果たしてメイズは戻ってきた。翌朝に。香水の香りをまとって。
奏澄はそれに怒るべきか、不満げにするべきか、傷ついてみせるべきか迷って、結局。
「おはよ、メイズ」
「ああ」
素知らぬふりをした。いっそもう面倒だった。
女性といたということは、つまり奏澄だけでは満足できないということだ。そこを問い詰めたところで、結局奏澄では解消できないのだし、やめろと言えばやめるかもしれないが、無理を強いることになる。言うだけ自分が傷つく気がした。
知らないところで、知らない内に、勝手にやっているなら別にいい。そうでも思わないと、やってられない。
結局その日は何でもない風を装って、一日船の仕事をして、夜になると船番の当番と交代した。
交代した、ということは、今夜は奏澄が島の宿に泊まれる。そして、宿に泊まる時は一人では許可が下りない。必然メイズと泊まることになる。
――今日は船に泊まるって言おうかなぁ……。
昨晩別の女性を抱いたとわかっている相手と泊まるのは、なんとなく不愉快だ。しかも、ずっと船ではお預けだったのだから、宿に泊まるのならできると思っているだろう。
けれど、ここで船に残るというと、あからさまに避けて見える。それもよろしくない、と奏澄はメイズと共に島へ降りた。
宿をとって、体を清め、同じベッドに入って。
今日はめちゃくちゃ眠いことにして寝たら駄目かな、と奏澄がぼんやり考えていると。
「カスミ。頼みがあるんだが」
「……なに?」
メイズがやけに真剣な顔で奏澄と向き合った。その表情に嫌な予感がして、奏澄は尻込みした。
「今日は、俺の好きにさせてくれないか」
奏澄は目を瞬いた。何を言い出すかと思えば。
「今日はも何も、いつも結構好きにしてない?」
「いや、まぁそうなんだが」
普段から自分本位である自覚はあったらしい。言いにくそうに目を逸らした後、頭をかいて、再び向き直った。
「今日は、ちょっと、違ったやり方を試したい。だから途中で嫌だとか無理だとか言わずに、とりあえず最後まで付き合ってくれないか」
「え……なにそれ怖……。嫌だとか無理だとか言いそうなことするの……?」
元々、奏澄はその類の言葉を行為の最中に言わないように気をつけている。
聞いたところによると、『いや』とか『やめて』といった抵抗する姿に興奮を覚えるのは、日本人男性くらいなのだそうだ。支配欲を満たしたり、恥じらう様を美徳としている。
性的同意の意識が根付いている国では、それは当然拒絶の言葉であるから、例えふりでも言われると傷つくらしい。
セックスへの積極性から、おそらく日本よりは欧米の感覚に近いと踏んでいた奏澄は、恥じらいから形ばかりの拒絶を口にしないように注意していた。メイズにとって、奏澄の拒絶は堪えるだろうと思ったからだ。
しかし奏澄の本質は生粋の日本人であるので、脊髄反射でうっかりその言葉が出ることが絶対に無いわけではないし、自身の感情ではなく様々な外的要因を考慮した上での拒絶はある。それを指しているのだろう、とは思うものの、やはり体を引いてしまう。
「本気で嫌がることはしない。ただ、前に約束しただろう。同意を得られないことはしないと。だから、お前も約束してくれないか。本当に、本気で嫌だと思わない限り、それを口にしないって」
覚えていた。いや、メイズはいつもそうだ。奏澄が口にしたことを、忘れない。
価値観は違っても、決してそれを無下にしない。奏澄の考えを、大事にしてくれる。そのことに、先ほどまで抱いていた不愉快さはすっかり消えていた。
「駄目か?」
駄目押しの一言に、奏澄はぐぅと声をあげそうになった。これはずるい。甘えた声を出すな。捨てられた犬のような目をしおってからに。絶対に奏澄がこの目に弱いとわかってやっている。甘え方まで学習しているとは。滅多にやらないだけに破壊力がすごい。三十も半ばを過ぎた男が可愛いとは何事か。ずるい。
奏澄は喉の奥で唸った。力押しで頷かせようとするようなら怒れたが、メイズは奏澄との約束を守って、同意が得られるまでじっと待っている。
メイズがこれほど心を尽くしてくれているのに、奏澄の方が意地を張るわけにはいかないだろう。
「わかった。いいよ、好きにして」
一つ息を吐いて了承した奏澄に、メイズは嬉しそうに笑った。
*~*~*
どれだけ時間が経ったか。奏澄は、安易に許可を出した過去の自分を呪った。
「――……ッ」
大きく体を跳ねさせた奏澄に、メイズが唇を吊り上げた。それを涙目で睨みつけるも、両手で口を塞いでいるので文句も言えない。代わりに心中で大声で叫ぶ。
――た、楽しそうにしやがってぇ~!
恥ずかしいやら怒りやら混乱やらで頭はパニックなのだが、対するメイズはまるで子どもが新しいオモチャで遊ぶような無邪気さで、怒るに怒れない。惚れた弱味とはこういうことか。可愛い顔しやがって。
奏澄の想像だが、多分メイズは遊んでいるわけではない。嗜虐趣味というわけでもないだろう。単純に、メイズの手によって奏澄が悦んでいるのが嬉しいのだ。
そうだった。メイズは元々、尽くすタイプだった。
奏澄の口にした言葉や、何気ない仕草を逐一覚えていて。言われなくても、望むことを考えて。
そういう男が、奏澄がセックスを楽しめていない、と思ったのなら。その対策が、セックスを控えることになるはずがない。
つまり、楽しめるようにと技術を磨いてきたのだ。
過去の相手は、性欲処理の相手でしかなかっただろう。だから相手を悦ばせる必要など無かったし、自分本位で良かった。
けれど、相手のためを思ったのなら。どうすれば良いのか、と考え。その結果が、これなのだ。おそらく、昨晩の相手は娼婦で、彼女から教わったのだろう。いきなりこれほどやり方が変わるなど、一人で考えつくことではない。
他の女から教わったことを試すな、という気持ちはあるが、そんなことをまともに思考できるほど奏澄の頭は正常に回っていなかった。
もう、どうにでもなれ。
「――……」
朝の光が眩しい。
結局昨夜は途中で疲れ果ててしまい、何かを聞かれていた気もするが適当に返事をしながら寝落ちてしまった。
体に不快感は無い。おそらく、終わった後の処理はメイズがしてくれたのだろう。
「起きたか。体は大丈夫か?」
しれっと声をかけてくるメイズに、奏澄は無言でばしばしと体を叩いた。
「なんだ」
「こっちの台詞。なにあれ」
「良かっただろ?」
悪びれもせず聞いてくるメイズに、奏澄は口を噤んだ後、絞り出すように小さな声で答えた。
「よ、かった、けど」
耳まで真っ赤にした奏澄に、メイズは満足そうに笑って髪を梳いた。
言いたいことは無いではないが、ここで意地を張ってもメイズの努力を無駄にする。
知らなかった。自分の体は快楽を拾いづらいのだとばかり思っていたが、相手の技術が高ければ達することもできるのか。
しかしやられっぱなしなのは悔しい。いつかやり返してやりたい。
