まだ繁華街が眠りに落ちるには早い時間。木を隠すなら森の中だ……とそちらのほうへ足を向けて交差点を曲がったとき、カラーン、と乾いた軽い音が聞こえた。路面から一段高い縁石にぶつかったあと、力なく目の前のアスファルトに転がり、おれの前を横切ったチューハイの500ml缶が音の発信源であることは明らかだったが、それはやがて道端に座り込んでいる人のつま先に当たり、ようやく動きを止めた。

 若い女だ。若いとは言っても、おれと大差ないくらい。明るい茶色の長い髪が少し乱れていて、すらりと細い脚を、肌に吸い付くようなジーンズが包んでいる。頬が上気しているし、目が虚ろで、ぶつぶつと小さい声で呟いているところからみても、この工業用アルコールみたいな味のチューハイを飲み干したのはこの女だろう。空き缶はひとつだけではなく、ボコボコに潰れているものも含めると、辺りに何本も散らばっていた。

 この女に何があったかは知らないが、おれもきっと、今は他人の不幸を舐めたところで味など感じない。おれもまた等しく不幸で、海の向こうでは飢餓に苦しみ、戦火に家を焼かれた見知らぬ人間がわんさか居る。何よりこんなふうに自分を痛めつける生物が何十億も蠢いているこの星のほうが、よほど不幸ではないか。ここで地べたに舌を這わせている時間があれば、さっさと今宵の宿を――。


「訊けよ」


 見た目のわりには低いハスキーな声が耳に届き、思わずのけぞってしまう。ふ、と鼻であしらうように女がおれを笑った。


「さっきからこっち見てるくせに、何があったのか、くらい訊いてくんないの」
「話を聴いてもらいたいなら素直に言え。目に見えないものを読めだの察せだのなんて論理には、もううんざりだ」


 温厚で真面目だよね……という普段の自らへの評判とは真逆の言葉が出ていった。案外おれも内側に溜まっていたものが重かったらしい。まだ完全に解き放たれたとは言い難いが、少し楽になったと思って油断しているのかもしれない。


「へー。あんたも振られたの?」
「まさか。その逆だ。だがそっちは、その口ぶりだと――」
「うるさい死ね。仲間だと思って損した」


 ガキみたいな語彙力でわざとらしくそっぽを向く女の様子をみたときに浮かび上がってきたのは、慈悲と混ざりあった庇護欲か、広義での同類を見つけたという仲間意識か。
 答えを出すのが煩わしく、おれは女の隣に腰を下ろす。いやに尻が冷たいと思ったら、床は自然石のように見せたタイルだった。おれと女の背後には、タワーマンションが天に向かってそびえている。建物全体で「こんばんは成功者です」と自己紹介しているように見えてきて、いますぐたっぷりのプラスチック爆弾で横たえてやりたくなった。角の一辺に縦方向で仕込まれたライトのおかげで、そのさまはまるで、夜の闇を裂く光の刃のようだ。

 いつの間にか拗ねるのをやめたらしい女が再び正面に向き直ったので、訊いた。


「なんでこんなとこで酒飲んでんだ」
「ムカつくから。ついさっき、そこから追い出されたばっか」


 女の細長い爪の先っぽが、同じようにひょろ長い背後のタワマンを指していた。光る粒をまぶしたネイルは、この数十階建ての建物と本当にそっくりだ。


「ここが彼氏の家?」
「わかんない。むしろお互いを恋人だって思ってたの、あたしだけだったんだと思う」


 そこで、あーもうないのか、と女が独りごちた。さっき放り投げていた缶がまだ残っていると思っていたらしい。もしくは彼氏――なのかは疑わしいようだが――の、自分への愛情を指してそう言ったのだろうか。