば、既にそこは戦場だった。むせ返るような血の臭い。剣戟の音。飛び交う怒声。目の端に倒れたまま動かない玄武の乗組員を捉えて、奏澄はぞっとした。生きて、いるのだろうか。そうであってほしい。
乗り込んできたのは、僅か二十ほどの手勢だった。対して、コバルト号の戦力は五十ほど。それでも、どちらが押されているかは一目瞭然だった。
異様な空気を放つ男が一人、いる。黒い弦を遊ばせるようにして操っているが、それは確かに肉を裂き体を貫いていた。
若い男の姿だった。夜の闇を溶かしたような長い黒髪に、血の色の瞳。嗤う口元からは、牙と言えるほど尖った犬歯が覗いていた。黒弦の船長ということはそれなりの年齢のはずだが、悪魔は不老不死であると聞いている。では、あれが。
固唾を呑んでその姿を追っていると。
その男と、目が合った。
瞬間、首から下げたコンパスが火傷しそうなほどに熱を持った。目が、逸らせない。
苦しい。悲しい。切ない。――愛しい。
「カスミ! 戻んな!」
マリーが奏澄を船内に引き戻そうとする。しかし奏澄はそれを無視した。一瞥もくれない奏澄を訝しんだマリーが、無理にでも引っ張って行こうとすると。
「いけ好かない気配がするな。――なんで神器なんか持ってる」
赤い瞳が、奏澄を睨みつけた。奏澄がフランツの攻撃対象に入ったことに、全員が戦慄する。
「余所見すんじゃ……ねぇよッ!」
既に傷だらけのラコットが果敢にもフランツに切りかかる。しかし彼のカトラスは鋼鉄のような弦に阻まれ、フランツの肉体に届くことはなかった。そのまま弦に足を貫かれ、しなった弦により放り出された彼の体は船の端まで飛ばされ、背中を強かに打つ。
「ラコット!」
マリーが声を上げながら、ぼうっとした様子の奏澄を背に庇うようにして立ちはだかる。それをつまらなそうに眺めたフランツが、マリーに向けて弦を伸ばした。
『やめて、フランツ!』
響いた声に、フランツの弦がマリーの目の前でびたりと止まる。
僅か数ミリで刺さる位置にあるそれに、マリーは瞬きすらできずにいた。
「……てめェ」
フランツから、怒気が立ち昇る。彼が名前を呼ばれるのを嫌う、というのは有名な話だ。だというのに、何故。
『てめェなんて呼ばないで。マリアよ。名前で呼んでって、言ったでしょう』
奏澄の言葉に、フランツが目を丸くした。気が逸れたのか、マリーの眼前にあった弦が緩む。それに気が抜けて、マリーがたたらを踏んだ。戸惑いながら振り返って、マリーは驚愕した。
金の瞳が、真っすぐにフランツを見据えていた。
僅かな間赤い瞳と見つめ合って、堪えきれないように、金の瞳からは涙が零れ落ちた。
『会いたかった……フランツに、会うために、そのためだけに……わたしは……』
流れる涙をそのままに、金の瞳は決してフランツから目を逸らさなかった。
異様なその光景に、黒弦の乗組員までもが戦闘の手を止め、船長に声をかけようとしたその時。
フランツが大きく舌打ちをしたかと思うと、黒い弦を奏澄の体に巻きつかせ、そのまま自分の手元に引き寄せた。
「カスミ!」
仲間たちが名前を呼ぶ。しかし、奏澄はその声に反応しなかった。
フランツは引き寄せた奏澄を抱えると、黒い弦を器用に操って、船外へと飛び降りた。
「えっちょ、船長ぉ!?」
戸惑う黒弦の者の声も置き去りに、フランツは人の足ではとても追えないスピードで、その場から消え去った。
*~*~*
コバルト号からだいぶ離れた森の中。木々に隠れるようにして、フランツは大木の下に降り立った。
奏澄に巻きつけた弦は解かずに、拘束した状態のまま地面に放り出す。
「誰だ」
『いたたた、相変わらず、扱いが雑だなぁ。この子の体はそんなに丈夫じゃないんだから。手加減してあげてよ』
「誰だと聞いてる」
『さっき言ったでしょ。マリアよ。この体は、カスミっていう女の子のものだけど。わたしと同じはぐれ者なの。だから、ちょっとだけ体を借りてる。カスミの意識は中にあって、私と同じ景色を見ているし、同じ音を聞いているわ。そのつもりでね』
フランツは顔を顰めて、奏澄の体――を使っているという、マリアの首に黒い弦を巻き付けた。暗い森の中でも、彼の目にはマリアの姿がはっきりと見えている。
「お前が本当にマリアだと言うなら、よく俺の前に顔を出せたモンだな。お前が裏切ったせいで、俺がどんな目に遭ったのか、まさか忘れたとは言わねェだろ」
