青の海域を北へ北へと進んでいくと、だんだんと寒さを感じるようになってきた。今まで訪れた場所は温暖な地が多かったので、薄着でいた奏澄は肩を震わせた。
「次の島で服を買うか」
「メイズ」
奏澄の肩を抱いたメイズも、上はシャツしか着ていない。彼はまだ寒さを感じるほどではないようだが、この先もっと寒くなるなら上着が必要だろう。
「北の方ってどのくらい寒くなるの?」
「黒の海域まで行けば、雪が降る程度には」
「えっ!? 雪降るんだ!?」
奏澄は驚きの声を上げた。なんとなく、雪という気象が存在しない気がしていたのだ。
土地で言えば、セントラルがある場所も南極にあたる。気象条件を考えれば極寒のはずなのだが、あそこはかつての神の領地なので気候が安定しているらしい。セントラルが世界の中心であるため、そこから一番離れた果ての地、黒の海域は人には厳しい寒さが待っている。そして黒の海域に近づくと、その寒波の影響を受けるようだ。
「あーでも、それでか。なんか納得」
「何がだ?」
「メイズの格好。寒い土地出身だからなのかなって」
言われて、メイズは首を傾げた。特にそういう意識は無かったらしい。
湿地帯もある緑の海域はともかく、赤の海域ではサンダルの男性も多かった。しかしメイズは、最初からしっかりした皮のブーツだった。シャツも大きく前をはだけることなく、割と上まで留めている。あまり露出する習慣が無いのだろう。
ターバンは日射を遮ったり発汗を抑える役割のため、暑い地方での印象が強いが、実は寒さを防ぐ目的でも使用する。彼の服装は、現在の気候に合わせてはあるものの、元々寒冷地にいたと言われれば頷けるものだった。
「黒の海域に行くまでには、防寒具を揃えないとな」
「かさばるなぁ」
冬物は分厚い。化学繊維がまだ未発達なこの世界では、薄くて軽くて暖かい素材はなかなか存在しない。場所を取るが、必要なものだから仕方ない。
具体的に必要なものを考え出すと、実感する。黒の海域に、近づいているのだと。
メイズはまだ、多くを語らない。黒弦と戦うまでには、聞けるのだろうか。それとも。
青の海域、ミラノルド島。
たんぽぽ海賊団は、この島で寒冷地用の備品を買い揃えることにした。南から北へ向かう航路の途中で、黒の海域に近くなり、寒さを感じ始める位置にあるこの島は、似たような船団が多く訪れるため商店も多く賑わっている。
島へ降りるために身支度を整えた奏澄は、上甲板で待つメイズの元へ向かった。
「お待たせ。行こっか」
声をかけられたメイズは、奏澄の格好を眺めて眉を寄せた。
「置いていった方が良くないか、それ」
「え、気になる? 一応貴重品だし、いつ遭遇するかわからないし、身につけておいた方がいいかと思って」
奏澄は剣帯に下げた神器を見下ろした。剣を身につけて行動することにも慣れておきたい。鞘に入っているのだし、怪我をするようなことはないかと思うのだが。
疑問を示す奏澄に、メイズは暫く渋い顔をしていたが、やがて何か納得したのか、息を吐いた。
「まぁ、いい。持っていればわかる」
「? うん」
結局奏澄は剣を下げたまま、メイズと二人島へ降りた。
全体的な雰囲気はヴェネリーアに似ているようにも見えるが、友好的なヴェネリーアの空気とは違い、ミラノルドの方が都会的な印象だ。十分に賑わってはいるが、それは楽しんでいるというより、繁盛している、という言葉が似合う。
人や物がごみごみしており、気をつけて目をやると、建物と建物の隙間、裏路地などに、堅気ではなさそうな人が立っていたりもする。
これは気づかない方がいいやつだ、と奏澄はきょろきょろするのを止めた。
服屋で適当に冬服や小物を見繕い、それから分厚い黒のオーバーコートを探した。試しに羽織った奏澄を見たメイズは、まじまじと眺めて。
「お前黒似合わないな」
「知ってる。もうちょっと明るい色がいいなぁ」
「夜に紛れるから黒の方がいい。雪に紛れるなら白があってもいいが……積もる場所で行動することはあまりないだろ」
「白は白で汚れが目立つから嫌だなぁ」
注文が多い、とメイズは溜息を吐いた。ただの軽口だということはわかっているので、注意をしたりはしないが。
「メイズは黒似合うよね」
「そうか?」
同じようにコートを羽織ったメイズを、奏澄はじっと見た。
惚れた欲目かもしれないが、黒の面積が多いと凛々しさが増す気がする。
「カメラほしい……」
「くだらないことを考えているのはわかった」
呆れたように言って、メイズはコートを脱いだ。
同じように奏澄も脱ごうとして、かつりと剣に手が当たる。
「これ剣はコートの内側? 外側?」
「使う状況になったら外側だが……お前は、暫く内側で隠しておいた方がいいんじゃないか」
「島に降りる時も言ってたね。まぁ、ちょっと目立つよねこれ」
島に降りてから、ちらちらと視線は感じていた。真っ白な剣などそうそうないから、物珍しいのかもしれない。人から注目されるくらいなら、確かに隠した方がいいだろう。
もっと寒くなったらそうしよう、と思いつつ、この島はコートを着るほどの寒さではない。購入したコートは抱えて、荷物を置きに船に戻ろうと雑踏を歩き出す。
暫く歩いたところで、メイズが急に視線を鋭くした。
「メイズ? どうし――」
最後まで言い切らない内に発砲音が響き、呻き声がした。
驚いて奏澄が振り返ると、一人の男が血の流れる手を押さえていた。にわかに周囲がどよめく。
「え……え?」
何が起こったのかさっぱりわからない奏澄は、間の抜けた声を漏らすしかなかった。
「行くぞ」
すたすたと歩き出すメイズに、動揺したまま慌てて付いていく。
「ねぇ、今……なに? メイズ、撃った?」
「あいつはスリだ」
「スリ……?」
「お前のそれ」
メイズが視線で示したのは、奏澄が下げている剣だった。財布でも荷物でもなく、剣? と奏澄は戸惑った。
「見るからに高そうだろ。そりゃこうなる」
言われて、奏澄は息を呑んだ。剣は武器である、という意識が強すぎた。
この神器は、見た目は儀礼用の剣だ。純白の鞘、細かな金の装飾。それは値打ちものに見えるだろう。この剣の真の価値など知らなくとも、売り払ったらそれなりに高値がつく。そんなものを、腑抜けた顔の女が呑気に腰に下げて歩いているのだ。簡単に盗めると思うだろう。
今更ながら、メイズが気にしていた理由がわかって、奏澄は青ざめた。
「でも、物取りくらいで何も撃つこと」
「手でも掴んで、優しく諭してやれば良かったか? そうすれば次は全部持っていかれるぞ。この島には数日滞在するし、見せしめにちょうどいい」