問題なのは、奏澄は男娼に教わるわけにもいかない、というところか。女が娼館に行っても娼婦に相手をしてもらえるだろうか。技を教えてほしい。
「ほら」
「ありがと」
水を渡されて、奏澄は体を起こしてカップに口をつけた。
全身がだるい。毎回これでは身がもたない。
「メイズ。セーフティワード決めよっか」
せっかくの甘い空気を壊す響きの単語に、メイズが露骨に嫌な顔をした。
「なんだそれは」
「本気で無理な時に言う言葉を決めておくの。今回は、本当に、ぎりぎり言わないように気をつけたけど。無理とかって言葉咄嗟に出がちだし、相手も本気に取らないことがあるから。なるべくセックスの時に出ないような単語で、それを言ったら絶対止めるってルール作っておくの」
「却下」
「なんで!?」
予想外の反応に奏澄は驚いた。嫌な顔をしつつも、こういうルールは呑んでくれると思っていた。
「説明から察するに、それは命や身体の危機に関わるような特殊なやり方をする時に用いるものなんじゃないか」
奏澄は目を逸らした。当たりだ。例えば緊縛を行う場合は、縛り方によっては神経麻痺の危険性があるし、首絞めなどはフリに留めないと脳に後遺症が残る危険がある。そういう危険行為を、やっている側がエスカレートして力加減を誤ってしまわないよう、やられている側が自分の体の具合に合わせて申告するものだ。
けれど別に普通のセックスにだって用いないことはない。片方が夢中になって我を忘れるようなら、止めるための手段は必要だ。
「途中で止める手段は必要だと思うんだけど」
「本当に無理かどうかは見てればわかる。お前の場合は、そういうものを用意するとぎりぎりよりだいぶ手前で使うから嫌だ」
「そっ……んなことはない……よ?」
いやあるな、と奏澄は自分のことながら思った。
提案するのに、わざわざ『ぎりぎり』と強調したのは、今回だけ特例ということにしたかったからだ。嫌だとは思わなかったが、もう無理だと思う場面は何度かあった。今回耐えられたのだから次回も耐えられるだろうが、なるべく手前で止めたいと思った気持ちがうっかり出てしまっている。
奏澄の元来の特性として、安全な道を選びがちだから、多分ギブアップ札が手元にあると、無理と判断したら即上げてしまう。
マラソンであと一周だけ、と言われた時。その一周に単位がかかっていれば、ぎりぎりまで頑張れるだろう。しかし、特にデメリットがなければ、しんどいから脱落を選ぶ。現代っ子だから根性論には慣れていない。達成感とか別にいい。限界のその先とか無いし、限界は限界だ。誰に迷惑をかけるわけでもないのなら、そのあたりのジャッジは割と甘い。
「加減はできる。今だって、声も出てるし、体も自力で起こせてるだろう」
「それは当たり前のラインだと思うよ」
「それに俺がお前の様子に気を配れないところまでいってたら、多分そのセーフティワードとやらを言ったところで聞こえない」
「こっわ! ちょっと、唐突に恐怖発言しないで!」
「無いと思うが、万が一そうなったら刺してでも止めろ」
「無茶苦茶言う……」
「剣の方使うなよ。ナイフ使え」
「ねぇ現実味が増すアドバイスやめて」
剣のくだりはもしかして冗談だろうか。本気で言っているようにしか見えないメイズに、奏澄は体を震わせた。そんなことがこの先起こらないことを祈るのみだ。
「なんていうか、さ。メイズは……そんな、したい?」
ここに切り込むのは避けてきたが、こんな物騒な話題を出されたら聞いておきたい。メイズにとって、体の関係はそこまで重要なことなのだろうか。
聞かれたメイズは、言いにくそうに口を動かした。答えはあるが、言い淀んでいる様子だった。ややあって、観念したように吐き出した。
「俺だけが、お前の特別だと思えるから」
どういうことか、と奏澄が首を傾げる。
「お前は、内側の人間に対する許容範囲が広いだろう。色々なことを、許すから。俺だけが、許されている行為が、これしかない」
メイズからこぼされた本音に、奏澄はあんぐりと口を開けた。まさかそんなことを考えていたとは。
「他にもいっぱいあるでしょ! 一緒に寝てるのだってメイズだけだし、キスだってメイズとしかしないでしょ!」
「そのくらいなら恋人じゃなくてもするだろ」
「しないけど!?」
どうも謎の劣等感を抱えていたらしい。特別感が欲しかったとは。
元々メイズは特別だ。しかし、それが逆に彼の疑心を呼んだのかもしれない。
恋人になる前から、メイズは特別だった。つまり、恋人関係になる前に彼に許してきたことを、メイズは自分でなくても許容される行いだと思っている。
それは間違いではない。間違いではないのだが、そうではなく。なんとももどかしい。
「いいだろ別に。今後も無理強いはしない。ちゃんと同意は取る」
「ああうん、それはありがたいけど」
「要はお前がしたくなれば同意は取れる」
「うん……?」
「その気にさせるのはいいんだろ?」
にぃ、と笑ったメイズに、奏澄は背筋が寒くなった。
赤の海域で一通りの準備を済ませ、緑の海域を過ぎ、コバルト号は順調に青の海域に進行していた。
奏澄とメイズの仲も、順調だった。奏澄の性に対する苦手意識が拭われてきたので、島ではそれなりに楽しんでいる。
しかし、奏澄の方では、メイズには言えない問題が発生していた。
――おかしい。
最近の自分は、おかしい。どこがおかしいのかと言えば、全部おかしい。頭もおかしいし、体もおかしい。
「どうした?」
メイズに声をかけられて、心臓が跳ねる。ぼうっとした奏澄を気にしたのだろう。しかし、顔が見られずに、奏澄は焦ったように答えた。
「な、なんでもない。私、やることあるから」
あからさまな言い訳をして、奏澄はその場を立ち去った。
残されたメイズは、怪訝な顔をして首を傾げた。
「メイズ。しばらく一緒に寝るのやめよう」
自室の前。いつぞやと同じ提案をされて、メイズは固まった。
「何かしたか」
「ううん、メイズは何もしてない。大丈夫。私の問題だから」
目を逸らしたままもごもごと言う奏澄に、メイズは眉を寄せた。
「最近避けてないか」
「き、気のせいじゃない?」
「ならこっち見ろ」
少し苛立ったように、自分の方を向かせようとメイズが奏澄の顔に手をかけた。
手が触れた瞬間、奏澄はびくりと肩を跳ねさせて、反射的にその手を払った。
ぱしん、という音が響いて、双方が目を丸くする。
手を払った奏澄の方が、明らかに『やってしまった』という顔をしていた。
「ご、ごめん! ごめんね! 大丈夫!?」
奏澄はすぐに払ったメイズの手を両手で包んだ。内心はこの場を逃げ去ってしまいたい気持ちでいっぱいだったが、この状態でメイズを置いていくのは非常にまずい。辛うじてその判断だけはできた。
呆然と黙っていたメイズは、奏澄の手を引いて、自室へ引き込んだ。
驚いた奏澄は為す術なく連れ込まれ、そのままメイズに強く抱きすくめられた。
「メ、メイズ、ちょっと」
明かりを灯す前の暗い部屋。扉を閉めてしまえば、廊下の明かりもろくに入らない。