『裏切ってない!!』
喉が裂けそうなほどの悲鳴を上げて、マリアは否定した。金の瞳に涙を浮かべながらも、訴えるようにフランツに強い視線を投げかけた。
『裏切ってない。わたしがフランツを、裏切るはずがない! あの頃わたしにはフランツしかいなくて、フランツがわたしの全てだった。たまにしか会いに来なくても、フランツがいたから生きられた。フランツと生きていこうと思ってた。フランツを、愛してたから!』
息を切らせて、マリアは目を伏せた。
『やっと、言えた……。ずっと、言いたかった』
「……そんな言い訳を、今更俺が聞くとでも?」
『信じなくても、いいの。裏切ったと、思われても。ただ、伝えたかった。愛してたって。フランツを、愛した女がいたんだって。あの頃、ちゃんと言えなかったから。地獄で会えたら、言おうと思ってた。でもフランツはこの世界に蘇って、何とか接触したかったけど、わたしは体を持てなかった。一人ぼっちのフランツを……見ているしか、できなくて……。ごめんなさい……! フランツを、傷つけて。一人にして。ごめんなさい。ごめんなさい……』
泣き崩れたマリアに、フランツは黙ったまま拘束を解いた。
「何故、俺を殺した」
『……神に、操られて。無理やり眷属にされて、逆らえなかった』
「お前を殺したのは」
『殺されたんじゃない。フランツを……刺した、あとに、意識が戻って。フランツの後を追おうと思って、自分で死んだの』
「今更出てきたのは、どういうわけだ」
『何度も会おうとしたわ! でも、わたしは、意識だけの存在で……体がなかった。世界の狭間に囚われて、こちらに干渉できなかった。だからひたすら、繋いだの。神の眷属のまま死んだわたしは、その権能の一部を保持したままだったから。僅かに使える力で、はぐれ者をこの世界に送り込んだ。そのはぐれ者の内、はぐれものの島を出て、フランツとわたしと繋ぐコンパスを手に入れて。この世界の人間を愛して。そうやって、やっと条件が揃ったのが、カスミだった。この子とわたしは、似ているの。だから共鳴できた。カスミに感謝しなくちゃ』
微笑んだマリアを、フランツは無表情で見ていた。
「そうまでして出てきて、お前は何がしたかったんだ」
『……フランツに、愛していると、伝えたかった』
「それだけのために?」
『それだけじゃないわ。大事なことよ。自分が、愛されていると知ること。必要とされているのだと、思うこと。それだけで、一人じゃなくなるわ。一人で生きるのは、寂しいことだもの。愛が傍にあるだけで、人は決して一人じゃなくなる』
「……だから、人じゃねンだっつの」
溜息と共に、フランツは地面に座り込んだままのマリアの前にしゃがみこんだ。
「……マリア」
その声色に、マリアは目を見開いた。
するりと、フランツがマリアの髪を撫ぜる。
「他人の体、ってのは変な感じだが……ちゃんとマリアの気配がするな」
『わかる、の?』
「そりゃわかる。マリアの気配を、俺が間違うわけないだろ」
『だったら、なんで……っ』
くしゃりと顔を歪めたマリアが、フランツに飛びついた。
『愛してる! 愛してる、愛してる、愛してる!』
「うるっせェ」
顔を顰めながら、耳を塞ぐような仕草をするフランツだったが、マリアを引き剥がすことはせずに。
「……愛してた」
ぽつりと。小さく、呟いた。
地鳴りがした。大地が揺れて、マリアがバランスを崩す。木々が大きくたわんだ。
『え、なに!? 地震!?』
おろおろするマリアに、フランツは落ちついた様子だった。
『ねぇ、ここじゃ木が倒れてくるかも。どこかに避難しなきゃ』
「もう遅い」
『遅くないわよ! フランツの弦を使えば、森を抜けるくらい』
「もう遅いんだ、マリア」
歪んだ笑みに、マリアは息を呑んだ。
「俺は、ずっとマリアに裏切られたんだと思っていた。何もかもを信じたくなかった。自分のことも、どうでも良かった。二度と目覚めなくったって、構わなかったんだ。だから適当に気の向くように振る舞って、惰性で過ごしてきた。その内セントラルに消されても、それでもいいと思ってた。それを、今更」
嘲る様に乾いた笑いを零して、フランツは立ち上がり空を仰いだ。