「ちょうど、いい……って……」
奏澄は口を噤んだ。メイズの言う全部とは、おそらく所持品だけを指しているのではない。なめられたら終わりだ。むしろ手を撃ったのは、奏澄に気づかったのかもしれない。
「治安、悪くなるって聞いてたけど、こんなの」
「こんなもんじゃないぞ。確率が上がっただけで、スリくらいならどこにでもいる。この先は、もっとやばいのがごろごろいる。近づいてくる人間は全員警戒しろ。口にするものもな」
奏澄は暗い顔で唇を引き結んだ。しかし、ぎゅっと強く目を閉じて、開くと同時に顔を上げた。この程度で、俯くわけにはいかない。
奏澄がこれから相手にするのは、こんなちんけなチンピラごときではない。悪と呼ばれる存在を、奏澄の手で、葬らないといけないのだ。
その覚悟は、事前に固めておかなければ。
奏澄は剣の柄を、強く握り込んだ。
玄武との再会は、思ったよりも早かった。
ミラノルド島から更に北へと進み、オーバーコートも必要な気温になってきた頃。玄武が滞在しているという噂を聞き、たんぽぽ海賊団はパラ―ルト島に船を寄せた。
「キッドさん!」
島の酒場で、見覚えのある水色を見つけて奏澄は声をかけた。
「おお! なんだ、嬢ちゃんじゃねぇか」
玄武海賊団の船長、キッドは以前会った時よりも厚着だったが、以前と変わらぬ少年のような顔で笑った。同じテーブルにはロバートが座っていたが、彼は目線で挨拶をしただけだった。
島にブルー・ノーツ号が泊まっているのを確認し、まずは船長に挨拶をとキッドを探して、奏澄はメイズと二人で酒場に来ていた。
玄武は人数が多いせいか、酒場はほとんど貸し切り状態で、中にいるのは玄武の乗組員だけのようだった。奏澄たちが入れたのだから他の客を追い出すようなことはしていないのだろうが、あえてこの中に入ろうという者もいないのだろう。
「久しぶりだなぁ。元気してたか?」
「ええ、おかげさまで」
「なんだ社交辞令が言えるようになったか。ツンケンしてたのも面白かったのに」
「……忘れてくださいよ」
奏澄はきまりが悪そうに視線を逸らした。あの時の態度を後悔しているわけではないが、今回は頼み事に来ているのだ。失礼な振る舞いをするわけにはいかない。
その様子を見て、キッドは笑いを零した。
「オマエも変わりない……いや、変わったか」
キッドはメイズに視線をやると、まじまじと眺めてからそう呟いた。
キッドからそう言われる覚えはないのか、メイズは怪訝そうに片眉を上げた。
「なんだオマエらくっついたのか。おめでとさん」
からっと笑って、キッドは酒の入ったジョッキを掲げた。
驚いたのは言われたメイズより、奏澄の方だった。いったいどこを見てその判断を下したのだろうか。キッドに挨拶に来たのだから、当然場を弁えない振る舞いはしていないはずなのだが。
「なんでそう思ったんですか?」
別に悪いということも無いが、見るからにそれとわかるようなら恥ずかしいので知っておきたい。場合によっては直したい。どことなく苦い顔で訊く奏澄に、キッドは目を瞬かせた後、にやーっと意地の悪い笑みを浮かべた。
「教えねー」
その態度に、思わず奏澄はいらっとした。四大海賊の船長はどの人物も尊敬に足る人物で、貫禄もある。だというのに、何故だかキッドに対してだけは、こういう気安い感情が湧く。普通なら立場のある人物にからかわれたからといって、困惑はするかもしれないが、いらっとする、なんてことはないだろう。
まるで同等の立場にあるような錯覚を覚える。だからこそ、奏澄は前回キッドに対してツンケンした態度が取れたのかもしれない。無意識に、それが許されると思ったのだ。
面子が大事な海賊にとって、嘗められるというのは大変な侮辱行為だ。それだけで、首を飛ばされる可能性もある。それをしない、と思ったから、奏澄は不機嫌を隠すことなく拗ねてみせた。凄めばとても恐い人物だと知っているのに、話すとそれを忘れてしまう。それは彼の人柄なのかもしれないし、もしかすると意図的な振る舞いなのかもしれない。
「まぁ座れよ」
椅子を勧められて、奏澄とメイズはキッド同じテーブルに着いた。
「嬢ちゃんも飲むか?」
「いえ、今日は真面目な話をしに来たので。お酒は」
「ほう」
言って、キッドは目を眇めた。わざわざ玄武を尋ねて来たのだから、それなりの用事だということは予想しているだろう。
キッドにじっと見据えられて、奏澄は小さく深呼吸をして話を切り出した。
「黒弦海賊団を討つための、共闘をお願いしに参りました」
その名を出した途端、空気が張り詰めた。玄武の乗組員たちが騒めく。ロバートは黙ったままだが、真意を測るように奏澄から視線を逸らさなかった。
「そりゃまた、急な話だな。わざわざ自分の古巣を潰そうだなんて、どういう腹積もりだ? 過去の汚点を無かったことにでもしたくなったか」
からかうような口調で投げかけるキッドに、メイズは黙した。今話しているのは自分だ、と主張するように、奏澄は先ほどより大きな声を張った。
「セントラルにレオが捕らえられています。彼を解放するのに、黒弦の船長――フランツを殺さなくてはなりません」
キッドも面識のあるレオナルドの名が出たこと。彼が囚われの身であること。そして何より、およそ奏澄の口からは出そうにない『殺す』という強い言葉に、キッドは目を丸くした。しかし奏澄の様子から、冗談の類でないことは察したのだろう。真剣な顔つきで口を開いた。
「――どういうことだ?」
話を聞く体勢と見て、奏澄はセントラルでの出来事を説明するのだった。
「……なるほど、な。その状況なら、確かにオレたちに共闘を持ちかけるのは納得だ。前に嬢ちゃんには、黒弦を潰す気があると言ってあったしな」
言いながら、キッドは考えるように顎をさすった。
「ただ、その話には一つ大きな懸念がある」
「なんですか?」
「嬢ちゃんは、人を殺せるのか?」
真っすぐに射抜くキッドの視線に、奏澄は逃げ出したい気持ちに駆られた。
それをこらえて、睨むように力を込めてキッドを見返す。
「人ではありません。相手は悪魔ですから」
「悪魔だろうとなんだろうと、人の形をした生物だぞ。話を聞く限りじゃ、オレたちがどれだけ力を尽くしたところで、とどめは嬢ちゃんしか刺せないんだろう。それができないなら、前提が全て崩れる」
「できます」
食い気味に言い切った奏澄に、視線が集まった。
できる。それが正義なら。
人を殺すのは悪だ。そうだと法で定められている。そうだと倫理を教え込まれる。