ぼやける視界で、奏澄は自分を包む体温と、メイズの香りだけを感じていた。
どっと心拍数が上がって、訴えるようにメイズの体を叩く。
「メイズ、離して」
メイズは答えずに、奏澄の頭を片手で胸元に押さえつけた。これ以上、言葉を聞きたくないということだろうか。顔が密着して、先ほどよりも強い香りに、頭がくらくらする。ああ、まずい。おかしくなる。
「は、な、し、て!」
渾身の力を込めて体を押せば、腕が緩んだ。ほっとして距離を取り見上げると、暗さに慣れてきた目に映ったメイズの顔は、傷ついているように見えた。
「そんなに嫌か」
「い、嫌じゃないよ。そうじゃなくて」
「じゃぁなんだ」
どうしよう。なんて返せば。だって、正直に言うには、あまりにもみっともない理由だ。けれどそれは、今目の前で傷つけたメイズよりも優先することだろうか。
そんなはずはない。なら言ってしまえばいい。けれどそれを口にすることは、恥ずかしい、だけで済む問題でもなく。
色々な考えが頭を巡って、何かを言わなくちゃという気持ちが溢れ出して、どうにもならなくて、奏澄のキャパを超えた。
「うー……」
急にぼろぼろと泣き出した奏澄に焦ったのはメイズだ。この状況で泣きたいのはメイズの方だろうに、何故か奏澄の方が泣き出した。困惑したメイズを置き去りに、奏澄はしゃがみこみ、しゃくり上げたまま口を開いた。
「メイズのせいだぁー……」
「……何がだ」
これは責任転嫁だ。この状況で奏澄が先に泣くのは卑怯だし、メイズは何も悪くない。それなのに、理由を聞こうとしてくれている。甘い男め。怒ればいいのに。
「メイズの、せいで、私、いんらんになったぁ……!」
「は……?」
淫乱。思いも寄らない単語に、メイズは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
完全に理解が及んでおらず、困惑して二の句が継げない様子だった。
「い、今まで、したいとか思ったこと、なかったのに。なんか、メイズに触られたりとか、近くで、匂いとかすると、なんか、し、したくなっちゃって、からだ、おかしくて、メイズのせいで変になったぁ! ばぁか!」
もうこれ傍から見たらギャグだろう。
冷静な自分が俯瞰してつっこみを入れる。しかし当人は至って真面目に悩んでいて、制御がきかない状態だった。
おかしい。今まで一度もこんなことはなかったのに。自分の体が、作り変えられていくようだった。快楽を重ねて、体がそれを覚えていく内に、ちょっとしたきっかけでその感覚が蘇ってしまうのだ。肌の感触であるとか、汗の匂いであるとか、そういったものにひどく過敏になってしまった。
ろくに性欲など感じたことがなかっただけに、急に訪れた変化に戸惑い、一人で処理できる容量を超えていた。船ではしない、というルールを決めたのは奏澄の方だ。あれだけ厳重に言い含めていたのだ。メイズに言えるはずもない。
しかし、船での時間が長くなればなるほど、ごまかしもきかず、疼きを抑えるには距離を取るしかなかった。ちょっと離れればすぐ収まると思ったのに。なんなのかいったい。バイオリズム的なやつだろうか。脳内ピンクになってしまったのだろうか。中学生じゃないのだから。
泣きじゃくる奏澄を前に、メイズは力が抜けたようにへたりこみ、そのまま肩を震わせた。
「わ、笑うな!」
「っふ、いや、わる……ははっ」
やっぱりギャグだった。あのメイズが声を上げて笑っている。
メイズはしゃがみこんだ奏澄を抱き上げて、ベッドに座らせた。自身も横に座り、宥めるように緩く抱き締めて、頭を撫でた。
「よしよし」
「何で機嫌いいんだコノヤロウ」
不貞腐れた奏澄とは対照的に、メイズはすっかり機嫌を直していた。
「なぁ、お前がルールを作ったのって、何のためだ?」
「何のため……って、船で共同生活するにあたって、必要なことを」
「聞き方を変える。誰のためだ?」
「……仲間の、ため?」
仲間たちに、気をつかわせなくていいように。変な空気にならないように。
隣人の性事情は、アパートでのトラブルに発展することもあるくらいポピュラーな問題だ。だから奏澄の認識では、これは『注意すべき問題』なのだ。
「そうだな。で、俺はあいつらと合流してから、割と目立ってお前にべたべたしていたわけだが」
「えっあれわざとだったんだ」
「まぁな」
仲間の目がある時に限って、スキンシップが過多な気がしていた。奏澄としてはあれは恥ずかしいからやめてほしかったのだが、何か牽制でもしたいのかと思っていた。
「俺がどれだけお前に触れても、あいつらが嫌な顔をしたことは一度もなかった」
「うん、まぁ、そうだろうね」
「だろ? つまり、俺とお前が仲良くしている分には、誰も文句はないってことだ。むしろ喧嘩した方が心配をかける」
奏澄は目を瞬かせた。まさかメイズがそんなところに気を配っていたとは。一応、メイズも気にして試してくれたのだ。仲間たちが、果たしてメイズと奏澄の関係性をどう見ているのかを。祝福に偽りがなかったとしても、他人がべたべたしているのを好まないタイプもいるだろう。
何にせよ、言いたいことはわかった。仲間たちは、奏澄とメイズが船で行為に及ぼうが何をしようが、仲が良い分には見守ってくれるだろうと。それよりも、原因が何であれ、ぎくしゃくされた方が気になるし支障が出るだろうと。だから今、こうしてすれ違いが起きていることの方が問題だろうと。
「ルールは、俺とお前で決めたもので、他の連中は知らない。だから、お前さえ納得すれば、いつでも撤回できる」
「一度決めたことを、そう簡単に覆すのは」
「頭固いよな……。まぁ、俺の方から何かすることはない。約束したからな。してほしければ、いつでも言え」
にやりと笑ったメイズに、奏澄は口を開閉させた。主導権を握っているのは、奏澄だ。ルールの決定権も奏澄にある。しかしそれ故に、誘う時は奏澄からしかあり得ない。
「原因はわかったし、今後は触るのに遠慮はしない。セックス以外は、禁止されてないもんな?」
この状況を作り出したのは奏澄だ。しかし恨みがましい目をしてしまうのは、仕方のないことだろう。
そして近い内に、この『ルール』は撤廃されることになる。
青の海域を北へ北へと進んでいくと、だんだんと寒さを感じるようになってきた。今まで訪れた場所は温暖な地が多かったので、薄着でいた奏澄は肩を震わせた。
「次の島で服を買うか」
「メイズ」
奏澄の肩を抱いたメイズも、上はシャツしか着ていない。彼はまだ寒さを感じるほどではないようだが、この先もっと寒くなるなら上着が必要だろう。
「北の方ってどのくらい寒くなるの?」
「黒の海域まで行けば、雪が降る程度には」
「えっ!? 雪降るんだ!?」
奏澄は驚きの声を上げた。なんとなく、雪という気象が存在しない気がしていたのだ。