「マリアが操られていたと知ったところで、神はもうこの地にいない。どうしろってンだ。俺は、この怒りを、どこにぶつけたらいいんだよ。なァ。もう何を恨めばいいのか、憎めばいいのか、わっかんねェよ。考えるのも、面倒くさい。だからもう……全部、壊す」
でろりと、腐った油のようなものが、地面に滲みだした。
遠くで、獣の咆哮と、人の悲鳴が上がった。
*~*~*
「ひいいいいっ! ば、ばけもの……っ!」
「落ち着け! 獣の一種だ、殺せば死ぬ!」
「ロ、ロッサ船長ぉ……っ!」
「とにかくぶっ殺せ! 全部殺せばいなくなる! 民間人は軍がなんとかしてる!」
「うえええ、頑張ります……!」
「市民の非難が最優先だ! ギルドに誘導して、周りを固めろ!」
「しかし、ギルドは……ッ」
「この非常事態に、役人だ海賊だと言ってられるか! 向こうにもそう伝えろ!」
「りょ、了解です、アンリ船長!」
「長く生きてきたが、こんな事態は初めてだな」
「エドアルド船長、ひとまず女子供は地下に隠しました」
「そうか。伝令は」
「傘下は各地で対処に当たっています」
「セントラルとも連携を取れ。こういうのは、統率の取れた軍の方が得意なもんだ」
「はい!」
「み、水が全部泥みたいに……っ」
「今はそれより、化け物の駆除が先だ!」
「くっそ、こんな時にキッド船長がいないなんて……」
「馬鹿野郎、弱音吐くな! オレたちだって、玄武の傘下だぞ! こういう時こそ、腕の見せ所じゃねぇか!」
「そう……そうだよな。キッド船長がいなくても、俺たちで青の海域は守る!」
「オリヴィア総督! 大変です、各地で魔物が出現しています!」
「見えているわ。悪魔の仕業ね。いったい何があったのかしら」
「各地で対処に当たっていますが、セントラル軍だけでは手が回らず、その……」
「必要なことは簡潔に手早く」
「はっ! 各海域にて、四大海賊とその傘下が、民間人の保護に協力しています」
「……なんですって?」
「彼らは民衆の信頼も厚く、正直なところ大変助かっており」
「もういいわ」
部下の報告を切り捨てて、オリヴィアは司令本部の窓から外を見下ろした。
地面は一面、腐った油のようなどろりとしたものが波打っている。そこから、無尽蔵に奇妙な獣の形をした生物が這い出していた。血と肉を求めて牙を剥く魔物を、衛兵が辛うじて押し留めている。夜間の出来事だったため、表を出歩いている人間が少なかったことが不幸中の幸いか。しかし時間が経ち、食糧が見当たらなくなれば、あれらは家の中にも押し入るだろう。
これほどの力があったとは。何故今まで何もしなかったのか。遊ばれていたのだろうか。
オリヴィアは思考を払うように首を振った。今はそれより、この混乱を収める方が先だ。
「城も開けなさい。市民の避難場所に」
「はっ!」
軍靴を鳴らして、オリヴィアは部屋を出た。
*~*~*
「おいおいおいおい、なんっだこりゃ。聞いてねぇぞ!」
「これ、あっちも知らないんじゃないっすかね。うわ、喰われてる」
子どもを全員海へ落とした玄武たちは、火の回った船を捨て、戦場を陸地へと移していた。
隠れていた黒弦の人間は、思った以上だった。フランツが連れて行った二十ほどの手下を除き、他の黒弦の乗組員は全員船や周辺に潜伏していた。それ故、メイズは未だに奏澄の元へ行けずにいた。
突然湧いた黒い油のようなものは、海中までは届かないらしい。子どもたちが引き上げられた小型船が無事なことだけが救いだった。
この異常事態は、どう考えても悪魔によるものとしか思えない。フランツの正体を知らなかった頃なら、何の冗談だと思っただろう。しかし、今はあれが本物の悪魔だということを知っている。であれば、こんなことをできるのはフランツしかあり得ない。
何があったのか。奏澄は無事なのか。焦れて駆け出したメイズに、キッドが声を上げる。
「おい! 一人で行くな、死ぬぞ!」
魔物に襲われる恐怖に、黒弦の方も完全に混乱している。今ならば、コバルト号の元へ行くこともできるだろう。しかし、一人でこの魔物の群れを相手にしていくのは無理がある。万全の状態でも難しいのに、メイズは足を刺されている。
「邪魔だ!」
進路を塞ぐ魔物を、銃で撃ち抜いて蹴り飛ばす。腕に噛みついてきた獣の眉間に銃口を当て、そのまま頭を吹き飛ばす。メイズの形相も、獣と変わらなかった。冷静ではいられない。こんな時に、傍にいられないのなら。何のための自分なのか。
「……ったく、仕方ねぇなアイツは。おい! フォローしてやれ!」
