「あたし、彼のためだったらなんでも許したし、なんでも我慢してきた。どっか出かけたいって言われたら、自分がどんだけ家で寝ていたくてもついていったし、多少いやな気持ちになっても飲み込んでた。それで好きな人が笑ってくれて、心地よいと思ってくれるなら別にいいって思ってた」


 女は、男が寂しいとかヤリたいと思ってる時ってすぐわかるから気をつけなよ、と要らん豆知識まで付け加えてきた。そういうことすらも我慢してきた……とでも言いたいのだろう。おれからすれば、女もそういう奴いるぞ、と言い返してやりたかったが呑み込んだ。売り言葉に買い言葉、という便利な言葉のおかげで救われた心地がする。


「そんで『おまえと付き合っててもなんか面白くない』とか言われたか?」
「なんでわかるの」
「ただのカンだよ。傍若無人な振る舞いをするやつは、自分の行動や言動で相手がどんなふうに感じているかなんていちいち考えないだろ」
「ふーん。あんたの元カノも、そういう人だった?」
「相手のために自分ばかりが我慢したり、意見を曲げたりしてたのも、そっちと同じだよ」


 そっかあ、と呟いた女の声色からはいつの間にか最初の刺々しさが抜けていた。都心とはいえ幹線道路から一本外れればかなり静かで、おれの鼓膜ははっきりと女の湿った声だけに揺らされた。


「あたしら、別々の場所で同じ日に、ひとりになったんだね」


 おれは目の前の小汚いアスファルトを黙って睨んでいたが、頭の中では、信じたらいけない……というアラームが鳴り響いていた。こういうシチュエーションでやたらと、ただの偶然を、さも限りなく低確率の運命にしたがる女は掃いて捨てるほどいる。そもそもおれは、そういう女に貴重な時間をめちゃくちゃに切り刻まれたのではなかったか。百歩譲って財布から抜かれた金はどうにでも諦めがつくけれど、貴重な二十代の時間を結果的にドブへ捨ててしまったという事実は変えられない。後悔するのが嫌ならば、臆病すぎるくらい、慎重になるべきなのだ。


 鼻につくアルコール臭が急に濃くなった。ミドルノートは踏み荒らした花壇に生き残る微かな花の香り。そしてラストノートは、身体の中心に電流が走るような、女のにおい。

 隣から()()()()()()()ようにしてくる女へ、咎めるような声色をつくった。


「なにすんだよ。酒臭えぞ」
「あんた、本当に他人(ひと)の話聞いてたの」


 なんのことだよ、と訊ね返す。女は不敵な笑みを浮かべた。街灯の青白い光に照らされ、形のよい歯が唇の隙間からのぞいている。無意識に生唾を呑み込んだ。


「あんたの顔に書いてある。同類同士、今夜だけでも()()()()()()、って」


 この月夜に生じた関係を表すのに適切な言葉は、何だろうか。
 責任転嫁。現実逃避。傷の舐め合い。ヤマアラシのジレンマ。互いに寒くて凍えているのに、傷つくのが怖くて他人に近づけないという意味では、最後が一番しっくりくる気がした。きっと今日までのおれも、この女も、深く刺さり込む相手の棘に身を捩ることもせず、痛みに耐えながらだらだらと流れる血を見つめることしかできていなかったのだ。

 だからこそ、おれたちなら、互いの傷を手当てし合うというのも難しくはないのかもしれない。鳴り響くアラームを止める手が見える。やめろよ後悔するぞ、と咎める脳内の声を「何を今更」と一喝する。どんな後悔をしようがしまいが、いずれは等しく全員が死ぬのだ。ならばおれは、いまこの胸から流れる血を止めるためなら、手段など選ばないことに決めた。たとえ暴君と(そし)られようが、他人に噛むだけ噛まれ、味がしなくなった瞬間に吐き捨てられるのは、もう御免だった。

 女のほうに顔を向ける。酒のせいで表情がだらりと弛緩している。細い目は今にも眠りに落ちそうなのか、はたまた生まれつきなのかは判断ができなかった。


「そっちの顔にも書いてあるぞ」
「なんてよ」
「愛されなかったのは自分のせいなんかじゃない、って」


 図星を突かれ、ふん、と鼻を鳴らした女はよろよろと立ち上がる。しゃんと背筋を伸ばしたら、服装も相まって、しなやかなスタイルが際立った。その気になれば男なんていくらでも引っ掛けられそうな見てくれをしていても、この女はきっと、もう簡単に他人へ心を許したりはしないのだろう。


 ただ、それでも、今夜だけは。

 女に遅れて、ゆっくりと腰を浮かせた。


「どっか行くか」
「どこによ」
「知らん。もう、どこでもいいよ」


 力なく微笑むと、女がおれの手をとった。少し汗ばんだ手は余計な肉がついておらず、下手をすればおれの手よりも、骨の形がよくわかりそうだ。

 互いの手が相手の傷を癒やすのか、抉るのかは分からない。それでも暗い夜道でじっとしたまま、だまって血を流す穴っぽこを眺めているより、ずっとマシなことのように思える。


 女はつとめて明るく言った。


「仲良くしよっか」


 一瞬、強めの夜風が吹き抜けた。空き缶が軽い音を立てながら、アスファルトの上を転がってゆく。
 道路を横切り、反対側の縁石にぶつかって止まる頃、おれと女は既にその場を後にしていた。