土地で言えば、セントラルがある場所も南極にあたる。気象条件を考えれば極寒のはずなのだが、あそこはかつての神の領地なので気候が安定しているらしい。セントラルが世界の中心であるため、そこから一番離れた果ての地、黒の海域は人には厳しい寒さが待っている。そして黒の海域に近づくと、その寒波の影響を受けるようだ。
「あーでも、それでか。なんか納得」
「何がだ?」
「メイズの格好。寒い土地出身だからなのかなって」
言われて、メイズは首を傾げた。特にそういう意識は無かったらしい。
湿地帯もある緑の海域はともかく、赤の海域ではサンダルの男性も多かった。しかしメイズは、最初からしっかりした皮のブーツだった。シャツも大きく前をはだけることなく、割と上まで留めている。あまり露出する習慣が無いのだろう。
ターバンは日射を遮ったり発汗を抑える役割のため、暑い地方での印象が強いが、実は寒さを防ぐ目的でも使用する。彼の服装は、現在の気候に合わせてはあるものの、元々寒冷地にいたと言われれば頷けるものだった。
「黒の海域に行くまでには、防寒具を揃えないとな」
「かさばるなぁ」
冬物は分厚い。化学繊維がまだ未発達なこの世界では、薄くて軽くて暖かい素材はなかなか存在しない。場所を取るが、必要なものだから仕方ない。
具体的に必要なものを考え出すと、実感する。黒の海域に、近づいているのだと。
メイズはまだ、多くを語らない。黒弦と戦うまでには、聞けるのだろうか。それとも。
青の海域、ミラノルド島。
たんぽぽ海賊団は、この島で寒冷地用の備品を買い揃えることにした。南から北へ向かう航路の途中で、黒の海域に近くなり、寒さを感じ始める位置にあるこの島は、似たような船団が多く訪れるため商店も多く賑わっている。
島へ降りるために身支度を整えた奏澄は、上甲板で待つメイズの元へ向かった。
「お待たせ。行こっか」
声をかけられたメイズは、奏澄の格好を眺めて眉を寄せた。
「置いていった方が良くないか、それ」
「え、気になる? 一応貴重品だし、いつ遭遇するかわからないし、身につけておいた方がいいかと思って」
奏澄は剣帯に下げた神器を見下ろした。剣を身につけて行動することにも慣れておきたい。鞘に入っているのだし、怪我をするようなことはないかと思うのだが。
疑問を示す奏澄に、メイズは暫く渋い顔をしていたが、やがて何か納得したのか、息を吐いた。
「まぁ、いい。持っていればわかる」
「? うん」
結局奏澄は剣を下げたまま、メイズと二人島へ降りた。
全体的な雰囲気はヴェネリーアに似ているようにも見えるが、友好的なヴェネリーアの空気とは違い、ミラノルドの方が都会的な印象だ。十分に賑わってはいるが、それは楽しんでいるというより、繁盛している、という言葉が似合う。
人や物がごみごみしており、気をつけて目をやると、建物と建物の隙間、裏路地などに、堅気ではなさそうな人が立っていたりもする。
これは気づかない方がいいやつだ、と奏澄はきょろきょろするのを止めた。
服屋で適当に冬服や小物を見繕い、それから分厚い黒のオーバーコートを探した。試しに羽織った奏澄を見たメイズは、まじまじと眺めて。
「お前黒似合わないな」
「知ってる。もうちょっと明るい色がいいなぁ」
「夜に紛れるから黒の方がいい。雪に紛れるなら白があってもいいが……積もる場所で行動することはあまりないだろ」
「白は白で汚れが目立つから嫌だなぁ」
注文が多い、とメイズは溜息を吐いた。ただの軽口だということはわかっているので、注意をしたりはしないが。
「メイズは黒似合うよね」
「そうか?」
同じようにコートを羽織ったメイズを、奏澄はじっと見た。
惚れた欲目かもしれないが、黒の面積が多いと凛々しさが増す気がする。
「カメラほしい……」
「くだらないことを考えているのはわかった」
呆れたように言って、メイズはコートを脱いだ。
同じように奏澄も脱ごうとして、かつりと剣に手が当たる。
「これ剣はコートの内側? 外側?」
「使う状況になったら外側だが……お前は、暫く内側で隠しておいた方がいいんじゃないか」
「島に降りる時も言ってたね。まぁ、ちょっと目立つよねこれ」
島に降りてから、ちらちらと視線は感じていた。真っ白な剣などそうそうないから、物珍しいのかもしれない。人から注目されるくらいなら、確かに隠した方がいいだろう。
もっと寒くなったらそうしよう、と思いつつ、この島はコートを着るほどの寒さではない。購入したコートは抱えて、荷物を置きに船に戻ろうと雑踏を歩き出す。
暫く歩いたところで、メイズが急に視線を鋭くした。
「メイズ? どうし――」
最後まで言い切らない内に発砲音が響き、呻き声がした。
驚いて奏澄が振り返ると、一人の男が血の流れる手を押さえていた。にわかに周囲がどよめく。
「え……え?」
何が起こったのかさっぱりわからない奏澄は、間の抜けた声を漏らすしかなかった。
「行くぞ」
すたすたと歩き出すメイズに、動揺したまま慌てて付いていく。
「ねぇ、今……なに? メイズ、撃った?」
「あいつはスリだ」
「スリ……?」
「お前のそれ」
メイズが視線で示したのは、奏澄が下げている剣だった。財布でも荷物でもなく、剣? と奏澄は戸惑った。
「見るからに高そうだろ。そりゃこうなる」
言われて、奏澄は息を呑んだ。剣は武器である、という意識が強すぎた。
この神器は、見た目は儀礼用の剣だ。純白の鞘、細かな金の装飾。それは値打ちものに見えるだろう。この剣の真の価値など知らなくとも、売り払ったらそれなりに高値がつく。そんなものを、腑抜けた顔の女が呑気に腰に下げて歩いているのだ。簡単に盗めると思うだろう。
今更ながら、メイズが気にしていた理由がわかって、奏澄は青ざめた。
「でも、物取りくらいで何も撃つこと」
「手でも掴んで、優しく諭してやれば良かったか? そうすれば次は全部持っていかれるぞ。この島には数日滞在するし、見せしめにちょうどいい」
「ちょうど、いい……って……」
奏澄は口を噤んだ。メイズの言う全部とは、おそらく所持品だけを指しているのではない。なめられたら終わりだ。むしろ手を撃ったのは、奏澄に気づかったのかもしれない。
「治安、悪くなるって聞いてたけど、こんなの」
「こんなもんじゃないぞ。確率が上がっただけで、スリくらいならどこにでもいる。この先は、もっとやばいのがごろごろいる。近づいてくる人間は全員警戒しろ。口にするものもな」
奏澄は暗い顔で唇を引き結んだ。しかし、ぎゅっと強く目を閉じて、開くと同時に顔を上げた。この程度で、俯くわけにはいかない。
奏澄がこれから相手にするのは、こんなちんけなチンピラごときではない。悪と呼ばれる存在を、奏澄の手で、葬らないといけないのだ。
その覚悟は、事前に固めておかなければ。
奏澄は剣の柄を、強く握り込んだ。
玄武との再会は、思ったよりも早かった。
ミラノルド島から更に北へと進み、オーバーコートも必要な気温になってきた頃。玄武が滞在しているという噂を聞き、たんぽぽ海賊団はパラ―ルト島に船を寄せた。