アイコンタクトを交わし、五班のメンバーがメイズの後を追う。
襲いくる魔物を蹴散らしながら、メイズたちはコバルト号へ急いだ。
『フランツ! ねぇ、止めて!』
マリアは切実な声でフランツに縋った。ここには魔物の主であるフランツがいる。だからマリアも襲われることは無いが、周囲がどうなっているかは容易に想像がつく。
理不尽に奪われる命。壊れる日常。こんなことが、許されるわけがない。
「止めたいなら、俺を殺すんだな」
青い顔をするマリアを、冷たい表情でフランツが見下ろした。
そして、腰元にある剣に視線を向ける。
「神器なんて下げて来たんだ。その女も、俺を殺す気で来たんだろ」
『それは……』
「しょうがねェよな。なんせ悪魔だ。いるだけで、災厄を撒き散らす。誰からも望まれない、世界中の嫌われ者だ」
『違う!』
「違わねェよ! そういうモンだ。そうでなくちゃいけなかったんだ。なのに、お前が……ッお前の、せい、で……」
込み上げた感情が何なのかわからず、フランツは膝をついた。
「知りたくなかった。恨んだままでいたかった。死んだんだろ。もう、俺のものには、ならないんだろ。いないってことだけ思い知って、こんな世界に何の価値がある。その女の体で、一緒に生きてくれんのかよ」
『それは、できないわ。カスミにはカスミの愛する人がいるもの』
「っは、だよな。他人の体を乗っ取ってまで生きようってガラじゃねェもんな、マリアは。……ならやっぱり、全部壊してやる。神の野郎が作り上げた世界なんか、マリアを殺したこんな世界なんか、全部、粉々に」
『わたしは、この世界を愛しているわ』
言い切ったマリアを、フランツは信じられないものを見るような目で見た。
『だって、ここはわたしとフランツが出会った世界だもの。この場所がなければ、わたしはフランツと出会うことも、フランツを愛することもなかった。大切な場所を、失くしてしまわないで』
「マリア……」
『それに、もう一度、わたしたちは会えるわ』
微笑むマリアに、フランツは怪訝そうな顔をする。
『わたしは輪廻へ還る。最後の心残りを……フランツに、愛してるって、言えたから。再びこの世界に生まれ落ちる。その時、わたしはもうマリアではないけれど……それでも、魂は同じよ。だから、約束して。もう一度、わたしを見つけるって』
マリアは小指を差し出した。戸惑うフランツの手を取って、同じように小指を絡ませる。
『カスミの故郷では、こうやって約束するんだって。なんだか素敵よね。だから真似っこ。ね、約束の証』
少女のような微笑みに、あの島でのマリアの面影を見た。フランツは何かを堪えるように歯を食いしばって、そっと額を重ねた。
「悪魔と約束なんかすんの、マリアくらいだぜ」
『そうかもね』
くすくすと笑った吐息が、かかるほどの距離。困ったように笑ったマリアは、
『カスミ、ごめんね。人生最後のお願い、許して』
果たして奏澄の返答を聞いたのか聞かなかったのか、そのままフランツに口づけた。
『それじゃ、フランツ。またね!』
涙を浮かべながらも、満面の笑みで別れを告げたマリアは、そのまま意識を失った。崩れた体を、フランツが支える。
「マリア!」
呼びかけに応じて瞼が震える。薄く開いた瞳は、もう金色ではなく、元の奏澄の瞳だった。
「……戻ったのか」
虚ろな視線がフランツを捉える。徐々に光を取り戻した瞳からは、はたはたと涙が零れ落ちていた。
「なんでてめェが泣くんだよ」
「わ……かりま、せん。マリア、さんと、同調して。まだ……抜けきらないみたいで……」
フランツが顔を顰める。マリアの気持ちはマリアのものだ。それはわかるが、奏澄にも止められなかった。マリアはもうここにはいないのに、彼女の感情だけが、未だ激しく胸を打つ。
「腑抜けた奴だな。そんなんで俺を殺せンのかよ」
「……え?」
「俺を、殺しに来たんだろ」
奏澄を射抜く瞳に、殺意は無い。奏澄はただ戸惑うしかなかった。
「だ……って。マリアさんを、探すんじゃ」
「聞いてたんだろ。なら、わかるな。俺は了承してない」
「そんな……!」
愕然とした奏澄に、フランツは溜息を吐いた。
「生まれ直してまで、悪魔に会いたい女なんかいるかよ。魂は同じでも、転生したら別人だ。好き好んで悪党に関わりたいわけねェだろ」
「……マリアさんの、ためですか」