しかしそれが逆転する時がある。
戦争だ。
戦時は、人を殺すことが正義だと説かれる。あれは一種の洗脳なのだ。そしてそれは、平時でもやろうと思えばできることである。
顕著なのが、加害者への私刑だ。相手に罪がある時、人はそれを糾弾する自分を正義だと思い込む。正義の暴力は心地良い。酒よりも容易く自分を酔わせてくれる。大義名分がある。同調する仲間がいる。そこに罪悪感などは存在しない。正義ほど人を簡単に暴力へ走らせるものもない。自分が正しいと思った時、人はどこまでも残酷になれる。
人は心を騙す手段をいくつも持っている。
ある刑務官は言った。死刑執行は、ゲームと同じなのだと。
死刑執行時は、誰が実際に殺したのかを判別できないよう、複数あるボタンを一斉に押す。どれが作動したのかはわからない。そうすることで、手を下した罪悪感を軽くさせる。
相手は罪人だ。正義は刑務官にある。死刑の執行はただの仕事だ。それでも心を病む人がいるから、考えられたシステムだ。
奏澄はこの刑務官の言葉を聞いた時、眉を顰めた。人の死をゲームだとは、なんという言い草かと。
しかしそれなりに人と交流を重ねれば思い至る。あれは、心も守る術なのだということが。
人の命を奪う刑務官。人の命を握る医者。人の人生を左右する教師。誰かに強く影響を与える、あるいは誰かに深く踏み込む職業の人たちは、ひどく冷たく感じることがある。あれは、そうでなければ自分が壊れてしまうからだ。全ての感情をまともに受け取っていたら狂ってしまう。全ての人に正面から向き合っていたら潰れてしまう。
だから、心を殺す。それは無にして鈍感にすることだったり、最低限の関りにして距離を取ったり、ゲームなどと設定を作ってわざと事象を軽いものと思いこませたり。方法は様々だが、皆それぞれに脳を騙し、心を騙し、自分を騙して職務に励んでいる。
そしてそれは、奏澄にもできる。心を殺し、感情を鈍らせ、自分を騙すことが。
できると知っている。
だから問題は無い。悪魔は大罪人だ。誰もが彼を悪だと断じている。悪魔を排除することに異を唱える者はいない。
世界にとって必要なことであり、仲間を救うために必要なことだ。奏澄にしかできないことなのだから、奏澄がやらなくてはならない。大義名分は十分だ。これは正義の行いだ。
だからできる。
「――できます」
静かに、しかし強い決意でもって繰り返した奏澄に、メイズは息を呑んだ。
その瞳を正面から見ていたキッドは、舌打ちでもしそうな顔で小さく零した。
「今度は嬢ちゃんが危ういのかよ」
その言葉が聞き取れず、難しい顔をするキッドを見て、奏澄は首を傾げた。
複雑そうな表情で髪をかき混ぜたキッドは、大きく息を吐いて、表情を切り替えた。
「目的は同じだ。オレたちじゃフランツを討ち取れないとわかった今、嬢ちゃんが協力してくれるんなら玄武としても願ってもない。ただ、共闘という形をとるなら、お互いの信頼関係が必要だ。命を預けるわけだからな。それは、わかるな?」
「……はい」
玄武の言い分はもっともだ。元は敵対関係にあったメイズ。たんぽぽ海賊団の乗組員も、一度は敵対視して戦闘になりかけている。互いに背中を預けるのなら、何か信頼の証を要求されるだろうことは覚悟している。あの白虎でさえ、船医を貸し出すのに担保を必要としたのだ。
緊張しながら次の言葉を待っていると、キッドはメイズに視線を向けた。
「メイズ。お前、どうして黒弦を抜けた」
突然水を向けられたメイズは瞠目した。そして少し逡巡して、口を開く。
「船長と、意見が対立した」
「あの船は長かっただろ。なんで急に船長に逆らう気になった。何があった?」
嘘を許さないキッドの瞳に、メイズは視線を逸らして押し黙った。最低限は答えたが、詳細は語りたくないのだろう。
はらはらしながら二人を見守っていると、今度は奏澄に問いかける。
「嬢ちゃんは、何があったか聞いてるか?」
「いえ、私も、詳しくは」
「そうか。だろうな、そういう感じだ」
どういう感じなのか、と奏澄が戸惑っていると、キッドは厳しい目でメイズを見やった。
「答える気が無いなら、オレたちにまで全部を語れとは言わねぇ。ただ、嬢ちゃんには話せ。お前がどうして黒弦にいたか、あそこで何をしていたか、そして何故離れることになったのか」
「キッドさん、それは」
「オレだって、船長が何もかもを知っている必要があるとは思わねぇよ。恋人でもだ。ただ、こと今回に限っては、必要なことだと思うぜ。なんせフランツを殺すなら、もう二度と向こうから話を聞くことはないんだからな」
そうだ。奏澄は、ずしりと肩が重くなった気がした。
殺すということは、相手の口を塞ぐということだ。二度と、何も語られることはない。争いでは、双方の言い分を聞くのが定石だ。なのに、双方どころか片方の言い分すら聞くことなく、人物像だけで悪を断罪しようとしている。
しかし、それこそが今回の討伐に必要なことだ。奏澄はメイズを信じている。何が語られても、それが揺らぐことはない。例えフランツの側に何らかの言い分があったとしても、悪魔と話し合いができるとは思わないし、下手に会話などしようものなら、相手が人間であるかのように錯覚してしまう。それは駄目だ。決意が鈍る。
何も聞かなくていい。何も知らなくていい。ずっと、そう思ってきた。メイズが知られたくないのなら。
けれど、これは一つの転機なのかもしれない。きっと、今、必要なこと。
「嬢ちゃんが話を聞いた上で、オレたちがメイズと肩を並べて戦えると信じられるなら、その時はもう一度声をかけてくれ。暫くはこの島に留まる」
「……わかり、ました」
席を立ち、頭を下げて、奏澄はメイズと酒場を出た。
宿までの道は、二人とも終始無言だった。
宿屋の一室にて。
思い詰めた様子で口を閉ざすメイズに、奏澄は何と声をかけて良いのかわからなかった。彼がそれほどまでに語りたくないと言うのなら、無理に聞き出すようなことはしたくない。しかし、それでは玄武の協力は得られない。話を聞いた、などという嘘は、キッドには通用しないだろう。
「メイズ」
奏澄はできるだけ穏やかに声をかけて、ベッドに腰かけたメイズの隣に寄り添った。
「今すぐじゃなくてもいいから。とりあえず、今日はもう休んだら?」
キッドは暫くこの島に滞在すると言った。一日二日で決着しないことは想定の範囲内だろう。メイズにも、心の準備をする時間が必要なはずだ。
「いや」
しかしメイズは、奏澄の気遣いを拒否して、強く拳を握った。