「キッドさん!」
島の酒場で、見覚えのある水色を見つけて奏澄は声をかけた。
「おお! なんだ、嬢ちゃんじゃねぇか」
玄武海賊団の船長、キッドは以前会った時よりも厚着だったが、以前と変わらぬ少年のような顔で笑った。同じテーブルにはロバートが座っていたが、彼は目線で挨拶をしただけだった。
島にブルー・ノーツ号が泊まっているのを確認し、まずは船長に挨拶をとキッドを探して、奏澄はメイズと二人で酒場に来ていた。
玄武は人数が多いせいか、酒場はほとんど貸し切り状態で、中にいるのは玄武の乗組員だけのようだった。奏澄たちが入れたのだから他の客を追い出すようなことはしていないのだろうが、あえてこの中に入ろうという者もいないのだろう。
「久しぶりだなぁ。元気してたか?」
「ええ、おかげさまで」
「なんだ社交辞令が言えるようになったか。ツンケンしてたのも面白かったのに」
「……忘れてくださいよ」
奏澄はきまりが悪そうに視線を逸らした。あの時の態度を後悔しているわけではないが、今回は頼み事に来ているのだ。失礼な振る舞いをするわけにはいかない。
その様子を見て、キッドは笑いを零した。
「オマエも変わりない……いや、変わったか」
キッドはメイズに視線をやると、まじまじと眺めてからそう呟いた。
キッドからそう言われる覚えはないのか、メイズは怪訝そうに片眉を上げた。
「なんだオマエらくっついたのか。おめでとさん」
からっと笑って、キッドは酒の入ったジョッキを掲げた。
驚いたのは言われたメイズより、奏澄の方だった。いったいどこを見てその判断を下したのだろうか。キッドに挨拶に来たのだから、当然場を弁えない振る舞いはしていないはずなのだが。
「なんでそう思ったんですか?」
別に悪いということも無いが、見るからにそれとわかるようなら恥ずかしいので知っておきたい。場合によっては直したい。どことなく苦い顔で訊く奏澄に、キッドは目を瞬かせた後、にやーっと意地の悪い笑みを浮かべた。
「教えねー」
その態度に、思わず奏澄はいらっとした。四大海賊の船長はどの人物も尊敬に足る人物で、貫禄もある。だというのに、何故だかキッドに対してだけは、こういう気安い感情が湧く。普通なら立場のある人物にからかわれたからといって、困惑はするかもしれないが、いらっとする、なんてことはないだろう。
まるで同等の立場にあるような錯覚を覚える。だからこそ、奏澄は前回キッドに対してツンケンした態度が取れたのかもしれない。無意識に、それが許されると思ったのだ。
面子が大事な海賊にとって、嘗められるというのは大変な侮辱行為だ。それだけで、首を飛ばされる可能性もある。それをしない、と思ったから、奏澄は不機嫌を隠すことなく拗ねてみせた。凄めばとても恐い人物だと知っているのに、話すとそれを忘れてしまう。それは彼の人柄なのかもしれないし、もしかすると意図的な振る舞いなのかもしれない。
「まぁ座れよ」
椅子を勧められて、奏澄とメイズはキッド同じテーブルに着いた。
「嬢ちゃんも飲むか?」
「いえ、今日は真面目な話をしに来たので。お酒は」
「ほう」
言って、キッドは目を眇めた。わざわざ玄武を尋ねて来たのだから、それなりの用事だということは予想しているだろう。
キッドにじっと見据えられて、奏澄は小さく深呼吸をして話を切り出した。
「黒弦海賊団を討つための、共闘をお願いしに参りました」
その名を出した途端、空気が張り詰めた。玄武の乗組員たちが騒めく。ロバートは黙ったままだが、真意を測るように奏澄から視線を逸らさなかった。
「そりゃまた、急な話だな。わざわざ自分の古巣を潰そうだなんて、どういう腹積もりだ? 過去の汚点を無かったことにでもしたくなったか」
からかうような口調で投げかけるキッドに、メイズは黙した。今話しているのは自分だ、と主張するように、奏澄は先ほどより大きな声を張った。
「セントラルにレオが捕らえられています。彼を解放するのに、黒弦の船長――フランツを殺さなくてはなりません」
キッドも面識のあるレオナルドの名が出たこと。彼が囚われの身であること。そして何より、およそ奏澄の口からは出そうにない『殺す』という強い言葉に、キッドは目を丸くした。しかし奏澄の様子から、冗談の類でないことは察したのだろう。真剣な顔つきで口を開いた。
「――どういうことだ?」
話を聞く体勢と見て、奏澄はセントラルでの出来事を説明するのだった。
「……なるほど、な。その状況なら、確かにオレたちに共闘を持ちかけるのは納得だ。前に嬢ちゃんには、黒弦を潰す気があると言ってあったしな」
言いながら、キッドは考えるように顎をさすった。
「ただ、その話には一つ大きな懸念がある」
「なんですか?」
「嬢ちゃんは、人を殺せるのか?」
真っすぐに射抜くキッドの視線に、奏澄は逃げ出したい気持ちに駆られた。
それをこらえて、睨むように力を込めてキッドを見返す。
「人ではありません。相手は悪魔ですから」
「悪魔だろうとなんだろうと、人の形をした生物だぞ。話を聞く限りじゃ、オレたちがどれだけ力を尽くしたところで、とどめは嬢ちゃんしか刺せないんだろう。それができないなら、前提が全て崩れる」
「できます」
食い気味に言い切った奏澄に、視線が集まった。
できる。それが正義なら。
人を殺すのは悪だ。そうだと法で定められている。そうだと倫理を教え込まれる。
しかしそれが逆転する時がある。
戦争だ。
戦時は、人を殺すことが正義だと説かれる。あれは一種の洗脳なのだ。そしてそれは、平時でもやろうと思えばできることである。
顕著なのが、加害者への私刑だ。相手に罪がある時、人はそれを糾弾する自分を正義だと思い込む。正義の暴力は心地良い。酒よりも容易く自分を酔わせてくれる。大義名分がある。同調する仲間がいる。そこに罪悪感などは存在しない。正義ほど人を簡単に暴力へ走らせるものもない。自分が正しいと思った時、人はどこまでも残酷になれる。
人は心を騙す手段をいくつも持っている。
ある刑務官は言った。死刑執行は、ゲームと同じなのだと。
死刑執行時は、誰が実際に殺したのかを判別できないよう、複数あるボタンを一斉に押す。どれが作動したのかはわからない。そうすることで、手を下した罪悪感を軽くさせる。
相手は罪人だ。正義は刑務官にある。死刑の執行はただの仕事だ。それでも心を病む人がいるから、考えられたシステムだ。
奏澄はこの刑務官の言葉を聞いた時、眉を顰めた。人の死をゲームだとは、なんという言い草かと。
しかしそれなりに人と交流を重ねれば思い至る。あれは、心も守る術なのだということが。
人の命を奪う刑務官。人の命を握る医者。人の人生を左右する教師。誰かに強く影響を与える、あるいは誰かに深く踏み込む職業の人たちは、ひどく冷たく感じることがある。あれは、そうでなければ自分が壊れてしまうからだ。全ての感情をまともに受け取っていたら狂ってしまう。全ての人に正面から向き合っていたら潰れてしまう。