奏澄の言葉に、フランツは図星をつかれたかのように顔を歪めた。
この人の言葉が、素直であるはずがない。彼女が、新しい人生を健やかに歩めるように。清らかで、明るいものであるように。自分などが関わらなければいいと、思っているのだ。
「それは、見過ごせません。私は、確かにお二人の約束を見ていました。だから、あなたには、約束を守ってもらわないと」
「物事の優先順位がわからないほど馬鹿なのか? お前は何をしにここに来た」
「それ、は」
「俺を殺さないと、世界はこのまま滅びるぜ。地は腐り、魔物が跋扈して、人間は全部喰われる」
「っやめてください!」
「だから、止めてみせろよ」
フランツは奏澄の手を掴んで、自らの胸に当てた。
「ここだ。ここをその忌々しい神の剣で貫けば、俺は消滅する」
「しょう……めつ……って、魂、は」
「壊れるだろうな。そもそも、神器はそのためにある。マリアが刺した時に残ったのは、失敗したんだとばかり思ってたが……今思えば、マリアが守ったんだろ」
「それは、私にも」
「お前にそんな力があるかよ。マリアは神の眷属になってたからできたんだ」
「でも、だって、そうだ、マリアさんと同じように、輪廻に還ることは」
「無理だ。いい加減腹括れ」
鋭く言葉を切られて、奏澄は震えた。その瞳の奥に、見えるものがある。
「……あなたは。死にたいんですか」
「……かもな」
吐き捨てるように言って、フランツはぐしゃりと髪をかき混ぜた。
「もう、終わりにしたい。疲れた。マリアは俺を愛してくれた。もう、それだけでいい。それだけ抱えて、眠りたい」
奏澄は、フランツのことをほとんど知らない。この人に、かける言葉が見当たらない。マリアの意志には背くことになる。けれど、それがフランツの望みなら。
討たなければならない。そのために来た。仲間の自由がかかっている。フランツの望みと奏澄の望みは合致する。
悪だと思っていた。絶対的な悪だと。だから、討伐は正義の行いだと。
行いは返る。誰に対しても悪逆非道を貫いてきたのなら、報復されるのは道理だ。
けれど。彼の行いが、誰かを救っていたのなら。誰かに愛されるほどの何かが、あったのなら。
フランツという存在は。
「迷うな」
固めた決意がぐらぐらと揺らぐ奏澄を、フランツが一喝した。
「ここで起きたことは全て忘れろ。一切口外するな。俺は悪魔だ。かつて世界を恐怖に陥れ、今また滅ぼそうとしている。世界の敵だ。それ以外に、何も知る必要はない」
「で、も」
「これ以上ぐだぐだ抜かすなら、無理やり弦で操るぜ。神器は俺には使えない。お前がやるしかない。迷ってる間に、どんどん人が死んでくぜ」
止められないのか。この地獄は。フランツを、殺すことでしか。
問答している暇は無い。マリアですら止められなかったのに、奏澄の言葉が響くとは思えない。これしか。これしか、ないのか。
震える手で剣を鞘から抜く。煌めく刃に、目が潰れそうだ。
「外すなよ」
口角を上げたフランツを、涙で歪む視界で見る。ぎゅっと目を閉じて、涙を払った。歪んだままでは、狙いが逸れる。無駄に苦しませるわけにはいかない。
「また、会いましょう」
そう言って、奏澄は切っ先を思い切りフランツの胸へ突き立てた。
神の剣は不思議なほどに易々と刺さり、悪魔の胸を貫いた。
生温かい血が流れ出して、悪魔でも血は赤いのか、などと場違いなことを思った。
即死だった。苦しまずに、逝けたと思う。
殺して、わかった。彼はおそらく、元々弱っていた。一度死んでいるからなのか、核とやらが傷ついていたからなのか。詳しいことはわからないが、世界に起こした大混乱は、彼の最後の魔力だったのだろう。推測でしかないが、あのままでも、長引かせることはできなかったのではないだろうか。
体が形を失って、さらさらと灰になっていく。指先から抜け落ちた黒い指輪が、ぶつかってカラカラと音を立てた。
そうだ、首を。持って帰らなくては。
ぼんやりした頭で、そう思った。肉体が全て消滅してしまうのでは、殺した証明が無くなってしまう。切り離したら、残らないだろうか。
首に刃を切りこませると、まるで果物でも切るかのようにストン、と首が落ちた。切り離された首は灰になることはなく、切り口から流れた血もすぐに止まった。