「無駄に使える時間は無い。どうせ話すのなら、今日話しても明日話しても同じことだ」
結果的にはそうかもしれないが、それは感情を無視した話だ。それでも、こうと決めたら覆さないだろう。せめて少しでも気持ちが軽くなるようにと、奏澄はメイズの拳に手を重ねた。
「途中で辛くなったら、やめていいからね」
微笑んでみせた奏澄に、メイズは力無い笑みを返した。
「どこから、話せばいいか。……そうだな、生まれは、黒の海域だ」
遠い目をして、ぽつりぽつりと、記憶を辿る。
寒い土地だった。よく雪が降った。
そもそも、黒の海域は人の居住区域として整えられていない。ろくに作物もならない。ここは、悪魔を封じた最果ての地だから。
神の血を引く王族を中心に、位の高い者たちは白の海域に。それ以外の者たちは、赤・緑・青・金の海域に。では何故、黒の海域に人がいるのか。
それは、他の海域に住めなかった者たちだ。土地を追われた者、罪人、人の理の中で生きられなかった者。それらが寄り集まって、あるいは奪い合って、好きに生きている。吹き溜まりのような場所だ。
メイズの母親は娼婦だった。父親の顔は知らないが、どこぞの海賊だろうということだった。大して興味も無かったのだろう、それは幸いした。でなければ、母親にほとんど似ていない、おそらく父親似だと思われるメイズは、憎悪の対象となったかもしれない。
暴力を振るうほど、母親はメイズに関心が無かった。望まれて生まれた子ではない。堕ろすのに失敗したから生まれてしまっただけだ。それでも育てば何かの役に立つと思ったのか、母親の気まぐれと強運によって、メイズは生き延びた。
しかし母親には運が無かった。ある時、暴れ回る賊の手によって、母親は殺された。メイズの目の前で。
そしてその賊は、メイズを連れ去った。僅か三歳のことである。
メイズはそれから十年以上もの間、ひたすらに賊に使役されるだけの日々を送ることとなる。
ただの雑用でも、それだけ長くいれば、組織の中でも立ち位置ができてくる。役割が与えられる。大人よりも子どもに対して警戒が薄れるのは、悪党といえども同じこと。それはもちろん良心などではなく、侮りという意味だ。盗みも殺しも得意だったメイズは、それなりに重宝がられた。もはやその頃には、自分は一生こうして生きていくのだろうと思っていた。
ところが、十五歳の時。組織の失態を押しつけられる形で、メイズは役人に引き渡された。ろくに司法など機能しない黒の海域にも、役人はいる。いるが、この場合は正当に罪を裁くために捕らわれたのではない。ただの見せしめだった。
裏切られた、と思ったのは一瞬だった。組織は仲間を守らない。そもそも、仲間などというものは存在しない。ただの手駒だ。それを知っていたから、助けなど期待しなかった。役人から奪った武器でめちゃくちゃに暴れて、命からがらメイズは逃げ出した。
そこからは一人で生きた。他人とつるむようなことは、例え一度きりの仕事だとしてもしなかった。
すっかり体に馴染んでしまったので、殺しや盗みをすることで食いつないだ。どうせ働こうなどと思ったところで、黒の海域にまともな仕事など存在しない。
土地に生産性が無く、交易もほとんど無い黒の海域では、よそからの略奪が中心だ。海賊が他の海域から奪ってきたもの、ギルドや軍の支部に運び込まれる物資。他から取り込んだ物を、更に内部で奪い合う。こんな土地で、仁義などありはしない。
殺して、奪って、犯して。生きるために生きた。特になんの感情も無かった。
そんな風にして、十年ほどたっただろうか。
――へェ、イイ目してんじゃねェか。
あの男と、出会った。
男は自分を海賊だと言った。まだ仲間はほとんどいないらしい。どうも雑事を自分ですることに慣れていないらしく、自分の手足となって動く人間が欲しいとのことだった。
なんとも自分勝手な理由に、メイズは呆れた。しかしそんな戯言が許されてしまうほどに、男は強かった。
まだ荒れていた頃のメイズは、自分の腕に自信があったこともあり、その男の喧嘩を買った。そして惨敗した。敗者に決定権は無い。二度と組織というものに属するものかと決めていたメイズだったが、已む無く男の海賊船に同乗することとなった。
その男こそが、悪魔フランツ。そして、メイズが属することになったのが、黒弦海賊団である。
※残虐表現が強めですのでご注意ください。
特に母子に関する残虐描写があります。
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フランツは異常に強かった。そして、妙な戦い方をする。両手の指全てに指輪を嵌めており、その指輪に黒い弦のようなものを収納していた。弦の切れ味は鋭く、人の首でさえも容易く落としてみせた。見たことの無い武器なのでセントラル製かと尋ねたが、そうではないらしい。同じ物を欲しがった乗組員もいたが、使いこなせないとばっさり切られ、誰も使ったことはない。
メイズは使えない武器に興味は無かったので、リボルバーを好んだ。奪って使い捨てていた頃は何でも良かったが、海賊として黒の海域から離れた場所にも出向くようになり、最新の物を含めた武器が自由に選べるようになった。単発式のマスケットと比べ、連射できるリボルバーには各段に利があった。難点は金属薬莢が限られた流通でしか入手できないことだが、あるところにはあるものだ。黒弦の名を出せば渋る者も少なく、それほど苦労はしなかった。愛用のリボルバーを二丁下げるのが定番のスタイルとなり、黒弦の名が浸透して間もなく、『二丁拳銃のメイズ』の名も浸透していった。
フランツは、人に名を呼ばれることをひどく嫌った。乗組員には、ただ船長と呼ばせた。迂闊に名を呼んだ者は殺された。人々は、通り名として彼を『悪魔』と呼んだ。言い得て妙だと、メイズは思った。
メイズも始めは名を呼ばなかったが、副船長と呼ばれ出した頃。フランツから、名を呼ぶことを許された。
――お前は俺によく似てるよ。
さすがに誰からも呼ばれなければ、自分の名すら忘れてしまうからと。副船長くらいは、良いという建前だった。本当のところはわからない。
ちなみに副船長という役職はフランツが与えたものではなく、古参として乗組員をまとめている内に事実上そうなっただけだ。しかし、メイズに実力があったこと、フランツから信頼を置かれていた(ように見えた)ことから、次第にフランツの右腕として知れ渡っていった。