だから、心を殺す。それは無にして鈍感にすることだったり、最低限の関りにして距離を取ったり、ゲームなどと設定を作ってわざと事象を軽いものと思いこませたり。方法は様々だが、皆それぞれに脳を騙し、心を騙し、自分を騙して職務に励んでいる。
そしてそれは、奏澄にもできる。心を殺し、感情を鈍らせ、自分を騙すことが。
できると知っている。
だから問題は無い。悪魔は大罪人だ。誰もが彼を悪だと断じている。悪魔を排除することに異を唱える者はいない。
世界にとって必要なことであり、仲間を救うために必要なことだ。奏澄にしかできないことなのだから、奏澄がやらなくてはならない。大義名分は十分だ。これは正義の行いだ。
だからできる。
「――できます」
静かに、しかし強い決意でもって繰り返した奏澄に、メイズは息を呑んだ。
その瞳を正面から見ていたキッドは、舌打ちでもしそうな顔で小さく零した。
「今度は嬢ちゃんが危ういのかよ」
その言葉が聞き取れず、難しい顔をするキッドを見て、奏澄は首を傾げた。
複雑そうな表情で髪をかき混ぜたキッドは、大きく息を吐いて、表情を切り替えた。
「目的は同じだ。オレたちじゃフランツを討ち取れないとわかった今、嬢ちゃんが協力してくれるんなら玄武としても願ってもない。ただ、共闘という形をとるなら、お互いの信頼関係が必要だ。命を預けるわけだからな。それは、わかるな?」
「……はい」
玄武の言い分はもっともだ。元は敵対関係にあったメイズ。たんぽぽ海賊団の乗組員も、一度は敵対視して戦闘になりかけている。互いに背中を預けるのなら、何か信頼の証を要求されるだろうことは覚悟している。あの白虎でさえ、船医を貸し出すのに担保を必要としたのだ。
緊張しながら次の言葉を待っていると、キッドはメイズに視線を向けた。
「メイズ。お前、どうして黒弦を抜けた」
突然水を向けられたメイズは瞠目した。そして少し逡巡して、口を開く。
「船長と、意見が対立した」
「あの船は長かっただろ。なんで急に船長に逆らう気になった。何があった?」
嘘を許さないキッドの瞳に、メイズは視線を逸らして押し黙った。最低限は答えたが、詳細は語りたくないのだろう。
はらはらしながら二人を見守っていると、今度は奏澄に問いかける。
「嬢ちゃんは、何があったか聞いてるか?」
「いえ、私も、詳しくは」
「そうか。だろうな、そういう感じだ」
どういう感じなのか、と奏澄が戸惑っていると、キッドは厳しい目でメイズを見やった。
「答える気が無いなら、オレたちにまで全部を語れとは言わねぇ。ただ、嬢ちゃんには話せ。お前がどうして黒弦にいたか、あそこで何をしていたか、そして何故離れることになったのか」
「キッドさん、それは」
「オレだって、船長が何もかもを知っている必要があるとは思わねぇよ。恋人でもだ。ただ、こと今回に限っては、必要なことだと思うぜ。なんせフランツを殺すなら、もう二度と向こうから話を聞くことはないんだからな」
そうだ。奏澄は、ずしりと肩が重くなった気がした。
殺すということは、相手の口を塞ぐということだ。二度と、何も語られることはない。争いでは、双方の言い分を聞くのが定石だ。なのに、双方どころか片方の言い分すら聞くことなく、人物像だけで悪を断罪しようとしている。
しかし、それこそが今回の討伐に必要なことだ。奏澄はメイズを信じている。何が語られても、それが揺らぐことはない。例えフランツの側に何らかの言い分があったとしても、悪魔と話し合いができるとは思わないし、下手に会話などしようものなら、相手が人間であるかのように錯覚してしまう。それは駄目だ。決意が鈍る。
何も聞かなくていい。何も知らなくていい。ずっと、そう思ってきた。メイズが知られたくないのなら。
けれど、これは一つの転機なのかもしれない。きっと、今、必要なこと。
「嬢ちゃんが話を聞いた上で、オレたちがメイズと肩を並べて戦えると信じられるなら、その時はもう一度声をかけてくれ。暫くはこの島に留まる」
「……わかり、ました」
席を立ち、頭を下げて、奏澄はメイズと酒場を出た。
宿までの道は、二人とも終始無言だった。
宿屋の一室にて。
思い詰めた様子で口を閉ざすメイズに、奏澄は何と声をかけて良いのかわからなかった。彼がそれほどまでに語りたくないと言うのなら、無理に聞き出すようなことはしたくない。しかし、それでは玄武の協力は得られない。話を聞いた、などという嘘は、キッドには通用しないだろう。
「メイズ」
奏澄はできるだけ穏やかに声をかけて、ベッドに腰かけたメイズの隣に寄り添った。
「今すぐじゃなくてもいいから。とりあえず、今日はもう休んだら?」
キッドは暫くこの島に滞在すると言った。一日二日で決着しないことは想定の範囲内だろう。メイズにも、心の準備をする時間が必要なはずだ。
「いや」
しかしメイズは、奏澄の気遣いを拒否して、強く拳を握った。
「無駄に使える時間は無い。どうせ話すのなら、今日話しても明日話しても同じことだ」
結果的にはそうかもしれないが、それは感情を無視した話だ。それでも、こうと決めたら覆さないだろう。せめて少しでも気持ちが軽くなるようにと、奏澄はメイズの拳に手を重ねた。
「途中で辛くなったら、やめていいからね」
微笑んでみせた奏澄に、メイズは力無い笑みを返した。
「どこから、話せばいいか。……そうだな、生まれは、黒の海域だ」
遠い目をして、ぽつりぽつりと、記憶を辿る。
寒い土地だった。よく雪が降った。
そもそも、黒の海域は人の居住区域として整えられていない。ろくに作物もならない。ここは、悪魔を封じた最果ての地だから。
神の血を引く王族を中心に、位の高い者たちは白の海域に。それ以外の者たちは、赤・緑・青・金の海域に。では何故、黒の海域に人がいるのか。
それは、他の海域に住めなかった者たちだ。土地を追われた者、罪人、人の理の中で生きられなかった者。それらが寄り集まって、あるいは奪い合って、好きに生きている。吹き溜まりのような場所だ。
メイズの母親は娼婦だった。父親の顔は知らないが、どこぞの海賊だろうということだった。大して興味も無かったのだろう、それは幸いした。でなければ、母親にほとんど似ていない、おそらく父親似だと思われるメイズは、憎悪の対象となったかもしれない。
暴力を振るうほど、母親はメイズに関心が無かった。望まれて生まれた子ではない。堕ろすのに失敗したから生まれてしまっただけだ。それでも育てば何かの役に立つと思ったのか、母親の気まぐれと強運によって、メイズは生き延びた。
しかし母親には運が無かった。ある時、暴れ回る賊の手によって、母親は殺された。メイズの目の前で。
そしてその賊は、メイズを連れ去った。僅か三歳のことである。
メイズはそれから十年以上もの間、ひたすらに賊に使役されるだけの日々を送ることとなる。