その首を抱いて、呆然と肉体が灰になっていくのを見ていた。いつの間に夜が明けたのか、周囲が薄ぼんやりと明るくなっている。木々の間から淡い光が漏れ、巻き上がる灰に反射した。
細かな粒が風で流されていく中、小さな光が浮き上がるのが見えた。それはふわりと舞って、そのままでは空へと飛ばされてしまいそうだった。
――いけない。
何故、そう思ったのか。衝動的な行動だった。その光を捕まえて、口に含んで、飲み込んだ。
「――――……!」
全身に痛みが走った。それでも、吐き出す気にはなれなかった。
これが、なんなのか。わからない。わからないけれど、出てくるな、と口を押さえて、体を丸めた。
暫くすると痛みも落ちついてきた。息を切らせて、脂汗を浮かべながらも、奏澄は立ち上がった。
帰らなければ。船へ。待つ人のいる場所へ。
僅かに痕跡は残しながらも、油のようなものはすっかり引いていた。地面は土で、見える範囲には魔物の姿も無い。一人でも、進める。
ちかりと光った指輪を目にして、迷った末、奏澄はフランツの指輪を拾って、ポケットに押し込んだ。
そして震える足を引きずるようにして、森の中を歩き続けた。
*~*~*
歩き続けて、どれだけたったか。時間の感覚は無かったが、ひたすらに足を動かした。そうしていると開けた場所に出て、遠目に船が見えた。ああ、コバルト号だ、と思った瞬間、体から力が抜けた。
駄目だ。歩かなくては。見えているのに。あと少しなのに。
「カスミ!!」
首を抱えて座り込む奏澄の耳に、切羽詰まったような声が聞こえた。
緩慢に頭を持ち上げれば、こちらに駆け寄ってくる人影が見えた。
「――ぁ……」
小さく、喉の奥から引き攣った音が出た。
愛しい人が、駆けてくる。叫んで、縋ってしまいたいのに、声が出ない。足が動かない。ただ、涙だけが溢れた。
「どうした!?」
息を切らせたメイズが、膝をついて、奏澄の体に触れる。怪我が無いかどうかを確かめているようだった。
そして、奏澄が大切そうに抱えている首を見て、一瞬沈黙した。これを見れば、悪魔を討ち取ったことはわかっただろう。
奏澄の頭を引き寄せて、宥めるように背中を叩く。
「よく、頑張ったな」
違う。その言葉は、口にできなかった。
メイズは多分、奏澄が人を殺した重責に耐え切れずに泣いているのだと思っているのだ。
違う。そうじゃない。けれど、あの場でのことを口にするのは、フランツとマリアの約束を汚すことになる。
何も言えない。あの二人のことは。生涯、奏澄だけが抱えるしかない。
遅れてやってきた仲間たちにも宥められながら、それでも奏澄は一言も発さずに、ひたすら泣いた。
太陽の光は眩いほどで。夜は完全に、その姿を消していた。
*~*~*
フランツの首を手放そうとしない奏澄から仲間たちが何とか取り上げて、輸送のための箱にしまった。腐敗を少しでも遅らせるため、黒の海域の奥深くで取れる大きな氷も用意されていたが、その首は何故か生きているかのように瑞々しいままだった。
奏澄はすっかり憔悴しており、事情が聞ける状態ではなかった。共闘した玄武は詳細を気にしていたが、魔物発生の混乱で各地はまだ後処理に慌ただしい。青の海域に戻らねばならないと、説明は後日に回された。
首を届けるため、コバルト号はセントラルへ向かって航海を進めた。奏澄は部屋に籠って、ベッドで寝たきりだった。食事もほとんど取らず、ろくに眠れていなかった。メイズのことも拒絶しており、あの日から一度も、メイズは奏澄と共に寝ていない。
それでも何とか様子を見るに留めているのは、船医であるハリソンが、毎日奏澄の体調を見ているからだった。最低限健康が大きく損なわれていなければ、心の方は時間をかけるしかない。
「カスミさん。入りますよ」
丁寧なノックの後、静かに扉を開けてハリソンが入室する。机に置かれたままの食事を見て、彼は顔を顰めた。
「また、食べてないんですか。少しずつでも、食べる量を増やさないと」
「……ごめんなさい」
消沈した様子の奏澄に、ハリソンは溜息を吐いた。これでも少しは口にするようになったが、全然足りない。何がそれほど彼女を追い詰めているのか。それを、彼女は決して口にしないだろう。恋人にすら何も言わないのだ。聞けるとは思わないが、少しでも気力を取り戻してもらわなければ。
「……これを今のあなたに言うのは、負担を増やすだろうと黙っていたのですが」
重々しい口ぶりに、奏澄は緩慢に首を傾げた。