メイズ自身も、フランツには似たところがあると感じていた。常に一人であること。暴力でしか意思表示ができないこと。他者を疎ましく思うこと。誰も信用していないこと。そして、おそらく。過去に、裏切りを受けていること。そういう昏さを、感じていた。
だから、この船にはきっと長くいるだろうと思っていた。もしかしたら、この船で生涯を終えるかもしれないとも。他に行き場も無かった。
それでも。決別の時は訪れた。
小さな島を襲った。目についた住民はいくらでも殺したし、金目の物と食糧はほとんど奪った。そして最後に、火をつけた。
過剰な残虐行為は、乗組員の趣味でもあったが、時には演出として必要だった。このような目に遭うぞと脅しておけば、無駄に逆らう者が減る。
悲鳴は慣れたものだった。それはただの音でしかなく、耳を素通りしていく。しかしその時、妙に耳についた音があった。
赤子の泣き声だった。
足の折れた母親は這いずるようにして、赤子に手を伸ばしていた。しかし非情な海賊は、母親の目の前で赤子を拾い上げ、炎の中へと投げ入れた。泣き声はあっという間に聞こえなくなった。
半狂乱の母親を笑い飛ばす海賊は、近づいてくるフランツを目にして、何事か声をかけた。それを聞いたフランツは、ひょいと赤子を炎の中から拾い上げた。
赤子の肉はすっかり焼けただれ、ひどい臭いが風に乗って漂う。その赤子を持ったまま、フランツは母親の前に屈み込んだ。
酷薄な笑みを浮かべて、フランツは母親に何かを告げた。母親の目が、こぼれんばかりに見開かれる。
鬼の形相で叫ぼうとする母親の口元に、フランツが赤子を押しつけた。母親はぎゅっと口を閉じて、滂沱の涙を流しながら、それでもフランツを睨みつけた。それを受けたフランツは、愉快そうに笑った。
――ああ、そうか。このままじゃ喰いづらいよな。一口大に切ってやるか。
指輪から黒い弦が伸びたのを見た瞬間、メイズはほとんど反射的に、フランツの手を撃ち抜いた。
時間が止まったようだった。撃ったメイズ自身が、一番驚いていた。手が震えている。
「メイズ」
ぞっと全身に鳥肌が立つ。逃げろと脳が警鐘を鳴らしている。それなのに、一歩も動けなかった。
「お前、今、何した?」
底冷えするような赤い瞳。まずい、と引き金を引くが、弾丸は全て黒い弦によって弾かれた。そしてそのまま弦はメイズの足を深く切り裂く。体勢を崩し、メイズが膝をついた。
「逆らったのか? お前が? 俺に?」
言葉こそ疑問形だが、答えなどは求めていないだろう。弦はメイズを縛り上げ、その体を刻んだ。
「なんだ。何が気に障った? 女子どもだからって情けをかけるような性質じゃねェだろ」
その通りだ。答えるつもりの無いメイズは、全身を襲う痛みに、歯を食いしばった。
「なんだろうなァ……母親、か?」
確かめるように口にした言葉に、メイズは表情を変えなかった。しかしフランツは弦を伸ばし、母親の体を刻んだ。悲鳴を上げる間も無く、母親は肉塊となった。
赤黒い肉の塊と。黒焦げた肉の塊が。隣に、並んだ。
「どういうつもりか知らねェが。覚悟はできてンだろうな」
「……好きにしろ」
勢いでした行動だが、後悔は無い。反省も謝罪も、フランツには無意味だ。好きなだけ甚振って殺せばいい。諦めたように、メイズは目を閉じた。
「――そうだな。殺しても、お前には意味がねェだろうな」
戒めが解かれ、メイズの体が地に倒れ伏す。急に肺に酸素が流れ込み、メイズは咳き込んだ。
「殺すのはやめだ。お前は、生きてる方が辛いだろ」
冷めた瞳は、もうすっかり興味を失ったようだった。
「おい。こいつ適当に痛めつけて、どっか遠い島に捨ててこい。殺すなよ」
黒弦の乗組員にそう告げて、フランツはその場を去った。メイズには、一瞥もくれなかった。
そうして、フランツの手により既に弱っていたメイズは、ろくに抵抗することもなく黒弦の仲間だった者たちに甚振られ。ぼろ雑巾のようになって、赤の海域、ブエルシナ島に捨てられるのだった。
重い沈黙が流れた。
話を聞いた奏澄は、絶句した。
善い行いをしてきたとは、思っていなかった。黒の海域出身だということも、わかっていた。そこが、スラムのような場所であることも。
それでも。まさか。黒弦との決別の原因が、母親に子どもを喰わせようとしたこと、だったとは。
それを想像した奏澄は、込み上げた吐き気に、思わず口を押さえた。
「メイズは……どうして、止めたの」
吐き出すようにして、そう尋ねた。決定打となったその行動の動機は、なんだったのか。あまりにも惨い仕打ちではあるが、聞く限りでは、その時のメイズに良心のようなものがあったとは思えない。
「……なんだろうな。俺にも、よくわからない」
途方に暮れたような声で、メイズはそう答えた。
「ただ……あの光景を見た瞬間、俺の母親を思い出した」
「メイズの、お母さん?」
「ああ。あの人が殺された時、俺はその場にいた。というか、あの人は……もしかしたら、俺を、庇ったのかもしれない」
口ごもるようにして、不安げにも見える態度で零された言葉に、奏澄は目を見開いた。
「多分、勘違いなんだ。あの人が、そんなことをするはずがない。記憶違いか、見間違いか。たまたま、俺と賊の間に、あの人の体が入っただけかもしれない。それでも、俺はなんでか……あんな人でも、母親で、少しは子どもを気にしたんじゃ、ないかって」
「――うん。そうだね。きっと、守ってくれたんだよ。そのおかげで、私は今メイズといられる。メイズのお母さんに、感謝しなくちゃ」
小さな子どものように見えて、奏澄は宥めるようにメイズの背をさすった。
これは優しい嘘だ。相手はもう死んでいるから、それが暴かれることは無い。真偽を確かめる術も無い。だからこそ、言えた嘘。
母親が必ずしも子どもを愛さないということを、知っている。こんな言葉は、ただの気休めでしかない。それでも、メイズが口にしたのは、『そうだったらいい』と思ったからだ。幼心に母親の愛情を求めて、それを今も、心の片隅に持ち続けている。その希望を守ることの方が、正しさなどよりよほど尊い。
「理由は、それだけだ。子どもが焼かれるのは、黙って見ていた。喰わされるのが父親だったら、俺は多分止めなかった。その程度のことだ。そんな人間だった。俺は」
メイズは背を丸めて、顔を覆った。奏澄の顔を、見られないのだろう。
「軽蔑するか」
顔も上げずに問われた言葉に、奏澄は静かに答えた。
「そうだね、する」
刺されたように、メイズが息を詰めて体を固くした。
「でも、愛してる」