ただの雑用でも、それだけ長くいれば、組織の中でも立ち位置ができてくる。役割が与えられる。大人よりも子どもに対して警戒が薄れるのは、悪党といえども同じこと。それはもちろん良心などではなく、侮りという意味だ。盗みも殺しも得意だったメイズは、それなりに重宝がられた。もはやその頃には、自分は一生こうして生きていくのだろうと思っていた。
ところが、十五歳の時。組織の失態を押しつけられる形で、メイズは役人に引き渡された。ろくに司法など機能しない黒の海域にも、役人はいる。いるが、この場合は正当に罪を裁くために捕らわれたのではない。ただの見せしめだった。
裏切られた、と思ったのは一瞬だった。組織は仲間を守らない。そもそも、仲間などというものは存在しない。ただの手駒だ。それを知っていたから、助けなど期待しなかった。役人から奪った武器でめちゃくちゃに暴れて、命からがらメイズは逃げ出した。
そこからは一人で生きた。他人とつるむようなことは、例え一度きりの仕事だとしてもしなかった。
すっかり体に馴染んでしまったので、殺しや盗みをすることで食いつないだ。どうせ働こうなどと思ったところで、黒の海域にまともな仕事など存在しない。
土地に生産性が無く、交易もほとんど無い黒の海域では、よそからの略奪が中心だ。海賊が他の海域から奪ってきたもの、ギルドや軍の支部に運び込まれる物資。他から取り込んだ物を、更に内部で奪い合う。こんな土地で、仁義などありはしない。
殺して、奪って、犯して。生きるために生きた。特になんの感情も無かった。
そんな風にして、十年ほどたっただろうか。
――へェ、イイ目してんじゃねェか。
あの男と、出会った。
男は自分を海賊だと言った。まだ仲間はほとんどいないらしい。どうも雑事を自分ですることに慣れていないらしく、自分の手足となって動く人間が欲しいとのことだった。
なんとも自分勝手な理由に、メイズは呆れた。しかしそんな戯言が許されてしまうほどに、男は強かった。
まだ荒れていた頃のメイズは、自分の腕に自信があったこともあり、その男の喧嘩を買った。そして惨敗した。敗者に決定権は無い。二度と組織というものに属するものかと決めていたメイズだったが、已む無く男の海賊船に同乗することとなった。
その男こそが、悪魔フランツ。そして、メイズが属することになったのが、黒弦海賊団である。
※残虐表現が強めですのでご注意ください。
特に母子に関する残虐描写があります。
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フランツは異常に強かった。そして、妙な戦い方をする。両手の指全てに指輪を嵌めており、その指輪に黒い弦のようなものを収納していた。弦の切れ味は鋭く、人の首でさえも容易く落としてみせた。見たことの無い武器なのでセントラル製かと尋ねたが、そうではないらしい。同じ物を欲しがった乗組員もいたが、使いこなせないとばっさり切られ、誰も使ったことはない。
メイズは使えない武器に興味は無かったので、リボルバーを好んだ。奪って使い捨てていた頃は何でも良かったが、海賊として黒の海域から離れた場所にも出向くようになり、最新の物を含めた武器が自由に選べるようになった。単発式のマスケットと比べ、連射できるリボルバーには各段に利があった。難点は金属薬莢が限られた流通でしか入手できないことだが、あるところにはあるものだ。黒弦の名を出せば渋る者も少なく、それほど苦労はしなかった。愛用のリボルバーを二丁下げるのが定番のスタイルとなり、黒弦の名が浸透して間もなく、『二丁拳銃のメイズ』の名も浸透していった。
フランツは、人に名を呼ばれることをひどく嫌った。乗組員には、ただ船長と呼ばせた。迂闊に名を呼んだ者は殺された。人々は、通り名として彼を『悪魔』と呼んだ。言い得て妙だと、メイズは思った。
メイズも始めは名を呼ばなかったが、副船長と呼ばれ出した頃。フランツから、名を呼ぶことを許された。
――お前は俺によく似てるよ。
さすがに誰からも呼ばれなければ、自分の名すら忘れてしまうからと。副船長くらいは、良いという建前だった。本当のところはわからない。
ちなみに副船長という役職はフランツが与えたものではなく、古参として乗組員をまとめている内に事実上そうなっただけだ。しかし、メイズに実力があったこと、フランツから信頼を置かれていた(ように見えた)ことから、次第にフランツの右腕として知れ渡っていった。
メイズ自身も、フランツには似たところがあると感じていた。常に一人であること。暴力でしか意思表示ができないこと。他者を疎ましく思うこと。誰も信用していないこと。そして、おそらく。過去に、裏切りを受けていること。そういう昏さを、感じていた。
だから、この船にはきっと長くいるだろうと思っていた。もしかしたら、この船で生涯を終えるかもしれないとも。他に行き場も無かった。
それでも。決別の時は訪れた。
小さな島を襲った。目についた住民はいくらでも殺したし、金目の物と食糧はほとんど奪った。そして最後に、火をつけた。
過剰な残虐行為は、乗組員の趣味でもあったが、時には演出として必要だった。このような目に遭うぞと脅しておけば、無駄に逆らう者が減る。
悲鳴は慣れたものだった。それはただの音でしかなく、耳を素通りしていく。しかしその時、妙に耳についた音があった。
赤子の泣き声だった。
足の折れた母親は這いずるようにして、赤子に手を伸ばしていた。しかし非情な海賊は、母親の目の前で赤子を拾い上げ、炎の中へと投げ入れた。泣き声はあっという間に聞こえなくなった。
半狂乱の母親を笑い飛ばす海賊は、近づいてくるフランツを目にして、何事か声をかけた。それを聞いたフランツは、ひょいと赤子を炎の中から拾い上げた。
赤子の肉はすっかり焼けただれ、ひどい臭いが風に乗って漂う。その赤子を持ったまま、フランツは母親の前に屈み込んだ。
酷薄な笑みを浮かべて、フランツは母親に何かを告げた。母親の目が、こぼれんばかりに見開かれる。
鬼の形相で叫ぼうとする母親の口元に、フランツが赤子を押しつけた。母親はぎゅっと口を閉じて、滂沱の涙を流しながら、それでもフランツを睨みつけた。それを受けたフランツは、愉快そうに笑った。
――ああ、そうか。このままじゃ喰いづらいよな。一口大に切ってやるか。
指輪から黒い弦が伸びたのを見た瞬間、メイズはほとんど反射的に、フランツの手を撃ち抜いた。
時間が止まったようだった。撃ったメイズ自身が、一番驚いていた。手が震えている。
「メイズ」
ぞっと全身に鳥肌が立つ。逃げろと脳が警鐘を鳴らしている。それなのに、一歩も動けなかった。
「お前、今、何した?」
底冷えするような赤い瞳。まずい、と引き金を引くが、弾丸は全て黒い弦によって弾かれた。そしてそのまま弦はメイズの足を深く切り裂く。体勢を崩し、メイズが膝をついた。
「逆らったのか? お前が? 俺に?」