「あなたは――……」
続けて告げられた言葉に、大きく目を見開いた。
セントラルに着くと、奏澄たちはすぐにオリヴィアに会うための手続きをした。セントラルもまだ随分と慌ただしいようだったが、奏澄たちの件は話が通っていたのか、すぐに処理された。
前回と同じく、オリヴィアとは城で謁見することになった。レオナルドが、そこにいるからだろう。
奏澄はすっかり気力を取り戻していた。それでも、あの日何があったのかは、頑として口を割らなかった。ただ、悪魔は討ち取ったのだと。奏澄がそれほどまでに言いたくないのならと、仲間たちもそれ以上の追及はしなかった。
奏澄、メイズ、マリー、ライアー。フランツの首が入った箱を持ち、四人は円卓の間で待機していた。
通されてからそれほど待たずして、部屋の扉が開いた。
「……! レオ……!」
最初に入ってきたのは、レオナルドだった。特に拘束もされておらず、顔色も悪くない。
「よ。久しぶり、カスミ」
軽い調子で手を上げた彼に、感極まった奏澄は、涙を滲ませてレオナルドを抱き締めた。
「約束通り、迎えに来たよ……!」
「ああ。ありがとうな」
優しい声で言って、頭を撫でる。変わらない彼の様子に、奏澄は安心して、力が抜けた。
「もういいかしら」
「あっは、はい!」
唐突にかけられた声に驚いて、奏澄は肩を跳ねさせた。
唐突だと感じたのは奏澄がすっかりレオナルドに意識を集中していたからで、オリヴィアは最初からいたのだが。
「見ての通り、人質は無事よ。これで、信用してもらえたかしら」
「はい、ありがとうございます。では、こちらからも」
席に着いたオリヴィアに、フランツの首が入った箱を差し出す。同時に、借りていた神器も剣帯と共に返却した。それをちらりと見たオリヴィアが、
「コンパスはどうしたの?」
「あれは、悪魔に壊されてしまって」
「……そう。それは残念ね」
その言葉を信じたのかどうかはわからないが、それ以上追及されることは無かった。オリヴィアは箱の中身を検めて、納得したように頷いた。
「確かに、受け取ったわ」
「あの。その首は、どうするんですか」
「そうね。悪魔の首だもの。あれだけの騒ぎがあったし、暫く晒し首かしら」
奏澄が卓の下で、拳を握りしめた。
「お願いがあります。その首は、はぐれものの島に通ずるあの洞窟に……女神マリアのレリーフがあったあの場所に、沈めていただけませんか」
「どうして?」
「それは、悪魔の首です。確かに切断しましたが、女神の加護下に置いておいた方が、今後も安全だと思います」
「……それは、女神と同じはぐれ者の勘か何か?」
「そう思っていただいて構いません」
こんなものは、口から出まかせだ。それでも、なんとか、フランツをマリアの傍に置きたかった。例えそれが偶像でも。どちらの魂も、そこには無いのだとしても。
彼の首が晒されて。民衆の憎悪の対象になることは、奏澄には耐えられなかった。
「それは最初の取引とは別のお願いね。なら、こちらからも条件をいいかしら」
「どうぞ」
「あなた、英雄になる気はない?」
問われた言葉が突飛すぎて、奏澄は目を丸くした。仲間たちも、驚きに言葉が出ないようだった。
「それは、どういう」
「セントラルの建国神話は、読んだことがあるかしら」
「え、ええ、一応」
「あなたは今、女神マリアと同じ立場にあるわ」
「え……?」
ついていけない奏澄に、噛み砕くようにして説明を続けるオリヴィア。
「かつて世界を蹂躙した悪魔は、神の僕である女神マリアの手によって打ち倒された。そして今、再び蘇った悪魔をセントラルの指示によって、女神と同じはぐれ者であるあなたが、打ち取った。世界の平和を勝ち取ったのはあなたよ。国から恩賞を与えて、然るべき地位に据えてもいいわ」
「そうやってこいつを生贄に仕立て上げて、セントラルを信仰させるための道具にするわけか。ろくでもないな」
怒気を孕んだメイズに少しも怯むことなく、オリヴィアは微笑んだ。
「あら、いけない? 女神の再臨なんて、民衆は喜ぶわよ。いいじゃない。人のためになるし、海賊なんかやらなくても、この先一生贅沢ができるわ。悪い話じゃないはずよ」
「お断りします」
きっぱりと言い切った奏澄に、オリヴィアは笑みを消した。