奏澄は手を伸ばして、小さく丸まった体を精一杯抱き締めた。
思っていたよりも、ずっと酷い人だった。世間の誰に聞いても、極悪非道だと罵られるだろう。
それでも、愛している。この人を。唯一無二の片割れを。
「許すのか」
顔を上げ、呆然としたような表情で零すメイズに、奏澄は首を振った。
「それを決めるのは私じゃないよ」
受け入れることと許すことは違う。何もされていない奏澄に、メイズを許す権利は無い。それは、メイズによって傷つけられた人にのみ与えられる。
「メイズに傷つけられた人は、一生メイズを許さないと思う。でも、メイズに救われた人は、ずっとメイズに感謝すると思う」
黒弦のメイズは、多くの人を傷つけてきたのだろう。それを否定する気は無い。許してくれと懇願することもしない。恨むのは当然の権利だ。だから全てを、受け入れる。
この人の罪は、私の罪だから。
共に背負うと決めた。どれほど重くとも、逃げない。
それでも。メイズの人生は、それだけではない。黒弦のメイズでいた時間だけじゃない。奏澄に出会ってからのメイズ。たんぽぽ海賊団に入ってからのメイズ。その彼に救われた者も、確かに存在する。
「誰に対しても善人でなくていいように、誰に対しても悪人じゃなくたっていいんだよ」
人はいくつもの顔を持つ。例え聖職者であっても、全ての人類に対して善良であることは不可能だ。敵と味方があるならば、両方にいい顔はできない。全ての人に好かれることはできない。
誰かを愛して、守ろうというのなら。その誰かを害す相手には、当然悪人になるだろう。逆も然り。
どんな人でなしであっても、大切な家族には良き親であったりもするのだろう。その大切な家族を守るために、人でなしであり続けるのかもしれない。
善人か。悪人か。人はそんな風に振り分けられるものではない。それは見た者によって顔を変える。
行いが、返るだけだ。良いことも悪いことも。全て、自分のした行いが、自分に返るだけ。
「だから自分を諦めないで。これから先は、ずっと私がいるから。ずっと私が見てるから。なりたい自分を思い描いて、そのための行動をしよう」
諦めないで。その願いを、手放さないで欲しい。どうせ悪人だったからと。誰も自分を許しはしないからと。それは過去のことだ。ずっとついてくるとしても。過去が永遠に自分を許さないとしても。それでも、未来は描ける。
「俺は、お前と同じ場所で生きられる自分になりたい」
「うん。私も、メイズと一緒に生きる未来が欲しい」
思い描く未来は、同じものではないかもしれない。
だから努力をしよう。同じものを見られるように。同じものが見たいと、願おう。
それを共に受け止めてくれる人がいるのなら。人生は、きっとそれほど悪くはない。
触れるだけのキスをして、ゆっくりと顔を離す。
薄く涙が張った瞳を見て、奏澄は苦笑した。そして次第に深くなっていくキスを、心ごと受け入れた。
隙間を埋めるように抱き合って、その余韻を残しながら、微睡む意識で触れ合った。このまま眠ってしまっても良かったが、メイズはもう少し話したそうだ。今を逃したら、もう過去の話が聞ける機会は無いかもしれない。彼の満足がいくまで話が聞きたいと、奏澄は目を見つめた。
「カスミの話も、聞いてもいいか」
予想外の言葉が出てきて、奏澄は目を瞬いた。
「どうしたの、急に」
「気にはなっていたんだ。故郷に帰りたがっていた頃から、お前は家族の話や向こうの人間の話を、ほとんどしなかっただろう」
指摘されて、どきりと心臓が跳ねる。それをごまかしたくて、奏澄は空笑いした。
「ピロートークにしては重い話選ぶなぁ」
「茶化すな」
真剣な声色に、奏澄の顔から笑みが消える。
「ごく普通の、家族だよ。普通に友達がいて、普通に暮らしてた」
「俺は普通は知らない。カスミの話が聞きたい」
聞かれて、奏澄は眉を下げた。
メイズは、奏澄がこの話題を避けていることに気づいている。今も、濁した言葉を追及した。
今までのメイズなら。言いたくないなら言わなくていい、と言っただろう。
けれど、今この人は。奏澄の深くに踏み込む覚悟を、決めたのだ。
それは嬉しいことのはずなのに。やめてほしい、と奏澄は俯いた。
自分は相手の嫌な記憶を引きずり出しておきながら。こっちは見ないで、なんて。
だってメイズとは比べ物にならない。自分のは、甘えだ。生まれが既に、相当恵まれている。生きるに困った彼に対して、いったいどんな弱音を吐けると言うのだろう。
「幸せ、だったよ」
ごとり。
「清潔な服を着て、十分な栄養の食事が取れて」
ごとり、ごとり。
「立派な家があって、温かな布団で眠れる。両親が健在で、きちんとした教育も受けて。満たされた、生活だった」
ごとりと、胸の内から重い音がする。自分の台詞一つごとに、石が積まれていく気分だった。胸がどんどん重くなる。
言葉を聞いたメイズは、眉を顰めた。
「それはただの条件であって、お前の主観は入ってないだろ」
「生活環境は、幸せに生きるための条件だよ」
「そうかもしれないが、俺が聞いてるのは、お前がどういうことを感じながら、何を思って、どんな風に暮らしてたのかってことだ」
わかっている。奏澄は目を伏せた。
奏澄は最初に普通だ、と口にしたのだから、これらの条件は奏澄が特別恵まれていたわけではなく、一般的には備わっているものだと推察しているだろう。
それでも。最低限がきちんと揃っている、ということは、俯瞰で見れば幸福なことだ。
マズローの欲求五段階説、という有名な心理学の理論がある。
一段階目は、生理的欲求。生きていくための、最低限の欲求。
二段階目は、安全欲求。安心な暮らしへの欲求。
三段階目は、社会的欲求。人や組織に受け入れられたいと言う欲求。
四段階目は、承認欲求。人から認められたい、という欲求。
五段階目は、自己実現欲求。何者かになりたい、と願う欲求。
現代日本において、餓死するほど食に困っており尚且つ何の保障も受けられない人というのは、そう多くは無い。むしろこの一段階目が満たせない人間ばかりの国は大問題である。
安全面でもそうだ。日本人は安全への意識が高いが、ここでの安心は生命に直結するものと考えて良いだろう。程度の差はあれど、最低限屋根のある家で暮らしている人が大半のはずだ。寒さで凍死する危険も、武器を持って襲われる危険も、確率で言えば決して身近ではない。
その二つが満たされて初めて、社会的欲求について悩み始める。つまり、三段階目以上の事柄について悩むのは、贅沢なことなのだ。満たされているから。最低限暮らしが保障されているから、それ以上のことで悩めるのだ。