言葉こそ疑問形だが、答えなどは求めていないだろう。弦はメイズを縛り上げ、その体を刻んだ。
「なんだ。何が気に障った? 女子どもだからって情けをかけるような性質じゃねェだろ」
その通りだ。答えるつもりの無いメイズは、全身を襲う痛みに、歯を食いしばった。
「なんだろうなァ……母親、か?」
確かめるように口にした言葉に、メイズは表情を変えなかった。しかしフランツは弦を伸ばし、母親の体を刻んだ。悲鳴を上げる間も無く、母親は肉塊となった。
赤黒い肉の塊と。黒焦げた肉の塊が。隣に、並んだ。
「どういうつもりか知らねェが。覚悟はできてンだろうな」
「……好きにしろ」
勢いでした行動だが、後悔は無い。反省も謝罪も、フランツには無意味だ。好きなだけ甚振って殺せばいい。諦めたように、メイズは目を閉じた。
「――そうだな。殺しても、お前には意味がねェだろうな」
戒めが解かれ、メイズの体が地に倒れ伏す。急に肺に酸素が流れ込み、メイズは咳き込んだ。
「殺すのはやめだ。お前は、生きてる方が辛いだろ」
冷めた瞳は、もうすっかり興味を失ったようだった。
「おい。こいつ適当に痛めつけて、どっか遠い島に捨ててこい。殺すなよ」
黒弦の乗組員にそう告げて、フランツはその場を去った。メイズには、一瞥もくれなかった。
そうして、フランツの手により既に弱っていたメイズは、ろくに抵抗することもなく黒弦の仲間だった者たちに甚振られ。ぼろ雑巾のようになって、赤の海域、ブエルシナ島に捨てられるのだった。
重い沈黙が流れた。
話を聞いた奏澄は、絶句した。
善い行いをしてきたとは、思っていなかった。黒の海域出身だということも、わかっていた。そこが、スラムのような場所であることも。
それでも。まさか。黒弦との決別の原因が、母親に子どもを喰わせようとしたこと、だったとは。
それを想像した奏澄は、込み上げた吐き気に、思わず口を押さえた。
「メイズは……どうして、止めたの」
吐き出すようにして、そう尋ねた。決定打となったその行動の動機は、なんだったのか。あまりにも惨い仕打ちではあるが、聞く限りでは、その時のメイズに良心のようなものがあったとは思えない。
「……なんだろうな。俺にも、よくわからない」
途方に暮れたような声で、メイズはそう答えた。
「ただ……あの光景を見た瞬間、俺の母親を思い出した」
「メイズの、お母さん?」
「ああ。あの人が殺された時、俺はその場にいた。というか、あの人は……もしかしたら、俺を、庇ったのかもしれない」
口ごもるようにして、不安げにも見える態度で零された言葉に、奏澄は目を見開いた。
「多分、勘違いなんだ。あの人が、そんなことをするはずがない。記憶違いか、見間違いか。たまたま、俺と賊の間に、あの人の体が入っただけかもしれない。それでも、俺はなんでか……あんな人でも、母親で、少しは子どもを気にしたんじゃ、ないかって」
「――うん。そうだね。きっと、守ってくれたんだよ。そのおかげで、私は今メイズといられる。メイズのお母さんに、感謝しなくちゃ」
小さな子どものように見えて、奏澄は宥めるようにメイズの背をさすった。
これは優しい嘘だ。相手はもう死んでいるから、それが暴かれることは無い。真偽を確かめる術も無い。だからこそ、言えた嘘。
母親が必ずしも子どもを愛さないということを、知っている。こんな言葉は、ただの気休めでしかない。それでも、メイズが口にしたのは、『そうだったらいい』と思ったからだ。幼心に母親の愛情を求めて、それを今も、心の片隅に持ち続けている。その希望を守ることの方が、正しさなどよりよほど尊い。
「理由は、それだけだ。子どもが焼かれるのは、黙って見ていた。喰わされるのが父親だったら、俺は多分止めなかった。その程度のことだ。そんな人間だった。俺は」
メイズは背を丸めて、顔を覆った。奏澄の顔を、見られないのだろう。
「軽蔑するか」
顔も上げずに問われた言葉に、奏澄は静かに答えた。
「そうだね、する」
刺されたように、メイズが息を詰めて体を固くした。
「でも、愛してる」
奏澄は手を伸ばして、小さく丸まった体を精一杯抱き締めた。
思っていたよりも、ずっと酷い人だった。世間の誰に聞いても、極悪非道だと罵られるだろう。
それでも、愛している。この人を。唯一無二の片割れを。
「許すのか」
顔を上げ、呆然としたような表情で零すメイズに、奏澄は首を振った。
「それを決めるのは私じゃないよ」
受け入れることと許すことは違う。何もされていない奏澄に、メイズを許す権利は無い。それは、メイズによって傷つけられた人にのみ与えられる。
「メイズに傷つけられた人は、一生メイズを許さないと思う。でも、メイズに救われた人は、ずっとメイズに感謝すると思う」
黒弦のメイズは、多くの人を傷つけてきたのだろう。それを否定する気は無い。許してくれと懇願することもしない。恨むのは当然の権利だ。だから全てを、受け入れる。
この人の罪は、私の罪だから。
共に背負うと決めた。どれほど重くとも、逃げない。
それでも。メイズの人生は、それだけではない。黒弦のメイズでいた時間だけじゃない。奏澄に出会ってからのメイズ。たんぽぽ海賊団に入ってからのメイズ。その彼に救われた者も、確かに存在する。
「誰に対しても善人でなくていいように、誰に対しても悪人じゃなくたっていいんだよ」
人はいくつもの顔を持つ。例え聖職者であっても、全ての人類に対して善良であることは不可能だ。敵と味方があるならば、両方にいい顔はできない。全ての人に好かれることはできない。
誰かを愛して、守ろうというのなら。その誰かを害す相手には、当然悪人になるだろう。逆も然り。
どんな人でなしであっても、大切な家族には良き親であったりもするのだろう。その大切な家族を守るために、人でなしであり続けるのかもしれない。
善人か。悪人か。人はそんな風に振り分けられるものではない。それは見た者によって顔を変える。
行いが、返るだけだ。良いことも悪いことも。全て、自分のした行いが、自分に返るだけ。
「だから自分を諦めないで。これから先は、ずっと私がいるから。ずっと私が見てるから。なりたい自分を思い描いて、そのための行動をしよう」
諦めないで。その願いを、手放さないで欲しい。どうせ悪人だったからと。誰も自分を許しはしないからと。それは過去のことだ。ずっとついてくるとしても。過去が永遠に自分を許さないとしても。それでも、未来は描ける。
「俺は、お前と同じ場所で生きられる自分になりたい」
「うん。私も、メイズと一緒に生きる未来が欲しい」
思い描く未来は、同じものではないかもしれない。
だから努力をしよう。同じものを見られるように。同じものが見たいと、願おう。
それを共に受け止めてくれる人がいるのなら。人生は、きっとそれほど悪くはない。
触れるだけのキスをして、ゆっくりと顔を離す。
薄く涙が張った瞳を見て、奏澄は苦笑した。そして次第に深くなっていくキスを、心ごと受け入れた。