「私は女神ではありません。今回のことは……必要があったから、したまでです。それに、首を落としたのは私でも、その前に多くの人の力を借りています。私の功績ではありません」
「欲が無いのね」
「欲はありますよ。最初の取引の時に出したお願いは、叶えてもらいます」
「ああ……白虎のことね」
どことなく苦々しい顔で、オリヴィアはその名を口にした。
そのことに、奏澄は内心首を傾げた。
「白虎の仲間は解放されるわ。王家から恩赦が与えられることになったから」
「恩赦……?」
「どうせわかることだから言っておくけれど。今回悪魔が起こした騒動は、想定を遥かに越えていて、セントラルだけでは対処しきれなかった。各地での鎮圧には、四大海賊とその傘下が多大に貢献したそうよ。民衆からの声も大きくて、無視するわけにもいかず、王家は現在監獄島にいる四大海賊の関係者には恩赦を与えて、釈放することになったの」
「釈放……!」
奏澄は思わず歓喜の声を上げた。それでは。奏澄をはぐれものの島へ送るために捕らえられた白虎の仲間たちは、皆解放されるのだ。
ハリソンに良い報告ができる、と奏澄は笑みを浮かべた。
「それだけじゃないわ。大規模災害が起こった時には、セントラルだけでは目が届かないんじゃないか、という話が出て、四大海賊との同盟関係を口にする者までいるそうよ。冗談じゃないけれど、あなたにとってはいい話なのかもしれないわね。そういう力関係を、望んでいたんでしょう?」
皮肉めいた言い回しに、奏澄は思わず怯んだ。確かに、そのような話はした。一強よりも、バランスを取った方がいいと。それでも、こんな急激な変化を望んだわけではなかったのだが。
「なんだかあなたの思い通りに事が進んでいるようで癪だから、悪魔討伐の手柄は私が貰って構わないかしら。英雄になる気はないんでしょう?」
「はい。それは、構いませんが」
「なら、悪魔を討伐したのはあくまでセントラルということにさせてもらうわ。神の国の権威を失うわけにはいかないのよ」
首の入った箱を持って席を立ったオリヴィアに、奏澄も思わず立ち上がった。
「あ、あの!」
「この首は、ちゃんとあの洞窟に沈めておくわ」
「……っ、ありがとう、ございます……!」
深く頭を下げた奏澄を一瞥して、オリヴィアは部屋を出ていった。
レオナルドを加えて五人になった奏澄たちは、報告のためコバルト号へと戻る道を歩いていた。
「なんか凄いことになってたみたいだな。後で話ゆっくり聞かせてくれよ」
「うん。話したいこと、たくさんあるよ」
「悪魔かぁ。ちょっと、見てみたかった気もするな」
「うーん。会わなくて、良かったんじゃないかな?」
何も知らないレオナルドを、ライアーとマリーははらはらと見ていた。奏澄はフランツのことを全く語らない。しかし、うっかりレオナルドが聞き出せたりしないだろうか、という期待もあるのだろう。
「けど、その悪魔ってメイズの上司だったんだろ。やっぱちょっと似てたりすんの」
その言葉に、奏澄は立ち止まった。
「カスミ?」
レオナルドはきょとんとしていたが、マリーとライアーは地雷を踏み抜いたのでは、と戦々恐々としていた。
「似てない。全然、全く、ちっとも似てない」
「え、あ、ああ。悪かったって」
涙声になった奏澄に、レオナルドは焦ったように謝った。何が地雷だったのか、とメイズを窺うように視線をやったが、メイズは首を振るだけだった。
似ていた。フランツとメイズは。そして、マリアと奏澄は。二人の関係性は、よく似ていた。
違う世界の人を愛したこと。愛した人が、悪党と呼ばれる人だったこと。互いが、互いの半身であったこと。
運命を分けたのは、そこに神の手が入ったかどうかだ。神が、マリアを操らなければ。マリアがあのまま、フランツの心を解いていたなら。二人で生きられる未来は、あったんじゃないだろうか。フランツが悪魔と呼ばれずに、ひっそりと生きられるような未来が。
考えても仕方ない、もしもの話。けれど、思ってしまう。絶対的な悪など、果たして存在するのかと。誰もが恐れた大悪党でさえ、誰かの愛しい人だったのだ。それを、手にかけた。
メイズと生きたいがために、言葉を尽くした。自分を正当化するような言葉を使った。けれど、結局は。自分の願いを叶えるために、他人を踏みつけにして生きている。
そうでなければ生きられない。そうでなければ守れない。その覚悟を。
顔を上げた奏澄の瞳に、涙はなかった。