悩みとは、同じステージにあるもの同士でないと共有できない。
今日食べる物にも困っている相手に、「夕食を魚にしたいのに肉しか手に入らない」などと相談する者はいないだろう。それは共感を得られないだけでなく、相手を馬鹿にする行為だからだ。
奏澄は当然、メイズを馬鹿にするつもりはない。メイズの方も、奏澄を馬鹿にしたりはしないだろう。
それでも、思うのだ。この程度のことでと、呆れられやしないかと。必死に生きてきた相手に、小さな世界で小さな悩み事を抱えていただけの自分が、辛いという顔をしてみせるのは。とても恥ずかしいことのように思えた。
「ただのわがままで、愚痴みたいなものなんだけど」
たっぷり間を置いた後で、それでも保険をかけるようにして、そう前置きした。
頷いたメイズに、そのまま言葉を続ける。
「私が最初にしてたネックレス、あるでしょ? あれ、両親からのプレゼントだったの」
それを聞いたメイズは、顔を曇らせた。あのネックレスは、出会った時のメイズの治療代として消えた。取り戻せない、思い出の品。しかし、あれは。
「でも、あれ。本当は、そんな大した思い出はないの。私が唯一向こうから持ってきた物だったから、そういう意味での執着心はあったんだけど。思い入れ、とかは別に。なんていうか、物を与えておけば、みたいなところがあって。あれは、その一環っていうか」
宝石を貰っておいて、と思うだろうか。価値で言えば、そうだ。高価なものだ。けれど。
「両親は、あまり仲が良くなくて。それは、私のせいかもしれなくて」
言い訳をするように、言葉が早くなる。
思い出す。かつての世界を。国を。家族を。
私を。
メイズの話を聞いて。それでやはり、彼に対する感情がどう変わったわけでもない。強いて言うなら、より強固に彼を手放さないと誓ったくらいだ。
とにもかくにも、約束は果たした。奏澄は再び、メイズを伴い昨日と同じ酒場に向かった。僅か一日で現れた二人に不審な顔をすることもなく、キッドは二人と向き合った。
「メイズから、過去の事情は聞きました。その上で、あなた方との共闘は問題ないと判断しました。もしメイズが玄武を裏切るような行動を取った時は、私を好きにしていただいて構いません」
「まーた嬢ちゃんはそういうやり方を……いやまぁ、そこはそう簡単に直らねぇか」
呆れたように言って、キッドは頭をかいた。そしてメイズに視線を移す。
「メイズ。嬢ちゃんは、大丈夫なんだな?」
その問いに、メイズは僅かに目を瞠った。奏澄の方は、首を傾げるばかりだ。メイズのことを信頼できるかどうかという話じゃなかったのか。何故奏澄のことを、メイズに訊くのか。
「大丈夫だ。ついている」
「そうか」
短いそのやり取りが、奏澄にはさっぱりわからなかった。仲間外れにされた気がして、眉を寄せる。
「拗ねるな拗ねるな」
からからと笑うキッドは、相変わらず奏澄を子ども扱いしているようだ。それに、奏澄はますます脹れて見せた。
子どもっぽいその仕草に目を細めた後、キッドは一度俯いて、次に顔を上げた時には、玄武の船長の顔をしていた。
「わかった。黒弦を討つための共闘、玄武が請け負う。よろしく頼む、カスミ」
力強く呼ばれた名前に、奏澄は身が引き締まる思いだった。
「こちらこそ。よろしくお願いします」
固く握手を交わして。たんぽぽ海賊団と玄武海賊団の同盟は成った。
場所が広いため、ブルー・ノーツ号の上甲板に両船の乗組員は集まっていた。
「黒弦の居場所は検討がついている」
キッドが地図を広げて、それをライアーが覗き込む。
「今の時期なら、ニューラマード島に停泊しているはずだ。すぐ近くの島にギルドがあって、そこへの定期便を襲うために張っている。ニューラマードの役人は黒弦と癒着していて、島に逃げ込まれるとギルドは追及できない」
「そりゃまたこすい手を」
「なかなかどうして、悪知恵が働くんだよなぁ。船長はどちらかと言うと、面倒くさがって力押しするタイプだったんだが。ブレインに仕込まれたのか、余計なことを覚えてくれやがった」
棘のある言い方に、メイズが視線を逸らした。明言はしていないが、要するに副船長だったメイズがその余計な知恵とやらを付けた、と言いたいのだろう。
「ま、余計な柵があんのは役人連中だけだ。オレたちはいざとなればどうとでも動けるが……できるだけぎりぎりまで黒弦には気づかれたくないな」
考えるように宙を見て、よし、とキッドは頷いた。
「二手に分かれよう。本隊はオレたちの船、ブルー・ノーツ号。なるべく隠密に近づいて、黒弦の船に奇襲をかける。分隊は、コバルト号。オレたちが黒弦を叩いた後で、カスミにとどめだけ頼む。いざとなったらそっちの方が小回りもきくし、自由に動けるようにしておいてもらいたい。あとは玄武の傘下にも声をかけて、周辺に控えておいてもらう。どう動くにせよ、数はいた方がいいからな」
キッドの提案に、特に異は無いと奏澄は頷いた。
「わかりました。では、ニューラマード島までは、玄武と私たちは別々に行動するということですね」
「んにゃ、違う違う」
「え?」
手を振るキッドに、奏澄はきょとん、とした。
「本隊の方に主戦力を集める。だから、メイズはこっちに貰う。代わりに、そっちに玄武の乗組員をいくらかやるから」
「え!?」
これにはメイズも、いや、たんぽぽ海賊団の面々は全員驚愕した。メイズ一人を向こうにやるとは。
「そ、それって、人質」
「人聞きの悪ぃこと言うな! ただの戦力の問題だ! 元黒弦の人間がいた方が奇襲はしやすいだろ」
「でも、一人だけなんてそんな、いじめたりとか」
「だったら他の戦闘員も寄越すか? そっちはそんなにいないだろ。あんまり手薄にしない方がいいんじゃねぇか」
キッドの言う通りだ。玄武の乗組員を貸すと言っても、たんぽぽ海賊団の戦闘員を渡すのではただの交換だ。それに、自船の戦闘員が減るということは、慣れた仲間が減るということ。コバルト号に戦闘員を残すのは、奏澄の護衛が主たる目的だろう。側に付くなら、慣れた人間の方が良い。
とどめを刺せるのは奏澄だけ。女王が倒されたらチェックだ。
「俺が了承してないんだが」
不機嫌を隠しもしないメイズに、キッドは不満そうに眉を上げた。
「お前に決定権無いだろ」
「ある。だいたい、あんた話聞いてたのか」
「なんのだ?」
「ついている、と言っただろう」
「言ったなぁ。でも聞いただけで、別にオレがそれを気にしてやる道理はねぇなぁ」
メイズは険のある視線をキッドに投げた。受けたキッドは飄々とした態度を崩さない。
「たまにはちょっと離れてみるのもいいもんだぜ」
その言葉の意味を図りかねたのか、メイズは眉間の皺を深くしただけだった。
奏澄は二人の顔を見比べながらも、おそるおそるメイズに声をかける。
「一人にするのは心配だけど、確かにキッドさんの言う通りだと思う。悪いんだけど、向こうに協力してあげてくれないかな?」
「だが、お前は」
「私は大丈夫。ラコットさんたちだっているんだし」
同意を求めるように、少し離れた位置にいるラコットに視線をやると、話はなんとなく聞こえていたのか、任せろというように腕を上げた。
「ね」
安心させるように微笑んだ奏澄に、メイズはむっつりと黙った後、長く息を吐いた。
「わかった」
「ありがとう」
「ただ今夜は覚えておけよ」
「そういうのはヤダ」
離れがたいのは奏澄も同じだが、交換条件のように言われるのは嫌だ。そもそも昨日あれだけしたのだから、もうそれで充分じゃないだろうか。
笑顔で切り捨てた奏澄に、キッドが堪えきれなかったのか吹き出した。
「いや、なるほどな。案外うまいこと手綱を握ってんだな」
くつくつと笑いを零すキッドを、メイズが苛立たし気に睨んだ。
「んじゃ、出発は明日の朝にしよう。こっちも用意を済ませておく。メイズ、別れを惜しむのはいいが、カスミが起きられる程度にしておけよ」
キッドの軽口にメイズは答えず、代わりに今度は照れたような顔で奏澄が睨んだ。
翌朝。パラ―ルト島の港は騒がしかった。
たんぽぽ海賊団、玄武海賊団の両船が出航のために準備をしており、慌ただしく人が行き交っていた。
「んじゃ、メイズは預かるぜ」
「はい。くれぐれも、よろしくお願いします」
「わかってるって」
頭を下げた奏澄に、キッドは苦笑した。メイズは不貞腐れたような顔をしている。
「おいメイズ、いいのか」
「どうせすぐ会うだろ。そう遠い場所じゃない」
目を瞬かせたキッドは、奏澄を見ながらメイズを指さした。奏澄はごまかすように空笑いするしかない。
奏澄は今後玄武の乗組員と暫く同乗することになる。事情のわかっているたんぽぽ海賊団の面々とは異なり、玄武の男衆は奏澄の存在に浮足立つ可能性がある。そのため、メイズは『牽制』しておきたかったようなのだが、その手段に奏澄が異を唱えた。
――だって、痕とか残されたらみんなにも見えるし。
そんな独占欲丸出しみたいな。いい大人のやることじゃない。指輪をしているのだから、それでいいじゃないか。
しかし拗ねてしまったメイズを見ていると、なんだか可哀そうなことをしてしまったようにも思える。それに、誰も態度には出さないが、万が一奇襲に失敗した場合には、誰かが欠ける――つまり、これが今生の別れになる可能性が、無いとは言えない。そういう旅立ちだ。勿論、そんなことは起こらないと信じてはいるが。
少し考えて、奏澄はメイズに近寄った。
「何だ」
むすりと見下ろしてくる彼の服を引っ張って、首に手を回すようにすると、意図を察したメイズが少し屈む。目一杯背伸びをして、奏澄は触れるだけのキスをした。
「行ってらっしゃい」
小さく言って、はにかんだ。
人前でキスしてみせるだけでも、奏澄にとっては大ごとだ。けれど、これでも多少はメイズの望む『牽制』にはなるだろう、と思っていると。
後ろ頭に手が回って、腰を引き寄せられて。
「~~~~っ!?」
ばしばしと背中を叩くのを意にも介さず、深く口づけられる。囃し立てるような指笛の音が聞こえて、奏澄の顔が羞恥で染まる。
「……行ってくる」
さんざん好きにしたメイズは機嫌を直したようで、笑みを一つ零すと奏澄を解放した。
唖然とする奏澄を置き去りに、そのままブルー・ノーツ号へと向かう。
「苦労するよなぁ、カスミも」
労うように肩を叩いて、キッドも自分の船へと乗り込んだ。
釈然としない思いを抱えながらも、奏澄もコバルト号へと乗り込む。
言いたいことは、次会った時だ。
*~*~*
ブルー・ノーツ号とコバルト号は、別々の航路を進んだ。玄武は途中の島で、更に人員を入れ替えたり、連絡を飛ばしたりしながら進むらしい。
コバルト号はメイズがいないものの、玄武から借りた乗組員は戦力として申し分なく、時折ある襲撃にも何ら苦戦することは無かった。島に降りる時は、奏澄の側には必ずラコットか舎弟たちが付いた。彼らは肉弾戦を最も得意としているので、遠慮なく投げ飛ばしはするが相手を殺すことはなく、却って奏澄を安心させた。
船はどんどん北へと進み、寒さが厳しくなり。そして。
「……あ、雪」
ちらりと舞ったものに手を伸ばして、奏澄はコバルト号の船首近くで白い息を吐いた。
――本当に、雪が降るんだ。
半信半疑だったが、この寒さとなれば、雪も降るか。手のひらの上であっという間に溶けたそれに、奏澄は目を細めた。
――できれば、メイズと見たかったな。
観光ではないのだから、そんなことを言っている場合ではないのだけれど。初めての感覚を、メイズと共有したかった。
空を見上げれば、灰色の雲が覆っている。まだ昼間だというのに、なんだか気分も沈んで、奏澄は顔を曇らせた。
「カスミ。そんなとこいると風邪ひくぜ。中入ったら?」
「ライアー」
後ろから声をかけられ、振り返ると見慣れた航海士の姿があった。
「雪が降ってるってことは、もう黒の海域?」
「うん、もう入ったね」
「この船、雪平気かな」
「んー、積もるほど降ってきたら危ないけど、このくらいならまだ」
「そっか」
目線を落とした奏澄に、ライアーが遠慮がちに声をかけた。
「メイズさんが心配?」
「……ん、ちょっとね」
メイズが強いことは知っている。玄武も信頼できる。けれど。
奏澄は、悪魔と会ったことが無い。悪魔の強さを知らない。そして、彼らでは悪魔にとどめを刺せないのだという。それで、勝機はあるのだろうか。
だからといって、奏澄が向こうにいたとしても、足手まといにしかならないだろうが。
「だーいじょうぶだって!」
安心させるように、ライアーが軽く奏澄の背中を叩いた。
「今までメイズさん、一回も負けたことないだろ。玄武もついてるんだし。信じててやんなって」
「……うん、そうだね」
奏澄は努めて明るく笑った。馬鹿だ。ここで暗い顔をしたところで、事態は何一つ変わらない。奏澄が落ち込めば、仲間たちも引きずられる。せめて、明るく。
奏澄は意識して背筋を伸ばし、ライアーと共に船内へと戻った。
次にメイズに会う時は。悪魔に、とどめを刺す時だ。